2008年03月31日

日本の司法に欠けているのは正義ではなく常識だ

 ●国会の「代表質問」を裁いた司法の立法権侵害
 KSDをめぐる汚職事件で、最高裁第三小法廷(藤田宙靖裁判長)は、受託収賄罪に問われた村上正邦元労相の上告を棄却した。元労相側は異議を申し立てる方針だが、みとめられなければ、一、二審の実刑判決が確定する。
 まことに残念で、村上先生の無念の心中察するに、余りある。
 村上先生とは、これまで、勉強会などをとおして、親しく接していただいてきた。
 五月に吉野でおこなわれる勉強会のお誘いをうけたばかりで、わたしの著書でも、対談を予定させてもらっていた。最高裁での無罪判決を信じておられて、意気軒高だっただけに悲嘆いかばかりかと、心痛の極みである。

 今回の裁判で、わたしは、日本の司法のレベルが、先進国にはるかにおよばない、後進国以下だったことを、あらためて、痛感している。
 そう断じる理由は、三つある。一つは、検察と判事の癒着である。
 検察と判事がワンセットになっている現在の司法制度のもとでは、検察がおこなう起訴が判決でひっくり返る可能性がほとんどないが、これは、司法の死にほかならない。
 日本の法曹界には、判事が検事を、検事が判事を三年程度経験する「判検交流」というシステム(裁判所と法務省の人事交流)があり、判検癒着の温床になっている。起訴がきまった段階で、90数パーセントという高い確率で有罪判決がでるのは、そのせいだが、こんな中世のような制度をひきずっているのは、世界中で、日本だけである。
 二つ目は、後進国でもやっていない、長期拘留による自白の強要である。
 証拠隠滅や逃亡のおそれがない場合、原則として、身柄拘留はゆるされない。
 無実だった場合、長期拘留を実刑にくりいれるわけにゆかないからだが、起訴イコール有罪の日本では、判決前の長期拘留が、いまなお、堂々とまかりとおっている。
 家宅捜索を終えたあとの証拠隠滅は、考えられず、汚職容疑の場合、政治家が逃亡するわけもない。
 長期拘留は、被疑者を警察の圧力の下におき、心理的に圧迫して、自供をとろうというものだが、欧米では、こういう野蛮な制度は、半世紀以上も前から、禁止されている。
 今回の事件でも、故古関忠男元KSD理事長(執行猶予付き有罪確定、今年二月死去)が、捜査や一審段階で請託や現金提供をみとめたのは、長期拘留の恐怖からで、控訴審で、一転して「わいろではなかった」と供述を翻したものの、容れられなかった。
 二審の白木裁判長は「検察官から両手を合わせて『村上逮捕に協力してほしい』と懇願されたという供述は、信用できない。保釈をえたかったとはいえ、多大の恩義をうけている村上被告の名誉を失墜させる虚偽の事実をのべたとは考えられない、としたわけだが、それが、人間の心を知らないエリート判事の精神構造である。
 三つ目は、検事や判事の常識外れと、ばかげた正義感である。
 判事や検事になるのは、ガリ勉東大生で、動機は「悪いことばかりして、金儲けをする政治家をやっつけるため」だという。世間や人間を知らない偏差値エリートが、心中にそういう幼稚な正義感を純粋培養させ、そのまま、検察庁という権力の要塞のなかで被疑者を取り調べ、あるいは、法廷で判決をくだしている。
 今回の判決と共産党『赤旗』の論評がぴったり一致していたのは、裁判官が日本共産党のシンパだったからではなく、かれらの正義感が、赤旗レベルだったからである。
 わたしは、田中角栄の秘書だった榎本敏夫氏を、亡くなるすこし前に訪ね、そのとき、ロッキード事件の核心と思える話を聞かせてもらった。
「丸紅から五億円の政治資金をいただいたと、何度も、検察や法廷で話した。だが、耳を貸してもらえなかった。そして、丸紅からの政治資金を、無理やりに、ロッキード社からのワイロにされてしまった」
 今回のKSD事件も、村上先生がもらったのは、政治献金で、党を代表しておこなった代表質問とは切り離されている。代表質問は、党と村上先生の問題意識が反映されたもので、国会での代表質問を議員の職務権限ととらえ、政治献金を対価的わいろと認定されると、立法の独立性が失われて、代表質問など、だれもできなくなる。
 今回の判決は、司法の立法にたいする侵害だが、政治家に、その危機感が乏しい。
 村上先生逮捕の報をうけた当時の森喜朗首相は、こんなばかなコメントをだしている。
「参議院における指導的役割を担ってきた村上前議員が逮捕されたことは政治にたいする信頼を著しく損なうもので、大変残念であります。このような事態に至ったことを深刻に受け止め、国民の皆様に心からお詫び申し上げます」
 三権分立は、立法が、司法に屈服することではない。
 このとき、森元首相が「村上議員の代表質問は、党活動の一環としておこなったもので、代表質問にたいする立件は、三権分立の原則を破るもので、遺憾」とでもいっておけば、立法の独立性が、こうも易々と蹂躙されることはなかったろう。
 政治が、何の抵抗もせず、司法に屈服して、早々にお詫びをしていては、日本の立法も司法も、後進国から、野蛮国のものへと転落してゆくだろう。
 村上先生の健康と再起を、心から願って、ひとまず、ペンをおく。
posted by office YM at 08:05 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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