2020年07月08日

官僚国家ニッポンの悲劇D

 ●社会保険事務局が工作した静和病院冤罪事件
 2010年3月10日、静岡地方裁判所は、静和病院の吉田晃元院長と水谷信子元事務長に、健康保険法違反と詐欺罪の有罪判決を下した。
 それぞれ、懲役6年6月、5年6月という殺人罪並みの重刑だった。
 だが、この判決で、健康保険法(「15対1入院基本料の施設基準」)違反の具体的事実や違反した数値、証拠や根拠が明らかにされることはなかった。
 それどころか、このとき、静岡地裁は、静和病院一般病棟(55床)の適正看護師数を19人と誤った上で、有罪を宣するという、司法史上、前例のない醜態を演じた。
 適正看護師数は、静岡社会保険事務所が静岡県警に陳述したとおり、9人である。
 なぜ、静岡地裁と静岡地検は、適正看護師数を19人とする致命的なミスを犯したのか。
 平成18年4月以降、新法(15対1入院基本料の施設基準)を適用させるべきところを、旧法(3対1)を適用させたからである。
「3対1基準(旧法)」と「15対1基準(新法)」では、数値が異なる。

 ●新法「15対1入院基本料の施設基準」の適正看護師数=9人
   計算/55床÷15×3(8時間3交代)=10・999…(11人時間)
   ※夜勤2人は16時間勤務のため実質9人
 ●旧法「3対1基準」の適正看護師数=19人
   計算/55床÷3=18・333…(19人)


 本来なら、法令誤認の事実が判明した時点で、原判決破棄の差し戻しとならねばならない。
 だが、司法は、みずからの誤りをみとめようとせず、再審請求は却下された。

 静和病院事件の共犯者で、元院長と元事務長を主犯と告発、執行猶予処分をうけた木口崇は、公判で、静和病院一般病棟55床の必要看護師数を19人と証言している(木口レポート)。
 検察や裁判所が、必要看護師数を19人と誤認したのは、木口証言を真実としたからである。
 木口の第三回公判調書(平成20年〈わ〉第533号)にこうある。
 松枝検察官「15対1の基準というのは、平成18年4月の改正までの基準だと、3対1に相当するわけですよね」 
 木口「はい」
 吉田・水谷裁判の判決文でも「従来の3対1基準に相当する『15対1入院基本料の施設基準』」という文言が幾度となくくり返されている。
 木口は、強制捜査直前、静和病院を退職して、西伊豆病院に転職している。
 西伊豆病院は、吉田晃が、補助金の不正受給があったとして、国会で問題にさせた熱川温泉病院と同系列(社団健育会)の病院である。
 木口が、なぜ、吉田院長と敵対関係にあった健育会系の西伊豆病院へ移ったのか。
 西伊豆病院が木口をとりこみ、静岡県警に協力させて、静和病院院長の吉田晃を陥れたとみるのが自然だろう。

 看護師不足は、行政指導の範疇にあって、ほとんどの行政が放置していた。
 看護師が不足している病院は、山ほどあって、行政指導が追いつかないのである。
 ところが、静和病院事件では、静岡社会保険事務局と県医務室が静岡県警の強制捜査にくわわった。
 理由は、生活法で刑罰のない健康保険法違反を根拠に、強制捜査をおこなうことはできなかったからである。
 強制捜査には、刑法上の犯罪である詐欺容疑が立っていなければならない。
 詐欺罪の前提となるのが健康保険法違反だった。
 健康保険法違反にもとづいて診療報酬の不正受給がおこなわれ、なおかつ、同不正受給が、欺罔(だまし)や計画性にもとづくと判定されて、はじめて、詐欺容疑が成り立つ。
 静岡県警が、強制捜査前に、詐欺容疑を立てることができたのは、静岡社会保険事務局が静和病院の健康保険法違反を認定、告発したからだったのである。
 静岡県警は、看護師数が足りないとする健康保険法違反と、診療報酬の不正受給、詐欺容疑を三重につなぎあわせて、静和病院の吉田院長と水谷事務長を送検、静岡地検は、健康保険法違反を誤認したまま起訴、静岡地裁は、必要な看護師9人を19人と錯誤して、院長と事務長に殺人犯並みの重刑を科したのである。

 でためな判決がまかりとおった理由は、強制捜査に、静岡社会保険事務所がくわわったからだった。
 旧社会保険事務所は、厚生労働省の外局だった旧社会保険庁の傘下にあって、保険料の徴収や保険給付、保険給付裁定、被保険者資格得喪の認定など、国や厚生労働省の健康保険事業を代行する専門機関として、もっとも権威をもっていた。
 社会保険事業の権威である静岡社会保険事務局が、強制捜査にくわわったことによって、健康保険法違反が既成事実とされた。
 静和病院の健康保険法違反は、静岡県警と静岡社会保険事務局の談合だったのである。

 静和病院が強制捜査をうけたのが、平成20年4月である。
 社会保険庁が廃止されたのは平成21年で、同庁の業務は、翌22年、特殊法人「日本年金機構」にひきつがれている。
 年金記録問題などの不祥事や、社会保険庁のオンライン化(平成19年)にともなうコンピュータ入力のミスや不備が多いことなどずさんな管理が国会やマスコミで批判されて、自民党政権が倒れる騒ぎにまで発展した。
 社会保険庁のオンライン化計画にたいして、社会保険職員労働組合が「独占資本のための合理化である」として反対したばかりか、労働強化反対と称して集団サボタージュを正当化させる覚書を取り交わしていたことまでが明らかになった。
 社会保険庁(社会保険事務所)が、当時、健康保険法の正しい適用法を管轄しえただろうか。
 社会保険事務所は、静岡県警の事情聴取にたいして「15対1入院基本料の施設基準」の看護師数が9人であると陳述している。
 ところが、静岡社会保険庁も静岡県警も、検察や司法の法令誤認を見て見ぬふりをして、世紀の大誤審を誘導した。
 静和病院冤罪の原因は、健康保険法を私物化して、静和病院を潰し、無実の吉田元院長と水谷元事務長に殺人罪並みの重刑を誘導した厚生省・旧社会保険庁にあったのである。
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2020年07月05日

官僚国家ニッポンの悲劇C

 ●社会保険事務局の犯罪/静和病院冤罪事件A
 伊豆半島で最大級の病床数(307床)を有していた静和病院(熱川市)は6階建て2棟の大病院で、当時、多額納税の病院として知られていた。
 施設や設備も充実していて、日経新聞(2004年3月8日)に発表された「経営充実度」病院ランキングで、静和病院は、聖路加国際病院ら名門と肩を並べて、全国8位(関東3位)という高い評価をえている。
 その静和病院の院長と事務長に、それぞれ、6年6月と5年6月の懲役刑が科せられた。
 看護師数を規定する健康保険法の違反から診療報酬の不正受給と詐欺罪を推認されたのである。
 看護師が足りないというどこの病院もかかえている問題から、なぜ、そんな重刑がとびだしてきたのか。
 今回は、そのミステリーを解いてみよう。
 ところで、実際に看護師は足りなかったのか。
 源泉徴収簿兼賃金台帳によれば、静和病院では、1日平均60人の看護師が勤務についていた。
 若い看護師助手も約50人以上在籍していた。
 源泉徴収簿兼賃金台帳によると、当時、静和病院には、約82人の看護師が登録されていた。
 看護師の出勤日数は、平均22日なので、1日当たり出勤者数は55人強となる。
 源泉徴収簿兼賃金台帳には、健康保険料、厚生年金、所得税、住民税などの控除額が記載されている。
 給与のほか、勤務日数を記録した給与元帳もついている。
 源泉徴収簿兼賃金台帳をみるかぎり、静和病院に看護師数の不足はみとめられない。
 たとえ、看護師が、多少、少なくても、それが刑事事件に発展したケースは日本の医学史上、前例がない。
 しかも、科せられたのは、殺人罪並みの重刑である。
 背景にあったのが、県や医療行政との摩擦であった。
 医療費の不正受給については、通常、社会保険事務所と医療機関のあいだで手続きがおこなわれ、返済や課徴金などで行政処理される。
 げんに20億円に上る診療報酬を不正受給していた静岡県の熱海温泉病院や50億円をこえる不正受給が発覚した愛知県の医療法人「豊岡会グループ」ですら、責任者の逮捕、起訴にはいたっていない。
 院長と事務長に重刑が科されたこの静和病院事件で、不正受給したとされる診療報酬金額は8700万円である。
 豊岡会グループ50億円の57分の1である。
 にもかかわらず、院長と事務長に重刑が科された。
  静岡県にとって、静和病院は、もともと、厄介な存在だった。
 静岡県は、静和病院の療養病棟252床を老人ホームにきりかえるようもとめた。
 入院患者のほぼ全員が県外からの移入者であるにもかかわらず、静和病院が保有する307床によって、静岡県が、病床数の制限(基準病床数制度/厚生労働省)をうけるからだった。
 吉田晃はこれを拒絶した。
 静和病院に、静岡県警と静岡社会保険事務所、県の医療課による合同捜査が入ったのは、その数か月後である。

 平成13年、吉田晃は、元県知事の秘書を介して、民主党の木下厚に、熱川温泉病院の補助金問題を国会(第153回衆議院厚生労働委員会)で取り上げさせた。
 そして、熱川温泉病院から補助金6億円を返還させた。
 このとき、木下代議士はこんな質問をおこなっている。
「もう一つ。この熱川温泉病院を経営している健育会は、全国に九つの病院やクリニック、特別養護老人ホームをもっています。このグループにはさまざまなうわさがあります。先代の理事長は茨城県出身です。そこから、茨城県出身の厚生族の大物国会議員がバックにいるということで、かつて、何回も問題になったことがあります。今回の案件について、政治力がはたらいたのではないかという指摘がありますが、その辺はどうですか」
 茨城県出身の大物国会議員というのが、熱川温泉病院と顧問関係をむすんでいた厚労族のドン丹羽雄哉(第75・83・84代厚生大臣)である。
 補助金を取り上げられた熱川温泉病院の遺恨は深かった。
 それ以上に腹を立てたのは丹羽雄哉だった。
 顔をつぶされた上、国会で難癖までつけられたのだ。
 さらに吉田晃は、静岡空港(平成21年開設)の反対運動を支援して、計画をすすめていた石川嘉延知事を激怒させている。
 石川知事は、熱川温泉病院の民事訴訟で、保健衛生部医務課長とともに被告席に座らされてもいる。
「静和病院をつぶしてやる」
 元静岡県山本敬三郎知事の秘書で、熱川温泉病院の補助金問題で国会質問をしかけた吉田院長のパートナー、飯田忠雄は、石川知事の呪詛のことばを耳にしている。
 決定的だったのは、静岡県とやりあって、税金(所得税)の納付先を大阪にきりかえたことだった。
 県に逆らい、県の利益になんら貢献しない静和病院など、静岡県から消えてくれたほうがよかった。
 静岡県にとって、静和病院は、怨恨の対象でしかなかったのである。
 ちなみに、飯田元秘書は、その後、自殺をとげている。
 静和病院が強制捜査をうけたのが、平成20年4月である。
 社会保険庁が、連発する不祥事のため、廃止されたのは平成21年で、同庁の業務は、翌年、特殊法人「日本年金機構」にひきつがれている。
 社会保険庁(社会保険事務所)が、はたして、健康保険法の正しい適用法を指導しえただろうか。
 次回は、社会保険庁に静和病院の健康保険法違反を告発する資格があったか否かを問おう。

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2020年07月01日

官僚国家ニッポンの悲劇B

 ●社会保険事務局の犯罪/静和病院冤罪事件
 伊豆半島で最大級の規模と設備を誇った静和病院(307床)が静岡県警や県医療室、社会保険事務局による強制捜査(100人規模)をうけたのは平成20年(2008年)4月23日のことである。
 数台のトラックがのりつけて、カルテなどの医療や医務、保険関係の資料を根こそぎ押収して、その後の診療や医療業務に支障をきたしたほどだった。
 容疑は、2年前の平成18年4月に改正された健康保険法の違反と同違反にもとづく詐欺罪だった。
 改正された健康保険法(「15対1入院基本料の施設基準」)は、看護師数の規定で、静和病院一般病棟(55床)では、看護師の員数がこの基準に足りていなかったというのである。
 そして、新健康保険法違反にもとづく診療報酬の不正受給が計画的だったとして、詐欺容疑が適用された。
 源泉徴収簿兼賃金台帳によると、当時、静和病院には、約82人の看護師が登録されていた。
 看護師の出勤日数は、平均22日なので、1日当たり出勤者数は60人強ということになる。
 源泉徴収簿兼賃金台帳には、健康保険料、厚生年金、所得税、住民税などの納付額や控除額が記載されている。
 給与明細のほか、勤務日数などの基礎データも記録されている。
 看護師の勤務実態を知るにあたって、源泉徴収簿兼賃金台帳以上に信憑性がある資料はない。
 源泉徴収簿兼賃金台帳をみるかぎり、静和病院において、全病棟にわたって看護師の不足はまったくみとめられない。
 ところが、吉田晃院長と水谷信子事務長に、有罪判決が判決が下された。
 罪状は、看護師が足りなかったとする健康保険法違反、および、同法違反にもとづく詐欺罪である。
 しかも、殺人罪並みの重刑で、吉田晃は懲役6年6月、水谷信子は懲役5月6月で、静和病院は、その後、廃院となって、巨大な廃墟が野ざらしになっている。
 看護師数が足りなかったかもしれないという、どこの病院でもかかえている容疑でこの仕打ちである。
 ちなみに、再審請求(榎本哲也弁護士)においては、看護師数が足りていたことが完全に証明されている。
 驚くべきことだが、本裁判では、看護師の勤務実態を示す唯一の公的資料というべき源泉徴収簿兼賃金台帳が証拠提出されていない。
 源泉徴収簿兼賃金台帳を証拠提出すれば、静和病院に健康保険法違反がなかったと一発でバレてしまうからである。
 有罪にするには、社会保険事務局から、健康保険法違反を宣告してものらうほかない。
 かかる経緯から、静岡県警の強制捜査に、社会保険事務局がくわわることになった。
 健康保険法違反があったか否かを判断できるのは、社会保険庁の地方機関である社会保険事務所だけである。
 健康保険法は、社会保険事務所の専管事項で、違反の判断から処分方法まで国から一任されているからである。
 健康保険法は、解釈や適用、手続きなどが複雑で、社会保険庁の判断に拠るしかない。
 強制捜査に社会保険事務所がくわわったのは、静和病院の健康保険法違反を既成事実とするためで、静岡社会保険事務所は、こうして、静岡県警の下請けとなった。
 なぜ、静岡県警が静和病院つぶしにまわったか、その事情や背景については、次回、詳説しよう。
 
 健康保険法のような社会法を根拠に、強制捜査をかけることはできない。
 警察が強制捜査をかけるには、詐欺罪のような刑法にもとづかなければならない。
 事実、静岡県警は、強制捜査に際して、詐欺容疑を立てている。
 詐欺罪を成立させるのは、健康保険法違反が確定していなければならない。
 健康保険法違反にもとづく診療報酬の不正受給が計画的だったことが明らかになって、はじめて、詐欺容疑が立つ。
 静岡社会保険事務所は、静岡県警に、静和病院が健康保険法に違反していることを担保するために強制捜査にくわわったのである。

 強制捜査の2か月前、静岡社会保険事務局は、静和病院の看護師数が足りている旨、静岡県警に報告している。
 静岡社会保険事務局が、平成20年2月26日、静岡県警の「捜査関係事項照会書(下田警察署長小林達視)」にたいして、回答した文書に、つぎのような数値が記載されている。

 看護要員の数:看護師35人、准看護師40人、看護補助者78人

 静和病院の看護師数が足りていると知っていた静岡社会保険事務局は、いかなる根拠、経緯から、強制捜査にくわわったのであろうか。
 ちなみに、平成20年2月26日以降、強制捜査に入った4月23日までの2か月間に、静岡社会保険事務局が静和病院に査察に入った形跡はない。
 それでは、静岡社会保険事務局は、いかなる根拠をもって、静和病院の健康保険法違反を判断したのであろうか。
 わたしは、令和2年2月10日、静和病院元院長吉田晃と同院元事務長水谷信子と連名のもと、加藤勝信厚生労働大臣へ質問状を送付した。
 内容は以下である。

 1、静岡社会保険事務局は、静和病院にたいする静岡県警の強制捜査(平成20年4月23日)にくわわったか否か
 2、静岡社会保険事務局は、捜査関係事項照会書に、静和病院の看護師数を75人と回答した平成20年2月26日以降、静岡県警の強制捜査(平成20年4月23日)までの間に、静和病院へ立ち入り検査をおこなったか否か
 3、強制捜査の段階(平成20年4月23日)で、静和病院(一般病棟55床)に健康保険法違反があると判断した根拠はなにか

 
 イエスかノーか、あるいは、箇条書きですむ回答だが、返事はまだない。
 次回は、静和病院がらみで、政と官が癒着して、日本の政治を歪めていったか、その経緯をもういちどながめてみよう。
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2020年06月22日

官僚国家ニッポンの悲劇A

 ●官僚+官公労がつくった働かない公務員
 藤原弘達が『官僚の構造』のなかで、松本清張の『現代官僚論』を引用している。
 そこにこうある。上級公務員は「仕事については事大主義、消極、保守、非能率」「自己と周囲の関係としては、保身、出世、縄張り争い、派閥と階級性」「外部の下の者、つまり国民にたいしては、不親切、蔑視、支配観念」「自己より上の方には、無抵抗、従順、迎合、卑下、阿諛(へつらい)」といった性格をもっている。
 その他、官僚主義には、一般的に次のような批判がある。
「規則万能(規則にないからできない)主義」「責任回避や自己保身(事なかれ)主義」「秘密主義(情報の独占と隠蔽)「前例主義(前例にないからできない)」「画一的傾向(新しいことはやらない)」「権力主義・権威主義(権威や権力への接近/天皇の官僚からGHQの官僚への転進)」「文書主義(不必要な文書やデータを作成、保管することを業務と心得る)」「セクショナリズム(タテ割り行政や専門外管轄外の業務の回避)」などなど。
 もともと、官僚は、生産性がなく、ひたすら、税金を食うだけである。
 資本の論理や市場原理からも切り離されて、共同体意識ももっていない。
 ということは、モラルや常識、人間性を欠いているということで、かれらの社会的な地位をささえているのは、唯一、学歴だけである。
 どんなに下劣な人間でも、東大法卒で、国家公務員総合職(旧一種)試験に合格すれば天下のエリートで、順風満帆の人生が約束される。

 日本は、大昔から律令国家・太政大臣の国で、官僚は、天皇の手足のような存在であった。
 天皇という絶対権力のもとに権力行為を代行する官僚群がいて、両者の力がかみあって、はじめて、国家がなりたつのである。
 ちなみに、聖徳太子の17条憲法は、天皇に仕える官僚の心構えをのべたものである。
 官僚の究極は「宦官」で、天皇にお仕えするにあたって、去勢までする。
 官僚は、奉仕する相手がいて、存在価値が生じるが、仕える御主人がいない場合、壮大な根無し草になる。
 戦後、霞ヶ関は、天皇の官僚から、もののみごとに、GHQの官僚へと豹変した。
 GHQが驚いたのは、官僚の優秀さ以上に、昨日まで憎き敵だったGHQに献身的に尽くす官僚の変わり身のはやさだった。
 御主人が天皇であれ、軍部であれ、GHQであれ、官僚は、下僕であるかぎりにおいて、もちまえの能力をいかんなく発揮する。
 官僚が仕えるのは、天皇や軍部、GHQのような絶対権力で、寄り添う権力が大きいほど、えられる権限や権益も大きくなる。
 官僚に異変がおきたのは、サンフランシスコ講和条約がむすばれてGHQが日本から去ったあとである。
 官僚は、GHQという御主人様を失って、宙ぶらりんの状態になった。
 官僚が仕えるべき新しいご主人は、国民でも自民党政権でもなかった。
 エリート官僚に公僕精神などという殊勝な心構えなどあるはずもなかった。
 天皇が象徴となって、GHQが去った戦後日本で、官僚は、主人をもたない強大な権力機構として、霞ヶ関にそびえたった。
 そして、官僚は、みずからを主人として、官僚の、官僚による官僚のための政治を開始する。
 日本の戦後政治の主役は、永田町(政界)ではなく、霞ヶ関(官界)だったのである。

 戦後日本で、もう一つ、激変したのが労働運動、組合活動だった。
 1947年2月1日に実施される予定だったゼネラル・ストライキは、共産党と労働組合幹部による「民主人民政府」の樹立をめざしたもので、GHQのマッカーサー最高司令官の中止命令がでていなかったら、吉田内閣がふっとぶどころか、革命がおきていたかもしれなかった。
 日本共産党やマルクス学者らに指導されてきた日本の組合運動は、賃上げや労働者の権利拡大をこえて、共産主義革命をもとめるもので、当初、GHQがめざした日本の民主主義化とは方向が異なっていた。
 日本の組合運動は、ブルジョワ革命(民主主義化)を一足飛びした社会主義革命で、つねに、政権奪取を視野におさめている。
 英米の労働運動とはちがって、日本の組合活動は、後進国並みの階級闘争や文化大革命のおもむきがつよいのである。
 公僕意識を捨て、左傾化した権力組織が、自治労(全日本自治団体労働組合)と国公労連(日本国家公務員労働組合連合会)などで、赤旗を振って転落した官がおこした事件が消えた年金≠フ「年金記録」問題だった。
 資本主義において、勤労は、美徳であり、冨の源泉である。
 ところが、マルクス主義では、勤労や労働は、資本家に搾取されるものとあって、労働者は、立ち上がって、資本家を倒さなければならない。
 このアンモラル(不道徳)なマルクス主義が、5000万件の年金とともに社会保険庁を消滅させたが、赤化官僚は、懲りることなく、シロアリのように日本という国の大黒柱を侵食している。
 男女共同参画社会基本法や人権法案から、外国人参政権法案や外国人参政権法案、道州制や夫婦別姓、皇室の民主化まで、反日法案を陰ですすめているのは役人である。
 マスコミ(日本マスコミ文化情報労組会議)から官庁(自治労・国公労連)にいたるまで、日本および日本人は、組織的な左翼組合運動に脅かされつづけている。
 日本人は、日本が、マルクス主義という前世紀の亡霊に食い荒らされていることにもっと注意ぶかくあってよいだろう。

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2020年06月16日

官僚国家ニッポンの悲劇@

 ●日本を「IT後進国」にした官僚と労組
 新型コロナウイルスの影響で売上高が半減した中小企業に最大200万円を支給する「持続化給付金」の民間委託に不信の声があがっている。
 1つは、経済産業省が大手広告代理店の電通に丸投げした事業内容や構造が不透明なことと、給付金の支給が、例によって、遅滞していることである。
 2020年4月、経済産業省は、競争入札で一般社団法人サービスデザイン推進協議会へ「持続化給付金(769億円)」の委託をきめた。
 するとサービスデザイン推進協議会は、これを電通に再委託(749億円)した。
 そして、電通は、子会社5社に再々委託して、さらにそこから人材派遣会社パソナやITアウトソーシングの大手のトランスコスモス、大日本印刷などへ業務が外注された。
 サービスデザイン推進協議会ばかりか、電通の子会社らも、それぞれ、コミッションを抜いていたわけだが、国家の給付金事業に、多くのエージェントがくちばしをつっこんで利を漁る構造はいただけない。
 しかも、競争入札で指名をうけて、20億円を中抜きしたサービスデザイン推進協議会が、電通やパソナらがつくったペーパーカンパニーだったというのでは、この丸投げが、経産省ぐるみの悪だくみだったと白状したようなものである。
 もう1つは、業務の遅れで、全国民に一律10万円が支給される「特別定額給付金」と同様、事務処理に手間取って、振込みが遅々としてすすんでいないことである。
 アメリカでも、1人当たり最大1200ドル(約13万円)の給付金支給がきまったが、トランプ大統領が関連法に署名した半月後、対象者約8000万人の銀行口座へ現金が振り込まれた。
 ドイツでは、総額約7500億ユーロ(約90兆円)の経済対策を決定したのち、従業員の解雇や経営破綻を防ぐため、簡素化したオンライン申請方法を導入して、大半の対象者が、申請から2日後に助成金を受け取ったという。

 日本で、行政の事務処理が滞る最大の原因は、デジタル化の遅れにある。
 海外メディアは、厚生労働省と全国の自治体が、PCR検査のデータの一部をファックスでやりとりしている事実を、驚きをもって報じた。
 韓国の『中央日報』は日本を「IT(情報技術)後進国」と断じたが、その根拠の一つとされたのが、ITを知らない「IT政策担当相」の竹本直一(元建設省キャリア官僚/79)とパソコンを使ったことがないサイバーセキュリティー戦略本部担当相(五輪担当相と兼務)の桜田義孝(70)の登用だった。
 世界は「IT(情報技術)」や「AI(人工頭脳)」、「5G(第5世代移動通信システム)の時代で、欧米と中国の全面対決に韓国やアジア諸国が参戦する構図になっているが、日本は、世界から一周遅れとも二周遅れともいわれている。
 素材や部品、工作機械で、世界経済をリードする日本経済が、なぜ、ITやAI、5Gの分野で、ここまで、後退してしまったのであろうか。
 そのことと、日本が、世界の最たる官僚国家であることを切り離して考えることはできない。

 2007年、国会で、登録者が不明な年金記録が5000万件にもたっすることが明らかになって、大問題となった。
 年金記録漏れの原因は、手書き原簿からコンピュータに入力する際のミスが原因で、責任は、すべて、当事者たる社会保険庁にある。
 といっても、実際にパソコンを使って作業をおこなったのは、社会保険庁の職員ではなく、アルバイトの主婦や学生だった。
 社会保険庁の職員が、国民年金のオンライン化計画という重要な業務をアルバイトにまかせっきりで、十分な管理もおこなわなかったのは、コンピュータ導入にあたって、社会保険庁と自治労がとんでもない覚書を交わしていたからだった。
 その覚書には、労働強化にならない配慮とあって、具体的に「キーボードを45分操作したら15分休憩」「キーボードの入力は1日当たり平均5000字以内」と記載されている。
 5000字は、母音と子音からなる日本語では2500字で、30分ほどの作業で終わってしまう。
 社会保険庁の職員は、それ以上の作業は労働強化にあたると反発、職場に電動式の全身マッサージ器までおいて、残りの時間をサボっていたのである。

 パソコンを労働強化とする思想は、都道府県庁や市町村を仕切る自治労から国家公務員などが組織する国公労連にまで浸透していて、世界を動かしているITやAI分野が、日本の官僚や労働界にとって、民間や資本からのびてくる悪魔の手だったのである。
消えた年金≠アと年金記録問題の主犯は、民主党の支持母体だった自治労にあったわけだが、マスコミは、悪いのは自民党政権だと叩きに叩いて、自民党を政権からひきずりおろして、その自治労が支持する民主党政権を実現させることに成功した。
 世界がITやAIの研究開発に心血をつぎこんでいるさなか、日本の官僚と労組は、拳をふりあげて、ITやAIの排斥を叫び、自民党政権においても、ITやAIがなんのことやらわからない大臣が、IT担当相になるありさまである。
 中国や韓国、台湾などでは、ITやAIの国際的専門家が大勢、国家の担当部署につき、台湾で行政のデジタル化を担当するオードリー・タン(唐鳳)は国際的に名が知られたプログラマーである。
 台湾や韓国、東南アジアで、コロナ対策がうまくいったのは、ITやAIを駆使した行政システムが機能したからだった。
 ところが、日本では「マイナンバー」のオンライン化どころか、登録すら途中でとまっている。
 役人が働こうとしない日本では、左翼組合の追い風をうけて、壮大なる事務の停滞が生じてしまうのである。
 日本の大学や研究機関のITやAIが、世界に比べて、それほど劣っているわけではない。
 ところが、行政権を一手に握る役人は、けっして、民間の組織や団体に協力をもとめない。
 縦割り行政のなかで権限をふりまわしている役人は、ITやAIなどという世界のきびしい風に身をさらすのは真っ平なのである。

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2020年06月08日

国益は正義である――という大原則C

 ●「国際主義」と「民族主義」へ分裂した日本
 近代日本において、盲目的に国際化をすすめたのが、それまで、尊皇攘夷をキャッチフレーズにしてきた薩長の明治政府だった。
 文明開化とは、ヨーロッパ化のことで「西洋のものなら何でもよい」という風潮がはびこった当時、明治政府は、日本土着の文化習俗を「悪弊」「旧習」と切り捨てて、ヨーロッパの猿マネである鹿鳴館文化をつくりあげた。
 日本史のなかで、これほど極端にイデオロギーを豹変させた権力集団は例がない。
 脱亜入欧も、文明開化と同じような意味合いでもちいられるが、福沢諭吉の「脱亜論」とは別物である。
 諭吉の「脱亜論」は、前近代的な支那や朝鮮につきあっていると日本が立ち遅れてしまうという危機感からでてきたもので、入欧ということばはいちども使っていない。
 欧米の文明を吸収すべきだが、それは「一身独立して一国独立する」(『学問のすすめ』)のためのもので、大事なのは、文明開化や民権よりも国権だとする論を、諭吉は、みずからが発行する「時事新報」をとおして主張した。
 第二の「文明開化」が第二次大戦後のGHQ革命だった。
 このとき、アメリカ民主主義とソ連共産主義が同時に入ってきて、戦後日本の思想的混乱は、革命前夜さながらとなった。
 革命がおきなかったのは、天皇がおられたのと、GHQが逆コース(反共路線)≠とったからである。
 このとき、日本国内で、国際主義と民族主義の2つの系統が生じた。
 国際派と伝統派といってもよいが、この2派は、価値観が根本的に異なる。
 そして、この2つの系統が日本に深い亀裂を生じさせて現在に至っている。
 伝統派(民族主義)は、日本人本来の伝統的な価値観で、これはあらためてのべるまでもない。
 問題なのは、国際派で、かれらは、日本人としての魂も価値基準ももたない。
 福沢諭吉が、みずからすすめた文明開化や民権思想を、あえて、国権の下においたのは、もっとも優先されるべきは、歴史や文化、国家の利益だったからである。

 国際派は、国権の真反対にある概念で反日≠ニ呼んでもよい。
 国際派が最大の価値とするのは、マルクス主義から啓蒙主義、新自由主義にいたるまで、すべて、西洋から借りてきた価値基準で、要するに、西洋かぶれである。
 小泉純一郎が皇室典範を変えて、万世一系を否定しようとしたのは、新自由主義にかぶれた改革主義者だったからである。
 戦後の混乱のなかで、特筆されるべきは、憲法学の権威で東大法学部教授の宮沢俊義が唱えた「八月革命説」である。
 日本が戦争に負けて革命がおきたという論で、GHQがつくった日本国憲法を革命憲法と規定して、これを不磨の大典として、戦後の法学界を脳死状態に陥れた。
 日本の司法試験は、宮沢法学とあって、日本の弁護士会は左翼なのである。
 日本の大学はマルクス主義学者の牙城で、日本共産党はマルクス政党である。
 左翼・マルクス主義は、共産党政権志向なので、戦後、日本は、国体をおびやかされつづけてきたのである。
 国際派のもう一つの流れが啓蒙思想で、このなかには、アメリカ民主主義や人権思想、男女平等(フェミニズム)から表現の自由までがふくまれる。
 啓蒙思想が、日本の文化習俗と折り合うことができれば、問題はない。
 自由や平等、権利は、日本人にとって、物珍しいものではなかった。
 ところが、国際派の啓蒙主義は、そんな生易しい代物ではない。
 あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」では、天皇の肖像を焼いて踏みつける映像や特攻隊を愚弄する画像、慰安婦像を表現の自由として扱っているが、表現の自由のメッカといわれるアメリカで、星条旗やキリストの肖像を焼いて、ただですむか。
 東京大学や芸大有志、現代美術画廊らが、文化庁の予算執行停止にたいして異義を唱えているが、予算申請の際、展示内容を偽った大村秀章愛知県知事と監督の津田大介には、詐欺などの刑事罰が適用されるべきである。
 国家侮辱罪やスパイ罪がない日本は、文化テロに国家が予算を騙しとられるほど風紀や規律がゆるんでいるのである。

 自国に絶対的な価値基準を打ち立てられない国際派が重視するのが、海外の評価である。
 今回のコロナ騒動で、その一端がハシなくもあらわれた。
「PCR検査」数が少ない日本のコロナ感染の公式発表は信用できないとする海外メディアなどの評価をもって、マスコミや文化人、タレントらが、日本のコロナ対策にあらんかぎりの嘲罵を浴びせかけたのだが、日本は、世界のなかで、もっともコロナ防衛に成功した国だった。
 日本に、日本独自の価値観や基準があるのは当然で、海外の評価や基準に左右されることはない。
 海外の評価や評判に一喜一憂するのは、じつは、危険な兆候である。
 自民党の甘利明衆院議員が、5月の連休前、ツイッターで、こう綴った。
「東日本大震災でも日本人は世界の尊敬を集めました。要請だけで人的接触をここまで減らせる日本って、やっぱり凄いですね。あと一息です。ゴールデンウィークをステイホームで『さすがニッポン!』って、もういちど世界に言わせませんか」
 愚かにも、世界の目をアテにして、日本人の公徳心や行動倫理を規制しようというのである。
 日本が、コロナ防衛に一応の成功を収めたのは、集団性が高い日本人の国民性や独自の宗教観によるもので、それが日本の内なる根源力である。
 ところが、甘利は「もういちど世界に『さすがニッポン!』と言わせませんか」と外へ目をむける。
 外国の評判を気にかける精神が危ういのは、民族の魂というべき価値基準をもたないからである。
 衆院当選12回で、筋金入りの保守政治家だったはずの甘利が、歴史上前例がない女系天皇をみとめる発言をして、保守層から批判を浴びている。
 女系天皇をみとめれば、その瞬間、王朝が変わって、国体が崩壊する。
 だが、外国人にとって、国体も万世一系も、特殊な文化で、かれらの普遍的な価値観は男女平等である。
 甘利が、女系天皇をみとめる発言をおこなった落とし穴がそこにある。
 伝統をまもる覚悟をもたない者は、国際主義にのまれて、国体や万世一系という国家や民族の価値などどうでもよくなってしまうのである。
 それが、国際主義が大手をふっている現代日本の最大の弱点であり、体制の危機なのである。

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2020年06月01日

国益は正義である――という大原則B

 ●伝統派と国際派に分断された日本
 新聞労連や民放労連、出版労連などをかかえる「日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)」は、2020年3月10日、市民の自由や集会・報道の自由を脅かすとして「新型コロナ対策特別措置法に反対する声明」をだしている。
 もっとも、これは、マスコミに公表されていない。
 万が一、この事実が報道されていたら、マスコミが、新型コロナウイルスとたたかう日本人の敵であることが明らかになって、マスコミと国民のあいだに大きな摩擦や軋轢がうまれたはずである。
 いうまでもなく、緊急事態宣言は、コロナ特措法にもとづいている。
「新型コロナ対策特別措置法」が成立していなかったら、日本は、西浦教授が懸念したように、パンディミックが発生して、日本中、死体の山ができていたかもしれなかった。
 WHO以下、欧米は、安倍内閣が、新型コロナウイルスの防衛に成功したとしぶしぶみとめたが、首をひねっているのが、内閣支持率の低さである。
 欧米では、コロナ禍によって、国家と国民のむすびつきがつよまって、政権支持率が軒並み大幅上昇している。
 日本で内閣支持率が低迷している理由は、表立って、政府の緊急事態宣言に反対できないマスコミ(MIC)が、PCR検査不足から医療崩壊、給付金や支援金、マスク給付にいたるまで、安倍内閣に批判や非難の集中攻撃をくわえたからである。
 ニュースキャスターやタレント、評論家が、「呆れはてた」「開いた口がふさがらない」と、連日、安倍首相に罵詈雑言を浴びせかけ、立川談四楼などは「ブン殴ってやりたい」とまで息巻いた。
 そして「敬意や感謝、きずなの力があれば、かならず、ウイルスに打ち勝つことができます」という首相の真摯なことばをせせらわらって「安倍のどこに危機管理能力があるのだ」と毒づいて、マスコミは、これを立川師匠の苦言としてもちあげた。
 このコロナ禍で、マスコミ関係者は、MICにシナリオどおり、安倍批判に走って、多くの日本人もその尻馬にのって、安倍首相や政府を罵った。
 そして、世界がコロナで甚大な被害をこうむったなか、最小の被害ですんだ功績にたいする評価や感謝どころか、安堵や無事をよろこぶ声すらなかった。

 こんどのコロナ禍で、日本人は、文明論的に、伝統派と国際派に分断されていることがはっきりした。
 自粛と我慢で、コロナ禍をのりきった大方の日本人は、伝統派である。
 かれらは、歴史や伝統、良識や和の心をたずさえた昔ながらの日本人である。
 これにたいして、国際派は、マルクス主義とアナキズム、啓蒙主義の3つにくくられる西洋化された人々で、日本人としての魂をもっていない。
 マスコミ人(MIC)やタレント、評論家や学者、弁護士らがそうで、かれらの価値観やアイデンティティ=心の故郷は、日本ではなく、西洋にある。
 伝統派と国際派は、社会契約説の3人の思想家ホッブズ、ロック、ルソーにそれぞれふりわけることができる。
 伝統派は、自然状態では「万人による万人の戦争」がおこるとしたホッブズの考え方に近い人々で、ホッブズは、必要悪としての国家や君主をみとめた。
 英国も日本も、ホッブズ型の伝統国家である。
 国際派の筆頭にあげられるのは、人間は、うまれながらにして自由で平等としたルソーである。
 だが、民主主義のルソーには、国家観がなく、万民の一般意志をひきうける万人のため人民政府は、フランス革命において、ロベスピエールの恐怖政治をつくりだしただけだった。
 2つ目はマルクス主義インターナショナル(コミンテルン)である。
 マルクス主義は、ルソー主義にユダヤ経典(タルムード)をくっつけただけの代物で、ソ連のコミンテルン日本支部から発展した日本共産党が、天皇制と資本主義の打破を二大テーゼとするのは、日本の歴史や国体が眼中にない国際主義だからである。
 3つ目のロックの社会契約説は、革命権(抵抗権)を容認する間接民主主義(選挙/多数決)で、ロック主義のアメリカ民主主義は、歴史的・伝統的価値をもたない。
 日本国憲法をつくったGHQのニューディーラーが、その典型で、かれらの多くが、伝統を旧弊としか考えられない共産主義者であった。
 国際派の正体が徐々にわかってきた。
 一つは、マルクス主義者で、日本共産党と大学の教職に残存している。
 2つめは、ルソー主義で、民主主義や表現の自由、人権などを叫ぶが、国家や全体性との整合性をもたないので、秩序や全体の利益を害い、他人へ多大な害をおよぼす。
 ルソー主義には、アナキズムやフランクフルト学派(批判理論)がくわわる。
 アナキズムは、革命を忘れた反体制運動で、すべての権威や権力を否定した革命前夜のなかに、人間性の解放をみる。
 フランクフルト学派は、人類を苦しめてきた政治体制を批判することだけが目的で、否定がゆくつく果てに、否定しえない理想郷があるとする。
 3つ目は「八月革命説」の宮沢俊義(東大法学部教授)で、宮沢はGHQがつくった憲法を徹底的に擁護して、左翼でなければ司法試験に合格しない仕組みまでつくって、議会内左翼革命の準備をすすめた。
 以上3つが、日本の国際派だが、かれらには、おそるべき欠陥がある。
 日本を敵視するばかりか、日本を貶めることを善と考えるのである。
 それが露骨にあらわれたのが、今回のコロナ騒動で、マスコミは、海外の情報を根拠に日本のPCR検査や医療体制を非難する一方、成功したわが国のコロナ対策について一言も報じなかった。
 西洋の基準に立って、自国を嘲るのが、国際派で、かれらが金科玉条にするのが、MICも掲げた「言論の自由」「表現の自由」と「男女平等」である。
 次回は、この自由が、いかに野蛮な自由であったかについてのべよう。
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2020年05月27日

国益は正義である――という大原則A

 ●日本スタンダードをもたない悲劇
 欧米で、新型コロナウイルスの感染者、死亡者が爆発的にふえはじめた3月以降、マスコミは、テレビのキャスターやタレント、評論家や医事関係者らを総動員して、日本がコロナ防衛に失敗したのは「PCR検査」をサボってきた安倍首相の責任というキャンペーンを張った。
 新聞社や放送局、出版社を傘下におく日本マスコミ労組(MIC)の意向がはたらいたのはいうまでもない。
 MICは、「緊急事態宣言」の法的根拠となった新型コロナ対策特別措置法に反対声明をだした団体で、政府のコロナ対策に、真っ向から反対している。
 そればかりか、改憲論者である安倍首相を最大の天敵としている。
 マスコミ人が、一斉にPCR神話と反安倍に走ったのは、この空気を読んでのことであろう。
 わたしは、このブログで、3月段階から、押谷仁東北大学教授や西浦博北大教授らの「二段構え」戦略を評価、国民的な理解をもとめてきた。
 二段構えというのは、クラスター(患者の小規模集団)という点≠攻撃したのちに、拡散したコロナウイルスを「三密(密集・密閉・密接)回避」と「ステイホーム(外出自粛)」という面≠ゥら防ごうという挟み撃ちの作戦である。
 日本がコロナ防衛に成功した理由は、CTスキャンとマスクである。
 日本のCT普及率は2位グループの欧米を引き離して第1位である。
 新型コロナウイルスの死因は肺炎で、日本は、初期段階でCTによる肺炎を診断、治療をおこない、コロナウイルスによる肺炎の死亡率を最小限におさえこむことに成功した。
 PCR検査は、あくまで、副次的な手段で、厚労省は、はじめから、すべてのひとにPCR検査をすることは不可能で、有効ではないと宣言している。
 ところが、CTの普及率が日本の数分の1の欧米では、PCR検査を優先させて、CT所見による感染者・重症者の発見を見逃してきた。
 PCR検査による感染者の発見は数百人に一人で、しかも、感染がわかっても治療法や特効薬がなかった。
 PCR検査は、感染者を強制隔離するための手段でしかない。
 その反面、感染能力のある30%の偽陰性が放置されるので、これがパンディミックをひきおこす原因の一つとなった。
 しかも、PCR検査の実施率は、人口比1〜数%とあって、これが、パンディミック防衛に役に立つはずなどなかった。
 もう一つの理由はマスクで、欧米人と日本人では、マスクにたいする感覚が異なる。
 欧米人にとって、マスクは防衛用で、ウイルスから身をまもるためである。
 そこから、布製の繊維では、微小なウイルスの侵入を防ぐことはできないというマスク無効論がでてくる。
 一方、日本人にとってマスクは、飛沫を他人にかけないという他人のためのもので、それが、めぐりめぐって、ウイルス感染者の飛沫からじぶんをまもる自己防衛につながる。
 それが日本のマスク文化で、マスクをしていれば、ソーシャルディスタンスなど必要がない。
 WHOテドロス事務局長をはじめ、欧米諸国も、日本の成功をみとめざるをえなくなったが、分析的な見解をいっさいしめさず「奇妙な成功」で片付けている。
 諸外国が日本にたいして、好意的でないのは、あたりまえの話である。
 競争心や嫉妬心、敵愾心がはたらくというよりも、もともと、自国のことに精一杯で、どこの国も、他国に関心などないのである。
 したがって、外国の基準や評価を自国にあてはめることは、危険きわまりないばかりか、卑屈な売国思想、愚かな属国根性につながる。
 他国の顔色をうかがうのは、朝鮮半島の事大主義と同様、恥ずべきふるまいなのである。
 ところが、今回のコロナ騒動では、日本人は、マスコミ論調にのって、わが国独自の方針や政策を頭ごなしに否定、CT保有率やマスクの習慣など、日本固有の事情、文化的な特殊性にふれることなく、他国がわが国をどう評価しているかという視点のみに立って、自国に批判を浴びせてきた。
 それが、欧米に比較して、PCR検査数が少ないので、コロナ対策が遅れているとやら、感染者数や死者数をごまかしているなどという邪推だった。
 おかげで、安倍内閣の支持率は、コロナ対策を拒否して、死者数が急増しているブラジルのボルソナロ大統領以下となった。

 情報の出所は、外国のメディアや通信社だが、発言者は、ハーバード大学やコロンビア大学などの日本人研究者や日本在住の有識者で、国際派といわれる連中である。
 国際派のきわめつきがマルクス主義で、これに準じるのが啓蒙主義である。
 自由や平等、権利や民主主義は、市民革命の産物で、そこに、表現の自由や言論の自由がくわわって、革命前夜の様相がかもしだされる。
 フランクフルト学派は、別名「批判理論」の呼称があって、体制を批判することによって新しい体制がうまれるという造反有理の理論である。
 今回のコロナ騒ぎで、明らかになったのは、日本人および日本政府の冷静さと、その日本イズムを否定するマスコミ労組(MIC)や外国崇拝の国際派との対立だった。
 この対立の構図から、コロナ騒動をこえて、日本に、さらなる大きな亀裂がつくりだされた。
 女子プロの木村花さんがSNS上の誹謗中傷に耐えられず自殺した。
 一方、自民党の甘利明衆院議員が、女系天皇をみとめる発言をした。
「言論の自由」がひとの命を奪い、「男女平等」が国体を崩壊させる。
 日本という国家が、左翼や啓蒙主義に侵食されて、崩壊寸前なのである。
 次回も、この2つのテーマをふまえながら、新型コロナウイルスとたたかう日本人のすがたをみていこう。
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2020年05月20日

国益は正義である@

 ●日本を蝕むアナキズムという猛毒ウイルス
 新型コロナウイルス感染症にともなう緊急事態宣言が5月14日、39県で解除された。
 東京など8都道府県はまだだが、新規感染者が減少に転じて、終息も徐々に見えてきた。
 14日の記者会見で、安倍首相は「わが国の感染者数や死亡者数は、G7や主要先進国と比較して圧倒的に少なくすんでいるとのべたが、これを好意的に報じたメディアは皆無だった。
 コロナ防衛に失敗したのは「PCR検査」をサボってきた安倍首相の責任と叫んできたメディア、テレビのキャスター、医療関係者、タレントらは標的を失って、こんどは、安倍首相がすすめてきた「検察庁法改正案反対」へ矛先を振ってきた。
 国難といって大騒ぎしたコロナのことはすっかり忘れたようで、安堵の声も医療関係者への感謝のメッセージも聞こえてこない。
 そして、こんどは、検察庁法改正案反対へ一斉に声をあげはじめた。
 コロナのどさくさにまぎれて悪法をとおそうとする安倍をゆるすなという大合唱である。
 爆笑問題の大田光は「タレントも税金払っているのだから政治に口出ししたっていいじゃねえか」とうそぶく。
 だが、ツイッターが900万件を超えてブーム現象となった検察庁法改正案反対は、検察庁への応援歌で、とうてい、政治参加などと呼べる代物ではない。
 検察庁は、行政で、これを管轄下におくのが国政である。
 明治の司法省以来、日本の検察は、起訴有罪率99・9%、アメリカの意向をうけて田中角栄を逮捕、有罪にするなど、これまで、司法を抱き込んでファッショ的な特権をふるってきた。
 検察庁を奉って、別格官幣社にしてしまっては、政治の放棄だろう。
 タレントらが検察を応援するのは、検察が、日本の最高権力だからである。
 立憲民主党も共産党も、首相を逮捕できる検察権力を風化させてならないと力説するが、検察は、偏差値エリートの特権階級で、民主主義や国民主権から切り離された権力の牙城である。
 一方、野党やマスコミ、タレントが目の敵にしている政治家は、われわれが選挙でえらんだわれわれの代表である。
 じぶんたちの代表を足蹴にして、官僚を崇拝するのは、共産党官僚の中国と青瓦台エリートの韓国、霞ヶ関行政の日本だけである。
 この3国には、科挙制度や律令体制の歴史があって、いまなお、学歴偏重の階級意識をひきずっている。
 テレビは、東大生というだけでスター扱いするが、その一方、日本の大学生は、不勉強で、IT(通信技術)やAI(人工頭脳)分野では、中・韓・台のはるか下位、香港やインドネシアにも負けて、パソコンにさわったこともない老人がIT担当大臣をつとめている。

 これらは、みな、根っこは同じで、国家観や歴史観、国益や独立性、発展をもとめる愛国心など、独立国家としての自尊心や気概、行動原理を欠いている。
 国家や国民が眼中にないという意味で、アナキズム(無政府主義)である。
 そして、歴史や伝統、文化の一切を否定する批判主義(フランクフルト学派)に立っている。
 かられは、建設すべき国家も否定すべき歴史ももたないので、左翼ですらない。
 なにも信じるものがなくなったとき、人間は、学歴や特権、外国の権威などにしがみつくものである。
 それが、学歴主義や官僚体制、マスコミ権力、国際主義で、国家への信頼や愛着、信念や自信がつゆほどもない。
 そして、その結果、くらげのような衆愚社会がつくりだされる。
 その一つが「外国は日本をどう思うか」という西洋コンプレックスである。
 韓国が支那に媚びる事大主義なら、日本は、西洋に媚びる属国根性である。
 西洋を模倣して、西洋の顔色をうかがい、西洋の価値観をもちこむ西洋崇拝は、うわべだけをてらう虚栄でしかない。
 虚栄の裏側には、かならず、嫉妬という対立概念がひそむ。
 嫉妬は、権力にたいするねたみやそねみで、西洋に媚びる売国奴が反政府にはしるのは、自国の権力者にやきもちをやいているのである。
 聖徳太子の17条憲法の14条に「群臣百寮、嫉妬有ること無かれ」とある。
 6世紀の大昔から、日本は、虚栄と嫉妬に悩まされていたのである。
 自国を否定して、西洋を崇拝する精神構造は、岩倉具視の西洋使節団からはじまって、大正デモクラシー、GHQのWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)、自虐史観や反日主義にいたるまで、近代日本の一つの骨格になってきた。
 そして、それが「宮沢談話(近隣諸国条項)」や「河野談話(従軍慰安婦日本軍関与説)、「村山談話(大東亜戦争日本侵略説」)、南京大虐殺実在説、日韓併合侵略説にひきつがれた。
 騒いだのが、左翼と反日、国際派だった。
 今回のコロナ騒動も、土台にあったのは、自虐史観と日本悪玉論だった。
 次回は、このテーマを、さらに、掘り下げてゆこう。
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2020年05月08日

憲法の不備と「40万人死亡説」の恐怖C

 ●官僚・学者・マスコミはアナキストの群れ
 かつて、社会党は、労働者の政党で、賃上げ闘争では、しばしば、自民党が経営側と社会党の仲介に立った。
 ところが、社会党は、イデオロギー政党へ変貌して、やがて、消滅した。
 労働組合も、賃上げ闘争を放棄、労働団体から反権力のイデオロギー集団となって、一人当たりGDPが世界比26位に転落する一方、企業の内部留保が460兆円にまでふくれあがるという皮肉な現象を招いた。
 マスコミ労連(MIC)も、生活闘争から思想闘争へ転換した労組である。
 国民が新型コロナウイルスに苦しんでいるなか、人権や報道の自由をタテに「新型コロナ対策特別措置法」や「緊急事態宣言」に反対して、反政府キャンペーンを仕掛けるなど、労組の枠をこえた反国家運動を展開している。
 マスコミ労連という反国家集団が、情報・報道機関を仕切っているところに日本の危機の構造があるといってよい。
 マスコミは、口が腐っても、天敵の安倍政権がコロナ退治に成果をあげたといいたくない。
 それを象徴するのがTBS系「サンデー・ジャポン」(4月26日)における杉村・岸論争である。
「亡くなった方はアメリカ5万人、イタリア、スペイン、イギリス、フランスは2万人を超えている。医療従事者の献身のおかげで、日本は、300人台におさえられている。その意味で、日本は(欧米に)勝っている」
とのべたのは、衆議院議員を1期務めたタレントの杉村太蔵である。
 これにたいして、元経産官僚で、慶応大学院教授、テレビのコメンテーターとして人気者の岸博幸が真っ赤になって反駁した。
 杉村は、現在、慶応大学院の学生で、岸の教え子にあたる。
「全体を考える場合は、死亡者数だけじゃなくて、感染者数、増加数がおさえられているかを考える必要がある。死亡者数が少ない本当の理由がわからないなかで、日本が勝っているというのは正直いってわけがわからない」
 いくら、読み返しても、岸がいっている主旨が理解できない。
 感染者数や患者の増加数、死者数はWHO(世界保健機関)が公表している。
 日本の死者数が際立って少ないのは、客観的な事実で、理由がわからないといっても、清潔好きでボディタッチがすくない日本の風習、GCG(結核予防ワクチン)の効果、CTの普及率の高さ、クラスター殲滅という点≠フ攻撃と三密回避やステイホームという面≠フ防御の成功と、考えられる可能性はいくらでもある。
 死亡者数が少ない理由がわからないから評価を下せないといってしまっては議論にならない。
 岸が、杉村発言を頭から否定したのは、反安倍の論客だったからで、安倍の点数稼ぎになる杉村の発言がゆるせなかったのである。
 総理のご意向文書を本物と主張した前川喜平・前文科省事務次官も反安倍の急先鋒で、「コロナ感染者数は公表の100倍」「PCR検査不足は安倍政権の責任」と告発しつづけている。
 貧困調査と称して、官費を使って売春目的の「出会い系バー」に入り浸って女性と値段交渉をしていた人物が、ネット上で「日本の右傾化を深く憂慮する一市民」「自由と平等と友愛を原理とする社会の実現をもとめて」「日本と世界の未来を危うくするアベ政権の退陣をもとめる」と発言しても、片腹痛いだけだが、岸と同様、支持者が多い。
 その理由は、日本に、アナキズムが深く浸透しているからである。
 アナキズムは、歴史的権威や政治的権力、法的秩序をみとめない。
 その一方、学歴やIQ、身分や知名度、資産などの個人の資質や属性を重視する。
 中国や韓国で、科挙制度がなんども国を滅ぼしたが、なんども復活した。
 権威が不在になると、学歴以外に社会的評価の基準がなくなるのである。
 恩賜の軍刀、銀時計組(陸軍)、ハンモック・ナンバー(海軍)の日本の軍国主義も極端な学歴社会で、連合艦隊参謀長の宇垣纏は、海軍兵学校や海軍大学校の卒業順次がじぶんより下の者へ敬礼も返さなかったという。
 軍部が、天皇よりも学歴の権威を重んじたのは、天皇崇拝は擬態で、天皇を政治利用していたからである。
 日本軍国主義は、数々の失敗を重ねて、滅びた。
 だが、アナキズムというかたちで、戦後、復活した。
 天皇の官僚からGHQの官僚へ豹変した霞ヶ関とGHQによって解放されたのち、要人追放令でがら空きになった大学教授の職にありついたマルクス主義者、そして、労働組合ある。

 左翼は革命を志向するが、アナキストは、体制内に巣食ってゆたかな生活を享受する。
 そして、その一方、体制を批判して、個としての存在のみを主張する。
 いわば、国家の寄生虫で、官僚や大学教授、マスコミ人、弁護士ら生産性のないものたちは、大半が、天皇や国家、 国体が眼中にないアナキストといってよい。
 アナキストが、唯一、信じるのが、学歴やIQである。
 舛添要一(元東大教授)や堀江貴文(東大卒)らが、じぶんのIQの高さをひけらかして、緊急事態法を発令した安倍首相のIQを疑うという論法をくりだす。
 ネットに、岸博幸が杉村太蔵を完全論破したという書き込みがあふれるのもIQ神話で、日本人の多くがアナキズムの信者なのである。
 アナキズムは、学歴偏向で、テレビが、東大軍団、インテリ軍団ともちあげるのは、番組制作者も視聴者も、アナキストだからである。
 ちなみに、IT(情報技術)やAI(人工頭脳)の分野で、日本がアジアで最下位に近いのは、大学生がコンピューターを学ばないからで、ITやAIが国家的な課題になっている中国や韓国どころか、香港やシンガポール、インドネシアからも水をあけられている。

 ベルリンの壁崩壊とソ連邦解体によって、共産主義への幻想はついえた。
 共産主義が人類の理想ではなくなったとき、左翼や反体制派は、アナキズム(無政府主義)とフランクフルト学派(批判理論)へ流れていった。
 無政府主義というのは、革命前夜の不安定な状態のことで、批判理論というのは、体制を批判することは正しいというイデオロギーである。
 両者とも、革命は捨てるが体制破壊は継続するという思想上のテロリズムである。
 それが反映されたのが、反日主義や自虐史観、フェミニズム(男女雇用機会均等法)だった。
 2009年、マスコミ労連支援の下で、ついに、社会主義政権が誕生した。
 当時、メディアにあふれた鳩山由紀夫と民主党への賛辞は、文字が読めない麻生首相へのネガティブ・キャンペーンに対比して、マスコミ史に残るほどの熱狂ぶりだった。
 ところが、政権をとった民主党は、ただひたすら、自民党政治と反対のことをやる愚策をくり返して、自滅していった。
 共産主義という理想を捨て、一方、伝統を足蹴にする宙ぶらりんの政治家の系譜が、村山富市から小泉純一郎、鳩山由紀夫、菅直人らで、それが、日本を被っているアナキズムの正体といってよい。
 民主党は、社会主義的な政党ではなく、アナキズムの政党だったのである。
 国家をみとめない無政府主義と体制を否定する批判理論が合体した亡国の思想≠ヘいまにはじまったことではない。
 反ナチスのフランクフルト学派と、伝統破壊のアナキズムは、日本国憲法をつくったニューディーラーにひきつがれて、憲法に反映されている。
 天皇も伝統も、国家も国体も眼中にないアナキストが、唯一、信奉するのが憲法である。
 国家主権にかかる国家防衛や国家緊急法、国家反逆罪やスパイ罪などの治安条項がそっくり抜けて、国民主権と国民の権利を謳った憲法は、アナキズムのテキストである。
 憲法制定当時、日本の主権者だったGHQの最大の謀略は、天皇を憲法上の存在にして、憲法改正で、廃位を可能にしたことだった。
 そして、自由や平等、人権は、天賦のものというオカルティズムを謳った。
 新型コロナ対策特別措置法や緊急事態宣言に反対するマスコミ労連が憲法をタテにとるのは、アナキストだからである。
 かれらには、新型コロナウイルスよりも、国家の自衛権や治安権、国家緊急法のほうが大敵なのである。
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2020年05月07日

憲法の不備と「40万人死亡説」の恐怖B

 ●コロナ防衛に反対するマスコミ労連
 新聞労連や民放労連、出版労連などをかかえる「日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)」が、市民の自由や集会・報道の自由を脅かすとして、2020年3月10日、「新型コロナ対策特別措置法に反対する」という声明をだした。
 声明文にこうある。
「報道機関は、自らの判断にもとづき、必要な報道をおこなうもので、政府や自治体が、適切に権限を行使し、正確に情報を発信しているかなどを監視する社会的使命があります。その報道機関に法律上の責務を負わせることは、権力監視機能を損なわせる恐れがあります」
「『集会の自由』や『報道の自由』、国民・市民の『知る権利』を脅かし、憲法で保障された基本的人権の侵害につながりかねない法案であり、メディア関連労組として容認することはできません」
 なんという思い上がった言い草であろうか。
 報道機関(メディア)は、コマーシャルや国民からの視聴料でメシを食っている情報会社で、言論・報道の自由を逆手にとって、有名人のスキャンダルや大衆受けのする政府や与党批判、あるいはエロ・グロで部数や視聴率を稼いでいる水商売である。
 立脚する基盤は、コマーシャリズムで、マスコミが、資本(スポンサー)や消費者に媚び、視聴率や発行部数、広告収入に一喜一憂するのは、生産性のない浮き草稼業だからである。
 マスコミ労組は、その情報会社に雇われている勤労者の集団である。
 そのサラリーマン集団が、どうして、権力の監視機能や社会的使命を担っているなどといえるだろう!
 マスコミ労連の思い上がりは、常識をこえているが、経営者や管理職もかれらに手も足もでない。
 マスコミを仕切っているのは「市民の自由や集会・報道の自由」を謳うマスコミ労連だからで、経営側の意向が反映されないのは、NHKが2008年以降、経営陣を財界から招いても反日報道がいっこうにやまないことからもわかろうというものである。

 マスコミ労連(MIC)は、今回の緊急事態宣言には、大反対だが、国民の大多数が支持しているとあって、表立って、反対運動を展開できない。
 そこで、巧みに世論操作をして、3つの争点を立てた。
 @日本はコロナ防衛に失敗したというデマゴギーを流す
 Aその責任は改憲をめざす安倍政権にあるという論調をつくる
 B休業補償をしない緊急事態宣言を暴挙として、これに反対する
 日本がコロナ防衛に失敗したというキャンペーンに使われたのがPCR検査である。
 OECD加盟国36カ国中、日本がPCR検査数でほぼ最下位の35位なのは、SARSでも国内の大流行がなく、疫病を大量に検査する仕組みをもっていなかったからである。
 一方、コンピューター断層撮影(CT)の保有数は世界一で、アメリカなど2位グループの2倍、ヨーロッパの4〜10倍にたっし、解析技術もで欧米を大きくリードしている。
 CTが威力を発揮したのが、新型コロナウイルスの感染者が大量に発生したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」における自衛隊の対応である。
 DP号では、乗客・乗員3711人のうち、712人が感染して、そのうち14人が亡くなっている(4月18日)。
 自衛隊対策班は、感染者を隔離して、船内感染を防ぎ、200人を超える患者を自衛隊中央病院(東京都世田谷)に収容して治療をおこない、院内感染をおこさなかったばかりか、DP号から日本国内への感染拡大を完全に防衛した。
 このときモノをいったんのがCTで、PCR検査でもでてこない3割ほどの「偽陰性」を発見して、しらみつぶしにした。
 ちなみに、PCR検査をおこなってきた欧米でパンデミックがおきた原因の一つが、無自覚で、感染力だけもつ3割の「偽陰性」が放置されたからである。
 入院患者200人の約4割は、無症状や軽症であったが、胸部CT検査では約半数に異常陰影がみとめられて、そのうち、約3分の1は悪化して、肺炎へ移行した。
 PCR検査(遺伝子検査)は、科学的・機械的作業ではなく、人為的な作業なので、臨床性がわるく、7割程度の確率で陰性、陽性が判明しても、それを治療の基準にすることはできない。
 PCR検査で陽性でも、発症するのは2割、重症化するのがさらにその2割で、ほとんどが自然治癒してしまう。
 それなら、重症化するケースに絞って、治療にあたったほうが効率よいのはいうまでもない。
 胸部CT検査は、発症以前に病変を予見できるので、早期治療が可能になる。
 PCR検査は、不安なひとの気休めで、コロナ防衛の役に立たないのである。
 ところが、日本のメディアは、PCR検査を徹底的にやって、コロナ封じに成功した韓国に学べという記事があふれた。
 ところが、韓国のPCR検査は、OECD加盟国36か国中26位で、平均値にもたっしていない。
 のぞんだ国民全員がPCR検査をうけて、陽性者が整然と隔離されたという神話もうそだった。
 PCR検査数が、無作為的な1・17%、欧米の3分の1、トップのアイスランドの10分の1にすぎない韓国が、コロナを制圧できたのは、徴兵制と国民皆背番号(「住民登録番号」)制をIT(情報技術)やAI(人工知能)とむすんだ管理化社会のたまものだったのである。
 マスコミがこれにふれないのは、マスコミ労連にとって、徴兵制も国民皆背番号も天敵のようなものだからである。
 一方、舛添要一や小沢一郎、菅直人、東国原英夫、ビートたけしやヒロミらが「日本はPCR検査をサボってコロナ防衛に失敗した。安倍は引退すべき」「緊急事態宣言の延長で日本経済は壊滅して、死骸の山」(舛添)という発言をくり返す。
 そして、舛添と堀江貴文は、安倍首相のIQ(知能指数)を疑うという論法をくりだし、TVタレントの安倍叩きが加熱する。
 これは安全パイで、かれらが、安倍批判、国家批判をしているあいだはマスコミからご愛顧いただいて、メディアの露出がふえ、スポットライトを浴びることができる。
 マスコミ労連と歩調をあわせるメディアとタレント、視聴者の奇妙な一体感が、日本の危機の構造をつくりだしているのである。
 かつて、西部邁は、酒席で、東大の後輩にあたる舛添要一を評して、ただのアナーキー(無政府主義者)と断じた。
 次回は、アナキズム集団である「日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)」を解剖しよう。

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2020年04月27日

憲法の不備と「40万人死亡説」の恐怖A

 ●点≠フ攻撃(クラスター殲滅)と面≠フ防御(ステイホーム)
「新型コロナウイルスの感染拡大に収束の兆しが見えない」「安倍首相の対策は後手に回ってばかり」「韓国や台湾の成功に学ぶべき」という意見がマスコミにあふれ返っている。
 タレント岡江久美子のコロナ死はPCR検査をサボってきた政府の責任(舛添要一や坂上忍ら)という無知なのか悪意なのか見当がつきかねる文言も目にとびこんでくる。
 今回のコロナ禍ほど、マスコミぐるみの誤認や曲解、デマや策動が氾濫した事件は、戦後、例がない。
 インフルエンザは、人類が被った最大のウイルス災害で、20世紀に入ってからも、死者4000万人のスペイン風邪(1918年)や死者200万人のアジア風邪(1957年)、死者100万人の香港風邪(1968年)と三度にわたって、パンデミック(伝染病の世界的な大流行)に見舞われた。
 インフルエンザで亡くなったひとは、昨年(2019年)だけで3000人(合併症死1万人/感染者数1千万人)をこえ、全世界では、毎年20〜50万人(合併症死100万人/感染者数14億〜21億人)が亡くなっている。
 インフルエンザウイルスの撲滅が不可能なのは、人間以外の鳥や獣を宿主にしているときは、無害だからで、宿主とはなんのトラブルもおこさず共存している。
 ところが、人間に感染するときは、悪魔のウイルスへ突然変異して、今度はヒトからヒトへ、猛烈なスペードで伝染してゆく。
 そして、人類の抗体などとの兼ね合いによって、沈静化、潜伏化する。
 それが、A型やB型、C型、トリ、ウマ、ブタ、SARS型などのインフルエンザである。
 新型コロナウイルスは、その新手だが、日本人は、新型コロナウイルス病という別の伝染病であるかのようにカン違いしている。
 新型コロナウイルスが並みのインフルエンザウイルスとちがうのは、致死率が5倍〜10倍も高く、とりわけ、抵抗力の弱い罹患者にたいして、致命的なダメージをあたえるところにある。
 ところが、日本のコロナ死亡率は、前回のブログでのべたように、欧米とは比較にならないほど低い。
 マスコミは「感染拡大に収束の兆しが見えない」と煽りたてるが、アメリカでは死者数が5万人(4月25日)をこえ、1日に数千人が亡くなる地獄図である。

 罹患者数は、世界合計277万人(4月25日)で、アメリカの90万人を筆頭に欧米諸国が軒並み20万人前後というすさまじさである。
 日本の罹患者数は、一万3千人で、イギリス(15・5万人)の10分の1以下である。
 かつて、イギリスと日本は、罹患者数や死者数とも、大きなちがいはなかった。
 ところが、現在、イギリスの罹患者数が桁違いにふえて、死者数にいたっては、日本(335人)の60倍の2万人に到達しようとしている。
 日本は、世界のなかでも、コロナ封じに信じ難いほどの成功を収めてきたのである。
 それでも、マスコミは、「安倍首相の対策は後手に回ってばかり」と詰る。
 日本の戦略は、二段構えで、「クラスター(患者の小規模集団)」を殲滅する点≠フ攻撃と、国民が一人ひとり自己防衛する面≠フ防御が組み合わされている。
 クラスターという点を集中的に攻撃したのちに、拡散したウイルスの伝染を「三密(密集・密閉・密接)回避」と「ステイホーム(外出自粛)」で防ごうというのである。
 マスコミは、この戦略を国民に周知徹底させるどころか、牙をむいた。
 感染経路不明が多いのは、日本政府が、無為無策だからというのである。
 インフルエンザの感染経路は、99%わからないのが世界的常識で、日本がこれをある程度、把握していたのは、クラスター潰しという戦略をとってきたからである。
 いずれ、感染経路が不明になるのは、織り込み済みで、それが、点から面へ戦略を転換するタイミングだった。
 だが、マスコミや識者は「ブレる安倍政権」とけちをつけ、爆笑問題の太田などは「『3密』が『ステイホーム』になった根拠が薄い」と政府や西浦教授らの対策班の懇願を愚弄する。
 太田のいうとおりと、大勢の日本人が外出規制を無視して、コロナ死がでた場合、太田は、どんな責任のとりかたができるというのか。

 日本人の誤解の最たるものが、PCR検査である。
 日本人は、PCR検査を、コロナウイルスの有無を調べるリトマス試験紙のように考えているが、実際は、細菌のDNAを増幅させる高度な技術で、電子顕微鏡でも見ることのできないクラミジアやウイルスなどの有無を調べる。
 コロナウイルスを高い確率で発見できるが、PCR検査でコロナウイルスを発見したところで、パンデミック防衛にはむすびつかない。
 コロナウイルスの陽性者のうち、発症するのは2割、重症化するのは、さらにその2割、酸素吸入機や人工肺(ECMO)が必要になるのは、さらにその二割で、その段階になれば、コロナウイルスの有無を調べても意味がない。
 コロナウイルスによる死亡例の多くは肺炎で、肺炎には、胸部CTで肺炎を確認後、アビガン(富士フイルム富山化学)などの有効薬で肺炎の進行を止める方法など、さまざまな治療法や新薬が開発中だが、必要なのは、検査ではなく、治療である。
 コロナウイルスには特効薬もワクチンもないので、無差別的にPCR検査をおこなえば、医療機関に陽性者が殺到して、パンデミックと医療崩壊が同時に発生することになる。
 それが、実際におきたのが、イタリアやアメリカ、イギリス、スペインなどで、クラスター潰しという点の戦略≠立てられなかった国は、無差別的なPCR検査という面の戦略≠とらざるをえなかったのである。
 ちなみに、PCR検査国は、3月段階で韓国がトップだったが、4月からはアメリカが断トツの1位で、韓国は5位におちて、欧州勢と並んでいる。
 韓国や台湾がコロナ封じに成功したのは、PCR検査をおこなったからではなく、徴兵令(台湾2019年から志願制)と国民背番号制(韓国「住民登録番号」/台湾「国民識別番号」)を土台にIT(情報技術)やAI(人工頭脳)を使って、短時間で、挙国体制を構築したからである。
 コロナ禍という国難に際して、政府を攻撃して点数を稼ごうという輩が続々とでてきたのは日本とは大違いなのである。
 パソコンを使ったことがないITの素人(桜田義孝五輪担当大臣)がサイバーセキュリティ戦略を担当する日本と、中国と並ぶAI先進国の韓国や「天才プログラマー」として知られるITの専門家の唐鳳が行政院のデジタル部門を仕切る台湾では、とうてい、勝負にならないのである。
 なぜ、日本は、こうも愚かな国になってしまったのか。
 次回は、新型コロナ対策特別措置法や「緊急事態宣言」に反対声明をだした「日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)」を俎上にのせよう。

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2020年04月19日

憲法の不備と「40万人死亡説」の恐怖@

 ●マスコミ労組(MIC)の策動にのってパンデミックへ
 緊急事態宣言で要請した「外出自粛」がまもられなかった場合、重篤なコロナ患者80万人の半数40万人が死亡すると警告したのは、厚生労働省のクラスター(感染者の集団)対策班である。
 その一方、同対策班の西浦博(北大教授)は、緊急事態宣言期間(5月6日まで)対人接触を「最低7割、極力8割減らす」ことができれば、約1か月で新型コロナウイルスの流行を抑えこめるとも指摘した。
 厚生労働省の対策班を率いているのは、押谷仁東北大学教授や西浦博教授らWHOのSARS封じ込め作戦の最前線で陣頭指揮を執った第1人者で、世界的に知られた免疫学(「数理モデルを利用した感染症データの分析」)の権威である。
 日本がメガクラスター(大規模クラスター)の発生を食い止めることにおおむね成功して、疾病者・死者とも、欧米の1パーセント以下におさえることができているのは、厚労省クラスター対策班の功績といえる。
 それだけに、先の西浦教授の警告には、千鈞の重みがある。
 新型コロナウイルスの被害状況(4/15現在)
 世界の感染者=2百万人超/死者=12万人超(死亡率6パーセント)
 日本の感染者=8640人/死者=176人(死亡率2パーセント)
 感染者は世界比で、0、42パーセント、死者は0、15パーセントである。
 人口10万人当たりの死亡者数(4/2日現在)
 イタリア22人/スペイン23人/米国1・5人/韓国0・4人
 これにたいして、日本は、わずか0・05人である。
 日本の数字が低いのは「PCR検査の数が制限されているから」「公表の百倍の感染者が野放しになっている」(前川喜平元文部科学事務次官)」という説も根強いが、それなら、死者数がもっとふえるはずである。
 自宅で死亡した数に紛れていると主張するひともいるが、検死制度が万全で自宅の病死についても十分なチェックがおこなわれている日本では、不審死が刑事事件の対象になるばかりか、火葬許可もおりない。
 コロナ死が隠れているのは、葬儀場がパンクして、死体をフォークリフトで冷凍倉庫へ運びこんでいる欧米で、伝染をおそれて十分な検死もおこなわれていない。

 新型コロナウイルス禍は、第二次大戦に匹敵する大災難で、欧米には、人類存亡の危機をいいだす学者までいる。
 西浦教授が「自粛すれば、切り抜けられる可能性が高いので、皆さんの力が必要です。お願いします。助けてください」と悲痛に訴えたは、この危機感を欧米と共有しているからである。
 安倍首相の「緊急事態宣言」も対策班の意向によるもので、緊急会見(4月17日)で、「どうか外出を控えてください」と切々とうったえた。
 映像を流すネットのコメント欄には「涙が滲んできた。いままで、頑張ってきてよかった。大変な国難をのりこえる舵取りがかんたんではないことは存じておりますが、なお正しい方向へわれわれを導いてください!」など好意的な書き込みが延々とつづいた。
 一般ユーザーが書き込むコメント欄には、左翼反日の以外、テレビで爆発する安倍批判≠ェほとんどみられない。
 それが、組合や政党などの影響をうけないネット世論の一大特長である。
 インテリ左翼がネットウヨ≠ニ罵る一般庶民はかくも健全なのである。
 一方、テレビは、タレントぐるみで、アンチ安倍のオンパレードである。
 コロナ禍に乗じて、東国原英夫(元宮崎県知事)や舛添要一(元東京都知事)が点数稼ぎに安倍政権を叩けば、布マスク配布に立川談四楼が安倍首相を「ブン殴ってやりたい」と息巻き、女装タレントのマツコは「だれが考えているの」とせせらわらう。
 そして、マスコミは、マスクは小さすぎて不良品と一斉に騒ぎたてる。
 一律10万円の給付にたいしても、フジテレビ・バイキングMCの坂上忍が政治不信の講釈を垂れると人気タレントの土田晃之は「遅ぇーよ!」と粗暴に安倍批判である。
 コメント欄には「野党やテレビ、マスコミの安倍憎しの感情論にはほとほと疲れる」「いらないのなら医療現場に寄付して下さい。私の周りに文句を言っている人はいません」「庶民の何百倍の収入をえている人気タレントにはハシタ金でも、庶民にはありがたい10万円です」などの反発が数百から数千の単位で書きこまれている。

 マスコミが反安倍一色なのは、安倍が改憲論者だからである。
 日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)は、護憲(「集会の自由」「報道の自由」「表現の自由」「国民・市民の知る権利」)の牙城である。
 今回の「緊急事態宣言」の法的根拠となった新型コロナ対策特別措置法にも堂々と反対の声明を掲げている。
 安倍首相が憲法を改正して、憲法停止や基本的人権の留保を可能にする「国家緊急権」が設けられると、MICにとって、死刑宣告にひとしい。
 タレントもそのあたりの空気を読んで、反安倍・護憲の発言をくりだす。
 マスコミはMIC(新聞労連、民放労連、出版労連、全印総連、映演労連、映演共闘、広告労協、音楽ユニオン、電算労)という左翼組合の影響下におかれているのである。
 韓国が新型コロナウイルスの制圧にほぼ成功したのは、大統領権限が「国家緊急権」に匹敵する強力なものだったからである。
 PCR検査のローラー作戦や隔離病棟の確保、日本のマイナンバーカードにあたる住民登録番号をAI(人工知能)で管理する全体主義的手法が奏功したのである。
 日本で、小池東京都知事が「ロックダウン(都市封鎖)」を口にして、すぐにひっこめたのは、憲法に国家緊急権が規定されていないからで、違憲どころか無憲になるので、国も都も、ひたすら、国民におねがいするしかない。
 そこで、マスコミが打ちだしたのが、自粛してやるから補償しろという休業補償の論理である。
 休業補償などをおこなっている国などどこにもないが、マスコミは、人命を軽んじて、経済を大事にする安倍政権、ケチな安倍首相というキャンペーンを張って、モリカケサクラ(「森友学園」「加計学園」「桜を見る会」)問題で検察が安倍首相をマークしているかのような印象操作をおこなっている。
 その結果、安倍政権の支持率が急落した。
 コロナ禍に見舞われている世界で、政権支持率が下がったのは、「どうせいつかは死ぬ」「コロナはちょっとした風邪」とコロナ対策を拒否しているボルソラノ大統領のブラジルと、目下、奇跡的な成功をおさめつつある安倍首相の日本の両国だけである。
 支持率を上げている国を上昇率順に示すと――
 @デンマークのフレデリクセン首相(上昇率40%/支持率79%)
 Aオランダのルッテ首相 (上昇率30%/支持率75%)
 Bイタリアのコンテ首相(上昇率27%/支持率71%)
 Cイギリスのジョンソン首相(上昇率22%/支持率55%)
 Dオーストラリアのモリソン首相(上昇率18%/支持率59%)
 E韓国の文在寅大統領(上昇率17%/支持率56%)
 Fフランスのマクロン大統領(上昇率15%/支持率51%)
 Gドイツのメルケル首相(上昇率11%/支持率79%)
 Hアメリカのトランプ大統領(上昇率5%/支持率49%)
 ✔ブラジルのボルソナル大統領(下降率2%/支持率33%)
 ✔日本の安倍晋三首相(下降率4%/支持率39%)
 コロナ防衛に失敗したイタリア、フランス、イギリス、アメリカの指導者の支持率が上がっているのは、危機に際して、国民は、国旗の下に団結する心理がはたらくからである。
 一方、日本では、オフィス街の人出は、5〜6割減と目標の8割減を大きく割って、欧米がたどったパンデミック(感染爆発)の危険が高まってきた。
 世界中の国家と国民が結束するなか、日本だけが、国家的な求心力を失って漂流しはじめた。
 ビートたけしと橋下徹が、政府のコロナ対策を批判して「国会議員の歳費を減らせ。腹が立つ」と怒りぶちまけて、多くの視聴者の共感をえたが、政府の外出自粛要請はまもられず、パンデミックの恐怖はひたひたと迫っている。
 世界が命をまもるたたかいに血眼になっているなか、日本だけが、コロナそっちのけで、政府批判に夢中になっている。
 危機意識は、いったい、どこへいってしまったのか。
 日本は、マスコミの策動にのって、こうして、国家解体にむかうのである。
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2020年04月12日

右翼とはなにか、左翼とはなにかC

 ●一元論の罠に落ちた日本人
 個と全体は矛盾する。
 国権と人権、国家理性と国民感情、国家と国民の利害も、一致しない。
 そもそも、共同体の国と単体の個人は、折り合いがよくないのである。
 ゴミ処理場をつくれといいながら、近隣につくるのは絶対反対という。
 政治問題とは、結局、社会全体に噴き出した個と全体の矛盾だったのである。
 したがって、政治は、二元論に立って、個と全体、国民と国家双方の利害を調整する手法や哲学でなければならない。
 大昔から、個と全体の矛盾を解消しようと、人類は、苦労を重ねてきた。
 だが、絶対王政も共和制も、独裁も共産主義もうまくいかなかった。
 アナーキズム(無政府主義)もユートピア思想も実現しなかった。
 自由や平等、人権は、国家が請け負うもので、ジャングルで、一人、自由や平等、人権を叫んでも、飢えて死ぬか、獣に食われるだけである。
 だが、日本国憲法には、自由や平等、人権が、天からあたえられたかのように書いてある。
 護憲派は夢でもみているようなユートピアン(平和バカ)だったのである。
 大戦後、大統領制(米)と共産主義(ソ)、議会民主主義(英・仏)が正義となった。
 しかし、冷戦後、ソ連邦と東欧共産圏が体制崩壊をおこした。
 そして、現在、奇跡的にも、伝統国家の日本が復活して、民主主義国家と肩を並べている。
 日本の君民一体が、民主主義以上にすぐれた体制だったからである。
 第二次世界大戦は、全体主義と民主主義の戦争だったといわれる。
 けれども、戦争になれば、民主主義国家も全体主義へと変貌する。
 個人主義に立った自由や平等、人権は、民主主義といわれる。
 その一方、全体主義の人民独裁や共産主義も、民主主義である。
 独裁者が、民主主義(国民主権)をあずかるのが人民独裁で、中国は中華人民共和国、北朝鮮は朝鮮民主主義人民共和国を名乗っている。
 民主主義というのは、個と全体、全体主義と個人主義、弱者と強者を二股にかけたヌエのような存在なのである。

 国民主権を謳った憲法の第1条に「天皇の地位は、主権の存する日本国民の総意にもとづく」とあって、憲法の民主主義の精神が、一転して、全体主義になっている。
 それが、民主主義の正体で、ヒトラーもスターリンも、多数派原理を最大限に利用した。
 日本人は、民主主義が人類最高の英知であるかのようにいうが、文化も哲学もないただの多数決で、いつ全体主義に変容するか、わかったものではない。
 大事なのは、民主主義ではなく、個と全体を調整する二元論のほうである。
 民主主義が最終的に勝利した(フランシス・フクヤマ「 歴史の終わり」)のは、まがりなりにも、民主主義が個(国民)と全体(国家)の両方へ目配りができていたからである。
 だが、日本の民主主義崇拝者は、個と全体のうち個のほうだけしか見ない。
 そして、全体である国家や政府を否定、攻撃して、民主主義の擁護者のような顔をしている。
 民主主義が、個と全体の両方を見据えていることを忘れているのである。
 民主主義が「個と全体の二元論」と喝破したのが政治学の藤原弘達だった。
 ちなみに、藤原先生には、わたしが主催した国民討論会などをとおしてご指導をいただき、それがのちに自著(「池田創価学会の政権掠奪を斬る」(日新報道)に反映された。
(ブログ/悲天/わが青春譜Fに詳細)

 わが国の政治、とりわけ野党政治がいつまでも成熟しないのは、民主主義の幻想にとりつかれているからで、60年安保は「民主主義をまもれ」「岸を倒せ」そして、今世紀最大の国難「新型コロナウイルス禍」でも、挙国一致体制どころか、野党からマスコミ、論者まで、政府批判に血眼になっている。
 安倍政権は、108兆円の緊急経済対策予算と1世帯あたり30万円の現金給付などを盛り込んだ緊急国民救済策を打ち出した。
 それが、国家の仕事で、全体を見据えて、マクロ的な政策をうちだす。
 これにたいして舛添要一(元東京都知事)や東国原英夫(元宮崎県知事)らTVタレント化している元政治家や論客顔のキャスターや芸能人が口を極めて政府を罵倒する。
「庶民の気持ちが分かっていない」というのだが、これみよがしに政府攻撃をくりひろげ、庶民の不安を煽って、じぶんの人気を上げようという魂胆がみえみえである。
 コロナ禍を心配するなら、医療崩壊が一番の懸念材料だが、TV出演者らは「PCR検査をサボっている日本は世界の恥」などと言い募り、調査と称して官費で「出会い系バー」に入り浸っていた前川喜平前文科次官(加計学園問題を巡る「総理のご意向文書」)などは「実際は公表の100倍」といいふらしている。
 PCR検査をむやみにおこなうと、8割以上が自然治癒するコロナウイルスの患者が病院に殺到して、重症患者を選別的に治療している現在の医療体制が崩壊して、イタリアの二の舞になる。
 だが、かれらは、個を見て全体をみないので、そんなこと意に介さない。
 個や国民の側から全体や国家の側を見れば、不条理の塊のようにみえる。
 それが、一元論で、万人が完全な自由や平等をもとめると、アナーキズム(無政府主義)となって、社会は、崩壊する。
 日本人は、民主主義だから公正というが、民主主義も、勝者が一つで、他はすべて切り捨てられる一元論である。
 左翼やマスコミ人は、いざしらず、大方の日本人は、個と全体、国民と国家の両方へ目配りができる善良な二元論、多元論者である。
 それが、歴史や伝統、文化や良識をたずさえた伝統国家の民族性である。
 一方的な立場から、不平や不満、怒りを煽って、点数稼ぎをするマスコミ文化人の尻馬にのって、日本を滅ぼしてはならない。
 次回から「新型コロナウイルス禍」にどうたちむかってゆくか論じよう。


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2020年04月04日

右翼とはなにか、左翼とはなにかB

 ●「君民一体」は大御心と大御宝
 保守系とりわけ右翼は、天皇制ということばをきらう。
 日本共産党がいいだしたことばだからというより、天皇は、制度ではないからである。
 天安門広場に肖像が掲げられている毛沢東を、だれも、制度と思わない。
 毛沢東は、カリスマ的偶像で、国家は、法を超えた神話や精神性、統治者と民をむすびつけるおとぎ話を必要とするのである。
 国家も、物心(心身)二元論で、身体と精神からできている。
 身体が、領土や経済力、軍事力なら、精神が歴史や言語、文化である。
 前者が権力にもとづく政体で、後者が権威にもとづく国体である。
 これが権力と権威の二元論で、伝統国家は、政体と国体の両方をもっている。
 日本共産党が天皇制ということばを使うのは、革命国家には、文化としての国体がなく、あるのは、制度としての政体だけだからである。
 制度は、法や習俗、規範などにもとづいてつくられた仕組みで、政体である。
 具体的には、律令制度や封建制度などをさすが、そのなかに民主主義や議会制度もふくまれる。
 民主主義も議会主義も、政体の一部で、政治機能にすぎなかったのである。
 日本人は、民主主義に文化的価値をみようとするが、民主主義も議会主義も多数決の原理でしかない。
 ちなみに、共産主義も多数派独裁で、多数派の代表が独裁者となる。
 共産主義と議会主義の中間が大統領制で、トランプも独裁者である。
 政体は、相対的で、日本でも、律令制度から摂政、院政、幕府、そして政府へと移りかわってきた。
 だが、国体は、絶対的で、歴史や伝統や文化、民族は永遠である。
 国家は、永遠でなければならないがゆえに、国体=天皇を必要とするのである。
 天皇は、国体の象徴で、政体を掌握する権力に正統性をさずける権威である。
 ここでいう天皇は、個人ではなく、皇祖皇宗の大御心で、この地位は、神武以来、万世一系のもとで、2000年以上、延々とひきつがれてきた。
 国民は大御心を敬い、天皇は、国民を大御宝として大事にした。
 大御心と大御宝の組み合わせが「君民一体」である。
 民主主義は、多数決以外のなにものでもないが、君民一体は、ルソーが社会契約論で、望むべくもない最高の政治形態(君民共治)とのべたとおり、歴史の叡智をそなえている。

 明治政府は、天皇を国家元首に仕立てて、権力の側にひきこんだ。
 そして、現人神と吹聴して、軍部独裁政権をうちたてた。
 だが、日本人は、天皇が現人神などと思っていなかった。
 したがって、戦後、天皇が人間宣言≠ウれても、すこしも驚かなかった。
 日本人が信じたのは、現人神ではなく、国体神話であって、天皇は、国体という文化構造が擬人化された、歴史と国体の存在なのである。
 戦後、天皇は、憲法上の存在となって、上皇や今上天皇、秋篠宮殿下もそのようにお考えのようだが、憲法は、政体上の法規で、刑法や民法、交通法などの上位法にすぎない。
 明治憲法は131年前。皇室の存続が念頭になかったGHQ憲法にいたっては、わずか74年前につくられたもので、これらの法規が、皇紀2680年の天皇を規定すると思うほうがどうかしている。
 現行憲法第99条(天皇・摂政・公務員の憲法尊重擁護義務)では、天皇も憲法に従うべしとあるが、これは、GHQの支配体制を恒久化するための置き土産で、憲法が占領政策の道具に使われているのである。
 国連の常任理事国の米・英・ロ・仏・中の5か国など、市民革命を体験した先進諸国は、国家が丸ごと制度で、それが、国体を否定して、民主主義や共産主義を立てた近代国家である。
 近代国家といっても、近代的な国家という意味ではない。
 啓蒙主義・近代主義にもとづいて、伝統的秩序や価値観を捨てて、人工的につくった国家で、民主主義国家も共産主義国家も、大統領制国家も共和制国家も同じ穴のムジナである。
 自由や平等、民主主義などの啓蒙主義・近代主義は、一神教にもとづく一元論である。
 正しいのは自分だけという一元論は、共存も自他共栄もなく、永遠に闘争をくり返して、最後には、自分さえも滅びてゆく。
 革命からうまれた民主主義は、絶対的なものをすべて否定するからである。
 小泉純一郎内閣の「皇室典範に関する有識者会議」が万世一系を否定したのは、メンバーが民主主義の信奉者だったからである。
 ヨーロッパの右翼は、権力内の存在で、選挙に出て、当選する者もいる。
 日本の右翼がヨーロッパの右翼のように権力の側にあったら、天皇が憲法に規定される地位に貶められても、異議を立てることはできない。
 右翼が異義を立てることができるのは、権力の外側にいるからである。
 権力の外側にあるのは、権威=国体で、歴史や伝統、文化である。
 日本の右翼が、権力=政体に反逆するのは、天皇が権威たることをもとめる国体の防人だからである。
 三島由紀夫は、自衛隊市ヶ谷のバルコニーで、自衛隊員にこう叫んだ。
「自衛隊は、国軍を否定する憲法をまもる軍隊になり下がったのだ。どうしてその誤りに気がつかないのだ」
 そして、天皇陛下万歳を三唱して、割腹自決した。
 三島がまもろうとしたのは、制度(政体)ではなく、文化(国体)だった。
 日本がいかに伝統をまもってきたか、次回は、その歴史を振り返ってみよう。

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2020年03月30日

右翼とはなにか、左翼とはなにかA

 ●政体をまもる反共右翼、国体をまもる伝統右翼
 かつて、森喜朗の「神の国」発言が世間を騒がせた。
「神の国」が現人神$_話を連想させたのであろう。
 2000年5月、森喜朗首相の「日本は天皇が中心の神の国」という発言に共産党や社民党、民主党ばかりか、与党の公明党までが猛反発して、森内閣は、解散に追いこまれた。
 このとき、朝日・毎日を筆頭に産経をふくめた新聞マスコミが「国民主権や政教分離に違反する」「戦前の軍国主義を思いおこさせる」と大キャンペーンを張った。
 森首相は記者会見で「(天皇中心の神の国は)日本の悠久の歴史と伝統文化という意味で申し上げており、戦後の主権在民となんら矛盾しない」と弁明した。
 だが、その記者会見で「神は天照大神でも日蓮でも、お釈迦さまでもキリストでもよい。じぶんが信じる神仏でよい」と口を滑らせて、馬脚をあらわした。
 このとき、森が「神々の国」といっていれば、大きな騒ぎにはならなかった。
 神々の国なら、多神教で、日本の国情に合致するからである。
 ところが、森のいう神は、お釈迦さまでもキリストでもよいという一神教の神で、日本古来の八百万の神々ではなかった。
 明治憲法下、政府や軍部は、天皇を現人神≠ノまつりあげて、帝国主義と戦争政策のシンボルとした。
 現人神は、明治政府がつくりあげた一神教的な偶像で、日本本来の多神教の神格ではなかった。
 天皇ファシズムは、軍部による天皇の政治利用で、これに国民も騙された。
 神の国発言に世論が拒絶反応をしめしたのは、天皇の政治利用という歴史的悪夢を忘れていなかったからであろう。

 日本文明と西洋文明のちがいは、一神教か多神教かのちがいである。
 一神教の西洋は、正しいものが一つしかない不寛容な一元論である。
 正しいものが一つしかないので、そこから、抗争の論理がうまれる。
 それが権力で、右翼と左翼は、どちらかが滅びるまで争う。
 ヨーロッパの近代は、革命と戦争の時代で、その結果、伝統国家が、すべて消えてしまった。
 革命と戦争の時代が終わって、民主主義の時代がやってきた。
 そして、自由主義国家と全体主義国家がにらみあう構造がうまれた。
 自由主義が資本主義で、全体主義が共産主義なのはいうまでもない。
 右翼と左翼にわかれた権力構造が、2つの体制をつくったのである。
 西側陣営が自由民主主義、東側陣営が人民民主主義で、ルーツは、いずれもルソーが古代ギリシャからパクッた民主主義である。
 民主主義は、ただの政治手法で、秩序や法則、徳性をしめすものではない。
 もともと、武力の代替で、物事を、大勢の人間が死ぬ武力衝突ではなく、死人がでない多数決できめようというのである。
 その多数決を議会にゆだねるのが自由民主主義で、独裁者が人民からこれをあずかるのが、人民民主主義である。
 このとき、民主主義を巡って争いがうまれるのは、右翼と左翼は、宿命的な立関係にあるからで、その典型が米ソ冷戦構造だった。
 そこから派生したのが左翼(共産主義)と右翼(資本主義)の抗争である。
 右翼=保守が、反共主義を掲げたのは、共産革命を防ぐためだった。
 それが反共右翼で、大川周明や北一輝らの国家社会主義も反共・尊皇だった。
 かつて、右翼は、反共の尖兵として、権力に利用されてきた。
 60年安保が、その代表的ケースで、暴力団まで、右翼陣営にくわわった。
 だが、ソ連邦の崩壊などで、革命の危機が去って、反共という旗印が効力を失った。
 反共は、政治イデオロギーで、もともと、歴史や民族、文化から切り離されている。
 権力も反共右翼をまもる気などさらさらなかった。
 すがたを消したのは、反共右翼だけではなかった。
 暴力革命をめざした極左も消滅した。
 権力をもとめたからで、極左どころか、日本共産党さえ、国家権力からマークされる存在なのである。

 多神教の日本は、すべてが共存できる寛容の多元論である。
 一元的な権力は左翼と右翼に分裂して、いがみあう。
 ところが、二元論の権威と権力は互いに補完しあう。
 戦後の日本人は、民主主義をあたりまえと思っているが、民主主義は権力の体系で、有徳性や文化性のないただの多数決である。
 日本は、多数決万能の革命国家ではなく、伝統国家である。
 したがって、多数決より、秩序や道徳、習慣やしきたりを重くみる。
 これを保守主義というならば、右翼は、生粋の保守思想家で、国体や文化の防衛者、天皇の防人なのである。
 室町から戦国時代にかかて、権力(戦国大名)が覇権を争ったのは、権威(朝廷)が不在だったからだった。
 戦国時代に幕が下りたのは、織田信長が正親町天皇とむすんで、朝廷の権威を復活させたからである。
 日本の右翼は、反共や国家社会主義だけではない。
 国体護持という別の系統があって、むしろ、こっちのほうが本流である。
 楠木正成や北畠親房、あるいは、西郷隆盛や頭山満、内田良平らが心をむけたのは、皇道思想や伝統主義、日本主義という別の系譜である。
 次回は、国体の守護者としての伝統右翼をみていこう。
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2020年03月22日

右翼とはなにか、左翼とはなにか@

 ●政権をもとめる左翼、国体をまもる右翼
 日本で、保守思想や国粋主義が右翼と呼ばれるようになったのは、フランス革命時の議事場で、議長の右側に「保守、穏健派」、左側に「共和、革新派」が配置された故事からである。
 西洋から政治学を学んだ学者らが、これを引用して、右翼と左翼の呼び名が定着したが、フランス革命は、231年前の1789年の出来事である。
 田沼意次が老中をつとめた江戸時代後期にあたるが、当時の日本に、国体という概念はあっても、右翼や左翼などということばも観念もなかった。
 したがって、日本古来の国粋思想や皇国思想を右翼というのはあたらない。
 そもそも、右翼や左翼は、権力の用語で、権力が保守派と革新派に分かれて争った18世紀ヨーロッパの市民革命からうまれたモダニズム(近代主義)の概念である。
 西洋では、権力によって、国家がつくられた。
 それを補佐したのが宗教で、王権神授説のキリスト教国家も、国家が宗教の道具にすぎなかったイスラム教国家も、国家が権力構造そのものであった。
 国家が一神教と合体して、政体(権力)だけがあって、国体(権威)が不在の一元論に陥っているのである。
 一神教も権力も、他との共存をゆるさない一元論である。
 したがって、周囲をすべて敵と見立てて、徹底的に殲滅しようとする。
 それが十字軍やジハードなどの聖戦思想で、その一元論的な世界観が、異端審判や宗教戦争をへて、ルネサンスや啓蒙思想から市民革命と産業革命、科学主義や近代主義、そして、侵略や世界大戦へ一直線にすすんできた。
 戦争と差別、飢餓と貧困、憎悪と恐怖などの世界悪の根本にあるのが一神教文化=権力主義で、新コロナウイルスで世界中が震え上がっているなか、アフリカでは、1日8000人の幼児が餓死している。
 キリスト教文明がアフリカを侵略した傷跡がまだ癒えていないのである。
 インカ・マヤ・アステカの三大古代文明を滅ぼした西洋文明も、後進国から略奪のかぎりをつくした植民地主義や帝国主義も、源流はキリスト教である。
 ユダヤ教やキリスト教、イスラム教が、排他的にして独善的、好戦的なのは唯一神ヤハウェを信じる一神教だからで、戦争や自然破壊など、現在、世界が直面している災禍は、すべて、一神教(文明)によってもたらされたといって過言ではないだろう。

 北畠親房の『神皇正統記』の冒頭に「大日本は神国なり」とある。
 日本という国家をつくりあげているのは、神意で、権力ではないと宣言しているのである。
 神意というのは、神話からうけつがれてきた多神教的な文化構造で、国体がこれにあたる。
 国体は、歴史や伝統、価値や秩序の体系で、これが、権威である。
 権力がつくりあげるのが政体で、権威のもとにあるのが国体である。
 日本の右翼は、権威と権力、国体と政体をわけたときの権威、国体の防人である。
 世俗の権力をもとめて、選挙に打ってでるヨーロッパの右翼と日本の右翼は思想が異なるのである。
 西洋に権威(=国体)がないのは、権力(=政体)の一元論だからである。
 くわえて、近世・近代にいたって、先進国のすべが革命国家となった。
 革命というのは、市民革命のことで、伝統的な秩序や価値観を捨てて、民主主義をとったのである。
 民主主義に慣れている戦後の日本人は、国家と聞けば、ヨーロッパ的な権力国家を連想するだろう。
 だが、日本は、世俗の権力ではなく、聖なる権威によって拓かれた神の国である。
 弥生時代から古墳時代、飛鳥時代にわたる日本の古代(大和時代)が、権力ではなく、権威によって統一されていたことは、当時、4800基にものぼる前方後円墳がつくられたことからも明らかである。
 このかん、領土戦争はほとんどおきていない。
 権力同士がつぶしあったのではなく、多神教的な権威の下で、国造りがすすめられていったのである。
 中東からキリスト教が入ってくる以前のヨーロッパも多神教で、豊穣多産の女神信仰やケルト人の精霊信仰、ギリシャ神話などが知られる。
 その頃、ヨーロッパも、日本と同様、神話的な世界で、宗教的権威と世俗的権力が切り離されていたはずである。
「クフ王ピラミッド」と「秦の始皇帝陵」、「仁徳天皇陵」が世界の三大墓陵といわれるが、いずれも、多神教的な権威のもとにおける大事業だった。
 エジプトは、太陽神ラーを中心とする多神教、焚書坑儒の始皇帝は法治主義(法家)、そして、日本は神道の自然崇拝で、絶対神(ヤハウェ)を崇める一神教とは宗教観が根本的に異なっている。
 唯物史観から見る世界史は、革命や戦争、征服などの権力の歴史で、文化史や生活史、人類史がみえてこない。
 したがって、大和朝廷の成立過程や古墳の文化的・文明的意義、源氏物語の歴史的背景、日本経済をささえてきた農本主義の構造などの歴史の謎は、なに一つ明らかにされていない。
 日本の歴史学会はマルクス史観、歴史実証主義一辺倒で、戦前の皇国史観を否定するためだけに存在しているようなものなのである。
 一神教や一元論、権力主義のどこからも、共存という考え方はでてこない。
 したがって、日本人の「和の精神」や「共栄思想」が西洋人にはわからない。
 個人と神が信仰契約する一神教では、じぶん以外は、すべて、敵となるからである。
 現在、世界が直面しているのは、キリスト教的な闘争史観や近代主義のゆきづまりで、突破口となるのは、日本の多神教的文化(=日本主義)であろう。
 次回以降も、神の国をテーマに、日本のおける右翼と左翼の衝突をみていこう。


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2020年03月06日

日本主義の復活と近代主義の終焉C

 ●万世一系と男女平等の両方を尊重する日本人
 自由や平等、権利や民主主義などの近代主義は、ヨーロッパ中世のルネサンスや宗教改革、近世の啓蒙時代をへて、近代の市民革命、産業革命へといたる道筋をとおってあらわれた。
 異端審問や魔女裁判が横行した暗黒の中世において、人間は、神のシモベというより人権も人格もない宗教の奴隷で、宗教裁判で火刑になった無垢の民はおびただしい数にのぼる。
 カトリックとプロテスタントが争った宗教戦争も凄惨で、ドイツ30年戦争では人口の三分の一が減少、経済も壊滅的になった。
 啓蒙思想や市民革命をとおして、ヨーロッパに自由や平等、民主主義があらわれた背景には、ローマ法王庁と絶対王権の凄まじい圧政、そして、キリスト教という絶対神の硬直した宗教観があったのである。
 ヨーロッパと日本では、歴史や風土、文化がまったく異なっていて、同列に語ることができないのはいうまでもない。
 とりわけ、異なるのが、宗教観である。
 西洋は、キリスト教やユダヤ教、イスラム教など一神教、絶対神である。
 一方、日本は、多神教で、自然崇拝や神話信仰である。
 民族の価値観は、宗教に根ざしていて、西洋人は一元論で、日本人は多元論である。
 西洋は、正義や真実、絶対善をもとめて、それ以外を排除する。
 キリスト教徒にとって、異教徒は悪魔で、大航海時代、インカ、マヤ、アステカ文明を滅ぼして、なんの痛痒もかんじることがなかった。
 アメリカインディアンを全滅させ、広島と長崎に原爆を投下するのが、異教徒を人間と思わないキリスト教徒の本性で、大東亜共栄圏などという人のよいことをやっていて、アメリカとの戦争に勝てるはずはなかった。
 戦後日本は、アメリカから、自由や平等、権利のほか国民主権や民主主義をおしつけられた。
 憲法として、明文化されたものをうけいれたわけだから逃げ場がなかった。
 西洋人は、自国の文化を他国におしつけて、文明化してやったという傲慢な民族で、異文化にたいしては、徹底的に不寛容だった。
 異文化への寛容は、異教の容認につながりかねないからである。
 GHQは、天皇に人間宣言をさせて、神道指令を発令、公職追放令で戦前の要人を追放して、日本の中枢機関へ左翼を送りこんだ。
 それで、日本は劇的に変貌を遂げるはずだった。
 ところが、日本はまったく変わらなかった。
 1946年4月の世論調査(日本輿論研究所)では、天皇制支持3174票(95%)にたいして、天皇制否定が164票(5%)で、他の新聞社アンケートも同じような結果だった。
 日本人は、天皇を神だと思っていたのではないか。その天皇が、人間宣言をしたにもかかわらず、なぜ、天皇への敬愛心を失わないのかと、GHQは首をひねった。
 日本文化の特質にタテマエとホンネという二重性がある。
 西洋人は、異端審問で、有罪なら悪魔の使いというレッテルを貼って火刑にしてしまう。
 ところが、日本人の価値観は、情と理、法と徳、個と集団などの二重構造になっているので、西洋人のように、YESかNOかの一元論にも絶対主義にも陥らない。
 日本人は、天皇は現人神というタテマエをとりながら、ホンネでは、生身の人間であることを知っていた。
 したがって、天皇が人間宣言しても、日本人は、だれも驚かなかった。
 日本は、憲法9条で「戦争の放棄・軍備および交戦権の否認」を宣言する一方、世界第6位の軍事力を有する。
 護憲論者が自衛隊を憲法違反というのは、日本人的な価値観をもたない唯物論者だからで、二重規範(ダブルスタンダード)をもつ日本人にとって、そんなことはあたりまえである。
 全体と部分、集団と個の矛盾は調整がつかないが、日本人は、権威と権力の二元論で、これを解消させた。
 権力だけの西洋では、圧制と反抗、革命という一元論のみちをたどる。
 ところが、権威と権力が分離している日本では、権力が自制して、独裁的な政治がおこなわれない。
 権力は、権威から権力の正統性を戴いて、天皇の大御宝たる国民を支配する。
 どうして、権力が民を虐げることができるだろう。
 西洋から政治学を学んだインテリは、ヨーロッパの権力を日本にあてはめてモノをいうが、すべて、的外れで、日本には、唯物史観も宗教戦争もなかったのである。
 自民党の二階俊博幹事長は、皇位継承について、男女平等と民主主義をあげて、女系天皇を容認するが、男女平等も民主主義も、日本人にとってタテマエであって、正面きって、だれも反対しないが、ホンネは、ちがうところにある。
 日本人は、万世一系の伝統と、男女平等や民主主義などの近代主義の両方を尊重するのである。
 憲法改正も、姑息な「9条加憲法(三項)よりも、解釈改憲の二重規範のほうが有効なケースもありうる。
 政治家は、タテマエとホンネを併せもつ日本人の懐の深さをもっとよく理解すべきだろう。


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2020年03月02日

日本主義の復活と近代主義の終焉B

 ●旧皇族の皇族復帰に反対する朝日・毎日
 天皇家という呼称は、天皇の唯一の血筋という誤解を招くおそれがある。
 実際は、一つの宮家(皇族)で、皇統という大樹からのびた一本の枝である。
 今上天皇(第126代天皇徳仁)は、世襲四親王家(伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮)のうちの閑院宮という系統で、始祖は、第113代東山天皇の第六皇子直仁親王である。
 閑院宮の第2代目当主典仁親王の第六男子、兼仁親王が第119代光格天皇として践祚して以来、現在の皇室まで、直系(親子関係)よって、皇位が継承されてきた。
 閑院宮は、1947年(昭和22年)に皇籍離脱したが、一方で、光格天皇以来、今上天皇まで、直系7代にわたって、皇統を継承してきた。
 現在、残っている宮家は、秋篠宮、常陸宮、三笠宮、高円宮の4家である。
 戦後、GHQが11宮家を皇籍離脱させたのは、天皇を戦犯として裁くつもりだった連合軍に皇室を存続させる意図はなかったからである。
 したがって、サンフランシスコ講和条約締結時に、憲法と教育基本法、11宮家の皇籍離脱を撤廃しておくべきであった。
 ところが、吉田茂首相は、占領体制のなかで経済を復興させる吉田ドクトリンを掲げて、政治向きのことにはなにも手をつけなかった。
 そのしっぺ返しが、皇統の危機で、小泉純一郎元首相の「皇室典範に関する有識者会議」(2005年/平成17年)が女性・女系天皇を容認する報告書を提出するにいたって、国体の万世不変の原則たる万世一系が危機に瀕した。
 その翌年、秋篠宮文仁親王と同妃紀子さまのあいだに悠仁親王がお生まれになって、皇統の危機は、一応、先延ばしになったが、危機の構造が解消されたわけではない。
 将来、悠仁(ひさひと)天皇が男子に恵まれなかった場合、宮家断絶という不測の事態によって、再び、皇統断絶、皇室消滅の危機が生じることになる。
 皇祖皇宗が、民間人のだれとも知れない祖先にすりかわる女系天皇は、皇統の否定で、ここでは論外である。
「九条の会」の呼びかけ人の一人で護憲派の理論的支柱である奥平康弘(東京大学名誉教授)が、月刊『世界』(平成16年8月号)に寄稿した論文によると女系天皇論者は、女系天皇を手にするや、万世一系の伝統から外れた天皇には正統性がないと主張して、今度は一転して、皇室制度を廃止にもっていこうとすると腹だとみずから告白している。

 そのときに使われる口実が男女平等≠ナある。
 ここで、伝統主義と近代主義の衝突がおきるのである。
 自民党の二階俊博幹事長は「男女平等、民主主義を念頭におけばおのずから結論は出ると」と、女系天皇について理解をしめしたが、新聞世論も80%が女系天皇を支持する。
 もっとも、このうち、半数以上が女系・女性天皇のちがいを理解していない(産経・FNN合同世論調査)ことがわかっているが、朝日は、小泉政権下の有識者会議の提言をもちあげ、一方、毎日は「前近代まで確固とした皇位継承の原則がなかった」という珍学説までくりだして、女系天皇を推す。
 皇位継承の原則がなかったというのは、第26代継体天皇(先代武烈天皇と10親等差)、第100代後小松天皇(先代後亀山天皇と11親等差)、第119代光格天皇(先代後桃園天皇と7親等差)などをさすのであろうが、親等というのは、男系女系をふくめた家系図における考え方である。
 父母と子は1親等、祖父母や兄弟姉妹は2親等、一代を経るごとに1親等がくわわるが、皇統は、親等で数えることはできない。
 神武天皇の血(遺伝子)をひきついているかいないかだけで、是か非だけである。
 大伴金村が、越前に住んでいた応神天皇5世にあたる継体天皇を探し出したのは、親等ではなく、神武天皇の血統を継いでいるかいないかだけで、それが万世一系である。
 女系天皇を推しているのは、皇室打倒を掲げていた共産党と、かつて皇室を「生理的にいやだと思わない? ああいう人達というか、ああいうシステム、ああいう一族がいる近くで同じ空気を吸いたくない」と語った辻元清美が幹事長代行を務める立憲民主党で、両党の背中を押しているのが朝日と毎日である。
 秋篠宮文仁親王と悠仁親王という皇位継承者がいるのに皇室典範を改正してまで「女系天皇を誕生させよう」というのは、魂胆があるからで、女系天皇を実現させて、そのあとで、皇室を転覆させようという二段階革命である。
 明治天皇の玄孫にあたる作家の竹田恒泰は、現在の皇統の危機をつくったのは、11宮家を皇籍離脱させたGHQと断じる。
 皇籍離脱した11宮家は、伏見宮、北白川宮、梨本宮、閑院宮、山階宮、東伏見宮の6宮家と賀陽宮、久邇宮、朝香宮、東久邇宮、竹田宮の5宮家である。
 前の6宮家は男子がなく断絶となったが、あとの5宮家には男子に恵まれた。
 賀陽宮(未婚2人)、久邇宮(未婚1人・既婚1人)、朝香宮(既婚1人)、東久邇宮(未婚5人・既婚5人)、竹田宮(未婚2人・既婚4人)と20人をこえており、今後、子どもの人数はさらにふえる。
 旧皇族をふくめると皇室には後嗣がゆたかなのである。
 旧宮家の皇籍復帰と養子制度の容認、旧皇族との婚姻に限定した女性宮家の創設は、皇室典範の改正によって、すみやかに実現できる。
 これに朝日・毎日らが猛烈に反発して、世論を煽るはずで、11宮家の皇籍復帰について、一度、民間人になったひとが皇族に復帰することは国民感情がゆるさないと力説する。
 民間人が后妃となった美智子様、雅子様、紀子様が皇族として国民に仰がれて、一方、旧皇族が皇族に復帰して国民が違和感を覚えるという論は、失当である。
 皇室の存続は、11宮家の皇籍復帰をめぐる朝日・毎日らの近代主義と伝統を重く見る日本主義のたたかいにかかっているのである。
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2020年02月25日

日本主義の復活と近代主義の終焉A

 ●近代主義は革命と戦争の産物
 近代は、革命と戦争の時代で、近代主義は、18世紀の啓蒙主義や市民革命からうまれた自由や平等、民主主義、権利意識などをさす。
 もともと、革命思想とあって、歴史や伝統、宗教や習俗などを否定して、合理主義や科学主義、唯物論をもちあげる。
 ちなみに、国連常任理事国の米・英・仏・ロ・中の五大国をはじめ、世界の先進国は、王政復古した英国をふくめて、すべて、革命国家である。
 旧体制が新体制にきりかわった近代のキーワードが民主主義で、英国革命やフランス革命、アメリカ独立戦争から共産主義革命、ヒトラーのナチズムまでが民主主義を掲げ、あるいは、民主主義を利用した。
 革命国家ではなかったのは、日本だけだが、だからといって、日本が民主的な思想や価値観を欠いた後進的な国だったということにはならない。
 それどころか、ヨーロッパで、絶対王権の圧制と奴隷制度、キリスト教教会の異端裁判や魔女狩りでおびただしい人々が犠牲になった同じ時代、日本では市民社会が成立して、衣食住にわたって、庶民文化が花開いた。
 日本には、古くから君民一体≠フ国体のほか、分相応や相身互い、もちつもたれつなどの民主主義的な社会通念があって、7世紀の初めには、第1条に和の心を謳った一七条憲法がつくられている。
 絶対王権とキリスト教教会の二重支配をうけて、塗炭の苦しみに喘いでいたヨーロッパの民にくらべて、君民一体の日本人がいかに文化的で、しあわせであったことか。
 君民一体というのは、天皇と民が一体化しているということである。
 稲作国家における天皇は、豊作祈念の祭祀王で、その名残が新嘗祭である。
 民の大多数が稲作に従事して、米が経済の中心だった原始農本主義の国家において、天皇=祭祀王がいかなる地位にあったか、多くの説明は必要がないであろう。
 そして、権力は、天皇から民をあずかって、施政権を行使した。
 権力が、民に暴虐な政治をおこなわなかったのは、民が天皇の大御宝だったからで、君民一体の政治を古事記は「しらす(しろしめす)」と記述している。
「葦原中国は、我が(天照大御神)御子の知らす国と言依し賜へりし国」
 日本で、市民革命がおきなかったのは、天皇中心の日本には、民を苦しめる絶対的な王権や皇帝権(ローマ・カトリック教会)がなかったからである。

 戦後、近代主義がもちこまれて、明文化されたのが、現行憲法である。
 アメリカがもちこんだ民主主義や国民主権にたいして、日本人は、違和感をもたなかった。
 明治の民権思想や大正デモクラシーに慣れていたというよりも、君民一体の天皇の知らす国では、民は、ヨーロッパのように、権力から虐げられることがなかったからである。
 ところが、GHQの若い将兵は、日本人は、天皇を個人崇拝する野蛮人だと思いこんで、民主主義といっしょにダーウインの進化論を教え込もうとした。
 なにしろ、日本人を文盲ときめつけて、漢字の代わりに、ローマ字を国語にしようとしたほどで、日本のことなどなにも知らなかった。
 とりわけ、憲法をつくったGHQ民政局(GS)はニューディーラーの巣窟で、わずか9日間で、日本の憲法をつくることができたのは、民主主義や国民主権を謳ったフランス革命のテキストをコピーしただけだったからである。
 日本国憲法は、GHQ民政局の独善で、日本の国体に根ざした国家基本法ではなく、近代主義をてんこもりにしたユートピア啓蒙書だったのである。
 最大の誤りは、戦前まで、憲法と同格の法規だった皇室典範(両者を合わせて典憲)を憲法の下位の民法や商法、刑法などと同等の一般法にしてしまったことである。
 これでは、天皇の地位や皇統継承、祭祀が、国会の多数決や裁判所の判断によって左右されることになってしまいかねない。
 秋篠宮さまは、昨年の誕生日会見で、大嘗祭は国費ではなく、天皇ご一家の私的活動費でまかなうべきとの見解を示した上で「聞く耳を持たなかった」と宮内庁長官をつよいことばで非難されて「大嘗祭の御禊」をご欠席された。
 秋篠宮さまのご発言の根拠は憲法で、憲法によると、宮中祭祀は、天皇家の私的行事で、憲法原理主義に立つなら、天皇=国体までが、吹けば飛ぶような憲法に依拠するという話になってしまう。
 これにたいするネット上の反発は、すさまじいもので、27億円の大嘗祭をケチるなら43億円のお住まいの邸宅新築も辞退すべきという意見もとびだす炎上ぶりだった。
 大嘗祭は、国家国民の歴史的祭祀で、天皇ご一家の私的活動ではないとする意見がほとんどで、宮中祭祀が、憲法20条や89条が禁止する宗教的活動にあたるとする憲法解釈は、国民にうけいれられていなかったのである。
 天皇にたいする尊敬心と、秋篠宮さまへの反発は、日本人の天皇観を如実にあらわしている。
 日本人の天皇への敬愛心は、神話にはじまる日本の歴史や伝統にねざすもので、憲法という近代主義にもとづいたものではない。
 憲法は、伝統を否定した近代主義の寄せ集めで、合理主義に立っている。
 多くの日本人が秋篠宮さまに反発した理由は、秋篠宮さまのご発言が憲法を根拠にされていたからである。
 日本人の尊皇心は、道徳や公徳心のような公的な情緒で、個人崇拝や私的な感情ではない。
 天皇の権威や祭祀の正統性、皇祖皇宗の大御心は、歴史上の神格で、天皇の地位は、皇祖皇宗が就いてこられた歴史上の玉座にある。
 次回は、天皇家ではなく、皇統へ視点を移して、天皇を考えてみよう。
posted by office YM at 11:24| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする