●民主主義と自由、規制そしてテロリズム
民主主義は、紀元前の大昔からあった。
民主主義に自由主義がくわえられて、現代の自由民主主義ができあがったといってよい。
その自由民主主義にも重大な欠陥があった。
テロリズムを内包することだった。
民主主義だからテロリズムがゆるされないのではない。
民主主義だからテロがおきるのである。
制限や規制のない自由〜リバタリアニズムは、自由ではなく、暴力である。
自由民主主義をまもるのは、規制という、制限された自由である。
規制は、交通信号のようなもので、ヒトも車も、交通ルールによってまもられている。
現代は、自由民主主義を一つのイデオロギー、ルールとして成立している。
中国も、われわれも民主主義をもっているといっている。
90年代の中国で、民主主義を口にする学生はいなかった。
ところが、現在、中国人は、だれもが、中国にも民主主義があるという。
中国やロシアに民主主義はあっても自由はない。
立候補する政治的自由も、自由に発言できる基本的自由もない。
自由のつかない民主主義は、統治における一つの政治的手法でしかない。
多数決や選挙、議会をもつのが自由世界における民主主義である。
中国に選挙があっても立候補する自由がない。
自由のない民主主義は近代的な思想になりえない。
自由のない民主主義は、人民民主主義や社会民主主義、共産主義とイコールで、歴史的には、前近代的なシステムでしかない。
メイフラワー号に乗って、清教徒たちが新大陸にむかった。
かれらがもとめたのは、民主主義ではなく 自由だった。
政治的な自由ではなく、宗教の自由をもとめたのである。
自由のつかない民主主義は、メイフラワー号以前の前近代的な民主主義である。
自由と民主主義は、一体になって、いわば両翼の関係にある。
中国やロシアの民主主義は、自由がない片翼飛行で、いずれ、墜落する。
プーチンがかつての盟友プリゴジンの暗殺を指令して、乗っていた飛行機を爆破した。
もともと、民主主義は、古代ギリシャからルソーまで、多数派独裁の野蛮な政治形態で、近代において、民主主義がすぐれているとされてきたのは、 自由主義とセットになっているからだった。
中国の民主主義で、決定的に欠けているのは、自由である。
ウイグル チベット 内モンゴルは、海外に亡命政府をもっている。
中国が自由を容認したら民族独立運動がおきて、収拾がつかなくなる。
中国が、一見、平穏に見えるのは、弾圧政策をとっているからである。
中国をツブすのに武器などいらない。
国民や民族に自由をあたえればよい。
自由民主主義をあたえればよい。
国民や民族に自由があたえられて、民主化や民族の独立運動が活発になれば中国はツブれる。
民主主義だからテロは許されない?
おおまちがいで、民主主義だからテロがおきるのである。
独裁国家は、秘密警察と強制収容所をつくって、予防拘束する。
予防拘束や人権侵害といわれかねない警戒態勢でしかテロを防ぐことができないのである。
無警戒と油断が民主主義の本質である。
安倍元首相のテロ事件をふり返ればそのことがわかる。
民主主義では予防拘束ができない。
したがって、民主主義はつねにテロの危険性をおびる。
民主主義だから安全というのは幻想や錯覚でしかない。
民主主義だからテロはおきない、民主主義だからテロは許されない、というのはノンキな思いこみで、民主主義ほど危険な体制はない。
かといって、法律でがんじがらめにすると、自由民主主義の心が害われる。
自由は野放しにすると、個人主義から、自分勝手主義へ流れてゆく。
規制のなかにこそ安全な自由がある。
社会の安全や福祉をまもるためにあるのが「六法全書」である。
さらに立法府があたらしい法=規制をつくってゆく。
規制には緩和すべきものと強化されるべきものがある。
規制なき自由は野蛮で、規制のなかにこそ安全がある。
自由にも規制が必要である。
そのことは、じぶんの自由が他人にどんな価値があるかを考えるだけで、すぐわかる。
自由は、集団のなかの倫理でもあって、じぶんと他人の自由は、つねに、同格である。
規制が自由を阻む束縛のように思っているヒトがいる。
政治家までが、規制緩和が自由であるかのように騒ぎたてる。
規制は国民や弱者のためのものである。
したがって、規制なき自由は暴力にひとしい。
そんなかんたんなことがわからないヒトが多いのである。