●文化大革命のこわさを知らない日本人
革命と聞くと、だれもが「市民(ブルジョア)革命」や「共産主義革命」を思いうかべる。
レーニンは、ブルジョア革命がプロレタリアート(労働者階級)革命へ発展する二段階革命論≠唱えたが、実際には、革命軍と反革命軍(保守派)による権力闘争であって、歴史上、労働者階級の蜂起による革命(階級闘争)がおきたためしはいちどもない。
政治や経済は、制度や社会現象で、これだけを変更しても、人生まで左右されることはない。
人生は、社会活動であって、そこに精神性や人間性の文化が深くかかわっているからである。
政治や経済は、社会活動の一部であって、人生は、歴史や習俗、真善美などの価値観、ことばやコミュニケーションなど政治や経済以外のものにささえられている。
これらの精神性を総じて文化といい、その意味で、人間は、文化的な動物ということができる。
市民革命も共産主義革命も、政治と経済における革命で、フランス革命では王政が、ロシア革命では王政と経済の仕組みが、アメリカ革命では、宗主国と従属国の権威的なつながりが否定された。
フランス革命やロシア革命、アメリカ革命とまったく異なるのが、毛沢東の文化大革命とポルポトのクメール・ルージュ(赤いクメール)革命である。
毛沢東とポルポトが標的にしたのは、政治や経済ではなく、精神や価値観という文化で、そのために、革命者は、文化の担い手である精神性の高い人間を抹殺するというとんでもない悪魔的なふるまいにでた。
文化大革命では2000万人以上、ポルポト革命では、人口の四分の一にもたっする200万人が虐殺された(キリングフィールド)が、文化大革命ではそのほかに数千万人もの餓死者がでている。
歴史や伝統、習俗を否定すれば、人間が死に、社会が滅びるのは、共同体が文化に依存しているからで、だからこそ、未来にとって有益なのは、改革でもなく革命でもなく、歴史や文化をまもる保守主義なのである。
●一神教=一元論の世界がなぜ地獄になるのか
田島洋子(元法政大学教授・参院議員)は「変えようよ!この国を」といいつづけて、リベラル派や改革を訴える保守政治家から「日本維新の会」までがこれを真似するようになったが、改革主義の原点が毛沢東やポルポトにあったことをだれも知らない。
いうまでもないが、国家や共同体、歴史やモラル、よき習慣や人間の品性をまもっているのは保守主義である。
ヨーロッパの保守主義は、フランス革命への反省から生まれたといってよい。
バークは「最大の悪徳は智恵や美徳を欠いた自由だ」といい、エリオットは「伝統を相続する努力を払わぬ者が革命をもとめる」といったが、ホッブズは「自然状態において、人間は利己的で、自己利益のために互いに闘争する」ととっくの昔に喝破していた。
毛沢東は、人間の本性のなかに、悪なる非合理的なものがあるとした。その根拠としたのが歴史と伝統だった。歴史や伝統、習俗に培われた悪弊が革命の進行を妨げているというのである。
毛沢東主義を極端化したのがポルポト主義で、社会的、歴史的存在としての人間そのものを否定した。
ポルポトは、通貨や教育制度、文化的習俗や家族までを廃止して、親と子が一緒に住むことすら禁止した。医者や教師、学歴者を皆殺しにしたのは過去の有害なものをひきずっている「資本主義の手先」という理由からだった。
すべての国民を農村部に追いやって農業に従事させ、ポルポト革命に従順でないものは即刻逮捕されて、その日の内につるし首か拷問による刑死となった。
毛沢東とポルポトのスローガンが「変えよう!この国を」だった。
中世ヨーロッパで「異端審問」で数百万人もの異教徒や悪魔(魔女)狩りがおこなわれたのも、純正たるキリスト教国家へ「変えようよこの国を」という運動で、マルクス主義(毛沢東やポルポト)やキリスト教がこのような極端なふるまいにでるのは一神教=一元論の世界観に立っているからである。
●正統と異端≠フ一元論がうんだ革命思想
一神教世界では、並立や共立、共存という考え方はなりたたない。
神が唯一の存在の一元論だからで、正統は神だけで、異端は悪魔である。
異端裁判で有罪になれば、悪魔の判定をうけたことになって火刑である。
一神教の国では、唯一神、絶対神に収斂されて、一元化されるので、すべてが正統と異端に分別される。
中世ヨーロッパを支配していたのは、古典復興のルネサンスからキリスト教の呪縛を解いた宗教革命、人間解放の啓蒙思想や合理主義の近代まで一神教を土台とした一元論で、モダニズム(近代主義)も、キリスト教が唯物論や科学主義にきりかわっただけの一元論である。
その一元論の頂点が革命思想で、正統と異端の思想がゆきついたヨーロッパ精神の終着点である。
したがって、すべて、YESとNOで決着がつける二進法で、中間色やあいまいの価値や文化がない。
一方、日本のような多神教世界では、正しいものはいくつもあるので共存共栄≠フ論理がはたらく。
人間の社会は、一元論や二進法、正統と異端の論理で片がつくほど単純でも割り切りやすくもないからで、むしろ、複雑に錯綜していて、とうてい、一筋縄ではいかない。
日本は、多神教、アニミズムの国なので正統と異端≠ニいう一元論の論理は通用しない。
多くのものがそれぞれの持ち味を生かして、バランスをとって共存しているのが多元論の文化で、千差万別、すべてがばらばらになっているように見えても、それが多神教世界の多様性と多次元性、奥行きというものある。
●政治や経済ではなく、文化を破壊して、国家の解体をはかる
現在、日本が直面しているのが日本的な文化構造の危機で、西洋の一元論の毒された人々が、日本の伝統的な価値観の破壊をもくろんで、文化革命をおしすすめている。
この文化革命の争点は、西洋の一元論と日本の多元論で、それが端的にあらわれているのが、人間観で、西洋の個人主義にたいして、日本は、集団主義である。
個人主義が誕生したのは、啓蒙時代以降、近代になってからで、その歴史は浅く、アメリカ民主主義が定着する20世紀まで、個人主義は、身勝手という悪い意味しかなかった。
個人主義がアメリカに根をおろしたのは、聖書をとおして神と信仰契約するプロテスタンティズムにとって、個人が基礎単位となるからで、親子や家族の関係、集団主義や地縁は、没個性として、排除される。
日本で、輪廻転生の小乗仏教がうけいれられず、すべてのひとびとの救済をめざす大乗仏教が定着したのは、一人で輪廻転生をくり返して、解脱する個人主義が日本人の性に合わなかったからで、日本人は、アメリカ人とは異なった人間観をもっているのである。
その人間観や歴史観、価値観を破壊しようというのが、現在すすめられている文化革命で、男と女からできている人間の世界の最大の関心事であるセックスの価値観を転換させて、伝統的な世界を転覆させようというのである。
かつて、革命運動は、労使紛争や政治問題にかぎられていた。
だが、現在は、男女雇用機会均等法から夫婦別姓、LGBT(性的少数者)問題や性同一性障害特例法、同性婚など個人の領域が革命の道具立てにされている。
日本では、個人は、単独で存在するものではなく、社会的存在で、共同体や親子、家族の一員である。
したがって、その集団的人格が、性差すら否定された個体になってしまえば社会がばらばらに分解してしまうことになる。
それが文化革命の真の狙いで、性という文化の破壊が政治や経済にあたえるダメージよりもはるかに大きい。
革命者の狙いが最終的に男系相続の皇位継承にあるのは疑いえない。
次回は、このセックス革命のさらなる恐怖についてのべよう。