●毛沢東とフランクフルト学派に染まった日本の左翼
1958年からはじまった中国の大躍進政策の一つにスズメ撲滅運動≠ニいうのがあって、このとき、一億羽以上のスズメが駆除されて、中国全土からスズメが姿を消した。
その結果、バッタが大繁殖して、農村の穀物を食い尽したのは自然の摂理というべきで、頭で考えた小知恵で大躍進ができると思ったほうが愚かだったのである。
そのバッタ飢饉によって、数千万人が餓死して、毛沢東は失脚した。
文化大革命は失脚した毛沢東の巻き返しで、このとき紅衛兵が手にしていた毛沢東語録≠ヘ30カ国で10億冊も印刷された聖書並みのベストセラーとなって、いまなお、共産主義思想の原典とされている。
毛沢東語録の根幹は清朝儒教の「実事求是」ということばにあって、これは「真実は事実のなかにある」という観念論である。
毛沢東語録は、その実事求是のオンパレードで、スズメを撲滅すれば農業が大躍進するといった妄想的にして短絡的な因果論が並べられている。
これと似ているのが、1923年、ドイツでうまれたフランクフルト学派という戦闘的なマルクス主義で、階級闘争=暴力革命が実現しないのは、人間の精神が資本主義に毒されているからという。
フランクフルト学派の第一世代に属するルカーチは、こう宣言した。
「資本主義下でつくられた精神を破壊しなければ革命は実現できない。人間を破壊せよ。文明や文化を破壊せよ」
全学連や全共闘、赤軍派が荒れ狂った1960〜70年代にかけて、世界を席巻したのがフランクフルト学派と毛沢東語録で、当時、東大の立て看板には毛沢東の肖像が掲げられて「造反有理」の文字がおどった。
●啓蒙主義のデタラメな論理にシビレタ日本人
フランクフルト学派は、個人の欲望を最大限に拡大して、それがうけいれられない場合、その責任を負うべきは社会だとして、これを革命のエネルギーに転化させようという戦略的マルクス主義で、原点にあるのは自然に帰れ≠フルソーである。
国家を必要悪とするホッブズにたいして、ルソーは、国家を悪とした。
ルソーは、人間は生まれながらに自由だが、いたるところで鉄鎖に繋がれているといったが、ジョン・ロックも、すべての人間は平等で、独立していると主張した。
だが、人間は、うまれながらにして自由かつ平等、諸権利がそなわっているとする啓蒙主義は、真っ赤なウソで、裸でうまれてくる人間は、不平等にして不自由な存在で、なんの権利ももたず、なんの恩恵もあたえられていない。
それでも、人間として生きてゆけるのは、ホッブズがいうように、国家から庇護されているからで、ルソーのいうように自然に還れば、人間は、3日たりとも生きてゆけない。
人間はうまれながらにして、基本的人権や生命の尊厳、自由や平等、権利をあたえられていると日本人が思いこむのは、戦後の憲法教育の大弊害で、天は人間に特権などなに一つあたえてはいない。
国民の義務と権利は、国家と交わした約束事で、国民は、国家と関係がなくしては存在できない。
だが、戦後、日本では、憲法をとおして、個人が国家を監視するというリベラルでアナーキーな政治風土が広がって、国体や歴史、民族や文化の一体感が失われた。
そのあらわれがLGBT法や選択的夫婦別姓案で、家族から個人、個人から同性愛や同性婚という究極の個人に絞りこまれて、国体や国家観という集団の哲学が消失した。
●文化防衛に敗退を重ねて特殊な国なった
現在、日本は、文化防衛の思想戦において、反日左翼や法曹界、マスコミなどからの攻勢にされされて、敗退を余儀なくされている。
標的になっているのが日本人の一般常識や歴史の叡智、習慣や良識である。
社会に不満や摩擦、矛盾をみつけて、それを造反有理≠フネタに仕立てて社会変革をもとめるのが啓蒙主義や毛沢東主義あるいはフランクフルト学派のやり方で、これは、マスコミ主導型の文化革命である。
階級闘争も暴力革命も、ゼネストもテロリズムも社会変革の原動力にはならない。
社会を変革できるのは、文化革命だけで、性差や家族、集団のモラルなどの歴史的価値観を破壊してしまえば、国家は内部から崩れ落ちる。
日本で常識破壊がおきているのは、それが革命の近道だからで、その契機となったのが男女共同参画社会や選択的夫婦別姓案などで、これにLGBT法がくわわって、国家をささえる骨格がさらにぜい弱になった。
事実やことばのなかに真実がある(「実事求是」)のではない。
一般常識や歴史の叡智、習慣や良識のなかに真実がある。
それが保守主義で、日本では、スズメ撲滅ではなく、案山子を立てて、秋の豊作をまつ。
これがズタズタになったのは、文化防衛に敗れたからで、その負けっぷりがハッキリしたのが憲法だった。
憲法9条によって、国家をまもる意識が消えて「戦争がおきたら国のために戦うか」というアンケートで、日本は世界79カ国中、ダントツ最下位(79位/13%/「世界価値観調査(2021年)」となって、日本はいまや、国家国民の定義から外れた世界に例がない特殊な国になった。
●最終局面にさしかかっている思想戦
毛沢東思想が、マルクス・レーニンをこえて、日本の左翼につよい影響力をもったのは、実事求是が象徴する言語中心主義が歓迎されたからだった。
それがことばのなかに真実がある「実事求是」ということの意味で、天皇の肖像を燃やして足で踏みつけることが表現の自由だというあいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展」の妄想と通底する。
それがことばのゆきつくところで、名古屋高裁(松村徹裁判長)が「表現の不自由展」に未払いの補助金を命じたのも、ことばをあつかう司法が、常識の彼方の存在だったからである。
人間の心を忘れてことばにしがみつくのは、毛沢東のスズメ撲滅運動のようなもので、ことばは、一元論なので、かならず、滅びの論理となる。オウム真理教の殺人者たちも、人間の心を捨てて、麻原教祖を信じた以上、悪魔になるほかなかった。
ポルポトが200万人の虐殺(親殺し)を指導したのも、古い伝統や因習にとらわれているオトナをすべて殺さなければ新しい時代はやってこないという妄想にとらわれてのことだが、この思考は、人間の心を失っているという意味において、名古屋高裁の判断となんらかわるところがない。
連合赤軍のリンチ殺人や中核・核マルの内ゲバも、テロや衝動殺人も同じ構造で、ことばというものをつきつめてゆけば、結局、相手を殺すしかない狂気へゆきつく。
日本は、今後、常識や良識、一般通念を捨てて、集団を忘れた個人という、異常と狂気、破滅へのみちつきすすんでゆくことになるであろうが、これを糾すには、敵にたちむかい、敵をたたかいの場にひきだす勇気や覚悟が必要となるだろう。
日本の文化防衛は、心ある日本人、国民が立ち上がらなければならないほどの事態にまで切迫しているのである。