2020年09月23日

 反官僚の菅政権に期待する@

 ●常識と現実主義に立ったしたたかさ
 長期政権の記録をつくった安倍晋三前首相が、病気で引退した後をうけて、菅義偉(すがよしひで)前官房長官が内閣総理大臣(第99代)に就任した。
 自民党総裁選挙で、岸田文雄政務調査会長と石破茂元幹事長を大差で破ってのことで、世論調査の支持率も74%(日経新聞)と史上3番目の高さだった。
 菅内閣が、国民から高い支持をえた理由は、政治がわかりよいからである。
 菅首相は、就任後の初会見で、役所の縦割りや既得権益、悪しき前例主義の打破を表明したが、これこそ、国民が望んできたことで、しかも、官僚国家の弊害が深刻な日本にとって、現在、直面している最大の政治課題といえる。
一内閣一仕事≠フ観点からいえば、各省庁の政策一元化や、規制改革だけで十分な成果だが、そのほか、菅首相は、デジタル庁新設や「地方創生」などの新機軸を掲げている。
 これらが、すべて、コロナ対策と関連しているのはいうまでもない。
 マイナンバーを利用した給付金の支給が混乱したのは、官庁のデジタル化がすすんでいなかったからである。
 平成19年、社会保険庁と自治労が、パソコンの使用が労働強化にあたるとして、年金名簿入力をアルバイトにまかせっきりにして、5000万件の年金記録を消失させ、この失政で、自民党は、政権からすべり落ちている。
 だが、その後も、官庁のデジタル化はすすまず、コロナ対策では、厚労省や保健所が、ファックスで、情報をやりとりして、世界の笑いものになった。

 デジタル庁は、住民票から納税、健康保険などを、省庁横断的に一本化するマイナンバー(カード)の所轄部門である。
 担当大臣となる平井卓也は、スマートフォン向けゲーム(「あべぴょん」)を開発したデジタルやITの専門家である。
 これを期に、現在、世界の最下位にあるデジタルやITの競争力を増強してもらいたいものである。
 地方創生には「大阪都構想」から首都機能の地方分散、地方の雇用増大まで多々あるが、注目されたのが、コロナ対策である。
 大阪府の吉村洋文知事や東京都の小池百合子知事、北海道の鈴木直道知事らが、地方行政で、国政をこえた強力な指導力を発揮してきたのは、多くの国民の知るところである。
 住民投票で「大阪都構想」が可決されれば、ふるさと納税の主唱者で、松井一郎大阪市長と親しい菅首相が応援するはずである。
 菅政権から、地方の時代がはじまる可能性が高いのである。

 菅政権の目玉に、首相の指示の下で「行政改革目安箱(縦割り110番)」を設置した行政改革・規制改革相の河野太郎と、中国の神経を逆撫でする親台湾派で、安倍前首相の実弟にあたる防衛相の岸信夫らがあげられる。
 とりわけ、外務大臣や防衛大臣、国家公安委員会委員長をつとめてきた河野太郎は、これまで、歯に衣着せない物言いで、なんどか、物議をかもしてきた。
 豪腕で鳴る河野大臣が、硬直した日本の官僚体制にかける強引なゆさぶりに大いに期待したい。
 さて、河野太郎ら大臣については、次回、ふれるとして、菅首相の言動に目をむけてみよう。
 菅首相は、常識派で、抽象的な議論を好まない反面、ストレートな物言いでこれまで論敵をつぎつぎ片付けてきた。
 加計学園問題で、安倍前首相に噛みついた前川喜平前事務次官の内部文書を怪文書≠ニした菅官房長官(当時)は前川をこう切って捨てた。
「前川氏は、女性の貧困問題の調査のために、いわゆる出会い系バーに出入りして、女性に小遣いを渡している。これにはつよい違和感を覚える。杉田和博官房副長官からも厳しく注意をうけている」
 以後、東大出の前川をスター扱いしていたマスコミはぴたりと沈黙した。
 前川喜平をもちあげるなど、権力とたたかうと称して、記者会見で、愚問を連発させてきた左翼記者(東京新聞/望月衣塑子)にたいしても、菅官房長官(当時)は「あなたに答える必要はありません」と一蹴している。
 日本の政治は、政策と政権、空想と現実、保守と革新が入り混じって、国民にわかりにくいものになっていた。
 菅政権が、一定の支持率の下で、政策と現実、保守を一本の糸につなげると、日本の政治はかならず変わるのである。
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2020年09月10日

 とりもどせ! 国家の主体性C

 ●経済をとって支配原理を捨てた日本
 戦後、吉田茂は、経済をとって、防衛を捨てた。
 アメリカがタダでまもってくれるのだから、日本は経済だけに精力をむけていればよいというひとりよがりの理屈だった。
 ところが、日本が捨てたのは、防衛だけではなかった。
 外交権・防衛権をGHQに奪われた日本は、国家の支配原理≠サのものを放棄してしまうのである。
 支配原理というのは政治力のことである。
 そして、その下で働くのが、官僚である。
 明治以降、富国強兵と世界の強国をめざしてきた日本が、第二次世界大戦に負けたとたん、国家の支配原理を投げ捨てて、経済だけが頼りという情けない国になってしまったのである。
 支配原理に代わって、台頭してきたのが、官僚制だった。
 だが、官僚は、とうてい、国家の支配原理になりえない。
 官僚には国家がないからで、あるのは、自己利益の原則と知識だけである。
 天皇の官僚が、一夜明けたら、GHQの官僚になってしまったのは、官僚にとって、ご主人は、給料さえくれれば、だれでもよいからである。
 ソ連の共産党官僚は腐敗して崩壊したが、中国の共産党官僚は、支配原理を共産主義から資本の論理へモデルチェンジして、逆に、大きな発展を遂げた。
 朝鮮の官僚階級(ヤンパン)は、日本が廃止させ、韓国は、35年にわたる日本化を支配原理として、現在の繁栄をえた。
 吉田ドクトリンも、バブル景気にわいた1980年代までで、1990年代になると世界2位の経済力も下降線を描きはじめ、2010年には中国に追い抜かれ、現在は、独・英・仏やブラジル、インドや韓国に肉薄されている。
 国家原理がないので、国家間競争にめっぽう弱いのである。
 1989年の世界時価総額ランキングでは、NTT以下、日本企業がTOP5を独占、50位までに日本企業32社がランクインした。
 ところが、2019年の世界時価総額ランキングでは、アメリカのマイクロソフトやアップル、アマゾン、中国のアリババやテンセントなど、米中のIT企業が上位を占め、50位以内に入った日本企業はトヨタ1社(42位)だけとなった。
 半導体産業も、1980年代は、NECや東芝などの日本の製造業が世界のトップシェアを握ったが、現在は、台湾のTSMCが4割、アメリカのインテルが3割、韓国勢が2割で、日本は世界市場から完全に放逐されている。
 日本企業が、これほど弱体化してしまった理由は、日本が官僚国家だからである。
 官僚国家に欠けるのが、支配原理で、役人は、じぶんの生活原理にしか興味がない。

 2019年の世界時価総額は 1989年当時の10倍以上となった。
 その原動力がIT(情報技術)で、アメリカからはじまったデジタル革命によって、世界の経済構造は10倍にもスケールアップされた。
 5G(第5世代移動通信システム)がその代表だが、日本では、5GやAI(人工知能)どころか、パソコンを使ったことがない大臣(桜田義孝)が国家のサイバーセキュリティを担当するという愚かなことが堂々とまかりとおってきた。
 なぜ、そんなばかげたことがことがおきたのか。
 日本では、高学歴の官僚が、許認可権や行政指導をとおして民間を指導するという制度が、明治時代から現在まで、百年以上にわたって、延々とつづいてきたからである。
 したがって、デジタル革命によって、産業構造が変わっても、対応できない。
 経済・生産活動をおこなわない官僚は、ITやデジタルには、なんの関心ももたないからである。
 日本では、そんなお役人さまが、経済から行政、法律のすべてを仕切っている。
 これでは、ヤンパンという特権エリートがすべてを牛耳って、世界で最低の非効率社会となった朝鮮李王朝とすこしもかわるところがない。
 次期首相に最有力の菅義偉は、新内閣の切り札として、縦割り行政の打破や「デジタル庁」の創設を明言したが、産業構造のデジタル化という地殻変動にたいして、思い切った手を打っていかなければ、役人国家、日本は、沈没するほかない。
 現在、日本は、半導体で世界最大のシェアをもつ台湾のTSMCを誘致する計画をすすめているという。
 実現すれば、半導体産業ばかりか、官僚指導型で沈滞している日本の経済が活気づくはずである。
 半導体にかぎらず、日本の経済がダメになったのは、日本が学歴社会だからである。
 官庁ばかりか、大企業も、役人の採用と同様、学力を優先して、偏差値人間ばかりを集める。
 したがって、古い知識をもっていても、創造的なことはなにもできないエリートが経済の前線に立つことになる。
 それが失敗の原因で、過去の知識がいくらゆたかでも、現在をゆたかにする知恵がなければ、競争には勝てない。
 アメリカIT企業の御三家、アップル社のスティーブ・ジョブス、マイクロソフトのビル・ゲイツ、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグをはじめとして、ITやデジタル分野の成功者で、高学歴者はほとんどいない。
 学歴エリート主義(科挙)と官僚の特権思想(ヤンパン)という儒教観念をぶち壊さなければ、日本に未来はないのである。
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2020年09月06日

 とりもどせ! 国家の主体性B

 ●防衛と外交で大きく立遅れた日本
 領土と国民、主権の3つが「国家の3要素」といわれる。
 もっとも、これは、王権神授説にもとづくもので、唱えたのは、16世紀のボーダン(「国家論」)である。
 17世紀のホッブズやロック、18世紀のルソーの「社会契約説」によって、王権神授説が否定されて、国家主権の根拠が、神から国民へと移った。
 ルソーは、国民一般に主権があるとして、それが、フランス革命の理論的な根拠となったが、アメリカ革命(独立戦争)やロシア革命も、背骨にあるのは「社会契約説」である。
 社会契約説がいう国民は、ピープル(国民すべて・大衆・民族)で、個人を意味するパーソンではない。
 その国民主権を丸ごとあずかって、ヒトラーやスターリンのような独裁者が出現したが、原爆投下を独断したアメリカの大統領も、民主主義からうまれた独裁者である。
 国民主権と民主主義は、表裏一体の関係というより、ほぼ、同じ意味である。
 国民主権は、多数派のことで、多数派は、多数決によってつくられる。
 多数派も衆愚政治も、独裁すらも、民主主義によって、かんたんにできあがってしまう。
 民主主義も国民主権も、結局、王権神授説の安手の代用品にすぎなかったのである。

 フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」で、民主主義と自由経済の勝利を宣言したのは、1992年のことだが、その仮説が、いまや、あやしくなってきている。
 共産党独裁の中国の大躍進のショックと、民主主義や自由への幻滅が、世界中にひろがっているのである。
 一国主義の台頭は、民主主義と自由の後退で、いまや、世界は、一帯一路の中国経済圏と、米・欧・日の自由主義経済圏に分かれて、するどく、対峙している。
 国家の3要素も変化して、領土と国民、主権だけでは、国家の説明がつかなくなっている。
 新しい国家の3要素は、経済と外交、防衛で、米中摩擦をみれば、そのことがよくわかる。

 戦後、日本は、経済をとって、外交と防衛を捨てた。
 その結果、憲法9条(不戦条項)が日本の平和をまもっているという愚かな思想が蔓延して、日本は、一国主義や自主防衛、積極外交という世界的趨勢に乗り遅れた。
 日本の安全をまもっているのは、世界第6位の軍事力と日米安保条約、国連憲章51条「個別的自衛権」で、憲法9条における交戦権放棄は、自国防衛を義務づける国際慣例法にたいする重大なルール違反なのである。
 日本は、経済力において、たしかに、一応の成功をおさめた。
 だが、防衛と外交政策において、世界から、大きく立ち遅れている。
 国家は、権力の政体(ネーション)と文化の国体(ステート)の両面をもつ。
 中国のステートは、共産主義で、アメリカのステートは、民主主義である。
 伝統国家の日本は、国体としての天皇や歴史、文化をもっている。
 足りないのは、政体の残りの2つ、防衛と外交だけである。
 安倍首相は、辞任の前に決着をつけておくべき懸案として、安全保障政策の新たな方針をあげたが、これは、具体的に、敵基地攻撃能力の保有をさす。
 くわえて、中国の影響力を排除、中国依存度を軽減するため、オーストラリアやインド、ASEAN間のサプライチェーン強化を明確に打ち出した。
 次回は、ポスト安倍における日本の防衛と外交の青写真を描いてみよう。

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2020年08月31日

 とりもどせ! 国家の主体性A

 ●アメリカ民主主義を国是にした愚
 戦後日本のフレームをつくったのが、経済主義・平和主義・民主主義の3つのイズム(主義)で、別名「吉田ドクトリン」である。
 国防は、アメリカにまかせて、日本は、経済だけに力を注ぐべしというのが吉田ドクトリンだが、そこから、主体性の欠如という、国家として、致命的な欠陥が生じた。
 国家の主体性は、国家防衛を契機として、うまれるものである。
 国の護りを外国に頼って、どうして、主体性がそなわるだろう。
 主体性というのは、それ自体の責任において、存在するということである。
 たとえば、日本は、あくまで、日本であって、独立自立して、なにものにも依存しない絶対的な存在である。
 それが、国家主権で、独立権から統治権、交戦権までがふくまれる。
 国をまもる気概や国を誇りに思う心も、主体性で、道徳心の基礎である。
 国家主権と道徳心がセットになって、国家防衛の体制がつくられる。
 ところが、戦後、日本では、国をまもる気概も手段も根こそぎ失われた。
 敗戦と日本軍の解体、武装解除(憲法9条)とGHQの進駐によって、国をまもるという概念が、旧陸海軍とともに、一夜にして、消失してしまったのである。
 極東委員会とGHQは、敗戦によって、四等国(マッカーサー)へ転落した日本に、さらに、財閥解体や産業破壊、農地解放、労組助成などで追い打ちをかけた。
 なかでも熾烈だったのは、産業破壊で、SCAP(連合国軍最高司令部)が画策したのは、ドイツと同様、工業部門の徹底的な破壊だった。
 重化学工業を中心に、日本中の工場が破壊されて、工業機械が没収あるいはスクラップになった。
 日本をアジアの一農業国に転落させるというSCAPの計画は、中国革命や朝鮮戦争がなかったら、実行に移されて、現在の日本の繁栄はとうていありえなかった。
 吉田茂が国家防衛を捨てて、経済主義に走ったのは、日本は、軍事的敗北につづいて工業破壊≠ニいう経済的敗北に直面していたからである。

 GHQによる国家解体の決定打となったのが「公職追放令」と「人権指令」だった。
 公職追放令は「好ましくない人物(連合国側にとって)を公職から追放」する命令で、対象者が21万人にのぼった。
 これらに要人に平均100名の部下がいたとして、合計で、2100万人が影響をうけたわけで、人口7200万人だった終戦当時、勤労男子のほとんどが公職追放令のとばっちりをうけたことになる。
 退役軍人(一般徴兵)700万人も公職追放の対象で、多くが公職への道を断たれている。
 一方、猛威をふるったのが「人権指令」である。
 治安維持法など、反体制活動を制限する15の法律や法令の廃止や政治犯の即時釈放、特高の廃止などを命じたもので、「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」とあるように、この人権指令は、共産主義者らの国際派にとって、願ってもない福音となった。
 公職追放令で生じた空隙に、マルクス主義者らの国際派がはいりこんだのはいうまでもない。
 とりわけ、大学教壇や学会、マスコミや言論界、官界や法曹界は、共産主義者の牙城となった。
 こうして、日本は、戦前とガラリと様相を変えた左翼の国になってしまったのである。
 日本は、戦後、天皇主権からアメリカ民主主義へ、180度、体制転換した。
 そして、民主主義を採用するよい国へ生まれ変わったとみずから喧伝した。
 だが、民主主義は、日本人が思っているほどすぐれた制度ではない。
 日本には、君民一体や自他共栄、もちつもたれつ、相身互いなど民主主義に該当する文化や習慣がある。
 アメリカが、民主主義を唯一の社会規範としてきたのは、歴史の蓄積がない多民族の新興国家では、多数決を、唯一のルールにして、最高の文化的価値とするほかなかったからである。
 日本人は、民主主義が、国民主権と同様、個人のものと思っている。
 だが、実際は、民主主義は、多数決全体主義で、国家のものである。
 げんに、アメリカの第二次大戦のスローガンは、封建体制の打破と民主主義の防衛だった。
 ヨーロッパにとって、民主主義は手段だが、アメリカにとって、民主主義は目的だったのである。
 ちなみに、国民主権も、国家があずかる国民総体の権利で、国家に属する。
 日本国憲法には、アメリカ民主主義が反映されていて、日本の伝統的な価値観は一行もしたためられていない。
 日本および日本人が、主体性を失ってしまった最大の原因は、国是を、わが国固有の歴史や伝統、文化ではなく、アメリカ民主主義としたところにあったのである。
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2020年08月24日

 とりもどせ! 国家の主体性@

 ●日本はなぜ国家の主体性を失ったのか
 日本が、国家の主体性を失ったのは、戦争に負けたからである。
 それも、東京大空襲と広島・長崎への原爆投下で、30万人以上の非戦闘員を虐殺されるという酷い負け方であった。
 日本軍の戦死者は、230万人で、終戦当時、日本兵が、710万人だったことを思えば、じつに、3割以上が戦場で命を落としたことになる。
 すべて、甲種合格のりっぱな日本男子だった。
 日本は、戦後、指導的立場に立つべき230万人ものリーダーを失ったままアメリカ(GHQ)に占領されたのである。
 日本が、国家として、いまだ、主体性をもてない理由の一つに、甲種合格の日本男子230万人を失った歴史的な痛手をあげなければならない。
 そして、その代わりに、日本の中枢へ入りこんだのが、日本の敗戦を利得とした国際派やマルクス主義者、日本人の誇りを捨て去った卑しい人々の群れであった。
 GHQにしっぽをふった敗戦利得者については、のちに、詳しくふれる。
 戦後、軍国主義に代わって、猛威をふるったのが、GHQの思想改造だった。
 思想改造というのは、軍事制圧と上陸占領につづいて、戦勝国がとる第三の手段で、敗戦国の歴史や伝統、文化などの精神的価値を根こそぎ否定しようというのである。
 軍国主義の根絶やしから神道指令、WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)にいたるGHQの文化侵略には、教科書の黒べた塗りから武道禁止、茶などの古典焚書などもふくまれる。
 なかでも、大きな効果を発揮したのが、新憲法と民主主義だった。
 憲法は、占領基本法の焼き直しで、国家主権の放棄と武装解除が宣言されている。
 戦勝国が、敗戦国の国家主権を奪って、武装解除するのは、戦争の大原則である。
 ただし、これは、戦争行為であって、平時には、通用しない。
 そこで、GHQは、占領政策を憲法に格上げすることにした。
 そうすれば、敗戦国=日本を、永遠に、戦勝国=連合国総司令部(GHQ)の支配下におくことができる。
 だが、占領下における法改正は、ハーグ陸戦条約で禁止されている。
 はなはだしく、被占領国に、不利益をもたらすからである。
 マッカーサー憲法は、国際法違反だったのである。

 護憲主義者は、武装解除(憲法9条)を平和主義などといって歓迎する。
 だが、自衛権の放棄は、平和とはなんの関係もないただの売国思想である。
 というのも、国家の主体性は、国家の防衛を土台にしているからである。
 国家でも人間でも、自己をまもる本能がはたらいて、はじめて、尊厳がたもたれる。
 国家の尊厳は、自国は自国でまもるという主体性にたいして、そなわるものなのである。
 日本は、憲法で交戦権が否定されているので、敵国が攻めてきたら降伏するしかないと主張する者たちがいる。
 とんでもない妄言で、国家の自衛権は、生存権で、おのずとそなわっている権利である。
 むしろ、交戦権の放棄を謳った憲法9条が、国際法や慣習法、国連憲章などと整合しない異端法で、じじつ、日本の安全保障は、慣習法と日米安保条約によってまもられている。
 日本が、国家としての主体性を危うくしている最大の理由は、国家をまもる気概を失ったことにある。
 その原因を4つあげることができる。
 @国家防衛をアメリカ任せにしたこと
 A政治を捨てて、経済主義に走ったこと
 B民主主義を全体主義と気づかなかったこと
 C自主憲法制定にふみきらなかったこと

 次回から、以上4つのテーマと、ワンマン宰相、吉田茂の功罪について順次のべていこう。
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2020年08月10日

コロナ後の世界展望と民主主義C

 ●コスモポリタイズムと原爆体験
 アメリカの原爆投下から75年が経過して、8月6日に広島で、そして本日(8月9日)長崎で、75回目の「原爆の日」の式典がおこなわれた。
 原爆による犠牲者数は、広島市において、人口35万人のうち4割にあたる14万人、長崎でも、少なくも、7万4000人が死亡している。
 全員、生きながらの焼死で、その寸前まで、日常の生活がおこなわれていた。
 たとえようがない残酷で野蛮なおこないだが、アメリカは、ビキニ環礁などで、水爆などの核実験を百回以上もおこない、美しい南太平洋の海を死の海に変えてしまった。
 現在、9か国が1万4525基の核兵器を保有している。
 人類は、世界を500回、滅亡させることができる核を保有していることになるが、皮肉なことに、これが、核の使用を不可能にしている。
 そして、その一方、核は、防衛手段としての有効性を高めつつある。
 北朝鮮は、核を保有して、はじめて、体制維持が可能になったのである。
 今回も「原爆の日」の式典で、参列した政治家が声を揃えて核兵器の廃絶をうったえたが、これほど、壮大なる虚言≠フセレモニーはない。
 いくら誓おうと叫ぼうと、核兵器がなくなることはないからである。
 それなら、核兵器を前提とした安全保障、国家防衛の具体策を立てなければならない。
 だが、日本人は、大言壮語をもてあそぶだけで、具体的な対策を考えようとしない。
 そして、平和主義者と称する者たちが漫才師(太田光)の「憲法9条を世界に輸出しよう」などというたわごとをもちあげる一方、安倍首相の「敵基地攻撃能力」への言及を戦争主義とくってかかる。
「敵基地攻撃能力」に関する政府記者会見で、新聞記者が中国や韓国の理解がえられるかという愚問を発して、河野太郎防衛相が「わが国の領土を防衛するのになぜ中国や韓国の了解が必要なのか」と気色ばむシーンがあった。
 平和主義の前で思考停止に陥っているのが、日本のマスコミで、りっぱなことばさえ発していれば、現実的な対応や対策はどうでもよいのである。

 広島を訪れたパル判事は、慰霊碑に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちは くり返しませぬから」ということばから大きな衝撃をうけた。
「ここに祀られているのは、原爆犠牲者の霊で、原爆を落としたのはアメリカである。過ちを詫びるのは、日本人ではなく、アメリカであろう」(1952年11月3日)
 これにたいして、碑銘を書いた広島大教授の雑賀忠義はパルに猛反論した。
「われわれは広島市民であるとともに世界市民である。原爆投下は広島市民の過ちではないというのは世界市民につうじないことばだ。そんなせせこましい立場に立つと、過ちをくり返さぬということが不可能になって、霊前でものをいう資格はない」
 なにをいっているのかさっぱりわからない。
 だが、これが日本平和主義の原点となって、ここから原水協(共産党系)や原水禁(旧社会党系)の核廃絶から護憲派の自衛権の放棄にいたる平和運動が展開されてきた。
 雑賀は、もともと英文学者で、心の故郷が英米にあるコスモポリタンである。
 コスモポリタニズムは、世界主義のことで、ノーベル賞の大江健三郎はこううそぶいた。
「日本が悪いから、原爆を落とされた。原爆は、日本人にあたえられた反省の材料である。だが、わたしは日本人ではない。ノーベル賞をうけ、文化勲章を断ったのは、世界市民だからである」
 日本の平和主義者は、例外なく、コスモポリタンで、「9条の会」の小森陽や羹尚中、高橋哲哉ら東大教授に代表される日本の学者や学会、マスコミ、教育界、法曹界、共産党から自民党左派にいたるまでの政党が、コスモポリタニズムに毒されている。
 国から甘い汁を吸う一方で、国を足蹴にするのがコスモポリタニズムという卑劣な思想で、かれらが信奉するのが、自由や平等、そして、民主主義である。
 民主主義には、愛国心も同胞愛も、正義も道義も、モラルすらもない。
 パル判事は、戦争が主権国家の交戦権の行使である以上、戦勝国が「平和にたいする罪」や「人道にたいする罪」という事後法で敗戦国を裁くのは違法と主張した。
 これが、英国法曹界の重鎮ハンキー卿に支持された結果、東京裁判は違法という考え方が世界の常識になって、ウエッブ裁判長もこれをみとめた。
 東京裁判が違法だと世界にうったえて、成果をあげた日本人がいたろうか。
 1959年に広島の原爆資料館を訪れたキューバの革命家、チェ・ゲバラは「きみたち日本人はなぜ腹を立てないのか」と憤った。
 以後、キューバでは、毎年8月6日と9日に国営放送で特番を組み、広島と長崎の原爆投下について教えている。
 原爆投下がアメリカの戦争犯罪だと世界にうったえた日本人がいたろうか。

 日本では、戦後、国権を立てて、国家や国民の利益をまもったことがいちどもない。
 日韓併合や従軍慰安婦、徴用工、南京大虐殺問題などで、中国や韓国のデマゴギーにたいして、国家としての反論定説を一つも用意せずに、謝ってばかりいた。
 日本では、主権が国家にあって、国家主権や国家理性、国家意志が不在なのである。
 それが、如実にあらわれたのが、コロナ禍における日本政府の対応だった。
 戦後、最大の国難にあたって、ただのいちども禁止や命令をださなかったのは、原爆投下や東京裁判にたいして、国家主権を立てていちどもモノをいってこなかったこととけっして無縁ではない。
 日本人は、為政者をふくめて、民主主義が最高価値で、主権は国民にあって国家にはないと思っているのである。
 禁止や命令は国家主権の行使である。
 日本では、国家主権の法的根拠を憲法にもとめることができない。
 国家主権が不在の日本では、国民にお願いして、諸外国に頭を下げるしかないのである。
 日韓併合も、大韓帝国一進会の李容九が百万人の署名をそえて、李完用首相に送った「韓日合邦を要求する声明書」(1909年)が発端で、日本が武力侵攻したわけではない。
 ちなみに、この声明書には「これまでの朝鮮の悲劇は、朝鮮民族がみずからまねいたことであり、朝鮮の皇帝陛下と日本の天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、国を発展させようではないか」と記されている。
 なぜ、日本は、国家主権の下で、国益や国民をまもり、外国に堂々とモノをいうことができないのであろうか。
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2020年08月07日

 コロナ後の世界展望と民主主義B

 ●民主主義を国家精神≠ノしてしまった戦後日本
 今回の世界的なコロナ禍で、改めて問われたのは、民主主義の真価だった。
 民主主義の先進国であるアメリカやヨーロッパなどでパンデミック(大規模流行)が発生したのにたいして、中国や台湾、韓国やベトナムなど国家権力がつよい国では、ある程度、コロナウイルスがおさえこまれた。
 コロナ防衛は、民主主義と全体主義のたたかいでもあって三密≠フ回避やマスク着用、ソーシャルディスタンスは、民主主義や個人主義と折り合わない全体主義にもとづいた政策であった。
 したがって、欧米では、外出禁止令などにたいする反対デモが頻発した。
 全体主義は、当然、強制をともなうので、中国や韓国、台湾の罰則のきびしさは、語り草になったほどだった。
 欧米で、全体主義が反発を買うのは、民主主義ではなく、個人主義の風潮がつよいからで、パンデミックに突入しても、マスク着用は半数にみたなかった。
 日本で、マスク着用やハンドウオッシュが徹底したのは、清潔好きの国民性のたまものであろうが、一方、国内からも海外からも不評だったのが、政治的な指導力の欠如である。
 日本政府が強権を発動しないのは、発動すれば、野党やマスコミから非民主的と叩かれる可能性があったからで、事実、60年安保では、全野党・全マスコミが「反安保」ではなく「民主主義をまもれ」と叫んだものである。
 だが、政府・自民党が、コロナ対策に強権をうちださない理由は、それだけではない。
 民主主義を善≠ニとらえ、強制力をともなう全体主義を悪≠ニ見立てる価値観に立っているからである。
 したがって、国家主権や国家理性をふまえた命令″痩ニ的な決断力を下せないのである。

 コロナ後の世界展望において、民主主義を最良の政治手段としてきた時代は終わりを告げたとみてよい。
 コロナ以後、多数決で物事をきめるような情勢ではなくなる。
 今後、世界は、強力なリーダーシップの下で、全体主義的な方向をたどってゆくはずである。
 さて、政治とは、個(個人)と全体(国家)の矛盾を調整する手段である。
「個と全体の矛盾」は、プラトンの大昔から、人々が頭を悩ましてきた大きな問題だった。
 プラトンは、聡明な、たとえば哲学者による独裁を考えたが、全体の利益に奉仕する思想家も権力者も、ついに、あらわれなかった。
 人間が愚かというより、個と全体の矛盾は、こえられない壁として、人類の前に立ちはだかってきたのである。
 そして、近代になって、民主主義が、「独裁よりマシ(チャーチル)」という理由から、政治手段や人民支配の便法としてもちいられることになった。
 日本人には、戦後、GHQがもちこんだ「アメリカ民主主義」の印象がつよいだろう。
 当時、日教組やマスコミ、インテリらは、喜々として、「日本は民主主義の国にうまれかわりました」と叫んだものである。
 だが、かれらは、民主主義が全体主義であることには気づかなかった。
 多数派独裁が、全体主義であることは、すこし考えればわかるだろう。
 49パーセントの少数派を断ち切って、どうして、民主になるのか。
 左翼の宣伝屋は、民主主義は個を大事にするというが、ウソである。
 左翼が大事にするのは、多数派で、レーニンが率いたボリシェビキ党のボリシェビキは、多数派という意味である。
 ヒトラーは、民主主義を利用して独裁体制を打ち立て、人民を虫けらのようにあつかう北朝鮮は、国名に民主主義を謳っている。
 啓蒙思想の一つであるルソーの民主主義は、古代ギリシャの衆愚政治を揶揄したことばで、それがフランス革命の精神になったのは、革命も、衆愚政治の一つだったからである。

 そのルソーも、民主主義が個人のものなどとは、一言もいっていない。
 国民総体の意志(一般意志)が、最高にして絶対の権力(人民主権)となるという内容が革命権とうけとめられただけである。
 ルソーの国民は、一般化された国民で、日本人一億まとめて国民である。
 憲法の国民主権も、国民一般の主権で、一人ひとりの日本人に主権があるといっているわけではない。
 ところが、大方の日本人は、ひとり一人の日本人が主権をもっているように思っている。
 主権は、ソブリンティ(君主権/国権)のことである。
 ソブリンティには、徴兵して戦争をおこす権利、国民を逮捕して、処刑する権利までがふくまれる。
 国民ひとり一人がそんな主権をもっているはずはない。
 もっているというなら、個人が交戦権をもち、他人を処刑する権利をもっているというようなもので、これでは、ホッブスの「万人の戦争」どころの話ではない。
 保守系をふくめて、多くの政治家が、民主主義がなにかりっぱな思想であるかのような錯覚に陥っている。
 そして、民主を優先させて、国益をないがしろにする。
 国民にマスクを支給するのが、民主主義的な政治家のように思っているようだが、国民が首相に望んでいるのは、マスクなどではなく、コロナ防衛という国益に立ったつよいリーダーシップである。
 旅行業界のドン、二階幹事長は「GO-TOキャンペーン」を強引にすすめて受託業者から4200万円以上の献金をうけている。
 国家や国益という大道から外れると、結局、私利私欲の罠に落ちるのである。
 二階は、女系天皇容認の弁に「民主主義、男女同権の世の中に」と口走った。
 民主主義を語る者には、国家や国体、歴史や伝統、国益や国家理性の認識がぽっかりと欠落しているのである。
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2020年07月31日

コロナ後の世界展望と民主主義A

 ●一国主義≠フなかで立ち枯れる日本
 コロナ以降の世界情勢が反グローバリズムの一国主義≠ヨむかっているのはだれの目にも明らかだろう。
 といっても、ブロック経済や欧米が地球上の土地の84%を支配した20世紀はじめの植民地・帝国主義とは異なる。
 国家の支配イデオロギーが、民主主義や自由・平等、平和主義などの空想的な観念論から、国益や自国優位の国家主義や国家理性、あるいは他国敵視政策へ移り変わってきたのである。
 一国主義の兆候は、すでに、コロナ以前からあらわれていた。
 イギリスの「EU離脱」がその一つで、約20兆ドルと世界GDPの約25%を占める欧州連合の一角が崩れると、その一方で、英仏独など欧州の10か国が移民反対をうちだし、欧州ナショナリズムというべきものの存在をみせつけた。
 イスラム圏7か国の入国規制を打ち出したトランプがメキシコからの不法移民を防ぐため国境に3000Kmの壁を建設するなどはばかげた構想に思えるが、中国総領事館(テキサス州ヒューストン)の閉鎖命令と同様、まぎれもない現実である。
 米中貿易摩擦は、将来、米中のどっちが将来的な世界覇権を握るかというテーマでもあって、対立軸が、経済から科学や技術、軍事面にまでひろがっている。
 いちはやく一国主義を打ち出したのは、アメリカのトランプ、中国の習近平、ロシアのプーチンだが、リードしたのは「一帯一路」の習近平だった。
 といっても、アメリカは、ヘッジファンドを主とした国際金融資本を操作して、国際金融危機とりわけ日本のバブル崩壊やアジア通貨危機をつくりだして、アジアから天文学的な利益を貪った、一国主義の先駆者である。
 グローバリゼーションは、かつて、自由主義経済をリードする思想としてもてはやされたが、文化的にはアメリカ化、経済としてはアメリカ金融資本への隷属以外のなにものでもなかった。
 グローバリゼーションが、実際は、アメリカナイぜーションで、これが一国主義の端緒で、これにつづいたのが、中国の元経済圏構想(一帯一路)だったとといえる。

 米中冷戦が、かつての米ソ冷戦と決定的に異なるのは、東西両陣営という対立軸をつくりださなかったことである。
 米ソ冷戦時代は、アメリカが、NATO(北大西洋条約機構)と日米安保体制の盟主として、ソ連に対抗したが、米中冷戦では、このような対立的な陣営化は生じていない。
 世界には、アメリカと中国の二大大国のほかに、日本やロシア、EU諸国や英国、カナダや豪州、ブラジルやインド、台湾や韓国、トルコやイスラエル、UAE(アラブ首長国連邦)やサウジアラビアなどの強国がひしめきあって、各国がそれぞれ相応の軍事力をもっている。
 核保有国は、NPT(核兵器の不拡散条約)を批准しているアメリカとロシア、イギリス、フランス、中国の5大強国と、NPTを批准していないインドとパキスタン、北朝鮮、イスラエルのあわせて9か国あるが、核は、事実上、使用不可とあって、2大強国をふくめて、各国とも独自の安全保障・防衛構想を立てている。
 かつて核の傘≠ニいう考え方があったが、日本を核攻撃した中国にアメリカが核ミサイルで反撃するということはありえない。
 報復の報復によって、アメリカ国民の生命や国家経済や文化が危機にさらされるからである。
 その意味で相互確証破壊の論理は破綻しているが、原爆使用の報復として、経済その他の制裁をうければ、核の被害は、自国にもおよぶのである。
 韓国は、日本の原発を標的にした巡航ミサイル(玄武3B/3C)を配備しているが、日本も、F-35などに搭載できる国産巡航ミサイルで敵射程外から報復(敵基地攻撃)できる体制をすすめている。

 一国主義において、国家の防衛や安全、繁栄をまもるには、確乎たる信念や自信、使命感がなくてはならないが、その背景にあるのが愛国心や同胞愛、民族や歴史にたいする誇りである。
 それが国をまもる気概で、戦後、日本が失ってしまったのが、自国は自国でまもるというモラルや独立心、自尊心だった。
 自国防衛のモラルを捨て、国防をアメリカに依存する腑抜けた姿勢を平和主義と呼んできたが、実際は、平和ボケで、精神の退廃である。
 この精神のゆるみが、新コロナウイルス対策にもあらわれて、日本はコロナ第二波≠フ脅威にさらされておる。
 日本は、協力要請だけで、これまで、コロナ防衛で、いちども命令を発令していない。
 命令という強権をふるうには、国家や国民を思うつよい決意や情熱がはたらかなければならない。
 安倍首相は、マスクの2回目の給付をきめて不評を買い、二階幹事長は「GOTOキャンペーン」で墓穴を掘った。
 命がけで国家をまもる気がないので、強権を発動することができず、一方、利権や既得権の確保には気がむくのである。
 世界が一国主義という戦国時代にむかうなか日本だけが平和ボケ≠ニいうぬるま湯に浸ったままなのである
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2020年07月20日

コロナ後の世界展望と民主主義@

 ●国を挙げてコロナと戦えない脆弱さ
 大阪府警は、売春防止法違反(周旋)の疑いで、大阪・ミナミのホストクラブ経営者、田中雅秀ら3人を逮捕した。
 田中らは、クラブの遊興代金を支払わせるため、女性客に売春させたもので、被害女性が府警に駆け込んで事件が発覚した。
 府警保安課によると、女性は18年10月から1年2カ月にわたって愛知県内のビジネスホテルに監禁状態で、1日10万円の売春ノルマを課せられていたという。
 女性は約2200回にわたって売春させられ、田中らは、売春の代金約2900万円の大半をとりあげていた。
 女性は「たびたびホストクラブに連れて行かれ、じぶんのツケがいくらかわからないまま売春させられた」という。
 ホストクラブ女性客に高額なツケの代金を請求して、売春を強要するケースは、ホスト業界では、日常茶飯事である。
 ホストとのセックスを目的に来店する女性客の90パーセントはホステスで、売春に抵抗がない風俗関係者もすくなくない。
 ホストの志願者は、女性とセックスができる、高収入が期待できるとあって、人気業種だというが、このホスト業界が、現在、第二次コロナ流行の最大の汚染源になりつつある。
 ホストからコロナに感染した客のホステスが、じぶんが勤務している店だけではなく、コンビニやスーパー、美容院などでコロナウイルスをまきちらすのである。
 新型コロナの1日当たり新規感染数を更新している東京都で、感染者290人(7月18日)のうち感染経路不明者が158人にもたっしたが、国立国際医療研究センターによると、積極的な対策を講じなければ、2か月後には100倍以上、2万人近くにのぼるという。
 欧米並みのパンディミックが、恥ずかしい話しながら、歌舞伎町のホストクラブからうまれようとしている。
 3711人の乗客・乗務員のうち712人が感染、13人が死亡した豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号の第一波コロナ流行は自衛隊らの献身的な船内防疫活動で、事なきをえた。
 ところが、今回の歌舞伎町ホストクラブの第二波コロナ流行は、船内感染とちがって、感染者が野放しの市中感染状態で手の打ちようがない。
 クラスター(集団感染)封じは、閉店命令と客や従業員らの隔離しかないが、セックス産業とあって、顧客の把握はむずかしい。
 歌舞伎町にあるホストクラブ約240店のうち、1割を超える約30店で感染者がでているばかりか、10数店で、感染者が5人以上のクラスターが発生しているが、国も都も手をこまねくばかりである。
 東京都新宿区がおこなったPCR検査で、ホストクラブなど夜の街で働く接客業者の陽性率が一般(4%)の8倍の31%にたっしたというが、ホストクラブは、相変わらず営業をつづけている。
 本来なら、国民の健康をまもるため、国や都は、営業禁止命令などの強制的措置をとるべきだろう。
 だが、国も都も、ホストクラブを聖域化して、クラスターをおこした店名すら公表しない。
 人権侵害の汚名を着ても国民の命や健康をまもろうという気概がないのである。
 ふしぎな話だが、マスコミは、全面的にホストクラブ擁護論である。
 読売新聞(7月17日)は、ホストクラブなど16店を所有する経営者(手塚マキ)を好意的にとりあげて「ホストを差別しないで」という彼女の言い分をそのまま記事のタイトルに掲げている。
「ホストクラブがPCR検査を積極的に受けた結果、感染者数が増えているだけ」「都が『夜の街』への注意をうながしたためホストクラブへの風当たりがつよまった」「特定の場所や業種を取り上げて、分断をあおらないでほしい」というのだが、読売は、コロナの危機や国民の健康よりも反差別≠ニいうねじまがった正義のほうが大事なのである。

 和田アキ子が「アッコにおまかせ!」(TBS)で、カリスマホストのROLAND(27)が運営する歌舞伎町のホストクラブの閉店に同情して「がんばって」と熱っぽいエールを連発した。
 個人的にも親しいとみえ、再開まで、移転先の空家賃を払いつづける金満家ぶりに「カッコイイ」と手放しだが、すべてホストクラブで客のホステスからまきあげたカネである。
 和田アキ子は芸能界のドンだが、在日朝鮮人で、時折、日本の成功や発展をよろこばない反日発言をくりだす。
 和田アキ子は大のパチンコファンで、パチンコ「マルハン」のCMに起用されたが、「マルハン」の創業者、在日韓国人の韓昌祐会長は日本の植民地支配に批判的な発言をくり返す反日家で、日本で築きあげた資産(資産ランキング国内22位)の半分を韓国に還元すると明言している。
 韓昌祐がもっていて、日本人がもっていないのが、国家や民族にたいする愛着や敬慕、身びいきの心情である。
 グローバリズムの終焉後、世界は、国家や民族、独自の歴史や文化を軸とする一国主義にむかいはじめた。
 その流れに拍車をかけたのが新型コロナウイルスの大流行で、国家は一国主義とナショナリズムのもとでコロナ防衛にこれ努めた。
 ところが、日本だけ様相がちがった。
 国家や民族などの実体よりも、民主主義や自由、平等や人権、ヒューマニズムなどの観念を大事にするのである。
 国民の命や国家の安全に比べると、女性を食いモノにしているホストの差別など屁のようなものに思えるが、日本で最大の発行部数を誇る読売新聞は、逆で、ホストの人権が大事で、国民の命や国家の安全のほうが屁なのである。
 日本が、コロナ対策で、禁止や強制、罰則のをうちだせないのも、国家概念が風化しているからで、世界の国家が国家が掲げる国家主権や国家理性、国益主義が、日本では、害悪とうけとめられる。
 そして、民主主義や人権、自由、平等がもちあげられる。
 日本人の愚かさは、民主主義や人権、自由、平等をまもっているのが国家だということに思いおよんでいないところにある。
 朝日新聞が半世紀にわたって叫んできた「偏狭なナショナリズム」というスローガンが浸透した結果、若者から社会的に大きな影響力をもつTVタレントまでがコスモポリタン(世界市民主義者)になって、太田光や中居正広ら人気タレントは、憲法9条を信奉する平和主義者である。
 国家などいらない、平和憲法と民主主義だけがあればよいという狂気がこの国を覆って、久しい。
 次回も、この亡国思想とコロナ以後の世界情勢を展望してゆこう。

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2020年07月08日

官僚国家ニッポンの悲劇D

 ●社会保険事務局が工作した静和病院冤罪事件
 2010年3月10日、静岡地方裁判所は、静和病院の吉田晃元院長と水谷信子元事務長に、健康保険法違反と詐欺罪の有罪判決を下した。
 それぞれ、懲役6年6月、5年6月という殺人罪並みの重刑だった。
 だが、この判決で、健康保険法(「15対1入院基本料の施設基準」)違反の具体的事実や違反した数値、証拠や根拠が明らかにされることはなかった。
 それどころか、このとき、静岡地裁は、静和病院一般病棟(55床)の適正看護師数を19人と誤った上で、有罪を宣するという、司法史上、前例のない醜態を演じた。
 適正看護師数は、静岡社会保険事務所が静岡県警に陳述したとおり、9人である。
 なぜ、静岡地裁と静岡地検は、適正看護師数を19人とする致命的なミスを犯したのか。
 平成18年4月以降、新法(15対1入院基本料の施設基準)を適用させるべきところを、旧法(3対1)を適用させたからである。
「3対1基準(旧法)」と「15対1基準(新法)」では、数値が異なる。

 ●新法「15対1入院基本料の施設基準」の適正看護師数=9人
   計算/55床÷15×3(8時間3交代)=10・999…(11人時間)
   ※夜勤2人は16時間勤務のため実質9人
 ●旧法「3対1基準」の適正看護師数=19人
   計算/55床÷3=18・333…(19人)


 本来なら、法令誤認の事実が判明した時点で、原判決破棄の差し戻しとならねばならない。
 だが、司法は、みずからの誤りをみとめようとせず、再審請求は却下された。

 静和病院事件の共犯者で、元院長と元事務長を主犯と告発、執行猶予処分をうけた木口崇は、公判で、静和病院一般病棟55床の必要看護師数を19人と証言している(木口レポート)。
 検察や裁判所が、必要看護師数を19人と誤認したのは、木口証言を真実としたからである。
 木口の第三回公判調書(平成20年〈わ〉第533号)にこうある。
 松枝検察官「15対1の基準というのは、平成18年4月の改正までの基準だと、3対1に相当するわけですよね」 
 木口「はい」
 吉田・水谷裁判の判決文でも「従来の3対1基準に相当する『15対1入院基本料の施設基準』」という文言が幾度となくくり返されている。
 木口は、強制捜査直前、静和病院を退職して、西伊豆病院に転職している。
 西伊豆病院は、吉田晃が、補助金の不正受給があったとして、国会で問題にさせた熱川温泉病院と同系列(社団健育会)の病院である。
 木口が、なぜ、吉田院長と敵対関係にあった健育会系の西伊豆病院へ移ったのか。
 西伊豆病院が木口をとりこみ、静岡県警に協力させて、静和病院院長の吉田晃を陥れたとみるのが自然だろう。

 看護師不足は、行政指導の範疇にあって、ほとんどの行政が放置していた。
 看護師が不足している病院は、山ほどあって、行政指導が追いつかないのである。
 ところが、静和病院事件では、静岡社会保険事務局と県医務室が静岡県警の強制捜査にくわわった。
 理由は、生活法で刑罰のない健康保険法違反を根拠に、強制捜査をおこなうことはできなかったからである。
 強制捜査には、刑法上の犯罪である詐欺容疑が立っていなければならない。
 詐欺罪の前提となるのが健康保険法違反だった。
 健康保険法違反にもとづいて診療報酬の不正受給がおこなわれ、なおかつ、同不正受給が、欺罔(だまし)や計画性にもとづくと判定されて、はじめて、詐欺容疑が成り立つ。
 静岡県警が、強制捜査前に、詐欺容疑を立てることができたのは、静岡社会保険事務局が静和病院の健康保険法違反を認定、告発したからだったのである。
 静岡県警は、看護師数が足りないとする健康保険法違反と、診療報酬の不正受給、詐欺容疑を三重につなぎあわせて、静和病院の吉田院長と水谷事務長を送検、静岡地検は、健康保険法違反を誤認したまま起訴、静岡地裁は、必要な看護師9人を19人と錯誤して、院長と事務長に殺人犯並みの重刑を科したのである。

 でためな判決がまかりとおった理由は、強制捜査に、静岡社会保険事務所がくわわったからだった。
 旧社会保険事務所は、厚生労働省の外局だった旧社会保険庁の傘下にあって、保険料の徴収や保険給付、保険給付裁定、被保険者資格得喪の認定など、国や厚生労働省の健康保険事業を代行する専門機関として、もっとも権威をもっていた。
 社会保険事業の権威である静岡社会保険事務局が、強制捜査にくわわったことによって、健康保険法違反が既成事実とされた。
 静和病院の健康保険法違反は、静岡県警と静岡社会保険事務局の談合だったのである。

 静和病院が強制捜査をうけたのが、平成20年4月である。
 社会保険庁が廃止されたのは平成21年で、同庁の業務は、翌22年、特殊法人「日本年金機構」にひきつがれている。
 年金記録問題などの不祥事や、社会保険庁のオンライン化(平成19年)にともなうコンピュータ入力のミスや不備が多いことなどずさんな管理が国会やマスコミで批判されて、自民党政権が倒れる騒ぎにまで発展した。
 社会保険庁のオンライン化計画にたいして、社会保険職員労働組合が「独占資本のための合理化である」として反対したばかりか、労働強化反対と称して集団サボタージュを正当化させる覚書を取り交わしていたことまでが明らかになった。
 社会保険庁(社会保険事務所)が、当時、健康保険法の正しい適用法を管轄しえただろうか。
 社会保険事務所は、静岡県警の事情聴取にたいして「15対1入院基本料の施設基準」の看護師数が9人であると陳述している。
 ところが、静岡社会保険庁も静岡県警も、検察や司法の法令誤認を見て見ぬふりをして、世紀の大誤審を誘導した。
 静和病院冤罪の原因は、健康保険法を私物化して、静和病院を潰し、無実の吉田元院長と水谷元事務長に殺人罪並みの重刑を誘導した厚生省・旧社会保険庁にあったのである。
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2020年07月05日

官僚国家ニッポンの悲劇C

 ●社会保険事務局の犯罪/静和病院冤罪事件A
 伊豆半島で最大級の病床数(307床)を有していた静和病院(熱川市)は6階建て2棟の大病院で、当時、多額納税の病院として知られていた。
 施設や設備も充実していて、日経新聞(2004年3月8日)に発表された「経営充実度」病院ランキングで、静和病院は、聖路加国際病院ら名門と肩を並べて、全国8位(関東3位)という高い評価をえている。
 その静和病院の院長と事務長に、それぞれ、6年6月と5年6月の懲役刑が科せられた。
 看護師数を規定する健康保険法の違反から診療報酬の不正受給と詐欺罪を推認されたのである。
 看護師が足りないというどこの病院もかかえている問題から、なぜ、そんな重刑がとびだしてきたのか。
 今回は、そのミステリーを解いてみよう。
 ところで、実際に看護師は足りなかったのか。
 源泉徴収簿兼賃金台帳によれば、静和病院では、1日平均60人の看護師が勤務についていた。
 若い看護師助手も約50人以上在籍していた。
 源泉徴収簿兼賃金台帳によると、当時、静和病院には、約82人の看護師が登録されていた。
 看護師の出勤日数は、平均22日なので、1日当たり出勤者数は55人強となる。
 源泉徴収簿兼賃金台帳には、健康保険料、厚生年金、所得税、住民税などの控除額が記載されている。
 給与のほか、勤務日数を記録した給与元帳もついている。
 源泉徴収簿兼賃金台帳をみるかぎり、静和病院に看護師数の不足はみとめられない。
 たとえ、看護師が、多少、少なくても、それが刑事事件に発展したケースは日本の医学史上、前例がない。
 しかも、科せられたのは、殺人罪並みの重刑である。
 背景にあったのが、県や医療行政との摩擦であった。
 医療費の不正受給については、通常、社会保険事務所と医療機関のあいだで手続きがおこなわれ、返済や課徴金などで行政処理される。
 げんに20億円に上る診療報酬を不正受給していた静岡県の熱海温泉病院や50億円をこえる不正受給が発覚した愛知県の医療法人「豊岡会グループ」ですら、責任者の逮捕、起訴にはいたっていない。
 院長と事務長に重刑が科されたこの静和病院事件で、不正受給したとされる診療報酬金額は8700万円である。
 豊岡会グループ50億円の57分の1である。
 にもかかわらず、院長と事務長に重刑が科された。
  静岡県にとって、静和病院は、もともと、厄介な存在だった。
 静岡県は、静和病院の療養病棟252床を老人ホームにきりかえるようもとめた。
 入院患者のほぼ全員が県外からの移入者であるにもかかわらず、静和病院が保有する307床によって、静岡県が、病床数の制限(基準病床数制度/厚生労働省)をうけるからだった。
 吉田晃はこれを拒絶した。
 静和病院に、静岡県警と静岡社会保険事務所、県の医療課による合同捜査が入ったのは、その数か月後である。

 平成13年、吉田晃は、元県知事の秘書を介して、民主党の木下厚に、熱川温泉病院の補助金問題を国会(第153回衆議院厚生労働委員会)で取り上げさせた。
 そして、熱川温泉病院から補助金6億円を返還させた。
 このとき、木下代議士はこんな質問をおこなっている。
「もう一つ。この熱川温泉病院を経営している健育会は、全国に九つの病院やクリニック、特別養護老人ホームをもっています。このグループにはさまざまなうわさがあります。先代の理事長は茨城県出身です。そこから、茨城県出身の厚生族の大物国会議員がバックにいるということで、かつて、何回も問題になったことがあります。今回の案件について、政治力がはたらいたのではないかという指摘がありますが、その辺はどうですか」
 茨城県出身の大物国会議員というのが、熱川温泉病院と顧問関係をむすんでいた厚労族のドン丹羽雄哉(第75・83・84代厚生大臣)である。
 補助金を取り上げられた熱川温泉病院の遺恨は深かった。
 それ以上に腹を立てたのは丹羽雄哉だった。
 顔をつぶされた上、国会で難癖までつけられたのだ。
 さらに吉田晃は、静岡空港(平成21年開設)の反対運動を支援して、計画をすすめていた石川嘉延知事を激怒させている。
 石川知事は、熱川温泉病院の民事訴訟で、保健衛生部医務課長とともに被告席に座らされてもいる。
「静和病院をつぶしてやる」
 元静岡県山本敬三郎知事の秘書で、熱川温泉病院の補助金問題で国会質問をしかけた吉田院長のパートナー、飯田忠雄は、石川知事の呪詛のことばを耳にしている。
 決定的だったのは、静岡県とやりあって、税金(所得税)の納付先を大阪にきりかえたことだった。
 県に逆らい、県の利益になんら貢献しない静和病院など、静岡県から消えてくれたほうがよかった。
 静岡県にとって、静和病院は、怨恨の対象でしかなかったのである。
 ちなみに、飯田元秘書は、その後、自殺をとげている。
 静和病院が強制捜査をうけたのが、平成20年4月である。
 社会保険庁が、連発する不祥事のため、廃止されたのは平成21年で、同庁の業務は、翌年、特殊法人「日本年金機構」にひきつがれている。
 社会保険庁(社会保険事務所)が、はたして、健康保険法の正しい適用法を指導しえただろうか。
 次回は、社会保険庁に静和病院の健康保険法違反を告発する資格があったか否かを問おう。

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2020年07月01日

官僚国家ニッポンの悲劇B

 ●社会保険事務局の犯罪/静和病院冤罪事件
 伊豆半島で最大級の規模と設備を誇った静和病院(307床)が静岡県警や県医療室、社会保険事務局による強制捜査(100人規模)をうけたのは平成20年(2008年)4月23日のことである。
 数台のトラックがのりつけて、カルテなどの医療や医務、保険関係の資料を根こそぎ押収して、その後の診療や医療業務に支障をきたしたほどだった。
 容疑は、2年前の平成18年4月に改正された健康保険法の違反と同違反にもとづく詐欺罪だった。
 改正された健康保険法(「15対1入院基本料の施設基準」)は、看護師数の規定で、静和病院一般病棟(55床)では、看護師の員数がこの基準に足りていなかったというのである。
 そして、新健康保険法違反にもとづく診療報酬の不正受給が計画的だったとして、詐欺容疑が適用された。
 源泉徴収簿兼賃金台帳によると、当時、静和病院には、約82人の看護師が登録されていた。
 看護師の出勤日数は、平均22日なので、1日当たり出勤者数は60人強ということになる。
 源泉徴収簿兼賃金台帳には、健康保険料、厚生年金、所得税、住民税などの納付額や控除額が記載されている。
 給与明細のほか、勤務日数などの基礎データも記録されている。
 看護師の勤務実態を知るにあたって、源泉徴収簿兼賃金台帳以上に信憑性がある資料はない。
 源泉徴収簿兼賃金台帳をみるかぎり、静和病院において、全病棟にわたって看護師の不足はまったくみとめられない。
 ところが、吉田晃院長と水谷信子事務長に、有罪判決が判決が下された。
 罪状は、看護師が足りなかったとする健康保険法違反、および、同法違反にもとづく詐欺罪である。
 しかも、殺人罪並みの重刑で、吉田晃は懲役6年6月、水谷信子は懲役5月6月で、静和病院は、その後、廃院となって、巨大な廃墟が野ざらしになっている。
 看護師数が足りなかったかもしれないという、どこの病院でもかかえている容疑でこの仕打ちである。
 ちなみに、再審請求(榎本哲也弁護士)においては、看護師数が足りていたことが完全に証明されている。
 驚くべきことだが、本裁判では、看護師の勤務実態を示す唯一の公的資料というべき源泉徴収簿兼賃金台帳が証拠提出されていない。
 源泉徴収簿兼賃金台帳を証拠提出すれば、静和病院に健康保険法違反がなかったと一発でバレてしまうからである。
 有罪にするには、社会保険事務局から、健康保険法違反を宣告してものらうほかない。
 かかる経緯から、静岡県警の強制捜査に、社会保険事務局がくわわることになった。
 健康保険法違反があったか否かを判断できるのは、社会保険庁の地方機関である社会保険事務所だけである。
 健康保険法は、社会保険事務所の専管事項で、違反の判断から処分方法まで国から一任されているからである。
 健康保険法は、解釈や適用、手続きなどが複雑で、社会保険庁の判断に拠るしかない。
 強制捜査に社会保険事務所がくわわったのは、静和病院の健康保険法違反を既成事実とするためで、静岡社会保険事務所は、こうして、静岡県警の下請けとなった。
 なぜ、静岡県警が静和病院つぶしにまわったか、その事情や背景については、次回、詳説しよう。
 
 健康保険法のような社会法を根拠に、強制捜査をかけることはできない。
 警察が強制捜査をかけるには、詐欺罪のような刑法にもとづかなければならない。
 事実、静岡県警は、強制捜査に際して、詐欺容疑を立てている。
 詐欺罪を成立させるのは、健康保険法違反が確定していなければならない。
 健康保険法違反にもとづく診療報酬の不正受給が計画的だったことが明らかになって、はじめて、詐欺容疑が立つ。
 静岡社会保険事務所は、静岡県警に、静和病院が健康保険法に違反していることを担保するために強制捜査にくわわったのである。

 強制捜査の2か月前、静岡社会保険事務局は、静和病院の看護師数が足りている旨、静岡県警に報告している。
 静岡社会保険事務局が、平成20年2月26日、静岡県警の「捜査関係事項照会書(下田警察署長小林達視)」にたいして、回答した文書に、つぎのような数値が記載されている。

 看護要員の数:看護師35人、准看護師40人、看護補助者78人

 静和病院の看護師数が足りていると知っていた静岡社会保険事務局は、いかなる根拠、経緯から、強制捜査にくわわったのであろうか。
 ちなみに、平成20年2月26日以降、強制捜査に入った4月23日までの2か月間に、静岡社会保険事務局が静和病院に査察に入った形跡はない。
 それでは、静岡社会保険事務局は、いかなる根拠をもって、静和病院の健康保険法違反を判断したのであろうか。
 わたしは、令和2年2月10日、静和病院元院長吉田晃と同院元事務長水谷信子と連名のもと、加藤勝信厚生労働大臣へ質問状を送付した。
 内容は以下である。

 1、静岡社会保険事務局は、静和病院にたいする静岡県警の強制捜査(平成20年4月23日)にくわわったか否か
 2、静岡社会保険事務局は、捜査関係事項照会書に、静和病院の看護師数を75人と回答した平成20年2月26日以降、静岡県警の強制捜査(平成20年4月23日)までの間に、静和病院へ立ち入り検査をおこなったか否か
 3、強制捜査の段階(平成20年4月23日)で、静和病院(一般病棟55床)に健康保険法違反があると判断した根拠はなにか

 
 イエスかノーか、あるいは、箇条書きですむ回答だが、返事はまだない。
 次回は、静和病院がらみで、政と官が癒着して、日本の政治を歪めていったか、その経緯をもういちどながめてみよう。
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2020年06月22日

官僚国家ニッポンの悲劇A

 ●官僚+官公労がつくった働かない公務員
 藤原弘達が『官僚の構造』のなかで、松本清張の『現代官僚論』を引用している。
 そこにこうある。上級公務員は「仕事については事大主義、消極、保守、非能率」「自己と周囲の関係としては、保身、出世、縄張り争い、派閥と階級性」「外部の下の者、つまり国民にたいしては、不親切、蔑視、支配観念」「自己より上の方には、無抵抗、従順、迎合、卑下、阿諛(へつらい)」といった性格をもっている。
 その他、官僚主義には、一般的に次のような批判がある。
「規則万能(規則にないからできない)主義」「責任回避や自己保身(事なかれ)主義」「秘密主義(情報の独占と隠蔽)「前例主義(前例にないからできない)」「画一的傾向(新しいことはやらない)」「権力主義・権威主義(権威や権力への接近/天皇の官僚からGHQの官僚への転進)」「文書主義(不必要な文書やデータを作成、保管することを業務と心得る)」「セクショナリズム(タテ割り行政や専門外管轄外の業務の回避)」などなど。
 もともと、官僚は、生産性がなく、ひたすら、税金を食うだけである。
 資本の論理や市場原理からも切り離されて、共同体意識ももっていない。
 ということは、モラルや常識、人間性を欠いているということで、かれらの社会的な地位をささえているのは、唯一、学歴だけである。
 どんなに下劣な人間でも、東大法卒で、国家公務員総合職(旧一種)試験に合格すれば天下のエリートで、順風満帆の人生が約束される。

 日本は、大昔から律令国家・太政大臣の国で、官僚は、天皇の手足のような存在であった。
 天皇という絶対権力のもとに権力行為を代行する官僚群がいて、両者の力がかみあって、はじめて、国家がなりたつのである。
 ちなみに、聖徳太子の17条憲法は、天皇に仕える官僚の心構えをのべたものである。
 官僚の究極は「宦官」で、天皇にお仕えするにあたって、去勢までする。
 官僚は、奉仕する相手がいて、存在価値が生じるが、仕える御主人がいない場合、壮大な根無し草になる。
 戦後、霞ヶ関は、天皇の官僚から、もののみごとに、GHQの官僚へと豹変した。
 GHQが驚いたのは、官僚の優秀さ以上に、昨日まで憎き敵だったGHQに献身的に尽くす官僚の変わり身のはやさだった。
 御主人が天皇であれ、軍部であれ、GHQであれ、官僚は、下僕であるかぎりにおいて、もちまえの能力をいかんなく発揮する。
 官僚が仕えるのは、天皇や軍部、GHQのような絶対権力で、寄り添う権力が大きいほど、えられる権限や権益も大きくなる。
 官僚に異変がおきたのは、サンフランシスコ講和条約がむすばれてGHQが日本から去ったあとである。
 官僚は、GHQという御主人様を失って、宙ぶらりんの状態になった。
 官僚が仕えるべき新しいご主人は、国民でも自民党政権でもなかった。
 エリート官僚に公僕精神などという殊勝な心構えなどあるはずもなかった。
 天皇が象徴となって、GHQが去った戦後日本で、官僚は、主人をもたない強大な権力機構として、霞ヶ関にそびえたった。
 そして、官僚は、みずからを主人として、官僚の、官僚による官僚のための政治を開始する。
 日本の戦後政治の主役は、永田町(政界)ではなく、霞ヶ関(官界)だったのである。

 戦後日本で、もう一つ、激変したのが労働運動、組合活動だった。
 1947年2月1日に実施される予定だったゼネラル・ストライキは、共産党と労働組合幹部による「民主人民政府」の樹立をめざしたもので、GHQのマッカーサー最高司令官の中止命令がでていなかったら、吉田内閣がふっとぶどころか、革命がおきていたかもしれなかった。
 日本共産党やマルクス学者らに指導されてきた日本の組合運動は、賃上げや労働者の権利拡大をこえて、共産主義革命をもとめるもので、当初、GHQがめざした日本の民主主義化とは方向が異なっていた。
 日本の組合運動は、ブルジョワ革命(民主主義化)を一足飛びした社会主義革命で、つねに、政権奪取を視野におさめている。
 英米の労働運動とはちがって、日本の組合活動は、後進国並みの階級闘争や文化大革命のおもむきがつよいのである。
 公僕意識を捨て、左傾化した権力組織が、自治労(全日本自治団体労働組合)と国公労連(日本国家公務員労働組合連合会)などで、赤旗を振って転落した官がおこした事件が消えた年金≠フ「年金記録」問題だった。
 資本主義において、勤労は、美徳であり、冨の源泉である。
 ところが、マルクス主義では、勤労や労働は、資本家に搾取されるものとあって、労働者は、立ち上がって、資本家を倒さなければならない。
 このアンモラル(不道徳)なマルクス主義が、5000万件の年金とともに社会保険庁を消滅させたが、赤化官僚は、懲りることなく、シロアリのように日本という国の大黒柱を侵食している。
 男女共同参画社会基本法や人権法案から、外国人参政権法案や外国人参政権法案、道州制や夫婦別姓、皇室の民主化まで、反日法案を陰ですすめているのは役人である。
 マスコミ(日本マスコミ文化情報労組会議)から官庁(自治労・国公労連)にいたるまで、日本および日本人は、組織的な左翼組合運動に脅かされつづけている。
 日本人は、日本が、マルクス主義という前世紀の亡霊に食い荒らされていることにもっと注意ぶかくあってよいだろう。

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2020年06月16日

官僚国家ニッポンの悲劇@

 ●日本を「IT後進国」にした官僚と労組
 新型コロナウイルスの影響で売上高が半減した中小企業に最大200万円を支給する「持続化給付金」の民間委託に不信の声があがっている。
 1つは、経済産業省が大手広告代理店の電通に丸投げした事業内容や構造が不透明なことと、給付金の支給が、例によって、遅滞していることである。
 2020年4月、経済産業省は、競争入札で一般社団法人サービスデザイン推進協議会へ「持続化給付金(769億円)」の委託をきめた。
 するとサービスデザイン推進協議会は、これを電通に再委託(749億円)した。
 そして、電通は、子会社5社に再々委託して、さらにそこから人材派遣会社パソナやITアウトソーシングの大手のトランスコスモス、大日本印刷などへ業務が外注された。
 サービスデザイン推進協議会ばかりか、電通の子会社らも、それぞれ、コミッションを抜いていたわけだが、国家の給付金事業に、多くのエージェントがくちばしをつっこんで利を漁る構造はいただけない。
 しかも、競争入札で指名をうけて、20億円を中抜きしたサービスデザイン推進協議会が、電通やパソナらがつくったペーパーカンパニーだったというのでは、この丸投げが、経産省ぐるみの悪だくみだったと白状したようなものである。
 もう1つは、業務の遅れで、全国民に一律10万円が支給される「特別定額給付金」と同様、事務処理に手間取って、振込みが遅々としてすすんでいないことである。
 アメリカでも、1人当たり最大1200ドル(約13万円)の給付金支給がきまったが、トランプ大統領が関連法に署名した半月後、対象者約8000万人の銀行口座へ現金が振り込まれた。
 ドイツでは、総額約7500億ユーロ(約90兆円)の経済対策を決定したのち、従業員の解雇や経営破綻を防ぐため、簡素化したオンライン申請方法を導入して、大半の対象者が、申請から2日後に助成金を受け取ったという。

 日本で、行政の事務処理が滞る最大の原因は、デジタル化の遅れにある。
 海外メディアは、厚生労働省と全国の自治体が、PCR検査のデータの一部をファックスでやりとりしている事実を、驚きをもって報じた。
 韓国の『中央日報』は日本を「IT(情報技術)後進国」と断じたが、その根拠の一つとされたのが、ITを知らない「IT政策担当相」の竹本直一(元建設省キャリア官僚/79)とパソコンを使ったことがないサイバーセキュリティー戦略本部担当相(五輪担当相と兼務)の桜田義孝(70)の登用だった。
 世界は「IT(情報技術)」や「AI(人工頭脳)」、「5G(第5世代移動通信システム)の時代で、欧米と中国の全面対決に韓国やアジア諸国が参戦する構図になっているが、日本は、世界から一周遅れとも二周遅れともいわれている。
 素材や部品、工作機械で、世界経済をリードする日本経済が、なぜ、ITやAI、5Gの分野で、ここまで、後退してしまったのであろうか。
 そのことと、日本が、世界の最たる官僚国家であることを切り離して考えることはできない。

 2007年、国会で、登録者が不明な年金記録が5000万件にもたっすることが明らかになって、大問題となった。
 年金記録漏れの原因は、手書き原簿からコンピュータに入力する際のミスが原因で、責任は、すべて、当事者たる社会保険庁にある。
 といっても、実際にパソコンを使って作業をおこなったのは、社会保険庁の職員ではなく、アルバイトの主婦や学生だった。
 社会保険庁の職員が、国民年金のオンライン化計画という重要な業務をアルバイトにまかせっきりで、十分な管理もおこなわなかったのは、コンピュータ導入にあたって、社会保険庁と自治労がとんでもない覚書を交わしていたからだった。
 その覚書には、労働強化にならない配慮とあって、具体的に「キーボードを45分操作したら15分休憩」「キーボードの入力は1日当たり平均5000字以内」と記載されている。
 5000字は、母音と子音からなる日本語では2500字で、30分ほどの作業で終わってしまう。
 社会保険庁の職員は、それ以上の作業は労働強化にあたると反発、職場に電動式の全身マッサージ器までおいて、残りの時間をサボっていたのである。

 パソコンを労働強化とする思想は、都道府県庁や市町村を仕切る自治労から国家公務員などが組織する国公労連にまで浸透していて、世界を動かしているITやAI分野が、日本の官僚や労働界にとって、民間や資本からのびてくる悪魔の手だったのである。
消えた年金≠アと年金記録問題の主犯は、民主党の支持母体だった自治労にあったわけだが、マスコミは、悪いのは自民党政権だと叩きに叩いて、自民党を政権からひきずりおろして、その自治労が支持する民主党政権を実現させることに成功した。
 世界がITやAIの研究開発に心血をつぎこんでいるさなか、日本の官僚と労組は、拳をふりあげて、ITやAIの排斥を叫び、自民党政権においても、ITやAIがなんのことやらわからない大臣が、IT担当相になるありさまである。
 中国や韓国、台湾などでは、ITやAIの国際的専門家が大勢、国家の担当部署につき、台湾で行政のデジタル化を担当するオードリー・タン(唐鳳)は国際的に名が知られたプログラマーである。
 台湾や韓国、東南アジアで、コロナ対策がうまくいったのは、ITやAIを駆使した行政システムが機能したからだった。
 ところが、日本では「マイナンバー」のオンライン化どころか、登録すら途中でとまっている。
 役人が働こうとしない日本では、左翼組合の追い風をうけて、壮大なる事務の停滞が生じてしまうのである。
 日本の大学や研究機関のITやAIが、世界に比べて、それほど劣っているわけではない。
 ところが、行政権を一手に握る役人は、けっして、民間の組織や団体に協力をもとめない。
 縦割り行政のなかで権限をふりまわしている役人は、ITやAIなどという世界のきびしい風に身をさらすのは真っ平なのである。

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2020年06月08日

国益は正義である――という大原則C

 ●「国際主義」と「民族主義」へ分裂した日本
 近代日本において、盲目的に国際化をすすめたのが、それまで、尊皇攘夷をキャッチフレーズにしてきた薩長の明治政府だった。
 文明開化とは、ヨーロッパ化のことで「西洋のものなら何でもよい」という風潮がはびこった当時、明治政府は、日本土着の文化習俗を「悪弊」「旧習」と切り捨てて、ヨーロッパの猿マネである鹿鳴館文化をつくりあげた。
 日本史のなかで、これほど極端にイデオロギーを豹変させた権力集団は例がない。
 脱亜入欧も、文明開化と同じような意味合いでもちいられるが、福沢諭吉の「脱亜論」とは別物である。
 諭吉の「脱亜論」は、前近代的な支那や朝鮮につきあっていると日本が立ち遅れてしまうという危機感からでてきたもので、入欧ということばはいちども使っていない。
 欧米の文明を吸収すべきだが、それは「一身独立して一国独立する」(『学問のすすめ』)のためのもので、大事なのは、文明開化や民権よりも国権だとする論を、諭吉は、みずからが発行する「時事新報」をとおして主張した。
 第二の「文明開化」が第二次大戦後のGHQ革命だった。
 このとき、アメリカ民主主義とソ連共産主義が同時に入ってきて、戦後日本の思想的混乱は、革命前夜さながらとなった。
 革命がおきなかったのは、天皇がおられたのと、GHQが逆コース(反共路線)≠とったからである。
 このとき、日本国内で、国際主義と民族主義の2つの系統が生じた。
 国際派と伝統派といってもよいが、この2派は、価値観が根本的に異なる。
 そして、この2つの系統が日本に深い亀裂を生じさせて現在に至っている。
 伝統派(民族主義)は、日本人本来の伝統的な価値観で、これはあらためてのべるまでもない。
 問題なのは、国際派で、かれらは、日本人としての魂も価値基準ももたない。
 福沢諭吉が、みずからすすめた文明開化や民権思想を、あえて、国権の下においたのは、もっとも優先されるべきは、歴史や文化、国家の利益だったからである。

 国際派は、国権の真反対にある概念で反日≠ニ呼んでもよい。
 国際派が最大の価値とするのは、マルクス主義から啓蒙主義、新自由主義にいたるまで、すべて、西洋から借りてきた価値基準で、要するに、西洋かぶれである。
 小泉純一郎が皇室典範を変えて、万世一系を否定しようとしたのは、新自由主義にかぶれた改革主義者だったからである。
 戦後の混乱のなかで、特筆されるべきは、憲法学の権威で東大法学部教授の宮沢俊義が唱えた「八月革命説」である。
 日本が戦争に負けて革命がおきたという論で、GHQがつくった日本国憲法を革命憲法と規定して、これを不磨の大典として、戦後の法学界を脳死状態に陥れた。
 日本の司法試験は、宮沢法学とあって、日本の弁護士会は左翼なのである。
 日本の大学はマルクス主義学者の牙城で、日本共産党はマルクス政党である。
 左翼・マルクス主義は、共産党政権志向なので、戦後、日本は、国体をおびやかされつづけてきたのである。
 国際派のもう一つの流れが啓蒙思想で、このなかには、アメリカ民主主義や人権思想、男女平等(フェミニズム)から表現の自由までがふくまれる。
 啓蒙思想が、日本の文化習俗と折り合うことができれば、問題はない。
 自由や平等、権利は、日本人にとって、物珍しいものではなかった。
 ところが、国際派の啓蒙主義は、そんな生易しい代物ではない。
 あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」では、天皇の肖像を焼いて踏みつける映像や特攻隊を愚弄する画像、慰安婦像を表現の自由として扱っているが、表現の自由のメッカといわれるアメリカで、星条旗やキリストの肖像を焼いて、ただですむか。
 東京大学や芸大有志、現代美術画廊らが、文化庁の予算執行停止にたいして異義を唱えているが、予算申請の際、展示内容を偽った大村秀章愛知県知事と監督の津田大介には、詐欺などの刑事罰が適用されるべきである。
 国家侮辱罪やスパイ罪がない日本は、文化テロに国家が予算を騙しとられるほど風紀や規律がゆるんでいるのである。

 自国に絶対的な価値基準を打ち立てられない国際派が重視するのが、海外の評価である。
 今回のコロナ騒動で、その一端がハシなくもあらわれた。
「PCR検査」数が少ない日本のコロナ感染の公式発表は信用できないとする海外メディアなどの評価をもって、マスコミや文化人、タレントらが、日本のコロナ対策にあらんかぎりの嘲罵を浴びせかけたのだが、日本は、世界のなかで、もっともコロナ防衛に成功した国だった。
 日本に、日本独自の価値観や基準があるのは当然で、海外の評価や基準に左右されることはない。
 海外の評価や評判に一喜一憂するのは、じつは、危険な兆候である。
 自民党の甘利明衆院議員が、5月の連休前、ツイッターで、こう綴った。
「東日本大震災でも日本人は世界の尊敬を集めました。要請だけで人的接触をここまで減らせる日本って、やっぱり凄いですね。あと一息です。ゴールデンウィークをステイホームで『さすがニッポン!』って、もういちど世界に言わせませんか」
 愚かにも、世界の目をアテにして、日本人の公徳心や行動倫理を規制しようというのである。
 日本が、コロナ防衛に一応の成功を収めたのは、集団性が高い日本人の国民性や独自の宗教観によるもので、それが日本の内なる根源力である。
 ところが、甘利は「もういちど世界に『さすがニッポン!』と言わせませんか」と外へ目をむける。
 外国の評判を気にかける精神が危ういのは、民族の魂というべき価値基準をもたないからである。
 衆院当選12回で、筋金入りの保守政治家だったはずの甘利が、歴史上前例がない女系天皇をみとめる発言をして、保守層から批判を浴びている。
 女系天皇をみとめれば、その瞬間、王朝が変わって、国体が崩壊する。
 だが、外国人にとって、国体も万世一系も、特殊な文化で、かれらの普遍的な価値観は男女平等である。
 甘利が、女系天皇をみとめる発言をおこなった落とし穴がそこにある。
 伝統をまもる覚悟をもたない者は、国際主義にのまれて、国体や万世一系という国家や民族の価値などどうでもよくなってしまうのである。
 それが、国際主義が大手をふっている現代日本の最大の弱点であり、体制の危機なのである。

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2020年06月01日

国益は正義である――という大原則B

 ●伝統派と国際派に分断された日本
 新聞労連や民放労連、出版労連などをかかえる「日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)」は、2020年3月10日、市民の自由や集会・報道の自由を脅かすとして「新型コロナ対策特別措置法に反対する声明」をだしている。
 もっとも、これは、マスコミに公表されていない。
 万が一、この事実が報道されていたら、マスコミが、新型コロナウイルスとたたかう日本人の敵であることが明らかになって、マスコミと国民のあいだに大きな摩擦や軋轢がうまれたはずである。
 いうまでもなく、緊急事態宣言は、コロナ特措法にもとづいている。
「新型コロナ対策特別措置法」が成立していなかったら、日本は、西浦教授が懸念したように、パンディミックが発生して、日本中、死体の山ができていたかもしれなかった。
 WHO以下、欧米は、安倍内閣が、新型コロナウイルスの防衛に成功したとしぶしぶみとめたが、首をひねっているのが、内閣支持率の低さである。
 欧米では、コロナ禍によって、国家と国民のむすびつきがつよまって、政権支持率が軒並み大幅上昇している。
 日本で内閣支持率が低迷している理由は、表立って、政府の緊急事態宣言に反対できないマスコミ(MIC)が、PCR検査不足から医療崩壊、給付金や支援金、マスク給付にいたるまで、安倍内閣に批判や非難の集中攻撃をくわえたからである。
 ニュースキャスターやタレント、評論家が、「呆れはてた」「開いた口がふさがらない」と、連日、安倍首相に罵詈雑言を浴びせかけ、立川談四楼などは「ブン殴ってやりたい」とまで息巻いた。
 そして「敬意や感謝、きずなの力があれば、かならず、ウイルスに打ち勝つことができます」という首相の真摯なことばをせせらわらって「安倍のどこに危機管理能力があるのだ」と毒づいて、マスコミは、これを立川師匠の苦言としてもちあげた。
 このコロナ禍で、マスコミ関係者は、MICにシナリオどおり、安倍批判に走って、多くの日本人もその尻馬にのって、安倍首相や政府を罵った。
 そして、世界がコロナで甚大な被害をこうむったなか、最小の被害ですんだ功績にたいする評価や感謝どころか、安堵や無事をよろこぶ声すらなかった。

 こんどのコロナ禍で、日本人は、文明論的に、伝統派と国際派に分断されていることがはっきりした。
 自粛と我慢で、コロナ禍をのりきった大方の日本人は、伝統派である。
 かれらは、歴史や伝統、良識や和の心をたずさえた昔ながらの日本人である。
 これにたいして、国際派は、マルクス主義とアナキズム、啓蒙主義の3つにくくられる西洋化された人々で、日本人としての魂をもっていない。
 マスコミ人(MIC)やタレント、評論家や学者、弁護士らがそうで、かれらの価値観やアイデンティティ=心の故郷は、日本ではなく、西洋にある。
 伝統派と国際派は、社会契約説の3人の思想家ホッブズ、ロック、ルソーにそれぞれふりわけることができる。
 伝統派は、自然状態では「万人による万人の戦争」がおこるとしたホッブズの考え方に近い人々で、ホッブズは、必要悪としての国家や君主をみとめた。
 英国も日本も、ホッブズ型の伝統国家である。
 国際派の筆頭にあげられるのは、人間は、うまれながらにして自由で平等としたルソーである。
 だが、民主主義のルソーには、国家観がなく、万民の一般意志をひきうける万人のため人民政府は、フランス革命において、ロベスピエールの恐怖政治をつくりだしただけだった。
 2つ目はマルクス主義インターナショナル(コミンテルン)である。
 マルクス主義は、ルソー主義にユダヤ経典(タルムード)をくっつけただけの代物で、ソ連のコミンテルン日本支部から発展した日本共産党が、天皇制と資本主義の打破を二大テーゼとするのは、日本の歴史や国体が眼中にない国際主義だからである。
 3つ目のロックの社会契約説は、革命権(抵抗権)を容認する間接民主主義(選挙/多数決)で、ロック主義のアメリカ民主主義は、歴史的・伝統的価値をもたない。
 日本国憲法をつくったGHQのニューディーラーが、その典型で、かれらの多くが、伝統を旧弊としか考えられない共産主義者であった。
 国際派の正体が徐々にわかってきた。
 一つは、マルクス主義者で、日本共産党と大学の教職に残存している。
 2つめは、ルソー主義で、民主主義や表現の自由、人権などを叫ぶが、国家や全体性との整合性をもたないので、秩序や全体の利益を害い、他人へ多大な害をおよぼす。
 ルソー主義には、アナキズムやフランクフルト学派(批判理論)がくわわる。
 アナキズムは、革命を忘れた反体制運動で、すべての権威や権力を否定した革命前夜のなかに、人間性の解放をみる。
 フランクフルト学派は、人類を苦しめてきた政治体制を批判することだけが目的で、否定がゆくつく果てに、否定しえない理想郷があるとする。
 3つ目は「八月革命説」の宮沢俊義(東大法学部教授)で、宮沢はGHQがつくった憲法を徹底的に擁護して、左翼でなければ司法試験に合格しない仕組みまでつくって、議会内左翼革命の準備をすすめた。
 以上3つが、日本の国際派だが、かれらには、おそるべき欠陥がある。
 日本を敵視するばかりか、日本を貶めることを善と考えるのである。
 それが露骨にあらわれたのが、今回のコロナ騒動で、マスコミは、海外の情報を根拠に日本のPCR検査や医療体制を非難する一方、成功したわが国のコロナ対策について一言も報じなかった。
 西洋の基準に立って、自国を嘲るのが、国際派で、かれらが金科玉条にするのが、MICも掲げた「言論の自由」「表現の自由」と「男女平等」である。
 次回は、この自由が、いかに野蛮な自由であったかについてのべよう。
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2020年05月27日

国益は正義である――という大原則A

 ●日本スタンダードをもたない悲劇
 欧米で、新型コロナウイルスの感染者、死亡者が爆発的にふえはじめた3月以降、マスコミは、テレビのキャスターやタレント、評論家や医事関係者らを総動員して、日本がコロナ防衛に失敗したのは「PCR検査」をサボってきた安倍首相の責任というキャンペーンを張った。
 新聞社や放送局、出版社を傘下におく日本マスコミ労組(MIC)の意向がはたらいたのはいうまでもない。
 MICは、「緊急事態宣言」の法的根拠となった新型コロナ対策特別措置法に反対声明をだした団体で、政府のコロナ対策に、真っ向から反対している。
 そればかりか、改憲論者である安倍首相を最大の天敵としている。
 マスコミ人が、一斉にPCR神話と反安倍に走ったのは、この空気を読んでのことであろう。
 わたしは、このブログで、3月段階から、押谷仁東北大学教授や西浦博北大教授らの「二段構え」戦略を評価、国民的な理解をもとめてきた。
 二段構えというのは、クラスター(患者の小規模集団)という点≠攻撃したのちに、拡散したコロナウイルスを「三密(密集・密閉・密接)回避」と「ステイホーム(外出自粛)」という面≠ゥら防ごうという挟み撃ちの作戦である。
 日本がコロナ防衛に成功した理由は、CTスキャンとマスクである。
 日本のCT普及率は2位グループの欧米を引き離して第1位である。
 新型コロナウイルスの死因は肺炎で、日本は、初期段階でCTによる肺炎を診断、治療をおこない、コロナウイルスによる肺炎の死亡率を最小限におさえこむことに成功した。
 PCR検査は、あくまで、副次的な手段で、厚労省は、はじめから、すべてのひとにPCR検査をすることは不可能で、有効ではないと宣言している。
 ところが、CTの普及率が日本の数分の1の欧米では、PCR検査を優先させて、CT所見による感染者・重症者の発見を見逃してきた。
 PCR検査による感染者の発見は数百人に一人で、しかも、感染がわかっても治療法や特効薬がなかった。
 PCR検査は、感染者を強制隔離するための手段でしかない。
 その反面、感染能力のある30%の偽陰性が放置されるので、これがパンディミックをひきおこす原因の一つとなった。
 しかも、PCR検査の実施率は、人口比1〜数%とあって、これが、パンディミック防衛に役に立つはずなどなかった。
 もう一つの理由はマスクで、欧米人と日本人では、マスクにたいする感覚が異なる。
 欧米人にとって、マスクは防衛用で、ウイルスから身をまもるためである。
 そこから、布製の繊維では、微小なウイルスの侵入を防ぐことはできないというマスク無効論がでてくる。
 一方、日本人にとってマスクは、飛沫を他人にかけないという他人のためのもので、それが、めぐりめぐって、ウイルス感染者の飛沫からじぶんをまもる自己防衛につながる。
 それが日本のマスク文化で、マスクをしていれば、ソーシャルディスタンスなど必要がない。
 WHOテドロス事務局長をはじめ、欧米諸国も、日本の成功をみとめざるをえなくなったが、分析的な見解をいっさいしめさず「奇妙な成功」で片付けている。
 諸外国が日本にたいして、好意的でないのは、あたりまえの話である。
 競争心や嫉妬心、敵愾心がはたらくというよりも、もともと、自国のことに精一杯で、どこの国も、他国に関心などないのである。
 したがって、外国の基準や評価を自国にあてはめることは、危険きわまりないばかりか、卑屈な売国思想、愚かな属国根性につながる。
 他国の顔色をうかがうのは、朝鮮半島の事大主義と同様、恥ずべきふるまいなのである。
 ところが、今回のコロナ騒動では、日本人は、マスコミ論調にのって、わが国独自の方針や政策を頭ごなしに否定、CT保有率やマスクの習慣など、日本固有の事情、文化的な特殊性にふれることなく、他国がわが国をどう評価しているかという視点のみに立って、自国に批判を浴びせてきた。
 それが、欧米に比較して、PCR検査数が少ないので、コロナ対策が遅れているとやら、感染者数や死者数をごまかしているなどという邪推だった。
 おかげで、安倍内閣の支持率は、コロナ対策を拒否して、死者数が急増しているブラジルのボルソナロ大統領以下となった。

 情報の出所は、外国のメディアや通信社だが、発言者は、ハーバード大学やコロンビア大学などの日本人研究者や日本在住の有識者で、国際派といわれる連中である。
 国際派のきわめつきがマルクス主義で、これに準じるのが啓蒙主義である。
 自由や平等、権利や民主主義は、市民革命の産物で、そこに、表現の自由や言論の自由がくわわって、革命前夜の様相がかもしだされる。
 フランクフルト学派は、別名「批判理論」の呼称があって、体制を批判することによって新しい体制がうまれるという造反有理の理論である。
 今回のコロナ騒ぎで、明らかになったのは、日本人および日本政府の冷静さと、その日本イズムを否定するマスコミ労組(MIC)や外国崇拝の国際派との対立だった。
 この対立の構図から、コロナ騒動をこえて、日本に、さらなる大きな亀裂がつくりだされた。
 女子プロの木村花さんがSNS上の誹謗中傷に耐えられず自殺した。
 一方、自民党の甘利明衆院議員が、女系天皇をみとめる発言をした。
「言論の自由」がひとの命を奪い、「男女平等」が国体を崩壊させる。
 日本という国家が、左翼や啓蒙主義に侵食されて、崩壊寸前なのである。
 次回も、この2つのテーマをふまえながら、新型コロナウイルスとたたかう日本人のすがたをみていこう。
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2020年05月20日

国益は正義である@

 ●日本を蝕むアナキズムという猛毒ウイルス
 新型コロナウイルス感染症にともなう緊急事態宣言が5月14日、39県で解除された。
 東京など8都道府県はまだだが、新規感染者が減少に転じて、終息も徐々に見えてきた。
 14日の記者会見で、安倍首相は「わが国の感染者数や死亡者数は、G7や主要先進国と比較して圧倒的に少なくすんでいるとのべたが、これを好意的に報じたメディアは皆無だった。
 コロナ防衛に失敗したのは「PCR検査」をサボってきた安倍首相の責任と叫んできたメディア、テレビのキャスター、医療関係者、タレントらは標的を失って、こんどは、安倍首相がすすめてきた「検察庁法改正案反対」へ矛先を振ってきた。
 国難といって大騒ぎしたコロナのことはすっかり忘れたようで、安堵の声も医療関係者への感謝のメッセージも聞こえてこない。
 そして、こんどは、検察庁法改正案反対へ一斉に声をあげはじめた。
 コロナのどさくさにまぎれて悪法をとおそうとする安倍をゆるすなという大合唱である。
 爆笑問題の大田光は「タレントも税金払っているのだから政治に口出ししたっていいじゃねえか」とうそぶく。
 だが、ツイッターが900万件を超えてブーム現象となった検察庁法改正案反対は、検察庁への応援歌で、とうてい、政治参加などと呼べる代物ではない。
 検察庁は、行政で、これを管轄下におくのが国政である。
 明治の司法省以来、日本の検察は、起訴有罪率99・9%、アメリカの意向をうけて田中角栄を逮捕、有罪にするなど、これまで、司法を抱き込んでファッショ的な特権をふるってきた。
 検察庁を奉って、別格官幣社にしてしまっては、政治の放棄だろう。
 タレントらが検察を応援するのは、検察が、日本の最高権力だからである。
 立憲民主党も共産党も、首相を逮捕できる検察権力を風化させてならないと力説するが、検察は、偏差値エリートの特権階級で、民主主義や国民主権から切り離された権力の牙城である。
 一方、野党やマスコミ、タレントが目の敵にしている政治家は、われわれが選挙でえらんだわれわれの代表である。
 じぶんたちの代表を足蹴にして、官僚を崇拝するのは、共産党官僚の中国と青瓦台エリートの韓国、霞ヶ関行政の日本だけである。
 この3国には、科挙制度や律令体制の歴史があって、いまなお、学歴偏重の階級意識をひきずっている。
 テレビは、東大生というだけでスター扱いするが、その一方、日本の大学生は、不勉強で、IT(通信技術)やAI(人工頭脳)分野では、中・韓・台のはるか下位、香港やインドネシアにも負けて、パソコンにさわったこともない老人がIT担当大臣をつとめている。

 これらは、みな、根っこは同じで、国家観や歴史観、国益や独立性、発展をもとめる愛国心など、独立国家としての自尊心や気概、行動原理を欠いている。
 国家や国民が眼中にないという意味で、アナキズム(無政府主義)である。
 そして、歴史や伝統、文化の一切を否定する批判主義(フランクフルト学派)に立っている。
 かられは、建設すべき国家も否定すべき歴史ももたないので、左翼ですらない。
 なにも信じるものがなくなったとき、人間は、学歴や特権、外国の権威などにしがみつくものである。
 それが、学歴主義や官僚体制、マスコミ権力、国際主義で、国家への信頼や愛着、信念や自信がつゆほどもない。
 そして、その結果、くらげのような衆愚社会がつくりだされる。
 その一つが「外国は日本をどう思うか」という西洋コンプレックスである。
 韓国が支那に媚びる事大主義なら、日本は、西洋に媚びる属国根性である。
 西洋を模倣して、西洋の顔色をうかがい、西洋の価値観をもちこむ西洋崇拝は、うわべだけをてらう虚栄でしかない。
 虚栄の裏側には、かならず、嫉妬という対立概念がひそむ。
 嫉妬は、権力にたいするねたみやそねみで、西洋に媚びる売国奴が反政府にはしるのは、自国の権力者にやきもちをやいているのである。
 聖徳太子の17条憲法の14条に「群臣百寮、嫉妬有ること無かれ」とある。
 6世紀の大昔から、日本は、虚栄と嫉妬に悩まされていたのである。
 自国を否定して、西洋を崇拝する精神構造は、岩倉具視の西洋使節団からはじまって、大正デモクラシー、GHQのWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)、自虐史観や反日主義にいたるまで、近代日本の一つの骨格になってきた。
 そして、それが「宮沢談話(近隣諸国条項)」や「河野談話(従軍慰安婦日本軍関与説)、「村山談話(大東亜戦争日本侵略説」)、南京大虐殺実在説、日韓併合侵略説にひきつがれた。
 騒いだのが、左翼と反日、国際派だった。
 今回のコロナ騒動も、土台にあったのは、自虐史観と日本悪玉論だった。
 次回は、このテーマを、さらに、掘り下げてゆこう。
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2020年05月08日

憲法の不備と「40万人死亡説」の恐怖C

 ●官僚・学者・マスコミはアナキストの群れ
 かつて、社会党は、労働者の政党で、賃上げ闘争では、しばしば、自民党が経営側と社会党の仲介に立った。
 ところが、社会党は、イデオロギー政党へ変貌して、やがて、消滅した。
 労働組合も、賃上げ闘争を放棄、労働団体から反権力のイデオロギー集団となって、一人当たりGDPが世界比26位に転落する一方、企業の内部留保が460兆円にまでふくれあがるという皮肉な現象を招いた。
 マスコミ労連(MIC)も、生活闘争から思想闘争へ転換した労組である。
 国民が新型コロナウイルスに苦しんでいるなか、人権や報道の自由をタテに「新型コロナ対策特別措置法」や「緊急事態宣言」に反対して、反政府キャンペーンを仕掛けるなど、労組の枠をこえた反国家運動を展開している。
 マスコミ労連という反国家集団が、情報・報道機関を仕切っているところに日本の危機の構造があるといってよい。
 マスコミは、口が腐っても、天敵の安倍政権がコロナ退治に成果をあげたといいたくない。
 それを象徴するのがTBS系「サンデー・ジャポン」(4月26日)における杉村・岸論争である。
「亡くなった方はアメリカ5万人、イタリア、スペイン、イギリス、フランスは2万人を超えている。医療従事者の献身のおかげで、日本は、300人台におさえられている。その意味で、日本は(欧米に)勝っている」
とのべたのは、衆議院議員を1期務めたタレントの杉村太蔵である。
 これにたいして、元経産官僚で、慶応大学院教授、テレビのコメンテーターとして人気者の岸博幸が真っ赤になって反駁した。
 杉村は、現在、慶応大学院の学生で、岸の教え子にあたる。
「全体を考える場合は、死亡者数だけじゃなくて、感染者数、増加数がおさえられているかを考える必要がある。死亡者数が少ない本当の理由がわからないなかで、日本が勝っているというのは正直いってわけがわからない」
 いくら、読み返しても、岸がいっている主旨が理解できない。
 感染者数や患者の増加数、死者数はWHO(世界保健機関)が公表している。
 日本の死者数が際立って少ないのは、客観的な事実で、理由がわからないといっても、清潔好きでボディタッチがすくない日本の風習、GCG(結核予防ワクチン)の効果、CTの普及率の高さ、クラスター殲滅という点≠フ攻撃と三密回避やステイホームという面≠フ防御の成功と、考えられる可能性はいくらでもある。
 死亡者数が少ない理由がわからないから評価を下せないといってしまっては議論にならない。
 岸が、杉村発言を頭から否定したのは、反安倍の論客だったからで、安倍の点数稼ぎになる杉村の発言がゆるせなかったのである。
 総理のご意向文書を本物と主張した前川喜平・前文科省事務次官も反安倍の急先鋒で、「コロナ感染者数は公表の100倍」「PCR検査不足は安倍政権の責任」と告発しつづけている。
 貧困調査と称して、官費を使って売春目的の「出会い系バー」に入り浸って女性と値段交渉をしていた人物が、ネット上で「日本の右傾化を深く憂慮する一市民」「自由と平等と友愛を原理とする社会の実現をもとめて」「日本と世界の未来を危うくするアベ政権の退陣をもとめる」と発言しても、片腹痛いだけだが、岸と同様、支持者が多い。
 その理由は、日本に、アナキズムが深く浸透しているからである。
 アナキズムは、歴史的権威や政治的権力、法的秩序をみとめない。
 その一方、学歴やIQ、身分や知名度、資産などの個人の資質や属性を重視する。
 中国や韓国で、科挙制度がなんども国を滅ぼしたが、なんども復活した。
 権威が不在になると、学歴以外に社会的評価の基準がなくなるのである。
 恩賜の軍刀、銀時計組(陸軍)、ハンモック・ナンバー(海軍)の日本の軍国主義も極端な学歴社会で、連合艦隊参謀長の宇垣纏は、海軍兵学校や海軍大学校の卒業順次がじぶんより下の者へ敬礼も返さなかったという。
 軍部が、天皇よりも学歴の権威を重んじたのは、天皇崇拝は擬態で、天皇を政治利用していたからである。
 日本軍国主義は、数々の失敗を重ねて、滅びた。
 だが、アナキズムというかたちで、戦後、復活した。
 天皇の官僚からGHQの官僚へ豹変した霞ヶ関とGHQによって解放されたのち、要人追放令でがら空きになった大学教授の職にありついたマルクス主義者、そして、労働組合ある。

 左翼は革命を志向するが、アナキストは、体制内に巣食ってゆたかな生活を享受する。
 そして、その一方、体制を批判して、個としての存在のみを主張する。
 いわば、国家の寄生虫で、官僚や大学教授、マスコミ人、弁護士ら生産性のないものたちは、大半が、天皇や国家、 国体が眼中にないアナキストといってよい。
 アナキストが、唯一、信じるのが、学歴やIQである。
 舛添要一(元東大教授)や堀江貴文(東大卒)らが、じぶんのIQの高さをひけらかして、緊急事態法を発令した安倍首相のIQを疑うという論法をくりだす。
 ネットに、岸博幸が杉村太蔵を完全論破したという書き込みがあふれるのもIQ神話で、日本人の多くがアナキズムの信者なのである。
 アナキズムは、学歴偏向で、テレビが、東大軍団、インテリ軍団ともちあげるのは、番組制作者も視聴者も、アナキストだからである。
 ちなみに、IT(情報技術)やAI(人工頭脳)の分野で、日本がアジアで最下位に近いのは、大学生がコンピューターを学ばないからで、ITやAIが国家的な課題になっている中国や韓国どころか、香港やシンガポール、インドネシアからも水をあけられている。

 ベルリンの壁崩壊とソ連邦解体によって、共産主義への幻想はついえた。
 共産主義が人類の理想ではなくなったとき、左翼や反体制派は、アナキズム(無政府主義)とフランクフルト学派(批判理論)へ流れていった。
 無政府主義というのは、革命前夜の不安定な状態のことで、批判理論というのは、体制を批判することは正しいというイデオロギーである。
 両者とも、革命は捨てるが体制破壊は継続するという思想上のテロリズムである。
 それが反映されたのが、反日主義や自虐史観、フェミニズム(男女雇用機会均等法)だった。
 2009年、マスコミ労連支援の下で、ついに、社会主義政権が誕生した。
 当時、メディアにあふれた鳩山由紀夫と民主党への賛辞は、文字が読めない麻生首相へのネガティブ・キャンペーンに対比して、マスコミ史に残るほどの熱狂ぶりだった。
 ところが、政権をとった民主党は、ただひたすら、自民党政治と反対のことをやる愚策をくり返して、自滅していった。
 共産主義という理想を捨て、一方、伝統を足蹴にする宙ぶらりんの政治家の系譜が、村山富市から小泉純一郎、鳩山由紀夫、菅直人らで、それが、日本を被っているアナキズムの正体といってよい。
 民主党は、社会主義的な政党ではなく、アナキズムの政党だったのである。
 国家をみとめない無政府主義と体制を否定する批判理論が合体した亡国の思想≠ヘいまにはじまったことではない。
 反ナチスのフランクフルト学派と、伝統破壊のアナキズムは、日本国憲法をつくったニューディーラーにひきつがれて、憲法に反映されている。
 天皇も伝統も、国家も国体も眼中にないアナキストが、唯一、信奉するのが憲法である。
 国家主権にかかる国家防衛や国家緊急法、国家反逆罪やスパイ罪などの治安条項がそっくり抜けて、国民主権と国民の権利を謳った憲法は、アナキズムのテキストである。
 憲法制定当時、日本の主権者だったGHQの最大の謀略は、天皇を憲法上の存在にして、憲法改正で、廃位を可能にしたことだった。
 そして、自由や平等、人権は、天賦のものというオカルティズムを謳った。
 新型コロナ対策特別措置法や緊急事態宣言に反対するマスコミ労連が憲法をタテにとるのは、アナキストだからである。
 かれらには、新型コロナウイルスよりも、国家の自衛権や治安権、国家緊急法のほうが大敵なのである。
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2020年05月07日

憲法の不備と「40万人死亡説」の恐怖B

 ●コロナ防衛に反対するマスコミ労連
 新聞労連や民放労連、出版労連などをかかえる「日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)」が、市民の自由や集会・報道の自由を脅かすとして、2020年3月10日、「新型コロナ対策特別措置法に反対する」という声明をだした。
 声明文にこうある。
「報道機関は、自らの判断にもとづき、必要な報道をおこなうもので、政府や自治体が、適切に権限を行使し、正確に情報を発信しているかなどを監視する社会的使命があります。その報道機関に法律上の責務を負わせることは、権力監視機能を損なわせる恐れがあります」
「『集会の自由』や『報道の自由』、国民・市民の『知る権利』を脅かし、憲法で保障された基本的人権の侵害につながりかねない法案であり、メディア関連労組として容認することはできません」
 なんという思い上がった言い草であろうか。
 報道機関(メディア)は、コマーシャルや国民からの視聴料でメシを食っている情報会社で、言論・報道の自由を逆手にとって、有名人のスキャンダルや大衆受けのする政府や与党批判、あるいはエロ・グロで部数や視聴率を稼いでいる水商売である。
 立脚する基盤は、コマーシャリズムで、マスコミが、資本(スポンサー)や消費者に媚び、視聴率や発行部数、広告収入に一喜一憂するのは、生産性のない浮き草稼業だからである。
 マスコミ労組は、その情報会社に雇われている勤労者の集団である。
 そのサラリーマン集団が、どうして、権力の監視機能や社会的使命を担っているなどといえるだろう!
 マスコミ労連の思い上がりは、常識をこえているが、経営者や管理職もかれらに手も足もでない。
 マスコミを仕切っているのは「市民の自由や集会・報道の自由」を謳うマスコミ労連だからで、経営側の意向が反映されないのは、NHKが2008年以降、経営陣を財界から招いても反日報道がいっこうにやまないことからもわかろうというものである。

 マスコミ労連(MIC)は、今回の緊急事態宣言には、大反対だが、国民の大多数が支持しているとあって、表立って、反対運動を展開できない。
 そこで、巧みに世論操作をして、3つの争点を立てた。
 @日本はコロナ防衛に失敗したというデマゴギーを流す
 Aその責任は改憲をめざす安倍政権にあるという論調をつくる
 B休業補償をしない緊急事態宣言を暴挙として、これに反対する
 日本がコロナ防衛に失敗したというキャンペーンに使われたのがPCR検査である。
 OECD加盟国36カ国中、日本がPCR検査数でほぼ最下位の35位なのは、SARSでも国内の大流行がなく、疫病を大量に検査する仕組みをもっていなかったからである。
 一方、コンピューター断層撮影(CT)の保有数は世界一で、アメリカなど2位グループの2倍、ヨーロッパの4〜10倍にたっし、解析技術もで欧米を大きくリードしている。
 CTが威力を発揮したのが、新型コロナウイルスの感染者が大量に発生したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」における自衛隊の対応である。
 DP号では、乗客・乗員3711人のうち、712人が感染して、そのうち14人が亡くなっている(4月18日)。
 自衛隊対策班は、感染者を隔離して、船内感染を防ぎ、200人を超える患者を自衛隊中央病院(東京都世田谷)に収容して治療をおこない、院内感染をおこさなかったばかりか、DP号から日本国内への感染拡大を完全に防衛した。
 このときモノをいったんのがCTで、PCR検査でもでてこない3割ほどの「偽陰性」を発見して、しらみつぶしにした。
 ちなみに、PCR検査をおこなってきた欧米でパンデミックがおきた原因の一つが、無自覚で、感染力だけもつ3割の「偽陰性」が放置されたからである。
 入院患者200人の約4割は、無症状や軽症であったが、胸部CT検査では約半数に異常陰影がみとめられて、そのうち、約3分の1は悪化して、肺炎へ移行した。
 PCR検査(遺伝子検査)は、科学的・機械的作業ではなく、人為的な作業なので、臨床性がわるく、7割程度の確率で陰性、陽性が判明しても、それを治療の基準にすることはできない。
 PCR検査で陽性でも、発症するのは2割、重症化するのがさらにその2割で、ほとんどが自然治癒してしまう。
 それなら、重症化するケースに絞って、治療にあたったほうが効率よいのはいうまでもない。
 胸部CT検査は、発症以前に病変を予見できるので、早期治療が可能になる。
 PCR検査は、不安なひとの気休めで、コロナ防衛の役に立たないのである。
 ところが、日本のメディアは、PCR検査を徹底的にやって、コロナ封じに成功した韓国に学べという記事があふれた。
 ところが、韓国のPCR検査は、OECD加盟国36か国中26位で、平均値にもたっしていない。
 のぞんだ国民全員がPCR検査をうけて、陽性者が整然と隔離されたという神話もうそだった。
 PCR検査数が、無作為的な1・17%、欧米の3分の1、トップのアイスランドの10分の1にすぎない韓国が、コロナを制圧できたのは、徴兵制と国民皆背番号(「住民登録番号」)制をIT(情報技術)やAI(人工知能)とむすんだ管理化社会のたまものだったのである。
 マスコミがこれにふれないのは、マスコミ労連にとって、徴兵制も国民皆背番号も天敵のようなものだからである。
 一方、舛添要一や小沢一郎、菅直人、東国原英夫、ビートたけしやヒロミらが「日本はPCR検査をサボってコロナ防衛に失敗した。安倍は引退すべき」「緊急事態宣言の延長で日本経済は壊滅して、死骸の山」(舛添)という発言をくり返す。
 そして、舛添と堀江貴文は、安倍首相のIQ(知能指数)を疑うという論法をくりだし、TVタレントの安倍叩きが加熱する。
 これは安全パイで、かれらが、安倍批判、国家批判をしているあいだはマスコミからご愛顧いただいて、メディアの露出がふえ、スポットライトを浴びることができる。
 マスコミ労連と歩調をあわせるメディアとタレント、視聴者の奇妙な一体感が、日本の危機の構造をつくりだしているのである。
 かつて、西部邁は、酒席で、東大の後輩にあたる舛添要一を評して、ただのアナーキー(無政府主義者)と断じた。
 次回は、アナキズム集団である「日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)」を解剖しよう。

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