2023年11月05日

「自由主義」と「民主主義」の相克と調和28

 ●「ポツダム宣言」がもとめたのは条件つき降伏
 1945年8月14日、日本が「ポツダム宣言」をうけいれて、第二次世界大戦は終結した。ポツダム宣言は、イギリス、アメリカ、中華民国(蒋介石)の3国が日本にたいして武装解除を迫った全13か条の宣言で、正式な名称は「対日降伏要求の最終宣言」あるいは「米英支三国宣言」だが、のちにこれにソビエトがくわわって、事実上の「4国宣言」となった。
 ポツダム宣言は、アメリカとイギリス、中華民国ら連合国が、ドイツを完全に壊滅したように、日本にたいしても最後の一撃をくわえる体制が整っているという脅し文句からはじまる。そして、以下、縷々と甘言と脅迫的言辞を並び立てて、条件からの逸脱や代替、遅延はいっさいみとめないとする。
 内容の概要はこうである。
 日本の戦争遂行能力が壊滅するまで、連合国軍が日本本土を占領する。
 捕虜虐待をふくめてすべての戦争犯罪人にたいして厳重なる処罰をおこなう。
 日本の主権は本州、北海道、九州、四国および周辺小諸島に限定される。
 日本の軍隊は、武装解除されてのちに帰還して、平和で生産的な生活を営む機会があたえられる。
 言論、宗教、思想の自由および基本的人権の尊重は保証される。
 産業工業の維持を許される。そして、経済を持続してこれを戦争賠償の取り立てに充当する。
 産業目的の原材料の入手など、世界貿易取引関係への日本の事実上の参加を許容する。
 連合国占領軍は、平和的で責任ある政府が樹立される限りにおいて、直ちに日本より撤退する。
 そして、最後(13条)にいたってようやく「日本政府にたいして日本軍の無条件降伏の宣言を要求する」という文面がでてくる。そこでふたたび脅しがくりかえされる「もし拒否すれば、日本は即座にかつ徹底して撃滅される」
 戦後、日本は、ポツダム宣言を受諾して、アメリカに無条件降伏したという話がまかりとおってきた。
 だが、この13条の宣言を読むかぎり、完全なる条件つき降伏要求で、無条件降伏ということばは陸海軍にたいして使用されているだけである。

 ●本土決戦≠ナ勝ち目がなかった連合軍
 ポツダム宣言がもとめていたのは、日本政府が陸海軍の解体を命じることであって、陸海軍は無条件降伏したが、日本という国は、政府も国会も、役所も機能していた。
 日本政府が無条件に降伏していたら、政府は、陸海軍に解体を命じることはできない。
 GHQに日本の陸海軍を解体させる力などはなかった。
 米軍は、硫黄島で7000人もの戦死者をだしているが、沖縄戦にいたっては戦死者が1万2500人にもたっした。史上最大の作戦といわれるノルマンディー上陸作戦で、米軍が失った兵力は2000人前後だったことを考えると日本上陸作戦がいかに危険な作戦だったかアメリカは十分にわかっていた。
 終戦時、日本には、400万兵士と十分な弾薬、5000機の航空機、1000台の戦車、数千台の装甲車が残っており、沖縄戦とは比較にならないほど日本軍は優勢に立っていた。
 当時、アメリカは、宮崎海岸と鹿児島の志布志湾と吹上浜の3地点から上陸して、南九州に航空機の基地を確保するオリンピック作戦と千葉九十九里浜と神奈川相模湾から関東平野に上陸して、東京の制圧をめざすコロネット作戦の二本立てを考えていた。
 だが、それには大きな障害があることがわかった。南九州の港湾にも東京湾の外側地域にも接岸する艦船から積み荷を移し替える大型の港湾設備がすべて破壊されていることだった。
 おびただしい輸送船やタンカーは、港湾に接岸できなければただ洋上にうかんでいるだけでなんの役にも立たない。
 兵士の上陸も、輸送船ではなく、上陸用舟艇になるが、これは迎え撃つ方に圧倒的有利で、日本軍の陸兵がまちかまえて、上陸してくる米兵を狙撃すれば死体の山ができあがる。
 アメリカの航空戦力にも限界があった。日本のレーダーは万全で、高射砲の数量も十分だった。零戦や飛燕、疾風、屠龍らが撃墜したB‐29は485機にのぼって戦死者がゆうに3000人をこえて(USSBS/米国戦略爆撃調査団)いて、B‐29には空飛ぶ棺桶≠フ異名がつけられていた。
 5000機にのぼる日本の戦闘機はほぼ半数が、偵察機や練習機で戦闘力は低かったが、爆弾を積んで体当たり(カミカゼ)をすれば洋上の輸送船も上陸用舟艇も一網打尽にでき、たとえ、一部が上陸できても、本土防衛用に温存されていた5個機甲師団の1000両以上の戦車車隊が迎え撃つ。
 硫黄島や沖縄は離島だったので勝てたが、本土となれば、アメリカが勝てる確立はゼロに近いばかりか、米兵の死者が30万人にたっするおそれがあった。

 ●原爆投下とGHQの日本改造計画
 トルーマンとチャーチルが密議をかさねて二つの結論をえた。
 一つは、原爆を投下して、日本人のおよび日本軍人の士気を挫くこと。
 もう一つは、天皇を戦犯対象から外して、敗戦宣言(武装解除)させることであった。
 かかる理由から、ポツダム宣言をだす前に、トルーマンが原爆投下のサインに署名したのである。
 戦後、アメリカに洗脳された人々は、日本の武器は竹ヤリしかなかったとやら高射砲の高度がB29まで届かなかったとやら、アメリカは、足腰が立たなくなった日本に原爆を落としたとやら、ポツダムの返事が遅れたから原爆を落とされたとやらといいちらしてきたが、すべて、デタラメだった。
 そのデタラメの最大級が「日本はアメリカに無条件降伏した」というものでアメリカにとってこれほど都合のよいデマゴギーはなかったろう。
 アメリカには、本土決戦で、日本に勝つ自信も勝算もなかった。原爆投下と天皇の玉音放送(「大東亜戦争終結ノ詔書」)をもって、マッカーサーはやっと厚木飛行場に降り立つことができたのである。
 原爆投下の約20日後、玉音放送の15日後のことで、本土決戦の中心人物だった阿南惟幾陸軍大将が割腹して果てたのが、天皇から本土決戦を断念するようのさとされた翌未明、玉音放送の当日だった。
 陸軍の反対を押し切ってポツダム宣言を受諾して、大戦を終戦へ導いたのが鈴木貫太郎首相で、GHQ指令は、その後の東久邇宮稔彦や幣原喜重郎、吉田茂、片山哲内閣がうけた。
 陸海軍解体指令や公職追放令、戦犯容疑者逮捕、財閥解体、農地解放、教育基本法改正(教育勅語廃棄)、神道指令(皇国史観廃棄)のほか、治安法や特高廃止、政治犯釈放、労働組合結成奨励、共産党合法化は、GHQの指令にもとづいて日本国内閣がおこなったもので、GHQは、日本の立法司法行政および天皇の権威を利用して、戦後日本を治めたのである。
 これが、ポツダム宣言にもとづく条件つき降伏で、アメリカは、日本を直接支配したのではなかった。
 
 ●天皇の存在が日本の共産主義化を防いだ
 日本が無条件降伏して、ドイツのように国家が解体していたら、日本国憲法をつくったGHQケーディスがのちにのべたように、GHQは日本を統治することができなかったろう。
 無条件降伏したドイツは国家が解体して、アメリカとソ連に分割統治されたが、日本は、ポツダム宣言受諾後も、役所や郵便、病院、交通機関は機能していて、新聞や放送も活動していた。
 左翼は、ポツダム宣言を無条件に受諾したので、無条件降伏だという詭弁を弄するが、アメリカは、ポツダム宣言で約束したとおりに、日本から撤退したのち、日本を支援する友邦国家となった。
 左翼が無条件降伏と言い張るのは、レーニンの「敗戦革命論」にのっかっているからである。
 たしかに、敗戦は、革命の絶好の機会で、アメリカやソ連は革命国家だった。
 戦後、革命の機運がさかんになったのは、戦勝国アメリカの支配下にあったのみならず、ソ連が新時代の希望の星として、左翼の目には燦然と輝いていたからだった。
 事実として、戦後のGHQ改革で、革命は、実際におきており、日本は、すでにかつての日本ではなくなっていた。
 革命が現実のものとして、表面にあらわれなかったのは、天皇がおられたからで、万が一、天皇が廃位になっていれば、日本は、まちがいなく共産主義国家になっていた。
 アメリカが日本の憲法に植えつけた共産化(属国化)の仕掛けは3つある。
 一、天皇の地位を憲法で規定する(憲法改正で廃位が可能)
 二、占領基本法の武装解除条項を憲法に継承させる(九条)
 三、憲法で国家主権を謳わない(日本の主権はアメリカが代行)
 これにのったのが「無条件降伏論」と東大憲法の権威丸山眞男や宮沢俊義らの「八月革命説」で、土台にあるのがレーニンの「敗戦革命論」である。
「八月革命説」では、主権が天皇から国民に移ったことが根拠というが、それ以前に、GHQ憲法がすでに革命だった。英文の憲法原案で、国民(ナショナルやネーション)ではなく、人民(ピープル)ということばが使われていたのがその証左であろう。
 次回は戦後、日本はいかの共産化の危機を免れたかについてのべよう。

posted by office YM at 22:11| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする