2023年06月12日

 グローバルサウスと大東亜共栄思想4

 ●自由や民主が個人の特権となっている日本
 明治新以降、日本は、西洋の思想を有難がって、無条件にとりいれてきた。
 だが、ほとんどが、誤解や曲解、歪曲で、真の意味をとりちがえている。
 その傾向は、明治時代よりも、むしろ、大正や昭和になって高まった。
 1917年のロシア革命後、吉野作造の「民本主義(君民共治)」が大正デモクラシーのもとでルソー的な「民主主義(国民主権)」になると、自由や平等にたいする考え方もルソー的、マルクス主義的なものへと変質してゆく。
 西尾幹二はこういう。「自由はそれだけではおよそ何ものでもない。その自由が奪われたとき強烈な自由への欲求がわきだす」
 自由や平等、人権などは、奪われたとき、ヒトは、これを渇望するのであって、奪われてもいない自由や平等、人権をもとめるのは、革命主義で、文句をつけて体制をひっくり返そうという魂胆があるからである。
 西尾はこうともいう。「ヨーロッパ人の自他の厳格な区別立ては、そのなかに、熱病じみたアナーキーという闇を秘めている。一方、日本人の自他意識は不明確(あいまい)で、ヨーロッパ人とは一味も二味もちがったデリケートな性格をそなえている。原理や原則にとらわれることなく、変化に対応する柔軟さをもち、実際的である」(『自由の悲劇』)
 西洋の自由や平等、民主や人権は、奪われることにたいする抵抗である。
 したがって、他人の自由や平等、民主や人権を奪うことも、罪悪になる。
 ところが、日本では、じぶんの自由や平等、民主や人権をまもるには他人のそれは意に介さないという風潮で、言論被害をかえりみない言論の自由、被害者の人権を無視する加害者の人権擁護がまかりとおっている。

 ●歴史や伝統、文化を否定する左翼と法匪
 自由主義だからなにやってよいというのがリバタリアン(完全自由主義者)である。テレビの人気番組『ホンマでっかTV』のコメンテーター早稲田大学名誉教授の池田清彦は「他人に迷惑をかけないかぎりなにをやってもよい」と説くが、この男は、日本共産党の熱烈な支持者で同党の宣伝塔でもある。
 リバタリアンが自由をみとめない共産主義を支持するという理屈は解せないが、完全自由主義者を公言する池田が共産主義者で、自由の真の意味を理解していなかったとすればうなずける。
 池田は、絶対自由というイデオロギーに縛られて、自由を見失っているのである。
 昭和天皇の肖像をガスバーナーで燃やしてふみつける映像などを展示した「表現の不自由(国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」)へ公的負担金(約1億3700万円)の残金(約3380万円)一部の支払いを拒否した名古屋市にたいして、名古屋高等裁判所は、残金の支払いを命じた。
「昭和天皇の肖像に火をつけてふみつける映像も表現の自由にふくまれる」という判断で、違約行為はなかったというのである。そして、高須クリニックの高須克弥院長や大阪府内在住の主婦3人らが「表現の不自由展」から精神的な苦痛をうけたとする訴えはあっさりと退けて、主催者の愛知県大村秀章知事や芸術監督の津田大介らにはいっさいおトガめなしだった。
 政治は、国家や文化など歴史の知恵にもとづくが、法治は、人間が決めた法律のみを根拠にする。
 法文のみを奉じて、善悪や社会通念、価値観ぬきで判断を下す裁判官が法匪といわれるゆえんで、法匪の匪は盗賊の賊と同じ意味である。
 司法や検察、弁護士会が反国家的なのは、国家や歴史、文化ではなく法律や観念、イデオロギーに拠って立つからだが、これは、左翼が国体や歴史よりも西洋の思想家(マルクスやルソー)を重く見るのと同じ構造である。

 ●共同体が個≠竍私≠ヨ分解してゆく危うさ
 自由主義は、自由の有り難さを万人で共有しようというもので、個人の特権ではない。
 これを、個人的自由と分けて、あえて、社会的自由と呼ばれる。
 ヨーロッパでうまれた自由の概念は、社会的自由で、そのテキストとなっているのがホブハウスの『自由主義―福祉国家への思想的転換』である。
 そこにこうある。「いかなる時代でも、禁止なくして、社会的自由はありえない」
 自由は、規制を必要として、その規制が社会の自由を約束するといっているのである。
 福祉国家というのは「君民共治」のことで、万民の幸を公平に考える天皇の大御心(藤田東湖『弘道館記述義』)が、近代ヨーロッパの進歩的自由主義にきわめて近かったのである。
 他人に迷惑かけないかぎりなにをやっても自由(リバタリアニズム)という思想やアナキズム(無政府主義)は、戦後日本の特異な思想で、こんなばかな考えが世界で通用するわけはない。
 日本で、社会的自由と対立する個人的自由は、基本的人権と呼ばれる。
 日本国憲法では、この基本的人権と、国民主権が二本柱になっている。
 だが、日本以外の国では、自由も人権も、平等も民主主義も、個人にあたえられたものではなく、社会的な価値である。
 そんなことは、ホッブズが17世紀に「万人による万人の戦争」という比喩をもちいて指摘して以来、常識になっていたはずである。
 民主主義を個人的信条やイデオロギーとしてとらえると、個人だけに都合のよい身勝手な思想になる。
 だが、国家や社会など全体のものとしてみると、民主主義は君民共治≠フ民本主義となって、望ましい体制となる。
 民主主義や国民主権、自由や平等を個人のものとするから混乱がおきるのである。
 そこに、保守主義や伝統的な精神、思想がもとめられる理由がある。
 現在、日本では、個人が最大の特権をもって、他者や国家、歴史や伝統的な価値を否定する風潮がはびこって、社会摩擦をひきおこしている。
 次回以降、同性結婚法制化などのような、国家や共同体が個≠竍私≠ヨ分解してゆく危険性についてのべよう。
posted by office YM at 05:19| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする