2017年11月16日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」23

 ●絶対権力者としての天皇の系譜
 大川周明は、古代史のヒーローとして、聖徳太子と中大兄皇子(天智天皇)の二人をあげる。
 聖徳太子は、推古天皇の摂政として、蘇我馬子と協調して政治をおこない、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど、天皇を中心とした中央集権国家体制の基礎をかためた。
 遣隋使を派遣して、国書に中国皇帝にしか使用されていなかった天子ということば(日出処の天子)を使って、日本が、隋と対等な関係にあるとしたのも聖徳太子で、これは、冊封体制からの離脱宣言だったとみてよい。
 日本は、七世紀初頭、聖徳太子によって、華夷秩序から脱して、独立国家の道を歩みはじめたのである。
 一方、中大兄皇子は、藤原鎌足とともに蘇我入鹿を暗殺、蘇我蝦夷を自害に追いこみ(乙巳の変)、稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたって絶対的権力をふるった蘇我氏を滅ぼして、天皇中心国家の根幹をつくりあげた。
 大川は、大化の改新を断行した中大兄皇子を強者と評価する一方、蘇我馬子と協調関係にあった聖徳太子にたいしては逆の評価をする。
 聖徳太子が強者になれなかったのは、蘇我の閨閥関係(外戚)にあったからだろう。
 聖徳太子の子山背大兄王が蘇我入鹿に攻められて一族が自殺に追い込まれたのは、田村皇子(舒明天皇)との皇位争いに敗れてのことで、ここで、聖徳太子の血筋は完全に絶えてしまう。

 628年、推古天皇の没後、舒明天皇が蘇我蝦夷に擁立されて即位する。
 当事、天皇の任命権まで、蘇我氏に握られていたのである。
 舒明天皇は即位13年目で崩御する。
 皇位は皇太子の中大兄皇子に継承されるはずだったが、若すぎた(16歳)ために皇后の宝皇女が皇位に就いた。
 これが第35代皇極天皇である。
 皇極天皇は中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)の生母である。
 大化の改新後、皇極天皇の弟の孝徳天皇に譲位したが、孝徳天皇が没すると重祚して斉明天皇となった。
 皇位継承権のある中大兄皇子、古人大兄皇子、山背大兄王の争いを避けるためだったと思われる。
 孝徳天皇が崩御した後も、中大兄皇子は即位しない。
 661年に斉明天皇が崩御するが、それでも、中大兄皇子は即位せず、皇太子のまま政務にあたる。
 663年、朝鮮半島の白村江にて、友好国の百済を救うため、日本軍は唐・新羅の連合軍と争うが、大敗する(白村江の戦い)。
 その後、日本は唐からの攻撃を警戒し、対馬、壱岐、筑紫などに防人を置くなどして侵攻に備えた。
 中大兄皇子が天智天皇として即位した(668年)のは、外国からの襲来に備えて、歴代の天皇が都を構えた大和から遠く離れた近江大津宮だった。
 ちなみに、天智天皇が完成させた「近江令」はのちの「大宝律令」の基礎となる法典である。
 天智天皇は、その三年後の671年、46歳で亡くなる。
 そして、その後、日本中をゆるがす権力闘争が勃発する。
 聖徳太子が基礎をつくり、大化の改新後、確立された天皇政治が、皇位継承をめぐって、大乱(壬申の乱)をひきおこすのである。

 壬申の乱は、天智天皇の弟(大海人皇子)と天武天皇の子大友皇子との争いである。
 たたかいは、草壁皇子や高市皇子、大津皇子、地方豪族を味方につけた大海人皇子の勝利に終わって、大友皇子は自害する。
 大海人皇子がのちの天武天皇である。
 皇位をめぐるこの内乱が、結果として、天皇の絶対主義を固め、天武天皇の皇親政治をうみだすことになった。
 天武天皇は「日本という国の原形をつくりあげた」といわれるほど、日本に大きな影響を与えた天皇である。
『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じ、天皇の名称や日本の国号を制定したのも天武天皇といわれる。
 神道を制度化したのも天武天皇で、各地の神を祀る祭儀を朝廷公式の儀礼へ取り込み、新嘗祭を創設した。
 天武天皇は、唐をモデルとした新たな都、藤原京を建設する。
 ソフト面は飛鳥浄御原令、ハード面は藤原京を建設することによって、天武天皇は、天皇を中心とした本格的な律令権国家を築き上げようとしたのである。
 日本史をふり返って、聖徳太子から中大兄皇子(天智天皇)、天武天皇へつながる権力者・天皇の強烈な系譜は他に例がない。
 蘇我氏を討った中大兄皇子や皇親政治の天武天皇の強権が、天皇絶対主義の土壌をつくりだして、やがて、摂関政治や権威と権力の二元論的へとすすんでゆく。
 次回は、この歴史をふまえて、日本において、なぜ皇位の簒奪が不可能だったのかを考えてみたい。
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2017年11月12日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」22

 ●神道と天皇の誕生
 記紀の時代(8世紀)からみて、紀元前660年は、千年をはるかにこえる大昔で、神武東征も橿原における神武天皇即位も、空想=神話世界の出来事であったろう。
 だが、神話であろうと実史であろうと、日本人にとって、皇紀2600年と神武天皇の真実は、ゆるがぬ歴史の記憶で、歴史は、民族の記憶であり、伝承なのである。
 実在したとされる10代崇神天皇を初代天皇に見立てるむきもあるが、それも、神話と実史のつながる時期が異なるだけで、歴史観に大きな変化が生じるわけではない。
 人々が信じてきたもの、それが歴史なのであって、神話と実史が融合している天皇の歴史は、永遠に変わるところがない。
 大きく変わったことは、崇神天皇の時代に、シャーマニズムとアニミズムの原始宗教が終わって、天皇の時代がはじまったということである。
 自然崇拝にもとづくシャーマニズムは、新嘗祭(穀霊祭)に代表される宮中祭祀へひきつがれ、アニミズムも天神地祇の祭事へ吸収された。
 宮中三殿の賢所は天照大神を祀り、皇霊殿は皇祖皇宗(歴代天皇)と皇族の霊を祀る。
 そして、神殿では八百万の神々(天神地祇)が祀られる。
 これが神道のはじまりで、天皇は、収穫祭の祭祀主だったのである。
 
 縄文文化のエッセンスである神話や素朴な原始宗教が宮中祭祀へと結実する一方、祭祀王だった天皇は、為政者・権力者としての顔をもちはじめる。
 神武以降、欠史八代(紀元前581年〜98年)の約500年にわたる神話時代が終わって、崇神天皇の時代(紀元前97〜30)から人間天皇の物語がはじまるのである。
 ※崇神天皇を3〜4世紀の天皇とする説もある。
 崇神天皇による四道将軍(北陸・東海・西道・丹波)派遣は、神武から9代開化天皇にいたるまで、畿内にとどまっていた大和朝廷が、全国規模の政権へふみだした画期的な一歩であった。
 もっとも、日本全土の支配権を確立するのは、崇神天皇の四道将軍派遣ではなく、崇神から二代下った12代景行天皇の子ヤマトタケルノミコト(日本武尊)の西方の熊襲征伐、東方の蝦夷平定にあったと思われるが、ヤマトタケルノミコトはたたかいのさなかに命を落とす。
この時代は、内憂外患の時代でもあって、14代仲哀天皇の急死(200年)後、269年まで政事を執った神功皇后は、新羅征討の兵を挙げ、朝鮮半島の広い地域を服属下におき、このとき、新羅や高句麗、百済(馬韓・弁韓・辰韓)は朝貢を約して、人質をさしだしたという。
 三韓征伐は、日本・朝鮮両国の史書ばかりか、支那の史書にも「三韓の地はあるときは支那に臣従し、あるときは倭に服属していた」と記されている。
 これは、日本の外史上、画期的なことで、日本の三韓支配は、日本が日本軍と百済復興軍が唐・新羅の連合軍とたたい、敗れた白村江の戦(663年)までつづく。
 このかん、筑紫の国造磐井が新羅と結んで任那に赴く大和朝廷軍に対抗した磐井の反乱(527年)があったが、物部氏に平定されている。
 以後、地方政権の抵抗は収束して、大和朝廷は、完成期へむかうことになる。

 これが3世紀中頃から7世紀にいたる大和時代(古墳時代)である。
 日本の古代史は、『漢書』や『後漢書』、『隋書』、『魏志倭人伝』など中国の歴史文献に依存している。
 したがって、中国の歴史文献に倭国の記述があらわれてこない266年から413年までの約150年が「空白の4世紀」と呼ばれて、大和朝廷の成立や変遷が謎に包まれたままである。
 だが、大和時代に、朝廷の支配がつよまって、古代国家の基礎が整えられたことは、巨大な前方後円墳がさかんにつくられたことからも明らかである。
 大和時代の初期に、全国で11番目の大きさの前方後円墳である箸墓古墳がつくられている。
 箸墓は倭迹迹日百襲姫命の墓で、魏志倭人伝がつたえる卑弥呼の墓でもある可能性が高い。
 すると、邪馬台国と大和朝廷が一線上につながって、天皇の時代としての大和時代がクローズアップされる。
 といっても、前期は、大伴・物部・蘇我らの各豪族が実権を握って、日本という国のかたちも定まっていなかった。
 天皇中心の政治へ変換していったのは、聖徳太子の法律(十七条憲法)および官制(冠位十二階)改革を経て、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が蘇我氏を討った大化の改新(645年)後のことである。
 大化の改新が成功していなかったら、日本は、蘇我氏らによって、儒教的な国家へみちびかれていたと思われる。
 儒教的な国家というのは、徳治主義に立った国家で、王は、正しいか否かで判定される。
 といっても、正しさの物差しはなく、後任者が前任者を否定することによって、正しさが否定され、体制がひっくり返る。
 これが易姓革命で、儒教思想に染まった蘇我一族とそのとりまきに、天皇に敬意を抱く者はなかった。
 蘇我馬子が、東漢直駒という刺客をさしむけて、崇峻天皇を弑逆した背景にあったのは、儒教思想だったのである。
 次回以降、天皇が権力者として、日本という国の土台をつくってゆく過程をみてゆこう。
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2017年11月05日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」21

 ●縄文文化と原日本人像
 三内丸山縄文遺跡の発見によって、縄文時代の歴史認識ががらりとかわってしまった。
 弥生時代も、そのはじまりが500年もさかのぼるなど、古代史の枠組みが大きく変動した。
 弥生時代のはじまりが早まったのは、水田稲作の伝来時期が、近年の年代測定によって紀元前10世紀とされたためで、従来の縄文晩期が、新しい年代の設定法によって、弥生時代の早期・前期へ書き直された。
 すると、神武天皇が即位した紀元前660年は、縄文の晩期ではなく、弥生の前期にあたることになって、吉野ヶ里弥生遺跡へイメージがつながりやすくなってくる。
 三内丸山縄文文化から1千数百年が経過し、吉野ヶ里弥生文化まで数百年という年代背景を思えば、紀元前7世紀は、野蛮な原始時代ではなく、稲作や集落、集団生活や食料備蓄が定着した古代社会だったと思われる。
 服装も、土偶などから、貫頭衣や巻布衣のほか、袖のついた衣服、ズボンを身に着けていたことがうかがえ、歴史学者のいう原始時代とはかなりイメージがちがう。
 紀元前660年にたいするわれわれのイメージは、考古学にもとづく学者の見解とはずいぶん異なるのである。
 縄文が謎につつまれているのは、1万数千年前から1万年にもおよぶ時代の長さゆえで、三内丸山(約5500年〜4000年前)の縄文文明も、どこへ消えたのか定説がない。

 原日本人がどこからきたのかもわかっていない。
 日本の歴史家は、大陸や半島からやってきた人々が日本人の祖先となったと主張してきた。
 だが、日本人と大陸人・半島人のあいだに血縁関係はまったくない。
 アジアで支配的なY染色体はO系統やC2系統で、日本人のY染色体は「ハプログループD1b縄文系」と「ハプログループO1b2弥生系」の二種類だけである。
 ハプログループはYAP型ともいわれるが、このYAP型は朝鮮人や中国人(漢民族)にはまったく見られない。
 YAP型のハプログループD1b型はアイヌ人・沖縄人・日本人の3集団に多く見られるタイプで、一方、「ハプログループO1b2弥生系」は大陸沿岸人と思われる。
 このことから、縄文人は、どこかから渡来してきたのではなく、数万年前、日本列島に忽然とすがたをあらわし、大陸沿岸部からやってきた同類のハプログループO1b2弥生系と混血して、現在に至ったということになる。
 大陸・半島に「ハプログループO1b2弥生系」が存在しないのは、O系統やC2系統の内陸人に滅ぼされたからで、一部が日本にやってきて、縄文人と混血したのである。
 結局、原日本人=縄文人のルーツはわからない。
 縄文文化も、一万数千年前、忽然とすがたをあらわし、弥生文化と融和したのち、古墳時代をへて、クニ(大和朝廷)を全国規模に広げていった。
 その末裔が今上天皇で、世界最古の伝統国家日本には、縄文人(YAP型)と縄文文化という二本の主柱がそなわっている。
 神道や天皇のルーツについても、日本列島土着である以上のことは、なにもわかっていない。
 1世紀前後に、日本文明が中華文明から分枝した(ハンチントン)というのは、むろん、科学的根拠をもたない見当外れである。

 山田康弘(『つくられた縄文時代』)は「戦前、縄文時代ということばがもちいられたことはなく、一律に石器時代という呼称が使用されてきた」とのべている。
 石器時代は、銅、青銅、鉄がもちいられなかった時代という意味で、人間の歴史の大部分は石器時代に該当し、ほとんど200万年にわたっている。
 原日本人=縄文人のルーツは、旧石器時代の200万年の深い闇にのまれてしまったわけだが、いえることは、縄文文化や日本民族は、どこかからやってきたのではなく、日本列島にうまれていまに残っているという厳然たる事実である。
 それを保守といいうるなら、日本という国家は、日本列島に樹立された世界一の保守国家なのである。
 縄文時代は、紀元前一万年前からはじまる新石器時代にあたるが、世界的な歴史区分にはないので、縄文は、時代的概念ではなく、文化概念ということになる。
 これまで、三内円山からはじまる縄文文化を探ってきたのは、天皇と神道のルーツをもとめるためだった。
 その核心にふれるポイントが記紀の神武東征と紀元前660年の神武天皇の即位であった。
 考古学的には否定されているが、それは大きな問題ではないだろう。
 神話にしろ実史にしろ、大事なのは、物語性のほうである。
 歴史は文化概念で、われわれが記紀を尊重するのは、古人がそれを信じてきたという物語性のほうである。
 天皇や神道の真実も物語にあって、だれも見たことのない実史と空想でしかない神話がないまぜになっているのが歴史である。
 縄文文化のアニミズムとシャーマニズムが、長い時間をへて、古道の原型をつくって、やがて、神道へ発展していった。
 そして、神道=古道から、天皇の権力および権威がうまれた。
 次回以降、日本という国家の誕生にともなう天皇の権力および権威について考えてみよう。
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2017年10月29日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」S

 ●縄文時代にさぐる日本国のルーツ
 大川周明は日本史を4期に分けて、第一期を建国から大化の改新までとした。
 実史から天皇以前≠割愛したのである。
 建国以前は縄文時代で、歴史学的には、ほとんど史料がない。
 縄文時代は、歴史学者によると、原始時代で、人々が毛皮をまとって、獣を追っていたとされるだけで、人文科学的な分析がまったくなされていない。
 古道(神道)や天皇のルーツは、その縄文時代にある。
 古道という土着的宗教が、自然崇拝からアニミズム、シャーマニズムなどをへて文化的な発育をとげたと思われるのが縄文時代だが、のべたように、縄文時代の文化史的な研究にみるべきものはなく、むろん、推論も存在しない。
 手がかりになるのが青森県の三内丸山縄文遺跡(5500〜4000年前)である。
 紀元前30世紀から20世紀にかけて、東北中心に「縄文都市」というべき文明が存在していた。
 同遺跡では、約1500年間つづいた集落跡の遺構や遺物から、住んでいた人々の生活技術から精神世界までをみることができる。
 竪穴住居跡、掘立柱建物跡、大型掘立(竪穴)柱建物跡、道路跡から、当時の文化レベルが明らかで、大人と子どもの墓、縄文土器や石器、釣り針、刺突具などの骨角牙貝製器、土偶、土・石製の装身具、袋状編み物や編布などの日用品から当時の人々の生活様式がうかがえる。
 注目されるのが、遠隔地から運ばれたと思われるヒスイやコハク、黒曜石が出土したことで、DNA分析によって、ヒョウタンやゴボウ、マメなどのほかにクリまでが栽培されていたことがわかっている。

 三内丸山の縄文文化は、まぎれもなく、日本文化のルーツで、日本は、紀元前5500〜4000年前からこの土着文化を連綿と保守してきたのである。
 天皇史は、記紀にもとづいて、紀元前7世紀の神武東征や神武天皇の即位を起点にしている。
 それ以前は神話で、記紀神話は、天皇の正統性を謳ったものである。
 神話に隠れて、実史がみえにくくなっているが、日本列島に誕生した文明と文化が、神武神話をはるかにさかのぼって誕生したのはいうまでもない。
 保守は連続性で、神道や天皇という文化、大和朝廷という文明をうみだした縄文文化は、古墳時代をへて、やがて、飛鳥や奈良、平安の日本史へ合流してゆく。
 有史以前から神話、実史をつらぬいているのは、保守という潮流で、日本は同一の宗教観・価値観を有史以前からうけつぎ、今日まで継承してきた。
 それが祭祀国家の原型で、根底にあったのは、自然崇拝と自然を畏れ、敬う素朴な宗教感情だった。
 日本の土着宗教が自然崇拝となったのは、自然が恵みだったからで、砂漠の宗教(キリスト教・イスラム教)が闘争的な一神教なのにたいして、日本の宗教は、平和的な多神教(アニミズム)であった。
 一方、自然は、荒魂が暴れる脅威でもあって、自然神と交流をはかる卑弥呼のようなシャーマンが要請された。
 それが天皇の原型で、紀元前1世紀に「分かれて百余国となる」(漢書地理志)とある国々の族長≠ニしての天皇が、そのはるか以前から存在していたのである。

 天皇や大和朝廷から切り離せないのが古墳である。
 古墳は、権力の象徴として、大和朝廷が日本国家の統一をなした3世紀後半から7世紀にかけてつくられた。
 古墳造成が400年以上つづけられたのは、そのかん、権力の動揺がなかったからである。
 古墳は、当時、世界最大の土木工事で、大手ゼネコン大林組の試算によると、日本最大の仁徳天皇陵に要した日数が15年8か月、必要人員は延べ680万人、かかった費用が2000億円という。
 当時、このような大工事が可能だったのは、大和朝廷が権力国家ではなく、宗教(祭祀)国家だったからで、すでに大和朝廷は、磐石の基盤をもっていたのである。
 三内丸山縄文遺跡と古墳をつなぐのが大規模な土木技術である。
 三内丸山遺跡の3層の掘立柱建物は、6本の巨大木柱を組み合わせた堅牢な建造物で、高度な土木技術のほか、集団的労働力や計画性、すぐれた指導力があったことをうかがわせる。
 吉野ヶ里の弥生遺跡(紀元前3世紀〜紀元3世紀)の復元された掘立柱建物では、直径50p以上の柱が使用されていることから大きな宮殿が建立された可能性が高い。
 日本国の歴史の連続性と4000年の保守思想は、年代をまたぐ遺跡として、歴然として輝いているのである。
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2017年10月26日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」R

 ●文明の衝突としての神道・儒教・仏教その2
 日本に仏教が伝来したのは6世紀半ばである。
 そして、崇仏派の蘇我馬子と聖徳太子が排仏派の物部守屋を討った「丁未の乱(587年)」ののち、中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足が蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼした「大化の改新(645年)」後も、仏教が国教としての地位をえてきた。
 仏教が日本で栄えた理由を三つ挙げることができるだろう。
 一つは、仏教が文明とうけとめられたことで、仏教は、宗教という枠組みをこえ、日本に新文明の導入と普及、その発達という形で開花した。
 大川周明はこう指摘している。
「仏教の渡来とともに寺工、仏工が入国したので、建築・彫刻が俄然として発達した。推古天皇の十八年に高麗より渡来せる僧雲徴は紙及び墨の製法を伝え、同じく推古天皇の時代、百済僧観勒は天文・地理学及び暦本を献じて、播種・収穫その他一般農業上に非常なる進歩を促し、孝謙天皇の時に渡来せるシナ僧鑑真はわが国における医術の祖と呼ばれた」
 土着信仰である神道(古道)が内なる神だったのにたいして、大陸から伝来した仏教は、文明という威をそなえた外なる神で、多神教世界だったわが国において、仏教は、内なる神と並び立つ有力な神となったのである。
 仏教が日本で栄えた二つ目の理由に仏像仏画をあげることができる。
 日本の土着信仰には、神の像を彫り、画いてこれを拝するという習俗はなかった。
 ところが仏教は、万物皆空・諸行無常を説きながら、実際には物象主義的であって、仏像仏画を飾り、堂塔伽藍を建立して、慈悲・偉大・荘厳なる仏陀の福音を形象化することにつとめた。
 抽象的道理はかならずしもひとをうごかさない。
 理論を以って理性にうったえるよりも、具体的な崇拝の対象をあたえ、感情にうったえうることことのほうが、はるかに人心を惹きつける。
 百済から朝廷に仏教をつたわったとき、欽明天皇は「相貌端厳、全く未だ看ざるところなり」と仰せられている。
 古道には神体=偶像がないので、仏像の荘厳美麗なるすがたが当時の人々の信仰心をはげしくゆさぶったのである。
 崇拝の対象を具体化する仏像仏画によって、日本では、仏教の布教が急速にすすんだのである。
 ちなみに、神道が神殿や聖堂をもつにいたったのも、仏教の影響で、それまで小さな祠や自然の一部だった祈祷場が、仏教の堂塔伽藍を模して、大規模な建造物をもつにいたった。
 仏教が日本で栄えた第三の理由に、朝廷が率先して、仏教に帰依した事実をあげることができる。
 僧官を置き、官寺を各国に建立して、国家の鎮護と人民の布教を任じることによって、僧侶は国家における特別の地位を占め、仏教伝道は、国家の事業であるがごとき様相を呈した。
 といっても、皇室の伝統に仏教がとりいれられることはなかった。
 仏教の「輪廻転生」「解脱」が、個人のものであるのにたいして、神道の「八百万の神々」「自然崇拝」が集団や共同体のものだったからである。
 もともと、朝廷が仏教を重んじたのは、仏教が、内神の及ばない力をもつと信じられる外神だったからで、朝廷は、天変地異や疫病などの災いから国家や民をまもるために、外神の霊験に頼ったのである。

 大陸や半島から日本につたわった大乗仏教は、解脱や個人の悟りをもとめる小乗仏教にたいして、大衆救済や社会奉仕という公共的な要素を多くふくんでいた。
 大乗仏教の代表的な人物が、朝廷から初めて仏教界の最高位である「大僧正」の官位をあたえられた行基である。
 1000人をこえる門弟集団を擁していた行基は、49の道場や寺院、15の溜池、9筋の溝と堀、6所の架橋、困窮者のための布施屋9所のほか多くの灌漑事業などの社会事業をおこなった。
 そして、疫病や飢饉、天災に苦しむ民の救済をねがう聖武天皇の要請をうけて、東大寺の大仏を造った。
 大乗仏教が絶対善となったのは、慈悲の思想からだった。
 だが、その後、仏教は、開祖や宗派によって、密教(天台宗/真言宗)や念仏信仰(日蓮宗/浄土宗/浄土真宗)へ変容しながら、それぞれ別個の発展をとげてゆき、行基の社会善から大きくかけ離れたものになっていった。

 中国から伝来した大乗仏教は、もともと、先祖崇拝の儒教や道教(地獄)と習合していたため、祖先崇拝の教義をもっていた。
 これに切支丹禁止令と表裏の関係にある檀家制度があいまって、江戸時代に墓参り仏教、葬式仏教ができあがった。
 一方、孔子思想としての儒教は、学問として武士層にうけいれられて、武士道や忠君愛国、尊皇思想へ変化していった。
 神道と仏教、儒教のなかで、日本的な精神としていまに残っているのは、結局、大川周明のいう古道、神道だけということになる。
 神道の原型は、古代史上、いつごろ萌芽したものであろうか。
 もともと、自然崇拝や大自然にたいする畏怖、一体感に由来するものだったはずで、古道は、本居宣長の大和心にもつうじるだろう。
 次回以降、日本の心としての古道の原点がどこにあったのかをさぐっていこう。
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2017年10月19日

神道と世界最古の文明「縄文文化」Q

 ●文明の衝突としての神道・儒教・仏教
 大川周明は日本史を4期に分けて、第一期を建国から大化の改新、第二期を大化の改新から鎌倉幕府、第三期を鎌倉幕府から徳川幕府の大政奉還、第四期を明治維新から現代までとした。
 その根底にあるのが、儒教と仏教、神道、西洋思想の衝突とその分化・棲み分けであろう。
 大川は、儒教が学問、仏教が宗教、神道が政治、西洋思想が文化への傾きを深めて、日本史の4期の区分けができあがったというのである。
 聖徳太子は、神道をもって政治の根本主義をなし、儒教をもって国民の道徳的生活を向上せしめ、仏教をもって宗教的生活の醇化をはかったと大川は指摘する。
 そして、道徳と政治を兼ね備える儒教は、日本固有の思想と相容れざるものだったと警告する。
 儒教は、天は有罪を討ち、有徳に命じて主権者たらしめると教える。
 それは、とりもなおさず易姓革命であって、力による王位の争奪である。
 シナは易姓革命を幾度となく繰り返して今日におよんでいる。
 ところが、日本においては、神武天皇の直系でなければ主権者となることができない。
 わが国の主権者たる天皇は「天神にして帝王」なるが故に命を受くるところがないと大川はいう。
 大川は天皇を「族の長」としてとらえ、これをして絶対者とする。
 日本が神武以来、万世一系の安泰を保ってきたのは、天皇が族長≠ニいう絶対的存在にして高天原が至高の理想だったからで、その根本にあるのは神道である。
 仏教や儒教がいかに栄えても、皇室においては、神道が尊ばれて、仏儒思想が入り込む余地はなかった。

 仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と大連・物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた丁未の乱(587年)によって、仏教は、国教に準ずるものとなった。
 だが、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣(藤原)鎌足らが蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼして孝徳天皇を即位させ、中大兄皇子が皇太子として実権を握った大化の改新(645年)によって、日本は、政治から仏教勢力を一掃するという古代政治史上最大の改革をなしとげる。
 蘇我氏打倒はその後の日本の政治に決定的な影響をおよぼす。
 国体としての天皇と、政体としての権力(摂政・幕府)の二元性が確立されてのち、その体制が鎌倉・江戸幕府から現代にまで継承されるのである。
 大化の改新以後の朝廷の安定は、易姓革命や宗教政治を排除した神道の絶対性と無縁ではない。
 根幹において変化がないことが国家安定の基盤で、大川が族長≠ニ呼んだこの絶対性は、血統であり神性であり歴史であって、一切の変更をみとめない。
 新嘗祭に代表される皇室の儀式はすべて神道で、太古よりなにもかわるところがない。
 それが祭祀国家の本質で、民の幸と国家の繁栄の祈りは、永遠にして不変なのである。
 国体が絶対にして不変である一方、政体が柔軟だった理由に、蘇我一族や藤原氏ら天皇の外戚(女系)が独占した摂政制度をあげることができる。
 日本で易姓革命がおきなかったのは、摂政あるいは幕府がしばしば交代したからである。
 有徳をもって権力者となるのは、政体の主であって、国体の主ではなかったのである。
 権力抗争は政体の出来事であって、原則として、国体は、権力抗争に関与しなかった。
 摂政あるいは幕府が交代しても、国体が関与しないかぎり、天下の大乱にはならない。
 大川周明が、鎌倉幕府から徳川幕府の大政奉還までを一時代としたのは、700百年近くつづいた武家政権において、国体がまもられたからだった。
 例外が「建武の新政」で、後醍醐天皇がもとめたのは倒幕という権力抗争であって、国体の安泰ではなかった。
 湊川の戦いで散った楠正成の「七生報国」は儒教の思想で、北畠親房の神皇正統記は南朝の正統性を主張して、皇統が神武以来100代にして滅びるという慈円「愚管抄」の百王説を否定した。
 後醍醐天皇、絶対的権威ではなく、相対的権力をもとめて挙兵したのである。
 武家政治をささえた武士道にも、その中心に江戸時代に奨励された朱子学をはじめ陽明学などが中心にあって、それが、御恩と奉公から幕末の維新運動にまで援用された。
 権力をもとめてゆれうごくのが文明の相なら、権威の下で不動なのが文化の相である。
 日本文明は、縄文文化という歴史の下敷きにそって展開されてきた独自の文明運動で、中華文明や西洋文明などと衝突しながら四つの時代区分をかけぬけてきた。
 これもまた大川周明流の『文明の衝突』なのである。
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2017年10月10日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」P

 ●皇国史観排除によって失われた日本人の歴史感覚
 大国主命は、出雲の国(島根県)で八十神を滅ぼし、葦原中国の王となったが、協力者のスクナビコ(小人神少彦/一寸法師のモデル)が常世国へ去って途方に暮れる。
 そのとき、われを大和国の三輪山に祀るべしという声が聞こえてくる。
「その声はだれや」と問うと「我は汝の幸魂(さちみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。
 声の主は大国主命自身で、聞こえたのは自身の魂の声だったのである。
 ここでフィクションと史実、史料が交錯する。
 第10代崇神天皇を支えた第8代孝元天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命は三輪山の神である大物主神(大国主命)の妻(神婚)になったという。
 百襲姫が魏志倭人伝のいう「卑弥呼」で、援けた男弟が「崇神天皇」だったことは、百襲姫の墓(箸墓)が、死期や大きさなどから卑弥呼の墓とみられることからも明らかだろう。
 大国主命と百襲姫の伝説が、卑弥呼の墓(箸墓)という史実をとおしてむすびついているのである。
 神話は、その神話を信じてきた人々の歴史でもあって、実証主義的な実史よりもいきいきと描かれている。
 それが、天孫降臨や神武東征、紀元前660年の神武天皇の即位で、皇国史観は、考古学的にして物語性を欠いた実史よりはるかにゆたかな内容をもっている。

 神武天皇は、大国主命を祀った三輪山麓に朝廷をひらき、10代崇神天皇は三輪山(大和)から全国覇権の第一歩をふみだす。
 ここで問題になるのは三輪山麓の大和という土地柄である。
 大和は地政学的に見て日本国を統一支配するには不適切な地域である。
 四方を山に囲まれた盆地で、陸路・海路から隔たった閉鎖的な場所だからである。
 農業生産の拠点としても狭隘で、河川流域という都市の第一条件を満たしてもいない。
 神武天皇が即位し、都を築いたのは、その大和の南端に近い橿原である。
 大和の中心は、現在の奈良や天理市が近い北方で、南はさびれている。
 神武天皇が橿原で即位した理由は、当時、そこが、豪族たちの力がおよんでいない半ば打ち捨てられた地域だったからではないか。
 神武天皇は、大和をめざしたのではなく、たどりついた地が大和南部だったのである。
 そして、橿原の地で、欠史八代の永きにわたって、地歩を固めて、10代崇神天皇にいたって、全国制覇に打って出る。
 記紀の編纂者は、大和東遷を合理化するために、大国主命の三輪山エピソードを神話に仕立てたのであろう。
 神武東征は、カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和の地に至って、橿原宮で即位するまでが記されている。
 東征が東遷とも呼ばれるのは、都を日向から大和に移すという意味である。
 カムヤマトイワレビコは兄のイツセ(五瀬命)とともに、葦原中国を治めるべく、日向(高千穂)から東へむかい、岡田宮で1年余、阿岐国で7年、吉備国で8年を過ごす。
 進軍が遅れたのは敵対勢力の妨害が激しかったからで、イツセは、浪速国の戦闘でついに戦死する。
 熊野まで来たとき、大熊があらわれて、兵士たちはみな気絶してしまう。
 このとき、カムヤマトイワレビコは、熊野のタカクラジ(高倉下)が運んできた一振りの太刀によって目を覚まし、熊野の荒ぶる神を切り倒し、兵士たちも元気を回復した。
 この太刀は、タカクラジの夢にあらわれたアマテラスとタカミムスビ(高木神)から下されたという。
 これは、天孫族のカムヤマトイワレビコに高天原からの神助があったという兆しで、一行はタカミムスビから遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、大和の宇陀に至った。
 カムヤマトイワレビコは、宇陀のエウカシ・オトウカシ兄弟、エシキ(兄師木)・オトシキ(弟師木)兄弟、土雲の八十建、ナガスネヒコ(登美毘古)らと壮絶にたたかう。
 有名なのが戦いの最中、カムヤマトイワレビコの弓の先にとまった金色の鵄(とび)で、ナガスネヒコの軍は、金鵄の光輝に眩惑されて戦闘不能に陥る。
 こうして、カムヤマトイワレビコは、荒ぶる神たちを服従させ、ついに畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)で神武天皇として即位する。
 
 神武東征は、物語が単純ではなく、多くの示唆に富んでいる。
 一つは敵が多かったこと、高天原からの神助があったこと、ひたすら大和の地をめざしたことである。
 敵が多かったのは史実だろうが、神助はフィクションで、大和を目指したのは結果論であろう。
 もっと重要なのは、軍団を率いて、長い歳月をかけて、日向から大和をめざしたカムヤマトイワレビコが橿原宮で即位するにいたった文化の力である。
 戦後日本人は、70年前、皇国史観を捨て去って、日本史を歴史実証主義にゆだねてきた。
 歴史教科書の縄文時代晩期の紹介では、土器や竪穴住居があるだけで、小集団の原始人が狩りや採集で生計を立てていたとする。
 小集団だったのは、確保できる食糧が少なかったからという。
 出土した土器と竪穴住居跡などの史料から一歩も出ないのである。
 ところが、神武東遷の神話には、当時の様子が物語性ゆたかに描き出されている。
 歴史実証主義が見失っている文化の力が、神話のなかでみごとによみがえっているのである。
 皇国史観排除という名目で、戦後、日本人は、歴史を奪われてきた。
 次回以降、日本の基礎を固めた古代天皇の足跡を見ていこう。

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2017年09月19日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」O

 ●神話に隠された歴史の真実
 スサノオは、天照大神や月読命とともに、イザナギの禊からうまれた3神のうちの一柱である。
 天照大神は高天原を、月読命は夜の食国(オスクニ)を、そしてスサノオは海原を治めるようイザナギに命じられるが、スサノオは、イザナミのいる根之堅洲国に行きたいと泣き叫び、中つ国から追放されてしまう。
 スサノオは、天照大神に別れ告げるため高天原へ上るが、天照大神はスサノオが攻めて来たと思い、武装して待ち構える。
 二神は互いの疑いを解くために誓約(うけい)をおこなう。
 誓約は結果が宣言どおりか否かによって、邪心のあるなしを判断する卜占である。
 天照大神がスサノオの持っている十拳剣を噛み砕き、吹き出した息から三柱の女神(宗像三女神)が産まれた。
 この三女神を祀るのが、2017年に世界遺産登録された沖の島宗像大社の沖津宮、中津宮、辺津宮である。
 次に、スサノオが、アマテラスの「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を噛み砕くと、宣言どおり、吹き出した息から五柱の男神が生まれた。
 スサノオの潔白は証明されたが、高天原に滞在することになったスサノオが乱暴をはたらいたため、天照大神は嘆いて、天の岩屋に隠れてしまう。
 これが天の岩戸隠れで、太陽神=天照大神が身を隠したため世界が真っ暗になってしまう。
 高天原を追放されて、出雲の鳥髪山へ降ったスサノオは、その地を荒らしていた八岐大蛇の生贄になりかけていた美しい少女櫛名田比売(くしなだひめ)と出会う。
 スサノオは、櫛名田比売を櫛に変えて髪に挿し、八俣遠呂智を退治する。
 そして八俣遠呂智の尾から出てきた草那芸之大刀(くさなぎのたち)を天照御大神に献上し、それが三種の神器の一つとなった(熱田神宮の御神体)。
 こうして、スサノオは櫛名田比売を妻として、出雲の根之堅洲国に留まる。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまごみ)に 八重垣つくる その八重垣を」
 スサノオは、日本で最初の和歌を詠った歌人でもあったのである。

 スサノオは、天つ神ではなく、国つ神である。
 国つ神の代表であるオオクニヌシ(大国主命)はスサノオの子孫である。
 この設定は多くの示唆をふくんでいる。
 一つ目は、天孫族(天つ神)と地祇(国つ神)が対立関係にあったこと。
 二つ目は、天つ神と国つ神は、全面戦争を避けて、棲み分けしたこと。
 三つ目は、世界を現象界(=顕界)と観念界(=幽界)に分け、前者を天つ神、後者を国つ神が支配するとしたこと。
 肉体の目に見える顕界と、魂の目に見える幽界の二元論である。
 幽界が設計図なら、設計図どおりにつくられたのこの世が顕界で、両者は表裏の関係にある。
 神道では、高天原と葦原中国、天つ神と国つ神、天照大神(伊勢神宮内宮祭神)と豊受大神(伊勢神宮外宮祭神)というふうに二項対立(二元論)が基本原理になっている。
 これが、権威と権力の二元論にひきつがれて、天皇に地位が確定する。

 天皇中心の政治というのは、天皇と摂政、天皇と幕府の二元体制で、天皇は祭祀、為政者は権力をあずかった。
 祭祀と権力もまた二元論で、祭祀は国家の安泰と民の幸を祈念し、権力者は政体をコントロールする。
 政体は、法や権力を操作する一過性の形や状態である。
 したがって、政体(権力)が変わっても国体(権威)に変化は生じない。
 その二元構造が日本を世界一の伝統国家たらしめてきたといってよい。
 中世以降、二元構造が崩壊に瀕する危機が二度あった。
「建武の新政」と明治維新から第二次大戦敗戦までの80年余である。
 後醍醐天皇の新政が失敗すると「応仁の乱」から戦国時代へ日本は「暗黒の中世」へ突入してゆく。
 権力をもとめた権威が空洞化したため、権力が手綱を失った暴れ馬のように暴走したのである。
 後醍醐天皇や北畠親房、楠木正成らが傾倒していたのが儒教で、親房の『神皇正統記』は徳治と名分論を謳った易姓革命のテキストだった。
 建武の新政は、神道が後退した時期の政変だったのである。
 もう一つは、天皇を国家元首に担いだ明治憲法体制で、国体と政体の合一によってつくりあげられた帝国主義は、ヨーロッパの政治システム真似た軍部による天皇の政治利用でもあった。
 その結末が1945年の国体の危機で、朝鮮戦争がなかったら、日本は共産主義革命にのみこまれていたろう。

 戦後の平和と繁栄は、国体護持の賜物で、象徴天皇の存続によって、国体と政体の二元論が復活して、日本再生が曲がりなりにも実現した。
 戦後、日本は、民主主義の国になったが、民主主義は、課税や法律、行政と同様、政体の範疇にあるもので、国家の安全や発展、民の幸という国体概念を超えるものではない。
 国会の開会式に天皇陛下がご臨席されるのは、日本が、国体(権威)と政体(権力)が二元論に立っているあかしで、天皇が憲法上の存在であるというのは、左翼反日の妄想にすぎない。
 憲法が最高法規で、民主主義が最高の意志決定手段というのは、政体=国家の革命国家のルールであって、国体を有するわが国には通用しない。
 伝統国家では、法規や多数決など政体の一過性のルールだけではなく、習慣や伝統、しきたりが重んじられる。
 国体は歴史の一部なので、過去が現在に反映されるのである。
 政治の目的は、国家・国民の繁栄の継続であって、国家は、現在を生きるにすぎない人々の占有物ではない。
 国民投票でEUから脱退したイギリスや大統領公選制のアメリカにあるのはのは、多数決(民主主義)だけであって、国体という政治の理想がない。
 神道の伝統にもとづき、権威と権力の二元論を立てた日本の国の形は、世界でもっとも洗練された政治体制といっていいであろう。
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2017年09月15日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」N

 ●神話と実史の融合点と断絶点
 神武天皇の祖先にあたるのが、神代のイザナギ・イザナミである。
 そこに神話と実史の接点がある。
 イザナギ・イザナミが国土や多くの神々を生み、黄泉国から帰ったイザナギが禊払いしたときに天照大神・月読尊・須佐之男命が生まれている。
 ここまでが神話である。
 天照大神の孫で、天孫降臨したニニギノミコトの曾孫が神武天皇である。
 ニニギノミコトが地上に降り立ったあとが人代(実史)にあたる。
 イザナギ→天照大神→アメノオシホミミ→ニニギ→山幸彦→ウガヤフキアエズ→神武天皇。
 したがって、皇室の祖は、イザナギでもイザナギからうまれた天照大神でもなく、天照大神から2代下った人代のニニギノミコトということになる。
 女系天皇論者が、天照大神を皇室の祖というのは、神話と実史の混同で、天照大神は、皇祖ではなく、皇祖神である。
 ちなみに天皇以外の氏族もすべて、イザナギ・イザナミからはじまっている。
 大伴氏はアメノオシヒノミコト、物部氏はニギハヤヒミコト、中臣氏(藤原氏)はアメノコヤネが祖先で、神を祖先にしていない大豪族は百済出身といわれる蘇我氏だけである。
 有力豪族が天皇に忠実だったのは、かれらの祖先がニニギの降臨に従った神々(五伴緒/イツトモノオ)だったからで、神話秩序の下にあった支配層の手によって、天皇中心の体制をつくりあげられてゆく。
 日本史で、唯一、天皇に刃をむけたのは、第32代崇峻天皇を弑逆した蘇我馬子だけだが、大化の改新で、蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿の直系4代による独裁体制が破られて、天皇中心の体制が復活する。
 ちなみに、蘇我氏が大きな力をもったのは、天皇の外戚(女系)だったからで、天皇の妃は蘇我一族がほぼ独占していた。

 天皇が尊いのは、神の子孫だからではなく、神武以来の血統(万世一系)がまもられてきたからである。
 その伝統こそが天皇の正統性である。
 天皇の地位は、歴史に用意された血統(男系相続)という玉座≠ノあって、そこに座られるのが天皇陛下である。
 皇位は、歴史上の地位であって、皇室の家系にとどまるものではない。
 女系天皇容認論は、歴史をつらぬいてきた真実を裏切る伝統破壊にほかならず、女性天皇という事態になれば、天皇の正統性が根こそぎ失われる。
 皇室断絶の危機を回避する唯一の方策は、旧皇族の皇籍復帰か、旧皇族への皇統承継権の付与しかなく、GHQが図った皇室断絶政策(11宮家の臣籍降下)をいつまでもひきずるほど愚かな歴史的選択肢はない。
 まもらなければならないのは、天皇の正統性で、天皇陛下も皇室も、皇位という歴史に刻まれた玉座をまもることによってまもられる。
 世界遺産に登録された沖ノ島(宗像神社)が神の島とされているのは、神性をおびているからではなく、4世紀から現在まで厳しく伝統がまもられてきたからである。
 沖ノ島にはきびしい入島制限と女人禁制がある。
 それが伝統で、世界遺産委員会は、女人禁制をふくめて歴史遺産としたのである。
「いまは男女平等の時代」などといって、女性宮家・女系天皇をみとめようというのは、伝統を毀損、破壊する亡国の徒のたわごとにすぎない。

 神話へ話をもどそう。
 天皇にかかわる神話は国譲り≠ナあろう。
 これは、ニニギノミコトの降臨(天孫降臨)に先だち、高天原から国土委譲をもとめる使者が派遣され、大国主命がこれを承認して、出雲(出雲大社)に祀られる話である。
 この神話から、大国主命は「国譲りの神」とも呼ばれる。
 国譲りの第一の使者、天穂日神(アメノホヒノカミ)は大国主命に媚びて命をつたえず、第二の使者、天若日子(アメノワカヒコ)は問責使の雉を射たために神意によって矢に当たって死ぬ。
 最後の使者、建御雷神(タケミカヅチノカミ)には、大国主命の二人の子のうち、事代主神は委譲すべきと答え、もう一人の建御名方神は、力くらべを挑むが、敗れて諏訪湖に逃げて、国譲りが決定する。
 大国主命で有名なのが「因幡の白兎」である。
 心やさしい大国主命が兄たちと争ったヤマガミヒメを娶ったあと、次に恋したのが大国主命から六代遡った祖先スサノオの娘スセリビメである。
 スサノオは幾多の試練に耐えた大国主命を婿としてみとめ、中つ国を治める大任を授ける。
 このあたりのストーリーは粗雑で、スサノオと大国主命、スセリビメの関係や時系列が不自然である。
 ヘビやムカデのいる部屋で寝かされ、野原で火をかけられる試練、寝ているスサノオの髪を柱に縛って刀と弓を奪って遁走するストーリーは奇想天外だが、それが神話で、かつて日本人は、神話と実史を重ね合わせて、日本を神の国としたのである。
 次回はスサノオの神話へ目を転じてみよう。
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2017年09月11日

神道と世界最古の文明「縄文文化」M

 ●理≠ニ非理≠併せ呑む日本精神
 自我が誕生したのは紀元前3000年頃という説がある。
 それまで、ヒトは、動植物と同じように、自然の一部だったのである。
 じぶんと世界が切り離されたとき、人類は、自我という個人領域を獲得した。
 人類にとって、これは革命的なことで、世界がじぶんの外部のものとなったのみならず、他者が他者として、じぶんとは別の存在となった。
 自我のめざめは、人類を自由に、そして孤独な存在にしたが、さらに大きな衝撃は、死の発見だった。
 全体の一部から個となった人類にとって、死は最大の不条理で、死によって、じぶんのみならず、世界が消失する不安と恐怖にさらされた。
 自我にめざめた人々は、超自然的な存在に救済をもとめずにいなかった。
 そこから、祈りや信仰がうまれ、やがて、宗教が誕生する。
 宗教といっても、あったのは、仏教やヒンズー教、儒教などの人為宗教ではなく、自然崇拝や万物に精霊が宿っているとするアニミズムなどの原始宗教である。
 農業がはじまると農業神、家族的なつながりから祖霊、神概念から神と世界を一体とみるパンセイズム(汎神論)、超越的な力を信仰するマナイズム、神と交流するシャーマニズムが派生して、素朴な土着宗教が形成される。
 そこへやがて、仏教がつたわってきた。

 日本に仏教が伝来したのは538年、百済の聖王一六年のこととされている。
 欽明天皇(29代)は臣たちに仏教を受け入れるべきか否かをたずねている。
 蘇我稲目は受け入れに賛成し、物部尾輿(物部守屋の父)や中臣鎌子(のちの藤原鎌足)は反対した。
 当初、仏教は、蘇我一族(蘇我稲目・馬子)だけのものだった。
 その状況を一変させたのが聖徳太子だった。
 聖徳太子は、馬子が物部守屋を討った丁未の乱に参戦して、蘇我氏のクーデターが成功すると、翌年、20歳で皇太子となり、摂政の位(33代推古天皇)についた。
 その後、数十年、聖徳太子は、新羅討伐軍を送り、遣随使をつかわすなどの積極的な外交をすすめ、国内にあっては、十二階の冠位、十七条憲法などを定めた。
 日本の土着的な信仰が神道という形態を整えたのは、曽我一族や聖徳太子が仏教擁護に走ったこの頃だったと思われる。
 推古天皇に「勝鬘経」や「法華経」を講じ、三経義疏を完成させた聖徳太子に対抗して、神道も体系化をすすめ、35代皇極天皇に時代には、皇室神道にもとづいた新嘗祭がとりおこなわれている。
 蘇我一族が仏教の国教化をはかったのにたいして、朝廷は、あくまで神道をまもったのである。

 仏教と神道が共存できたのは、仏教が個人の死生観にもとづき、神道が共同体や国家の安泰に眼目をおいたという理由だけではなかった。
 教義をもたない(「言挙げせず」)神道と経典仏教には対立点がなかったからで、神仏習合は、神道の心と仏教のことばの合体といってよいだろう。
 仏教と神道の棲み分け≠ェ成立したわけだが、実際は、仏教が土着信仰である神道の影響をうけ、日本化してゆく。
 理としての仏教にたいして、神道は非理で、世界は非理に満ち、理で説明がつくものはわずかしかない。
 それが日本精神で、奇異や不思議をそのままうけとめ、一方、理については徹底的に合理性をもとめる。
 現代の文明社会において、ビルの地鎮祭や初詣、七五三のお参りが廃れないのは、日本人が奇異や不思議と合理主義を両立させる二元論的な心根をもっているからである。
 古くは隋・唐文化の国風化から、戦後のアメリカナイゼーションの日本化にいたるまで、日本は、外来文化に吞みこまれることなく、そこから、独創的な文化をあみだしていった。
 その能力の高さは、神仏習合の伝統で、そこに、言挙げしない神道のふところの深さがあるといってよいだろう。
 非理(あいまい)の精神は、どっちつかずということではない。
 両方をうけいれる寛容さで、したがって、西洋の宗教戦争のような「抗争の構図」がうまれない。

 大和朝廷の成立過程で武力闘争がおこなわれた形跡がないのは、無神論的な唯物論者ではなかったからで、日本人は、太古の昔から、非理という唯心的な世界観をもっていたのである。
 それが、神道のベースとなる自然崇拝で、自然界に理のみで説明できるものはほとんどない。
 この原始神道が、自我がうまれたとされる紀元前3000年頃から、延々とつづいてきて、仏教がはいってきた6世紀になって、様式化された。
 神道は、6世紀になってできたのではなく、縄文時代からつづいてきた精神世界が、用明(31代)・皇極(33代)、聖徳太子の時代に、仏教に対抗する形で様式化(新嘗祭)されたのである。
 日本人の精神や民族性に神道という非理の精神が深く根を下ろしている。
 キリスト教や明治維新の西洋文明、戦後のアメリカ文明、そして民主主義にいたるまで、すべて、理の宗教であり、合理の文明である。
 日本精神は、これを否定も肯定もせず、よいところを利用するだけである。
 したがって、根本にある神道的な価値観はいささかもゆるがない。
 皇統の男子継承に「合理性がない」とのべて、女系天皇論者から絶賛された民進党のホープ山尾志桜里議員は不倫スキャンダルで失脚した。
 山尾は、みずからが否定した非理の世界に足をとられたのである。
 山尾を支持してきた小林よしのり(山尾宰相論)や女系天皇論者、高森明勅や田中卓(皇學館大学元学長)、所功らには、日本精神というべき原始神道(縄文文化)にたいする認識がゼロである。
「男系継承は支那の男系主義の影響にすぎない」というのは、日本文化のなんでもかんでも「大陸や半島からの影響」で片をつけるコンプレックスで、こういうやからは、いつか、非理の世界に足をとられて馬脚をあらわすのである。
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2017年09月05日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」L

 ●ニニギノミコトを天皇霊と定めている大嘗祭
 皇室の祖が天照大神であるとして、これを女系天皇の肯定根拠にする暴論がまかりとおっている。
 天照大神は皇室の皇祖神であって、日本人の総氏神とする神話にもとづいた空想上の神である。
 記紀によれば、天照大神は太陽が神格化された天照坐皇大御神で、伊勢神宮(内宮)の祭神でもある。
 皇室の始祖は、天照大神の命によって、高天原から地上に降り立ったニニギノミコト(天孫降臨)で、天皇の血統は、ニニギノミコトから三代下った神倭伊波礼毘古命(神武天皇)からはじまる。
 ニニギノミコト以前は神代で、以後は人代である。
 世系第一/天照大神(禊によって、イザナギの左目から生まれる)
 世系第二/アメノオシホミミ(アマテラスとスサノオの誓約から生まれる)
 誓約(ウケヒ)は吉凶や正邪を占う神事(卜占)で、天照大神とスサノオの誓約では、天照大神がスサノオの十拳剣を噛み砕き、吐き出した息から三柱の女神(宗像三女神)が生まれた。
 次に、スサノオがアマテラスの「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を噛み砕き、吐き出した息から五柱の男神が生まれた。
 その内の一柱が天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)で、勾玉の持ち主が天照大神だったところから天照大神の子という俗説がうまれた。
 アメノオシホミミとヨロヅハタトヨアキツシヒメ(萬幡豊秋津師比売命)とのあいだにうまれたのがニニギノミコトである。
 豊秋津師比売命は造化三神の一柱、高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)の子で、性別のない独神(ひとりがみ)である高御産巣日神の娘、豊秋津師比売命と、誓約からうまれた天之忍穂耳命からニニギノミコトがうまれたのである。
 ここが神話と実史の分かれ道で、ニニギノミコト以前は神話、以後は、この世(葦原中国)の物語となる。
 世系第三/ニニギノミコト(妻は木花佐久夜姫)
 世系第四/山幸彦(妻は豊玉姫)
 世系第五/ウガヤフキアエズ(妻は玉依姫)
 世系第六=皇統第一/神武天皇(妻は阿比良姫)
 天照大神は女神とされるが、独身で、世俗的な意味での夫や子はいない。
 そもそも、女神は性別ではなく、性格であって、スサノオを夫とする俗説には、神である天照大神を人的系統である皇統へ組み入れようとする意図が隠されている。

 神話と実史のつながりを理解するには、世界を3次元でとらえる必要があるだろう。
「造化三神(別天津神をふくめて五柱)」と、最後にイザナギ(男神)イザナミ(女神)が登場する「神世七代」までが第1次元の天(宇宙)である。
 イザナギの禊ぎからうまれた天照大神から、天照大神とスサノオの誓約からうまれたアメノオシホミミまでが第2次元の高天原である。
 高天原は、第1次元の天と第3次元の葦原中国をつなぐイデア(理想郷)であって、神代と人代の橋渡しの役割を担っている。
 神であるイザナギとイザナミが地上で夫婦神になるのも、造化三神が、葦原中国に干渉し、あるいは、天照大神に助言をあたえるのは、のちに天照大神が主になる第2次元の高天原というイデアをとおしてである。
 そして、葦原中国は、高天原という理想をめざして、国づくりをはじめる。
 イデアである高天原と葦原中国は、存在次元が異なっており、神話と実史という大きな段差がある。
 禊ぎや誓約から子がうまれるのが神代で、夫婦神から子が生まれるが人代である。
 天照大神が皇室の祖という主張は、神話と、神話に脚色された人代の区別がつかないオカルティズムにほかない。

 天皇がニニギノミコトの子孫であるという証が大嘗祭(だいじょうさい)の儀式において明快に示されている。
 大嘗祭は、天皇が即位の礼の後、初めてとりおこなわれる新嘗祭(にいなめさい)である。
 新嘗祭は毎年11月に天皇がおこなう収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇みずからも食す祭儀である。
 大嘗祭において天皇は、ニニギノミコトという名に象徴されるにぎにぎしく実った稲穂の姿をみずから体現される。
 その稲穂は皇祖神=天照大神から皇祖=ニニギノミコトに授けられた「斎庭の稲」(天壌無窮の神勅)である。
 天皇が、皇祖(ニニギノミコト)が葦原中国にもってこられた稲を食されることは、天皇みずからが皇祖の霊威を体現し、皇祖とご一体になられるということである。
 それが大嘗祭の本義で、ニニギノミコトの神霊と新穂の実り、天皇の再生が一体となったのが、民族学の泰斗、折口信夫のいう「天皇霊」である。
 大嘗祭の当夜、天皇は廻立殿に渡御し、小忌御湯で潔斎して斎服を着け、深夜、悠紀殿に入る。悠紀殿には、南枕に布団(衾)が敷いてあり、沓(くつ)と沓を載せる台も布団の北隣に置いてある。
 この寝具類がマドコオフスマ(真床襲衾)で、折口は講演「大嘗祭の本義」でマドコオフスマを、天孫降臨の際、ニニギノミコトが身に着けて地上に降り立った御衾と見立てた。
 御衾に包まれたニニギの姿が象徴するのは、穂に包まれた稲で、マドコオフスマは、稲魂の誕生、「天皇霊」は稲の霊そのものだったである。
 悠紀殿で神饌(お供え)を神に供し、告文を奏して、天皇みずからも神饌を食される(直会/なおらい)。
 次いで廻立殿にもどられ、その後、主基殿にはいられて、悠紀殿と同じことをおこなう。
 大嘗祭は「皇室の行事」とされるが、これは「皇室の私的な行事」ではなく「皇室の公的な行事」である。
 大嘗祭の予算は、通常の内廷費以外の臨時費で賄われており、「国事行為」といってよい。
 政府発表によれば、大嘗祭が「国事行為」とされなかった理由は、憲法上の天皇の「国事行為」が「内閣の助言と承認」を必要とするのにたいして、皇室の伝統祭祀である大嘗祭は、それを必要としなかったからである。
 女神である天照大神が皇室の祖なので、女系天皇に正統性があると主張する者たちは、大嘗祭という準「国事行為」において、ニニギノミコトを天皇霊と定めていることを知らないのである。
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2017年08月30日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」K

 ●民に代わって祈る天皇の無私の祈り
 新嘗祭は、収穫祭にあたるもので、11月23日(勤労感謝の日)に、宮中三殿の神嘉殿にて執り行われる代表的な宮中祭祀である。
 とりいれ後、秋の一夜を徹して、新穀を捧げて神とともに新穀を食べる儀礼が新嘗祭で、飛鳥時代の皇極天皇(35代)の御世にはじまったとつたえられる。
 日本では古くから五穀の収穫を祝う習俗があり、それが長年、変化を遂げた一つの形が新嘗祭で、もともと、わが国には、共同体単位で収穫を祝う伝統が根づいていた。
 日本は、ユーラシア大陸の国々ように、他国の攻め、収穫物を奪って成立した国家ではない。
 日本という国家にとって、もっとも大事だったのは、農耕をとおして、民を養う十分な収穫物をえることで、それが国家建設の絶対条件だった。
 いくさに勝って、収穫物を奪えば、奪われたほうの民は生きていけない。
 日本で、覇王が出現しなかったのは、奪い合うより、民が全員、生きることができる収穫そのものを大事にしたからだった。
 したがって、王権は、収穫祭の司祭たる「祭祀王」にさずかった。
 そこが、覇王が延々と殺しあった春秋・戦国時代の中国と決定的に異なる。
 大和朝廷の成立過程で、いくさがほとんどなかったのは、農耕による収穫の価値が掠奪や覇権主義を圧倒していたからで、これが、のちの世の農本主義へつながってゆく。

 オオキミが宗教的権威になったのは、収穫祭の司祭者だったからで、祭祀と政治を、ともにマツリゴトとして一体化する「祭政一致」の観念は、大和朝廷の基本的な政治理念であった。
 祭政一致は、収穫祭と集団の生活、政治、軍事、秩序と合一して国家形成へとむかい、原始神道の発展を促し、やがて、天皇の祭祀(皇室神道)として体系化される。
 マツリゴトと神道をむすんだのが神話である。
 古代国家の確立にともない、天皇の政治支配を基礎づけるために国家誕生の神話が整えられた。
 古代神道は、大和朝廷が信仰する神々を天つ神、もともとの土地神を国つ神として、天つ神を優位においた国産み神話の上に構築された。
 一方、土地には土地神(地祇)、個人には祖霊がおり、万物には八百万の神が宿り、ムスヒ(産巣日/生産する霊力)の神も存在する。
 神道が諸神を吞みこんでしまったのは、最高神が太陽だからで、太陽をこえるものはどこにも存在しない。
 ここが神道のおおらかなところで、自然崇拝を基礎とする神道は、人為の理法やあざとさを否定して、大自然の不可思議をすべて受容する。
 そこでは、人と神、奇異と常道の区別もあいまいのままである。
 神道が仏教と習合したのは、そのおおらかさゆえであった。
 6世紀頃から仏教、儒教、道教など外来思想の受容がはじまった。
 そして、8世紀の奈良時代になって、仏教の全盛期であった隋、唐の影響をうけて、日本は、仏教国家としての体制をつくりあげた。
 古代国家の仏教は、宗教、思想、学芸、技術など文化の全般にわたる高度に発達した体系であって、政治支配を支え、国家を鎮護する外神であった。
 神までが仏にすがって救われることを願う風潮のなか、ミヤ、ヤシロなどの社殿がつくられ、人間の姿をした神像が造顕されるようになったのも、仏教の影響だった。
 ところが、皇室神道は、仏教や儒教の影響をうけることなく、701年の大宝律令から927年の「延喜式」に至る二世紀余の間に制度化され、体系的に整備された。
 神道は、皇室のなかで、日本精神として、純粋培養されていたのである。
 そして、天皇の祭祀の中心をなすイネの収穫祭が新嘗祭として定型化された。
 その理由は、仏教や儒教が個人の世俗的宗教だったのにたいして、皇室神道が非個人(共同体や国家)の非世俗(秘儀)的宗教だったからである。
 神道は、個ではなく、全体の利益をもとめる宗教だったのである。
 収穫祭にあたる新嘗祭は、天皇が五穀の新穀を天神地祇に供し、みずからもこれを食して、その年の収穫に感謝する。
 この宮中祭祀は、一方で、天皇を権威づけるものとして、正統化されることになった。
 祭祀王としてカミと交流する天皇は、生産力と生命力を秘めた新穀を食する儀式によって、生まれ変わり、新しい生命を獲得するのである。
 収穫祭は、翌年のイネの実りを約束する祭りでもあったので、祭祀でカミと合一した祭祀主は、翌年のイネの実りを左右する力をもつ霊的な存在となった。
 新嘗祭は、大嘗祭が天皇の一生一度の即位式と同格であるように、年ごとにおこなわれる即位式でもあったのである。
 天皇の祈りは、民に代わって、民の平安と国家の安泰を祈る無私の祈りで、だからこそ、国民は、天皇や皇室に敬愛の感情を抱く。
 天皇への敬愛は「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる(西行)」という日本の民族的な宗教感情にささえられているのである。
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2017年08月28日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」J

 ●天皇の権威と聖俗%元論
 天皇の権威は収穫祭の司祭に由来する。
 天皇は権力者ではなく、民のために「神に祈る神」なのである。
 収穫祭は、農耕神への信仰と自然にたいする畏敬や畏怖、万物に神が宿るとする原始神道の合作で、収穫祭の司祭は、古人の尊敬の対象だった。
 農耕の普及にともなって、共同体が小集団から大集団へ、大集団の連合から単一国家へ移っていくと、各地の収穫祭が統合されて、その頂点に立つ司祭が新嘗祭を主催する大司祭(オオキミ)となった。
 収穫祭の最高儀礼が新嘗祭であることは、天皇が新穀を神に捧げ共に食する儀式内容からも明らかである。
 収穫祭が国家祭祀(新嘗祭)に、そして、新嘗祭を催す大司祭がオオキミになって、日本は世界に類のない祭祀国家としての体裁を整える。
 日本は、武力で覇権を争ったユーラシア大陸の国々とは別の道筋をとおって国家をつくりあげたのである。
 それが祭祀国家で、天皇という国家の核をもっている。
 天皇は文化概念で、日本は、革命国家が権力を収奪して政体をつくりあげたのにたいして、祭祀という文化の力で国家を形成した。
 収穫祭という民の祭事を、国家祭祀にまで高めた日本は、権力国家ではなく文化国家なのである。
 国家の頂点に祭祀王が立つということは、民の代表が主権者になったということで、日本という国家は、主権が、権力ではなく、民の側におかれている。
 天皇主権は国民主権と同義(君民一体)で、天皇陛下万歳は、民の代表万歳だった。
 君民一体は究極の民主主義にほかならず、日本は、もともと、民主主義国家だったのである。
 日本が皇紀元年以降、2677年にわたって国体を維持できたのは、天皇が民と共にある祭祀王だったからで、君民一体では革命がおこるはずがないのである。

 権力は、権威という後ろ盾をえて、はじめて安定する。
 民が権威に従順なのは、敬愛心からで、民はみずからすすんで従う。
 一方、民が権力に従順なのは、恐怖心からで、民は強制されて従う。
 前者が伝統的支配なら、後者が権力的支配である。
 権力だけの政権は、専制や独裁に陥って、フランス革命後のジャコバン派やナチスのような強権・恐怖政治となる。
 武力によって一時的に覇権を握ることができても、中国の春秋・戦国時代のように、めまぐるしく覇王が入れ替わって、止むことがない。
 春秋・戦国時代に決着をつけた始皇帝の秦ですら短期政権だったのは、民の支持がなかったからだった。
 権威の源泉は民の支持で、権威なき権力は盗賊とかわるところがない。
 権力と権威を分かつのが、世俗と神聖の二元性である。
 そして、この二元性を統一するのが収穫祭≠セった。
 収穫祭は、世俗における生の賛歌である一方、祭祀王が祭祀をとおして神と交流する神聖な行為でもある。
 国体(権威)と政体(権力)は二元論で、人の世は聖俗二元論≠ゥら成り立っている。
 俗なるものが権力で聖なるものが権威である。
 聖なるものは不可知論でもあって、ひとは、奇異なるもの不可思議なるものを、俗なるものよりも深く信仰する。
 知りえぬもののなかに真実があることを知っているのである。
 それが伝統で、継承される過去には合理的な説明がつかないものが多い。
 一方、合理は即物的・唯物論的で、それが権力である。
 権力には、警察や軍隊のほか、法や制度、民主主義までがふくまれる。
 革命は権力闘争の結果で、民主主義と合理主義ですべて片付ける。
 民主主義も権力で、ヒトラーは、民主主義的な手法(一般投票)で独裁者になり、北朝鮮ですら国名に民主主義を謳っている。
 民主主義には一片の権威もそなわっていないのである。

 権力だけあって、権威が不在なとき、乱世となる。
 後醍醐天皇の「建武の新政」の失敗以降、日本が、応仁の乱から戦国時代にいたる暗黒の中世≠ヨ突入していった。
 天皇が俗なる権力をもとめたため、聖なる権威が空位になったからだった。
 一方、朝廷と幕府が不離不即の関係にあった江戸時代は、権威と権力の二元論的力学がはたらき、280年にわたる平和と秩序がまもられた。
 2・26事件で銃殺刑に処された磯部浅一大尉はこんな日記(獄中日記)を残している。
「天皇陛下、なんという御失政でござりますか。なぜ奸臣を遠ざけて、忠烈無双の士をお召しになりませぬか」「何というザマです。皇祖皇宗に御あやまりなさいませ」
 磯辺は、聖なる権威を捨てて、俗なる権力に取り込まれた天皇陛下を叱ったのである。
 明治憲法は、天皇を政治的な主権者、陸海軍の大元帥に立てて、権力の側に取り込み、国民の代表たる新嘗祭の大祭司であることを放棄させた。
 そして、戦後、天皇主権は国民主権に変わって、民主主義革命が達成されたと左翼を狂喜させた(八月革命説)。
 だが、本来、天皇主権は、収穫祭の祭祀王という次元で国民主権とイコールであって、明治憲法の天皇元首も戦後憲法における象徴天皇もインチキだったのである。
 現憲法の国民主権は、実際には行使できないので、これを権力があずかるというルソー流で、国民主権は、権力に利用されているにすぎない。
 民主主義は、権力にとって、きわめて都合のよい代物なのである。
 戦後日本は、民主主義一辺倒の国になって、教育勅語や皇国史観が徹底的に排除された。
 日本は、君民一体の祭祀国家から民主独裁の権力国家へ変容したのである。
「皇統の男系男子相続には合理的な根拠が乏しい」とする民進党の山尾志桜里議員の発言がむなしく響くのである。

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2017年08月24日

神道と世界最古の文明「縄文文化」I

 ●収穫祭と神道、国家のトライアングル
 天皇の権威はいつごろうまれたのであろうか。
 そのとき、古代神道や縄文文化はどんな状態にあったのか。
 もっとも興味深いテーマだが、それを明快に語る学説や書物は存在しない。
 文献や史料が乏しく、歴史的な想像力が不足しているからで、あるのは本筋を外れた瑣末な議論ばかりである。
 天皇の深淵を探るには、紀元前をはるかに遡った太古の歴史観と文化的考証が必要なのはいうまでもない。
 キーワードは宗教と食糧だろう。
 宗教と権威は切り離すことができないばかりか、ほとんどイコールである。
 どんな権威も、たとえそれがいかに素朴な信仰であっても、宗教的権威だからである。
 もう一つの要素が食糧である。
 イネの豊凶は、村落存続の決定的なカギで、日照りや冷害などによる凶作や洪水などの災害によって、村が全滅するケースさえあった。
 ここで、天皇と食糧問題をむすぶテーマとして、新嘗祭が浮上してくる。
 天皇の宗教的権威が収穫祭と深い関連性をもっていることは、新嘗祭の原型が日本の原始農耕社会でひろくおこなわれていたイネの収穫祭だったことからも明らかだろう。
 人力が自然の脅威の前に無力である一方、生産を支配する大地、水、太陽の精霊、穀霊の存在が大きかった古代社会では、収穫祭は、人間の非力さや死生観、当時の自然観や宗教観を反映した生きるための儀式だった。
 万物に霊が宿っているとするアニミズム、自然現象や自然の力を神格化する自然崇拝、超越的な力を信仰するマナイズム、神と交流するシャーマニズムや祖霊崇拝、呪術などの原始的宗教観念が人々の生活を支えていたのである。

 イネづくりの広範な普及によって、小集団だった原始社会の人的規模が拡大し、文化的にも飛躍的に向上して、より高度な古代社会へと歩みはじめる。
 日本の原始農耕社会は、弥生前期にはじまった稲作の全土的な普及によって本格化し、弥生時代中期の紀元前100年頃には、大きな規模をもつ農業共同体に発展して、九州北部では100を超える小国家がうまれたとされる。
 農業の発展にともなって、国家が形成されるのは、世界共通の現象である。
 弥生以前、縄文晩期には、一部でイモ類の栽培がおこなわれていただけとされてきたが、三内丸山縄文遺跡(縄文時代前期から中期/紀元前35世紀〜20世紀)の発見によって、その認識が大幅にかわった。
 三内丸山では、堅果類(クリ・クルミ・トチなど)のほかエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメ類が栽培されていたことがわかっている。
 また、日本の陸稲栽培は、6700年前まで遡ることができるので、縄文の中期には、イネが中心の農耕共同体ができあがっていたはずである。
 国立歴史民俗博物館が土器に付着した炭化米を放射性炭素年代測定にかけた結果、紀元前10世紀頃のものとわかった(2003年発表)という。
 炭化米が付着した土器が弥生式だったことから、弥生時代を紀元前10世紀まで遡らせる騒ぎとなったが、このことから、紀元前10世紀には米穀が主な農産品の一つだったことが明らかになった。
 農耕儀礼を中心とする原始神道の起源は、縄文時代から弥生時代にかかる紀元前3〜2世紀頃とされてきたが、弥生時代の見直しによって、紀元前10世紀前後へ繰り上げになった。
 稲作と神道は収穫祭(新嘗祭)をとおしてむすびつく。
 すでに稲作がはじまっていた皇紀元年(紀元前660年)には、古代神道もまた一応の完成をみていたはずである。

 縄文晩期から弥生にかけて、水田耕作が普及すると、農業の生産力は大幅に上昇し、集落ごとに穀物の備蓄も増え、吉野ヶ里遺跡の高床式倉庫や物見櫓のような建造物も立てられた。
 吉野ヶ里遺跡は、弥生時代がそっくりあてはまる紀元前三世紀から紀元三世紀までの600年間にわたる遺跡だが、その600年のあいだに、小集落から大集落、小国家から小国家連合のような国家形成がすすんだ。
 東海・北陸をふくむ西日本各地で有力な地域勢力が形成されたのが紀元1世紀頃で、2世紀末から3世紀にかけて畿内でヤマト政権が成立、3世紀中頃から古墳時代に移ってゆく。
 これが、これまでの古代史観で、国家がうまれたのは、稲作農業社会が成立をみた弥生時代とされてきた。
 この歴史認識も見直されなければならない。
 国家および原始神道がうまれたのは、弥生時代以前、紀元前10世紀頃の縄文時代後期だったと思われるからである。
 なにしろ、弥生時代が500年以上、遡ってしまったのである。
 この500年にすっぽりおさまるのが欠史8代である。
 2代綏靖天皇以降、9代開化天皇までの史料が乏しいのは、焼失などの特殊な事情があったのでなければ、天皇が収穫祭を執行する大祭司だったからであろう。
 祭祀王は、祭祀という聖域にあって、政治の舞台に登場しなかったのである。
 いずれにしろ、土器に炭化した米が付着していた紀元前10世紀以降、収穫祭(イネ祭り)が継続的におこなわれてきたはずで、古事記には、天照大神が新嘗祭をおこなった神話が残っている。
 集落ごとのイネの収穫祭は、集落唯一のマツリゴト(政)でもあった。
 ここで、食糧問題としての収穫祭と天皇、国家の三つがリンクする。
 集落が小国家へ発展していくなかで、祭司は、より大きな収穫祭を主宰するようになって、やがて、オオキミ(大王)になってゆく。
 大祭司として収穫祭を執行するオオキミは、新嘗祭をとおして、国家の神と一体化して、あらためて王権の保持者となったことを内外に示した。
 年ごとの収穫祭(新嘗祭)は、オオキミの再生の儀礼、反復される即位式にほかならなかったのである。
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2017年08月18日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」H

 ●神道は究極の平和主義
 神道は、縄文時代の後期から弥生時代にかけて、原型ができあがっていたと思われる。
 神道ということばの初見は『日本書紀(用明天皇紀)』である。
「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」とあって、聖徳太子の父・用明天皇(31代)が外来宗教の仏教と神道を並び立てていることがわかる。
 神道には、創唱者や経典が存在せず、奈良時代以降、仏教との習合が本格化したこともあって、神道本来の思想内容がなかなかつたわってこない。
 特定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついていたことから、地域的・閉鎖的という指摘もあるが、神祇信仰が全国規模で広がっていたことからも、かならずしも、限定的ということはできなかろう。
 神道の特性を挙げてみよう。

1、共同体の安寧を祈るもので、個人宗教とは一線を画す
2、八百万の神々への信仰とアニミズム(万物に精霊が宿る)の類似性
3、「惟神の道(かんながらのみち/神と共にある)」と汎神論(神と自然は同一)の類似性
4、祭祀/祭祀主とシャーマニズム(宗教的職能者を中心とした信仰)の類似性
5、開祖や経典が存在せず、教義・解釈がことばによって明らかにされない(「言挙げせず」)
6、神話(天皇を天津神の子孫とする)と一体化している。
7、禊ぎや祓い、浄めという特有の意識や感覚を有する

 神道は、苦悩や絶望からの救済である仏教やキリスト教とはちがい、来世を見ない現実主義で、浄めによって、すべてを水に流す楽観的な世界観に立っている。
 伊勢神道では、内宮祭神の天照大御神と外宮祭神の豊受大神(天之御中主神や国常立尊)とのあいだで幽契(かくれたるちぎり)がむすばれて、国の形がきまったとされる。
 幽契の内容は、この世を高天原のような理想郷にするというもので、現在を神代の延長としてとらえた思想が中今≠ナある。
 神道においては、地上は、キリストの愛や仏陀の慈悲にすがらなければならないような苦悩の地でも穢土でもないのである。
 キリスト教でも、創造主は、この世を理想の地としてつくったはずである。
 その地が穢れたのは、人間が罪を犯したからというのが、キリスト教の原罪で、そこから、神に許しを乞うという信仰構造と神に選ばれた者だけが天国へいけるという差別的な救済思想がうまれた。
 そこに神道との決定的ちがいがある。
 神道には苦悩、絶望、死の恐怖を抱える個人という視座が用意されていない。
 その意味では、全体主義で、見ているのは、共同体や国家の安泰だけである。
 個人主義がでてくるのは、近代以降で、権力が個人の自由を奪った反動からである。
 そういう事情を度外視すれば、本来、全体の利益は個人の利益につながる。
 国が富めば民も富み、民がゆたかになれば国もゆたかになる。
 そこに個と全体の矛盾はない。
 そもそも、自然界においては、個と全体は矛盾せず、すべてが雄大なリズムのなかを滑らかに回転している。
 そのリズムを壊すのは、個人のエゴで、神道的にいえば穢れである。
 穢れは、禊ぎによって浄化され、水に流される。
 ところがキリスト教では、禁断の実を食べたアダムとイブがエデンの園から追放される寓話や堕落した人類が神の怒りにふれて洪水によって滅ぼされるノアの箱舟という物語をつくって、神に許しを乞うという特有の宗教原理をつくった。
 原罪という足鎖を用意して、人々を宗教の奴隷にしたのである。
 大乗仏教は、輪廻転生という釈迦の思想と儒教の祖霊をくっつけて、人々を二重に拘束して、それを教団の利益にむすびつけた。
 檀家制度は、江戸幕府のキリスト教禁止令とセットになっていて、キリスト教徒ではないという証として広がったのが寺請(証文)だった。
 人為宗教は、神話やタブーを教団の利益にむすびつけるのである。
 神道は、自然崇拝という民族古来の素朴な信仰心がそのまま宗教になったので、人為がはたらいていない。
 記紀の編纂にたずさわった藤原不比等には、天皇を天孫族として権威づける意志がはたらいていたであろうが、神話には脚色がつきもので、それを素直に読むのが純心にほかならず、批判は、あくまで付け足しの小智恵にすぎない。
 神道は約束(幽契)の宗教で、自然と自然の一部である人間が協和しながら自己完結的に生を営むことによって、平和や繁栄という約束が果たされる。
 それが日本人=縄文人(万葉人)の素朴な宗教心で、それが、数千年、数万年に年にわたって、脈々と民族の血のなかで生きつづけてきた。
 身を浄め、穢れを捨て去ることによって、高天原とこの世のあいだの幽契が実現するというのは、究極の楽観論だが、これほど平和で聡明な宗教は世界のどこにもないのである。

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2017年08月17日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」G

 ●祭祀が国体となった日本の宗教性
 神武天皇は、天照大神の5代末裔にあたるので、天照大神は、実史においては、紀元前10世紀前後の神さまということになる。
 その頃、日本は、縄文時代晩期で、中国では周王朝が成立、インドではガンジス川流域に都市国家がうまれている。
 かといって、近代的合理精神がうまれていたわけではなく、人々は、古代的迷信と神話的世界に生きていた。
 日本も同様で、天照大神は、縄文末期の神さまではなく、その当時の人々の心に宿っていた神さまだった。
 天孫降臨は、実史の縄文時代晩期と重なっているが、当時の日本人(縄文人)にとって、5代前は昔々大昔のことで、それが神代であっても、違和感はなかったろう。
 古人にとって、この世は、神が支配するもので、自然の営みも、誕生も死も、人為を超えた奇異なる世界の出来事だった。
 宗教心は、いかに素朴なものであっても、奇異なるものへの畏怖のまなざしであって、それが、シャーマニズムやアニミズム、パンセイズム(汎神論)へつながり、そこから神的世界ができあがる。
 素朴な神的世界というのは、神道や仏教、儒教以前の宗教感情で、縄文時代にはすでに畏れという形でその心根が芽生えていただろう。
 武力などの人為的な恐怖は、飢饉や疫病、天災などの恐怖に比べると取るに足らない。
 本物の恐怖は、人為のおよばない恐怖で、自然の脅威にたいして、ひとは、救済をもとめずにいない。
 人為宗教は、絶対神を立てて、祈りと救済をバーターにする。
 自然宗教(崇拝)では、鎮魂や鎮め、禊ぎ祓い、誓約などにもって、神意にすがる。
 それが祀りで、祀られることによって、神は、和魂としてのすがたをあらわす。
 天皇は祭祀王で、しかも、太陽神(天照大神)は天皇の祖霊である。
 縄文晩期、人々が恐れたのは侵略者や略奪者ではなく、飢饉や日照り、洪水などの天災、疫病だったはずで、尊敬を集めたのは、権力をもった為政者ではなく、荒魂を鎮め、和魂を賑わす祭祀王=天皇だった。
 時代が下った7世紀の天武・持統朝の律令体制において、神祇官が太政官の上位(二官八省)にあったのは、政治より祭祀が重んじられていたなによりのあかしだろう。
 
 神武天皇が辺鄙な橿原で即位して、やがて、大和全域を支配するにいたったのは、武力にすぐれていたからではなく、祭祀王として、畏敬を集めたからだったはずである。
 それが神武天皇から欠史8代の天皇、卑弥呼こと百襲姫、そして三世紀末の第10代崇神天皇へいたる1000年だったのではないか。
 記紀に欠史8代の系譜や墓陵の記録はあるが、事跡は記されていない。
 政治などの表舞台に登場することなく、一生、祭祀に身を捧げ、死後も祭祀の主催者をつとめたのだと思われる。
 欠史8代のほかにも百歳以上の天皇が多いのも、死後において、神=祭祀主をつとめたからであろう。
 祭祀の重要性は、現代人が想像もできないほど大きく、生活、人生の隅々にまで神事が浸透していた。
 宗教感情のなかに畏怖心と並んで崇拝心がある。
 崇拝は、対象に絶対的価値を見出すことで、宗教心の根幹といってよい。
 それが祭祀王である天皇への畏敬心で、天皇が宗教的権威でなければ、日本人の天皇にたいする敬愛心には説明がつかないのである。

 魏志倭人伝に、倭人の習俗について「葬儀のあと人々は水中に入って澡浴(みそぎ)をする」と記されている。
 日本の古来の習俗に「祀り上げ」と並んで「禊ぎ」と「浄め」がある。
 それが宗教以前の素朴なる宗教心で、そこに神道の根本的な精神がひそんでいよう。
 神道では、ゼロが原点で、災いは、その原点が失われたとき襲いかかってくる。
 黄泉の国からもどってきたイザナギが、左目を浄めると太陽女神アマテラスオオミカミ、右目を浄めると月の神ツクヨミノミコト、鼻を浄めると荒ぶる神スサノオノミコトの3柱が生まれる。
 浄めが、穢れを落とす以上の創造的な意味合いをもっていたのである。
 神道に「人は神なり、神は人なり」という思想がある。
 ひとは、純化することによって、かぎなく神に接近してゆく。
 ひとを神から遠ざけているのは、執着という不純さである。
 純化が、修行だったり瞑想だったり、よい心をもつことだったりするだろうが、そのいずれにも、人間の浅智恵がはたらいている。
 ところが、神道は、端的に、浄めをもって、みずからを純化しようとする。
 そのときの心が、はからいから離れた無念無想で、神にいちばんよく近づく。
 純正が神道の根本思想で、浄めによって、思念という穢れを払拭して、純に立ち還れば、すべてうまく回転するというのが神道の予定調和である。
 キリスト教の救済は、滅びから救出されることで、根底にあるのは予定破綻である。
 仏教の救済は浄土で、この世は穢土(六道の一つ)なので、生きて救われることはない。
 親や年上を敬う儒教の孝≠ヘ祖先から末代まで「連続する生命」の自覚といわれる。
 これは、難解な理屈で、理屈で固めるほど純正から遊離してゆくので、儒教ほど不純な思想はないということになる。
 神道には、予め「この世が高天原にようにあるように」という道筋が立っている。
 この予定調和を破壊するのが不純なので、禊ぎや祓いで、純に回帰しようというのである。
 純心であれば、高天原とこの世の約束によって、すべてうまくいき、たとえうまくいかなくとも、最悪の事態は避けられる。
 うたを詠みながら、万葉人が平和に暮らしていたのは、かれらの精神の奥底には、神道の根幹である純≠ェ宿っていたからなのである。

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2017年08月11日

神道と世界最古の文明「縄文文化」F

 ●日本の神話とギリシャ神話
 神道では、死ぬと魂が身体を離れて、モノ(鎮守の森など/祖神)やコト(祭事など/氏神)になり、あるいは、高天原へ帰ってゆく。
 神社の教えに、命は先祖からもらった宝なので、先祖に感謝すべきというのがあるが、これは神仏儒習合の思想であって、神道は、元来、無念無想である。
 神は、物思うという人間のちっぽけな思惟を超えた存在だからである。
「葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国」(柿本人麻呂)とあるように言挙げしないのが神道の本質で、それが仏教(経)や儒教(観念)、キリスト教(ロゴス)と決定的に異なるところである。
 言語化されるのは万物の表層や一部であって、モノ・コトの大半は非言語のなかをただよっている。
 言挙げすることによって、非言語の領域にあるものが見失われる。
 神道は直観の世界でもあって、ことばや理屈(観念)は不在でも、すべてを直観でみとおす。
 わかるものとわからないものがあるのは当然で、本居宣長は、わかることもつきつめてゆくと奇異にぶつかるので、結局、すべてが奇異なのだというふうにいっている。
 古事記を解読した宣長は、昔の人が理解したように理解するのが正しい読み方で、不合理だの辻褄が合わないとケチをつけては、本当に読んだことにならないともいっている。

 神道が仏教や儒教と際立って異なるのが死生観であろう。
 仏教にとって死は輪廻転生の結節点で、儒教にとって死は招魂再生の開始である。
 仏教とって、遺骸はかつての魂の入れ物で、死ねば用がなくなる。
 一方、儒教にとって、遺骸は魂の依りどころ(依り代/魄)で、墓を立ててこれをまもる。
 墓や位牌を大事にする日本の仏教は、インド仏教(小乗)ではなく、儒教と習合した中国仏教(大乗)なのである。
 神道は魂の宗教なので、墓も位牌もないが、仏教のように単体として輪廻をくり返すわけでもない。
 神道にとって、死は生の次のステップで「祀り上げ」によって、神になる。
 ひとは死して神になるが、それには、「祀り上げ」という神的行事が必要なのである。
 それが祭祀やお祭りで、マツリが十分でなければ、霊が悪霊となって災いをもたらす。
 日本の三大怨霊とされる菅原道真は天満宮、平将門は神田明神、崇徳天皇は白峯神宮にマツられて、神になったが、霊を粗末に扱っていたときには様々な災いが襲ってきたという。
 神道の死生観において、死が不浄とされたのは、古墳時代以降で、それまで死者は、神や司祭者と考えられており、冥界も陰惨な世界ではなかった。
 これには、神武天皇と崇神天皇を含めた欠史8代のなかに百歳以上が7人もいることとも関連がある。
 初代神武(127歳)、5代孝昭(114歳)、6代孝安(137歳)、7代孝霊(128歳)、8代孝元(116歳)、9代開化(115歳)、10代崇神(120歳)。
 天皇が司祭者だった場合、崩御されても、司祭者でありつづけることができるので、祭祀体制さえ整っていれば、死せる天皇が生者のごとく扱われる。
 7人の天皇は、死後も、祭祀主でありつづけたのである。
 神道において、死と死体は別物で、死によって魂は肉体から離れるが、肉体は地に還る。
 魂は祀られて神になり、肉体は地に還って、地の滋養となるのである。
 ただそれだけのことだが、記紀では、死が黄泉の国のイザナギ・イザナミのおどろおどろした話につくりかえられている。

 日本の神話とギリシャ神話には多くの共通点がある。
「古事記」は元明天皇(持統天皇の異母妹)の詔により太安万侶が稗田阿礼の誦するところを筆録した(712年)ものである。
 稗田阿礼についって、何の記録も残っていない。
 太安万侶は、正五位上太朝臣安万侶だが、阿礼には姓や官位がない。
 聡明な記憶力を買われて、天武天皇の舎人として仕えるようになったというが、平安初期に編纂された氏族名鑑「新撰姓氏録」に稗田という氏族は載っていない。
 二十八歳にして国史編纂という大事業の主役に抜擢されたとされる稗田阿礼はペンネームで、記紀の編纂にあたったインテリ集団の一人か、責任者だった藤原不比等だった可能性もある。
 唐の成立によってシルクロードが栄え、当時、シルクロードの終着駅である奈良へもキリスト教文明やギリシャ風様式が及んだ。(正倉院・法隆寺)
 萩原朔太郎(『日本への回帰』)は法隆寺に、堀辰雄(『大和路・信濃路』)は唐招提寺にギリシャの影響を見たが、なにより、正倉院にはギリシャやローマ、ペルシャなど異国の宝物が収められている。
 記紀の編纂にあたったインテリ集団がギリシャ神話を知っていてむしろ当然だったろう。
 イザナミを追って黄泉国に入ったイザナギは、振り返ってはならないというイザナミとの約束を破ったため、妻を連れ帰ることに失敗する。
 これは、妻エウリュディケを冥界から連れ帰ろうとしたオルペウスが、振り返ってはならないという約束を破ったため、妻を連れ帰ることに失敗するギリシャ神話(琴座神話)と瓜二つである。
 第12代景行天皇の皇子、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、父の命を受けて九州で熊襲(くまそ)を平定、東国で蝦夷(えみし)などの敵対勢力を平定した帰路、病に倒れて葬られたのち、白鳥になって大和へ飛び立ってゆく。
 これも、恋人レーダーに会うために白鳥に姿を変えた全知全能のゼウス神を思わせる(白鳥座神話)。
 因幡の白兎がとびこえたワニ(和邇)の背中はサメではなく、日本にいないワニで、鰐の背中をとびこえる民話は世界中にある。
 イザナギ・イザナミの黄泉の国の話は、儒教や仏教、ギリシャ神話の知識をもった8世紀の知識人の創作で、かならずしも、古代日本の習俗を語ったものではなかったのである。
 次回以降、祀りと並ぶ神道の特質、禊についてふれよう。

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2017年08月09日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」E

 ●宗教的宇宙観が異なる儒教と仏教、神道
 儒教の背後にある観念論を漢意(からごころ)≠ニして徹底的に批判したのが本居宣長である。
「中国には仁や義、礼など立派な教えがあるが、人々は憎みあい、戦争ばかりしているではないか」というのである。
「物の理(ことわり)は、仕舞いにみな不可思議なところに落ちこんでいくもので、陰陽も太極無極も阿字真如も、なんの役にも立たないただのお喋りにすぎない」
 儒教は、壮大なる観念論で、物事の善悪や是非、物の道理(原理・原則)をとうとうとのべ立てるが、現実や身体、日常性からは大きくかけ離れている。
 宣長は、その空理空論を漢意と称して、排除したのである。
 儒教の世界では、中国が父(大中華)で、朝鮮が兄(小中華)、そして日本は中華思想の外にある夷狄で、侮蔑の対象となる。
 韓国が日本に侮蔑と敵愾心をむきだしにするのは儒教国家だからで、日本にたいして、弟分のくせにという小中華の思い上がりが隠れている。
 韓国の未熟さ、後進性は、儒教の自己中心性によってもたらされたといってよい。
 儒教は、道徳と宗教が背中合わせの構造になっている。
 五常(仁・義・礼・智・信)にたいする五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)がそれである。
 儒教の父子関係は、祖先から末代に連続する生命の一つの局面で、一つの生命が親から子、長から幼、君から臣などの関係へひろがって、社会全体が硬直した年功階層におしこめられる。
 それもまた中華思想で、その頂点が入れ替わるのが易姓革命である。
 父子や君臣、長幼の絶対秩序によって争いがなくなるというのは、空想的な観念論で、中国は、孔子がうまれた覇権主義の春秋時代からやがて群雄割拠の戦国時代へと突入してゆく。

 儒教の生命観は魂魄≠ノつきるだろう。
 死は「魂は天へ昇って魄は地へ帰る」現象だが、儒教には、天国や地獄という考え方も輪廻転生という思想もない。
 いったん天に昇った魂は、空に漂ったあと、地にある魄(白骨/墓)へ舞い戻ってくる。
 それが招魂で、墓を参ることによって、先祖と子、孫が再会する。
 生命は先祖から末代まで直線的につながっているので、墓は、生者と死者の面会所なのである。
 仏教は、輪廻転生なので、生命が連続するという思想も、死者の墓をつくる習俗も、むろん、先祖の墓に参るなどの習慣もない。
 日本の入ってきた仏教は、仏儒習合したのちの中国仏教なので、本尊のほかの先祖霊を祀る。
 それが墓や仏壇で、仏壇のなかでは本尊と父母の位牌が並んでいる。

 儒教と仏教、神道では、死生観や宗教的宇宙観がそれぞれ異なる。
 儒教は天上と地上、地下が一体となった一元的世界で、あるのは時間の連続性だけである。
 仏教は輪廻転生がおこる多元的世界で、六道(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)のほか、六道を超越した浄土までが用意されている。
 神道は高天原と葦原中国、黄泉国の三次元、海の向こうの常世国を入れると四次元のように思えるが、実際には、高天原と中つ国(葦原中国)の二次元である。
 中つ国は高天原の反映で、高天原のようにあれかしというのが神道の理想である。
 これは、プラトンのイデア論に似ている。
 この世のことは、すべて、本質にたいする影のようなもので、見えないところに現象(影)をつくりだす大元があるというのがイデア論である。
 高天原のあるのが、実体なのかイメージなのか、それともエネルギーなのかわからないが、高天原の運動によって、中つ国(この世)でさまざまな出来事がおきる。
 天照大御神は、この世を高天原のようなところにしようと思って、ニニギノミコトを天降らせた(天孫降臨)が、実際にはそうならなかった。
 地上には、大国主命らの国つ神や災いをひきおこす荒魂、祟りなどの悪霊が跋扈していたからである。
 神道で、荒魂や悪霊(祟り)を畏れるのは、いかに神さまでも手に負えないからで、それが、神道が仏教を受容した理由の一つである。

 鎮護国家に蕃神(ばんしん/となりのくにのかみ)を借りてきたのである。
 東大寺大仏がその代表だが、8世紀後半には、こんどは、寺院が神を鎮守や守護神にするようになった。
 興福寺における春日大社がそれで、東大寺も宇佐八幡神を勧請して鎮守(手向山八幡宮)とした。
 ちなみに、七福神も蕃神で、最古の仏教説話集『日本霊異記』では、蕃神が「隣国の客神」とされている。
 神が仏(蕃神)の助けを借りたのが神仏習合で、互いにささえあっている。
 神道には絶対神がいない反面、太陽(天照大御神)はすべてを平等に照らし出すので、異神(蕃神)を寛容にうけいれる。
 仏教には荒魂(天災)や悪霊(祟り)という概念がなく、浄土は完成された世界なので、神は仏に、疫病や天災、飢饉などの災いから逃れるための法力をたのんだのである。
 ちなみに、日本では、儒教の宗教性は仏教に吸収されて、鎌倉時代以降、観念だけが支配階級にうけいれられてゆく。
 大義名分論(名称にもとづく秩序)や朱子学(天の思想や理の自己純化)、陽明学(知行合一)などがそれだが、それがやがて、武士道から尊皇攘夷思想へつながってゆく。
 次回以降、神道と仏教、儒教それぞれの発展過程をみていこう。

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2017年08月07日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」D

 ●日本独自の歴史観をつくれない悲劇
 三内丸山遺跡は、縄文都市で、縄文人は太平洋を股にかける海洋国際人でもあった。
 毛皮を身にまとい、森で小動物を追いまわしていたとする縄文人観は一日もはやく払拭したほうがよい。
「縄文時代」以前を「石器時代」、縄文時代以後を「弥生時代」と呼ぶのは旧い常識だが、三内丸山遺跡は、この常識をも覆した。
 縄文時代は、たんなる時代区分ではなく、世界四大文明を凌駕する人類最古の文明だったのである。
 ところが、膨大な予算と組織をもつ文化審議会(文化財分科会)は、縄文文化が世界四大文明に先駆ける古代文明のであることをみとめようとしない。
 世界文化遺産登録をめざす「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、4年連続で国内推薦を見送られたのはそのせいで、縄文人を原始人とみなす文化審議会の石頭が引退しないかぎり、三内丸山遺跡の世界文化遺産登録は、関係者のかなわぬ夢で終わるだろう。
 さて、その縄文人はどこからきたのか。
 歴史教科書は、日本が大陸と陸続きだった時代、大陸からやってきた人々が日本人の祖先になったと説明する。
 そして、中国が父で、朝鮮が兄、日本が末子という固定観念を捨てることができない日本の歴史家は、文明が、中国から朝鮮半島を経て日本へつたわったという自虐史観をふりまわす。
 日本独自の歴史観がうまれてこないのは、韓国や中国の歴史観とすりあわせるのに懸命で、日本の縄文文明の核心を見ようとしないからである。
 それどころか、韓国や中国の歴史ねつ造につきあい、あっちこちで辻褄の合わないことになって、貝のように沈黙するだけである。

 日本の歴史学者は、稲作が、弥生時代、朝鮮半島からつたわったと主張してきたが、実際は、その逆だったことは、本ブログBですでに指摘した。
 そして、こんどは任那の存在について、韓国と日本の歴史家の大嘘がバレた。
 戦前の日本の歴史教科書には、朝鮮半島南部の地域が任那と記され、日本が半島の一部を支配していたという歴史観が明治時代から60年間つづいてきた。
 ところが、この記述は、韓国側からのクレームで見直されて、任那があった伽耶地方は「小さな国に分かれていた」という意味不明な表記に変更された。
 むろん日本の支配下にあったなど一言も触れられていない。
 日本が朝鮮半島を支配した事実を否定する韓国の歴史ねつ造に日本が従ったのである。
 1990年以降、朝鮮半島の南部で13の前方後円墳が発見されている。
 韓国の歴史学会やマスコミは、一時、日本の前方後円墳のオリジナルは朝鮮半島にあったと大騒ぎしたが、これらの古墳が、五世紀末から6世紀につくられたものとわかって、調査を中断、なかには古墳を破壊してしまったケースもあったという。
 日本に4800基ある前方後円墳は、3世紀からはじまって、6世紀末にはつくられていない。
 大和朝廷の全国統一が完了したからである。
 このことから、前方後円墳が、大和朝廷の勢力範囲を示すモニュメント的な建造物だったとわかる。
 大和朝廷に服する意思表示として、あるいは、大和朝廷の一員であることを内外に示す証として、大和朝廷の高官や豪族、支配権を与った首長などが判で押したように前方後円墳をつくったのである。
 韓国南部で前方後円墳がみつかったのは、日本府があった任那で、この地に前方後円墳があったということは、大和朝廷の勢力範囲が半島南部(伽耶)の全域におよんでいた何よりの証拠である。
 日本の歴史学者はこれを何と説明するおつもりか。
 日本が、伽耶地方の任那に日本府をおき、百済と同盟関係をむすんだ理由の一つに中国南朝 (宋・斉・梁・陳)とその後の隋との関係をあげることができる。
 日本と南朝、隋との外交関係に欠かせなかったのが、海洋経路の途中にある伽耶と百済だった。
 当時、南朝や隋、百済は、大国で軍事国家だった高句麗の脅威にさらされており、日本も高句麗と戦火を交えている。

 聖徳太子が隋の煬帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」(607年)という国書を小野妹子にもたせ、怒りを買った(帝覧之不悦)といわれるが、卑屈な憶測にすぎない。
 隋にとって日本は、ともに高句麗を敵とする同盟国であって、そんなことに腹を立てる余裕などなかったはずで、事実、隋は、10年後、唐に滅ぼされて(618年)いる。
 唐・新羅連合軍は白村江の戦いで百済復興を目指す百済遺民と日本の連合軍を破る(663年)と668年には高句麗を滅ぼしている。
 日本が朝鮮半島に領土をもっていなければ、国境を破って、新羅の朝貢国にしたり、高句麗と戦ったりできるはずはないが、日本の歴史家は、伽耶地方の日本統治や任那の日本府をいまなお否定しいる。
 韓国側から「申し入れがあったから」というのだが、そこに、本ブログの第二のテーマである「神道・仏教・儒教」の葛藤がある。
 中国を父、朝鮮を兄としてみる日本の卑屈な態度の根底にあるのが儒教である。
 次回以降、「神道・仏教・儒教」の葛藤へと論旨をふりかえていこう。

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2017年08月02日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」C

 ●日本文明の土台は縄文文化
 縄文文化を代表する遺跡が三内丸山遺跡(青森県青森市)である。
 全国に縄文遺跡は数多くあるが、三内丸山ほど大規模で、人々の生活形態が浮き彫りになっている遺跡は他に例がない(2000年特別史跡に指定)。
 大規模な竪穴住居や掘立柱建物の建設には、労働力や団結力、指導力のほか高い技術力が必要となる。
 縄文人は、ことばのほか、抽象的な観念ももっていたのである。
 縄文時代前期から中期(約5,500年〜4,000年前)にかけて、これほどハイレベルな文明があったことに、縄文人=原始人と思いこんでいた考古学・歴史学会は大きな衝撃をうけたはずである。
 計画的な集落設計、舗装(アスファルト)道路と墓列などの大規模な造成のほか、高床式倉庫跡や貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場などもみつかっていることから、三内丸山遺跡にいまや「縄文都市」という冠辞がつけられている。
 縄文土器(鉢類や皿)、石器(やじり、槍、磨製斧)、木器(掘棒や朱漆)のほか袋状編み物(ポシェット)、編布、土偶、石や木製の装身具、骨角牙貝製器(針、釣り針、刺突具)などが次々に出土して、当時の人々の暮らしが徐々に明らかになりつつあるが、驚くべきは、堅果類(クリ・クルミ・トチなど)のほか、一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメまでを栽培していたことである。
 縄文人は、毛皮を身につけて森で獣を追っていたとする日本の考古学会との乖離は甚だしいものがあるが、文化審議会などの学者グループは、三内円山遺跡の世界遺産への推薦を頑強に拒みつづけている。
 西洋の古代観を裏切る日本の高度な縄文文化を意地でもみとめたくないのである。

 縄文人が方向・計数感覚にすぐれた海洋民族だったこともわかってきた。
 三内丸山遺跡のシンボルである3層の掘立柱建物は、6本の巨大木柱を組み合わせた三階建ての建造物で、柱穴の間隔が4.2mに統一されている。
 4.2mは35p(縄文尺)の12倍で、4.2mを3尺、4尺、5尺で折り返せば直角三角形(ピタゴラス三角形)ができ、直角(90度)がえられる。
 三内丸山遺跡の6本の木柱は正長方形に配置されていることから、かれらがピタゴラス三角形を知っていたと考えるほかない。
 かれらが数学力をもっていたのは、海洋民族だったからで、航海には星座を読む幾何学のほか、方位や暦の知識ももとめられる。
 3層の掘立柱建物の使用目的はわかっていないが、これが灯台か、漁業用の物見やぐらだったことは、立地条件から明らかだろう。
 当時、三内丸山は海岸線に隣接しており、体長1mのマダイやマグロ、ブリなどの骨のほか、釣り針やモリ(骨器)、1mのオールも出土していることから沖合で大型魚を捕獲していたことがうかがわれる。
 船は、丸太の双胴船かアウトリガー(舷外浮材)付きの丸太船で、それなら波の荒い外洋航海に耐えられる。
 太平洋諸島の先住民は、アジア南部からアウトリガー付き丸太船を使って移動してきたと考えられているが、南太平洋では、現在もアウトリガーの付きカヌーを見ることができる。
 縄文人が外洋航海を得意としていたことは、糸魚川でしか産出されない翡翠や産地(長野・静岡・神奈川・伊豆七島)が限定されている黒曜石が出土していることから明らかである。

 縄文人は海洋民族でもあって、文化の伝播も、陸路ではなく、海路だった。
 世界最古の日本の縄文土器は、朝鮮半島をはじめ日本列島から6000Kmも離れた南太平洋のバヌアツ共和国(エファテ島/1996年/太平洋考古学の篠籐喜彦博士)、中米エクアドル(1965年/バルディビア遺跡/クリフォード・エヴァンス、ベティー・メガーズ博士夫妻博士夫妻)にまでひろがっていたという。
 篠籐博士が発見したバヌアツ共和国の縄文土器は、成分分析の結果、5000年前に青森県で焼かれた円筒下層式土器である事が証明された。
 縄文土器はおよそ1万4000年前にうまれ、簡単なものから徐々に複雑な模様に変化していったが、エクアドルで出土した土器は、発展過程がなく、とつぜん複雑な縄文式土器が出現している。
 このことから、エヴァンスとメガーズ博士夫妻は、縄文人が土器文化を携えて太平洋を渡って移住してきた可能性が高いと発表している。
 縄文人の太平洋横断を可能にしたのは海流である。
 日本付近から黒潮にのると約2か月でアメリカ西海岸に到達する。
 サンフランシスコ沖からカリフォルニア海流にのって南下、赤道反流に乗り移ると、次にぶつかるのが、バルディビア土器が発見されたエクアドルあたりである。
 海流速度や風力、手漕ぎのスピードを計算すると、アウトリガー式の丸木舟で、日本からエクアドルまで約6か月で到着できるという。
 食糧は船陰に集まってくる魚で、水は10日に1度の割合で降る雨を貯める土器が役に立ったはずである。
 寒冷化による飢饉、噴火や大地震による縄文人の難民となって、命からがら外洋に出て、その一部が南米や南太平洋へたどりついた可能性を否定することはできない。
 縄文人は、海を生活圏とする海洋民族で、すぐれた航海技術をもち、太平洋を股にかけて海洋交易をおこない、地球の反対側にまで文明をつたえていたのである。
 日本人は、日本文明の土台が縄文文化にあったことに一日も早く気づくべきだろう。

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