2018年01月15日

神道と世界最古の文明「縄文文化」28

 ●稲作文化と天皇(4)
 旧石器・新石器時代は、西洋の古代史における呼称で、日本の場合、旧石器時代以降の呼び方が縄文・弥生時代となる。
 日本は、明治以降、西洋から古代史を学んできたので、時代区分に西洋の基準を使う悪癖をいまなおひきずっている。
 西洋は狩猟民族なので、打製(旧石器)であれ磨製(新石器)であれ、動物を狩って、肉を切り裂く道具として、石器がもちいられた。
 日本にも旧石器時代があったことにされて、教科書でも、原日本人がマンモスを追って、日本列島へやってきたことになっているが、染色体などを調べても、ユーラシア大陸内部には日本人特有のYAP遺伝子は存在せず、日本人がユーラシア人より先に日本列島に住んでいたことがわかっている。
 西洋式古代史のウソを暴いたのが、三内丸山の縄文文化の存在だった。
 国の特別史跡に指定されている三内丸山遺跡は、5500年前から4000年前までおよそ1500年間にわたって500人ほどが定住していたとされる縄文時代の集落で、遺跡跡からは住居や墓にくわえ、大量の縄文土器や装身具などが出土している。
 またクリやゴボウ、ヒョウタンやマメなどの植物栽培の痕跡もみられ、狩猟中心の新石器時代の古代観がもののみごとにくつがえされている。

 新石器時代(紀元前8000年頃)は日本の縄文時代とかさなるが、両者は世界観がまったく異質で、際立っているのが、新石器時代から土器がまったく出土していないことである。
 土器の有無が新石器時代と縄文時代の決定的なちがいで、それが古代文明の東西の分岐点となった。
 人類は火を利用することを知って、大きな進歩をとげたが、同様に、土器の発明によって水を自在に扱えるようになった縄文人は、狩猟民族とは異なった新しい文明のみちを歩みはじめた。
 水を保存し、移動させる土器が、農業と海洋進出を可能にしたのである。
 三内丸山では、縄文時代、各種の農業栽培がおこなわれたことがわかっており、これが、のちの陸稲・水稲栽培へつながってゆく。
 そして、もう一つが海洋進出で、三内丸山遺跡から1メートル近いマダイや大型魚の骨が出土しているところから沖合漁業がおこなわれていたのは明らかで、その他、新潟県のヒスイ、岩手県のコハク、北海道の黒曜石がみつかっているのは、船団による地方遠征がおこなわれていたからであろう。
 伊豆七島の八丈島で縄文土器が発見されていることから、土器をつくった縄文人が、農業開拓者である一方、海洋民族だったことがわかる。

 1960年中頃、バヌアツ共和国でフランスの考古学者ジョゼ・ガランジェ博士が採取した土器のかけらが、日本の縄文式土器に似ていることに注目した篠遠喜彦博士がオックスフォード大学に分析を依頼した結果、土器がつくられたのは約5000年前で、ミクロパーライトという成分がふくまれていることから、青森県周辺でつくられた縄文式土器だったとわかった。
 また、エクアドル太平洋沿岸のバルディビアで数多く発見された土器が日本の縄文式土器に似ており、年代測定すると5500年前のものだという。
 エクアドルには縄文式土器のような高度な土器の前駆となる素朴な土器がない。
 そこから、アメリカ・スミソニアン大学のベティメガーズ博士は、約5000年前に縄文人が南米エクアドルへ移動してきたという仮説を提示した。
 5000年前、縄文人が高い航海技術を持っていたことは、三内円山遺跡で新潟県のヒスイ、岩手県のコハクがみつかっていることや八丈島で縄文土器がみつかっていることからも明らかである。
 当時の丸木舟は、脇に浮きを付けたアウトリガー方式と思われるが、実験で安定度を測定したところ、台風クラスの波をうけても転覆しないことが分かった。
 日本付近から黒潮がアメリカ大陸にむかって流れている。
 その黒潮にのると、6か月後、カナダ南部からアメリカ西海岸に到着する。
 日本付近を北上後、北太平洋海流となって東進する黒潮は、アメリカ西海岸を南下するカリフォルニア海流となって、赤道手前で北赤道海流と赤道反流に分かれる。
 赤道反流に乗り移った場合、次にぶつかる陸地がエクアドルあたりの海岸になる。
 一方、黒潮反流にのってフィリピンを迂回するルートをとれば、島づたいに南下して、エクアドルからバヌアツへもたどり着くことができる。
 日本からアメリカ西海岸やエクアドルまでも約6か月前後かかるが、食糧は船の影に集まる魚を取り、水は雨水を溜める土器があれば問題はない。
 粘土を焼いて、土器をつくった縄文人は、石器中心の文化をつくった西洋とはまったくちがったみちをあゆんで、日本文明をつくりあげた。
 日本文明の根底にあるのが縄文文化だが、その特質は、土器と農業とりわけ稲作である。
 次回から日本文明の特殊性へふみこんでいこう
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2018年01月04日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」27

 ●稲作文化と天皇(3)
 稲作は米食という食習慣をもたらしただけではなかった。
 文化や制度、習俗なども、稲作の影響をうけ、日本という国家は「豊葦原の瑞穂の国(神意によって稲が豊かに実り、栄える国)」(古事記)というにふさわしい稲作国家となった。
 民に水田を割りあて、収穫を納税させる班田収授制(652年)が明治時代の地租改正にいたるまでの日本の租税の基軸で、武士の報酬も石高だった。
 貨幣も米本位制で、衣食住のなかで、稲作文化とかかわりをもたないものは、日本ではなにひとつない。
 平安時代には朝廷の「新嘗祭」「大嘗祭」が整えられ、民間でも、田楽という豊作祈念の歌や踊りがおこなわれるようになって、それが日本の芸能の原型となったといわれる。
 その稲作が、いつごろ、だれによって、日本にもたらされたものか、それが戦前からの歴史上の大きな問題だった。
 稲作の伝来は、稲作文化の伝来でもあって、稲作をつたえた人々と日本人の交流の足跡でもある。
 終戦直後から20年ほど前まで、稲作が朝鮮半島からつたわったという説が有力だったが、いまでは、俗説として退けられている。
 寒冷地でコメは育たず、朝鮮半島北部で稲作が定着したのは、明治時時代に日本で冷害に強い品種(農林一号)ができてからで、それまで、イネは、済州島や半島南端で細々と栽培されていただけだった。

 稲作のルーツは、中国の江西省・湖南省で、1万2000年前までの稲籾が続々と発見されている。
 もっとも、これらはすべて陸稲栽培で、水田遺構の発見は、それから6500年も下らなければならない。
 水稲栽培は、揚子江(長江)の中・下流の起源説が有力で、日本へ伝来したのは長江産のジャポニカである。
 ジャポニカが日本へ伝来したルートは4つあるといわれる。
 @揚子江下流域から山東半島を経て、朝鮮半島南部から九州北部へ
 A中国・遼東半島から朝鮮半島を南下して、九州南部へ
 B揚子江下流域から直接、九州北部(対馬暖流ルート)
 C中国・江南地域から南西諸島を経て、南九州へ(黒潮ルート)
 稲作の場合、種子蒔きから収穫まで、手の込んだプロセスや耕作技術もつたえなければならず、当然、そこには、人的交流がなければならない。
 朝鮮半島伝来ということになれば、朝鮮半島の稲作伝達者との接点がなければならないが、その形跡が一つもなく、考古学的に見ても日本の稲作のほうが明らかに古い。
 稲作が朝鮮半島からつたわったという思い込みは、ユーラシア大陸の文化がすべて朝鮮半島を経由して日本にわたったという先入観からで、まだ日本にはそういうタイプの学者が多いのである。

 稲作が文化であることは、中国の「黄河文明=麦の文化」と「揚子江文明=米の文化」の二つの文明が衝突あるいは侵略があったことから十分にうかがえる。
 漢民族の黄河文明は、乾燥した寒冷地帯に位置するので、米は育たず、麦を主食(麺や饅頭)としていた。
 一方、南に位置する越人=ベトナム系の揚子江文明は、高温多湿地帯で、米を主食としていた。
 日本につたわったジャポニカ米は、中国揚子江沿いの湖南省が発祥と言われる。
 そのことから、揚子江文明に属する人々がジャポニカ米をもって、日本列島に渡り、稲作をつたえたとわかる。
 弥生時代に日本へ水稲耕作をもたらした人々が長江人だったとすれば、かれらが弥生人で、日本本土で、縄文人と共存して、混血して日本人となったのである。
 稲作の伝来が、人的な交流なくして考えられないという根拠はそれで、黄河文明との闘争に敗れた長江文明は、縄文文化と合流することによって、日本で生きのびたのである。
 日本への移入ルートは海路で、動力のない筏でも、長江(揚子江)河口から黒潮(対馬海流)にのれば、3日から10日ほどで九州に至る(840km)。
 長江流域・北部沿岸には、紀元前三世紀以前、筏を改良した沙船という大型の船があったことから、移民目的で、はるか昔から長江の人々が日本に渡って来た可能性はおおいにある。
 縄文文明と長江文明が合流すれば四大文明を超える大文明がうまれてなんの不思議もない。
 次回は、稲作と並んで、日本の国力を飛躍的に高めた農業についてのべる。
 そこに、日本の縄文文化が世界の四大文明を超える大文明を形成する理由がひそんでいるのである。
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2017年12月24日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」26

 ●稲作文化と天皇(2)
 縄文晩期から弥生時代初期にかけて、大陸から稲作が伝来、定着したことによって、日本列島で、人類史上、劇的な変化が生じた。
 一粒の種籾から2000粒、2年で400万粒にふえる驚異的な繁殖力をもつ稲作(米穀)が、人類の生態を根本から変えてしまったのである。
 米穀が採集・狩猟よりはるかに食効率が高く、なによりも「余剰」を生み出す食糧だったことから、定住と人口の増加、備蓄と相俟って、社会の原型というべきものがつくりあげられたのである。
 定住が人口増加を、備蓄が冨を、集団化が権力をつくりだす一方で、飢えから解放された人類は、文化や宗教という無形の価値も手に入れた。
 それが祭祀国家の萌芽で、自然崇拝が穀霊崇拝という形をとって、収穫祭からのちの新嘗祭へ発展し、祭祀主としての天皇が出現する。
 稲作が伝来して、集落が発生してから数百年後、日本列島に、ユーラシア大陸には存在しなかった現人神≠ェあらわれたのである。
 その意味で、天皇は稲作からうまれたといってよいのである。
 そこで、古代史の最大のテーマでもある、天皇の権力や権威はどこからきたのかという大問題につきあたる。
 ヨーロッパのキングも中国の皇帝も征服王(覇王)で、軍隊をもたない祭祀王が、なぜ、覇王をしのぐ強い力をもちえたのか、長いあいだ、謎とされてきた。
 理由は、祭祀王=天皇が、権力ではなく、権威だったからである。
 権力にとって、権威は、決定的に重要な存在で、権力者がその地位にとどまることができるのは、権威が万全なかぎりにおいてである。
 人々の心をつかむのは、法や政治などの権力ではなく、文化や宗教という権威であって、権力は、権威と円満な関係にあるとき、安定する。
 権力者は、権威の構造が定まったところへ権力の基盤を打ち込む。
 権力者にとって、権威は、競合者どころか、かけがいのないパートーナーだったのである。

 それが日本特有の権力構造で、権力は権威を立てて、はじめて、権力者たりえるのである。
 権力者が思い上がって権威を倒した場合、その権力者は、早晩、他の権力者の標的となって、長期政権など望むべくもない。
 権威という絶対的存在がなければ、権力は、漂流するほかないのである。
 それが後醍醐天皇の「建武の新政」が失敗したあとの戦国時代で、権威が不在になれば武者たちの群雄割拠があるばかりである。
 権力者が天皇を絶対化したのは、おのれの権力を磐石にするためでもあった。
 権威と権力の二元性をわきまえていなかったのは、天皇にとって代ろうとした蘇我一族だけで、その蘇我氏を討った中臣鎌足の一族は、その後、権力の座について、のちのちまでも天皇を補佐するのである。
 その意味で、大化の改新は、中臣(藤原)一族が蘇我一族にしかけたクーデターということができる。
 天皇の絶対性は、藤原氏ら中心とする家臣団がつくりあげたもので、天皇が絶対であれば家臣団も絶対なのである。
 これが日本の権力構造で、権威と権力の二系統がたがいの支えあっているのである。
 そうなると、最大の善は、力の論理や個人主義ではなく、むしろ、対立を否定する中庸の精神やあいまいさ、決着を避けるグレーゾーンで、日本では、鎌倉から江戸まで権力(幕府)が内紛で瓦解した例は一つもない。

 ユーラシア大陸と日本の国家形態が異なるのは、稲作文化と麦作・狩猟文化のちがいでもあって、稲作国家において、もっとも高いモラルが聖徳太子のいう和の心≠ナある。
 一方、麦作・狩猟文化のモラルは闘争心≠ナ、ユーラシア大陸で通用するのは、個人主義と「力の論理」だけである。
 そこからでてくるのが唯物史観で、近代以降、西洋の国々は、英国のような伝統国家の形態をとる国をふくめて、すべて、革命国家となった。
 日本が、世界で唯一、伝統国家たりえているのは、稲作文化の国だからである。
 自然崇拝の流れをくむ穀霊祭(収穫祭)がそのまま政(まつりごと)になった国では、革命の必然性はどこからもでてこない。
 稲作の国は、飢饉さえなければ、すべての民が飢えることなく生きてゆける。
 だが、狩猟や麦作の国では、力のある者しか生きのびることができない。
 そこで、革命がおきて、過去と旧体制が清算される。
 革命は食糧の絶対的不足もその一因だったのである。
 稲作国家は、政治と自然、宗教が一体化しているので、革命による独裁権力の樹立ではなく、祭祀国家から宗教的な君主制への移動というおだやかな方法がとられる。
 稲作国家である日本が伝統国家として生き残ったのは、稲作という食文化の恩恵といえるだろう。
 長いあいだ、稲作は朝鮮半島からつたわったという曲解がまかりとおってきた。
 次回は、稲作がどこからどんな人々の手をとおって日本につたわったかを検証していこう。
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2017年12月15日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」25

 ●稲作文化と天皇
 日本は稲作文化の国である。
 稲作文化は、むろん、米食文化だけをさすのではない。
 狩猟文化が西洋文明の根幹になっているように、稲作文化が日本文明の土台になっているのである。
 稲作文化と狩猟文化とでは、自然観や宗教観、生命観に大きなちがいがある。
 自然を生活資材や糧とする狩猟文化は、自然を征服し、利用しつくし、ときには、殺してしまう。
 一方、稲作文化は、大自然と共にあって、互いにその恩恵にさずかっている。
 自然破壊の西洋において自然はモノだが、自然崇拝の日本では自然はカミなのである。
 コメづくりは、太陽や大地、水の調和で、自然神と生命を宿す精霊、八百万の神々との協業である。
 自然の神々が力を合わせて、コメという霊性の高い(穀霊)食べ物をつくったのである。
 稲作文化は、神と自然、ヒトが一体となった神話的な世界で、日本人の生活全般、宗教や歴史、習俗に稲作文化の影響がおよんでいる理由がそこにある。
 日本人の精神世界が神話的だからで、だから「日本は神の国」といわれるのである。

 稲作よって最初に生じた大変動が弥生初期の人口爆発だった。
 縄文時代晩期には十五万人程度で、絶滅の危険さえあった日本人の数が、稲作の普及によって急増して、やがて、弥生の小国家群の形成につながってゆく。
 米には高い生産性と備蓄性があるからで、1粒の種もみから80粒の米がつく苗ができ、この苗を田んぼに植えると10本ほどにふえるので、収穫は800粒にもなる。
 土地当たりの収穫性も高く、農地1ヘクタールで何人扶養できるかという試算では、日本を10とするとヨーロッパ諸国が2〜4、アメリカが1、オーストラリアが0・1という。
 コメは主食として完全食品であるところから、経済活動の中心で、生活技術や信仰儀礼、社会様式へも大きな影響力をもった。
 人類は稲作を知って、高度な集団生活を営めるようになったのである。
 日本の衣食住から、習俗、制度にいたるまで、稲作文化にかかわらないものはないが、律令・封建体制をささえたのも、役人や武士への録として米であって、貨幣経済も米本位制だった。

 稲作文化から生じたのが祭祀と祭祀王=天皇である。
 生産性の高いコメの伝来によって、人口の急増と集団化がすすみ、日本は、農耕(稲作)国家として歩みはじめるが、農耕国家ということは、とりもなおさず、祭祀国家ということでもあった。
 近代においてすら、冷害や日照り、自然災害などによって村落が全滅するというケースが、歴史上まれではなかったことから、古代社会において、天災による不作の恐怖はいかばかりであったろう。
 コメへの依存度が高まるほど、不作の恐怖も大きくなるが、人々は、ゆたかな実りを神に祈るしかなかった。
 イネの豊凶が村落存続の保障で、しかも、原始的農耕は、自然の脅威の前では無力に近かった。
 豊作の祈念や実りを感謝する収穫祭が、人々の最大の行事で、また、作物の出来がかれらの最大の関心事だったのである。
 そこから、共同体あげての挙げての儀礼中心の宗教(民族宗教/自然宗教)が営まれた。
 日本の土着的宗教=神道が集団宗教なのはそのためである。
 収穫祭が地域連合となって、それが政治連合へ発展していったのは、ヤマト連合政権が、覇権争いではなく、宗教的なむすびつきとして形成されていった経緯からもうかがえる。
 その宗教的むすびつきの中心におられたのが、収穫祭のちの新嘗祭の祭祀主としての天皇であった。
 天皇は、絶対者としての資質をみずからつちかったのではなく、祭祀国家という構造が、天皇=祭祀王という絶対者を必要としたのである。
 天皇は新嘗祭をとおして、世俗を超越して、神となったのである。
 のちの古墳時代において、朝廷の高官や豪族、有力者が、こぞって、大和朝廷の勢力圏であることを示す「前方後円墳」をつくっている。
 大和朝廷・連合政権の結束が、利害ではなく、つよい宗教的権威にもとづいていたとみるほかない。
 エジプトのピラミッドに匹敵する大型の前方後円墳の建造技術は、最低でも数百年の知的蓄積が必要で、祭祀の国家的統一も一朝一夕でできるわざではない。
 その歳月をのりこえて、国全体が大和朝廷へ同一化をはかったのは、祭祀主である天皇への絶対的信仰があったからである。
 時系列的にみると、稲作を身につけた弥生人が小国家群をつくったのが弥生初期(紀元前10世紀頃)であるとするなら、紀元前660年の初代神武天皇、天皇が祭祀主としてふるまった欠史八代、そして、九州北部だけでも100をこえる小国家がうまれ、10代崇神天皇が大和朝廷の国家運動にのりだした紀元前100年までが、大和朝廷の黎明期ということができるだろう。
 そして、その3世紀のちに古墳時代をむかえ、大和朝廷と天皇の権威が確立してゆく。
 次回は、日本というクニの国家形成に大きな役割をはたしたコメ、そのコメづくりを伝来した人々がどこからやってきたのかについて考えよう。

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2017年11月24日

神道と世界最古の文明「縄文文化」24

 ●伝統としての天皇と神話
 日本において、皇位の簒奪が不可能だった理由は、皇位が、制度ではなく、伝統だったからである。
 伝統は歴史という時間軸のなか、制度は現在性という平面軸のなかにある。
 皇位は、歴史のなかに用意された玉座であって、歴代天皇はそこへお座りになられた。
 天皇は、空間的存在ではなく、歴史的存在なのである。
 わが国で、天皇にとって変わろうとするものがでてこなかったのは、制度が歴史をこえることができなかったからで、歴史=伝統が天皇を支えてきたのである。
 伝統は、歴史をつうじて後代へ受け継がれていくもののうち変更が不可能な文化で、神話や宗教、血統や祭祀のほか、習慣や習俗、思想や芸術などもふくまれる。
 伝統の対極にあるのが、革命や進歩、自由や平等、民主主義などの近代思想である。
 これらは、変更が可能というよりも、社会の変革や改革、伝統破壊を目的とした文化である。
 極端なケースが暴力革命だが、民主主義や改革も同じ線上にあって、伝統の価値をみとめないばかりか、改革の抵抗や妨害者と見て、敵視する。
 改革主義に対抗するのが保守主義である。
 伝統と保守主義は同じ陣営にあって、ともに革命や改革主義と対抗する。
 革命や改革主義がなければ、伝統をまもる保守主義も右翼もうまれなかったろう。
 保守主義や右翼、民族派は、フランス革命やロシア革命を全否定する。
 そして、神話であろうと実史であろうと、歴史を全肯定する。
 それが、伝統主義に立つ右の陣営の根本思想である。

 天皇の伝統や権威、根拠が歴史にもとづくのはいうまでもない。
 その一つに、神武以来、万世一系の血統が維持されてきた皇紀2600年をあげることができる。
 そして、もう一つあげられるべきは、日本書紀がつたえる「三つの神勅」の神話である。
「三つの神勅」は、天孫ニ二ギノミコトが高天原から葦原中国に天下られるに際して、天照大神から賜った三つのお告げである。

『宝祚無窮(ほうそむきゅう)の神勅』
 葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。
 秋に稲穂が実る葦原瑞穂の国(日本)は、わが(天照大神)の子孫が治めるべき地である。我が子よ、行って治めなさい。天孫が継いでいく限り、この天壌(天と地)はけっして窮することがありません。
『同床共殿(どうしょうきょうでん)の神勅』
 吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与に床を同くし殿を共にして、斎鏡をすべし。
 わが子よ、この鏡をわれ(天照大神)と思ってみなさい。そして、この鏡を宮殿内に安置し、お祭りの神鏡にしなさい。
『斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅』
 吾が高天原に所御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつるべし。
 わが(天照大神)高天原に実った神聖な田の稲穂を、わが子に授けよう。

「三つの神勅」は日本書紀に記された神話であるが、その神話が、天皇や宮中祭祀、神道、米づくりなど、日本という国家や国体の根幹とむすびつき、日本精神や日本的な価値観のようなものをつくりだしている。
 新嘗祭の起源とされているのが『斎庭の穂の神勅』である。
 日本では、古くから五穀の収穫を祝う風習があった。
 宮中祭祀としての新嘗祭が最初におこなわれたのは、飛鳥時代の皇極天皇の御代とつたえられるが、収穫祭の起源はもっと古く、穀物の収穫や備蓄が安定的になって、集落規模も大きくなった縄文晩期から弥生時代にかけてであったろう。
 収穫祭は新嘗祭の原型である穀霊祭でもあって、祭祀主が新穀を天神地祇に供え、みずからもこれを食して、その年の収穫に感謝する。
 当時、穀物の実りは最大の関心事で、穀霊がアニミズムなら、穀霊に祈りを捧げる祭祀主はシャーマンであったろう。
 縄文晩期から弥生時代にさしかかる紀元前10世紀頃、新嘗祭の原型となる収穫祭(穀霊祭)がおこなわれていたと思われる。
 それが日本書紀に記された「三つの神勅」神話とふれあっている。
 縄文時代の素朴な信仰心が、穀霊祭をとおして、神道へ近づいていった。
 自然(穀霊)崇拝のアニミズムが新嘗祭へ、穀霊祭の祭主としてのシャーマニズムが天皇へとうごいて、日本の国体の原型が徐々にできあがってゆくのである。
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2017年11月16日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」23

 ●絶対権力者としての天皇の系譜
 大川周明は、古代史のヒーローとして、聖徳太子と中大兄皇子(天智天皇)の二人をあげる。
 聖徳太子は、推古天皇の摂政として、蘇我馬子と協調して政治をおこない、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど、天皇を中心とした中央集権国家体制の基礎をかためた。
 遣隋使を派遣して、国書に中国皇帝にしか使用されていなかった天子ということば(日出処の天子)を使って、日本が、隋と対等な関係にあるとしたのも聖徳太子で、これは、冊封体制からの離脱宣言だったとみてよい。
 日本は、七世紀初頭、聖徳太子によって、華夷秩序から脱して、独立国家の道を歩みはじめたのである。
 一方、中大兄皇子は、藤原鎌足とともに蘇我入鹿を暗殺、蘇我蝦夷を自害に追いこみ(乙巳の変)、稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたって絶対的権力をふるった蘇我氏を滅ぼして、天皇中心国家の根幹をつくりあげた。
 大川は、大化の改新を断行した中大兄皇子を強者と評価する一方、蘇我馬子と協調関係にあった聖徳太子にたいしては逆の評価をする。
 聖徳太子が強者になれなかったのは、蘇我の閨閥関係(外戚)にあったからだろう。
 聖徳太子の子山背大兄王が蘇我入鹿に攻められて一族が自殺に追い込まれたのは、田村皇子(舒明天皇)との皇位争いに敗れてのことで、ここで、聖徳太子の血筋は完全に絶えてしまう。

 628年、推古天皇の没後、舒明天皇が蘇我蝦夷に擁立されて即位する。
 当事、天皇の任命権まで、蘇我氏に握られていたのである。
 舒明天皇は即位13年目で崩御する。
 皇位は皇太子の中大兄皇子に継承されるはずだったが、若すぎた(16歳)ために皇后の宝皇女が皇位に就いた。
 これが第35代皇極天皇である。
 皇極天皇は中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)の生母である。
 大化の改新後、皇極天皇の弟の孝徳天皇に譲位したが、孝徳天皇が没すると重祚して斉明天皇となった。
 皇位継承権のある中大兄皇子、古人大兄皇子、山背大兄王の争いを避けるためだったと思われる。
 孝徳天皇が崩御した後も、中大兄皇子は即位しない。
 661年に斉明天皇が崩御するが、それでも、中大兄皇子は即位せず、皇太子のまま政務にあたる。
 663年、朝鮮半島の白村江にて、友好国の百済を救うため、日本軍は唐・新羅の連合軍と争うが、大敗する(白村江の戦い)。
 その後、日本は唐からの攻撃を警戒し、対馬、壱岐、筑紫などに防人を置くなどして侵攻に備えた。
 中大兄皇子が天智天皇として即位した(668年)のは、外国からの襲来に備えて、歴代の天皇が都を構えた大和から遠く離れた近江大津宮だった。
 ちなみに、天智天皇が完成させた「近江令」はのちの「大宝律令」の基礎となる法典である。
 天智天皇は、その三年後の671年、46歳で亡くなる。
 そして、その後、日本中をゆるがす権力闘争が勃発する。
 聖徳太子が基礎をつくり、大化の改新後、確立された天皇政治が、皇位継承をめぐって、大乱(壬申の乱)をひきおこすのである。

 壬申の乱は、天智天皇の弟(大海人皇子)と天武天皇の子大友皇子との争いである。
 たたかいは、草壁皇子や高市皇子、大津皇子、地方豪族を味方につけた大海人皇子の勝利に終わって、大友皇子は自害する。
 大海人皇子がのちの天武天皇である。
 皇位をめぐるこの内乱が、結果として、天皇の絶対主義を固め、天武天皇の皇親政治をうみだすことになった。
 天武天皇は「日本という国の原形をつくりあげた」といわれるほど、日本に大きな影響を与えた天皇である。
『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じ、天皇の名称や日本の国号を制定したのも天武天皇といわれる。
 神道を制度化したのも天武天皇で、各地の神を祀る祭儀を朝廷公式の儀礼へ取り込み、新嘗祭を創設した。
 天武天皇は、唐をモデルとした新たな都、藤原京を建設する。
 ソフト面は飛鳥浄御原令、ハード面は藤原京を建設することによって、天武天皇は、天皇を中心とした本格的な律令権国家を築き上げようとしたのである。
 日本史をふり返って、聖徳太子から中大兄皇子(天智天皇)、天武天皇へつながる権力者・天皇の強烈な系譜は他に例がない。
 蘇我氏を討った中大兄皇子や皇親政治の天武天皇の強権が、天皇絶対主義の土壌をつくりだして、やがて、摂関政治や権威と権力の二元論的へとすすんでゆく。
 次回は、この歴史をふまえて、日本において、なぜ皇位の簒奪が不可能だったのかを考えてみたい。
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2017年11月12日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」22

 ●神道と天皇の誕生
 記紀の時代(8世紀)からみて、紀元前660年は、千年をはるかにこえる大昔で、神武東征も橿原における神武天皇即位も、空想=神話世界の出来事であったろう。
 だが、神話であろうと実史であろうと、日本人にとって、皇紀2600年と神武天皇の真実は、ゆるがぬ歴史の記憶で、歴史は、民族の記憶であり、伝承なのである。
 実在したとされる10代崇神天皇を初代天皇に見立てるむきもあるが、それも、神話と実史のつながる時期が異なるだけで、歴史観に大きな変化が生じるわけではない。
 人々が信じてきたもの、それが歴史なのであって、神話と実史が融合している天皇の歴史は、永遠に変わるところがない。
 大きく変わったことは、崇神天皇の時代に、シャーマニズムとアニミズムの原始宗教が終わって、天皇の時代がはじまったということである。
 自然崇拝にもとづくシャーマニズムは、新嘗祭(穀霊祭)に代表される宮中祭祀へひきつがれ、アニミズムも天神地祇の祭事へ吸収された。
 宮中三殿の賢所は天照大神を祀り、皇霊殿は皇祖皇宗(歴代天皇)と皇族の霊を祀る。
 そして、神殿では八百万の神々(天神地祇)が祀られる。
 これが神道のはじまりで、天皇は、収穫祭の祭祀主だったのである。
 
 縄文文化のエッセンスである神話や素朴な原始宗教が宮中祭祀へと結実する一方、祭祀王だった天皇は、為政者・権力者としての顔をもちはじめる。
 神武以降、欠史八代(紀元前581年〜98年)の約500年にわたる神話時代が終わって、崇神天皇の時代(紀元前97〜30)から人間天皇の物語がはじまるのである。
 ※崇神天皇を3〜4世紀の天皇とする説もある。
 崇神天皇による四道将軍(北陸・東海・西道・丹波)派遣は、神武から9代開化天皇にいたるまで、畿内にとどまっていた大和朝廷が、全国規模の政権へふみだした画期的な一歩であった。
 もっとも、日本全土の支配権を確立するのは、崇神天皇の四道将軍派遣ではなく、崇神から二代下った12代景行天皇の子ヤマトタケルノミコト(日本武尊)の西方の熊襲征伐、東方の蝦夷平定にあったと思われるが、ヤマトタケルノミコトはたたかいのさなかに命を落とす。
この時代は、内憂外患の時代でもあって、14代仲哀天皇の急死(200年)後、269年まで政事を執った神功皇后は、新羅征討の兵を挙げ、朝鮮半島の広い地域を服属下におき、このとき、新羅や高句麗、百済(馬韓・弁韓・辰韓)は朝貢を約して、人質をさしだしたという。
 三韓征伐は、日本・朝鮮両国の史書ばかりか、支那の史書にも「三韓の地はあるときは支那に臣従し、あるときは倭に服属していた」と記されている。
 これは、日本の外史上、画期的なことで、日本の三韓支配は、日本が日本軍と百済復興軍が唐・新羅の連合軍とたたい、敗れた白村江の戦(663年)までつづく。
 このかん、筑紫の国造磐井が新羅と結んで任那に赴く大和朝廷軍に対抗した磐井の反乱(527年)があったが、物部氏に平定されている。
 以後、地方政権の抵抗は収束して、大和朝廷は、完成期へむかうことになる。

 これが3世紀中頃から7世紀にいたる大和時代(古墳時代)である。
 日本の古代史は、『漢書』や『後漢書』、『隋書』、『魏志倭人伝』など中国の歴史文献に依存している。
 したがって、中国の歴史文献に倭国の記述があらわれてこない266年から413年までの約150年が「空白の4世紀」と呼ばれて、大和朝廷の成立や変遷が謎に包まれたままである。
 だが、大和時代に、朝廷の支配がつよまって、古代国家の基礎が整えられたことは、巨大な前方後円墳がさかんにつくられたことからも明らかである。
 大和時代の初期に、全国で11番目の大きさの前方後円墳である箸墓古墳がつくられている。
 箸墓は倭迹迹日百襲姫命の墓で、魏志倭人伝がつたえる卑弥呼の墓でもある可能性が高い。
 すると、邪馬台国と大和朝廷が一線上につながって、天皇の時代としての大和時代がクローズアップされる。
 といっても、前期は、大伴・物部・蘇我らの各豪族が実権を握って、日本という国のかたちも定まっていなかった。
 天皇中心の政治へ変換していったのは、聖徳太子の法律(十七条憲法)および官制(冠位十二階)改革を経て、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が蘇我氏を討った大化の改新(645年)後のことである。
 大化の改新が成功していなかったら、日本は、蘇我氏らによって、儒教的な国家へみちびかれていたと思われる。
 儒教的な国家というのは、徳治主義に立った国家で、王は、正しいか否かで判定される。
 といっても、正しさの物差しはなく、後任者が前任者を否定することによって、正しさが否定され、体制がひっくり返る。
 これが易姓革命で、儒教思想に染まった蘇我一族とそのとりまきに、天皇に敬意を抱く者はなかった。
 蘇我馬子が、東漢直駒という刺客をさしむけて、崇峻天皇を弑逆した背景にあったのは、儒教思想だったのである。
 次回以降、天皇が権力者として、日本という国の土台をつくってゆく過程をみてゆこう。
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2017年11月05日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」21

 ●縄文文化と原日本人像
 三内丸山縄文遺跡の発見によって、縄文時代の歴史認識ががらりとかわってしまった。
 弥生時代も、そのはじまりが500年もさかのぼるなど、古代史の枠組みが大きく変動した。
 弥生時代のはじまりが早まったのは、水田稲作の伝来時期が、近年の年代測定によって紀元前10世紀とされたためで、従来の縄文晩期が、新しい年代の設定法によって、弥生時代の早期・前期へ書き直された。
 すると、神武天皇が即位した紀元前660年は、縄文の晩期ではなく、弥生の前期にあたることになって、吉野ヶ里弥生遺跡へイメージがつながりやすくなってくる。
 三内丸山縄文文化から1千数百年が経過し、吉野ヶ里弥生文化まで数百年という年代背景を思えば、紀元前7世紀は、野蛮な原始時代ではなく、稲作や集落、集団生活や食料備蓄が定着した古代社会だったと思われる。
 服装も、土偶などから、貫頭衣や巻布衣のほか、袖のついた衣服、ズボンを身に着けていたことがうかがえ、歴史学者のいう原始時代とはかなりイメージがちがう。
 紀元前660年にたいするわれわれのイメージは、考古学にもとづく学者の見解とはずいぶん異なるのである。
 縄文が謎につつまれているのは、1万数千年前から1万年にもおよぶ時代の長さゆえで、三内丸山(約5500年〜4000年前)の縄文文明も、どこへ消えたのか定説がない。

 原日本人がどこからきたのかもわかっていない。
 日本の歴史家は、大陸や半島からやってきた人々が日本人の祖先となったと主張してきた。
 だが、日本人と大陸人・半島人のあいだに血縁関係はまったくない。
 アジアで支配的なY染色体はO系統やC2系統で、日本人のY染色体は「ハプログループD1b縄文系」と「ハプログループO1b2弥生系」の二種類だけである。
 ハプログループはYAP型ともいわれるが、このYAP型は朝鮮人や中国人(漢民族)にはまったく見られない。
 YAP型のハプログループD1b型はアイヌ人・沖縄人・日本人の3集団に多く見られるタイプで、一方、「ハプログループO1b2弥生系」は大陸沿岸人と思われる。
 このことから、縄文人は、どこかから渡来してきたのではなく、数万年前、日本列島に忽然とすがたをあらわし、大陸沿岸部からやってきた同類のハプログループO1b2弥生系と混血して、現在に至ったということになる。
 大陸・半島に「ハプログループO1b2弥生系」が存在しないのは、O系統やC2系統の内陸人に滅ぼされたからで、一部が日本にやってきて、縄文人と混血したのである。
 結局、原日本人=縄文人のルーツはわからない。
 縄文文化も、一万数千年前、忽然とすがたをあらわし、弥生文化と融和したのち、古墳時代をへて、クニ(大和朝廷)を全国規模に広げていった。
 その末裔が今上天皇で、世界最古の伝統国家日本には、縄文人(YAP型)と縄文文化という二本の主柱がそなわっている。
 神道や天皇のルーツについても、日本列島土着である以上のことは、なにもわかっていない。
 1世紀前後に、日本文明が中華文明から分枝した(ハンチントン)というのは、むろん、科学的根拠をもたない見当外れである。

 山田康弘(『つくられた縄文時代』)は「戦前、縄文時代ということばがもちいられたことはなく、一律に石器時代という呼称が使用されてきた」とのべている。
 石器時代は、銅、青銅、鉄がもちいられなかった時代という意味で、人間の歴史の大部分は石器時代に該当し、ほとんど200万年にわたっている。
 原日本人=縄文人のルーツは、旧石器時代の200万年の深い闇にのまれてしまったわけだが、いえることは、縄文文化や日本民族は、どこかからやってきたのではなく、日本列島にうまれていまに残っているという厳然たる事実である。
 それを保守といいうるなら、日本という国家は、日本列島に樹立された世界一の保守国家なのである。
 縄文時代は、紀元前一万年前からはじまる新石器時代にあたるが、世界的な歴史区分にはないので、縄文は、時代的概念ではなく、文化概念ということになる。
 これまで、三内円山からはじまる縄文文化を探ってきたのは、天皇と神道のルーツをもとめるためだった。
 その核心にふれるポイントが記紀の神武東征と紀元前660年の神武天皇の即位であった。
 考古学的には否定されているが、それは大きな問題ではないだろう。
 神話にしろ実史にしろ、大事なのは、物語性のほうである。
 歴史は文化概念で、われわれが記紀を尊重するのは、古人がそれを信じてきたという物語性のほうである。
 天皇や神道の真実も物語にあって、だれも見たことのない実史と空想でしかない神話がないまぜになっているのが歴史である。
 縄文文化のアニミズムとシャーマニズムが、長い時間をへて、古道の原型をつくって、やがて、神道へ発展していった。
 そして、神道=古道から、天皇の権力および権威がうまれた。
 次回以降、日本という国家の誕生にともなう天皇の権力および権威について考えてみよう。
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2017年10月29日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」S

 ●縄文時代にさぐる日本国のルーツ
 大川周明は日本史を4期に分けて、第一期を建国から大化の改新までとした。
 実史から天皇以前≠割愛したのである。
 建国以前は縄文時代で、歴史学的には、ほとんど史料がない。
 縄文時代は、歴史学者によると、原始時代で、人々が毛皮をまとって、獣を追っていたとされるだけで、人文科学的な分析がまったくなされていない。
 古道(神道)や天皇のルーツは、その縄文時代にある。
 古道という土着的宗教が、自然崇拝からアニミズム、シャーマニズムなどをへて文化的な発育をとげたと思われるのが縄文時代だが、のべたように、縄文時代の文化史的な研究にみるべきものはなく、むろん、推論も存在しない。
 手がかりになるのが青森県の三内丸山縄文遺跡(5500〜4000年前)である。
 紀元前30世紀から20世紀にかけて、東北中心に「縄文都市」というべき文明が存在していた。
 同遺跡では、約1500年間つづいた集落跡の遺構や遺物から、住んでいた人々の生活技術から精神世界までをみることができる。
 竪穴住居跡、掘立柱建物跡、大型掘立(竪穴)柱建物跡、道路跡から、当時の文化レベルが明らかで、大人と子どもの墓、縄文土器や石器、釣り針、刺突具などの骨角牙貝製器、土偶、土・石製の装身具、袋状編み物や編布などの日用品から当時の人々の生活様式がうかがえる。
 注目されるのが、遠隔地から運ばれたと思われるヒスイやコハク、黒曜石が出土したことで、DNA分析によって、ヒョウタンやゴボウ、マメなどのほかにクリまでが栽培されていたことがわかっている。

 三内丸山の縄文文化は、まぎれもなく、日本文化のルーツで、日本は、紀元前5500〜4000年前からこの土着文化を連綿と保守してきたのである。
 天皇史は、記紀にもとづいて、紀元前7世紀の神武東征や神武天皇の即位を起点にしている。
 それ以前は神話で、記紀神話は、天皇の正統性を謳ったものである。
 神話に隠れて、実史がみえにくくなっているが、日本列島に誕生した文明と文化が、神武神話をはるかにさかのぼって誕生したのはいうまでもない。
 保守は連続性で、神道や天皇という文化、大和朝廷という文明をうみだした縄文文化は、古墳時代をへて、やがて、飛鳥や奈良、平安の日本史へ合流してゆく。
 有史以前から神話、実史をつらぬいているのは、保守という潮流で、日本は同一の宗教観・価値観を有史以前からうけつぎ、今日まで継承してきた。
 それが祭祀国家の原型で、根底にあったのは、自然崇拝と自然を畏れ、敬う素朴な宗教感情だった。
 日本の土着宗教が自然崇拝となったのは、自然が恵みだったからで、砂漠の宗教(キリスト教・イスラム教)が闘争的な一神教なのにたいして、日本の宗教は、平和的な多神教(アニミズム)であった。
 一方、自然は、荒魂が暴れる脅威でもあって、自然神と交流をはかる卑弥呼のようなシャーマンが要請された。
 それが天皇の原型で、紀元前1世紀に「分かれて百余国となる」(漢書地理志)とある国々の族長≠ニしての天皇が、そのはるか以前から存在していたのである。

 天皇や大和朝廷から切り離せないのが古墳である。
 古墳は、権力の象徴として、大和朝廷が日本国家の統一をなした3世紀後半から7世紀にかけてつくられた。
 古墳造成が400年以上つづけられたのは、そのかん、権力の動揺がなかったからである。
 古墳は、当時、世界最大の土木工事で、大手ゼネコン大林組の試算によると、日本最大の仁徳天皇陵に要した日数が15年8か月、必要人員は延べ680万人、かかった費用が2000億円という。
 当時、このような大工事が可能だったのは、大和朝廷が権力国家ではなく、宗教(祭祀)国家だったからで、すでに大和朝廷は、磐石の基盤をもっていたのである。
 三内丸山縄文遺跡と古墳をつなぐのが大規模な土木技術である。
 三内丸山遺跡の3層の掘立柱建物は、6本の巨大木柱を組み合わせた堅牢な建造物で、高度な土木技術のほか、集団的労働力や計画性、すぐれた指導力があったことをうかがわせる。
 吉野ヶ里の弥生遺跡(紀元前3世紀〜紀元3世紀)の復元された掘立柱建物では、直径50p以上の柱が使用されていることから大きな宮殿が建立された可能性が高い。
 日本国の歴史の連続性と4000年の保守思想は、年代をまたぐ遺跡として、歴然として輝いているのである。
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2017年10月26日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」R

 ●文明の衝突としての神道・儒教・仏教その2
 日本に仏教が伝来したのは6世紀半ばである。
 そして、崇仏派の蘇我馬子と聖徳太子が排仏派の物部守屋を討った「丁未の乱(587年)」ののち、中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足が蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼした「大化の改新(645年)」後も、仏教が国教としての地位をえてきた。
 仏教が日本で栄えた理由を三つ挙げることができるだろう。
 一つは、仏教が文明とうけとめられたことで、仏教は、宗教という枠組みをこえ、日本に新文明の導入と普及、その発達という形で開花した。
 大川周明はこう指摘している。
「仏教の渡来とともに寺工、仏工が入国したので、建築・彫刻が俄然として発達した。推古天皇の十八年に高麗より渡来せる僧雲徴は紙及び墨の製法を伝え、同じく推古天皇の時代、百済僧観勒は天文・地理学及び暦本を献じて、播種・収穫その他一般農業上に非常なる進歩を促し、孝謙天皇の時に渡来せるシナ僧鑑真はわが国における医術の祖と呼ばれた」
 土着信仰である神道(古道)が内なる神だったのにたいして、大陸から伝来した仏教は、文明という威をそなえた外なる神で、多神教世界だったわが国において、仏教は、内なる神と並び立つ有力な神となったのである。
 仏教が日本で栄えた二つ目の理由に仏像仏画をあげることができる。
 日本の土着信仰には、神の像を彫り、画いてこれを拝するという習俗はなかった。
 ところが仏教は、万物皆空・諸行無常を説きながら、実際には物象主義的であって、仏像仏画を飾り、堂塔伽藍を建立して、慈悲・偉大・荘厳なる仏陀の福音を形象化することにつとめた。
 抽象的道理はかならずしもひとをうごかさない。
 理論を以って理性にうったえるよりも、具体的な崇拝の対象をあたえ、感情にうったえうることことのほうが、はるかに人心を惹きつける。
 百済から朝廷に仏教をつたわったとき、欽明天皇は「相貌端厳、全く未だ看ざるところなり」と仰せられている。
 古道には神体=偶像がないので、仏像の荘厳美麗なるすがたが当時の人々の信仰心をはげしくゆさぶったのである。
 崇拝の対象を具体化する仏像仏画によって、日本では、仏教の布教が急速にすすんだのである。
 ちなみに、神道が神殿や聖堂をもつにいたったのも、仏教の影響で、それまで小さな祠や自然の一部だった祈祷場が、仏教の堂塔伽藍を模して、大規模な建造物をもつにいたった。
 仏教が日本で栄えた第三の理由に、朝廷が率先して、仏教に帰依した事実をあげることができる。
 僧官を置き、官寺を各国に建立して、国家の鎮護と人民の布教を任じることによって、僧侶は国家における特別の地位を占め、仏教伝道は、国家の事業であるがごとき様相を呈した。
 といっても、皇室の伝統に仏教がとりいれられることはなかった。
 仏教の「輪廻転生」「解脱」が、個人のものであるのにたいして、神道の「八百万の神々」「自然崇拝」が集団や共同体のものだったからである。
 もともと、朝廷が仏教を重んじたのは、仏教が、内神の及ばない力をもつと信じられる外神だったからで、朝廷は、天変地異や疫病などの災いから国家や民をまもるために、外神の霊験に頼ったのである。

 大陸や半島から日本につたわった大乗仏教は、解脱や個人の悟りをもとめる小乗仏教にたいして、大衆救済や社会奉仕という公共的な要素を多くふくんでいた。
 大乗仏教の代表的な人物が、朝廷から初めて仏教界の最高位である「大僧正」の官位をあたえられた行基である。
 1000人をこえる門弟集団を擁していた行基は、49の道場や寺院、15の溜池、9筋の溝と堀、6所の架橋、困窮者のための布施屋9所のほか多くの灌漑事業などの社会事業をおこなった。
 そして、疫病や飢饉、天災に苦しむ民の救済をねがう聖武天皇の要請をうけて、東大寺の大仏を造った。
 大乗仏教が絶対善となったのは、慈悲の思想からだった。
 だが、その後、仏教は、開祖や宗派によって、密教(天台宗/真言宗)や念仏信仰(日蓮宗/浄土宗/浄土真宗)へ変容しながら、それぞれ別個の発展をとげてゆき、行基の社会善から大きくかけ離れたものになっていった。

 中国から伝来した大乗仏教は、もともと、先祖崇拝の儒教や道教(地獄)と習合していたため、祖先崇拝の教義をもっていた。
 これに切支丹禁止令と表裏の関係にある檀家制度があいまって、江戸時代に墓参り仏教、葬式仏教ができあがった。
 一方、孔子思想としての儒教は、学問として武士層にうけいれられて、武士道や忠君愛国、尊皇思想へ変化していった。
 神道と仏教、儒教のなかで、日本的な精神としていまに残っているのは、結局、大川周明のいう古道、神道だけということになる。
 神道の原型は、古代史上、いつごろ萌芽したものであろうか。
 もともと、自然崇拝や大自然にたいする畏怖、一体感に由来するものだったはずで、古道は、本居宣長の大和心にもつうじるだろう。
 次回以降、日本の心としての古道の原点がどこにあったのかをさぐっていこう。
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2017年10月19日

神道と世界最古の文明「縄文文化」Q

 ●文明の衝突としての神道・儒教・仏教
 大川周明は日本史を4期に分けて、第一期を建国から大化の改新、第二期を大化の改新から鎌倉幕府、第三期を鎌倉幕府から徳川幕府の大政奉還、第四期を明治維新から現代までとした。
 その根底にあるのが、儒教と仏教、神道、西洋思想の衝突とその分化・棲み分けであろう。
 大川は、儒教が学問、仏教が宗教、神道が政治、西洋思想が文化への傾きを深めて、日本史の4期の区分けができあがったというのである。
 聖徳太子は、神道をもって政治の根本主義をなし、儒教をもって国民の道徳的生活を向上せしめ、仏教をもって宗教的生活の醇化をはかったと大川は指摘する。
 そして、道徳と政治を兼ね備える儒教は、日本固有の思想と相容れざるものだったと警告する。
 儒教は、天は有罪を討ち、有徳に命じて主権者たらしめると教える。
 それは、とりもなおさず易姓革命であって、力による王位の争奪である。
 シナは易姓革命を幾度となく繰り返して今日におよんでいる。
 ところが、日本においては、神武天皇の直系でなければ主権者となることができない。
 わが国の主権者たる天皇は「天神にして帝王」なるが故に命を受くるところがないと大川はいう。
 大川は天皇を「族の長」としてとらえ、これをして絶対者とする。
 日本が神武以来、万世一系の安泰を保ってきたのは、天皇が族長≠ニいう絶対的存在にして高天原が至高の理想だったからで、その根本にあるのは神道である。
 仏教や儒教がいかに栄えても、皇室においては、神道が尊ばれて、仏儒思想が入り込む余地はなかった。

 仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と大連・物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた丁未の乱(587年)によって、仏教は、国教に準ずるものとなった。
 だが、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣(藤原)鎌足らが蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼして孝徳天皇を即位させ、中大兄皇子が皇太子として実権を握った大化の改新(645年)によって、日本は、政治から仏教勢力を一掃するという古代政治史上最大の改革をなしとげる。
 蘇我氏打倒はその後の日本の政治に決定的な影響をおよぼす。
 国体としての天皇と、政体としての権力(摂政・幕府)の二元性が確立されてのち、その体制が鎌倉・江戸幕府から現代にまで継承されるのである。
 大化の改新以後の朝廷の安定は、易姓革命や宗教政治を排除した神道の絶対性と無縁ではない。
 根幹において変化がないことが国家安定の基盤で、大川が族長≠ニ呼んだこの絶対性は、血統であり神性であり歴史であって、一切の変更をみとめない。
 新嘗祭に代表される皇室の儀式はすべて神道で、太古よりなにもかわるところがない。
 それが祭祀国家の本質で、民の幸と国家の繁栄の祈りは、永遠にして不変なのである。
 国体が絶対にして不変である一方、政体が柔軟だった理由に、蘇我一族や藤原氏ら天皇の外戚(女系)が独占した摂政制度をあげることができる。
 日本で易姓革命がおきなかったのは、摂政あるいは幕府がしばしば交代したからである。
 有徳をもって権力者となるのは、政体の主であって、国体の主ではなかったのである。
 権力抗争は政体の出来事であって、原則として、国体は、権力抗争に関与しなかった。
 摂政あるいは幕府が交代しても、国体が関与しないかぎり、天下の大乱にはならない。
 大川周明が、鎌倉幕府から徳川幕府の大政奉還までを一時代としたのは、700百年近くつづいた武家政権において、国体がまもられたからだった。
 例外が「建武の新政」で、後醍醐天皇がもとめたのは倒幕という権力抗争であって、国体の安泰ではなかった。
 湊川の戦いで散った楠正成の「七生報国」は儒教の思想で、北畠親房の神皇正統記は南朝の正統性を主張して、皇統が神武以来100代にして滅びるという慈円「愚管抄」の百王説を否定した。
 後醍醐天皇、絶対的権威ではなく、相対的権力をもとめて挙兵したのである。
 武家政治をささえた武士道にも、その中心に江戸時代に奨励された朱子学をはじめ陽明学などが中心にあって、それが、御恩と奉公から幕末の維新運動にまで援用された。
 権力をもとめてゆれうごくのが文明の相なら、権威の下で不動なのが文化の相である。
 日本文明は、縄文文化という歴史の下敷きにそって展開されてきた独自の文明運動で、中華文明や西洋文明などと衝突しながら四つの時代区分をかけぬけてきた。
 これもまた大川周明流の『文明の衝突』なのである。
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2017年10月10日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」P

 ●皇国史観排除によって失われた日本人の歴史感覚
 大国主命は、出雲の国(島根県)で八十神を滅ぼし、葦原中国の王となったが、協力者のスクナビコ(小人神少彦/一寸法師のモデル)が常世国へ去って途方に暮れる。
 そのとき、われを大和国の三輪山に祀るべしという声が聞こえてくる。
「その声はだれや」と問うと「我は汝の幸魂(さちみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。
 声の主は大国主命自身で、聞こえたのは自身の魂の声だったのである。
 ここでフィクションと史実、史料が交錯する。
 第10代崇神天皇を支えた第8代孝元天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命は三輪山の神である大物主神(大国主命)の妻(神婚)になったという。
 百襲姫が魏志倭人伝のいう「卑弥呼」で、援けた男弟が「崇神天皇」だったことは、百襲姫の墓(箸墓)が、死期や大きさなどから卑弥呼の墓とみられることからも明らかだろう。
 大国主命と百襲姫の伝説が、卑弥呼の墓(箸墓)という史実をとおしてむすびついているのである。
 神話は、その神話を信じてきた人々の歴史でもあって、実証主義的な実史よりもいきいきと描かれている。
 それが、天孫降臨や神武東征、紀元前660年の神武天皇の即位で、皇国史観は、考古学的にして物語性を欠いた実史よりはるかにゆたかな内容をもっている。

 神武天皇は、大国主命を祀った三輪山麓に朝廷をひらき、10代崇神天皇は三輪山(大和)から全国覇権の第一歩をふみだす。
 ここで問題になるのは三輪山麓の大和という土地柄である。
 大和は地政学的に見て日本国を統一支配するには不適切な地域である。
 四方を山に囲まれた盆地で、陸路・海路から隔たった閉鎖的な場所だからである。
 農業生産の拠点としても狭隘で、河川流域という都市の第一条件を満たしてもいない。
 神武天皇が即位し、都を築いたのは、その大和の南端に近い橿原である。
 大和の中心は、現在の奈良や天理市が近い北方で、南はさびれている。
 神武天皇が橿原で即位した理由は、当時、そこが、豪族たちの力がおよんでいない半ば打ち捨てられた地域だったからではないか。
 神武天皇は、大和をめざしたのではなく、たどりついた地が大和南部だったのである。
 そして、橿原の地で、欠史八代の永きにわたって、地歩を固めて、10代崇神天皇にいたって、全国制覇に打って出る。
 記紀の編纂者は、大和東遷を合理化するために、大国主命の三輪山エピソードを神話に仕立てたのであろう。
 神武東征は、カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和の地に至って、橿原宮で即位するまでが記されている。
 東征が東遷とも呼ばれるのは、都を日向から大和に移すという意味である。
 カムヤマトイワレビコは兄のイツセ(五瀬命)とともに、葦原中国を治めるべく、日向(高千穂)から東へむかい、岡田宮で1年余、阿岐国で7年、吉備国で8年を過ごす。
 進軍が遅れたのは敵対勢力の妨害が激しかったからで、イツセは、浪速国の戦闘でついに戦死する。
 熊野まで来たとき、大熊があらわれて、兵士たちはみな気絶してしまう。
 このとき、カムヤマトイワレビコは、熊野のタカクラジ(高倉下)が運んできた一振りの太刀によって目を覚まし、熊野の荒ぶる神を切り倒し、兵士たちも元気を回復した。
 この太刀は、タカクラジの夢にあらわれたアマテラスとタカミムスビ(高木神)から下されたという。
 これは、天孫族のカムヤマトイワレビコに高天原からの神助があったという兆しで、一行はタカミムスビから遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、大和の宇陀に至った。
 カムヤマトイワレビコは、宇陀のエウカシ・オトウカシ兄弟、エシキ(兄師木)・オトシキ(弟師木)兄弟、土雲の八十建、ナガスネヒコ(登美毘古)らと壮絶にたたかう。
 有名なのが戦いの最中、カムヤマトイワレビコの弓の先にとまった金色の鵄(とび)で、ナガスネヒコの軍は、金鵄の光輝に眩惑されて戦闘不能に陥る。
 こうして、カムヤマトイワレビコは、荒ぶる神たちを服従させ、ついに畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)で神武天皇として即位する。
 
 神武東征は、物語が単純ではなく、多くの示唆に富んでいる。
 一つは敵が多かったこと、高天原からの神助があったこと、ひたすら大和の地をめざしたことである。
 敵が多かったのは史実だろうが、神助はフィクションで、大和を目指したのは結果論であろう。
 もっと重要なのは、軍団を率いて、長い歳月をかけて、日向から大和をめざしたカムヤマトイワレビコが橿原宮で即位するにいたった文化の力である。
 戦後日本人は、70年前、皇国史観を捨て去って、日本史を歴史実証主義にゆだねてきた。
 歴史教科書の縄文時代晩期の紹介では、土器や竪穴住居があるだけで、小集団の原始人が狩りや採集で生計を立てていたとする。
 小集団だったのは、確保できる食糧が少なかったからという。
 出土した土器と竪穴住居跡などの史料から一歩も出ないのである。
 ところが、神武東遷の神話には、当時の様子が物語性ゆたかに描き出されている。
 歴史実証主義が見失っている文化の力が、神話のなかでみごとによみがえっているのである。
 皇国史観排除という名目で、戦後、日本人は、歴史を奪われてきた。
 次回以降、日本の基礎を固めた古代天皇の足跡を見ていこう。

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2017年09月19日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」O

 ●神話に隠された歴史の真実
 スサノオは、天照大神や月読命とともに、イザナギの禊からうまれた3神のうちの一柱である。
 天照大神は高天原を、月読命は夜の食国(オスクニ)を、そしてスサノオは海原を治めるようイザナギに命じられるが、スサノオは、イザナミのいる根之堅洲国に行きたいと泣き叫び、中つ国から追放されてしまう。
 スサノオは、天照大神に別れ告げるため高天原へ上るが、天照大神はスサノオが攻めて来たと思い、武装して待ち構える。
 二神は互いの疑いを解くために誓約(うけい)をおこなう。
 誓約は結果が宣言どおりか否かによって、邪心のあるなしを判断する卜占である。
 天照大神がスサノオの持っている十拳剣を噛み砕き、吹き出した息から三柱の女神(宗像三女神)が産まれた。
 この三女神を祀るのが、2017年に世界遺産登録された沖の島宗像大社の沖津宮、中津宮、辺津宮である。
 次に、スサノオが、アマテラスの「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を噛み砕くと、宣言どおり、吹き出した息から五柱の男神が生まれた。
 スサノオの潔白は証明されたが、高天原に滞在することになったスサノオが乱暴をはたらいたため、天照大神は嘆いて、天の岩屋に隠れてしまう。
 これが天の岩戸隠れで、太陽神=天照大神が身を隠したため世界が真っ暗になってしまう。
 高天原を追放されて、出雲の鳥髪山へ降ったスサノオは、その地を荒らしていた八岐大蛇の生贄になりかけていた美しい少女櫛名田比売(くしなだひめ)と出会う。
 スサノオは、櫛名田比売を櫛に変えて髪に挿し、八俣遠呂智を退治する。
 そして八俣遠呂智の尾から出てきた草那芸之大刀(くさなぎのたち)を天照御大神に献上し、それが三種の神器の一つとなった(熱田神宮の御神体)。
 こうして、スサノオは櫛名田比売を妻として、出雲の根之堅洲国に留まる。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまごみ)に 八重垣つくる その八重垣を」
 スサノオは、日本で最初の和歌を詠った歌人でもあったのである。

 スサノオは、天つ神ではなく、国つ神である。
 国つ神の代表であるオオクニヌシ(大国主命)はスサノオの子孫である。
 この設定は多くの示唆をふくんでいる。
 一つ目は、天孫族(天つ神)と地祇(国つ神)が対立関係にあったこと。
 二つ目は、天つ神と国つ神は、全面戦争を避けて、棲み分けしたこと。
 三つ目は、世界を現象界(=顕界)と観念界(=幽界)に分け、前者を天つ神、後者を国つ神が支配するとしたこと。
 肉体の目に見える顕界と、魂の目に見える幽界の二元論である。
 幽界が設計図なら、設計図どおりにつくられたのこの世が顕界で、両者は表裏の関係にある。
 神道では、高天原と葦原中国、天つ神と国つ神、天照大神(伊勢神宮内宮祭神)と豊受大神(伊勢神宮外宮祭神)というふうに二項対立(二元論)が基本原理になっている。
 これが、権威と権力の二元論にひきつがれて、天皇に地位が確定する。

 天皇中心の政治というのは、天皇と摂政、天皇と幕府の二元体制で、天皇は祭祀、為政者は権力をあずかった。
 祭祀と権力もまた二元論で、祭祀は国家の安泰と民の幸を祈念し、権力者は政体をコントロールする。
 政体は、法や権力を操作する一過性の形や状態である。
 したがって、政体(権力)が変わっても国体(権威)に変化は生じない。
 その二元構造が日本を世界一の伝統国家たらしめてきたといってよい。
 中世以降、二元構造が崩壊に瀕する危機が二度あった。
「建武の新政」と明治維新から第二次大戦敗戦までの80年余である。
 後醍醐天皇の新政が失敗すると「応仁の乱」から戦国時代へ日本は「暗黒の中世」へ突入してゆく。
 権力をもとめた権威が空洞化したため、権力が手綱を失った暴れ馬のように暴走したのである。
 後醍醐天皇や北畠親房、楠木正成らが傾倒していたのが儒教で、親房の『神皇正統記』は徳治と名分論を謳った易姓革命のテキストだった。
 建武の新政は、神道が後退した時期の政変だったのである。
 もう一つは、天皇を国家元首に担いだ明治憲法体制で、国体と政体の合一によってつくりあげられた帝国主義は、ヨーロッパの政治システム真似た軍部による天皇の政治利用でもあった。
 その結末が1945年の国体の危機で、朝鮮戦争がなかったら、日本は共産主義革命にのみこまれていたろう。

 戦後の平和と繁栄は、国体護持の賜物で、象徴天皇の存続によって、国体と政体の二元論が復活して、日本再生が曲がりなりにも実現した。
 戦後、日本は、民主主義の国になったが、民主主義は、課税や法律、行政と同様、政体の範疇にあるもので、国家の安全や発展、民の幸という国体概念を超えるものではない。
 国会の開会式に天皇陛下がご臨席されるのは、日本が、国体(権威)と政体(権力)が二元論に立っているあかしで、天皇が憲法上の存在であるというのは、左翼反日の妄想にすぎない。
 憲法が最高法規で、民主主義が最高の意志決定手段というのは、政体=国家の革命国家のルールであって、国体を有するわが国には通用しない。
 伝統国家では、法規や多数決など政体の一過性のルールだけではなく、習慣や伝統、しきたりが重んじられる。
 国体は歴史の一部なので、過去が現在に反映されるのである。
 政治の目的は、国家・国民の繁栄の継続であって、国家は、現在を生きるにすぎない人々の占有物ではない。
 国民投票でEUから脱退したイギリスや大統領公選制のアメリカにあるのはのは、多数決(民主主義)だけであって、国体という政治の理想がない。
 神道の伝統にもとづき、権威と権力の二元論を立てた日本の国の形は、世界でもっとも洗練された政治体制といっていいであろう。
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2017年09月15日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」N

 ●神話と実史の融合点と断絶点
 神武天皇の祖先にあたるのが、神代のイザナギ・イザナミである。
 そこに神話と実史の接点がある。
 イザナギ・イザナミが国土や多くの神々を生み、黄泉国から帰ったイザナギが禊払いしたときに天照大神・月読尊・須佐之男命が生まれている。
 ここまでが神話である。
 天照大神の孫で、天孫降臨したニニギノミコトの曾孫が神武天皇である。
 ニニギノミコトが地上に降り立ったあとが人代(実史)にあたる。
 イザナギ→天照大神→アメノオシホミミ→ニニギ→山幸彦→ウガヤフキアエズ→神武天皇。
 したがって、皇室の祖は、イザナギでもイザナギからうまれた天照大神でもなく、天照大神から2代下った人代のニニギノミコトということになる。
 女系天皇論者が、天照大神を皇室の祖というのは、神話と実史の混同で、天照大神は、皇祖ではなく、皇祖神である。
 ちなみに天皇以外の氏族もすべて、イザナギ・イザナミからはじまっている。
 大伴氏はアメノオシヒノミコト、物部氏はニギハヤヒミコト、中臣氏(藤原氏)はアメノコヤネが祖先で、神を祖先にしていない大豪族は百済出身といわれる蘇我氏だけである。
 有力豪族が天皇に忠実だったのは、かれらの祖先がニニギの降臨に従った神々(五伴緒/イツトモノオ)だったからで、神話秩序の下にあった支配層の手によって、天皇中心の体制をつくりあげられてゆく。
 日本史で、唯一、天皇に刃をむけたのは、第32代崇峻天皇を弑逆した蘇我馬子だけだが、大化の改新で、蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿の直系4代による独裁体制が破られて、天皇中心の体制が復活する。
 ちなみに、蘇我氏が大きな力をもったのは、天皇の外戚(女系)だったからで、天皇の妃は蘇我一族がほぼ独占していた。

 天皇が尊いのは、神の子孫だからではなく、神武以来の血統(万世一系)がまもられてきたからである。
 その伝統こそが天皇の正統性である。
 天皇の地位は、歴史に用意された血統(男系相続)という玉座≠ノあって、そこに座られるのが天皇陛下である。
 皇位は、歴史上の地位であって、皇室の家系にとどまるものではない。
 女系天皇容認論は、歴史をつらぬいてきた真実を裏切る伝統破壊にほかならず、女性天皇という事態になれば、天皇の正統性が根こそぎ失われる。
 皇室断絶の危機を回避する唯一の方策は、旧皇族の皇籍復帰か、旧皇族への皇統承継権の付与しかなく、GHQが図った皇室断絶政策(11宮家の臣籍降下)をいつまでもひきずるほど愚かな歴史的選択肢はない。
 まもらなければならないのは、天皇の正統性で、天皇陛下も皇室も、皇位という歴史に刻まれた玉座をまもることによってまもられる。
 世界遺産に登録された沖ノ島(宗像神社)が神の島とされているのは、神性をおびているからではなく、4世紀から現在まで厳しく伝統がまもられてきたからである。
 沖ノ島にはきびしい入島制限と女人禁制がある。
 それが伝統で、世界遺産委員会は、女人禁制をふくめて歴史遺産としたのである。
「いまは男女平等の時代」などといって、女性宮家・女系天皇をみとめようというのは、伝統を毀損、破壊する亡国の徒のたわごとにすぎない。

 神話へ話をもどそう。
 天皇にかかわる神話は国譲り≠ナあろう。
 これは、ニニギノミコトの降臨(天孫降臨)に先だち、高天原から国土委譲をもとめる使者が派遣され、大国主命がこれを承認して、出雲(出雲大社)に祀られる話である。
 この神話から、大国主命は「国譲りの神」とも呼ばれる。
 国譲りの第一の使者、天穂日神(アメノホヒノカミ)は大国主命に媚びて命をつたえず、第二の使者、天若日子(アメノワカヒコ)は問責使の雉を射たために神意によって矢に当たって死ぬ。
 最後の使者、建御雷神(タケミカヅチノカミ)には、大国主命の二人の子のうち、事代主神は委譲すべきと答え、もう一人の建御名方神は、力くらべを挑むが、敗れて諏訪湖に逃げて、国譲りが決定する。
 大国主命で有名なのが「因幡の白兎」である。
 心やさしい大国主命が兄たちと争ったヤマガミヒメを娶ったあと、次に恋したのが大国主命から六代遡った祖先スサノオの娘スセリビメである。
 スサノオは幾多の試練に耐えた大国主命を婿としてみとめ、中つ国を治める大任を授ける。
 このあたりのストーリーは粗雑で、スサノオと大国主命、スセリビメの関係や時系列が不自然である。
 ヘビやムカデのいる部屋で寝かされ、野原で火をかけられる試練、寝ているスサノオの髪を柱に縛って刀と弓を奪って遁走するストーリーは奇想天外だが、それが神話で、かつて日本人は、神話と実史を重ね合わせて、日本を神の国としたのである。
 次回はスサノオの神話へ目を転じてみよう。
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2017年09月11日

神道と世界最古の文明「縄文文化」M

 ●理≠ニ非理≠併せ呑む日本精神
 自我が誕生したのは紀元前3000年頃という説がある。
 それまで、ヒトは、動植物と同じように、自然の一部だったのである。
 じぶんと世界が切り離されたとき、人類は、自我という個人領域を獲得した。
 人類にとって、これは革命的なことで、世界がじぶんの外部のものとなったのみならず、他者が他者として、じぶんとは別の存在となった。
 自我のめざめは、人類を自由に、そして孤独な存在にしたが、さらに大きな衝撃は、死の発見だった。
 全体の一部から個となった人類にとって、死は最大の不条理で、死によって、じぶんのみならず、世界が消失する不安と恐怖にさらされた。
 自我にめざめた人々は、超自然的な存在に救済をもとめずにいなかった。
 そこから、祈りや信仰がうまれ、やがて、宗教が誕生する。
 宗教といっても、あったのは、仏教やヒンズー教、儒教などの人為宗教ではなく、自然崇拝や万物に精霊が宿っているとするアニミズムなどの原始宗教である。
 農業がはじまると農業神、家族的なつながりから祖霊、神概念から神と世界を一体とみるパンセイズム(汎神論)、超越的な力を信仰するマナイズム、神と交流するシャーマニズムが派生して、素朴な土着宗教が形成される。
 そこへやがて、仏教がつたわってきた。

 日本に仏教が伝来したのは538年、百済の聖王一六年のこととされている。
 欽明天皇(29代)は臣たちに仏教を受け入れるべきか否かをたずねている。
 蘇我稲目は受け入れに賛成し、物部尾輿(物部守屋の父)や中臣鎌子(のちの藤原鎌足)は反対した。
 当初、仏教は、蘇我一族(蘇我稲目・馬子)だけのものだった。
 その状況を一変させたのが聖徳太子だった。
 聖徳太子は、馬子が物部守屋を討った丁未の乱に参戦して、蘇我氏のクーデターが成功すると、翌年、20歳で皇太子となり、摂政の位(33代推古天皇)についた。
 その後、数十年、聖徳太子は、新羅討伐軍を送り、遣随使をつかわすなどの積極的な外交をすすめ、国内にあっては、十二階の冠位、十七条憲法などを定めた。
 日本の土着的な信仰が神道という形態を整えたのは、曽我一族や聖徳太子が仏教擁護に走ったこの頃だったと思われる。
 推古天皇に「勝鬘経」や「法華経」を講じ、三経義疏を完成させた聖徳太子に対抗して、神道も体系化をすすめ、35代皇極天皇に時代には、皇室神道にもとづいた新嘗祭がとりおこなわれている。
 蘇我一族が仏教の国教化をはかったのにたいして、朝廷は、あくまで神道をまもったのである。

 仏教と神道が共存できたのは、仏教が個人の死生観にもとづき、神道が共同体や国家の安泰に眼目をおいたという理由だけではなかった。
 教義をもたない(「言挙げせず」)神道と経典仏教には対立点がなかったからで、神仏習合は、神道の心と仏教のことばの合体といってよいだろう。
 仏教と神道の棲み分け≠ェ成立したわけだが、実際は、仏教が土着信仰である神道の影響をうけ、日本化してゆく。
 理としての仏教にたいして、神道は非理で、世界は非理に満ち、理で説明がつくものはわずかしかない。
 それが日本精神で、奇異や不思議をそのままうけとめ、一方、理については徹底的に合理性をもとめる。
 現代の文明社会において、ビルの地鎮祭や初詣、七五三のお参りが廃れないのは、日本人が奇異や不思議と合理主義を両立させる二元論的な心根をもっているからである。
 古くは隋・唐文化の国風化から、戦後のアメリカナイゼーションの日本化にいたるまで、日本は、外来文化に吞みこまれることなく、そこから、独創的な文化をあみだしていった。
 その能力の高さは、神仏習合の伝統で、そこに、言挙げしない神道のふところの深さがあるといってよいだろう。
 非理(あいまい)の精神は、どっちつかずということではない。
 両方をうけいれる寛容さで、したがって、西洋の宗教戦争のような「抗争の構図」がうまれない。

 大和朝廷の成立過程で武力闘争がおこなわれた形跡がないのは、無神論的な唯物論者ではなかったからで、日本人は、太古の昔から、非理という唯心的な世界観をもっていたのである。
 それが、神道のベースとなる自然崇拝で、自然界に理のみで説明できるものはほとんどない。
 この原始神道が、自我がうまれたとされる紀元前3000年頃から、延々とつづいてきて、仏教がはいってきた6世紀になって、様式化された。
 神道は、6世紀になってできたのではなく、縄文時代からつづいてきた精神世界が、用明(31代)・皇極(33代)、聖徳太子の時代に、仏教に対抗する形で様式化(新嘗祭)されたのである。
 日本人の精神や民族性に神道という非理の精神が深く根を下ろしている。
 キリスト教や明治維新の西洋文明、戦後のアメリカ文明、そして民主主義にいたるまで、すべて、理の宗教であり、合理の文明である。
 日本精神は、これを否定も肯定もせず、よいところを利用するだけである。
 したがって、根本にある神道的な価値観はいささかもゆるがない。
 皇統の男子継承に「合理性がない」とのべて、女系天皇論者から絶賛された民進党のホープ山尾志桜里議員は不倫スキャンダルで失脚した。
 山尾は、みずからが否定した非理の世界に足をとられたのである。
 山尾を支持してきた小林よしのり(山尾宰相論)や女系天皇論者、高森明勅や田中卓(皇學館大学元学長)、所功らには、日本精神というべき原始神道(縄文文化)にたいする認識がゼロである。
「男系継承は支那の男系主義の影響にすぎない」というのは、日本文化のなんでもかんでも「大陸や半島からの影響」で片をつけるコンプレックスで、こういうやからは、いつか、非理の世界に足をとられて馬脚をあらわすのである。
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2017年09月05日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」L

 ●ニニギノミコトを天皇霊と定めている大嘗祭
 皇室の祖が天照大神であるとして、これを女系天皇の肯定根拠にする暴論がまかりとおっている。
 天照大神は皇室の皇祖神であって、日本人の総氏神とする神話にもとづいた空想上の神である。
 記紀によれば、天照大神は太陽が神格化された天照坐皇大御神で、伊勢神宮(内宮)の祭神でもある。
 皇室の始祖は、天照大神の命によって、高天原から地上に降り立ったニニギノミコト(天孫降臨)で、天皇の血統は、ニニギノミコトから三代下った神倭伊波礼毘古命(神武天皇)からはじまる。
 ニニギノミコト以前は神代で、以後は人代である。
 世系第一/天照大神(禊によって、イザナギの左目から生まれる)
 世系第二/アメノオシホミミ(アマテラスとスサノオの誓約から生まれる)
 誓約(ウケヒ)は吉凶や正邪を占う神事(卜占)で、天照大神とスサノオの誓約では、天照大神がスサノオの十拳剣を噛み砕き、吐き出した息から三柱の女神(宗像三女神)が生まれた。
 次に、スサノオがアマテラスの「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を噛み砕き、吐き出した息から五柱の男神が生まれた。
 その内の一柱が天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)で、勾玉の持ち主が天照大神だったところから天照大神の子という俗説がうまれた。
 アメノオシホミミとヨロヅハタトヨアキツシヒメ(萬幡豊秋津師比売命)とのあいだにうまれたのがニニギノミコトである。
 豊秋津師比売命は造化三神の一柱、高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)の子で、性別のない独神(ひとりがみ)である高御産巣日神の娘、豊秋津師比売命と、誓約からうまれた天之忍穂耳命からニニギノミコトがうまれたのである。
 ここが神話と実史の分かれ道で、ニニギノミコト以前は神話、以後は、この世(葦原中国)の物語となる。
 世系第三/ニニギノミコト(妻は木花佐久夜姫)
 世系第四/山幸彦(妻は豊玉姫)
 世系第五/ウガヤフキアエズ(妻は玉依姫)
 世系第六=皇統第一/神武天皇(妻は阿比良姫)
 天照大神は女神とされるが、独身で、世俗的な意味での夫や子はいない。
 そもそも、女神は性別ではなく、性格であって、スサノオを夫とする俗説には、神である天照大神を人的系統である皇統へ組み入れようとする意図が隠されている。

 神話と実史のつながりを理解するには、世界を3次元でとらえる必要があるだろう。
「造化三神(別天津神をふくめて五柱)」と、最後にイザナギ(男神)イザナミ(女神)が登場する「神世七代」までが第1次元の天(宇宙)である。
 イザナギの禊ぎからうまれた天照大神から、天照大神とスサノオの誓約からうまれたアメノオシホミミまでが第2次元の高天原である。
 高天原は、第1次元の天と第3次元の葦原中国をつなぐイデア(理想郷)であって、神代と人代の橋渡しの役割を担っている。
 神であるイザナギとイザナミが地上で夫婦神になるのも、造化三神が、葦原中国に干渉し、あるいは、天照大神に助言をあたえるのは、のちに天照大神が主になる第2次元の高天原というイデアをとおしてである。
 そして、葦原中国は、高天原という理想をめざして、国づくりをはじめる。
 イデアである高天原と葦原中国は、存在次元が異なっており、神話と実史という大きな段差がある。
 禊ぎや誓約から子がうまれるのが神代で、夫婦神から子が生まれるが人代である。
 天照大神が皇室の祖という主張は、神話と、神話に脚色された人代の区別がつかないオカルティズムにほかない。

 天皇がニニギノミコトの子孫であるという証が大嘗祭(だいじょうさい)の儀式において明快に示されている。
 大嘗祭は、天皇が即位の礼の後、初めてとりおこなわれる新嘗祭(にいなめさい)である。
 新嘗祭は毎年11月に天皇がおこなう収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇みずからも食す祭儀である。
 大嘗祭において天皇は、ニニギノミコトという名に象徴されるにぎにぎしく実った稲穂の姿をみずから体現される。
 その稲穂は皇祖神=天照大神から皇祖=ニニギノミコトに授けられた「斎庭の稲」(天壌無窮の神勅)である。
 天皇が、皇祖(ニニギノミコト)が葦原中国にもってこられた稲を食されることは、天皇みずからが皇祖の霊威を体現し、皇祖とご一体になられるということである。
 それが大嘗祭の本義で、ニニギノミコトの神霊と新穂の実り、天皇の再生が一体となったのが、民族学の泰斗、折口信夫のいう「天皇霊」である。
 大嘗祭の当夜、天皇は廻立殿に渡御し、小忌御湯で潔斎して斎服を着け、深夜、悠紀殿に入る。悠紀殿には、南枕に布団(衾)が敷いてあり、沓(くつ)と沓を載せる台も布団の北隣に置いてある。
 この寝具類がマドコオフスマ(真床襲衾)で、折口は講演「大嘗祭の本義」でマドコオフスマを、天孫降臨の際、ニニギノミコトが身に着けて地上に降り立った御衾と見立てた。
 御衾に包まれたニニギの姿が象徴するのは、穂に包まれた稲で、マドコオフスマは、稲魂の誕生、「天皇霊」は稲の霊そのものだったである。
 悠紀殿で神饌(お供え)を神に供し、告文を奏して、天皇みずからも神饌を食される(直会/なおらい)。
 次いで廻立殿にもどられ、その後、主基殿にはいられて、悠紀殿と同じことをおこなう。
 大嘗祭は「皇室の行事」とされるが、これは「皇室の私的な行事」ではなく「皇室の公的な行事」である。
 大嘗祭の予算は、通常の内廷費以外の臨時費で賄われており、「国事行為」といってよい。
 政府発表によれば、大嘗祭が「国事行為」とされなかった理由は、憲法上の天皇の「国事行為」が「内閣の助言と承認」を必要とするのにたいして、皇室の伝統祭祀である大嘗祭は、それを必要としなかったからである。
 女神である天照大神が皇室の祖なので、女系天皇に正統性があると主張する者たちは、大嘗祭という準「国事行為」において、ニニギノミコトを天皇霊と定めていることを知らないのである。
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2017年08月30日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」K

 ●民に代わって祈る天皇の無私の祈り
 新嘗祭は、収穫祭にあたるもので、11月23日(勤労感謝の日)に、宮中三殿の神嘉殿にて執り行われる代表的な宮中祭祀である。
 とりいれ後、秋の一夜を徹して、新穀を捧げて神とともに新穀を食べる儀礼が新嘗祭で、飛鳥時代の皇極天皇(35代)の御世にはじまったとつたえられる。
 日本では古くから五穀の収穫を祝う習俗があり、それが長年、変化を遂げた一つの形が新嘗祭で、もともと、わが国には、共同体単位で収穫を祝う伝統が根づいていた。
 日本は、ユーラシア大陸の国々ように、他国の攻め、収穫物を奪って成立した国家ではない。
 日本という国家にとって、もっとも大事だったのは、農耕をとおして、民を養う十分な収穫物をえることで、それが国家建設の絶対条件だった。
 いくさに勝って、収穫物を奪えば、奪われたほうの民は生きていけない。
 日本で、覇王が出現しなかったのは、奪い合うより、民が全員、生きることができる収穫そのものを大事にしたからだった。
 したがって、王権は、収穫祭の司祭たる「祭祀王」にさずかった。
 そこが、覇王が延々と殺しあった春秋・戦国時代の中国と決定的に異なる。
 大和朝廷の成立過程で、いくさがほとんどなかったのは、農耕による収穫の価値が掠奪や覇権主義を圧倒していたからで、これが、のちの世の農本主義へつながってゆく。

 オオキミが宗教的権威になったのは、収穫祭の司祭者だったからで、祭祀と政治を、ともにマツリゴトとして一体化する「祭政一致」の観念は、大和朝廷の基本的な政治理念であった。
 祭政一致は、収穫祭と集団の生活、政治、軍事、秩序と合一して国家形成へとむかい、原始神道の発展を促し、やがて、天皇の祭祀(皇室神道)として体系化される。
 マツリゴトと神道をむすんだのが神話である。
 古代国家の確立にともない、天皇の政治支配を基礎づけるために国家誕生の神話が整えられた。
 古代神道は、大和朝廷が信仰する神々を天つ神、もともとの土地神を国つ神として、天つ神を優位においた国産み神話の上に構築された。
 一方、土地には土地神(地祇)、個人には祖霊がおり、万物には八百万の神が宿り、ムスヒ(産巣日/生産する霊力)の神も存在する。
 神道が諸神を吞みこんでしまったのは、最高神が太陽だからで、太陽をこえるものはどこにも存在しない。
 ここが神道のおおらかなところで、自然崇拝を基礎とする神道は、人為の理法やあざとさを否定して、大自然の不可思議をすべて受容する。
 そこでは、人と神、奇異と常道の区別もあいまいのままである。
 神道が仏教と習合したのは、そのおおらかさゆえであった。
 6世紀頃から仏教、儒教、道教など外来思想の受容がはじまった。
 そして、8世紀の奈良時代になって、仏教の全盛期であった隋、唐の影響をうけて、日本は、仏教国家としての体制をつくりあげた。
 古代国家の仏教は、宗教、思想、学芸、技術など文化の全般にわたる高度に発達した体系であって、政治支配を支え、国家を鎮護する外神であった。
 神までが仏にすがって救われることを願う風潮のなか、ミヤ、ヤシロなどの社殿がつくられ、人間の姿をした神像が造顕されるようになったのも、仏教の影響だった。
 ところが、皇室神道は、仏教や儒教の影響をうけることなく、701年の大宝律令から927年の「延喜式」に至る二世紀余の間に制度化され、体系的に整備された。
 神道は、皇室のなかで、日本精神として、純粋培養されていたのである。
 そして、天皇の祭祀の中心をなすイネの収穫祭が新嘗祭として定型化された。
 その理由は、仏教や儒教が個人の世俗的宗教だったのにたいして、皇室神道が非個人(共同体や国家)の非世俗(秘儀)的宗教だったからである。
 神道は、個ではなく、全体の利益をもとめる宗教だったのである。
 収穫祭にあたる新嘗祭は、天皇が五穀の新穀を天神地祇に供し、みずからもこれを食して、その年の収穫に感謝する。
 この宮中祭祀は、一方で、天皇を権威づけるものとして、正統化されることになった。
 祭祀王としてカミと交流する天皇は、生産力と生命力を秘めた新穀を食する儀式によって、生まれ変わり、新しい生命を獲得するのである。
 収穫祭は、翌年のイネの実りを約束する祭りでもあったので、祭祀でカミと合一した祭祀主は、翌年のイネの実りを左右する力をもつ霊的な存在となった。
 新嘗祭は、大嘗祭が天皇の一生一度の即位式と同格であるように、年ごとにおこなわれる即位式でもあったのである。
 天皇の祈りは、民に代わって、民の平安と国家の安泰を祈る無私の祈りで、だからこそ、国民は、天皇や皇室に敬愛の感情を抱く。
 天皇への敬愛は「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる(西行)」という日本の民族的な宗教感情にささえられているのである。
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2017年08月28日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」J

 ●天皇の権威と聖俗%元論
 天皇の権威は収穫祭の司祭に由来する。
 天皇は権力者ではなく、民のために「神に祈る神」なのである。
 収穫祭は、農耕神への信仰と自然にたいする畏敬や畏怖、万物に神が宿るとする原始神道の合作で、収穫祭の司祭は、古人の尊敬の対象だった。
 農耕の普及にともなって、共同体が小集団から大集団へ、大集団の連合から単一国家へ移っていくと、各地の収穫祭が統合されて、その頂点に立つ司祭が新嘗祭を主催する大司祭(オオキミ)となった。
 収穫祭の最高儀礼が新嘗祭であることは、天皇が新穀を神に捧げ共に食する儀式内容からも明らかである。
 収穫祭が国家祭祀(新嘗祭)に、そして、新嘗祭を催す大司祭がオオキミになって、日本は世界に類のない祭祀国家としての体裁を整える。
 日本は、武力で覇権を争ったユーラシア大陸の国々とは別の道筋をとおって国家をつくりあげたのである。
 それが祭祀国家で、天皇という国家の核をもっている。
 天皇は文化概念で、日本は、革命国家が権力を収奪して政体をつくりあげたのにたいして、祭祀という文化の力で国家を形成した。
 収穫祭という民の祭事を、国家祭祀にまで高めた日本は、権力国家ではなく文化国家なのである。
 国家の頂点に祭祀王が立つということは、民の代表が主権者になったということで、日本という国家は、主権が、権力ではなく、民の側におかれている。
 天皇主権は国民主権と同義(君民一体)で、天皇陛下万歳は、民の代表万歳だった。
 君民一体は究極の民主主義にほかならず、日本は、もともと、民主主義国家だったのである。
 日本が皇紀元年以降、2677年にわたって国体を維持できたのは、天皇が民と共にある祭祀王だったからで、君民一体では革命がおこるはずがないのである。

 権力は、権威という後ろ盾をえて、はじめて安定する。
 民が権威に従順なのは、敬愛心からで、民はみずからすすんで従う。
 一方、民が権力に従順なのは、恐怖心からで、民は強制されて従う。
 前者が伝統的支配なら、後者が権力的支配である。
 権力だけの政権は、専制や独裁に陥って、フランス革命後のジャコバン派やナチスのような強権・恐怖政治となる。
 武力によって一時的に覇権を握ることができても、中国の春秋・戦国時代のように、めまぐるしく覇王が入れ替わって、止むことがない。
 春秋・戦国時代に決着をつけた始皇帝の秦ですら短期政権だったのは、民の支持がなかったからだった。
 権威の源泉は民の支持で、権威なき権力は盗賊とかわるところがない。
 権力と権威を分かつのが、世俗と神聖の二元性である。
 そして、この二元性を統一するのが収穫祭≠セった。
 収穫祭は、世俗における生の賛歌である一方、祭祀王が祭祀をとおして神と交流する神聖な行為でもある。
 国体(権威)と政体(権力)は二元論で、人の世は聖俗二元論≠ゥら成り立っている。
 俗なるものが権力で聖なるものが権威である。
 聖なるものは不可知論でもあって、ひとは、奇異なるもの不可思議なるものを、俗なるものよりも深く信仰する。
 知りえぬもののなかに真実があることを知っているのである。
 それが伝統で、継承される過去には合理的な説明がつかないものが多い。
 一方、合理は即物的・唯物論的で、それが権力である。
 権力には、警察や軍隊のほか、法や制度、民主主義までがふくまれる。
 革命は権力闘争の結果で、民主主義と合理主義ですべて片付ける。
 民主主義も権力で、ヒトラーは、民主主義的な手法(一般投票)で独裁者になり、北朝鮮ですら国名に民主主義を謳っている。
 民主主義には一片の権威もそなわっていないのである。

 権力だけあって、権威が不在なとき、乱世となる。
 後醍醐天皇の「建武の新政」の失敗以降、日本が、応仁の乱から戦国時代にいたる暗黒の中世≠ヨ突入していった。
 天皇が俗なる権力をもとめたため、聖なる権威が空位になったからだった。
 一方、朝廷と幕府が不離不即の関係にあった江戸時代は、権威と権力の二元論的力学がはたらき、280年にわたる平和と秩序がまもられた。
 2・26事件で銃殺刑に処された磯部浅一大尉はこんな日記(獄中日記)を残している。
「天皇陛下、なんという御失政でござりますか。なぜ奸臣を遠ざけて、忠烈無双の士をお召しになりませぬか」「何というザマです。皇祖皇宗に御あやまりなさいませ」
 磯辺は、聖なる権威を捨てて、俗なる権力に取り込まれた天皇陛下を叱ったのである。
 明治憲法は、天皇を政治的な主権者、陸海軍の大元帥に立てて、権力の側に取り込み、国民の代表たる新嘗祭の大祭司であることを放棄させた。
 そして、戦後、天皇主権は国民主権に変わって、民主主義革命が達成されたと左翼を狂喜させた(八月革命説)。
 だが、本来、天皇主権は、収穫祭の祭祀王という次元で国民主権とイコールであって、明治憲法の天皇元首も戦後憲法における象徴天皇もインチキだったのである。
 現憲法の国民主権は、実際には行使できないので、これを権力があずかるというルソー流で、国民主権は、権力に利用されているにすぎない。
 民主主義は、権力にとって、きわめて都合のよい代物なのである。
 戦後日本は、民主主義一辺倒の国になって、教育勅語や皇国史観が徹底的に排除された。
 日本は、君民一体の祭祀国家から民主独裁の権力国家へ変容したのである。
「皇統の男系男子相続には合理的な根拠が乏しい」とする民進党の山尾志桜里議員の発言がむなしく響くのである。

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2017年08月24日

神道と世界最古の文明「縄文文化」I

 ●収穫祭と神道、国家のトライアングル
 天皇の権威はいつごろうまれたのであろうか。
 そのとき、古代神道や縄文文化はどんな状態にあったのか。
 もっとも興味深いテーマだが、それを明快に語る学説や書物は存在しない。
 文献や史料が乏しく、歴史的な想像力が不足しているからで、あるのは本筋を外れた瑣末な議論ばかりである。
 天皇の深淵を探るには、紀元前をはるかに遡った太古の歴史観と文化的考証が必要なのはいうまでもない。
 キーワードは宗教と食糧だろう。
 宗教と権威は切り離すことができないばかりか、ほとんどイコールである。
 どんな権威も、たとえそれがいかに素朴な信仰であっても、宗教的権威だからである。
 もう一つの要素が食糧である。
 イネの豊凶は、村落存続の決定的なカギで、日照りや冷害などによる凶作や洪水などの災害によって、村が全滅するケースさえあった。
 ここで、天皇と食糧問題をむすぶテーマとして、新嘗祭が浮上してくる。
 天皇の宗教的権威が収穫祭と深い関連性をもっていることは、新嘗祭の原型が日本の原始農耕社会でひろくおこなわれていたイネの収穫祭だったことからも明らかだろう。
 人力が自然の脅威の前に無力である一方、生産を支配する大地、水、太陽の精霊、穀霊の存在が大きかった古代社会では、収穫祭は、人間の非力さや死生観、当時の自然観や宗教観を反映した生きるための儀式だった。
 万物に霊が宿っているとするアニミズム、自然現象や自然の力を神格化する自然崇拝、超越的な力を信仰するマナイズム、神と交流するシャーマニズムや祖霊崇拝、呪術などの原始的宗教観念が人々の生活を支えていたのである。

 イネづくりの広範な普及によって、小集団だった原始社会の人的規模が拡大し、文化的にも飛躍的に向上して、より高度な古代社会へと歩みはじめる。
 日本の原始農耕社会は、弥生前期にはじまった稲作の全土的な普及によって本格化し、弥生時代中期の紀元前100年頃には、大きな規模をもつ農業共同体に発展して、九州北部では100を超える小国家がうまれたとされる。
 農業の発展にともなって、国家が形成されるのは、世界共通の現象である。
 弥生以前、縄文晩期には、一部でイモ類の栽培がおこなわれていただけとされてきたが、三内丸山縄文遺跡(縄文時代前期から中期/紀元前35世紀〜20世紀)の発見によって、その認識が大幅にかわった。
 三内丸山では、堅果類(クリ・クルミ・トチなど)のほかエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメ類が栽培されていたことがわかっている。
 また、日本の陸稲栽培は、6700年前まで遡ることができるので、縄文の中期には、イネが中心の農耕共同体ができあがっていたはずである。
 国立歴史民俗博物館が土器に付着した炭化米を放射性炭素年代測定にかけた結果、紀元前10世紀頃のものとわかった(2003年発表)という。
 炭化米が付着した土器が弥生式だったことから、弥生時代を紀元前10世紀まで遡らせる騒ぎとなったが、このことから、紀元前10世紀には米穀が主な農産品の一つだったことが明らかになった。
 農耕儀礼を中心とする原始神道の起源は、縄文時代から弥生時代にかかる紀元前3〜2世紀頃とされてきたが、弥生時代の見直しによって、紀元前10世紀前後へ繰り上げになった。
 稲作と神道は収穫祭(新嘗祭)をとおしてむすびつく。
 すでに稲作がはじまっていた皇紀元年(紀元前660年)には、古代神道もまた一応の完成をみていたはずである。

 縄文晩期から弥生にかけて、水田耕作が普及すると、農業の生産力は大幅に上昇し、集落ごとに穀物の備蓄も増え、吉野ヶ里遺跡の高床式倉庫や物見櫓のような建造物も立てられた。
 吉野ヶ里遺跡は、弥生時代がそっくりあてはまる紀元前三世紀から紀元三世紀までの600年間にわたる遺跡だが、その600年のあいだに、小集落から大集落、小国家から小国家連合のような国家形成がすすんだ。
 東海・北陸をふくむ西日本各地で有力な地域勢力が形成されたのが紀元1世紀頃で、2世紀末から3世紀にかけて畿内でヤマト政権が成立、3世紀中頃から古墳時代に移ってゆく。
 これが、これまでの古代史観で、国家がうまれたのは、稲作農業社会が成立をみた弥生時代とされてきた。
 この歴史認識も見直されなければならない。
 国家および原始神道がうまれたのは、弥生時代以前、紀元前10世紀頃の縄文時代後期だったと思われるからである。
 なにしろ、弥生時代が500年以上、遡ってしまったのである。
 この500年にすっぽりおさまるのが欠史8代である。
 2代綏靖天皇以降、9代開化天皇までの史料が乏しいのは、焼失などの特殊な事情があったのでなければ、天皇が収穫祭を執行する大祭司だったからであろう。
 祭祀王は、祭祀という聖域にあって、政治の舞台に登場しなかったのである。
 いずれにしろ、土器に炭化した米が付着していた紀元前10世紀以降、収穫祭(イネ祭り)が継続的におこなわれてきたはずで、古事記には、天照大神が新嘗祭をおこなった神話が残っている。
 集落ごとのイネの収穫祭は、集落唯一のマツリゴト(政)でもあった。
 ここで、食糧問題としての収穫祭と天皇、国家の三つがリンクする。
 集落が小国家へ発展していくなかで、祭司は、より大きな収穫祭を主宰するようになって、やがて、オオキミ(大王)になってゆく。
 大祭司として収穫祭を執行するオオキミは、新嘗祭をとおして、国家の神と一体化して、あらためて王権の保持者となったことを内外に示した。
 年ごとの収穫祭(新嘗祭)は、オオキミの再生の儀礼、反復される即位式にほかならなかったのである。
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2017年08月18日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」H

 ●神道は究極の平和主義
 神道は、縄文時代の後期から弥生時代にかけて、原型ができあがっていたと思われる。
 神道ということばの初見は『日本書紀(用明天皇紀)』である。
「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」とあって、聖徳太子の父・用明天皇(31代)が外来宗教の仏教と神道を並び立てていることがわかる。
 神道には、創唱者や経典が存在せず、奈良時代以降、仏教との習合が本格化したこともあって、神道本来の思想内容がなかなかつたわってこない。
 特定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついていたことから、地域的・閉鎖的という指摘もあるが、神祇信仰が全国規模で広がっていたことからも、かならずしも、限定的ということはできなかろう。
 神道の特性を挙げてみよう。

1、共同体の安寧を祈るもので、個人宗教とは一線を画す
2、八百万の神々への信仰とアニミズム(万物に精霊が宿る)の類似性
3、「惟神の道(かんながらのみち/神と共にある)」と汎神論(神と自然は同一)の類似性
4、祭祀/祭祀主とシャーマニズム(宗教的職能者を中心とした信仰)の類似性
5、開祖や経典が存在せず、教義・解釈がことばによって明らかにされない(「言挙げせず」)
6、神話(天皇を天津神の子孫とする)と一体化している。
7、禊ぎや祓い、浄めという特有の意識や感覚を有する

 神道は、苦悩や絶望からの救済である仏教やキリスト教とはちがい、来世を見ない現実主義で、浄めによって、すべてを水に流す楽観的な世界観に立っている。
 伊勢神道では、内宮祭神の天照大御神と外宮祭神の豊受大神(天之御中主神や国常立尊)とのあいだで幽契(かくれたるちぎり)がむすばれて、国の形がきまったとされる。
 幽契の内容は、この世を高天原のような理想郷にするというもので、現在を神代の延長としてとらえた思想が中今≠ナある。
 神道においては、地上は、キリストの愛や仏陀の慈悲にすがらなければならないような苦悩の地でも穢土でもないのである。
 キリスト教でも、創造主は、この世を理想の地としてつくったはずである。
 その地が穢れたのは、人間が罪を犯したからというのが、キリスト教の原罪で、そこから、神に許しを乞うという信仰構造と神に選ばれた者だけが天国へいけるという差別的な救済思想がうまれた。
 そこに神道との決定的ちがいがある。
 神道には苦悩、絶望、死の恐怖を抱える個人という視座が用意されていない。
 その意味では、全体主義で、見ているのは、共同体や国家の安泰だけである。
 個人主義がでてくるのは、近代以降で、権力が個人の自由を奪った反動からである。
 そういう事情を度外視すれば、本来、全体の利益は個人の利益につながる。
 国が富めば民も富み、民がゆたかになれば国もゆたかになる。
 そこに個と全体の矛盾はない。
 そもそも、自然界においては、個と全体は矛盾せず、すべてが雄大なリズムのなかを滑らかに回転している。
 そのリズムを壊すのは、個人のエゴで、神道的にいえば穢れである。
 穢れは、禊ぎによって浄化され、水に流される。
 ところがキリスト教では、禁断の実を食べたアダムとイブがエデンの園から追放される寓話や堕落した人類が神の怒りにふれて洪水によって滅ぼされるノアの箱舟という物語をつくって、神に許しを乞うという特有の宗教原理をつくった。
 原罪という足鎖を用意して、人々を宗教の奴隷にしたのである。
 大乗仏教は、輪廻転生という釈迦の思想と儒教の祖霊をくっつけて、人々を二重に拘束して、それを教団の利益にむすびつけた。
 檀家制度は、江戸幕府のキリスト教禁止令とセットになっていて、キリスト教徒ではないという証として広がったのが寺請(証文)だった。
 人為宗教は、神話やタブーを教団の利益にむすびつけるのである。
 神道は、自然崇拝という民族古来の素朴な信仰心がそのまま宗教になったので、人為がはたらいていない。
 記紀の編纂にたずさわった藤原不比等には、天皇を天孫族として権威づける意志がはたらいていたであろうが、神話には脚色がつきもので、それを素直に読むのが純心にほかならず、批判は、あくまで付け足しの小智恵にすぎない。
 神道は約束(幽契)の宗教で、自然と自然の一部である人間が協和しながら自己完結的に生を営むことによって、平和や繁栄という約束が果たされる。
 それが日本人=縄文人(万葉人)の素朴な宗教心で、それが、数千年、数万年に年にわたって、脈々と民族の血のなかで生きつづけてきた。
 身を浄め、穢れを捨て去ることによって、高天原とこの世のあいだの幽契が実現するというのは、究極の楽観論だが、これほど平和で聡明な宗教は世界のどこにもないのである。

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