結論からいえば、これだけの醜態をさらした以上、朝青龍は、引退すべきである。
国技である大相撲の横綱は「心技体」が完成された最高位で、ボクシングのチャンピオンとはちがうからだ。
日本文化の基本は「物に神が宿る」という精神性の高さで、欧米では金儲けの手段にすぎない商売やビジネスも、日本では「商道(石田梅園)」にまで高められて、いまもなお、日本経済の背骨となっている。
日本文化の精神性の高さを象徴しているのが、国技である大相撲の横綱である。
歴史上、最強といわれる雷電為右衛門が、生涯、大関にとどまったのは、勝つことしか考えなかったからで、一方、雷電のライバルだった谷風梶之助は、人徳の高さによって、横綱になった。
大相撲が、国技として、現在まで国民的人気を博してきたのは、心(=文化)という奥行きをもっていたからで、強いだけでいい、というのでは、ボクシングの亀田兄弟とかわらない。
行儀のわるさや傲慢な発言を売り物にしているボクシングの亀田兄弟も、外国の一流ボクサーから、精神面の未熟さ、人格の劣悪さを指摘されている。
ボクシングでも、白井義男やピストン堀口ら、人格にすぐれた者が少なくなかった。
ところが、最近は、人格も人徳も関係なく、テレビで視聴率を稼げれば、だれでも、スターになってしまう風潮だ。
テレビは、陸上、水泳、格闘技などのアマチュア選手をひっぱりだし、本人も、TVタレントにでもなったつもりで、バラエティ番組にまで、出演している。
力士にかぎらず、スポーツ選手は、強い心をもつために、一人で、じぶんの弱さや自身や孤独とたたかわなければならない。そのたたかいに勝って、はじめて、栄光を手にできる。
その精神面のきびしさが、スポーツの内面の文化であり、奥行きであり、美しさである。
大阪陸上で、レース寸前までテレビにでづっぱりで、自己ベストさえだせずに敗退した選手がいたが、それが、競技というもののきびしさであり、こわさだ。
強ければいいという傲慢と、テレビという魔物が合体して、スポーツは、堕落してゆく。