2020年11月27日

 反官僚の菅政権に期待するI

 ●民主党大統領で急がれる脱アメリカ
 メイフラワー号に乗って、イギリスから渡ってきた(1620年)102人の清教徒は、400年をかけて、アメリカという超大国をつくりだした。
 イギリスとの独立(革命)戦争に勝利して独立宣言(1776年)を建てたあとのアメリカは戦争と征服≠国是として、つぎつぎに領土・権益拡張の政策を実行に移してゆく。
 1000万人以上の先住民を殺害したインディアン戦争やメキシコからテキサスを奪った米墨戦争(1846年)をへて、アメリカは、ついに、太平洋へのりだしてゆく。
 カメハメハ大王のハワイ王国を収奪して、米西戦争(ともに1898年)に勝って、フィリピンやグアム島を獲得したアメリカは、すでに、東インド艦隊を率いるペリー提督が日本を開国(黒船来航/1853年)させ、環太平洋の覇権は、目前に迫っていた。
 アメリカの最終目的が、世界最古の大国、中国にあったのはいうまでもない。
 西へ西へとすすんできたアメリカの拡張政策は、世界最大の巨大市場≠ナある中国を支配下におさめて、一応、最終段階を迎えるはずであった。
 ところが、ペリー率いる東インド艦隊が開国させた日本が、そのわずか半世紀後に、日清戦争に勝って、朝鮮半島をふくめた大陸へ進出してきた。
 それどころか、ロシアを打ち破って、五大強国にのしあがって、英米と肩を並べるに至った。
 アメリの神経を逆なでしたのが日英同盟(1902年)だった。
 イギリスと手をむすんだ日本が、日露戦争(1904年)や第一次世界大戦(1914〜1918年)に勝利して、アメリカをおびやかすほどに国際的な地位を高めてきたのである。
 警戒したアメリカが、イギリスに迫って、ワシントン会議(1921年)をへて、ついに、日英同盟が破棄される。
 ここから、アメリカの対日報復政策が開始されて、やがて、日米戦争に至る。
 ちなみに、対日敵対政策をとった第32代大統領フランクリン・ルーズベルトは、日露戦争で日本とロシアの調停をつとめた第26代大統領セオドア・ルーズベルト(ポーツマス条約の和平交渉に尽力した功績からノーベル平和賞を受賞)の縁戚にあたる。
 セオドア・ルーズベルトが保守的な共和党で、フランクリン・ルーズベルトがリベラルな民主党というちがいもあるが、それ以上、大きなちがいは、軍人や作家、ハンター、探検家の顔ももつセオドアが、カウボーイ的な男性らしさで、国家の利益や発展に貢献したのにたいして、フランクリンは、女々しく、嘘つきで、なによりも、スターリンにぞっこんの共産主義者だった。
 
 フランクリンの母親サラは、少女時代、香港に滞在して、中国を第二の故郷と思うような女性だった。
 フランクリンの祖父(サラの父)は、清朝末期に、阿片貿易で巨富を築いて香港に豪邸を所有していたからで、フランクリンも、祖父が中国から略奪してきた絵画や屏風、象牙や陶器などの美術品に囲まれて育ち、中国に深い愛着をもっていた。
 アメリカが、当時、中国に親しみをかんじていたのは、中国が、アメリカの巨大な市場で、中国人は、アメリカから多くのキリスト教宣教師をうけいれた従順な羊のような人種と思っていたからである。
 一方、五大強国にのしあがった日本は、伝統をまもって、キリスト教文明をうけいれないばかりか、西洋に媚びない、アジアでは異質な国で、アメリカが太平洋をこえて最終目的とする中国の市場を奪う、憎き仮想敵国だった。
 ルーズベルト大統領が中国を愛して、日本を疎んじていたことが日米戦争の最大の原因だったのは、いうまでもない。
 そして、その思想をうけついでいるのが、リベラルの民主党で、日本がかつて敵国で、日米戦争に負けて、アメリカに占領された敗戦国というほどの認識しかもっていない。
 それが端なくもあらわれたのが、バイデンの「日本憲法アメリカ起草論」である。
 2016年、バイデン副大統領(オバマ大統領)は「われわれが(日本を)核武装させないための日本国憲法を書いた」と発言している。
 バイデンから、日本を、パートナーとして尊重する気持ちをかんじることはできないが、それが、日本に原爆を落とした民主党大統領の(32代ルーズベルト、33代トルーマン)の日本観である。
 民主党の大統領は、日本になんの関心ももたなかったカーター(39代)から「スーパー301条(不公正な貿易への報復と制裁)」を発しただけだったクリントン(42代)、中国の南シナ海要塞化や北朝鮮の核武装化をゆるしたオバマ(44代)まで、日本無視がつづき、対米関係重視の日本に逆風が吹いた。
 マスコミは、バイデン支持で、トランプ叩きに余念がないが、日本の国際的な地位を高めた米大統領は、レーガン(40代/中曽根)、ブッシュ(43代/小泉)、トランプ(45代/安倍)ら共和党の大統領だったことを忘れてはならないだろう。

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2020年11月19日

 反官僚の菅政権に期待するH

 ●GHQ民主主義からの脱却
 日本人は民主主義が一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)の産物であることを知らない。
 一神教は、正しいものが一つしかないとする一元論で、正しいほうが正統で、悪いほうが異端となる。
 中世の宗教戦争では、カトリックとプロテスタントが凄惨な殺し合いをくり広げ、異端裁判では、おびただしい人数の罪なき女性が火刑に処された。
 一神教においては、異端は、完全に滅ぼされなくてはならない。
 異端を滅ぼすことによって、正統が成りたつ構造に立っているので、正統は、異端を皆殺しにする。
 だが、その正統から新たな異端がうまれて、ふたたび、血みどろの争いがはじまる。
 この悪循環にくさびをうちこんだのが、市民革命の原理となった多数決≠セった。
 多数決なら、永遠につづくであろう正統と異端の争いに終止符を打つことができる。
 古代ギリシャでうまれた多数決(民主政)を批判したのがソクラテスで、多数決政治では衆愚政治になるとした。
 民主裁判で、死刑を宣告されたソクラテスは、毒をのんで自殺するが、弟子のプラトンは、哲人政治を唱える。
 政治をゆだねるなら、気まぐれで無知な大衆ではなく、英知をもった哲人のほうがましというのである。
 17世紀に、ルソーがよみがえらせた多数決の原理は、フランス革命の原動力となったが、一方、プラトンの哲人政治は、ヒトラーやスターリンの独裁に悪用された。
 現在、世界の国々は、多数決を採用して、これを民主主義と称している。
 だが、デモクラシーは、大衆による支配という方法論で、主義でも思想でもなく、まして、理想でもない。
 それどころか、民主主義は、窮余の策で、チャーチルではないが、独裁よりはマシという代物にすぎない。
 人類最大の難問が「個と全体の矛盾」で、いまのところ、民主主義が唯一の処方箋である。
 だが、49%の少数派が切り捨てられる「数の暴力」が最良の政治形態であるわけはない。

 キリスト教を正統と異端の一元論でみてきた西洋では、すべてを対立概念≠ナとらえる。
 国会は、与党と野党が対立している状態で、与野党の対立がなくなると、国会ではなくなってしまう。
 世界は、善と悪がたたかっている場所で、善あるいは悪だけの世界はありえないのである。
 一方、多元論、二元論の日本は分立概念≠ナある。
 八百万の神々がいて、民に幸をもたらす和魂(にきたま)がいれば、民を苦しめる荒魂(あらたま)もいる。
 対立概念の西洋では、一つのなかに、正統と異端、善と悪などの概念が対立的に存在している。
 裁判所も、検事と弁護士が、有罪と無罪を論争する場所で、裁判官は行司にすぎない。
 ところが、分立概念の日本では、すべてが、善玉か悪玉で、一つのなかに、善と悪が対立的に存在する状態はありえない。
 司法は神聖なる正義で、検察の起訴有罪率99・9%とあって、司法も検察も、非の打ちどころがない善玉である。
 憲法は、不磨の大典で、民主主義や国民主権は、天から授かった絶対無比の真理である。
 池袋暴走事故で、母子2人の死亡をふくめて11人を死傷させた飯塚幸三の無罪の主張にたいして、杉村太蔵は「民主主義において裁判で被告がじぶんの正当性を主張するのは基本的人権の一丁目一番地」と擁護論をのべ、慶応大学名誉教授の金子勝は、菅首相が日本学術会議の新会員候補6人の任命を拒否すると「反民主主義の体質を露呈」と騒ぎ立てた。
 西洋人が、他に選択肢がないので、やむなく採用した民主主義が、日本の民主主義者にとって、西洋からやってきた後光がさす有り難い真理なのである。
 民主主義と基本的人権、憲法9条を信仰するかれらは、当然、日本の歴史観にもとづく価値観や社会通念、習慣や習俗、日本人としての常識や道理、義理人情などにうとい。
 歴史や国体、天皇への尊敬心も薄いが、伝統もまもることは、改革を叫ぶことよりよほど知的努力がもとめられる。
 戦後のGHQ革命によって、日本の国是が、歴史に根差した伝統文化から、アメリカ民主主義へきりかわった。
 そして、民主主義や自由平等、基本的人権、平和主義が、戦後日本の唯一のルールとなった。
 大統領就任が確実なジョー・バイデンは、2016年、ヒラリー・クリントンの応援演説で、日本の核武装を匂わせたトランプを批判して「(トランプは)われわれが日本を核武装させないために憲法を書いたと学校で習わなかったのか」と発言している。
 日本人は、GHQがわずか10日で書きあげた「占領基本法」を神棚にあげていまもなお拝んでいる。
 いい加減に目をさまして、わが国の伝統的な価値や文化に立ち返らなければ、日本は、アメリカの精神的植民地になってしまうのである。

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2020年11月08日

 反官僚の菅政権に期待するG

 ●既得権益にメスを入れる菅行政
 日本の世論は真っ二つに割れている。
 一つは、民主主義や基本的人権、自由や平等を信奉するリベラル派である。
 もう一つは、伝統的価値観や一般常識、社会通念を重んじる保守派である。
 国論二分の現象が劇的にあらわれたのが「60年安保」で、当時、日本中のマスコミが民主主義をまもれ≠ニ、連日、叫びつづけた。
 強行採決が、民主主義的ではないというのだが、民主主義は多数決のことであって、清瀬一郎議長を負傷させた野党議員の採決妨害の暴力的抵抗のほうがよほど民主主義に反している。
 一方、保守派は、岸首相が「声なき声」といった一般国民のことで、反安保の声の大きさとはくらべようもなかったが、それでも、戦後、世論の多数派を占めてきた。
 保守派は、歴史や伝統をふまえているので、文化的な奥行きがもつが、リベラル派は、民主主や人権をまもれの一辺倒で、民主主義や人権がなんたるかという議論にふみこんできたことはいちどもない。
 思考停止に陥っているのは、リベラル派にとって、啓蒙思想が、宗教だったからで、自由も民主主義も、有り難く拝んでいればよいものだった。
 その風潮は、マスコミが、安保条約が旧安保(51年)の画期的改正だったことに一言もふれなかった60年から「学問の自由をまもれ」の現在にいたるまで、すこしもかわっていない。
 伊吹文明元衆院議長が、日本学術会議の会員任命を見送ったことにたいするマスコミや野党、各種学会の政府批判について「学問の自由という水戸黄門の印籠にみなひれ伏さないといけないのか」と苦言を呈したが、リベラル派には馬の耳に念仏だった。

 現在の日本では、民主主義と学歴、マスコミが三大善≠ナ、その上に左翼と上級国民、国際派があぐらをかいている。
 わが世の春を謳歌しているのは、マスコミ労組(MIC)と上級国民である高級官僚、国際派の有識者(学者・文化人)、内部留保450兆円をためこんだの大企業とその社員らである。
 その下で、個人所得が世界2位(1988年)から26位(2018年)にまで転落した大方の日本国民が、低所得と格差社会にあえいでいる。
 かつて、労組や野党ら左翼は、労働者の味方だったが、新自由主義によって社会の格差化がすすみ、正社員の4割もの非正規社員が組合から追いだされる事態になって、様相が一変した。
 労働組合が、組合員の身分保護とひきかえに、内部留保にむかう企業方針に同調するようになったのである。
 そして、野党も、かつての社会党のような労働者の党ではなく、反日・反国家の権力集団になってしまった。
 そもそも、組合費や闘争積立金など膨大な内部留保をにぎって労働貴族化≠オている大手の労働組合には、賃金闘争をやる気などさらさらない。
 見捨てられたのは、日本企業の99・7%を占める中小零細企業の従業員と非正規雇用の社員で、日本は、既得権者のグループと非既得権者のグループに二分されて、前者だけが恩恵をうける偏向した国家になってしまったのである。
 そこに、菅首相が、所信表明演説で「役所の縦割り、既得権益、前例主義を打倒して規制改革をすすめ、国民のためにはたらく内閣をつくる」と既得権益をあえて名指しした根拠がある。
 インターネットの「ウィキペディア」で既得権益≠検索して、プリントしてもらうと以下の項目があった。
 ※既得権益の例示として頻出される事象
「国家権力で保護されている公務員」「批判や対抗組織がない警察」「天下りや利権構造をもった特定の企業や団体」「莫大な資金で市場操作して利益を獲得する金融機関」「通貨発行権をもつ団体」「価格操作が可能なほど寡占化している業界や企業」「著作権管理など独占的な営利団体」「中小企業を支配して有利に物事をすすめる大企業」「解雇規制に守られた正社員」「正社員の雇用しか守らない労働組合」「全国に票田をもち、コメの流通を支配する農協」「参入障壁に保護されているマスメディア」「株式買収から保護されている新聞社」「放送法によって寡占状態にある放送局(テレビ局・ラジオ局)」新規参入が困難な報道機関」「権限を有する芸能団体」「組織票が見込める業界団体」など
 ※代表的な既得権益
 官僚制/水利権/天下り/記者クラブ/原子力発電/NHK受信料
 菅首相が、マスコミや学会ら左翼インテリから叩かれるとわかっていながら日本学術会議の会員任命の見送ったのは、既得権益への政治介入で、うごきはじめた菅行革の露払いだった可能性が高いのである。

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2020年11月02日

 反官僚の菅政権に期待するF

 ●「高学歴者」はいるがプロがいない日本
 日本には、学歴と民主主義、マスコミ芸能の3つが是で、政治や伝統、歴史的習慣の3つが非という奇妙な風習が根づいている。
 戦後の風潮ではなく、明治維新からそうで、日本は、科挙社会にして、西洋主義、戦前の天皇主権から戦後のマスコミ主権と、薩長がつくった明治政府の構造が、そのまま現在にひきつがれている。
 その印象を深くしたのは、日本学術会議の会員の45%が東大など旧帝国大に所属しているという菅首相の指摘にたいするマスコミ世論の猛反発だった。
 日本学術会議に批判的なネット世論まで、学者が旧帝国大学に属しているのは当然で、菅首相の批判には根拠がないと騒ぎ立てた。
 菅首相によると、旧7帝大以外の会員は、国公立大が17%、私立大は24%で、産業界に所属している会員や49歳以下の会員は、それぞれ、3%に過ぎない。
 問題なのは、産業界に所属している会員の少なさである。
 米中がトップを競ってきたスーパーコンピュータで首位(「計算速度世界ランキング」)を獲得した富士通(富岳)や小惑星探査機「はやぶさ」や月周回衛星「かぐや」の宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、民間あるいは日本学術会議が協力を拒否している国立である。
 国から補助金や公務員の手当てをもらっておきながら、防衛庁の研究を妨害して、中国の軍事研究には協力する旧7帝大系の左翼学者を、高学歴がすきな日本人は支持するのである。
 テレビでは、クイズ番組が大人気で、日夜、東大軍団、インテリ軍団と連呼している。
 東大は、テレビの有名ブランドで、日本中に、東大神話が浸透している。
 東大(法)は、もともと、高級官僚の登竜門で、霞が関でエラくなるための専用エスカレーターだった。
 日本の学問は、明治以来、西洋に学ぶ欧化主義で、刀剣や建築、繊維や工芸などの分野で日本独自の技術もあったが、旧帝大は、もっぱら、西洋の文物のコピーで、これが、じつは、クイズに似ている。
 クイズは、答えが用意されているので、永遠に、出題者を超えることができない。
 同様に、いくら、西洋のマネをしても、先生である西洋を超えることはできない。
 鹿鳴館で、洋装で着飾って、西洋ダンスを踊っても、日本舞踊の文化的深みはでてこないのである。
 そもそも、日本の近代化がサル真似で、国体二千年の伝統を破って、天皇を元首(元帥)にすえた明治憲法が、プロイセン(ドイツ)憲法をお手本にしたものだった。
 西洋化が日本近代化の背骨となって、西洋を学ぶ大学が、体制維持の基準となった。
 儒教を国家のルールとした中国(隋から清まで1300年間)や朝鮮(高麗から李王朝/両班)で科挙制度が国家をささえたように、日本では、7旧帝大を中心に陸軍士官学校や海軍兵学校をふくめた官立・私立大学が科挙の代用となって、壮大な学歴社会をつくりあげた。
 戦後、民主主義と基本的人権が、国家の唯一のルールとなって、伝統国家としての価値観や常識、習慣や社会通念が消えてしまった。
 これでは、科挙制度によって、国を滅ぼしてきた中国や朝鮮の二の舞である。
 学歴社会が滅びるのは、自己利益しか頭にない高学歴者が国家を私物化するからである。

 日本の中枢機関も、いるのは、高学歴者ばかりで、プロがいない。
 官僚ばかりか、入社試験と書類審査で、高学歴者ばかりを採用した大企業もその例にもれない。
 東芝やシャープ、NEC、ソニー、パナソニック以下、かつての一流企業が台湾や韓国の下請けクラスに転落していったのは、社員が、偏差値が高いだけのアマチュアだったからである。
 それでも、日本経済がもちこたえているのは、全企業の99・7%をしめる中小企業が、愛国心や愛社精神をもった仕事のプロだからである。
 前大戦では、旧日本軍が、エリートを重要ポストにつけ、それが敗戦という最悪の結果を招いた。
 ハンモック・ナンバー(海軍)のトップと恩賜の軍刀、銀時計組(陸軍)がちやほやされた旧日本軍はおそるべき学歴社会で、連合艦隊参謀長の宇垣纏は海軍兵学校や海軍大学校の卒業順次がじぶんより下の者へ敬礼も返さなかったという。
 ミッドウェー海戦における最適任者は、マレー沖海戦で英国艦隊旗艦プリンス・オブ・ウェールズと戦艦レパルスを撃沈した小沢治三郎と海軍のだれもがみとめていた。
 だが、司令官になったのは、機動部隊を創設した小沢ではなく、飛行機の素人だった南雲忠一だった。
 南雲は、決定的な作戦ミスをくり返して、勝てるはずのミッドウェー海戦を無惨な負け戦にして、それが、日本敗戦の引き金となった
 学歴主義(軍令承行令)によって、司令官が、小沢ではなく、南雲に回ってきただけの話だった。
 日露戦争では、元老院の西郷従道と海軍大臣の山本権兵衛が、連合艦隊司令長官に東郷平八郎を抜擢、東郷は、日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を全滅させた。
 日米開戦の永野修身と真珠湾攻撃の山本五十六、ミッドウェー海戦のあとも指揮をとりつづけた南雲忠一と参謀長の草鹿龍之介。ノモンハン事件の服部卓四郎と辻政信。重慶空爆とガダルカナル島の戦いなど島嶼作戦を指導した海軍の米内光政と井上成美。盧溝橋事件、インパール作戦など、二度、三度、失敗をくり返した河辺正一と牟田口廉也、みな、旧日本軍の超学歴エリートたちであった。
 情けないことに、大方の日本人は、旧帝国大がのさばる「日本学術会議」を改革しようという菅首相の真意が読めないのである。
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2020年10月26日

 反官僚の菅政権に期待するE

 ●安倍からひきついだ「戦後レジームからの脱却」
 日本学術会議の任命拒否問題で、野党やマスコミら、日本中の左翼が一斉に菅首相かみついたが、ネットを中心に、日本学術会議批判が沸騰して、これを第二の森友、加計問題にしようともくろんだ左翼陣営の思惑はもののみごとに外れた。
 防衛庁には協力しないが、中国科学技術協会とは手をむすぶという日本学術会議の売国奴ぶりが日本人の逆鱗にふれたわけだが、任命拒否が学問の自由を奪うという言いがかりには、多くの国民が呆れはてた。
 昭和天皇の肖像を燃やしてふみつける行為を表現の自由とする「あいちトリエンナーレ」騒動で、主催者の大村秀章愛知県知事にたいしてリコール運動がおきているように、ネット時代になって「表現の自由」「学問の自由」といえばなんでもとおった古き啓蒙主義はすがたを消しつつある。
 菅政権は、安倍政権の「戦後レジームからの脱却」もひきついでいる。
 これは「YP体制」やGHQ占領下でつくられた戦後体制からの脱却だけを意味しない。
アメリカ民主主義≠わがものとして、戦後日本に君臨してきた左翼やマスコミ、上級国民(高学歴者・高級官僚)のやりたい放題にくさびをうちこもうというのである。
 日本学術会議の任命拒否は、そののろしで、菅首相は、はじめから同会議をつぶすハラだったである。
 戦後のGHQ革命によって、日本の国是が、歴史や文化、民族性にもとづく習慣や習俗、常識や社会通念、日本特有の道理や人情などから、アメリカ民主主義へきりかわった。
 そして、民主主義や自由平等、基本的人権、平和主義が、戦後日本の唯一のルールとなった。

 民主主義と、一概にいっても、イギリス(議会民主主義)とアメリカ(国家民主主義)、フランス(人権民主主義)、ロシア(人民民主主義)では、内容がそれぞれ異なる。
 1688年のイギリス名誉革命は、ホッブズの社会契約説にもとづいたもので、自然状態では「万人の戦争」がおきるため、強固な国家をつくりあげるとする考え方である。
 ところが、その百年後、詭弁家ルソーは「自然に還れ」とホッブズと反対の社会契約説を唱えた。自然状態こそが自由と平等、平和が約束された理想的状態というのである。
 こうして、古代ギリシャでうまれ、衆愚政治として捨てられた民主主義がゾンビのようによみがえってきて、フランス革命(1789年)の根本思想となった。
 その10年以上前にアメリカ革命(独立宣言/1776年)がおきている。
 アメリカ革命の思想的支柱は、革命権をそなえたロックの社会契約説である。
 マルクス主義も、一種の社会契約説なので、革命国家は、すべて、社会契約説と民主主義をとったことになる。
 一方、伝統国家は、国体(権威=文化)と政体(権力)の二元論である。
 歴史や天皇、文化など権威の体系が国体で、統治や外交、防衛などの権力の体系が政体である。
 社会契約説が、国体にあたるもので、いわば、国家の原理である。
 そして、伝統国家においても、民主主義が、政治手法として政体にとりいれられてきた。

 ところが、戦後日本では、左翼が、政治手法にすぎない民主主義を、国体と政体の両方にもちこんで、日本の政治をマヒ状態に陥れてきた。
 天皇を憲法上の存在とするのは、権威と権力の混同で、国体を危機に陥れる。
 万世一系の皇位継承に男女平等≠もちこむのは、天皇の否定につながる。
 伝統のうえになりたっている国体が、憲法と民主主義によって危うくされているのである。
 一方、政体は、国家や国民のために、国家権力を行使する機関だが、野党やマスコミら左翼は、民主主義を立てて、これを妨害してきた。
 野党やマスコミは、この数年、民主主義の根幹にかかわる重要な問題をはらむとして、森友、加計、桜を見る会の説明責任をもとめつづけ、政府になにも仕事をさせてこなかった。
 そして、政府をマヒ状態に追いこむのも野党の重要な仕事とうそぶいた。
 長年、政権をささえてきた菅首相は、左翼のそのいやらしさをいやといほど知っている。
 菅首相が「戦後レジームからの脱却」の標的においているのは、日本という国家をさんざん食い物にして、害ってきたマスコミと反日左翼であろう。
 日本学術会議の任命拒否は、その宣戦布告で、菅首相はやる気なのである。
 日本には、主権国家としてあるべき重大なものを3つ欠いている。
 国家主権と国家機密、そして、国家防衛である。
 いずれも、マスコミや野党、左翼が民主主義を立てて、反対・妨害してきた重大な政治案件である。
 次回以降、菅政権がとりくむべき政策を一つひとつ検証してゆく。
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2020年10月19日

 反官僚の菅政権に期待するD

 ●森友、加計、桜だけだったインテリ左翼
 わが国の足をひっぱり、わるくしてきたのは、野党とインテリ左翼である。
 なにしろ、かれらは、国家や国民のためにまったくはたらかないのである。
 森友と加計、桜見る会の説明責任≠もとめる以外、この数年間、なにもしてこなかったが、こんどは、日本学術会議の任命拒否問題で、当分、らくができると思いきや、ネットを中心に、日本学術会議批判が沸騰して、どうやら計算がトチ狂ったようである。
 防衛庁や国家防衛には協力しないが、軍事開発に血道をあげる「中国科学技術協会」とは協力覚書をむすぶという売国奴ぶりに、一般国民や日本の企業の99・7%をしめる中小企業の勤め人=非労働組合の人々が怒り心頭に発したのである。
 ちなみに一般国民は、インテリ左翼=上級国民から、差別的にネットウヨと呼ばれている人々である。
 左翼といっても、すべて、マルクス主義者というわけではない。
 大半が、民主主義と基本的人権、憲法9条を信仰する平和教の信者である。
 むろん、一般常識や社会通念、習慣や習俗、日本人としての道理や人情などの伝統的価値観をもちあわせていない。
 池袋暴走事故で、母子2人の死亡をふくめ11人を死傷させた旧通産省工業技術院元院長の飯塚幸三が初公判で無罪を主張したことにたいして杉村太蔵は「民主主義において裁判で被告がじぶんの正当性を主張するのは基本的人権の一丁目一番地です」「推定無罪という大原則はきちっと抑えておかなければならないポイント」と擁護論に走った。
 政権に悪態をつくしか能がない慶応大学名誉教授の金子勝教授が、日本学術会議の新会員候補6人の任命を菅首相が拒否した問題について「反民主主義の体質を露呈」と鬼の首でもとったように騒ぎ立てた。
 テレビ朝日の玉川徹は「北方領土や竹島を取り返すには戦争という手段しかないんじゃないですか』とのべた丸山穂高議員を批判して「戦争しないというのは日本の国是なんです。日本は戦争をしないと決めた国なんです。戦争しかないなどの発言をする人間には国会議員の資格はないと思います」と得意げにぶちあげたことがあったが、日本をまもっているのは、世界第6位の軍事力と日米安保条約である。
 自国を軍事防衛しないのが国是なら、国連憲章以下、国際法や慣例法違反となって、日本は、チベットやウイグル以下の四流、五流の国になってしまう。

 官僚や学者、マスコミ人らインテリ左翼が、変革をともなう発展に抵抗するのは、既得権が脅かされるからで、そのせいで、日本は「失われた30年(1990〜2020年)の前で沈没しかかっている。
 この30年で、世界経済は、IT革命によって、10倍になったが、日本の賃金上昇率は低く、日本の1人当たりGDPが世界26位にまで転落した。
 少子化高齢化のきまり文句のもとで、金持ちをまもる反インフレ、投資家や株主をまもる新自由主義をとって、一般庶民は、格差社会というゴミ箱に捨てられた。
 大企業の内部留保が450兆円をこえる一方、年収が200万円以下の勤労貧困層が拡大して、日本経済は規模縮小へむかっている。
 日本は特権国家になって、上級国民のインテリ左翼は森友だ加計だと叫んでいれば十分にメシが食えるが、中級、下級国民になるとそうはいかない。
 国家が舵をとって、日本をゆたかで、強固な国にしてくれなければ、大方の日本人は干上がってしまうのである。
 失われた30年をとり返すには、日本は、左翼特権主義を捨てて、ふつうの国になるほかない。
 それには、これまで、左翼や既得権者、親中・親韓派につぶされてきた政策を実行へ移さなければならない。
 ●経済=地方創成/サプライチェーン確立/エネルギー政策転換/富裕税の導入
 ●政治=スパイ防止法(米・英・加・豪・ニュージーランド5か国との機密情報保護条約/放送法強化とテレビ局電波料値上げ
 ●外交=日米豪印によるアジア版NATO設立/防衛力強化(敵基地攻撃能力の保有)
 これらの政策は、左翼が目の敵とするところだが、菅政権なら、突破できる可能性が十分にある。
 次回から、その政策の一つひとつの内容を検証していこう。
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2020年10月12日

 反官僚の菅政権に期待するC

 ●売国奴に堕ちた日本の学者たち
 菅義偉(よしひで)首相が、日本学術会議から推薦があった新会員の候補者6人を任命しなかった件で、マスコミから総攻撃をうけたが、これは、すでに織り込み済みだったとみえ、菅首相は、ビクともしなかった。
 一方、任命を拒否された松宮孝明・立命館大学教授は「日本学術会議に手を出すと内閣が倒れる危険がある。撤回するなど早く手を打った方がいい。政権のために申し上げておく」とインテリらしからぬ脅し文句を並べた。
 上から目線の、この傲慢な態度は、任命を拒否された6人の学者の共通点である。
 岡田正則・早大教授が「学術を理解していないかたのやり方」と学者の自尊心を丸出しにすると、加藤陽子・東大教授は、学問の自由を軽んじる菅内閣と特権意識をむきだしにした。
 朝日新聞が「学術会議の任命拒否、広がる抗議。90超の学会など声明」とノロシをあげると、経済学者で、親中・親韓政治家のチャンピオン静岡県知事の川勝平太が「首相の教養レベルが露見」「学問立国に泥」とぶちあげた。
 結局、かれらが言いたいのは、左翼にして、親中・親韓、高学歴のインテリ様に逆らうなという恫喝で、それ以上のなにものでもなかった。
 菅内閣は、安倍内閣の継承で、前内閣ができなかったことを次の内閣がひきつぐのは当然で、その一つに「戦後レジーム」からの脱却がある。
 GHQがつくった戦後支配体制の特徴は、わたしのみるところ、次の3つである。
 @左翼(ニューディーラー/社民主義)A官僚化(GHQ官僚)B学歴主義
 戦後日本が、学歴社会になったのは、左翼は、学歴以外の、歴史的価値や国家的な規範をみとめないからだが、日本の官僚体制も、東大法を頂点とする科挙制度の上になりたっている。
 高学歴のインテリ様に逆らうなという上級国民の傲慢さはここからでてくる。
 戦後レジームをつき破るパワーは次の3つである。
 @技術・工業力A日本の伝統的秩序B精神的な高さ(勤勉さ・和の心など)
 つまり、日本企業の99・7%を占める中小企業が健全なかぎり、日本は徳俵一枚で生き残れるのである。
 
 テレビのクイズ番組では、東大王、インテリ軍団と大騒ぎだが、日本のインテリは、過去の西洋の理屈には詳しいが、ろくにパソコンを扱えず、ねじ回し一つ使えない。
 東南アジアの大学・高校生は、日本が廃棄したパソコン3台から2台の新規パソコンを組み立てる能力をもち、多くがプログラミングの勉強をしている。
 日本のインテリは、クイズが得意だが、クイズは、永遠に出題者をこえることができず、創造性は、ゼロである。
 足利の歴代将軍の名を諳んじて、それがいったい、なんの役に立つのか。
 5GやIT(通信技術)、AI(人工頭脳)、ロボットは創造で、米中が国家事業とするスーパーコンピュータの分野で、民間企業である富士通が世界一の座を奪回したが、大学・学術学会は、なんの役にも立っていない。
 それどころか、日本学術会議は、船舶への水の抵抗を減らす研究(北大/流体力学)を「軍事研究」ときめつけて、幹部が北大総長室に押しかけて、研究を止めさせている(北海道大学の奈良林直名誉教授の告発)。
 この研究は、船舶燃費が10%低減されるという画期的なもので、世界から注目されていたが、その技術が、自衛隊艦艇に流用される可能性があるというので、日本学術会議が、半ば、暴力的に学問の自由を奪い、むざむざ、貴重な研究をふみにじったのである。

 マスコミの菅叩きにたいして、経済学者の高橋洋一は「学術会議はまともな研究をするのが前提のはず。中国の『千人計画』に賛成して防衛省の研究には協力しないという理屈はまかりとおらない」と切って捨てた。
 これにネットが反応して、よくいってくれたと賞賛の声があいついだ。
「よくぞ中国の『千人計画』の件に言及してくださった。日本学術会議がいかに、親中・反日組織か、多くの国民がそのことに気付くことを祈ります」
「千人計画」は、中国共産党中央統一戦線工作部の影響下にある孔子学院と並ぶ国家プロジェクトで、孔子学院が、中国語や中国文化の教育と宣伝(プロパガンダ)機関なら、千人計画は、海外から科学技術の優秀な人材を集めて、中国のために働かせようという国家的システムである。
 なにしろ、中国の研究開発費は、45兆円(2016年)とアメリカ(51兆円)に次ぐ第2位で、日本(18兆円)をはるかにしのぐ。
 2016年10月、中国の北京航空航天大に新設された「ビッグバン宇宙論元素起源国際研究センター」の調印式で、初代所長に就任した梶野敏貴・日本国立天文台特任教授が「ここを先端科学の極東の基軸にしたい」とのべて中国人出席者の喝采を浴びた。
 梶野は「千人計画」の参加者で「天体核物理学」の研究で米国物理学会から顕彰(「フェロー」授与)をうけている。
 中国では、量子通信衛星「墨子」による量子通信を成功させた潘建偉・中国科学技術大学教授が、中国でもっともノーベル賞に近い研究者といわれているが、梶野ら、日本の研究者が桁ちがい≠フ年俸と研究費に釣られて、続々と中国へ拠点を移して、中国人の初のノーベル賞受賞へ援護射撃している。
 対象となる研究分野は、ITやAI、5G、ロボットから宇宙物理学、量子コンピュータ、細胞生物学、遺伝子学、化学から医学にまでおよぶが、これらは、ミサイルから生物兵器をふくむ軍事転用が可能で、げんに、中国は、先端技術を軍事技術とみなしている。
 日本の文系学者は、親中・親韓、反日に走る一方、理系学者は、日本の国家的研究には協力せず、中国の軍事開発には、全力投球している。
 それを、川勝は「学問立国」というが、わたしからいわせれば「狂った学問」である。
 戦後レジームの修正は、このあたりから手をつけていかなければならないのであろう。

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2020年10月03日

 反官僚の菅政権に期待するB

 ●オカルト化している日本学術会議
 本ブログで、なんども、日本の学会とりわけ国立大学の特殊性にふれてきた。
 GHQの「公職追放令」によって、多くの学者が、国立大学から追放された。
 その後釜に入りこんだのが、逆に、そのGHQから優遇されたマルクス主義者だった。
 かくして、日本の国立大学は、ほとんどがマルクス学者という世界に珍なる光景となったが、これには、さらに続編がある。
 日本の学会は、世襲制で、前任者が後任者をきめる仕組みになっている。
 この仕組みによって、世界で、マルクス主義がとっくに滅びてしまったにもかかわらず、日本の学会のみが、逆に、マルクス学者がふえつづけているのである。
 マルクス主義者は、過去を否定するので、歴史からなにも学ばない。
 ひたすら、マルクス文献を奉るだけだが、マルクスの思想は、ルソー主義にユダヤの教え(タルムード)をくっつけた代物でしかない。
 したがって、マルクス学者の知恵は、底の浅いこと、この上ない。
 しかも、唯物論と革命主義の合体は、イスラム過激派と同様、危険きわまりない。
 唯物論というのは、神の否定で、革命主義は、過去の破壊と殺戮である。
 人間が神になって、歴史を断罪するとあって、一種の宗教戦争でもある。
 かれらは、無神論を唱えつつ、人間を神の座に据えて、聖なることばを唱えつづける。
 これが、日本の学会を支配しているマルクス教で、聖なることばというのは「平和」「自由」「戦争反対」「憲法9条」である。
 学者なら、論理があってよさそうなものだが、かれらは、念仏のようにこの4つのことばを唱えるだけである。
 日本の学会は、すでに、カルト教へ転落しているのである。

 菅首相が、推薦された学者の6人を、日本学術会議の会員に任命しなかったことがマスコミ批判を浴びているが、この6人は札付きの反日主義というより「マルクス教」の信者である。
 こんな者たちが学者の国会≠ニいわれる日本学術会議を牛耳るようなことになれば、日本は、滅びるしかない。
 これまで、日本学術会議は、軍事研究に協力しないという声明を出してきた(昭和25、42年、平成29年)が、NASA(アメリカ航空宇宙局)を例に挙げるまでもなく、軍事と科学は表裏の関係にあって、IT(通信技術)やAI(人工頭脳)、ロボットから5Gまで、基礎研究の部分で軍事技術の恩恵にあずかっている。
 軍事技術を否定すれば、文明から離脱しなければならなくなる。
 世界のだれもが、平和や自由をもとめ、戦争をきらい、おそれている。
 だからこそ、現実政治をとおして、戦争や不自由、貧困や飢えのない状態をもとめるのである。
 だが、マルクス教の信者らは、じぶんたちだけが平和の使徒で、他の者らは戦争にとりつかれた悪魔の手下と考える。
 もっともかれらの平和は、観念の平和で、もとめているのは、宗教的な法悦で、平和を願っているじぶんは正しいという自己満足が欲しいだけである。
 したがって、平和をもとめる現実政治には、ひたすら、憎悪をむける。
 日本学術会議の任命を拒否された芦名定道(京大教授/宗教学)らが立てた声明文には千人以上の知識人らが名をつらねている。
 
 声明文/「自由と平和のための京大有志の会」
 戦争は、防衛を名目に始まる。兵器産業に富をもたらす。すぐに制御が効かなくなる。始めるよりも終えるほうが難しい。兵士だけでなく、老人や子どもにも災いをもたらす。人々の四肢だけでなく、心の中にも深い傷を負わせる。
 精神は、操作の対象物ではない。生命は、誰かの持ち駒ではない。
 海は、基地に押しつぶされてはならない。空は、戦闘機の爆音に消されてはならない。
 血を流すことを貢献と考える普通の国よりは、知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい。
 学問は、戦争の武器ではない。商売の道具ではない。権力の下僕ではない。
 生きる場所と考える自由を守り、創るために、私たちはまず、思い上がった権力にくさびを打ちこまなくてはならない。


 マルクス教の信者は、声明文の美辞麗句に酔って、雄叫びを上げる。
 戦争が大好きで、人民の命を虫けらのようにあつかう自民党を倒そう!
 こんな連中に学者の国会≠まかせてはならない。
 菅首相には、学者バカの日本平和狂、マルクス教にさらなる鉄槌を下してもらいたい。
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2020年09月28日

 反官僚の菅政権に期待するA

 ●デジタル化の障害になっていたハンコ行政
 日本の政治がわかりにくいのは、政策と政権のちがいがはっきりしないからである。
 中村喜四郎とむすんだ立憲民主党の小沢一郎が「1年以内に政権を取る」と怪気炎をあげると、同党新代表の枝野幸男も、日本共産党や社民党との連携を視野に入れた政権奪取に意欲をしめした。
 ところが、国民民主党と合流した新立憲民主党の支持率は、逆にダウンしてわずか4%(読売新聞)というていたらくである。
 小沢や枝野がやろうとしているのは、政権争奪で、国家や国民のための政策政治ではないと見抜かれていたのである。
 マスコミが小沢・中村のタイアップをもちあげるのは、反自民を旗印にするマスコミ労連(MIC)が背後にいるからで、MICに忖度したテレビ芸人や評論家が、自民党を罵って、さかんに、野党連合へ声援を送る。
 MICがめざすのは、左翼政権の樹立で、それには、自民党を倒さなければならない。
 これは、日本や日本人のための政策政治ではなく、ただの政権抗争である。
 森友学園や加計学園、桜を見る会の国会議論も、倒閣運動で、国家や国民のためのものではなかった。
 自民党を倒せという権力運動と、日本の国益や安全、発展や繁栄をもとめる政策政治は、まったくの別物である。
 ところが、野党やマスコミ、多くの国民は、この区別がつかない。
 政治は二元論で、国家と人間、政治と選挙、政策と権力、理想と現実などが互いに背をむけあっている。
 そのなかに、具体性と抽象性という対立軸がある。
 具体性というのは、国益や領土、防衛や条約など実体をともなう政策である。
 抽象性というのは、平和や民主主義、自由や平等、人権などの観念論である。
 日本人は、観念論がすきで、野党や護憲派、左翼・反日派らが唱えるきれいごとのスローガンに踊ってきた。

 ところが、菅政権の登場によって、すこしばかり、風向きが変わってきた。
 政治が理想論や空想、抽象論ではなく、具体的な現実論であることに国民が気づきはじめたのである。
 菅首相が憲法改正をいわないのは賢明で、解釈改憲で、日本は世界第6位の軍事力をもって、アメリカと同盟をむすび、中・ロ・韓と対抗している。
 これを下手にいじって、9条に3項(「自衛隊の明文化」)をくわえるような失策を犯して、自衛隊違憲の論議を呼んでは、元も子もない。
 河野太郎行革大臣は、女系天皇をみとめる発言をしているが、国体は政治や憲法の問題ではなく、歴史や文化、国体の問題であって、伝統は、粛々と継承するほかないものである。
 余計なことはいわず、菅政権の下で、ゲバラのような革命家として、豪腕をふるい、一仕事を終えて、退場してもらいたい。
 菅政権の使命は官僚政治の打破で、これができるのは、河野以外にいない。
 河野は、デジタル化にむけて、全府省庁にたいして、ハンコやファックスを使用しないよう要請したが、お役人国家日本は、これまで、こんなことにすら手をつけることができなかったのである。

 世界経済は、この30年で、10倍以上のスケールとなった。
 その原動力がIT(情報技術)だが、日本は、アメリカからはじまったデジタル革命に乗り遅れて、世界比で、唯一、経済規模を縮小させるという深刻な事態に陥っている。
 かつて、日本の半導体は、世界シェアの半数を占め、世界のトップ企業10社のうち6社を占めていたが、現在は、後発の台湾TSMCや韓国メーカーの足元にもおよばない。
 日本の官僚が、モバイル端末向け半導体などの新たなトレンド分野に関心がなく、自治労とともに省庁へのパソコン導入に抵抗するなど、お話にならないほど後進的だったからである。
 その結果、日本のデジタル産業は、一挙に、原始時代へ逆戻りしてしまった。
 逆にいえば、日本は、立遅れたデジタル部門で失地回復すれば、経済成長が望めるという理屈になる。
 官僚のシバリを打ち破って、TSMCの国内誘致をふくめて、政治的支援をおこなえば、日本の半導体産業は、かならず、復活するのである。
 官僚が、新しい時代に不適応、もしくは、抵抗するのは、既得権が侵されるからである。
 その既得権をまもるのが、ハンコ文化で、その典型が「稟議制」である。
 稟議制は、一人でも反対者がいれば、提案が廃棄される仕組みで、たとえばデジタルに無知な上司が一人いれば、それだけで、デジタル化は不可能になる。
 ハンコ文化には、稟議制のほか、年功序列や権限の万能化、秘密主義 前例主義、保身主義、省益主義、縦割り主義、事なかれ主義、学歴主義、新規性や部外者の排除、決定の遅滞など、多くのデメリットがあって、河野のハンコの廃止が日本の行政におよぼすであろう功績ははかり知れない。
 次回は、菅内閣の規制緩和と地方創成、サプライチェーンの構築とジャパンファーストが、日本の経済におよぼす好影響についてのべよう。
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2020年09月23日

 反官僚の菅政権に期待する@

 ●常識と現実主義に立ったしたたかさ
 長期政権の記録をつくった安倍晋三前首相が、病気で引退した後をうけて、菅義偉(すがよしひで)前官房長官が内閣総理大臣(第99代)に就任した。
 自民党総裁選挙で、岸田文雄政務調査会長と石破茂元幹事長を大差で破ってのことで、世論調査の支持率も74%(日経新聞)と史上3番目の高さだった。
 菅内閣が、国民から高い支持をえた理由は、政治がわかりよいからである。
 菅首相は、就任後の初会見で、役所の縦割りや既得権益、悪しき前例主義の打破を表明したが、これこそ、国民が望んできたことで、しかも、官僚国家の弊害が深刻な日本にとって、現在、直面している最大の政治課題といえる。
一内閣一仕事≠フ観点からいえば、各省庁の政策一元化や、規制改革だけで十分な成果だが、そのほか、菅首相は、デジタル庁新設や「地方創生」などの新機軸を掲げている。
 これらが、すべて、コロナ対策と関連しているのはいうまでもない。
 マイナンバーを利用した給付金の支給が混乱したのは、官庁のデジタル化がすすんでいなかったからである。
 平成19年、社会保険庁と自治労が、パソコンの使用が労働強化にあたるとして、年金名簿入力をアルバイトにまかせっきりにして、5000万件の年金記録を消失させ、この失政で、自民党は、政権からすべり落ちている。
 だが、その後も、官庁のデジタル化はすすまず、コロナ対策では、厚労省や保健所が、ファックスで、情報をやりとりして、世界の笑いものになった。

 デジタル庁は、住民票から納税、健康保険などを、省庁横断的に一本化するマイナンバー(カード)の所轄部門である。
 担当大臣となる平井卓也は、スマートフォン向けゲーム(「あべぴょん」)を開発したデジタルやITの専門家である。
 これを期に、現在、世界の最下位にあるデジタルやITの競争力を増強してもらいたいものである。
 地方創生には「大阪都構想」から首都機能の地方分散、地方の雇用増大まで多々あるが、注目されたのが、コロナ対策である。
 大阪府の吉村洋文知事や東京都の小池百合子知事、北海道の鈴木直道知事らが、地方行政で、国政をこえた強力な指導力を発揮してきたのは、多くの国民の知るところである。
 住民投票で「大阪都構想」が可決されれば、ふるさと納税の主唱者で、松井一郎大阪市長と親しい菅首相が応援するはずである。
 菅政権から、地方の時代がはじまる可能性が高いのである。

 菅政権の目玉に、首相の指示の下で「行政改革目安箱(縦割り110番)」を設置した行政改革・規制改革相の河野太郎と、中国の神経を逆撫でする親台湾派で、安倍前首相の実弟にあたる防衛相の岸信夫らがあげられる。
 とりわけ、外務大臣や防衛大臣、国家公安委員会委員長をつとめてきた河野太郎は、これまで、歯に衣着せない物言いで、なんどか、物議をかもしてきた。
 豪腕で鳴る河野大臣が、硬直した日本の官僚体制にかける強引なゆさぶりに大いに期待したい。
 さて、河野太郎ら大臣については、次回、ふれるとして、菅首相の言動に目をむけてみよう。
 菅首相は、常識派で、抽象的な議論を好まない反面、ストレートな物言いでこれまで論敵をつぎつぎ片付けてきた。
 加計学園問題で、安倍前首相に噛みついた前川喜平前事務次官の内部文書を怪文書≠ニした菅官房長官(当時)は前川をこう切って捨てた。
「前川氏は、女性の貧困問題の調査のために、いわゆる出会い系バーに出入りして、女性に小遣いを渡している。これにはつよい違和感を覚える。杉田和博官房副長官からも厳しく注意をうけている」
 以後、東大出の前川をスター扱いしていたマスコミはぴたりと沈黙した。
 前川喜平をもちあげるなど、権力とたたかうと称して、記者会見で、愚問を連発させてきた左翼記者(東京新聞/望月衣塑子)にたいしても、菅官房長官(当時)は「あなたに答える必要はありません」と一蹴している。
 日本の政治は、政策と政権、空想と現実、保守と革新が入り混じって、国民にわかりにくいものになっていた。
 菅政権が、一定の支持率の下で、政策と現実、保守を一本の糸につなげると、日本の政治はかならず変わるのである。
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2020年09月10日

 とりもどせ! 国家の主体性C

 ●経済をとって支配原理を捨てた日本
 戦後、吉田茂は、経済をとって、防衛を捨てた。
 アメリカがタダでまもってくれるのだから、日本は経済だけに精力をむけていればよいというひとりよがりの理屈だった。
 ところが、日本が捨てたのは、防衛だけではなかった。
 外交権・防衛権をGHQに奪われた日本は、国家の支配原理≠サのものを放棄してしまうのである。
 支配原理というのは政治力のことである。
 そして、その下で働くのが、官僚である。
 明治以降、富国強兵と世界の強国をめざしてきた日本が、第二次世界大戦に負けたとたん、国家の支配原理を投げ捨てて、経済だけが頼りという情けない国になってしまったのである。
 支配原理に代わって、台頭してきたのが、官僚制だった。
 だが、官僚は、とうてい、国家の支配原理になりえない。
 官僚には国家がないからで、あるのは、自己利益の原則と知識だけである。
 天皇の官僚が、一夜明けたら、GHQの官僚になってしまったのは、官僚にとって、ご主人は、給料さえくれれば、だれでもよいからである。
 ソ連の共産党官僚は腐敗して崩壊したが、中国の共産党官僚は、支配原理を共産主義から資本の論理へモデルチェンジして、逆に、大きな発展を遂げた。
 朝鮮の官僚階級(ヤンパン)は、日本が廃止させ、韓国は、35年にわたる日本化を支配原理として、現在の繁栄をえた。
 吉田ドクトリンも、バブル景気にわいた1980年代までで、1990年代になると世界2位の経済力も下降線を描きはじめ、2010年には中国に追い抜かれ、現在は、独・英・仏やブラジル、インドや韓国に肉薄されている。
 国家原理がないので、国家間競争にめっぽう弱いのである。
 1989年の世界時価総額ランキングでは、NTT以下、日本企業がTOP5を独占、50位までに日本企業32社がランクインした。
 ところが、2019年の世界時価総額ランキングでは、アメリカのマイクロソフトやアップル、アマゾン、中国のアリババやテンセントなど、米中のIT企業が上位を占め、50位以内に入った日本企業はトヨタ1社(42位)だけとなった。
 半導体産業も、1980年代は、NECや東芝などの日本の製造業が世界のトップシェアを握ったが、現在は、台湾のTSMCが4割、アメリカのインテルが3割、韓国勢が2割で、日本は世界市場から完全に放逐されている。
 日本企業が、これほど弱体化してしまった理由は、日本が官僚国家だからである。
 官僚国家に欠けるのが、支配原理で、役人は、じぶんの生活原理にしか興味がない。

 2019年の世界時価総額は 1989年当時の10倍以上となった。
 その原動力がIT(情報技術)で、アメリカからはじまったデジタル革命によって、世界の経済構造は10倍にもスケールアップされた。
 5G(第5世代移動通信システム)がその代表だが、日本では、5GやAI(人工知能)どころか、パソコンを使ったことがない大臣(桜田義孝)が国家のサイバーセキュリティを担当するという愚かなことが堂々とまかりとおってきた。
 なぜ、そんなばかげたことがことがおきたのか。
 日本では、高学歴の官僚が、許認可権や行政指導をとおして民間を指導するという制度が、明治時代から現在まで、百年以上にわたって、延々とつづいてきたからである。
 したがって、デジタル革命によって、産業構造が変わっても、対応できない。
 経済・生産活動をおこなわない官僚は、ITやデジタルには、なんの関心ももたないからである。
 日本では、そんなお役人さまが、経済から行政、法律のすべてを仕切っている。
 これでは、ヤンパンという特権エリートがすべてを牛耳って、世界で最低の非効率社会となった朝鮮李王朝とすこしもかわるところがない。
 次期首相に最有力の菅義偉は、新内閣の切り札として、縦割り行政の打破や「デジタル庁」の創設を明言したが、産業構造のデジタル化という地殻変動にたいして、思い切った手を打っていかなければ、役人国家、日本は、沈没するほかない。
 現在、日本は、半導体で世界最大のシェアをもつ台湾のTSMCを誘致する計画をすすめているという。
 実現すれば、半導体産業ばかりか、官僚指導型で沈滞している日本の経済が活気づくはずである。
 半導体にかぎらず、日本の経済がダメになったのは、日本が学歴社会だからである。
 官庁ばかりか、大企業も、役人の採用と同様、学力を優先して、偏差値人間ばかりを集める。
 したがって、古い知識をもっていても、創造的なことはなにもできないエリートが経済の前線に立つことになる。
 それが失敗の原因で、過去の知識がいくらゆたかでも、現在をゆたかにする知恵がなければ、競争には勝てない。
 アメリカIT企業の御三家、アップル社のスティーブ・ジョブス、マイクロソフトのビル・ゲイツ、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグをはじめとして、ITやデジタル分野の成功者で、高学歴者はほとんどいない。
 学歴エリート主義(科挙)と官僚の特権思想(ヤンパン)という儒教観念をぶち壊さなければ、日本に未来はないのである。
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2020年09月06日

 とりもどせ! 国家の主体性B

 ●防衛と外交で大きく立遅れた日本
 領土と国民、主権の3つが「国家の3要素」といわれる。
 もっとも、これは、王権神授説にもとづくもので、唱えたのは、16世紀のボーダン(「国家論」)である。
 17世紀のホッブズやロック、18世紀のルソーの「社会契約説」によって、王権神授説が否定されて、国家主権の根拠が、神から国民へと移った。
 ルソーは、国民一般に主権があるとして、それが、フランス革命の理論的な根拠となったが、アメリカ革命(独立戦争)やロシア革命も、背骨にあるのは「社会契約説」である。
 社会契約説がいう国民は、ピープル(国民すべて・大衆・民族)で、個人を意味するパーソンではない。
 その国民主権を丸ごとあずかって、ヒトラーやスターリンのような独裁者が出現したが、原爆投下を独断したアメリカの大統領も、民主主義からうまれた独裁者である。
 国民主権と民主主義は、表裏一体の関係というより、ほぼ、同じ意味である。
 国民主権は、多数派のことで、多数派は、多数決によってつくられる。
 多数派も衆愚政治も、独裁すらも、民主主義によって、かんたんにできあがってしまう。
 民主主義も国民主権も、結局、王権神授説の安手の代用品にすぎなかったのである。

 フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」で、民主主義と自由経済の勝利を宣言したのは、1992年のことだが、その仮説が、いまや、あやしくなってきている。
 共産党独裁の中国の大躍進のショックと、民主主義や自由への幻滅が、世界中にひろがっているのである。
 一国主義の台頭は、民主主義と自由の後退で、いまや、世界は、一帯一路の中国経済圏と、米・欧・日の自由主義経済圏に分かれて、するどく、対峙している。
 国家の3要素も変化して、領土と国民、主権だけでは、国家の説明がつかなくなっている。
 新しい国家の3要素は、経済と外交、防衛で、米中摩擦をみれば、そのことがよくわかる。

 戦後、日本は、経済をとって、外交と防衛を捨てた。
 その結果、憲法9条(不戦条項)が日本の平和をまもっているという愚かな思想が蔓延して、日本は、一国主義や自主防衛、積極外交という世界的趨勢に乗り遅れた。
 日本の安全をまもっているのは、世界第6位の軍事力と日米安保条約、国連憲章51条「個別的自衛権」で、憲法9条における交戦権放棄は、自国防衛を義務づける国際慣例法にたいする重大なルール違反なのである。
 日本は、経済力において、たしかに、一応の成功をおさめた。
 だが、防衛と外交政策において、世界から、大きく立ち遅れている。
 国家は、権力の政体(ネーション)と文化の国体(ステート)の両面をもつ。
 中国のステートは、共産主義で、アメリカのステートは、民主主義である。
 伝統国家の日本は、国体としての天皇や歴史、文化をもっている。
 足りないのは、政体の残りの2つ、防衛と外交だけである。
 安倍首相は、辞任の前に決着をつけておくべき懸案として、安全保障政策の新たな方針をあげたが、これは、具体的に、敵基地攻撃能力の保有をさす。
 くわえて、中国の影響力を排除、中国依存度を軽減するため、オーストラリアやインド、ASEAN間のサプライチェーン強化を明確に打ち出した。
 次回は、ポスト安倍における日本の防衛と外交の青写真を描いてみよう。

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2020年08月31日

 とりもどせ! 国家の主体性A

 ●アメリカ民主主義を国是にした愚
 戦後日本のフレームをつくったのが、経済主義・平和主義・民主主義の3つのイズム(主義)で、別名「吉田ドクトリン」である。
 国防は、アメリカにまかせて、日本は、経済だけに力を注ぐべしというのが吉田ドクトリンだが、そこから、主体性の欠如という、国家として、致命的な欠陥が生じた。
 国家の主体性は、国家防衛を契機として、うまれるものである。
 国の護りを外国に頼って、どうして、主体性がそなわるだろう。
 主体性というのは、それ自体の責任において、存在するということである。
 たとえば、日本は、あくまで、日本であって、独立自立して、なにものにも依存しない絶対的な存在である。
 それが、国家主権で、独立権から統治権、交戦権までがふくまれる。
 国をまもる気概や国を誇りに思う心も、主体性で、道徳心の基礎である。
 国家主権と道徳心がセットになって、国家防衛の体制がつくられる。
 ところが、戦後、日本では、国をまもる気概も手段も根こそぎ失われた。
 敗戦と日本軍の解体、武装解除(憲法9条)とGHQの進駐によって、国をまもるという概念が、旧陸海軍とともに、一夜にして、消失してしまったのである。
 極東委員会とGHQは、敗戦によって、四等国(マッカーサー)へ転落した日本に、さらに、財閥解体や産業破壊、農地解放、労組助成などで追い打ちをかけた。
 なかでも熾烈だったのは、産業破壊で、SCAP(連合国軍最高司令部)が画策したのは、ドイツと同様、工業部門の徹底的な破壊だった。
 重化学工業を中心に、日本中の工場が破壊されて、工業機械が没収あるいはスクラップになった。
 日本をアジアの一農業国に転落させるというSCAPの計画は、中国革命や朝鮮戦争がなかったら、実行に移されて、現在の日本の繁栄はとうていありえなかった。
 吉田茂が国家防衛を捨てて、経済主義に走ったのは、日本は、軍事的敗北につづいて工業破壊≠ニいう経済的敗北に直面していたからである。

 GHQによる国家解体の決定打となったのが「公職追放令」と「人権指令」だった。
 公職追放令は「好ましくない人物(連合国側にとって)を公職から追放」する命令で、対象者が21万人にのぼった。
 これらに要人に平均100名の部下がいたとして、合計で、2100万人が影響をうけたわけで、人口7200万人だった終戦当時、勤労男子のほとんどが公職追放令のとばっちりをうけたことになる。
 退役軍人(一般徴兵)700万人も公職追放の対象で、多くが公職への道を断たれている。
 一方、猛威をふるったのが「人権指令」である。
 治安維持法など、反体制活動を制限する15の法律や法令の廃止や政治犯の即時釈放、特高の廃止などを命じたもので、「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」とあるように、この人権指令は、共産主義者らの国際派にとって、願ってもない福音となった。
 公職追放令で生じた空隙に、マルクス主義者らの国際派がはいりこんだのはいうまでもない。
 とりわけ、大学教壇や学会、マスコミや言論界、官界や法曹界は、共産主義者の牙城となった。
 こうして、日本は、戦前とガラリと様相を変えた左翼の国になってしまったのである。
 日本は、戦後、天皇主権からアメリカ民主主義へ、180度、体制転換した。
 そして、民主主義を採用するよい国へ生まれ変わったとみずから喧伝した。
 だが、民主主義は、日本人が思っているほどすぐれた制度ではない。
 日本には、君民一体や自他共栄、もちつもたれつ、相身互いなど民主主義に該当する文化や習慣がある。
 アメリカが、民主主義を唯一の社会規範としてきたのは、歴史の蓄積がない多民族の新興国家では、多数決を、唯一のルールにして、最高の文化的価値とするほかなかったからである。
 日本人は、民主主義が、国民主権と同様、個人のものと思っている。
 だが、実際は、民主主義は、多数決全体主義で、国家のものである。
 げんに、アメリカの第二次大戦のスローガンは、封建体制の打破と民主主義の防衛だった。
 ヨーロッパにとって、民主主義は手段だが、アメリカにとって、民主主義は目的だったのである。
 ちなみに、国民主権も、国家があずかる国民総体の権利で、国家に属する。
 日本国憲法には、アメリカ民主主義が反映されていて、日本の伝統的な価値観は一行もしたためられていない。
 日本および日本人が、主体性を失ってしまった最大の原因は、国是を、わが国固有の歴史や伝統、文化ではなく、アメリカ民主主義としたところにあったのである。
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2020年08月24日

 とりもどせ! 国家の主体性@

 ●日本はなぜ国家の主体性を失ったのか
 日本が、国家の主体性を失ったのは、戦争に負けたからである。
 それも、東京大空襲と広島・長崎への原爆投下で、30万人以上の非戦闘員を虐殺されるという酷い負け方であった。
 日本軍の戦死者は、230万人で、終戦当時、日本兵が、710万人だったことを思えば、じつに、3割以上が戦場で命を落としたことになる。
 すべて、甲種合格のりっぱな日本男子だった。
 日本は、戦後、指導的立場に立つべき230万人ものリーダーを失ったままアメリカ(GHQ)に占領されたのである。
 日本が、国家として、いまだ、主体性をもてない理由の一つに、甲種合格の日本男子230万人を失った歴史的な痛手をあげなければならない。
 そして、その代わりに、日本の中枢へ入りこんだのが、日本の敗戦を利得とした国際派やマルクス主義者、日本人の誇りを捨て去った卑しい人々の群れであった。
 GHQにしっぽをふった敗戦利得者については、のちに、詳しくふれる。
 戦後、軍国主義に代わって、猛威をふるったのが、GHQの思想改造だった。
 思想改造というのは、軍事制圧と上陸占領につづいて、戦勝国がとる第三の手段で、敗戦国の歴史や伝統、文化などの精神的価値を根こそぎ否定しようというのである。
 軍国主義の根絶やしから神道指令、WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)にいたるGHQの文化侵略には、教科書の黒べた塗りから武道禁止、茶などの古典焚書などもふくまれる。
 なかでも、大きな効果を発揮したのが、新憲法と民主主義だった。
 憲法は、占領基本法の焼き直しで、国家主権の放棄と武装解除が宣言されている。
 戦勝国が、敗戦国の国家主権を奪って、武装解除するのは、戦争の大原則である。
 ただし、これは、戦争行為であって、平時には、通用しない。
 そこで、GHQは、占領政策を憲法に格上げすることにした。
 そうすれば、敗戦国=日本を、永遠に、戦勝国=連合国総司令部(GHQ)の支配下におくことができる。
 だが、占領下における法改正は、ハーグ陸戦条約で禁止されている。
 はなはだしく、被占領国に、不利益をもたらすからである。
 マッカーサー憲法は、国際法違反だったのである。

 護憲主義者は、武装解除(憲法9条)を平和主義などといって歓迎する。
 だが、自衛権の放棄は、平和とはなんの関係もないただの売国思想である。
 というのも、国家の主体性は、国家の防衛を土台にしているからである。
 国家でも人間でも、自己をまもる本能がはたらいて、はじめて、尊厳がたもたれる。
 国家の尊厳は、自国は自国でまもるという主体性にたいして、そなわるものなのである。
 日本は、憲法で交戦権が否定されているので、敵国が攻めてきたら降伏するしかないと主張する者たちがいる。
 とんでもない妄言で、国家の自衛権は、生存権で、おのずとそなわっている権利である。
 むしろ、交戦権の放棄を謳った憲法9条が、国際法や慣習法、国連憲章などと整合しない異端法で、じじつ、日本の安全保障は、慣習法と日米安保条約によってまもられている。
 日本が、国家としての主体性を危うくしている最大の理由は、国家をまもる気概を失ったことにある。
 その原因を4つあげることができる。
 @国家防衛をアメリカ任せにしたこと
 A政治を捨てて、経済主義に走ったこと
 B民主主義を全体主義と気づかなかったこと
 C自主憲法制定にふみきらなかったこと

 次回から、以上4つのテーマと、ワンマン宰相、吉田茂の功罪について順次のべていこう。
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2020年08月10日

コロナ後の世界展望と民主主義C

 ●コスモポリタイズムと原爆体験
 アメリカの原爆投下から75年が経過して、8月6日に広島で、そして本日(8月9日)長崎で、75回目の「原爆の日」の式典がおこなわれた。
 原爆による犠牲者数は、広島市において、人口35万人のうち4割にあたる14万人、長崎でも、少なくも、7万4000人が死亡している。
 全員、生きながらの焼死で、その寸前まで、日常の生活がおこなわれていた。
 たとえようがない残酷で野蛮なおこないだが、アメリカは、ビキニ環礁などで、水爆などの核実験を百回以上もおこない、美しい南太平洋の海を死の海に変えてしまった。
 現在、9か国が1万4525基の核兵器を保有している。
 人類は、世界を500回、滅亡させることができる核を保有していることになるが、皮肉なことに、これが、核の使用を不可能にしている。
 そして、その一方、核は、防衛手段としての有効性を高めつつある。
 北朝鮮は、核を保有して、はじめて、体制維持が可能になったのである。
 今回も「原爆の日」の式典で、参列した政治家が声を揃えて核兵器の廃絶をうったえたが、これほど、壮大なる虚言≠フセレモニーはない。
 いくら誓おうと叫ぼうと、核兵器がなくなることはないからである。
 それなら、核兵器を前提とした安全保障、国家防衛の具体策を立てなければならない。
 だが、日本人は、大言壮語をもてあそぶだけで、具体的な対策を考えようとしない。
 そして、平和主義者と称する者たちが漫才師(太田光)の「憲法9条を世界に輸出しよう」などというたわごとをもちあげる一方、安倍首相の「敵基地攻撃能力」への言及を戦争主義とくってかかる。
「敵基地攻撃能力」に関する政府記者会見で、新聞記者が中国や韓国の理解がえられるかという愚問を発して、河野太郎防衛相が「わが国の領土を防衛するのになぜ中国や韓国の了解が必要なのか」と気色ばむシーンがあった。
 平和主義の前で思考停止に陥っているのが、日本のマスコミで、りっぱなことばさえ発していれば、現実的な対応や対策はどうでもよいのである。

 広島を訪れたパル判事は、慰霊碑に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちは くり返しませぬから」ということばから大きな衝撃をうけた。
「ここに祀られているのは、原爆犠牲者の霊で、原爆を落としたのはアメリカである。過ちを詫びるのは、日本人ではなく、アメリカであろう」(1952年11月3日)
 これにたいして、碑銘を書いた広島大教授の雑賀忠義はパルに猛反論した。
「われわれは広島市民であるとともに世界市民である。原爆投下は広島市民の過ちではないというのは世界市民につうじないことばだ。そんなせせこましい立場に立つと、過ちをくり返さぬということが不可能になって、霊前でものをいう資格はない」
 なにをいっているのかさっぱりわからない。
 だが、これが日本平和主義の原点となって、ここから原水協(共産党系)や原水禁(旧社会党系)の核廃絶から護憲派の自衛権の放棄にいたる平和運動が展開されてきた。
 雑賀は、もともと英文学者で、心の故郷が英米にあるコスモポリタンである。
 コスモポリタニズムは、世界主義のことで、ノーベル賞の大江健三郎はこううそぶいた。
「日本が悪いから、原爆を落とされた。原爆は、日本人にあたえられた反省の材料である。だが、わたしは日本人ではない。ノーベル賞をうけ、文化勲章を断ったのは、世界市民だからである」
 日本の平和主義者は、例外なく、コスモポリタンで、「9条の会」の小森陽や羹尚中、高橋哲哉ら東大教授に代表される日本の学者や学会、マスコミ、教育界、法曹界、共産党から自民党左派にいたるまでの政党が、コスモポリタニズムに毒されている。
 国から甘い汁を吸う一方で、国を足蹴にするのがコスモポリタニズムという卑劣な思想で、かれらが信奉するのが、自由や平等、そして、民主主義である。
 民主主義には、愛国心も同胞愛も、正義も道義も、モラルすらもない。
 パル判事は、戦争が主権国家の交戦権の行使である以上、戦勝国が「平和にたいする罪」や「人道にたいする罪」という事後法で敗戦国を裁くのは違法と主張した。
 これが、英国法曹界の重鎮ハンキー卿に支持された結果、東京裁判は違法という考え方が世界の常識になって、ウエッブ裁判長もこれをみとめた。
 東京裁判が違法だと世界にうったえて、成果をあげた日本人がいたろうか。
 1959年に広島の原爆資料館を訪れたキューバの革命家、チェ・ゲバラは「きみたち日本人はなぜ腹を立てないのか」と憤った。
 以後、キューバでは、毎年8月6日と9日に国営放送で特番を組み、広島と長崎の原爆投下について教えている。
 原爆投下がアメリカの戦争犯罪だと世界にうったえた日本人がいたろうか。

 日本では、戦後、国権を立てて、国家や国民の利益をまもったことがいちどもない。
 日韓併合や従軍慰安婦、徴用工、南京大虐殺問題などで、中国や韓国のデマゴギーにたいして、国家としての反論定説を一つも用意せずに、謝ってばかりいた。
 日本では、主権が国家にあって、国家主権や国家理性、国家意志が不在なのである。
 それが、如実にあらわれたのが、コロナ禍における日本政府の対応だった。
 戦後、最大の国難にあたって、ただのいちども禁止や命令をださなかったのは、原爆投下や東京裁判にたいして、国家主権を立てていちどもモノをいってこなかったこととけっして無縁ではない。
 日本人は、為政者をふくめて、民主主義が最高価値で、主権は国民にあって国家にはないと思っているのである。
 禁止や命令は国家主権の行使である。
 日本では、国家主権の法的根拠を憲法にもとめることができない。
 国家主権が不在の日本では、国民にお願いして、諸外国に頭を下げるしかないのである。
 日韓併合も、大韓帝国一進会の李容九が百万人の署名をそえて、李完用首相に送った「韓日合邦を要求する声明書」(1909年)が発端で、日本が武力侵攻したわけではない。
 ちなみに、この声明書には「これまでの朝鮮の悲劇は、朝鮮民族がみずからまねいたことであり、朝鮮の皇帝陛下と日本の天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、国を発展させようではないか」と記されている。
 なぜ、日本は、国家主権の下で、国益や国民をまもり、外国に堂々とモノをいうことができないのであろうか。
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2020年08月07日

 コロナ後の世界展望と民主主義B

 ●民主主義を国家精神≠ノしてしまった戦後日本
 今回の世界的なコロナ禍で、改めて問われたのは、民主主義の真価だった。
 民主主義の先進国であるアメリカやヨーロッパなどでパンデミック(大規模流行)が発生したのにたいして、中国や台湾、韓国やベトナムなど国家権力がつよい国では、ある程度、コロナウイルスがおさえこまれた。
 コロナ防衛は、民主主義と全体主義のたたかいでもあって三密≠フ回避やマスク着用、ソーシャルディスタンスは、民主主義や個人主義と折り合わない全体主義にもとづいた政策であった。
 したがって、欧米では、外出禁止令などにたいする反対デモが頻発した。
 全体主義は、当然、強制をともなうので、中国や韓国、台湾の罰則のきびしさは、語り草になったほどだった。
 欧米で、全体主義が反発を買うのは、民主主義ではなく、個人主義の風潮がつよいからで、パンデミックに突入しても、マスク着用は半数にみたなかった。
 日本で、マスク着用やハンドウオッシュが徹底したのは、清潔好きの国民性のたまものであろうが、一方、国内からも海外からも不評だったのが、政治的な指導力の欠如である。
 日本政府が強権を発動しないのは、発動すれば、野党やマスコミから非民主的と叩かれる可能性があったからで、事実、60年安保では、全野党・全マスコミが「反安保」ではなく「民主主義をまもれ」と叫んだものである。
 だが、政府・自民党が、コロナ対策に強権をうちださない理由は、それだけではない。
 民主主義を善≠ニとらえ、強制力をともなう全体主義を悪≠ニ見立てる価値観に立っているからである。
 したがって、国家主権や国家理性をふまえた命令″痩ニ的な決断力を下せないのである。

 コロナ後の世界展望において、民主主義を最良の政治手段としてきた時代は終わりを告げたとみてよい。
 コロナ以後、多数決で物事をきめるような情勢ではなくなる。
 今後、世界は、強力なリーダーシップの下で、全体主義的な方向をたどってゆくはずである。
 さて、政治とは、個(個人)と全体(国家)の矛盾を調整する手段である。
「個と全体の矛盾」は、プラトンの大昔から、人々が頭を悩ましてきた大きな問題だった。
 プラトンは、聡明な、たとえば哲学者による独裁を考えたが、全体の利益に奉仕する思想家も権力者も、ついに、あらわれなかった。
 人間が愚かというより、個と全体の矛盾は、こえられない壁として、人類の前に立ちはだかってきたのである。
 そして、近代になって、民主主義が、「独裁よりマシ(チャーチル)」という理由から、政治手段や人民支配の便法としてもちいられることになった。
 日本人には、戦後、GHQがもちこんだ「アメリカ民主主義」の印象がつよいだろう。
 当時、日教組やマスコミ、インテリらは、喜々として、「日本は民主主義の国にうまれかわりました」と叫んだものである。
 だが、かれらは、民主主義が全体主義であることには気づかなかった。
 多数派独裁が、全体主義であることは、すこし考えればわかるだろう。
 49パーセントの少数派を断ち切って、どうして、民主になるのか。
 左翼の宣伝屋は、民主主義は個を大事にするというが、ウソである。
 左翼が大事にするのは、多数派で、レーニンが率いたボリシェビキ党のボリシェビキは、多数派という意味である。
 ヒトラーは、民主主義を利用して独裁体制を打ち立て、人民を虫けらのようにあつかう北朝鮮は、国名に民主主義を謳っている。
 啓蒙思想の一つであるルソーの民主主義は、古代ギリシャの衆愚政治を揶揄したことばで、それがフランス革命の精神になったのは、革命も、衆愚政治の一つだったからである。

 そのルソーも、民主主義が個人のものなどとは、一言もいっていない。
 国民総体の意志(一般意志)が、最高にして絶対の権力(人民主権)となるという内容が革命権とうけとめられただけである。
 ルソーの国民は、一般化された国民で、日本人一億まとめて国民である。
 憲法の国民主権も、国民一般の主権で、一人ひとりの日本人に主権があるといっているわけではない。
 ところが、大方の日本人は、ひとり一人の日本人が主権をもっているように思っている。
 主権は、ソブリンティ(君主権/国権)のことである。
 ソブリンティには、徴兵して戦争をおこす権利、国民を逮捕して、処刑する権利までがふくまれる。
 国民ひとり一人がそんな主権をもっているはずはない。
 もっているというなら、個人が交戦権をもち、他人を処刑する権利をもっているというようなもので、これでは、ホッブスの「万人の戦争」どころの話ではない。
 保守系をふくめて、多くの政治家が、民主主義がなにかりっぱな思想であるかのような錯覚に陥っている。
 そして、民主を優先させて、国益をないがしろにする。
 国民にマスクを支給するのが、民主主義的な政治家のように思っているようだが、国民が首相に望んでいるのは、マスクなどではなく、コロナ防衛という国益に立ったつよいリーダーシップである。
 旅行業界のドン、二階幹事長は「GO-TOキャンペーン」を強引にすすめて受託業者から4200万円以上の献金をうけている。
 国家や国益という大道から外れると、結局、私利私欲の罠に落ちるのである。
 二階は、女系天皇容認の弁に「民主主義、男女同権の世の中に」と口走った。
 民主主義を語る者には、国家や国体、歴史や伝統、国益や国家理性の認識がぽっかりと欠落しているのである。
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2020年07月31日

コロナ後の世界展望と民主主義A

 ●一国主義≠フなかで立ち枯れる日本
 コロナ以降の世界情勢が反グローバリズムの一国主義≠ヨむかっているのはだれの目にも明らかだろう。
 といっても、ブロック経済や欧米が地球上の土地の84%を支配した20世紀はじめの植民地・帝国主義とは異なる。
 国家の支配イデオロギーが、民主主義や自由・平等、平和主義などの空想的な観念論から、国益や自国優位の国家主義や国家理性、あるいは他国敵視政策へ移り変わってきたのである。
 一国主義の兆候は、すでに、コロナ以前からあらわれていた。
 イギリスの「EU離脱」がその一つで、約20兆ドルと世界GDPの約25%を占める欧州連合の一角が崩れると、その一方で、英仏独など欧州の10か国が移民反対をうちだし、欧州ナショナリズムというべきものの存在をみせつけた。
 イスラム圏7か国の入国規制を打ち出したトランプがメキシコからの不法移民を防ぐため国境に3000Kmの壁を建設するなどはばかげた構想に思えるが、中国総領事館(テキサス州ヒューストン)の閉鎖命令と同様、まぎれもない現実である。
 米中貿易摩擦は、将来、米中のどっちが将来的な世界覇権を握るかというテーマでもあって、対立軸が、経済から科学や技術、軍事面にまでひろがっている。
 いちはやく一国主義を打ち出したのは、アメリカのトランプ、中国の習近平、ロシアのプーチンだが、リードしたのは「一帯一路」の習近平だった。
 といっても、アメリカは、ヘッジファンドを主とした国際金融資本を操作して、国際金融危機とりわけ日本のバブル崩壊やアジア通貨危機をつくりだして、アジアから天文学的な利益を貪った、一国主義の先駆者である。
 グローバリゼーションは、かつて、自由主義経済をリードする思想としてもてはやされたが、文化的にはアメリカ化、経済としてはアメリカ金融資本への隷属以外のなにものでもなかった。
 グローバリゼーションが、実際は、アメリカナイぜーションで、これが一国主義の端緒で、これにつづいたのが、中国の元経済圏構想(一帯一路)だったとといえる。

 米中冷戦が、かつての米ソ冷戦と決定的に異なるのは、東西両陣営という対立軸をつくりださなかったことである。
 米ソ冷戦時代は、アメリカが、NATO(北大西洋条約機構)と日米安保体制の盟主として、ソ連に対抗したが、米中冷戦では、このような対立的な陣営化は生じていない。
 世界には、アメリカと中国の二大大国のほかに、日本やロシア、EU諸国や英国、カナダや豪州、ブラジルやインド、台湾や韓国、トルコやイスラエル、UAE(アラブ首長国連邦)やサウジアラビアなどの強国がひしめきあって、各国がそれぞれ相応の軍事力をもっている。
 核保有国は、NPT(核兵器の不拡散条約)を批准しているアメリカとロシア、イギリス、フランス、中国の5大強国と、NPTを批准していないインドとパキスタン、北朝鮮、イスラエルのあわせて9か国あるが、核は、事実上、使用不可とあって、2大強国をふくめて、各国とも独自の安全保障・防衛構想を立てている。
 かつて核の傘≠ニいう考え方があったが、日本を核攻撃した中国にアメリカが核ミサイルで反撃するということはありえない。
 報復の報復によって、アメリカ国民の生命や国家経済や文化が危機にさらされるからである。
 その意味で相互確証破壊の論理は破綻しているが、原爆使用の報復として、経済その他の制裁をうければ、核の被害は、自国にもおよぶのである。
 韓国は、日本の原発を標的にした巡航ミサイル(玄武3B/3C)を配備しているが、日本も、F-35などに搭載できる国産巡航ミサイルで敵射程外から報復(敵基地攻撃)できる体制をすすめている。

 一国主義において、国家の防衛や安全、繁栄をまもるには、確乎たる信念や自信、使命感がなくてはならないが、その背景にあるのが愛国心や同胞愛、民族や歴史にたいする誇りである。
 それが国をまもる気概で、戦後、日本が失ってしまったのが、自国は自国でまもるというモラルや独立心、自尊心だった。
 自国防衛のモラルを捨て、国防をアメリカに依存する腑抜けた姿勢を平和主義と呼んできたが、実際は、平和ボケで、精神の退廃である。
 この精神のゆるみが、新コロナウイルス対策にもあらわれて、日本はコロナ第二波≠フ脅威にさらされておる。
 日本は、協力要請だけで、これまで、コロナ防衛で、いちども命令を発令していない。
 命令という強権をふるうには、国家や国民を思うつよい決意や情熱がはたらかなければならない。
 安倍首相は、マスクの2回目の給付をきめて不評を買い、二階幹事長は「GOTOキャンペーン」で墓穴を掘った。
 命がけで国家をまもる気がないので、強権を発動することができず、一方、利権や既得権の確保には気がむくのである。
 世界が一国主義という戦国時代にむかうなか日本だけが平和ボケ≠ニいうぬるま湯に浸ったままなのである
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2020年07月20日

コロナ後の世界展望と民主主義@

 ●国を挙げてコロナと戦えない脆弱さ
 大阪府警は、売春防止法違反(周旋)の疑いで、大阪・ミナミのホストクラブ経営者、田中雅秀ら3人を逮捕した。
 田中らは、クラブの遊興代金を支払わせるため、女性客に売春させたもので、被害女性が府警に駆け込んで事件が発覚した。
 府警保安課によると、女性は18年10月から1年2カ月にわたって愛知県内のビジネスホテルに監禁状態で、1日10万円の売春ノルマを課せられていたという。
 女性は約2200回にわたって売春させられ、田中らは、売春の代金約2900万円の大半をとりあげていた。
 女性は「たびたびホストクラブに連れて行かれ、じぶんのツケがいくらかわからないまま売春させられた」という。
 ホストクラブ女性客に高額なツケの代金を請求して、売春を強要するケースは、ホスト業界では、日常茶飯事である。
 ホストとのセックスを目的に来店する女性客の90パーセントはホステスで、売春に抵抗がない風俗関係者もすくなくない。
 ホストの志願者は、女性とセックスができる、高収入が期待できるとあって、人気業種だというが、このホスト業界が、現在、第二次コロナ流行の最大の汚染源になりつつある。
 ホストからコロナに感染した客のホステスが、じぶんが勤務している店だけではなく、コンビニやスーパー、美容院などでコロナウイルスをまきちらすのである。
 新型コロナの1日当たり新規感染数を更新している東京都で、感染者290人(7月18日)のうち感染経路不明者が158人にもたっしたが、国立国際医療研究センターによると、積極的な対策を講じなければ、2か月後には100倍以上、2万人近くにのぼるという。
 欧米並みのパンディミックが、恥ずかしい話しながら、歌舞伎町のホストクラブからうまれようとしている。
 3711人の乗客・乗務員のうち712人が感染、13人が死亡した豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号の第一波コロナ流行は自衛隊らの献身的な船内防疫活動で、事なきをえた。
 ところが、今回の歌舞伎町ホストクラブの第二波コロナ流行は、船内感染とちがって、感染者が野放しの市中感染状態で手の打ちようがない。
 クラスター(集団感染)封じは、閉店命令と客や従業員らの隔離しかないが、セックス産業とあって、顧客の把握はむずかしい。
 歌舞伎町にあるホストクラブ約240店のうち、1割を超える約30店で感染者がでているばかりか、10数店で、感染者が5人以上のクラスターが発生しているが、国も都も手をこまねくばかりである。
 東京都新宿区がおこなったPCR検査で、ホストクラブなど夜の街で働く接客業者の陽性率が一般(4%)の8倍の31%にたっしたというが、ホストクラブは、相変わらず営業をつづけている。
 本来なら、国民の健康をまもるため、国や都は、営業禁止命令などの強制的措置をとるべきだろう。
 だが、国も都も、ホストクラブを聖域化して、クラスターをおこした店名すら公表しない。
 人権侵害の汚名を着ても国民の命や健康をまもろうという気概がないのである。
 ふしぎな話だが、マスコミは、全面的にホストクラブ擁護論である。
 読売新聞(7月17日)は、ホストクラブなど16店を所有する経営者(手塚マキ)を好意的にとりあげて「ホストを差別しないで」という彼女の言い分をそのまま記事のタイトルに掲げている。
「ホストクラブがPCR検査を積極的に受けた結果、感染者数が増えているだけ」「都が『夜の街』への注意をうながしたためホストクラブへの風当たりがつよまった」「特定の場所や業種を取り上げて、分断をあおらないでほしい」というのだが、読売は、コロナの危機や国民の健康よりも反差別≠ニいうねじまがった正義のほうが大事なのである。

 和田アキ子が「アッコにおまかせ!」(TBS)で、カリスマホストのROLAND(27)が運営する歌舞伎町のホストクラブの閉店に同情して「がんばって」と熱っぽいエールを連発した。
 個人的にも親しいとみえ、再開まで、移転先の空家賃を払いつづける金満家ぶりに「カッコイイ」と手放しだが、すべてホストクラブで客のホステスからまきあげたカネである。
 和田アキ子は芸能界のドンだが、在日朝鮮人で、時折、日本の成功や発展をよろこばない反日発言をくりだす。
 和田アキ子は大のパチンコファンで、パチンコ「マルハン」のCMに起用されたが、「マルハン」の創業者、在日韓国人の韓昌祐会長は日本の植民地支配に批判的な発言をくり返す反日家で、日本で築きあげた資産(資産ランキング国内22位)の半分を韓国に還元すると明言している。
 韓昌祐がもっていて、日本人がもっていないのが、国家や民族にたいする愛着や敬慕、身びいきの心情である。
 グローバリズムの終焉後、世界は、国家や民族、独自の歴史や文化を軸とする一国主義にむかいはじめた。
 その流れに拍車をかけたのが新型コロナウイルスの大流行で、国家は一国主義とナショナリズムのもとでコロナ防衛にこれ努めた。
 ところが、日本だけ様相がちがった。
 国家や民族などの実体よりも、民主主義や自由、平等や人権、ヒューマニズムなどの観念を大事にするのである。
 国民の命や国家の安全に比べると、女性を食いモノにしているホストの差別など屁のようなものに思えるが、日本で最大の発行部数を誇る読売新聞は、逆で、ホストの人権が大事で、国民の命や国家の安全のほうが屁なのである。
 日本が、コロナ対策で、禁止や強制、罰則のをうちだせないのも、国家概念が風化しているからで、世界の国家が国家が掲げる国家主権や国家理性、国益主義が、日本では、害悪とうけとめられる。
 そして、民主主義や人権、自由、平等がもちあげられる。
 日本人の愚かさは、民主主義や人権、自由、平等をまもっているのが国家だということに思いおよんでいないところにある。
 朝日新聞が半世紀にわたって叫んできた「偏狭なナショナリズム」というスローガンが浸透した結果、若者から社会的に大きな影響力をもつTVタレントまでがコスモポリタン(世界市民主義者)になって、太田光や中居正広ら人気タレントは、憲法9条を信奉する平和主義者である。
 国家などいらない、平和憲法と民主主義だけがあればよいという狂気がこの国を覆って、久しい。
 次回も、この亡国思想とコロナ以後の世界情勢を展望してゆこう。

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2020年07月08日

官僚国家ニッポンの悲劇D

 ●社会保険事務局が工作した静和病院冤罪事件
 2010年3月10日、静岡地方裁判所は、静和病院の吉田晃元院長と水谷信子元事務長に、健康保険法違反と詐欺罪の有罪判決を下した。
 それぞれ、懲役6年6月、5年6月という殺人罪並みの重刑だった。
 だが、この判決で、健康保険法(「15対1入院基本料の施設基準」)違反の具体的事実や違反した数値、証拠や根拠が明らかにされることはなかった。
 それどころか、このとき、静岡地裁は、静和病院一般病棟(55床)の適正看護師数を19人と誤った上で、有罪を宣するという、司法史上、前例のない醜態を演じた。
 適正看護師数は、静岡社会保険事務所が静岡県警に陳述したとおり、9人である。
 なぜ、静岡地裁と静岡地検は、適正看護師数を19人とする致命的なミスを犯したのか。
 平成18年4月以降、新法(15対1入院基本料の施設基準)を適用させるべきところを、旧法(3対1)を適用させたからである。
「3対1基準(旧法)」と「15対1基準(新法)」では、数値が異なる。

 ●新法「15対1入院基本料の施設基準」の適正看護師数=9人
   計算/55床÷15×3(8時間3交代)=10・999…(11人時間)
   ※夜勤2人は16時間勤務のため実質9人
 ●旧法「3対1基準」の適正看護師数=19人
   計算/55床÷3=18・333…(19人)


 本来なら、法令誤認の事実が判明した時点で、原判決破棄の差し戻しとならねばならない。
 だが、司法は、みずからの誤りをみとめようとせず、再審請求は却下された。

 静和病院事件の共犯者で、元院長と元事務長を主犯と告発、執行猶予処分をうけた木口崇は、公判で、静和病院一般病棟55床の必要看護師数を19人と証言している(木口レポート)。
 検察や裁判所が、必要看護師数を19人と誤認したのは、木口証言を真実としたからである。
 木口の第三回公判調書(平成20年〈わ〉第533号)にこうある。
 松枝検察官「15対1の基準というのは、平成18年4月の改正までの基準だと、3対1に相当するわけですよね」 
 木口「はい」
 吉田・水谷裁判の判決文でも「従来の3対1基準に相当する『15対1入院基本料の施設基準』」という文言が幾度となくくり返されている。
 木口は、強制捜査直前、静和病院を退職して、西伊豆病院に転職している。
 西伊豆病院は、吉田晃が、補助金の不正受給があったとして、国会で問題にさせた熱川温泉病院と同系列(社団健育会)の病院である。
 木口が、なぜ、吉田院長と敵対関係にあった健育会系の西伊豆病院へ移ったのか。
 西伊豆病院が木口をとりこみ、静岡県警に協力させて、静和病院院長の吉田晃を陥れたとみるのが自然だろう。

 看護師不足は、行政指導の範疇にあって、ほとんどの行政が放置していた。
 看護師が不足している病院は、山ほどあって、行政指導が追いつかないのである。
 ところが、静和病院事件では、静岡社会保険事務局と県医務室が静岡県警の強制捜査にくわわった。
 理由は、生活法で刑罰のない健康保険法違反を根拠に、強制捜査をおこなうことはできなかったからである。
 強制捜査には、刑法上の犯罪である詐欺容疑が立っていなければならない。
 詐欺罪の前提となるのが健康保険法違反だった。
 健康保険法違反にもとづいて診療報酬の不正受給がおこなわれ、なおかつ、同不正受給が、欺罔(だまし)や計画性にもとづくと判定されて、はじめて、詐欺容疑が成り立つ。
 静岡県警が、強制捜査前に、詐欺容疑を立てることができたのは、静岡社会保険事務局が静和病院の健康保険法違反を認定、告発したからだったのである。
 静岡県警は、看護師数が足りないとする健康保険法違反と、診療報酬の不正受給、詐欺容疑を三重につなぎあわせて、静和病院の吉田院長と水谷事務長を送検、静岡地検は、健康保険法違反を誤認したまま起訴、静岡地裁は、必要な看護師9人を19人と錯誤して、院長と事務長に殺人犯並みの重刑を科したのである。

 でためな判決がまかりとおった理由は、強制捜査に、静岡社会保険事務所がくわわったからだった。
 旧社会保険事務所は、厚生労働省の外局だった旧社会保険庁の傘下にあって、保険料の徴収や保険給付、保険給付裁定、被保険者資格得喪の認定など、国や厚生労働省の健康保険事業を代行する専門機関として、もっとも権威をもっていた。
 社会保険事業の権威である静岡社会保険事務局が、強制捜査にくわわったことによって、健康保険法違反が既成事実とされた。
 静和病院の健康保険法違反は、静岡県警と静岡社会保険事務局の談合だったのである。

 静和病院が強制捜査をうけたのが、平成20年4月である。
 社会保険庁が廃止されたのは平成21年で、同庁の業務は、翌22年、特殊法人「日本年金機構」にひきつがれている。
 年金記録問題などの不祥事や、社会保険庁のオンライン化(平成19年)にともなうコンピュータ入力のミスや不備が多いことなどずさんな管理が国会やマスコミで批判されて、自民党政権が倒れる騒ぎにまで発展した。
 社会保険庁のオンライン化計画にたいして、社会保険職員労働組合が「独占資本のための合理化である」として反対したばかりか、労働強化反対と称して集団サボタージュを正当化させる覚書を取り交わしていたことまでが明らかになった。
 社会保険庁(社会保険事務所)が、当時、健康保険法の正しい適用法を管轄しえただろうか。
 社会保険事務所は、静岡県警の事情聴取にたいして「15対1入院基本料の施設基準」の看護師数が9人であると陳述している。
 ところが、静岡社会保険庁も静岡県警も、検察や司法の法令誤認を見て見ぬふりをして、世紀の大誤審を誘導した。
 静和病院冤罪の原因は、健康保険法を私物化して、静和病院を潰し、無実の吉田元院長と水谷元事務長に殺人罪並みの重刑を誘導した厚生省・旧社会保険庁にあったのである。
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2020年07月05日

官僚国家ニッポンの悲劇C

 ●社会保険事務局の犯罪/静和病院冤罪事件A
 伊豆半島で最大級の病床数(307床)を有していた静和病院(熱川市)は6階建て2棟の大病院で、当時、多額納税の病院として知られていた。
 施設や設備も充実していて、日経新聞(2004年3月8日)に発表された「経営充実度」病院ランキングで、静和病院は、聖路加国際病院ら名門と肩を並べて、全国8位(関東3位)という高い評価をえている。
 その静和病院の院長と事務長に、それぞれ、6年6月と5年6月の懲役刑が科せられた。
 看護師数を規定する健康保険法の違反から診療報酬の不正受給と詐欺罪を推認されたのである。
 看護師が足りないというどこの病院もかかえている問題から、なぜ、そんな重刑がとびだしてきたのか。
 今回は、そのミステリーを解いてみよう。
 ところで、実際に看護師は足りなかったのか。
 源泉徴収簿兼賃金台帳によれば、静和病院では、1日平均60人の看護師が勤務についていた。
 若い看護師助手も約50人以上在籍していた。
 源泉徴収簿兼賃金台帳によると、当時、静和病院には、約82人の看護師が登録されていた。
 看護師の出勤日数は、平均22日なので、1日当たり出勤者数は55人強となる。
 源泉徴収簿兼賃金台帳には、健康保険料、厚生年金、所得税、住民税などの控除額が記載されている。
 給与のほか、勤務日数を記録した給与元帳もついている。
 源泉徴収簿兼賃金台帳をみるかぎり、静和病院に看護師数の不足はみとめられない。
 たとえ、看護師が、多少、少なくても、それが刑事事件に発展したケースは日本の医学史上、前例がない。
 しかも、科せられたのは、殺人罪並みの重刑である。
 背景にあったのが、県や医療行政との摩擦であった。
 医療費の不正受給については、通常、社会保険事務所と医療機関のあいだで手続きがおこなわれ、返済や課徴金などで行政処理される。
 げんに20億円に上る診療報酬を不正受給していた静岡県の熱海温泉病院や50億円をこえる不正受給が発覚した愛知県の医療法人「豊岡会グループ」ですら、責任者の逮捕、起訴にはいたっていない。
 院長と事務長に重刑が科されたこの静和病院事件で、不正受給したとされる診療報酬金額は8700万円である。
 豊岡会グループ50億円の57分の1である。
 にもかかわらず、院長と事務長に重刑が科された。
  静岡県にとって、静和病院は、もともと、厄介な存在だった。
 静岡県は、静和病院の療養病棟252床を老人ホームにきりかえるようもとめた。
 入院患者のほぼ全員が県外からの移入者であるにもかかわらず、静和病院が保有する307床によって、静岡県が、病床数の制限(基準病床数制度/厚生労働省)をうけるからだった。
 吉田晃はこれを拒絶した。
 静和病院に、静岡県警と静岡社会保険事務所、県の医療課による合同捜査が入ったのは、その数か月後である。

 平成13年、吉田晃は、元県知事の秘書を介して、民主党の木下厚に、熱川温泉病院の補助金問題を国会(第153回衆議院厚生労働委員会)で取り上げさせた。
 そして、熱川温泉病院から補助金6億円を返還させた。
 このとき、木下代議士はこんな質問をおこなっている。
「もう一つ。この熱川温泉病院を経営している健育会は、全国に九つの病院やクリニック、特別養護老人ホームをもっています。このグループにはさまざまなうわさがあります。先代の理事長は茨城県出身です。そこから、茨城県出身の厚生族の大物国会議員がバックにいるということで、かつて、何回も問題になったことがあります。今回の案件について、政治力がはたらいたのではないかという指摘がありますが、その辺はどうですか」
 茨城県出身の大物国会議員というのが、熱川温泉病院と顧問関係をむすんでいた厚労族のドン丹羽雄哉(第75・83・84代厚生大臣)である。
 補助金を取り上げられた熱川温泉病院の遺恨は深かった。
 それ以上に腹を立てたのは丹羽雄哉だった。
 顔をつぶされた上、国会で難癖までつけられたのだ。
 さらに吉田晃は、静岡空港(平成21年開設)の反対運動を支援して、計画をすすめていた石川嘉延知事を激怒させている。
 石川知事は、熱川温泉病院の民事訴訟で、保健衛生部医務課長とともに被告席に座らされてもいる。
「静和病院をつぶしてやる」
 元静岡県山本敬三郎知事の秘書で、熱川温泉病院の補助金問題で国会質問をしかけた吉田院長のパートナー、飯田忠雄は、石川知事の呪詛のことばを耳にしている。
 決定的だったのは、静岡県とやりあって、税金(所得税)の納付先を大阪にきりかえたことだった。
 県に逆らい、県の利益になんら貢献しない静和病院など、静岡県から消えてくれたほうがよかった。
 静岡県にとって、静和病院は、怨恨の対象でしかなかったのである。
 ちなみに、飯田元秘書は、その後、自殺をとげている。
 静和病院が強制捜査をうけたのが、平成20年4月である。
 社会保険庁が、連発する不祥事のため、廃止されたのは平成21年で、同庁の業務は、翌年、特殊法人「日本年金機構」にひきつがれている。
 社会保険庁(社会保険事務所)が、はたして、健康保険法の正しい適用法を指導しえただろうか。
 次回は、社会保険庁に静和病院の健康保険法違反を告発する資格があったか否かを問おう。

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