●一神教の西洋と多神教の日本では真逆のセックス観
西洋は一神教で、日本は多神教である。
キリスト教とユダヤ教はヤハウェ、イスラム教ではアッラーを唯一神とする一神教で、この3つ宗教は同じ教典(旧約聖書)から生まれたので、基本的に同じ神を信仰していることになる。
西洋では、一神教、唯一神、絶対神信仰が、一元論の根本理念となっている。
一方、日本は、多神教で、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教の啓示宗教にたいして、自然宗教と呼ばれる。
多神教には、神話(古事記)信仰や祖霊信仰、すべてものに精霊がやどるとするアニミズムや八百万信仰、神道があるが、自然がゆたかな日本では、縄文時代から、自然崇拝が主たる宗教観だった。
自然崇拝は、おしべとめしべ、雄(オス)と雌(メス)、男と女の組み合わせでもあって、生殖や繁栄、子孫繁栄を弥栄とする、自然の摂理に合致した宗教といえる。
そこが啓示宗教と異なるところで、自然宗教が、生命や人間、自然や生活と一体化しているのにたいして、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教では、神が人間と断絶している。
イエス・キリストは「神の子」である。人類が「原罪」を背負わされているのは、アダムとイブが「エデンの園」で(禁断の実=セックス)を食べて子孫を残す汚れた存在だからで、イエス・キリストは、そんな汚れた罪人の人間を救うために神より遣わされた救世主とされる。
マリアの処女懐胎は、神の子であるイエスが、セックスという性欲(原罪)をとおして生まれた「人間」ではないという根拠からで、キリスト教は、性を徹底的に害悪視するのである。
●日本の自然主義が西洋の理性主義にくつがえされた
西洋で精神がとくに重視されるようになったのは、神を発見した精神が神とつながっていたからである。神と手をむすんだ自我や意識、思考がたどったのが、ルネサンスから宗教革命、啓蒙主義、市民革命、合理主義、科学主義へとむかった理性主義だった。
神の恩恵たるその理性主義が、牙をむいて襲いかかったのが、自然だった。
自然や理性をもたない動物は、神が人間にあたえたもう糧なので、どう料理しようと人間の勝手というのがキリスト教の理屈で、自然崇拝の日本とは、世界観において天と地の隔たりがある。
明治時代、日本では、この西洋思想の影響をうけて、文化革命がおきた。
鎮守の森の90%が破壊されて、さらに、廃仏棄釈令(神仏分離令/1868年)によって、上野東照宮本地塔や久能山東照宮のほか北野天満宮多宝塔や鶴岡八幡宮大塔など全国でおびただしい数の歴史的名刹が廃墟と化した。
そして、夜な夜な鹿鳴館なる西洋館で、西洋式の舞踏会がひらかれた。
この狂気≠ェ文化革命の本質で、鎖国という文化防衛政策でまもってきた日本の伝統的な価値観や世界観、歴史観がこのとき180度転回する。
それが西洋をマネた帝国主義だった。ロシア脅威論のセオドア・ルーズベルトの仲介がなく、日露戦争で、国力ではるかにロシア以下だった日本が、下馬評のとおりに負けていれば日本は、ロシアの一部、ロシア邦ニッポンになっていたはずである。
その後も、日本は、薄氷を踏むような西洋化のみちを歩んで、1945年の第二次世界大戦の敗戦にいたって、ついに、日本は国体の危機を迎える。
このときも、神風がふいて、国体がまもられた。
「ポツダム宣言」が国体護持の条件つきだったことと、マッカーサーが天皇の処罰をきらったこと、中国革命や北朝鮮や独立によって、アメリカが対日政策を「逆コース(保守勢力の復活)」へきりかえたことで、戦争にまけたにもかかわらず日本は伝統国家としての地位をまもることができた。
●反伝統に立つ左翼反日、国際主義者、法関係者
これにたいして、左翼反日、国際主義者、法関係者ら反伝統主義が、異議を申し立てて、わが国を共和制国家や社会主義・共産主義国家、無政府共同体に変更しようとして、さかんにイチャモンをつけている。
伝統国家である日本で、人権や民主、自由や平等が侵害されているというのだが、それは、西洋の価値観に立つからで、普遍的な見方に立てばお門ちがいもいいとこである。
「ジェンダーギャップ調査(ダボス会議)」で、日本の男女格差は、フィリピンシンガポールやベトナム、タイやインドネシア、韓国や中国より大きい(ランキング最下位125位)とされて、左翼は「日本は女性差別の国だ」と騒いでいるが、日本は、4つの調査項目「政治」「経済」「教育」「健康」のうち教育と健康の2つについては世界のトップである。
日本の女性は、十分に教育を受けて、健康にもなんの問題もないのである。
だが、政治と経済については、世界最低である。世界には、日本の専業主婦という概念がないからである。したがって、代議士に立候補しない勤労女性をふくめて、専業主婦は「政治」「経済」の分野で、世界最低にランクされている。
世界の女性が工場や売り場、事務所で働いているあいだ、日本の主婦は家庭で主婦業に精を出し、趣味や習い事などの文化活動をおこなう。
そのような日本の女性が、工場で油まみれになって、あるいは、政治活動に走りまわる女性より下位におかれるのがヨーロッパ思想のエッセンスたるダボス会議の精神で、そんなものを相手にしても仕方がない。
その西洋思想の代表が「ジェンダー(社会的・文化的性差)」で、ジェンダーフリーというのは、女が男のように働き、男が女にようにふるまうことで、男女の性別や性差がないことが西洋人の理想なのである。
性の否定は「エデンの園」や「マリアの処女懐妊」以来、キリスト教の伝統で、キリスト教の本にも禁断の実≠ェ性行為をさすと書かれていない。
自然を克服すべきものとしたキリスト教=理性主義では、おしべとめしべや男と女の組み合わせ、性や性行為が悪魔(「エデンの園ではヘビ)にそそのかされた邪悪な行為になってしまうのである。
●究極の目的は性差なきアダムとイブ≠フ創出
日本の自然崇拝は、西洋の啓示宗教とは真逆で、性や性行為は、自然現象の花形である。
花が咲き、タネをもって、新芽をふく、その自然の原理が信仰の対象で、啓示宗教が唯一神に手を合わせるように、自然崇拝では、太陽に手を合わせるのである。
アダムとイブの「禁断の実」の実体がなにをさして、聖マリアの夫がだれであったかが隠されているのは、性行為が悪魔の邪悪な誘惑で、キリスト教最大の禁忌だったからだった。
一方、日本で、性におおらかなのは、自然崇拝・宗教では、性は、隠し立てするものではなかったからで、ギリシャ神話でも、神々の像は男性器や乳房をまる出しにして、男根の神や生殖の女神も存在する。
日本の建国神話でも、天の高天原より降った男神イザナギと女神イザナミが「わたしの余っている部分(男根)で、あなたの足りていない部分(女陰)を刺し塞いで(性交して)国土を生み出しましょう」と語りあって、天の御柱の周囲を回ったのちに寝所で交わりをおこなっている。
日本神話の最高神、女神アマテラスが、弟のスサノオの乱暴のせいで岩屋に籠って世界が暗闇につつまれたとき、アマテラスを外に引き出すために重要な役割を果たしたのが女神アメノウズメだった。
アメノウズメが衣をはだけて踊りだすと、それを見ていた神々が一斉に笑いだす。その声を聞いて、天照大神が岩戸をあけたその瞬間、岩戸のかげで待ち構えていた天手力雄命が渾身の力を込めて岩戸を引き開けて、天照大神を岩屋から外へ引き出す。
『古事記』ではアメノウズメの踊りをつぎのように記述している。「槽伏の台の上に乗り、背をそって胸乳をあらわにし、裳の紐を女陰まで押したれて、低く腰を落として足を踏みとどろかし」
女神アメノウズメがストリップショーをやったのである。
だが、性がタブーになっていない自然崇拝の日本では、神話における大事なシーンで、性が神的な領域まで高められている。
だが、性がタブーの西洋なら、これは、神的領域どころか、悪魔のしわざということになる。
そこで、西洋では、性の否定(性の無化)という新たな教条主義をつくって人々の目を性からそらそうとした。
それがジェンダーフリー(「性差なき社会」)というドグマで、LGBT法というのは第二の「マリア処女懐妊」なのである。
岸田首相は「オカマ(LGBT)法」を性や性差にたいする多様性といったが、実際は、その逆で、キリスト教的な視野狭窄である。
LGBT法は、現代によみがえった「エデンの園」で、人間は、禁断の実を食べる前のアダムとイブにもどって、性差なき人間になれというのである。