2023年10月29日

「自由主義」と「民主主義」の相克と調和27

 ●左翼がもくろむ常識や習慣、社会通念の破壊
 2023年10月26日、最高裁は「戸籍上の性別を変更するには性転換手術が必要」とした特例法を違憲とする判決を下した。
 トランスジェンダー女性(じっさいは男性)がおこしていた裁判にたいする判決で、2004年に施行された「性同一性障害特例法」をひっくり返すものだった。
 生殖能力がない(生殖腺がないあるいは生殖腺の機能を永続的に欠く状態にある/第三条2)ことという特例法の条件が否定されたわけで、どういうことかといえば、勃起能力のあるおチンチンをもっていても本人が望めば、法的に女性とみとめられるというのである。
 女風呂で、おチンチンを勃起させて女体をながめても、じぶんは女性と主張すれば、これがゆるされる。女性の入浴客が騒いで、風呂屋がこの男性を追っ払っても、裁判に訴えられると、最高裁の判例にしたがって、この男性に慰謝料を支払わなくてはならなくなる。
 まるでマンガである。マンガは、現実や常識、習慣、社会通念から逸脱した不条理を笑うが、不条理があたりまえになってくると、笑い話というだけではすまなくなる。
「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由」展では、天皇の肖像を燃やして踏みつけることまで表現の自由≠ニされた。当然、反発があって、第三者の異議や抗議、訴えもあったが、すべて却下(名古屋地裁)された。法廷が関与した結果、表現の自由が、権威や他者の誇りや感情をいくら傷つけてもかまわないという暴力的なものに変質してしまったのである。
 マンガのようなバカな話でも、法律化されると、キバをむいて襲いかかってくる。
 これが社会的な狂気で、ニーチェは、狂気は個人においてまれでも、集団にあっては通例であると名言を残した。
 レズやゲイ、両刀づかいは、個人において、ただの性癖である。
 男女の性別や結婚、出産や育児、教育から成り立っている社会制度や文化にとって、LGBTは、例外的な少数派で、社会になにか生産的な意味や価値があるわけではない。
 だが、LGBT法として法案化されると、社会的な狂気となる。

 ●女性蔑視の西洋が女性尊敬の日本に男女平等をいうな
 好例が男女共同参画法で、男女差別は、必要な場合もあれば逆差別にあたる場合もあって、それぞれ、習慣や常識、社会通念によって使い分けされてきた。
 ところが法制化されると、性差の文化に代わって、機械的な制度が登場してきてエンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』のような規範になってしまう。
 この書は、マルクスが、モーガンというアメリカの学者の『古代社会』から抜き書いたノートが土台で、マルクスは、古代の社会が男女平等だったことに驚いたという。
 西洋の歴史では、女性蔑視があたりまえで、フランス革命の「人権宣言」でさえ女性が除外されている。
 西洋が、近代になって、ことさらに男女平等をいうのは、女性蔑視の歴史をひきずってきたからで、中世では、魔女狩りにかこつけて、おびただしい数の未亡人が殺害されている。
 マルクス・エンゲルスの「男女平等論」は、西洋の女性観にもとづいたものだが、これを奉っているのが日本共産党委員長の志位和夫である。
 志位はこういう。「わたしたちは、資本主義から社会主義・共産主義社会へとすすんだときに、ジェンダー平等が全面的に実現する社会になるという展望をもっています」
 こうとものべている。「『家族・私有財産・国家の起源』のなかでエンゲルスが明らかにした女性解放の展望を4点にまとめることができます。第一は社会的な平等、第二は公的産業への復帰、第三は家事義務からの解放、第四は経済的基盤の男女平等です。わたしは、資本主義をのりこえた社会主義・共産主義の社会にすすんでこそ、両性の真の平等が実現するという大展望をもっています」
 現在、日本で、ジェンダー平等や女性解放の名を借りて、体制破壊がすすめられている。LGBT法から最高裁のトランスジェンダー(身体と心が別性)判決、同性結婚から夫婦別姓まで、左翼が狙っているのは、男女や家族、親と子、祖先や子孫という歴史的なつながりや観念を断ち切って、社会を根こそぎ崩壊させることである。
 これが左翼のすすめている性革命≠ナ、毛沢東並みの文化大革命である。

 ●折り合わない個人主義の一神教と多神教と集団主義
 西洋が個人主義的なのは、一神教だからで、ヒトは、死ねば、一人で天国へ行くか地獄に落ちる。
 ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、父なる神は、ヤハウェ(イスラムではアッラー)だけで、神と個人の信仰契約の一神教では、夫婦や親子、家族や祖先、同族や地縁のつながりが断たれている。
 小乗仏教も、生まれ変わりをくり返す輪廻転生で、ヒトは、すべて、孤独な個人である。
 神道(自然崇拝やアニミズム、大乗仏教)の日本と西洋では宗教的背景がまったく異なる。
 日本では、個人が祖先や親子、異性や地縁などでつながっている。
 したがって、神との信仰契約も輪廻転生も、天国も地獄もない。
 日本という国(国体)は、一神教と個人主義の西洋の国(領地)とちがって多神教と集団主義にささえられている。
 それが、祖先や親子、夫婦や地縁という関係で、その大元にいるのが天皇である。
 日本人が、親切で善良、町を汚さないのは、個人ではなく、集団として生きているからで、日本が西洋流の個人主義をとれば、夫婦や家族、地縁が空洞化して、国の骨組みが解体してゆく。
 LGBT法や生物学的性差の否定、同性婚や夫婦別姓は、西洋の宗教習俗であって、日本の文化構造とまっこうから対立する。
 ジェンダー平等は、日本共産党の志位委員長がいうとおり、革命がおきたら実現するだろうが、そのときは、日本は、日本ではなくなって、パレスチナのガザ地区のような生活区(人間部落)にすぎないものになっている。
 女性は、解放されているだろうか。とんでもない。男性と無差別化されて、子を産む労働力という社会的機能にすぎないものになっている。
 次回は、日本が、戦後、なぜ、歴史伝統を捨てて西洋化に走ったのか、その経緯をふり返ってみよう。

posted by office YM at 14:43| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする