2018年05月23日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」45

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(3)
 日本は、神話とはいえ、紀元前660年を国の肇(はじめ)とする伝統国家で、わが国の国のかたち≠ヘ、古代から、昨年、譲位をきめられた125代今上陛下に至るまで連綿とひきつがれてきた。
 同一の体制(国体)を二千年以上もまもってきたわが国の歴史とりわけ古代史において、天皇を中心として、歴史の節目となる大事件がいくつかあった。
 ■3世紀/卑弥呼が邪馬台国(大和国)の女王に就く
 ■3世紀半ば〜7世紀末頃まで(古墳時代)/前方後円墳がつくられる
 ■3世紀半ば〜4世紀末頃/大和朝廷の勢力が全国規模に拡大
 ■527 筑紫国造磐井の乱
 ■587 蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす(丁未の乱)
 ■604 聖徳太子が一七条の憲法および冠位十二階を制定
 ■645 大化の改新(中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を誅す)
 ■703〜745 皇親政治(天武天皇から聖武天皇の頃まで)
 ■729 藤原四兄弟の陰謀によって長屋王自殺(長屋王の変)
 本稿では、天皇の権力がどこからうまれ、どういう経緯をへて、国家へ組み込まれていったのかというテーマを追ってゆく。
 縄文文化の本質は自然合一で、神なるものも自然のなかにひそんでいる。
 縄文の遺伝子というべき自然霊崇拝(アニミズム)をひきついだのが神道である。
 縄文晩期から弥生時代にかけて稲作が入ってくると、自然崇拝から穀霊祭が派生して、シャーマニズムがうまれた。
 それが大嘗祭の起源で、大嘗祭の祭祀主(シャーマン)が大王である。
 覇者が王となるユーラシア大陸とちがい、わが国では、祭祀王であるシャーマンが大王となった。
 この仕組みは、大和朝廷が豪族の連合政権だったことに深い関連がある。
 豪族らが、大王頂点に立つ統一連合体をもとめたのである。
 群雄割拠して、権力抗争に入っていれば、共倒れになっていたか、永遠に争いがつづいたはずである。
 豪族らが共存をはかったのは、稲作によって、食糧を確保できたからで、かれらは、争うより、共同体をつくって、共存する方法をえらんだ。
 その共同体の長は、軍事力をもった豪族ではなく、稲作の守り神、穀霊祭の大祭司(祭祀主)でなければならなかった。
 共同体の長が豪族であれば、その座を狙って、ふたたび争いがはじまる。
 長が司祭主なら、どんな豪族もその座を奪うことができない。
 こうして、大司祭の下に豪族が大連合する政権ができあがった。
 豪族といえども、すべてが、磐石な基盤をもっているわけではなかった。
 支配地で民の支持が薄い場合も、競合相手に立場を脅かされる場合もあったろう。
 大王は、しばしば、遠方まで行幸におよんだ。
 大王を迎える豪族たちは、これを領内に広く知らしめ、大王との深い関係をアピールした。
 豪族が大王をささえたのではなく、大王が豪族の地盤固めに力を貸し、それが、結果として、大王を中心とした中央集権体制の完成に功を奏したのである。
 こうして、権威の下で、権力が連合する特有の政体ができあがった。
 これが権威(国体)と権力(政体)の二元論の原型である。
 すると、この時期、全国で一斉に前方後円墳がつくられた理由もわかってくる。
 地方の豪族らは、大王の直属であることを証明するために、競って、大和朝廷のシンボルである前方後円墳をつくったのである。

 紀元前に「分れて百余国となる(漢書地理誌)」と記されたわが国が紀元150年に至って大乱に陥った(後漢書他)という。
 二元論的体制が、なんらかの理由で破綻したからであろう。
 そのかん事情をうかがわせるのが魏志倭人伝の記述である。
「倭国で男王の時代に内乱があったので、女王(卑弥呼)を立てた」「卑弥呼の死後、男王が立てられるが内乱となって1000余人が死んだため、卑弥呼の宗女13歳の壹與を王に立て、国は治まった」
 中国の史書に倭国の記述があるのはこのころまでで、西暦266年から413年(空白の4世紀)まで、中国史書から、倭国の記述が消えた。
 したがって、文献から、邪馬台国と大和朝廷の連続性や大和朝廷の発展過程やスケール、全国的に前方後円墳がつくられるようになった経緯や事情を知ることはできない。
 国内にも、なんら明確な論説が存在しない。
 歴史実証主義の立場から、史料が存在しないのでわからないというのだが、遺跡を検討するだけで見えてくるものがある。
 奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡がそれである。
 纏向遺跡は3世紀からはじまる前方後円墳発祥の地で、倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている(宮内庁)箸墓古墳のほか行燈山古墳(崇神天皇)、宝来山古墳(垂仁天皇)、渋谷向山古墳(景行天皇)、佐紀石塚山古墳(成務天皇)などの古墳が分布する。
 崇神天皇が即位した3世紀の中ごろは、卑弥呼の時代であり、崇神天皇期の巫女だった百襲姫命を卑弥呼と同一視する説が有力視されている。
 箸墓古墳も、中国史書などによって、卑弥呼の墓とされる。
『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の墓の大きさ(「径百余歩」)箸墓の後円部(約160m)と一致するばかりか、邪馬台国の時代と古墳時代が時間的につながって(3世紀中ごろ)、卑弥呼の死亡時期と重なる。
遺跡が語るもう一つの問題点は、大和朝廷の黎明期である。
 3世紀からはじまる前方後円墳の建設には、土木技術や計画性、指揮能力や人員動員など、高い文明力が必要だが、それには、数百年にわたる国家的文化蓄積があったはずである。
 仮にそれを500年とすると、紀元前2世紀には、国家ができていたことになって、古代のイメージがこれまでのものと大きく変わってくる。
 次回以降、古代史にひめられた国家と天皇の知られざる真実をみていこう。

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2018年05月14日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」44

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(2)
 縄文時代の自然神崇拝からアニミズム(精霊信仰)やシャーマニズム(精霊交信)が派生した。
 天皇の系譜がそこにあるのは、疑いがないところで、その根本に稲作がある。
 収穫率や栄養価、保存性において、奇跡といっていいほどにすぐれた米穀という自然の恵みは、日本に、祭祀(穀霊祭や祈祷)という文化をうみださずにいなかった。
 古代は、カミとヒトが共存していた時空で、合理性のかけらもない。
 生も死もカミが支配するところで、世界が神秘のベールにつつまれていたのである。
 豊作と凶作が自然神にゆだねられていた古代において、自然神と交信できるシャーマンが、権力者以上の力をもったのは、当然で、たとえ、闘争に勝っても、神の怒りにふれて、凶作や天災に見舞われては、どんな権力者も、滅びるしかなかった。
 権力のほかに権威が生じて、支配構造が覇者(軍事力)と祭祀王(天皇)の2系統となった。
 これが天皇の国=日本の最大の特性で、権力構造が、権力(政治)と権威(文化)の二重構造になっている。
 もっとも、権威と権力は、はじめからの二元論の形式をとっていたわけではなく、長い歳月をかけて、分離していった。
 天皇が権威と権力の両方をもった時代と、臣下たる豪族の長が天皇をしのぐ力をもった時代が交錯して、それが、第10代崇神天皇の大和朝廷黎明期から聖徳太子、大化の改新、壬申の乱をへて、皇親政治の第40代天武天皇、皇親政治から藤原氏の摂関政治へきりかわる第42代文武天皇、第45代聖武天皇まで延々とつづく。
 皇親政治が終焉したのは、長屋王(天武天皇の孫)が、藤原四兄弟の謀略にかかって倒れたからだった。
 長屋王は、藤原不比等の娘で、文武天皇の夫人宮子、聖武天皇の皇后光明の皇位への接近に反対して、藤原四兄弟の恨みを買ったのである。

 支配構造が覇者(権力)と祭祀王(権威)の2系統に分離された例は世界に例がない。
 権力と権威の分離は、政治と文化、男性(武力)と女性(巫女)の分離でもあって、西洋では権力の所有物にすぎなかった女性が、日本では、支配構造の一角を占める。
 卑弥呼や壱与、第7代孝霊天皇の皇女で第10代崇神天皇を補佐したモモソヒメ(百襲姫命)、第15代応神天皇の生母で三韓征伐の神功皇后など古代日本では、女性が神秘的な力を有する権力あるいは権威として、敬われていた。
 権力が男性由来なら、天皇の権威は、女性(巫女)由来といえる。
 一神教(ユダヤ・キリスト教・イスラム教)の絶対神(ヤハウェ)は男性であるが、自然崇拝(多神教/神道)の最高神格は女性(天照大御神)である。
 天照大御神を皇祖神とするのが天皇で、伊勢神宮や賀茂神社に、巫女として奉仕される天皇の皇女(内親王)が斎王または斎皇女である。
 天皇と巫女は、もともと、密接な関係にあって、崇神天皇と卑弥呼の関係がそれにあたる。
 天皇は、巫女あるいは巫女的な力を借りて祭祀をおこなうが、天皇の地位は男系相続である。
 女性が天皇になれないのは、血統の継承ができないからである。
 女性の遺伝子はXXで、男性の遺伝子はXYである。
 女系では、Y遺伝子が介在しないので、祖先が特定できない。
 藤原不比等の娘である文武天皇の夫人宮子、聖武天皇の皇后、光明子は神武天皇のY遺伝子を引き継いでいないので、その子が皇位を継ぐと、天皇の祖が宮子や光明子の夫の系統へ移ってしまう。
 長屋王と藤原四兄弟の確執はそこにあって、皇統をまもろうとした長屋王にたいして、藤原四兄弟は、藤原天皇を望んだのである。
 長屋王の死後、藤原四兄弟は、全員、天然痘にかかって死んでしまう。
 長屋王の祟りと噂されたもので、聖武天皇も、恭仁京、難波京、紫香楽宮と遷都をくり返して、長屋王の祟りから逃れようとした。

 神武天皇が即位したとされる紀元前660年は、考古学的には、弥生時代のはじめにあたるが、遺跡も史料もないので、神話の世界である。
 神話もりっぱな歴史で、建国が神話ではない国は、近代になって建国された革命国家以外、一つもない。
 炭素年代にもとづく縄文・弥生時代の年代検証によって、弥生時代の開始が500年さかのぼって、紀元前10世紀前後ということになった。
 紀元前660年なら、すでに水田稲作がはじまり、集落が発展していたはずで、衣食住も、これまでの常識から500年進歩させてよい。
 皇国史観と時代考証が近づいてくるが、そのことは、さして重要ではない。
 歴史は、その歴史を信じてきた人々の歴史でもあるので、神話や皇国史観をうけいれつつ、そこに、合理的な歴史観をかぶせていって、はじめて、本当の歴史がみえてくる。
 注目されるのが日本書紀(崇神紀)に「はつくにしらすすめらみこと(御肇国天皇/初めて国を治めた天皇)」と記されている第10代崇神天皇である。
 日本書紀(神武紀)では、この読み呼称(始馭天下之天皇)が神武天皇にも使用されている。
 それが実史と神話の読みわけで、紀元前660年の神武天皇即位と崇神天皇による大和朝廷の全国展開(四道将軍)は、いわば、歴史の裏と表なのである。
 そこで、クローズアップされるのが、邪馬台国と大和朝廷、とりわけ、崇神天皇と卑弥呼の関係である。
 次回は、邪馬台国の都に比定する説が有力視されている奈良県三輪山近くの纏向遺跡を中心に古代国家のすがたを探っていこう。
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2018年05月07日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」43

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(1)
 古代史は、記録(文字)が残っていないので、伝承や遺跡などから想像力をはたらかせるほかない。
 その意味で、古代史は、歴史というよりおとぎ話で、神話の延長線上にあるといってよい。
 民族の遺伝子的な記憶をさかのぼって、歴史をつくったわけで、その傑作が皇紀2600年の皇国史観だった。
 戦後、左翼や日教組、マスコミが、皇国史観を悪の権化としたのは、筋違いで、否定するなら、皇国史観ではなく、皇国史観を利用した軍部や軍国主義であろう。
 皇国史観は日本民族の文化であって、権力のプロパガンダでも、政治イデオロギーでもないからである。
 文献にもとづくのが歴史学、遺跡にもとづくのが考古学なら、戦後、日本の歴史学が手がかりとなったのが中国の史書(漢書地理志/後漢書東夷伝/魏志倭人伝)だった。
 八世紀のはじめに完成した記紀(古事記・日本書紀)は、伝承なので歴史学の範疇から外れるだろうが、中国の史書も、多くが伝聞で、どこまで信用できるか保証のかぎりではない。
 ■「漢書」地理志(1世紀に書かれた中国の歴史書)
 描かれている日本の時代/紀元前1世紀(日本にかんする最古の史料)。そのころ倭国が100あまりの小さな国に分かれていたと記されている。
 ■「後漢書」東夷伝(5世紀に書かれた中国の歴史書)
 描かれている日本の時代/57年(奴国の王が光武帝から金印が与えられた/その金印が江戸時代に福岡県の志賀島で発見された)107年(倭国の王が後漢に奴隷を贈った)147〜189年(倭国に戦いが多かった)
 ■「魏志」倭人伝(3世紀に書かれた「三国志」の一つ)
 描かれている日本の時代/3世紀ごろ(倭国の様子や習俗、地理や産物、習慣などについて書かれている)。邪馬台国の位置をめぐって、畿内説と九州説が対立してきた。女王卑弥呼が30余の国々をしたがえ統一国家(邪馬台国)をつくったと記されている。

 後漢書から2〜3世紀の倭国に争いが多かった(倭國大亂)ことがわかる。紀元前1世紀に「分かれて百余国を為す(漢書地理志)」とされる倭国は、大乱の時代(147〜189年)を経て、卑弥呼と壱与の邪馬台国に至って安定するまで、戦乱の渦中にあったのである。
 戦乱の原因は、農耕(稲作)社会と集落の成立であった。
 備蓄された余剰生産物をめぐって、武器をもった人々や防御的施設を備えた集落が争い、または統合されて、より大きな政治的な集落(クニ)へ発展していったのである。
 縄文晩期から弥生時代初期にかけて、日本列島で、人類史上、劇的な変化が生じたのは、一粒の種籾が一年で2000粒、2年で400万粒にふえる高い繁殖力の稲作が開始されたからである。
 採集・狩猟よりはるかに食効率が高く、なによりも「余剰」を生み出す稲作が、定住と人口の増加、備蓄と相俟って、社会の原型というべきものをつくりあげたのである。

 ここで、ふしぎなことがおこる。
 2〜3世紀まで闘争をくりひろげてきた倭国が、突如、争いをやめて、統一へむかい、一斉に、ヤマト朝廷への服従を意味する前方後円墳をつくりはじめるのである。
 これが古代史最大の謎で、たたかわずに成立した大和朝廷と、ピラミッドと並ぶ巨大遺跡の前方後円墳が大量につくられたことについて、なにもわかっていない。
 もう一つの大きな謎は天皇で、ヤマト朝廷を統一した天皇について、いまだに、定説が存在しない。
 中国の3史書もそのことにふれていない。
 卑弥呼の死後(248年)、13歳で女王になった卑弥呼の宗女壱与が洛陽に使いを送ったとされる266年以後、約150年間わたって中国の歴史書から倭国にかんする記載が消えた。
 これが「空白の4世紀」である。
 中国の史書がなければ、日本の古代史は暗闇にのまれるのである。
 中国が、晋の滅亡後、南北朝の分裂期にはいってしまったからだが、日本のほうも、国内の統一や建設、治世に精一杯で、外交に手がまわらなかった。
 その4世紀におきたのが、大和朝廷の発展と前方後円墳の建設だった。
 歴史学的にも考古学的にも、大和朝廷と前方後円墳は、大きな謎で、それが天皇とどのようにかかわるのか、そのことにふれた学説も論文も存在しない。
 天皇が穀霊祭(のちの大嘗祭)の祭祀王だったことに思い至れば、その謎が解ける。
 稲作社会は、天候不順や天災によって、集落の全員が飢え死にするリスクを負った社会で、稲作のゆたかさは飢餓の恐怖と背中合わせになっていた。
 天候不順や天災を避けるには、神とつうじる天皇もしくは巫女の祈念に頼るほかなかった。
 古代社会は、神霊に支配された非合理の世界で、当時、米の不作にたいする恐怖から、人々が、シャーマンとしての天皇を敬ったのは、卑弥呼の例をみるまでもない。
 自然崇拝と穀霊への敬い、それが神道の根本で、天皇への畏敬も、そこにある。
 次回以降、卑弥呼の邪馬台国から大和朝廷へつながる天皇の系譜へ目をむけよう。
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2018年04月27日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」42

 ●天皇と国家「勅と法」(13)
 歴史も国家も、合理と非合理の両面からできている。
 理屈で割り切れるものと、理屈どおりにいかぬものが混じりあい、あるいは交互にあらわれて、歴史や国家、世界をつくりあげているのである。
 国家における権威と権力、社会におけるカネと文化の関係がそれで、モノやコトは、その一方で、目に見えない神秘的でふしぎなるものとバランスをとりあっている。
 古代社会や中世の封建制のみならず、現代の社会体制および社会全般においてすら、理屈と理屈で割り切れぬものが、ひろく、深く根を下ろしている。
 初詣や七五三詣、地鎮祭やお祓い、行事や儀式から親子や男女、社会生活における習俗まで、人間や社会を支配しているのは、理屈をこえた、ふしぎなるもので、世界が理にかなったことだけからできているなどというのは、とんだカンちがいである。
「天皇の男系相続には合理的理由や論理的必然がない」といってのけた山尾志桜里は、先の衆院選(愛知7区/無所属)で当選後、ダブル不倫疑惑を報じられた倉持麟太郎弁護士を堂々と政策顧問に起用した。
 それが「合理的理由や論理的必然」のゆきつくところで、常識や恥の意識という社会通念を欠いたガチガチの唯物論なのである。
 共産主義をうんだ唯物論はとっくに滅びたが、日本では、合理主義や論理的思考として、いまなお、左翼や反日主義者の最大の武器になっている。
 共産主義が滅びたのは、心というふしぎなるものを捨てたからで、唯物論が大手をふっているのは、中・朝の共産党国家と日本共産党、日本の左翼アカデミズムだけである。
 日本共産党は「一つの家系(皇室)が日本を象徴する制度が未来永劫つづくのは不合理(日本共産党小池晃書記局長)」という立場に立っている。
 綱領で「日米同盟破棄」「自衛隊廃止」を謳うのと同じレベルの話で、合理や論理を立ててゆくと、現実を見失い、やがて、迷妄の世界へ落ちこんでゆくのである。

 現実が、合理や論理をこえていることを理解しておかなければ、唯物史観や歴史実証主義に陥って、現実や生きた歴史が見えなくなる。
 生きた歴史というのは、歴史の連続性のことだが、歴史学会や法曹界など日本のインテリは根こそぎ左翼で、小泉政権下の「皇室典範に関する有識者会議」の吉川弘文座長(元東大総長)は、誇らしげに歴史の断絶を宣言した。
 いうまでもないが、天皇は歴史的存在で、万世一系は、歴史の連続性と一体である。
 ところが、古代史をみても、天皇中心の国のかたちが見えてこない。
 歴史学者が唯物史観や歴史実証主義に立っているからで、合理や論理をとおして歴史を見ているのである。
 戦後、歴史書から天皇が消え、日本史は、日教組仕込みの唯物史観になった。
 皇国史観が悪の権化になったからだが、天皇は、国家においても歴史においても、合理をこえた最大のふしぎであって、天皇を抜きに日本の歴史を読み解くことはできない。

古代は、原始古代(紀元前)から大和朝廷時代、奈良、武士が台頭してくる平安時代後期(1100年頃)までをさす。
 そのなかから、この国の成り立ちや天皇のすがたを浮き彫りにする出来事を書き出してみよう。
 
 BC 660 神武天皇が橿原宮で即位
 BC 581〜98 欠史八代
 BC 100 楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為る(漢書地理志)
 150 日本で大乱(後漢書他)
 239 邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送る(三国志魏志倭人伝)
 248 卑弥呼が死、壱与が女王に(三国志魏志倭人伝)
 527 筑紫国造磐井の乱
 587 蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす(丁未の乱)
 593 聖徳太子が推古天皇の摂政に
 604 一七条の憲法制定
     一条 以和為貴 和を以って貴しとなし
     三条 承詔必謹 詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め
 607 隋の煬帝へ「日いずる処の天子」(小野妹子・遣隋使)隋書
     日出る処の天子 書を 日没する処の天子に致す 恙なきや
 608 遣隋使「東の天皇 敬しみて 西の皇帝に白す」
 645 大化の改新(中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺す)
 663 白村江の戦い 朝鮮半島から撤退
 672 天智天皇の弟大海人皇子(天武天皇)が大友皇子を倒す(壬申の乱) 
 701 大宝律令がつくられる
 703〜745 皇親政治(天武天皇から聖武天皇の頃まで)
 720 長屋王政権 藤原不比等が薨去。
 729 藤原四兄弟の陰謀によって長屋王自殺(長屋王の変)
 866 藤原良房が摂政、藤原基経が関白となる
     摂関政治がはじまる
1016 藤原道長が摂政となる
     摂関政治の全盛期
1086 白河上皇が院政を開始
     武士の台頭

 次回以降、この古代略史にそって、天皇のすがたに迫ってゆく。
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2018年04月19日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」41

 ●天皇と国家「勅と法」(12)
 士族の反乱は、秩禄処分や征韓論をめぐる内紛だけが原因ではなかった。
 徴兵令(1873年)や廃刀令(1876年)などで士族の特権を根こそぎ奪われた武士が反革命ののろしをあげたのである。
 そこから、士族・武士が主人公ではなかった明治維新の性格がみえてくる。
 明治維新には市民革命の要素が大きい。
 市民にあたるのが、薩長土肥の足軽・中間以下で、イデオロギーにあたるのが文明開化やヨーロッパ化である。
 維新の志士たちが身分や幕藩体制をあっさり捨てたのは、伝統や体制の守護者ではなく、百姓上がりの雑兵だったからである。
 その象徴が明治政府軍(官軍)と会津藩・奥羽越列藩同盟・徳川旧幕府軍がたたかった会津戦争で、薩長土肥の官軍が残虐のかぎりをつくしたのは、官軍兵士が、士族にあらざる中間や百姓(兵)ばかりだったからである。
 戊辰戦争では、結局、千年の伝統をまもってきた武士は、幕府や藩とともに打倒される。
 勝ったのは、天皇を担いだ薩長土肥の雑兵で、天皇を奪われた武士は、幕府や藩ともども、明治維新という新体制の外へ放り出された。
 不平士族の反乱は、佐賀の乱につづいて、熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱、山口で前原一誠らによる萩の乱などがつづき、1877年には西郷隆盛を慕う私学校の乱、最大規模の内戦となった西南戦争がおこる。
 西南戦争では、政府軍が、兵数や装備、兵站などで西郷軍を圧倒していたにもかかわらず、西郷軍と同等の戦死者数、戦傷者数を出した。
 武士としての熟練度が低かったためである。
 熊本城に篭城せず、京をめざしていれば、途中、武士の大量参戦がみこめただけに、反革命クーデターが成功していた可能性が大きかった。
 西郷が京をめざさなかったのは、東征が天皇への反抗となるからだった。
 天皇を担いだ薩長明治政府の戦略が、結果として、功を奏したのである。
 士族の反乱が平定されたことで、明治維新後の日本は、武士の国から平民の国へとうまれかわって、近代化・ヨーロッパ化のみちをひた走る。
 西南戦争は、皮肉にも、薩長土肥出身者による藩閥を生み、日本のその後の富国強兵政策の礎になったのである。

 明治維新によって、権威としての天皇は失墜して、権力へとりこまれる。
 権力をにぎったのが、それまで、権力に近づいたことのなかった足軽以下の下層階級だった。
 天皇をとりこまなければ、とうてい、天下へ号令をかけることなどできない。
 明治新政府にとって、尊皇も攘夷も、口先だけで、頭にあったのは、天皇の政治利用だけだった。
 尊皇も攘夷も、朱子学や水戸学、国学にもとづく上級武士のもので、真の尊皇家が徳川慶喜なら、真の攘夷思想家は孝明天皇だった。
 尊皇や攘夷思想は、文化で、教養や品格、身分に宿る。
 一方、文明は、権力や冨、物質主義などの唯物論で、無教養で下品、身分の低い者は、先を争って、これに走る。
 それが、文明開化やヨーロッパ化、華族制度や鹿鳴館風俗、帝国主義や軍国主義で、それが災いして、日本は、百年もしないうち、1945年の国体の危機を招く。
 天皇を国家元首に立てる帝国主義においては、天皇が戦争責任を負わざるをえず、事実、日本は、敗戦よって、国体解体の危機にさらされた。
 この危機を救ったのが日本国民だった。
 終戦直後の1946年、新聞各社の協力の下で日本輿論研究所がおこなった「天皇制」のアンケート調査で、95%が「支持」と回答(支持3174票/支持しない174票)した。
 このアンケート結果に驚いたのが、GHQとりわけマッカーサー元帥だった。
 欧米の常識では、戦争に負けた場合、戦争責任者は、国外へ追放されないまでも、国民の支持を失って、失脚する。
 マッカーサーは、このとき、日本統治を成功させるカギが天皇にあると気づき、極東委員会(GHQの上部機関)がもとめる天皇処罰論を退ける一方、憲法で象徴天皇を打ち出して、極東委員会を沈黙させた。

 天皇への支持率95パーセントのなかに天皇の本質がある。
 天皇が権力者や宗教的権威であったら、95パーセントの支持率などありえない。
 まして、終戦直後で、日本人の多くが、肉親や家屋、財産を失い、食糧難に苦しんでいた。
 それでもなお、日本人のほぼ全員が天皇に敬愛の意を表し、驚くべきことに1946年から1954年までつづいた昭和天皇の巡幸中、一度も不敬事件がおきなかった。
 この奇跡のような事実を合理や論理で説明することはできない。
 日本人は、有史以前から、天皇という不可思議なる存在を、合理や論理で切り刻むことなく、ありがたいもの、かたじけないものとして、大事にしてきた。
 お伊勢参りをした西行は、その神々しさに胸を打たれて、こう詠んだ。
 なにごとの おはしますか 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
 それが日本人の民族の心である。
 元検察官で立憲民主党所属の衆議院議員、山尾志桜里はかつて「天皇の男系相続には合理的理由や論理的必然がない」とのべ立てた。
 天皇への敬愛心は、非合理や非論理・無論理そのものである。
 人生も、芸術やインスピレーション、愛や信仰、神話などの不可思議なものにつつまれている。
 合理的理由や論理的必然などで説明がつくものは、ただの唯物論で、つまらないものと相場がきまっている。
 それが明治維新のヨーロッパ化政策で、鹿鳴館時代、浮世絵などの伝統的な文化遺産の多くが海外へ流失した。
 海外の文明に比べて、日本の文化は拙く貧弱という民族的コンプレックスがはびったのである。
 次回は、日本が、歴史上、政治(合理)と文化(非合理)の折り合いをどうつけてきたのかみていこう。
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2018年04月12日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」40

 ●天皇と国家「勅と法」(11)
 明治維新は、複雑な経緯をたどった政変で、いまなお歴史的評価が定まっていない。
 江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が明治天皇に政権を返上して大政奉還(1867年)が成ったところで維新の目的は達成されたはずで、鳥羽・伏見の戦い(1868年)の引き金になった旧幕府勢力への強権圧迫は、まったく必要がなかった。
 まして、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟への常軌を逸した弾圧は、維新の本筋から逸脱しており、戊辰戦争にいたっては長州征伐の事実上の復讐でしかなかった。
 維新運動は、朝廷(公)の伝統的権威と幕府および諸藩(武)の世俗的権力をむすびつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとする公武合体論が主流だった。
 それで明治維新が決着していれば、日本の近代化はまったくちがった道筋をたどっていたろう。
 1、武家政治がひきつがれた
 2、ヨーロッパ化(鹿鳴館・身分制度・帝国主義)のみちをたどらなかった
 3、天皇の政治利用(元首・明治憲法)はありえなかった
 ところが、歴史の歯車は、公武合体論に与しなかった。
 幕府信任の信念を変えなかった孝明天皇の崩御にともなって、薩長や公家の倒幕派が台頭、徳川慶喜の新政権参加が葬られると、公武合体論は政治生命を失い、以後、明治維新は、薩長土肥による討幕運動へつきすすんでゆく。
 主役は、孝明天皇暗殺の下手人とささやかれた岩倉具視で、薩摩・長州への「討幕の密勅」を工作するにいたって、明治維新は、政変から謀略へとすがたをかえてゆく。

 明治維新が政変から革命へと変容したのは、薩長らの下級武士が天下取りに走ったからで、その口実になったのが、尊皇攘夷だった。
 天皇を尊び、外敵を斥けようという尊皇攘夷は、水戸学や国学に影響を受けた維新期の政治スローガンで、公武合体と対立する。
 公武合体で、幕府と朝廷がむすべば、京都や江戸から遠く離れた薩長土肥の出番がなくなる。
 まして、同藩下級武士ともなれば、天下とりなど思いもおよばない。
 薩長の下級武士が尊皇攘夷を叫んだのは、公武合体をつぶす方便で、かれらの目的は倒幕だった。
 薩長土肥の下級武士が尊皇攘夷という政治スローガンを背負って台頭、これが明治維新のエネルギーとなったのは、天皇を立て、みずからを天皇の軍隊(官軍)と名乗る以外、江戸三百藩の大名とその家臣団を統率する方法がなかったからだった。
 この階級闘争が成功して、藩を廃止して廃藩置県(1871年)まで改革が一気にすすんだのは、薩長の下級武士が天皇をとったからで、幕府との抗争では「タマ(天皇)をとれ」が薩長の合言葉だった。
 下級武士といっても足軽以下で、西郷や大久保はかろうじて武士(御小姓与)だったものの、伊藤博文と山県有朋は武士にあらざる小物(中間)で、維新の志士のなかで上級武士は一人もいなかった。
 その意味で、明治維新は、非士族(足軽以下)が士族(藩士・幕臣)を排除して権力をにぎった階級闘争(=革命)といってよいだろう。

 明治維新の要諦は、尊皇攘夷から一転して、ヨーロッパ化で、筆頭に挙げられるのがヨーロッパ王政を真似た王政復古だった。
 日本には、皇親政治の第40代天武天皇(673〜686年)と建武の新政の第96後醍醐天皇(1318〜1339年)以外、王政の伝統はない。
 日本の皇室は、明治維新期につくりかえられたものだったのである。
 明治政府がとった文明開化路線、殖産興業政策による西洋技術・文化の輸入は、西洋の産業革命の移入でもあって、日本は、1893年(明治26年)に国産の国産機関車(860形)を完成させる。
 日本が産業革命の成果をうけいれることができたのは、江戸時代の文明度がそれだけ高かったからで、世界史をながめても、異文化をこれほどスムースに受容したケースはまれである。
 明治政府は、廃藩置県につづいて、矢継ぎ早に革命的な政策をうちだす。
 大名・武士階級の廃止から四民(士農工商)平等や華族(公卿や大名)士族(旧幕臣・旧藩士)の身分制度などだが、いずれもヨーロッパの真似で、これが鹿鳴館文化や皇室の西洋化などの西洋コンプレックスへつながってゆく。
 制度改革のきわめつけは、江戸時代まで武士がもらっていた家禄(秩禄)を廃止した秩禄処分で、一時金(金禄公債)はえたものの、以後、武士の大半が経済的に没落してゆく。
 秩禄処分は、支配層が無抵抗のまま既得権を失ったという点で、世界史的に稀有な例で、天皇を政権にとりこんだ明治政府がいかに強力な権力構造だったかわかる。
 そのゆがみが一気に噴出したのが不平士族の反乱だった。
 次回は、士族の反乱から鹿鳴館文化、そして帝国主義へむかった天皇軍国主義への道筋をみていこう。
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2018年04月04日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」39

●天皇と国家「勅と法」(10)
 天皇は、戦後、憲法上の存在となった。
 そこに、三島由紀夫の憤怒と絶望があった。
「自衛隊は憲法をまもる存在になったのか」
 自衛隊市ヶ谷駐屯地の三島の雄叫びは、新憲法で育った戦後生まれの日本人にはピンとこないかもしれない。
 げんに、市ヶ谷の三島の演説は、自衛隊員の野次と怒号で掻き消された。
 戦後、左翼が中心になってすすめ、保守が迎合した「憲法は新しい国体」という思潮のなかで、大方の日本人、自衛隊員さえ、戦勝国から投げ与えられた属国憲法を金科玉条としてきた。
 三島は、自衛隊にこう檄をとばした。
「オレは自衛隊が怒るのを待っていた。だが、もはや、憲法改正のチャンスはない! 自衛隊が国軍になる日はない! 建軍の本義はない! それをオレは嘆いている。自衛隊にとって建軍の本義とはなんだ。日本を守ることだ。日本を守るとはなんだ。日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることだ。(略)自衛隊がたちあがらなければ、憲法改正ってものはないのだ。諸君は永久にアメリカの軍隊になってしまうのだぞ」
 現在、天皇も自衛隊も、憲法に規定される法的存在でしかない。
 憲法をもって国家を規制するのが共和主義である。
 革命をとおして伝統国家から共和(共産)制国家へと移行する。
 共和主義は、民主主義にもとづいて、君主制を廃止することである。
 このとき、歴史や伝統、習俗など、民族の文化が破棄される。
 三島にとって、憲法は、属国憲法である以上に、革命綱領であって、国体の破壊者でもあった。

 自衛隊が憲法違反というなら憲法を破棄すればよい。
 憲法は、もともと、共和制国家のもので、伝統国家には必要がない。
 共和制国家の支配構造は、憲法と大統領、議会の三つで、この三者が、民主主義(普通選挙法/議会の多数決)の原則にのっとって、国家を運営する。
 共和制国家における憲法の役割は、大統領の権限を制限することで、国家のありようを定めているわけではない。
 憲法は、いわばガードレールで、大きすぎる権力をもった大統領という車が道路からはみださないように見張っている。
 日教組教育をうけた者のなかには、憲法が、国家の監視役であるかのようにいう者がいるが、おおまちがいである。
 そんな理屈が通用するのは、憲法が、戦勝国が敗戦国を永続的に隷属させる占領法であるかぎりにおいてで、日本は、占領基本法を憲法として奉っている世界に稀有な国家なのである。
 伝統国家には、大統領は不要で、憲法も必要がない。
 歴史の英知や民族の知恵、伝統や習慣、独自の価値観、経験則など憲法とは比べようもないほどの文化をもっているからで、この歴史的規範が憲法をこえるのはいうまでもない。
 日本が憲法をもったのは、明治政府が樹立されてから22年後の1889年のことで、国内政治が一段落して、目を海外へむけた時期にあたる。
 日英通商航海条約と日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)、朝鮮併合(1910年)と、日本は西洋型の帝国主義をのみちをすすみはじめる。
 日本の憲法(大日本帝国憲法)は、ヨーロッパ化政策と天皇の政治的利用を目的にしたもので、モデルになったのが、主権者たる国王が国政に裁可権限を有するドイツのプロイセン憲法だった。
 プロイセン憲法において、国王は、権力者だった。
 プロイセン憲法の導入によって、文化概念としての天皇が政治概念としての天皇にきりかえられて、日本は、事実上、国体を失った。
 日本は、独自の文明をもった誇り高き伝統国家であって、列強を真似た帝国主義国家ではなかったからである。
 プロイセン王国は、第1次世界大戦の敗北によって滅びた。
 日本も、敗戦によって、第二のプロイセン王国になるところだったが、これを救ったのが、皮肉にも、日本国憲法の提唱者だったマッカーサーだった。

 日本国憲法が占領基本法だった以上、国家主権の否定や武装解除(憲法9条)、「天皇・摂政・公務員の憲法尊重擁護義務(憲法99条)」は当然だったろう。
 問題は、講和成立後、GHQが日本から撤退したあと、占領基本法の性格をもつ憲法を廃棄しなかったことである。
 戦後、勢力をもった社会主義・革命勢力(社会党・共産党・労組)が、日本の弱体化を企図したGHQ憲法を逆手にとって、憲法擁護を革命の戦略とした。
 共和主義を謳う現憲法下においては、議会内闘争をとおして、革命の実現が可能となるからである。
 革命は、憲法を停止させて、人民政府をつくることだが、現在の日本の状況では、憲法をまもることによって、左翼革命もしくは中国への属国化が容易に実現する。
 日本防衛の法的根拠は、日米安保条約と国連憲章、国際法や自然法であって、憲法には依拠していない。
 憲法には「敵が攻めてきたら白旗を掲げろ」としか書かれていないからである。
 革命の道具=民主主義だけが正義の現在の日本では、国体・国家の屋台骨はきわめてもろい。
 だから三島は自衛隊に憲法停止≠フ武装蜂起をうったえたのだった。
 日本には、国家反逆罪もスパイ防止法も、不敬罪もない。
 日本人の脳みそには「民主主義=正義」という方程式がインプリントされており、それは、皇室も例外ではない。
 今上天皇につづいて次期天皇(徳仁親王)も憲法擁護を口にされる可能性が高い。
 安倍首相は、憲法九条の維持をうったえている。
 そうなると、国体および国家がじりじりと共和制へ接近してゆきかねない。
 憲法をまもることが国体・国家の否定につながるジレンマに気づいていないのである。
 憲法や民主主義、近代主義や西洋合理主義などの相対的な価値観で、文化や歴史、伝統という絶対的な価値をまもることはできない。
 アメリカ民主主義は世界一の軍事力に支えられ、中・ロ・英・仏はむろんのこと北朝鮮も、軍事力が体制維持の主柱になっている。
 文化(菊)をまもるのは力(刀)で、それが、歴史の鉄則である。
 次回は、危機状態にある国体・国家防衛について、思うところをのべよう。

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2018年03月28日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」38

 ●天皇と国家「勅と法」(9)
 天皇が文化で、ヨーロッパの王が権力なのは、いうまでもない。
 ヨーロッパで王政が文化になりえなかったのは、そもそも、ヨーロッパには文化の土壌がなかったからだった。
 中世ヨーロッパでは、ペスト(黒死病)やコレラ、天然痘などの疫病が猛威をふるい、人々は、生きのびることだけに必死で、文化へ目をむける余裕などなかった。
 疫病が流行したのは、不潔で、貧しく、公共心がなかったからだった。
 上水道・下水道がなく、市街地は、人々が投げ捨てる糞尿まみれで、ペスト菌の媒介者であるネズミが、人間の数よりはるかに多かった。
 やせた土地から採れるのは小麦やブドウだけとあって、勢い、肉食に頼ったが、家畜との共存は、かれらの生活をますます不衛生にした。
 当時、死因の上位にあったのが、産褥熱などの感染症で、衛生観念はないにひとしかった。
 ヨーロッパの宣教師が、日本で、庶民が絵画や花を飾った清潔な家に住んでいるのを見て、度肝をぬかれたという。
 家畜とともに不潔な家屋に住み、生きてゆくのに精一杯だったヨーロッパでは、部屋に絵画や花を飾るなどの文化的な行為は、思いもおよばなかったのである。
 くわえて、宗教的迷信が根深く、魔女狩りで、百万人近い女性が処刑されたばかりか、その数倍、数十倍にのぼる人々が、異端裁判や宗教戦争などで命を奪われた。
 産業革命(18〜19世紀)前のヨーロッパは、文化面や衛生面で日本よりもはるかに後進的だったのである。

 ところが、産業革命以後、ヨーロッパは文明のみちを切り拓き、日欧の関係が逆転する。
 日本は、開国後(19世紀後半)、ヨーロッパから文物を輸入して、近代化へ走る。
 江戸時代まで、独創的だった日本文明が、近代化以後、鹿鳴館文化や帝国主義など西洋のコピーへ傾いていったのは、薩長の田舎侍が西洋を真似たからだが、ヨーロッパの近代は、革命の時代でもあって、日本が建国のモデルにしてよい国はどこにもなかった。
 先進国はむろんのこと、世界でも、伝統国家としての歴史と形態を維持しているのは、日本だけである。
 理由は、文化・経済の両面でゆたかだっただけではなかった。
 君民一体の下で、当時、世界に類がなかった平等という観念がゆきわたっていたからだった。
 宗教も、個人救済ではなく、国家護持で、ヨーロッパの世界観・宗教観とは大きくかけはなれていた。
 そこに、日本で、革命や宗教戦争がおきなかった理由がある。
 ヨーロッパでは、戦争に負けると、民が奴隷として売買され、教会の教えにそむくと死刑に処される。
 ペストやコレラ、食糧難をのりこえたところで、民に救いはなかった。
 権力者ににらみをきかせる民の味方、天皇という文化的存在がなかったからである。
 革命のエネルギーは、怨念や復讐心といってよい。
 フランス革命やロシア革命では、王族や貴族の皆殺しが何年にもわたって延々とつづき、中国の文化大革命やカンボジアのポルポト革命では、知識人や教養人というだけで、何百万、何千万の善良な人々が虐殺された。
 すべて、文化と権威が不毛だったことが原因で、文化と権威をもたない種族は、非戦闘員に原爆を投下したアメリカ人のように、どこまでも残酷になれるのである。

 三島由紀夫の『文化防衛論』がまもろうとしているのは、文化概念としての天皇である。
 国家をつくりあげているのは、文化と歴史、権威で、その象徴が天皇である。
 日本という国家の本質は文化にあって、その文化(菊)は、刀によってまもられなければならない。
 三島由紀夫は、日本の独自の文化をまもってきたものを、『菊と刀』になぞらえて、刀という。
 国家をまもることは、文化をまもることだが、文化をまもることは難しい。
 文化は、大砲や文化侵略、伝統破壊にたいして無力で、革命にはひとたまりもないからである。
 日本が他国侵略(元寇など)や宗教侵略(天草四郎の乱など)を防ぐことができたのは、文化の力ではなく、刀という、ときには、みずからの命さえ絶つ「力の論理」であった。
 外国人が、なによりも恐れたのは、武士の刀だった。
 刀は武士の誇りでもあって、武士の誇りを傷つけるとその場で斬殺されかねなかった。
 まして、軍靴で帝(みかど)の地を侵略すれば、武士がいっせいに抜刀して襲いかかってくる。
 日本侵略など、とうてい、思いおよばなかったのである。
 天皇をまもるのは、法でも弁論でも、正義でも真実でもない。
 ただ一つ、刀であって、それが文化防衛論の要諦だった。
 次回以降、タブーを破って、「刀と文化防衛」へと議論をふかめていこう。
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2018年03月20日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」37

 ●天皇と国家「勅と法」(8)
 天皇の本質は、権威と権力、政体と国体、政治と文化などの二元論にあるといってよいだろう。
 天皇は権力をもたず、権力(政府)は、権威(天皇)を敬うという二元性がはたらくのが国家本来のすがたで、それが伝統国家である。
 国家は、現在という空間軸と、歴史という時間軸からできている。
 権力やカネ、法などのヨコ軸と、歴史や伝統、文化などのタテ軸が交差するところに用意されているのが天皇の地位で、天皇は中今(現在)の存在であると同時に、歴史的存在(皇祖皇宗)でもある。
 聖俗も二元論である。
 国家も人間も、理屈でわりきれる俗なる合理性と、理屈が通用しない聖なる非合理性をあわせもつことによって、はじめて、奥行きのある国家観や人格ができあがる。
 イエス・ノーを保留するあいまいさ、どちらでもよいという両立性も二元論といえるだろう。
 答えが一つしかない一元論では、イエスかノーしかないので、永遠に争いがつづく。
 棲み分けや共存、共栄の論理がなりたっている二元論・多元論の世界では、国家を転覆させるような内乱や革命がおきない。
 革命や民主主義は、一元論の世界のものだったのである。
 一元論が破綻するのは、世界や自然、歴史が多元的にできているからで、人間が頭のなかでひねくりまわす一元論は、じつは、どこにも存在しない妄想でしかない。
 西洋の宗教戦争や領土戦争、市民革命、海外侵略、帝国主義が凄惨だったのは、一元論に立っていたからで、一元論の世界観では、従わないものはすべて敵で、殲滅しなければならない。

 それが西洋の近代合理主義というもので、歴史というタテ軸が断たれている。
 戦後、アメリカから、近代合理主義が怒涛のようにおしよせてきて、日本的価値観が隅におしやられた。
 日本的価値観というのは、伝統のことで、戦後日本は、アメリカ民主主義一辺倒の国となった。
 民主主義は、一元論で、多数決にしろ力の論理にしろ、数に帰される。
 一方、伝統は、多元論で、文化にしろ芸術にしろ、質に帰される。
 いうまでもないが、政治は合理主義で、文化は反合理である。
 社会から政治、文化から皇室にまでおよんだ日本の西洋化は、結局、合理化ということであって、合理化して、残るのは、数の論理だけである。
 数は合理化できるが、文化や思想という質は、合理化できない。
 かつて、日本人は、合理化できるものと合理化できないものの両方をもっていた。
 合理主義をうけいれながら神にも祈ったわけで、その伝統が、新鋭ビルの竣工に際しておこなわれる地鎮祭である。
 敗戦後のアメリカ化・民主化によって、合理主義と伝統を同時にうけいれる高次な精神が失われて、日本人は、朝から晩まで民主主義を叫ぶ愚かな民族となった。
 賢明だった日本人が、49%の少数派を切り捨てる数の論理を万歳を叫んで迎えたのである。
 革命の方便にすぎない民主主義が至高の価値となった戦後、ついに、天皇にまで合理の定規があてられ、皇室までが民主化されるはめになった。
 権力と権威を隔てる二元論がゆるんで、天皇とヨーロッパの王政との区別がつかなくなってしまったのである。
 
 これが天皇の危機である。
 世界の王政がすべて滅び、滅亡を免れたとしても、英国のように形式を残すだけになったのは、民主主義という毒牙に伝統や文化を食いちぎられたからである。
 民主主義が猛威をふるっているかぎり、反共・伝統防衛の旗を降ろすことはできない。
 日本の民主主義は君民一体≠ナ、西洋の民主主義は君主打倒≠ナある。
 日本人が、人類最高法規と信じている西洋の民主主義は、現在進行形の革命用語で、ゆきつくところは、スターリンやヒトラーがめざした民主主義にもとづく独裁である。
 独裁者が民主主義(多数派)を権力のレジテマシーとするのである。
 かつて、右翼は共産主義を敵としたが、共産主義が滅びると、慢心と油断にひたって、右翼陣営はもぬけの殻同然となった。
 恐るべきは、正体がバレている共産主義ではなく、共産主義の隠れ蓑である民主主義のほうで、民主主義という一元論をたどってゆくと、人民政府という独裁体制があらわれる。
 軍部・軍属が天皇を利用して軍国主義をつくったように、左翼・反日勢力が民主のスローガンを利用して民主ファシズムをつくる。
 むかう先は、共産化と中国への属国化である。
 民主が唯一の正義となる国家は、天皇が唯一の正義だった国家と同様、危険きわまりないのである。
 天皇をまもることは、歴史をまもることで、右陣営がたたかうべきは、共産主義ではなく、民主ファシズムである。
 次回以降、天皇・国体防衛について、さらに論をすすめよう。

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2018年03月12日

神道と世界最古の文明「縄文文化」36

 ●天皇と国家「勅と法」(7)
 国家が、本来、歴史(国体)と権力(政体)の二重構造と知っているひとは多くない。
 理由は、国連安保理常任理事国(米・英・仏・ロ・中)をはじめ、200をこえる世界の国々の多くが、国体をもたない革命国家だからである。
 革命国家や共和制国家が、権力(政体)だけの一元構造になったのは、歴史(国体)が否定されて、伝統的秩序が民主主義へきりかえられたからで、近代以降、80か国以上が、革命や政変、独立などをとおして、君主制などの伝統国家から民主主義にもとづく共和制国家に移行した。
 民主主義は、現在における政治決定で、対象になるのは、現在、生きている人々だけである。
 民主主義が、歴史を否定した上になりたっているのからで、かつて生存した歴史的国民や歴史の英知、伝統文化も、現在、生きている人々の利害や都合の前ではひとたまりもない。
 それが革命国家の正体で、民主主義以外のものがなに一つ通用しない。
 民主主義は多数決にすぎないが、国民全体の多数決を採ることは不可能なので、革命軍のリーダーがこれをあずかる。
 その口実が国民主権で、国民の主権をあずかったということにすれば、国民の名の下で、独裁や弾圧、逮捕や強制収容所送り、死刑などのテロルがまかりとおって、暗黒国家ができあがる。
 民主主義と国民主権は、革命派による支配イデオロギーだったのである。
 それをそっくり真似たのが日本国憲法=占領基本法である。
 国体を否定するGHQという革命軍が、民主主義と国民主権もちいて、日本国民を支配したのである。
 日本国憲法の主宰者は、日本国家でも日本国民でもなく、GHQなのである。
 民主主義を立て、国家主権を破壊したのち、国民主権をあずかったGHQが敗戦国日本の絶対支配者になったわけで、その裏付けとなったのが日本国憲法だった。
 日本国憲法が担保しているのは、日本や日本国民の利益ではなく、GHQの権力だったのである。
 憲法99条にこうある。
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法(GHQ命令書)を尊重し擁護する義務を負ふ」

 国家主権から防衛権、統治権や国民の安全をまもる権利は、国家におのずとそなわっている自然権で、当然のことながら、この国家自然法は、人為法たる憲法をこえる。
 それが伝統国家のありようで、革命国家でありながら、伝統国家の体裁を保とうというイギリスは、国家を規制する憲法をもっていない。
 憲法は、伝統的価値や歴史的規範を捨てた革命国家が、その代わりに採ったイデオロギー法で、どの国の憲法も、タテマエとして、民主主義と国民主権を国家の最高法としている。
 近代主義の産物にして、歴史を捨てた革命国家は、民主主義や国民主権以外の規範をもちえないのである。
 戦後、日本では、民主主義が、人類の最高法としてさかんにもちあげられてきた。
 だが、民主主義は、多数決と普通選挙法のことにほかならず、そんなものを国家規範にして、政治が混乱しないわけはない。
 民主主義国家は、自然法にもとづいた国家よりはるかに後進的で、不完全な国家だからで、しょせん、人間が頭のなかで考えた人為法や人口国家が歴史の産物である自然法や伝統国家をこえるわけはないのだ。
 民主主義は歴史を拒絶する。
 それだけで、伝統国家の象徴である天皇と革命国家の象徴である民主主義が相容れないとわかる。
 日本に民主主義や国民主権の精神がなかったわけではない。
 その逆で、日本には「君民一体」という思想があって、天皇は国民とともにあった。
 天皇と国家国民が一体であれば、天皇陛下万歳が、国民や国土の弥栄(いやさか)をねがう心とわかるだろう。

 何事にも、矛盾や不条理、不思議や非合理がついてまわって、人間の知識がとうていおよぶところではない。
 国家もそうで、多数決にすぎない民主主義や実体のない国民主権をふり回したところで、なんの解決にならないばかりか、混乱がうまれるばかりである。
 イエスかノーか一元論では、片一方が否定されてしまうので、解決どころか、かえって、対立が深まる。
 51%を肯定して49%を否定する民主主義のどこに政治哲学があるのか。
 権力者にゆだねられて独裁を生じる国民主権のどこが国民中心主義なのか。
 革命国家が一元論なら、伝統国家が二元論で、グレーゾーンやあいまいさが矛盾や不条理、不思議や非合理をのみこんで、体制を安定させる。
 それが多様性と奥行きをもつ日本主義で、文明と価値観の衝突となる今後の世界情勢のなかで、対立をうむ民主主義に代わって、中心的思想になってゆくだろう。
 日本が提唱している異文化共栄圏思想(日・米・オセアニア・アセアン・インド)がそれだが、このテーマについては、後日、改めてのべよう。
 さて、二元論だが、伝統国家である日本が二元論の国家なのは、いうまでもない。
 権威と権力、国体と政体、天皇と政府、文化と政治が、互いに干渉することなく両立している。
 二元化されている価値と価値の中間にグレーゾーンが広がって、それがあいまいの文化である。
 ところが、価値が一元化されている革命国家には、グレーゾーンがない。
 戦後、民主主義絶対主義のアメリカによる日本改造が、いかに日本の文化や価値、伝統をゆるがしたか、いまさら、指摘するまでもない。
 戦後日本の迷走は、革命国家のルールを伝統国家にもちこんだ構造矛盾から生じたのである。
 次回以降、伝統国家のあるべきすがたと天皇問題をさらに検討していこう。
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2018年03月06日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」35

 ●天皇と民主主義「勅と法」(6)
 歴史と現在性の関係は、わかっているようで、案外、理解されていない。
 歴史はタテに連続する時間軸で、一方、現在は横に広がる空間軸である。
 われわれが生きているのは、現在という空間軸だが、現在は、過去や歴史という時間軸の上に成り立っている。
 ひとは、現在を生きる空間的な存在でありながら、一方では、歴史を生きる文化的な存在で、言語から習俗、文化、文明に至るまで、現在あるものは、すべて過去からひきつがれた歴史の恩恵である。
 人類は、歴史という時間軸と現在という空間軸の両方を生きることによって人類たりえている。
 したがって、だれもが、生来的な保守主義者といえる。
 何人といえども、過去を否定することはできない。
 過去は、過去の人々によって築かれたからで、これを否定するなら、過去の人々にも投票権があたえられるべきである。
 死者が投票場へ足を運べないなら、現在を生きる者たちは、ひたすら、過去を受け継がなければならない。
 現在が、過去の集積であるとするならば、現在を生きる人々も過去に生きた人々も、ともに歴史的国民だからである。
 現在を生きている人々の身勝手な都合によって、歴史や伝統を否定するのは歴史や先人らへの冒瀆であって、死者と生者が共にある歴史的国民の原則に反する。
 保守主義は、歴史を継承することにあって、これは、歴史を破壊するよりもはるかに価値があり、はるかに困難な仕事なのである。

 万世一系を否定した「皇室典範に関する有識者会議」(2005年)の吉川弘之座長(元東京大学総長)は「伝統は無視した」と堂々と言い放ったものである。
 昨今の女系天皇論も、歴史の不可逆性を無視した暴論で、現在を生きているにすぎない者たちが歴史を変更できるとするのは、無知でなければ傲岸不遜なる思い上がりというしかない。
 人々は、過去の事跡や伝統、文化的価値などの歴史の遺産に目もくれない。
 そして、歴史的存在であることを忘れて、目先の利害に右往左往している。
 生きているのは、現在という瞬間ではなく、過去から現在、現在から未来へつながっていく歴史の連続性という自覚がないのである。
 そこに、保守主義者と左翼・革新・反日を隔てるボーダーラインがある。
 国民と人民・市民のちがいもそこからでてくる。
 国民は、歴史や文化、民族性などの同一性を共有する歴史的国民で、人民や市民は、歴史や国家から切り離された孤独な人々の群れである。
 歴史が失われるのは、革命によって、時間軸が断ち切られたからで、残るのは、現在という過去を失った空間だけである。
 民主主義が革命イデオロギーになったのは、民主の民≠ェ歴史や文化から断絶した民≠セったからである。
 左翼が民主主義をもてはやすのは、革命の武器だからで、民主主義を立てて歴史から国体までをかえてしまおうというのは悪魔の思想というしかない。
 民主主義こそが過去殺しで、革命で歴史を断ち切った英・仏・米・ロが民主主義を標榜したのは、歴史の叡智を捨てると、チャーチルが「独裁よりマシなだけ」といった民主主義しか残らないからである。
 民主主義は、多数決のことで、国民主権の国民と同様、多数派の正義ということである。
 すべて多数決できめる民主主義は究極の衆愚政治で、戦後、この民主主義が大手をふってきたのは、戦争に負けたからである。
 それでも、日本が三流国家へ転落しなかったのは、君民一体の天皇がおられたからで、したがって、民主主義が暴走することなく、伝統国家としての品格や叡智、誇りもまもられたのである。

 歴史と現在の落差は、宗教や政治、思想などの分野で、さまざまな二元論をつくりだしてきた。
 保守と革命、伝統と革新、唯心論と唯物論、生と死などである。
 歴史は過去で、死でもあるが、その過去に根源的価値をみるのが保守主義である。
 現在を生きる人々が、エゴをむきだしにして生きれば「万人の戦争がおこる」(ホッブス)ので、国家や法、常識などのかつてつくられた制度やシステムの網をかけようというのが保守主義なら、過去ではなく、人間の頭の中で考えたイデオロギーで人民を支配しようというのが革命主義である。
 革命や改革主義は、美辞麗句や美しい観念論を並べるが、所詮、歴史や伝統を断ち切った過去殺しで、過去を失った世界には、一滴の血も流れていない。
 歴史のタテ軸と現在の横軸を、聖俗二元論に置き換えることもできる。
 ひとはパンのみに生きずに非ずで、俗にどっぷり漬かりながら、聖をもとめるのが人間なのである。
 伝統は、天皇中心の平和な国民国家を形成するが、天皇が政治利用されると、この構図が逆転する。
 次回以降、天皇と国家の関係について、近代以降をふり返ってみよう。
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2018年02月26日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」34

 ●天皇と国家「勅と法」(5)
 天皇陛下の退位の儀式(退位礼正殿の儀)は2019年4月30日に皇居で国事行為としておこなわれる。
 国民主権と象徴天皇制を定める憲法との整合性に配慮して、天皇がご自身の意思で皇位を譲ることを宣する「宣命」はおこなわれず、国民の代表たる首相が、国会が定めた特例法にもとづいて、陛下が退位される旨を表明する。
 陛下がおことばを述べられるのは、首相が天皇退位を宣言した後で、それも政治的な内容をふくまぬよう宮内庁や政府が慎重に調整するという。
 天皇がご自身の意思で皇位を譲る形になれば、天皇の国政関与を禁じた憲法4条にふれるからである。
 といっても一昨年7月、NHKが「天皇陛下が生前退位のご意向」と報じた翌月の8月8日、天皇陛下が譲位をにじませるビデオメッセージを公表された段階で、この原則は破られている。
 摂政を置くことを定めた憲法第5条があるにもかかわらず、天皇のご発言によって、皇位継承について定めてある皇室典範を改正せざるをえなかったからで、これが、今上天皇の一代に限って「生前退位」を認める特措法にかわったところで、天皇のご発言が政治をうごかした事実にかわりはない。
 そして一方、退位が、国民主権と象徴天皇制を定める憲法や国会が議決した特措法に縛られることによって、天皇が政治にコントロールされるという逆の事態も生じた。
 天皇の政治への関与が、政治の天皇への干渉を招いたわけで、国体と政体のもたれあいが、権威(天皇)と権力(政府)の二元論を危うくするのは、天皇を国家元首に据えた明治憲法から天皇に軍服を着せた昭和軍国主義まで、同じ構造である。
 国体と政体の二元論は、天皇と政府、権威と権力の癒着を避ける役割をはたしてきたのだが、これが一元論的になると、天皇の政治利用、天皇の権力化に歯止めがきかなくなる。

 もともと、超越的・超法規的存在である天皇を憲法のなかに封じ込めようというGHQの対日戦略が無謀で、そのGHQ憲法を70年間もひきずってきた怠惰のツケが、天皇退位に臨んで回ってきたといってよい。
 2013年、80歳を迎えた誕生日の記者会見で陛下は「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法をつくり、さまざまな改革をおこなって、今日の日本を築きました」と護憲の意思を明らかにされた。
 陛下が皇太子時代、家庭教師だったヴァイニング夫人は、リベラルな傾向をもつクェーカー教徒で、1969年、ベトナム反戦デモに参加して、ワシントンの国会議事堂前で逮捕されている。
 ヴァイニング夫人の影響をおうけになった陛下がいかにリベラルなお考えをもたれようと、国体と政体の二元論が成立しているかぎり、政治は影響をうけない。
 ちなみに天皇のお考えを御心というなら、歴史をつらぬく皇祖皇宗の真実が大御心で、葦津珍彦は「陛下がまちがったことを仰せになったら大御心だけに耳を傾けて、御心には耳をふさぐこと」とのべている。
 しかし、国体と政体の二元論が崩れると「天皇の御心」と「権力の意思」が政治の場と国体の場の二箇所でぶつかりあうことになる。
 一元論においては、真実は一つしかないので、一方が一方をつぶしにかかる。
 明治以降、とりわけ、昭和の軍国主義時代は、権力が肥大して、権威の影が薄くなった。
 権威たる天皇が権力の象徴たる軍服を召されたからである。
 天皇を現人神として神格化する必要が生じたのは、そのためで、権力とバランスをとろうとしたのである。
 それが天皇ファシズムで、天皇の政治利用のきわめつけであった。

 二元論では、真実が二つあるので、権威と権力は両立しつつ、ささえあう。
 国家を木にたとえるなら、権威は根で、権力は幹や枝、葉である。
 権威と権力が二元論的にはたらいて、国体も政体も安定する。
 ところが、今回の天皇陛下の退位は、その原則がはたらかなかった。
 天皇のおことばが政治をうごかし、結果として、退位の儀式が政治化されるという経緯において、権威と権力の分離という歴史の英知は、どこにもはたらかなかった。
 理由は、憲法が一元論のきわめつけだったからである。
 憲法99条にこうある。
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」
 天皇以下、すべての日本人に土下座をもとめる憲法という紙切れには、共産主義革命のスローガンとなった国民主権やアメリカ民主主義、敗戦国の罰則としての武装解除、国家主権の自己否定がつらつらと書き並べられている。
 ほとんどマンガだが、現在、日本では、憲法が「神聖ニシテ侵スヘカラス」ものになっている。
 大日本帝国憲法第3条(「天皇の神聖不可侵」)が天皇から憲法へそっくり入れ替えられているのである。
 次回以降、憲法と天皇の関係をもう一歩つきつめて考えてみよう。
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2018年02月21日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」33

 ●天皇と国家「勅と法」(4)
 権力は、正統性(レジテマシー)をえて、はじめて、権力たりうる。
 レジテマシーをもたない権力は、暴力装置で、盗賊とかわらない。
 民主党政権時代、自衛隊を暴力装置と発言した官房長官(仙石由人)がいたが、防衛大臣を何度も経験している自民党の石破茂も、自衛隊を軍隊と位置づけた上で、暴力装置と表現したことがある。
 レジテマシーのなんたるかをわかっていないのである。
 戦国時代、武田信玄や織田信長ら戦国武将が、上洛して、天皇謁見を望んだのは、権力のレジテマシーをもとめてのことで、天皇から征夷大将軍などの官位を戴かなければ、他の武将を従える天下人になることも、幕府をひらくこともできなかった。
 中国がいまなお毛沢東を称えるのは、権力は、カリスマというレジテマシーを必要とするからである。
 中国共産党人民解放軍といえども、中国共産党主席と中央軍事委員会主席を務めた毛沢東のカリスマ性なくしては、権力を維持できないのである。
 戦争や死刑執行が殺人罪にあたらないのも、国家には主権というレジテマシーがそなわっているからで、この超越性の上に成立しているのが国家である。

 主権は、なにものからも干渉をうけない絶対的な権利である。
 この主権は、歴史上、戦前まで、天皇=国体に属するものだった。
 主権が、政体たる幕府・政府ではなく、歴史や文化たる国体におかれていたのである。
 権力に権威というレジテマシーがそなわって、政体と国体が合一した国家という共同体ができあがる。
 ところが、戦後、歴史的存在であった天皇の地位と権威が憲法という文字を綴ったにすぎないものへ移しかえられた。
 その結果、権威が空洞化した。
 一方、憲法から、国家主権が抜け落ちている。
 日本では、現憲法の下、国家主権も、国家主権のレジテマシーたる権威も宙に浮いたままなのである。
 それが、天皇を無力化して、形だけを残したGHQ憲法のからくりである。
 日本国憲法は、日本をアメリカの都合のよい国につくりかえるための占領基本法である。
 憲法から日本の国家主権が抜け落ちているのは、占領中、日本の国家主権をもっていたのがアメリカだったからである。
 占領基本法である憲法には、歴史や権威にかんする記述が一つもない。
 交戦権を放棄した9条にいたっては、自然権や習慣法である国家防衛までを否定している。
 したがって、サンフランシスコ講和条約が締結されて、主権者だったGHQが去ったあと、日本は主権なき国家になった。
 国家主権のない憲法などさっさと捨ててしまうべきだが、日本は、いまから70年前、アメリカが日本を庇護下においた占領基本法を、いまもなお国家の基本法=憲法として重んじている。

 保守論陣のなかにも、憲法が権威だという論調がなきにしもあらずである。
 それが、憲法は第二の国体という主張で、その根拠が国民主権である。
 戦後、国家主権にとって代って、国民主権となったが、国民主権などというものは、そもそも、存在しない。
 国民には、なにものからも干渉をうけない絶対的な権利がそなわっていないからである。
 国民主権は、革命の産物で、旧体制を否定する口実にほかならなかった。
 共産主義や共和制における国民主権はタテマエで、国民の名を借りて奪った権力を為政者が横取りする。
 それが独裁で、民主主義は、衆愚による独裁ということである。
 米ロ英仏中ら国連常任理事国は、革命国家で、中国以外は、かつて、列強と呼ばれた。
 その列強が、散々、食い散らかしたのがアジアである。
 インドや東南アジアが列強の餌食になったのは、国家としての体裁が整っていなかったからだった。
 あったのは、国土ではなく領土で、国家としての統一性も同一性もなかった。
 そもそも、国家という概念が未熟だったので、国家意識が完成していた列強に歯が立つはずがなかった。
 どんな国も、神話や信仰、言語や習俗、民族の自立や誇りなどの共同体意識をもっている。
 それが国家のレジテマシーで、国家独立の条件である。
 インドや東南アジアが英仏蘭の餌食になったのは、領主が乱立して、争っていたからである。
 あったのは、広大な領地だけで、国家も国家主権も、国権をささえるレジテマシーもなかった。
 タイが唯一アジアで独立を保つことができたのは、英仏を相手の外交手腕もさることながら、王国だったからで、国家は、王という超越的な存在があってはじめて、国家という観念をもつことができる。
 領主が支配するところは領土にすぎないが、国権が支配するところは国土となる。
 国権をささえるレジテマシーの下で、権威と権力の二元論を形成するのが伝統国家で、そのレジテマシーにイデオロギーや法をもちこむのが革命国家である。
 日本が、薩長には動揺があったものの、列強の侵略をうけることがなかったのは、天皇がおられたからで、幕府や藩にとって、外国の侵略から天皇をまもることが最大の使命だった。
 次回は、今上天皇の譲位における「勅と法」について考えてみよう。
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2018年02月13日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」32

 ●天皇政治における「勅と法」(3)
 大川周明が古代史のヒーローとして、聖徳太子と中大兄皇子(天智天皇)をあげたのは、国家や法(律令)、天皇の概念を確立させたからで、天皇を中心とした日本という国の原型をつくったのはこの二人といってよい。
 33代推古天皇の摂政として、冠位十二階や十七条憲法を定めた聖徳太子がもとめたのは、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立であった。
 遣隋使を派遣して、国書に中国皇帝にしか使用されていなかった天子ということば(日出処の天子)を使って、日本が、隋と対等な関係にあるとしたのも聖徳太子で、日本は、七世紀初頭、国家や法、天皇の概念を立て、大国の隋を向こうにまわして、堂々と独立国家の道を歩みはじめたのである。
 聖徳太子と協力関係にあったかにみえた蘇我馬子だが、内実は異なる。
 蘇我氏には、国家も法も天皇もなく、あるのは、権力欲だけであった。
 聖徳太子没後、蘇我入鹿が聖徳太子の子山背大兄王を攻めて、一族を自殺に追いこんだのは、天皇を意のままにするためで、蘇我に服従的だった田村皇子(舒明天皇/敏達天皇系)を推す蘇我入鹿にとって、山背大兄王(用明天皇系)は邪魔者だったのである。
 蘇我馬子は東漢直駒という刺客を放って、32代崇峻天皇を弑逆している。
 稲目、馬子、蝦夷、入鹿の蘇我四代にとって、天皇は、権力を維持するための道具にすぎず、一族は、天皇の任命権どころか、生殺与奪の権利まで握っているかのようであった。
 蘇我氏が推した舒明天皇の崩御後、皇后の皇極天皇が即位したのは、継嗣となる皇子が定まらなかったからだが、皇極天皇の在位中は、蘇我蝦夷が大臣の地位につき、入鹿が国政を執った。

 その入鹿が、宮中で、中大兄皇子と藤原鎌足に襲われて、斬殺されるという事件(乙巳の変)がおき、入鹿の父である蘇我蝦夷も自宅に追手をかけられて自刃した。
 中大兄皇子は、舒明天皇と皇極天皇の子で、次の天皇候補だった。
 だが、山背大兄皇子と同様、蘇我一族の血を引いていないので、後継どころか、入鹿に襲われた山背大兄王の二の舞になる可能性すらあった。
 蘇我が推すのは、舒明天皇の第一皇子、古人大兄皇子で、母親が蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女であった。
 蘇我がめざしたのは、朝廷を外戚で固めた独裁体制で、蘇我は、天皇を政治利用してのしあがってきたのだった。
 天皇の政治利用は、近世になって、明治維新と昭和軍国主義と二度体験しているが、古代においては、物部氏や葛城氏、大伴氏、蘇我氏、藤原氏らによる外戚政治がまかりとおっていたのである。
 蘇我という絶大な権力が一瞬に崩壊したことによって、日本は、豪族支配の国から一挙に律令的な天皇の国へと変容する。
 大化の改新といわれるこの大改革は、豪族らの私有地を廃止する公地公民制や律令制にもとづく班田収授や租庸調などの土地制度や税法など法の導入が中心で、日本は、七世紀半ばにして、法治国家へ歩みだしたのである。

 だが、天皇の地位が磐石となるまで、まだ時間がかかる。
 乙巳の変から18年後、百済を救うため唐・新羅の連合軍と争った白村江の戦い(663年)で日本は大敗する。
 日本は唐からの攻撃を警戒して、対馬、壱岐、筑紫などに防人を置き、大宰府の防衛のため水城を築いて、唐からの侵攻に備えた。
 中大兄皇子が天智天皇として即位した(668年)のは、大和の地から都を移した近江の大津宮で、この年に完成した「近江令」は、後の「大宝律令」の基礎となる法典である。
 671年、天智天皇は46歳で没して、その後、日本中をゆるがす権力闘争が勃発する。
 聖徳太子が基礎をつくり、大化の改新後、確立された天皇政治が、皇位継承をめぐって、大乱(壬申の乱)をひきおこすのである。
 大化改新を指導した天智天皇が近江大津宮で崩御して、第一皇子、大友皇子 (弘文天皇) が近江朝の主となると、妻(後の持統天皇)らと吉野宮に引退した天智天皇の実弟大海人が挙兵する。
 草壁皇子や高市皇子、大津皇子、地方豪族らを味方につけた大海人皇子がいくさに勝ち、大友皇子は自害する。
 大海人皇子が天武天皇で、即位後、天皇や皇族を中心とした「皇親政治」を敷いて、律令制による中央集権国家の建設に力を注ぐ。
 ここで、法(律令支配)と勅(天皇の権力)が重なり合って、天皇官僚制というべき体制ができあがる。
 それがのちの摂関政治や朝廷・幕府の二元論へひきつがれてゆくが、天皇の勅と官僚・摂関・幕府などによる法の支配は、微妙なバランスの上に成立してきた。
 それが、権威と権力の二元論で、その要諦は、権威と権力の分離にある。
 勅を権威のなかに封じ、権力を法で制御することによって、権力構造を安定させてきたわけだが、それが江戸300年の安泰につながった。
 次回以降、勅と法の関係が混乱してきた明治以降、天皇の御心、皇祖皇宗の大御心が問われる憲法や皇室のあり方について、考えてみたい
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2018年02月07日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」31

 ●天皇政治における「勅と法」(2)
 日本という国家の基本原理として二元論をあげることができる。
「権威(天皇)と権力(摂関・幕府)」「国体と政体」の二元論である。
 二元論という国家原理が、なぜ安定的で、数千年の歴史をもつ日本のような伝統国家をつくりうるのか、これまで、そのテーマが本格的に議論されてきたことはない。
 権力だけに依存する一元論の国家は、暗黒化して、やがて衰弱してゆく。
 他国に攻められて滅びるか、革命で倒される。
 権力と民の心が離れているので、国家を長きにわたって維持する国力がそなわらないのである。
 権威だけに依存する国家も、易姓革命によって、滅びへとむかう。
 易姓革命がおきるのは、儒教国家で、儒教において重要なのは、徳治主義である。
 徳治主義では、失敗や損失などの不利益の原因が、すべて、前王の徳が足りなさに帰されるので、徳のあるとされる新王があらわれて、前王の悪と不徳を徹底的に糾弾すれば、易姓革命が成立して、歴史の連続性が断たれる。
 天命によって、王朝が交替する易姓革命では、前王を否定することが新しい王になる絶対条件となるのである。
 徳治主義が後進的なのは、原因の究明をおこなわず、すべて、善悪や徳・不徳で片付けてしまうからで、当然、嘘や策略、陰謀がまかりとおる。
 天命という儒教的価値が革命の道具になっているのである。
 中国や朝鮮が、徳治主義の一元論だったのは、儒教の国だったからで、そこから合理的精神にもとづいた法治主義はでてこない。

 古代日本において、天皇の権威があったにもかかわらず、律令制などの法治主義がとられたのは、天皇の権威が権力の正統性を担保していたからである。
 権威と権力が二元化されていたので、権威の下で、権力による法治主義が可能だったのである。
 両者が一体化されると、権威は「勅」となって、権力の一部となる。
 権威が権力にとりこまれると、権威が空位となって、権力が暴走する。
 徳川幕府が、公家諸法度をおき、朝廷の権威を敬う一方、権力から遠ざけたのは、南北朝の動乱から応仁の乱をへて戦国時代にいたる暗黒の中世の悲劇をくり返さないためで、天皇が権力をもとめた「建武の新政」以来、権威が空位になって、日本は、250年以上にわたって、ユーラシア大陸的な権力闘争に明け暮れたのである。
 天皇の地位が定まるのは、大化の改新から壬申の乱をへて、天武・持統朝になってからで、藤原氏を中心とした摂関政治がはじまるのは、そののちのことである。

 大王(天皇)は、もともと、豪族の長(族長)で、紀元前において、祭祀王だったところ、大和朝廷の成立と発展にともなって、豪族間の勢力争いにまきこまれてゆく。
 最初の大豪族は、5世紀前半、子(磐之媛)が仁徳天皇(16代)の皇后となって履中(17代)・反正(18代)・允恭(19代)の三天皇を産んだ葛城氏で、のちに平群氏がこれに変わる。
 六世紀になって、後嗣を定めずに崩御した武烈天皇(25代)の後継に越前にいた応神天皇の5世の孫を26代天皇(継体)に迎えた功績で、大伴金村が台頭する。
 ところが、512年、百済に任那の4県をあたえた金村に反発した物部氏が大伴氏を追放、代わって勢いをえる。
 この物部に対抗したのが、帰化人を率いて朝廷の財政を握った蘇我氏だった。
 物部氏と蘇我氏は、朝廷を二つにわけるほどの力をもってにらみ合う。
 そしてのちに、天皇の継嗣問題や仏教の導入をめぐって、決定的に対立する。
 仏教の礼拝をめぐって物部守屋と蘇我馬子がたたかって物部氏が滅ぼされた争い(丁未の乱)にくわわった聖徳太子は、日本を天皇中心の国へむかわせるが、志半ばで死去して、蘇我氏の独裁体制ができあがってゆく。
 蘇我馬子は物部守屋が天皇に推した穴穂部皇子を殺し、みずからが推挙した崇峻天皇を弑虐し、聖徳太子の子、山背大兄王まで殺してしまう。
 大和朝廷は、豪族の連合国家で、大王(天皇)は、みこしののせられた族長にすぎず、蘇我氏のような大豪族におびやかされる存在だったのである。
 次回以降、天皇が権力者として、あるいは権威として地歩を固めていく歴史をみていこう。
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2018年01月29日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」30

 ●天皇政治における「勅と法」
 仏教の礼拝をめぐって蘇我馬子と物部守屋がたたかい、物部氏が滅ぼされた「丁未の乱」が天皇を奪い合う内ゲバだったことは明らかで、以後、蘇我氏が天皇側近(外戚)として絶対権力をふるった。
 その曽我氏を倒したのが中大兄皇子と中臣鎌足による大化の改新で、これが中臣氏のちの藤原氏の独裁政治につながってゆく。
 外戚関係を固めた側近勢力が絶対権力をもち、あるいは独裁政治をふるうのが天皇政治の特徴で、例外が、天武・持統朝の皇親政治だった。
 天皇政治は、大和朝廷が天皇と豪族の連合政権だったことからもわかるように、覇王型ではなく合議型で、それが祭祀国家や「国体・政体の分離」という特有の国家形態をつくりだした。
 日本は、早い時期(飛鳥時代後期)から律令制をとって、法治国家としての体裁を整え、天皇がその総覧者となった。
 それが祭祀国家の必然のなりゆきで、祭祀王が権威となり、行政官の集団が権力を掌握して、権威と権力の二元論が確立されると、そこからやがて、摂関政治がはじまるのである。
 その原型となったのが、蘇我氏らの豪族政治や藤原氏の側近政治だが、藤原鎌足やその子で摂関政治の基礎をつくった藤原不比等の死後、藤原一族の謀略事件が勃発する。
「長屋王の変」である。
 天武天皇の孫で天武の右腕だった高市皇子の子、長屋王が聖武天皇のもとで左大臣となり、藤原氏をおさえて、皇親政治をおしすすめる。
 その長屋王が、藤原一族の謀略にによって、自殺に追いこまれるのである。
 この事件は、藤原不比等の子で、聖武天皇の夫人だった光明子を天皇になれる皇后にしようとする藤原四家(南家、北家、式家、京家)の企てに端を発する。
 この事件が特異なのは、これまで、天皇の下で、権力をふるっていた側近が天皇家や皇統継承者に牙をむいたことで、そこには、権力(法)ばかりか権威(勅)までもわがものにしようという藤原一族の野望があった。
 
 発端は継嗣問題で、天皇の外戚関係をとおして、権力を握っていた藤原家に凶事がふりかかってきた。
 聖武天皇と藤原光明子との間に産まれた基王が、一年後、死亡するのである。
 基王の死によって、藤原氏は血族内の天皇候補を失った。
 しかもその年、聖武天皇のもうひとりの夫人(県犬養広刀自)に男子が誕生した。
 安積親王である。
 そこで考えられたのが、聖武天皇の後継として、藤原光明子を天皇に擁立することだった。
 この時代は、男が文武・聖武の2人にたいして、女帝が持統・元明・元正と3人おり、女性が天皇になることに違和感はなかった。
 その案に立ちはだかったのが当時の最高実力者だった長屋王だった。
 もともと、長屋王一族は、皇位継承の有力候補者で、藤原一族にとって宿命のライバルだった。
 このとき、長屋王は律令の「法」を立て、一方、藤原氏は聖武天皇に「勅」をもとめた。
 藤原氏は、法よりも勅を優先させ、いわば、天皇を政治利用する形で権力を握ろうとしたのである。
 聖武天皇は光明子を皇后 (光明皇后) として、みずから立后の旧慣を破った。
 かくして長屋王の悲劇は起こった。
 長屋王の屋敷が藤原の軍に囲まれて、長屋王は夫人、子らと自害する。
 長屋王の死後、藤原四兄弟は妹である光明皇后のもとで、藤原四家(南家、北家、式家、京家)政権を樹立する。

 長屋王の父である高市皇子は、壬申の乱のとき、天武天皇から軍の指揮権を委ねられたほどの実力者で、天武天皇亡きあと、持統女帝のもとで太政大臣となって、藤原京造営などで政治に辣腕をふるった。
 藤原不比等は、高市皇子のライバルで、高市皇子の死後、持統女帝が望んでいた軽皇子(文武天皇)の即位を実現させ、文武・元明・元正三代の天皇を支え、右大臣という最高位まで昇りつめた。
 その不比等が亡くなると、翌年、不比等に代わって、右大臣の座に着いたのが、高市皇子の子、長屋王であった。
 一方、不比等の四人の男子は、藤原四家として政界に重きを成した。
 高市皇子と不比等の対立は、世代が変わって「長屋王」対「藤原四兄弟」として受け継がれたのである。
 長屋王の変の八年後、藤原四兄弟は全員、天然痘にかかって死亡する。
 政権内では、天罰ともたたりともささやかれたという。
 次回以降、天皇をめぐる「法」と「勅」について、考えてみたい。
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2018年01月24日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」29

 ●稲作文化と天皇(5)
 日本という国家は、米穀(稲作)とともに発展してきたといってよい。
 強国や富める国の植民地にならなかったのは、完全食品である米を自給自足できたからで、河川や平野、森林がゆたかだった日本は、食糧や資材の不足に苦しむこともなく、外国からつけいられるすきがなかった。
 天孫降臨の際、天照大神がニニギノミコトに下した三大神勅の3つめ「斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅」(日本書紀)には、高天原から下った稲穂を育て、民を養いなさいという記述がある。
 現在でも皇居のなかに田んぼがあり、稲を育て、11月の新嘗祭には神前に捧げる儀式をおこなっている。
 このことからも、稲作が国家の真髄にまで浸透していることがわかる。
 そしてそれが、日本が祭祀国家にして伝統国家であることの裏づけとなっている。
 ユーラシア大陸における麦作および狩猟・牧畜は、かならずしも、絶対量が十分ではなかったのみならず、安定性や永続性をともなってもいなかった。
 なによりも、土地と民の一体感がなく、つねに、略奪の対象となった。
 土地は領土として争奪の対象となり、戦争に負けると農民は、奴隷として売買された。
 したがって、祭祀よりも闘争の論理が優先されたのは当然で、それが、市民革命のひきがねとなって、ユーラシア大陸において、伝統国家が根絶やしとなって、革命国家ばかりになった。

 日本の場合、稲作のための田圃は、灌漑をともなう土木事業で、土地と民が一体となってつくりあげたものである。
 稲作も、民の手間と水田という土木技術の合作で、民と土地を切り離して考えることができない。
 したがって、民と土地を別々に略奪したところで、なんの意味もなかった。
 日本で、武将同士のたたかいはあっても、地域や領国の総力戦がなかったのはそのためで、民は農地の一部、農地は民の一部であって、武将の権力闘争とはなんのかかわりもなかった。
 権力が農地を略奪することも支配すこともできなかったのは、民がいなければコメづくりができなかったからで、いくさに勝った覇王といえども、民から税(年貢米)を徴収するには、民が納得する大義名分が必要だった。
 それが征夷大将軍の官位で、徴税権を行使できたのは、天皇から征夷大将軍を任じられた幕府および幕藩だけだった。
 天皇は、祭祀王で、祭祀というのは、収穫祭(新嘗祭)である。
 それが祭祀国家の基本的な構造で、稲作国家である日本では、覇王ではなく、豊作を祈る祭祀王=天皇が国家の頂点に立ったのである。
 日本にも、戦国時代をあげるまでもなく、領主たちの領土争いや覇権闘争があった。
 だがそれは、天皇から征夷大将軍の任命をうけるためのいくさで、ユーラシア大陸型の絶対権力をもとめたたたかいとは区別されなければならない。
 日本のいくさが革命型ではなかったのは、天皇の下で、国家としてりっぱに成立していたからで、ベースとなっていたのは、稲作を中心とする農本主義であった。
 明治維新の西洋化によって、石油や電気、大量の鉄などが国家の必要物資となったが、それまで、日本は、国内で生産できる諸物資、伝統文化、数千年にわたってつちかってきた習俗にもとづいて、伝統国家として堂々とふるまってきた。

 第二次世界大戦で、日本は、革命国家連合に負けたが、伝統国家であることを放棄したわけではない。
 日本は、GHQによって、天皇の憲法上の地位や民主化、交戦権の放棄などについて、憲法をとおして、国家改造を強いられた。
 だが、1951年のサンフランシスコ講和条約で敗戦状態≠ェ解除されたことによって、GHQ軍令はすべて無効になった。
 国家主権がGHQにおかれている日本国憲法も廃棄され、自主憲法が制定されるべきところであった。
 ところが、憲法論議は、いまなお、9条三項の自衛隊項目の加憲など低次元なところで低迷している。
 自主憲法制定の根幹は、伝統国家と革命国家、および保守主義と民主主義の峻別にあるのは疑いがない。
 伝統国家と革命国家、そして、保守主義と民主主義、この二項対立の議論を深めておかなければ、憲法議論以前に、日本という国がどんな国だったのかがわからなくなってしまうのである。
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2018年01月15日

神道と世界最古の文明「縄文文化」28

 ●稲作文化と天皇(4)
 旧石器・新石器時代は、西洋の古代史における呼称で、日本の場合、旧石器時代以降の呼び方が縄文・弥生時代となる。
 日本は、明治以降、西洋から古代史を学んできたので、時代区分に西洋の基準を使う悪癖をいまなおひきずっている。
 西洋は狩猟民族なので、打製(旧石器)であれ磨製(新石器)であれ、動物を狩って、肉を切り裂く道具として、石器がもちいられた。
 日本にも旧石器時代があったことにされて、教科書でも、原日本人がマンモスを追って、日本列島へやってきたことになっているが、染色体などを調べても、ユーラシア大陸内部には日本人特有のYAP遺伝子は存在せず、日本人がユーラシア人より先に日本列島に住んでいたことがわかっている。
 西洋式古代史のウソを暴いたのが、三内丸山の縄文文化の存在だった。
 国の特別史跡に指定されている三内丸山遺跡は、5500年前から4000年前までおよそ1500年間にわたって500人ほどが定住していたとされる縄文時代の集落で、遺跡跡からは住居や墓にくわえ、大量の縄文土器や装身具などが出土している。
 またクリやゴボウ、ヒョウタンやマメなどの植物栽培の痕跡もみられ、狩猟中心の新石器時代の古代観がもののみごとにくつがえされている。

 新石器時代(紀元前8000年頃)は日本の縄文時代とかさなるが、両者は世界観がまったく異質で、際立っているのが、新石器時代から土器がまったく出土していないことである。
 土器の有無が新石器時代と縄文時代の決定的なちがいで、それが古代文明の東西の分岐点となった。
 人類は火を利用することを知って、大きな進歩をとげたが、同様に、土器の発明によって水を自在に扱えるようになった縄文人は、狩猟民族とは異なった新しい文明のみちを歩みはじめた。
 水を保存し、移動させる土器が、農業と海洋進出を可能にしたのである。
 三内丸山では、縄文時代、各種の農業栽培がおこなわれたことがわかっており、これが、のちの陸稲・水稲栽培へつながってゆく。
 そして、もう一つが海洋進出で、三内丸山遺跡から1メートル近いマダイや大型魚の骨が出土しているところから沖合漁業がおこなわれていたのは明らかで、その他、新潟県のヒスイ、岩手県のコハク、北海道の黒曜石がみつかっているのは、船団による地方遠征がおこなわれていたからであろう。
 伊豆七島の八丈島で縄文土器が発見されていることから、土器をつくった縄文人が、農業開拓者である一方、海洋民族だったことがわかる。

 1960年中頃、バヌアツ共和国でフランスの考古学者ジョゼ・ガランジェ博士が採取した土器のかけらが、日本の縄文式土器に似ていることに注目した篠遠喜彦博士がオックスフォード大学に分析を依頼した結果、土器がつくられたのは約5000年前で、ミクロパーライトという成分がふくまれていることから、青森県周辺でつくられた縄文式土器だったとわかった。
 また、エクアドル太平洋沿岸のバルディビアで数多く発見された土器が日本の縄文式土器に似ており、年代測定すると5500年前のものだという。
 エクアドルには縄文式土器のような高度な土器の前駆となる素朴な土器がない。
 そこから、アメリカ・スミソニアン大学のベティメガーズ博士は、約5000年前に縄文人が南米エクアドルへ移動してきたという仮説を提示した。
 5000年前、縄文人が高い航海技術を持っていたことは、三内円山遺跡で新潟県のヒスイ、岩手県のコハクがみつかっていることや八丈島で縄文土器がみつかっていることからも明らかである。
 当時の丸木舟は、脇に浮きを付けたアウトリガー方式と思われるが、実験で安定度を測定したところ、台風クラスの波をうけても転覆しないことが分かった。
 日本付近から黒潮がアメリカ大陸にむかって流れている。
 その黒潮にのると、6か月後、カナダ南部からアメリカ西海岸に到着する。
 日本付近を北上後、北太平洋海流となって東進する黒潮は、アメリカ西海岸を南下するカリフォルニア海流となって、赤道手前で北赤道海流と赤道反流に分かれる。
 赤道反流に乗り移った場合、次にぶつかる陸地がエクアドルあたりの海岸になる。
 一方、黒潮反流にのってフィリピンを迂回するルートをとれば、島づたいに南下して、エクアドルからバヌアツへもたどり着くことができる。
 日本からアメリカ西海岸やエクアドルまでも約6か月前後かかるが、食糧は船の影に集まる魚を取り、水は雨水を溜める土器があれば問題はない。
 粘土を焼いて、土器をつくった縄文人は、石器中心の文化をつくった西洋とはまったくちがったみちをあゆんで、日本文明をつくりあげた。
 日本文明の根底にあるのが縄文文化だが、その特質は、土器と農業とりわけ稲作である。
 次回から日本文明の特殊性へふみこんでいこう
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2018年01月04日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」27

 ●稲作文化と天皇(3)
 稲作は米食という食習慣をもたらしただけではなかった。
 文化や制度、習俗なども、稲作の影響をうけ、日本という国家は「豊葦原の瑞穂の国(神意によって稲が豊かに実り、栄える国)」(古事記)というにふさわしい稲作国家となった。
 民に水田を割りあて、収穫を納税させる班田収授制(652年)が明治時代の地租改正にいたるまでの日本の租税の基軸で、武士の報酬も石高だった。
 貨幣も米本位制で、衣食住のなかで、稲作文化とかかわりをもたないものは、日本ではなにひとつない。
 平安時代には朝廷の「新嘗祭」「大嘗祭」が整えられ、民間でも、田楽という豊作祈念の歌や踊りがおこなわれるようになって、それが日本の芸能の原型となったといわれる。
 その稲作が、いつごろ、だれによって、日本にもたらされたものか、それが戦前からの歴史上の大きな問題だった。
 稲作の伝来は、稲作文化の伝来でもあって、稲作をつたえた人々と日本人の交流の足跡でもある。
 終戦直後から20年ほど前まで、稲作が朝鮮半島からつたわったという説が有力だったが、いまでは、俗説として退けられている。
 寒冷地でコメは育たず、朝鮮半島北部で稲作が定着したのは、明治時時代に日本で冷害に強い品種(農林一号)ができてからで、それまで、イネは、済州島や半島南端で細々と栽培されていただけだった。

 稲作のルーツは、中国の江西省・湖南省で、1万2000年前までの稲籾が続々と発見されている。
 もっとも、これらはすべて陸稲栽培で、水田遺構の発見は、それから6500年も下らなければならない。
 水稲栽培は、揚子江(長江)の中・下流の起源説が有力で、日本へ伝来したのは長江産のジャポニカである。
 ジャポニカが日本へ伝来したルートは4つあるといわれる。
 @揚子江下流域から山東半島を経て、朝鮮半島南部から九州北部へ
 A中国・遼東半島から朝鮮半島を南下して、九州南部へ
 B揚子江下流域から直接、九州北部(対馬暖流ルート)
 C中国・江南地域から南西諸島を経て、南九州へ(黒潮ルート)
 稲作の場合、種子蒔きから収穫まで、手の込んだプロセスや耕作技術もつたえなければならず、当然、そこには、人的交流がなければならない。
 朝鮮半島伝来ということになれば、朝鮮半島の稲作伝達者との接点がなければならないが、その形跡が一つもなく、考古学的に見ても日本の稲作のほうが明らかに古い。
 稲作が朝鮮半島からつたわったという思い込みは、ユーラシア大陸の文化がすべて朝鮮半島を経由して日本にわたったという先入観からで、まだ日本にはそういうタイプの学者が多いのである。

 稲作が文化であることは、中国の「黄河文明=麦の文化」と「揚子江文明=米の文化」の二つの文明が衝突あるいは侵略があったことから十分にうかがえる。
 漢民族の黄河文明は、乾燥した寒冷地帯に位置するので、米は育たず、麦を主食(麺や饅頭)としていた。
 一方、南に位置する越人=ベトナム系の揚子江文明は、高温多湿地帯で、米を主食としていた。
 日本につたわったジャポニカ米は、中国揚子江沿いの湖南省が発祥と言われる。
 そのことから、揚子江文明に属する人々がジャポニカ米をもって、日本列島に渡り、稲作をつたえたとわかる。
 弥生時代に日本へ水稲耕作をもたらした人々が長江人だったとすれば、かれらが弥生人で、日本本土で、縄文人と共存して、混血して日本人となったのである。
 稲作の伝来が、人的な交流なくして考えられないという根拠はそれで、黄河文明との闘争に敗れた長江文明は、縄文文化と合流することによって、日本で生きのびたのである。
 日本への移入ルートは海路で、動力のない筏でも、長江(揚子江)河口から黒潮(対馬海流)にのれば、3日から10日ほどで九州に至る(840km)。
 長江流域・北部沿岸には、紀元前三世紀以前、筏を改良した沙船という大型の船があったことから、移民目的で、はるか昔から長江の人々が日本に渡って来た可能性はおおいにある。
 縄文文明と長江文明が合流すれば四大文明を超える大文明がうまれてなんの不思議もない。
 次回は、稲作と並んで、日本の国力を飛躍的に高めた農業についてのべる。
 そこに、日本の縄文文化が世界の四大文明を超える大文明を形成する理由がひそんでいるのである。
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2017年12月24日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」26

 ●稲作文化と天皇(2)
 縄文晩期から弥生時代初期にかけて、大陸から稲作が伝来、定着したことによって、日本列島で、人類史上、劇的な変化が生じた。
 一粒の種籾から2000粒、2年で400万粒にふえる驚異的な繁殖力をもつ稲作(米穀)が、人類の生態を根本から変えてしまったのである。
 米穀が採集・狩猟よりはるかに食効率が高く、なによりも「余剰」を生み出す食糧だったことから、定住と人口の増加、備蓄と相俟って、社会の原型というべきものがつくりあげられたのである。
 定住が人口増加を、備蓄が冨を、集団化が権力をつくりだす一方で、飢えから解放された人類は、文化や宗教という無形の価値も手に入れた。
 それが祭祀国家の萌芽で、自然崇拝が穀霊崇拝という形をとって、収穫祭からのちの新嘗祭へ発展し、祭祀主としての天皇が出現する。
 稲作が伝来して、集落が発生してから数百年後、日本列島に、ユーラシア大陸には存在しなかった現人神≠ェあらわれたのである。
 その意味で、天皇は稲作からうまれたといってよいのである。
 そこで、古代史の最大のテーマでもある、天皇の権力や権威はどこからきたのかという大問題につきあたる。
 ヨーロッパのキングも中国の皇帝も征服王(覇王)で、軍隊をもたない祭祀王が、なぜ、覇王をしのぐ強い力をもちえたのか、長いあいだ、謎とされてきた。
 理由は、祭祀王=天皇が、権力ではなく、権威だったからである。
 権力にとって、権威は、決定的に重要な存在で、権力者がその地位にとどまることができるのは、権威が万全なかぎりにおいてである。
 人々の心をつかむのは、法や政治などの権力ではなく、文化や宗教という権威であって、権力は、権威と円満な関係にあるとき、安定する。
 権力者は、権威の構造が定まったところへ権力の基盤を打ち込む。
 権力者にとって、権威は、競合者どころか、かけがいのないパートーナーだったのである。

 それが日本特有の権力構造で、権力は権威を立てて、はじめて、権力者たりえるのである。
 権力者が思い上がって権威を倒した場合、その権力者は、早晩、他の権力者の標的となって、長期政権など望むべくもない。
 権威という絶対的存在がなければ、権力は、漂流するほかないのである。
 それが後醍醐天皇の「建武の新政」が失敗したあとの戦国時代で、権威が不在になれば武者たちの群雄割拠があるばかりである。
 権力者が天皇を絶対化したのは、おのれの権力を磐石にするためでもあった。
 権威と権力の二元性をわきまえていなかったのは、天皇にとって代ろうとした蘇我一族だけで、その蘇我氏を討った中臣鎌足の一族は、その後、権力の座について、のちのちまでも天皇を補佐するのである。
 その意味で、大化の改新は、中臣(藤原)一族が蘇我一族にしかけたクーデターということができる。
 天皇の絶対性は、藤原氏ら中心とする家臣団がつくりあげたもので、天皇が絶対であれば家臣団も絶対なのである。
 これが日本の権力構造で、権威と権力の二系統がたがいの支えあっているのである。
 そうなると、最大の善は、力の論理や個人主義ではなく、むしろ、対立を否定する中庸の精神やあいまいさ、決着を避けるグレーゾーンで、日本では、鎌倉から江戸まで権力(幕府)が内紛で瓦解した例は一つもない。

 ユーラシア大陸と日本の国家形態が異なるのは、稲作文化と麦作・狩猟文化のちがいでもあって、稲作国家において、もっとも高いモラルが聖徳太子のいう和の心≠ナある。
 一方、麦作・狩猟文化のモラルは闘争心≠ナ、ユーラシア大陸で通用するのは、個人主義と「力の論理」だけである。
 そこからでてくるのが唯物史観で、近代以降、西洋の国々は、英国のような伝統国家の形態をとる国をふくめて、すべて、革命国家となった。
 日本が、世界で唯一、伝統国家たりえているのは、稲作文化の国だからである。
 自然崇拝の流れをくむ穀霊祭(収穫祭)がそのまま政(まつりごと)になった国では、革命の必然性はどこからもでてこない。
 稲作の国は、飢饉さえなければ、すべての民が飢えることなく生きてゆける。
 だが、狩猟や麦作の国では、力のある者しか生きのびることができない。
 そこで、革命がおきて、過去と旧体制が清算される。
 革命は食糧の絶対的不足もその一因だったのである。
 稲作国家は、政治と自然、宗教が一体化しているので、革命による独裁権力の樹立ではなく、祭祀国家から宗教的な君主制への移動というおだやかな方法がとられる。
 稲作国家である日本が伝統国家として生き残ったのは、稲作という食文化の恩恵といえるだろう。
 長いあいだ、稲作は朝鮮半島からつたわったという曲解がまかりとおってきた。
 次回は、稲作がどこからどんな人々の手をとおって日本につたわったかを検証していこう。
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