2017年09月19日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」O

 ●神話に隠された歴史の真実
 スサノオは、天照大神や月読命とともに、イザナギの禊からうまれた3神のうちの一柱である。
 天照大神は高天原を、月読命は夜の食国(オスクニ)を、そしてスサノオは海原を治めるようイザナギに命じられるが、スサノオは、イザナミのいる根之堅洲国に行きたいと泣き叫び、中つ国から追放されてしまう。
 スサノオは、天照大神に別れ告げるため高天原へ上るが、天照大神はスサノオが攻めて来たと思い、武装して待ち構える。
 二神は互いの疑いを解くために誓約(うけい)をおこなう。
 誓約は結果が宣言どおりか否かによって、邪心のあるなしを判断する卜占である。
 天照大神がスサノオの持っている十拳剣を噛み砕き、吹き出した息から三柱の女神(宗像三女神)が産まれた。
 この三女神を祀るのが、2017年に世界遺産登録された沖の島宗像大社の沖津宮、中津宮、辺津宮である。
 次に、スサノオが、アマテラスの「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を噛み砕くと、宣言どおり、吹き出した息から五柱の男神が生まれた。
 スサノオの潔白は証明されたが、高天原に滞在することになったスサノオが乱暴をはたらいたため、天照大神は嘆いて、天の岩屋に隠れてしまう。
 これが天の岩戸隠れで、太陽神=天照大神が身を隠したため世界が真っ暗になってしまう。
 高天原を追放されて、出雲の鳥髪山へ降ったスサノオは、その地を荒らしていた八岐大蛇の生贄になりかけていた美しい少女櫛名田比売(くしなだひめ)と出会う。
 スサノオは、櫛名田比売を櫛に変えて髪に挿し、八俣遠呂智を退治する。
 そして八俣遠呂智の尾から出てきた草那芸之大刀(くさなぎのたち)を天照御大神に献上し、それが三種の神器の一つとなった(熱田神宮の御神体)。
 こうして、スサノオは櫛名田比売を妻として、出雲の根之堅洲国に留まる。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまごみ)に 八重垣つくる その八重垣を」
 スサノオは、日本で最初の和歌を詠った歌人でもあったのである。

 スサノオは、天つ神ではなく、国つ神である。
 国つ神の代表であるオオクニヌシ(大国主命)はスサノオの子孫である。
 この設定は多くの示唆をふくんでいる。
 一つ目は、天孫族(天つ神)と地祇(国つ神)が対立関係にあったこと。
 二つ目は、天つ神と国つ神は、全面戦争を避けて、棲み分けしたこと。
 三つ目は、世界を現象界(=顕界)と観念界(=幽界)に分け、前者を天つ神、後者を国つ神が支配するとしたこと。
 肉体の目に見える顕界と、魂の目に見える幽界の二元論である。
 幽界が設計図なら、設計図どおりにつくられたのこの世が顕界で、両者は表裏の関係にある。
 神道では、高天原と葦原中国、天つ神と国つ神、天照大神(伊勢神宮内宮祭神)と豊受大神(伊勢神宮外宮祭神)というふうに二項対立(二元論)が基本原理になっている。
 これが、権威と権力の二元論にひきつがれて、天皇に地位が確定する。

 天皇中心の政治というのは、天皇と摂政、天皇と幕府の二元体制で、天皇は祭祀、為政者は権力をあずかった。
 祭祀と権力もまた二元論で、祭祀は国家の安泰と民の幸を祈念し、権力者は政体をコントロールする。
 政体は、法や権力を操作する一過性の形や状態である。
 したがって、政体(権力)が変わっても国体(権威)に変化は生じない。
 その二元構造が日本を世界一の伝統国家たらしめてきたといってよい。
 中世以降、二元構造が崩壊に瀕する危機が二度あった。
「建武の新政」と明治維新から第二次大戦敗戦までの80年余である。
 後醍醐天皇の新政が失敗すると「応仁の乱」から戦国時代へ日本は「暗黒の中世」へ突入してゆく。
 権力をもとめた権威が空洞化したため、権力が手綱を失った暴れ馬のように暴走したのである。
 後醍醐天皇や北畠親房、楠木正成らが傾倒していたのが儒教で、親房の『神皇正統記』は徳治と名分論を謳った易姓革命のテキストだった。
 建武の新政は、神道が後退した時期の政変だったのである。
 もう一つは、天皇を国家元首に担いだ明治憲法体制で、国体と政体の合一によってつくりあげられた帝国主義は、ヨーロッパの政治システム真似た軍部による天皇の政治利用でもあった。
 その結末が1945年の国体の危機で、朝鮮戦争がなかったら、日本は共産主義革命にのみこまれていたろう。

 戦後の平和と繁栄は、国体護持の賜物で、象徴天皇の存続によって、国体と政体の二元論が復活して、日本再生が曲がりなりにも実現した。
 戦後、日本は、民主主義の国になったが、民主主義は、課税や法律、行政と同様、政体の範疇にあるもので、国家の安全や発展、民の幸という国体概念を超えるものではない。
 国会の開会式に天皇陛下がご臨席されるのは、日本が、国体(権威)と政体(権力)が二元論に立っているあかしで、天皇が憲法上の存在であるというのは、左翼反日の妄想にすぎない。
 憲法が最高法規で、民主主義が最高の意志決定手段というのは、政体=国家の革命国家のルールであって、国体を有するわが国には通用しない。
 伝統国家では、法規や多数決など政体の一過性のルールだけではなく、習慣や伝統、しきたりが重んじられる。
 国体は歴史の一部なので、過去が現在に反映されるのである。
 政治の目的は、国家・国民の繁栄の継続であって、国家は、現在を生きるにすぎない人々の占有物ではない。
 国民投票でEUから脱退したイギリスや大統領公選制のアメリカにあるのはのは、多数決(民主主義)だけであって、国体という政治の理想がない。
 神道の伝統にもとづき、権威と権力の二元論を立てた日本の国の形は、世界でもっとも洗練された政治体制といっていいであろう。
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2017年09月15日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」N

 ●神話と実史の融合点と断絶点
 神武天皇の祖先にあたるのが、神代のイザナギ・イザナミである。
 そこに神話と実史の接点がある。
 イザナギ・イザナミが国土や多くの神々を生み、黄泉国から帰ったイザナギが禊払いしたときに天照大神・月読尊・須佐之男命が生まれている。
 ここまでが神話である。
 天照大神の孫で、天孫降臨したニニギノミコトの曾孫が神武天皇である。
 ニニギノミコトが地上に降り立ったあとが人代(実史)にあたる。
 イザナギ→天照大神→アメノオシホミミ→ニニギ→山幸彦→ウガヤフキアエズ→神武天皇。
 したがって、皇室の祖は、イザナギでもイザナギからうまれた天照大神でもなく、天照大神から2代下った人代のニニギノミコトということになる。
 女系天皇論者が、天照大神を皇室の祖というのは、神話と実史の混同で、天照大神は、皇祖ではなく、皇祖神である。
 ちなみに天皇以外の氏族もすべて、イザナギ・イザナミからはじまっている。
 大伴氏はアメノオシヒノミコト、物部氏はニギハヤヒミコト、中臣氏(藤原氏)はアメノコヤネが祖先で、神を祖先にしていない大豪族は百済出身といわれる蘇我氏だけである。
 有力豪族が天皇に忠実だったのは、かれらの祖先がニニギの降臨に従った神々(五伴緒/イツトモノオ)だったからで、神話秩序の下にあった支配層の手によって、天皇中心の体制をつくりあげられてゆく。
 日本史で、唯一、天皇に刃をむけたのは、第32代崇峻天皇を弑逆した蘇我馬子だけだが、大化の改新で、蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿の直系4代による独裁体制が破られて、天皇中心の体制が復活する。
 ちなみに、蘇我氏が大きな力をもったのは、天皇の外戚(女系)だったからで、天皇の妃は蘇我一族がほぼ独占していた。

 天皇が尊いのは、神の子孫だからではなく、神武以来の血統(万世一系)がまもられてきたからである。
 その伝統こそが天皇の正統性である。
 天皇の地位は、歴史に用意された血統(男系相続)という玉座≠ノあって、そこに座られるのが天皇陛下である。
 皇位は、歴史上の地位であって、皇室の家系にとどまるものではない。
 女系天皇容認論は、歴史をつらぬいてきた真実を裏切る伝統破壊にほかならず、女性天皇という事態になれば、天皇の正統性が根こそぎ失われる。
 皇室断絶の危機を回避する唯一の方策は、旧皇族の皇籍復帰か、旧皇族への皇統承継権の付与しかなく、GHQが図った皇室断絶政策(11宮家の臣籍降下)をいつまでもひきずるほど愚かな歴史的選択肢はない。
 まもらなければならないのは、天皇の正統性で、天皇陛下も皇室も、皇位という歴史に刻まれた玉座をまもることによってまもられる。
 世界遺産に登録された沖ノ島(宗像神社)が神の島とされているのは、神性をおびているからではなく、4世紀から現在まで厳しく伝統がまもられてきたからである。
 沖ノ島にはきびしい入島制限と女人禁制がある。
 それが伝統で、世界遺産委員会は、女人禁制をふくめて歴史遺産としたのである。
「いまは男女平等の時代」などといって、女性宮家・女系天皇をみとめようというのは、伝統を毀損、破壊する亡国の徒のたわごとにすぎない。

 神話へ話をもどそう。
 天皇にかかわる神話は国譲り≠ナあろう。
 これは、ニニギノミコトの降臨(天孫降臨)に先だち、高天原から国土委譲をもとめる使者が派遣され、大国主命がこれを承認して、出雲(出雲大社)に祀られる話である。
 この神話から、大国主命は「国譲りの神」とも呼ばれる。
 国譲りの第一の使者、天穂日神(アメノホヒノカミ)は大国主命に媚びて命をつたえず、第二の使者、天若日子(アメノワカヒコ)は問責使の雉を射たために神意によって矢に当たって死ぬ。
 最後の使者、建御雷神(タケミカヅチノカミ)には、大国主命の二人の子のうち、事代主神は委譲すべきと答え、もう一人の建御名方神は、力くらべを挑むが、敗れて諏訪湖に逃げて、国譲りが決定する。
 大国主命で有名なのが「因幡の白兎」である。
 心やさしい大国主命が兄たちと争ったヤマガミヒメを娶ったあと、次に恋したのが大国主命から六代遡った祖先スサノオの娘スセリビメである。
 スサノオは幾多の試練に耐えた大国主命を婿としてみとめ、中つ国を治める大任を授ける。
 このあたりのストーリーは粗雑で、スサノオと大国主命、スセリビメの関係や時系列が不自然である。
 ヘビやムカデのいる部屋で寝かされ、野原で火をかけられる試練、寝ているスサノオの髪を柱に縛って刀と弓を奪って遁走するストーリーは奇想天外だが、それが神話で、かつて日本人は、神話と実史を重ね合わせて、日本を神の国としたのである。
 次回はスサノオの神話へ目を転じてみよう。
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2017年09月11日

神道と世界最古の文明「縄文文化」M

 ●理≠ニ非理≠併せ呑む日本精神
 自我が誕生したのは紀元前3000年頃という説がある。
 それまで、ヒトは、動植物と同じように、自然の一部だったのである。
 じぶんと世界が切り離されたとき、人類は、自我という個人領域を獲得した。
 人類にとって、これは革命的なことで、世界がじぶんの外部のものとなったのみならず、他者が他者として、じぶんとは別の存在となった。
 自我のめざめは、人類を自由に、そして孤独な存在にしたが、さらに大きな衝撃は、死の発見だった。
 全体の一部から個となった人類にとって、死は最大の不条理で、死によって、じぶんのみならず、世界が消失する不安と恐怖にさらされた。
 自我にめざめた人々は、超自然的な存在に救済をもとめずにいなかった。
 そこから、祈りや信仰がうまれ、やがて、宗教が誕生する。
 宗教といっても、あったのは、仏教やヒンズー教、儒教などの人為宗教ではなく、自然崇拝や万物に精霊が宿っているとするアニミズムなどの原始宗教である。
 農業がはじまると農業神、家族的なつながりから祖霊、神概念から神と世界を一体とみるパンセイズム(汎神論)、超越的な力を信仰するマナイズム、神と交流するシャーマニズムが派生して、素朴な土着宗教が形成される。
 そこへやがて、仏教がつたわってきた。

 日本に仏教が伝来したのは538年、百済の聖王一六年のこととされている。
 欽明天皇(29代)は臣たちに仏教を受け入れるべきか否かをたずねている。
 蘇我稲目は受け入れに賛成し、物部尾輿(物部守屋の父)や中臣鎌子(のちの藤原鎌足)は反対した。
 当初、仏教は、蘇我一族(蘇我稲目・馬子)だけのものだった。
 その状況を一変させたのが聖徳太子だった。
 聖徳太子は、馬子が物部守屋を討った丁未の乱に参戦して、蘇我氏のクーデターが成功すると、翌年、20歳で皇太子となり、摂政の位(33代推古天皇)についた。
 その後、数十年、聖徳太子は、新羅討伐軍を送り、遣随使をつかわすなどの積極的な外交をすすめ、国内にあっては、十二階の冠位、十七条憲法などを定めた。
 日本の土着的な信仰が神道という形態を整えたのは、曽我一族や聖徳太子が仏教擁護に走ったこの頃だったと思われる。
 推古天皇に「勝鬘経」や「法華経」を講じ、三経義疏を完成させた聖徳太子に対抗して、神道も体系化をすすめ、35代皇極天皇に時代には、皇室神道にもとづいた新嘗祭がとりおこなわれている。
 蘇我一族が仏教の国教化をはかったのにたいして、朝廷は、あくまで神道をまもったのである。

 仏教と神道が共存できたのは、仏教が個人の死生観にもとづき、神道が共同体や国家の安泰に眼目をおいたという理由だけではなかった。
 教義をもたない(「言挙げせず」)神道と経典仏教には対立点がなかったからで、神仏習合は、神道の心と仏教のことばの合体といってよいだろう。
 仏教と神道の棲み分け≠ェ成立したわけだが、実際は、仏教が土着信仰である神道の影響をうけ、日本化してゆく。
 理としての仏教にたいして、神道は非理で、世界は非理に満ち、理で説明がつくものはわずかしかない。
 それが日本精神で、奇異や不思議をそのままうけとめ、一方、理については徹底的に合理性をもとめる。
 現代の文明社会において、ビルの地鎮祭や初詣、七五三のお参りが廃れないのは、日本人が奇異や不思議と合理主義を両立させる二元論的な心根をもっているからである。
 古くは隋・唐文化の国風化から、戦後のアメリカナイゼーションの日本化にいたるまで、日本は、外来文化に吞みこまれることなく、そこから、独創的な文化をあみだしていった。
 その能力の高さは、神仏習合の伝統で、そこに、言挙げしない神道のふところの深さがあるといってよいだろう。
 非理(あいまい)の精神は、どっちつかずということではない。
 両方をうけいれる寛容さで、したがって、西洋の宗教戦争のような「抗争の構図」がうまれない。

 大和朝廷の成立過程で武力闘争がおこなわれた形跡がないのは、無神論的な唯物論者ではなかったからで、日本人は、太古の昔から、非理という唯心的な世界観をもっていたのである。
 それが、神道のベースとなる自然崇拝で、自然界に理のみで説明できるものはほとんどない。
 この原始神道が、自我がうまれたとされる紀元前3000年頃から、延々とつづいてきて、仏教がはいってきた6世紀になって、様式化された。
 神道は、6世紀になってできたのではなく、縄文時代からつづいてきた精神世界が、用明(31代)・皇極(33代)、聖徳太子の時代に、仏教に対抗する形で様式化(新嘗祭)されたのである。
 日本人の精神や民族性に神道という非理の精神が深く根を下ろしている。
 キリスト教や明治維新の西洋文明、戦後のアメリカ文明、そして民主主義にいたるまで、すべて、理の宗教であり、合理の文明である。
 日本精神は、これを否定も肯定もせず、よいところを利用するだけである。
 したがって、根本にある神道的な価値観はいささかもゆるがない。
 皇統の男子継承に「合理性がない」とのべて、女系天皇論者から絶賛された民進党のホープ山尾志桜里議員は不倫スキャンダルで失脚した。
 山尾は、みずからが否定した非理の世界に足をとられたのである。
 山尾を支持してきた小林よしのり(山尾宰相論)や女系天皇論者、高森明勅や田中卓(皇學館大学元学長)、所功らには、日本精神というべき原始神道(縄文文化)にたいする認識がゼロである。
「男系継承は支那の男系主義の影響にすぎない」というのは、日本文化のなんでもかんでも「大陸や半島からの影響」で片をつけるコンプレックスで、こういうやからは、いつか、非理の世界に足をとられて馬脚をあらわすのである。
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2017年09月05日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」L

 ●ニニギノミコトを天皇霊と定めている大嘗祭
 皇室の祖が天照大神であるとして、これを女系天皇の肯定根拠にする暴論がまかりとおっている。
 天照大神は皇室の皇祖神であって、日本人の総氏神とする神話にもとづいた空想上の神である。
 記紀によれば、天照大神は太陽が神格化された天照坐皇大御神で、伊勢神宮(内宮)の祭神でもある。
 皇室の始祖は、天照大神の命によって、高天原から地上に降り立ったニニギノミコト(天孫降臨)で、天皇の血統は、ニニギノミコトから三代下った神倭伊波礼毘古命(神武天皇)からはじまる。
 ニニギノミコト以前は神代で、以後は人代である。
 世系第一/天照大神(禊によって、イザナギの左目から生まれる)
 世系第二/アメノオシホミミ(アマテラスとスサノオの誓約から生まれる)
 誓約(ウケヒ)は吉凶や正邪を占う神事(卜占)で、天照大神とスサノオの誓約では、天照大神がスサノオの十拳剣を噛み砕き、吐き出した息から三柱の女神(宗像三女神)が生まれた。
 次に、スサノオがアマテラスの「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を噛み砕き、吐き出した息から五柱の男神が生まれた。
 その内の一柱が天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)で、勾玉の持ち主が天照大神だったところから天照大神の子という俗説がうまれた。
 アメノオシホミミとヨロヅハタトヨアキツシヒメ(萬幡豊秋津師比売命)とのあいだにうまれたのがニニギノミコトである。
 豊秋津師比売命は造化三神の一柱、高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)の子で、性別のない独神(ひとりがみ)である高御産巣日神の娘、豊秋津師比売命と、誓約からうまれた天之忍穂耳命からニニギノミコトがうまれたのである。
 ここが神話と実史の分かれ道で、ニニギノミコト以前は神話、以後は、この世(葦原中国)の物語となる。
 世系第三/ニニギノミコト(妻は木花佐久夜姫)
 世系第四/山幸彦(妻は豊玉姫)
 世系第五/ウガヤフキアエズ(妻は玉依姫)
 世系第六=皇統第一/神武天皇(妻は阿比良姫)
 天照大神は女神とされるが、独身で、世俗的な意味での夫や子はいない。
 そもそも、女神は性別ではなく、性格であって、スサノオを夫とする俗説には、神である天照大神を人的系統である皇統へ組み入れようとする意図が隠されている。

 神話と実史のつながりを理解するには、世界を3次元でとらえる必要があるだろう。
「造化三神(別天津神をふくめて五柱)」と、最後にイザナギ(男神)イザナミ(女神)が登場する「神世七代」までが第1次元の天(宇宙)である。
 イザナギの禊ぎからうまれた天照大神から、天照大神とスサノオの誓約からうまれたアメノオシホミミまでが第2次元の高天原である。
 高天原は、第1次元の天と第3次元の葦原中国をつなぐイデア(理想郷)であって、神代と人代の橋渡しの役割を担っている。
 神であるイザナギとイザナミが地上で夫婦神になるのも、造化三神が、葦原中国に干渉し、あるいは、天照大神に助言をあたえるのは、のちに天照大神が主になる第2次元の高天原というイデアをとおしてである。
 そして、葦原中国は、高天原という理想をめざして、国づくりをはじめる。
 イデアである高天原と葦原中国は、存在次元が異なっており、神話と実史という大きな段差がある。
 禊ぎや誓約から子がうまれるのが神代で、夫婦神から子が生まれるが人代である。
 天照大神が皇室の祖という主張は、神話と、神話に脚色された人代の区別がつかないオカルティズムにほかない。

 天皇がニニギノミコトの子孫であるという証が大嘗祭(だいじょうさい)の儀式において明快に示されている。
 大嘗祭は、天皇が即位の礼の後、初めてとりおこなわれる新嘗祭(にいなめさい)である。
 新嘗祭は毎年11月に天皇がおこなう収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇みずからも食す祭儀である。
 大嘗祭において天皇は、ニニギノミコトという名に象徴されるにぎにぎしく実った稲穂の姿をみずから体現される。
 その稲穂は皇祖神=天照大神から皇祖=ニニギノミコトに授けられた「斎庭の稲」(天壌無窮の神勅)である。
 天皇が、皇祖(ニニギノミコト)が葦原中国にもってこられた稲を食されることは、天皇みずからが皇祖の霊威を体現し、皇祖とご一体になられるということである。
 それが大嘗祭の本義で、ニニギノミコトの神霊と新穂の実り、天皇の再生が一体となったのが、民族学の泰斗、折口信夫のいう「天皇霊」である。
 大嘗祭の当夜、天皇は廻立殿に渡御し、小忌御湯で潔斎して斎服を着け、深夜、悠紀殿に入る。悠紀殿には、南枕に布団(衾)が敷いてあり、沓(くつ)と沓を載せる台も布団の北隣に置いてある。
 この寝具類がマドコオフスマ(真床襲衾)で、折口は講演「大嘗祭の本義」でマドコオフスマを、天孫降臨の際、ニニギノミコトが身に着けて地上に降り立った御衾と見立てた。
 御衾に包まれたニニギの姿が象徴するのは、穂に包まれた稲で、マドコオフスマは、稲魂の誕生、「天皇霊」は稲の霊そのものだったである。
 悠紀殿で神饌(お供え)を神に供し、告文を奏して、天皇みずからも神饌を食される(直会/なおらい)。
 次いで廻立殿にもどられ、その後、主基殿にはいられて、悠紀殿と同じことをおこなう。
 大嘗祭は「皇室の行事」とされるが、これは「皇室の私的な行事」ではなく「皇室の公的な行事」である。
 大嘗祭の予算は、通常の内廷費以外の臨時費で賄われており、「国事行為」といってよい。
 政府発表によれば、大嘗祭が「国事行為」とされなかった理由は、憲法上の天皇の「国事行為」が「内閣の助言と承認」を必要とするのにたいして、皇室の伝統祭祀である大嘗祭は、それを必要としなかったからである。
 女神である天照大神が皇室の祖なので、女系天皇に正統性があると主張する者たちは、大嘗祭という準「国事行為」において、ニニギノミコトを天皇霊と定めていることを知らないのである。
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2017年08月30日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」K

 ●民に代わって祈る天皇の無私の祈り
 新嘗祭は、収穫祭にあたるもので、11月23日(勤労感謝の日)に、宮中三殿の神嘉殿にて執り行われる代表的な宮中祭祀である。
 とりいれ後、秋の一夜を徹して、新穀を捧げて神とともに新穀を食べる儀礼が新嘗祭で、飛鳥時代の皇極天皇(35代)の御世にはじまったとつたえられる。
 日本では古くから五穀の収穫を祝う習俗があり、それが長年、変化を遂げた一つの形が新嘗祭で、もともと、わが国には、共同体単位で収穫を祝う伝統が根づいていた。
 日本は、ユーラシア大陸の国々ように、他国の攻め、収穫物を奪って成立した国家ではない。
 日本という国家にとって、もっとも大事だったのは、農耕をとおして、民を養う十分な収穫物をえることで、それが国家建設の絶対条件だった。
 いくさに勝って、収穫物を奪えば、奪われたほうの民は生きていけない。
 日本で、覇王が出現しなかったのは、奪い合うより、民が全員、生きることができる収穫そのものを大事にしたからだった。
 したがって、王権は、収穫祭の司祭たる「祭祀王」にさずかった。
 そこが、覇王が延々と殺しあった春秋・戦国時代の中国と決定的に異なる。
 大和朝廷の成立過程で、いくさがほとんどなかったのは、農耕による収穫の価値が掠奪や覇権主義を圧倒していたからで、これが、のちの世の農本主義へつながってゆく。

 オオキミが宗教的権威になったのは、収穫祭の司祭者だったからで、祭祀と政治を、ともにマツリゴトとして一体化する「祭政一致」の観念は、大和朝廷の基本的な政治理念であった。
 祭政一致は、収穫祭と集団の生活、政治、軍事、秩序と合一して国家形成へとむかい、原始神道の発展を促し、やがて、天皇の祭祀(皇室神道)として体系化される。
 マツリゴトと神道をむすんだのが神話である。
 古代国家の確立にともない、天皇の政治支配を基礎づけるために国家誕生の神話が整えられた。
 古代神道は、大和朝廷が信仰する神々を天つ神、もともとの土地神を国つ神として、天つ神を優位においた国産み神話の上に構築された。
 一方、土地には土地神(地祇)、個人には祖霊がおり、万物には八百万の神が宿り、ムスヒ(産巣日/生産する霊力)の神も存在する。
 神道が諸神を吞みこんでしまったのは、最高神が太陽だからで、太陽をこえるものはどこにも存在しない。
 ここが神道のおおらかなところで、自然崇拝を基礎とする神道は、人為の理法やあざとさを否定して、大自然の不可思議をすべて受容する。
 そこでは、人と神、奇異と常道の区別もあいまいのままである。
 神道が仏教と習合したのは、そのおおらかさゆえであった。
 6世紀頃から仏教、儒教、道教など外来思想の受容がはじまった。
 そして、8世紀の奈良時代になって、仏教の全盛期であった隋、唐の影響をうけて、日本は、仏教国家としての体制をつくりあげた。
 古代国家の仏教は、宗教、思想、学芸、技術など文化の全般にわたる高度に発達した体系であって、政治支配を支え、国家を鎮護する外神であった。
 神までが仏にすがって救われることを願う風潮のなか、ミヤ、ヤシロなどの社殿がつくられ、人間の姿をした神像が造顕されるようになったのも、仏教の影響だった。
 ところが、皇室神道は、仏教や儒教の影響をうけることなく、701年の大宝律令から927年の「延喜式」に至る二世紀余の間に制度化され、体系的に整備された。
 神道は、皇室のなかで、日本精神として、純粋培養されていたのである。
 そして、天皇の祭祀の中心をなすイネの収穫祭が新嘗祭として定型化された。
 その理由は、仏教や儒教が個人の世俗的宗教だったのにたいして、皇室神道が非個人(共同体や国家)の非世俗(秘儀)的宗教だったからである。
 神道は、個ではなく、全体の利益をもとめる宗教だったのである。
 収穫祭にあたる新嘗祭は、天皇が五穀の新穀を天神地祇に供し、みずからもこれを食して、その年の収穫に感謝する。
 この宮中祭祀は、一方で、天皇を権威づけるものとして、正統化されることになった。
 祭祀王としてカミと交流する天皇は、生産力と生命力を秘めた新穀を食する儀式によって、生まれ変わり、新しい生命を獲得するのである。
 収穫祭は、翌年のイネの実りを約束する祭りでもあったので、祭祀でカミと合一した祭祀主は、翌年のイネの実りを左右する力をもつ霊的な存在となった。
 新嘗祭は、大嘗祭が天皇の一生一度の即位式と同格であるように、年ごとにおこなわれる即位式でもあったのである。
 天皇の祈りは、民に代わって、民の平安と国家の安泰を祈る無私の祈りで、だからこそ、国民は、天皇や皇室に敬愛の感情を抱く。
 天皇への敬愛は「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる(西行)」という日本の民族的な宗教感情にささえられているのである。
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2017年08月28日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」J

 ●天皇の権威と聖俗%元論
 天皇の権威は収穫祭の司祭に由来する。
 天皇は権力者ではなく、民のために「神に祈る神」なのである。
 収穫祭は、農耕神への信仰と自然にたいする畏敬や畏怖、万物に神が宿るとする原始神道の合作で、収穫祭の司祭は、古人の尊敬の対象だった。
 農耕の普及にともなって、共同体が小集団から大集団へ、大集団の連合から単一国家へ移っていくと、各地の収穫祭が統合されて、その頂点に立つ司祭が新嘗祭を主催する大司祭(オオキミ)となった。
 収穫祭の最高儀礼が新嘗祭であることは、天皇が新穀を神に捧げ共に食する儀式内容からも明らかである。
 収穫祭が国家祭祀(新嘗祭)に、そして、新嘗祭を催す大司祭がオオキミになって、日本は世界に類のない祭祀国家としての体裁を整える。
 日本は、武力で覇権を争ったユーラシア大陸の国々とは別の道筋をとおって国家をつくりあげたのである。
 それが祭祀国家で、天皇という国家の核をもっている。
 天皇は文化概念で、日本は、革命国家が権力を収奪して政体をつくりあげたのにたいして、祭祀という文化の力で国家を形成した。
 収穫祭という民の祭事を、国家祭祀にまで高めた日本は、権力国家ではなく文化国家なのである。
 国家の頂点に祭祀王が立つということは、民の代表が主権者になったということで、日本という国家は、主権が、権力ではなく、民の側におかれている。
 天皇主権は国民主権と同義(君民一体)で、天皇陛下万歳は、民の代表万歳だった。
 君民一体は究極の民主主義にほかならず、日本は、もともと、民主主義国家だったのである。
 日本が皇紀元年以降、2677年にわたって国体を維持できたのは、天皇が民と共にある祭祀王だったからで、君民一体では革命がおこるはずがないのである。

 権力は、権威という後ろ盾をえて、はじめて安定する。
 民が権威に従順なのは、敬愛心からで、民はみずからすすんで従う。
 一方、民が権力に従順なのは、恐怖心からで、民は強制されて従う。
 前者が伝統的支配なら、後者が権力的支配である。
 権力だけの政権は、専制や独裁に陥って、フランス革命後のジャコバン派やナチスのような強権・恐怖政治となる。
 武力によって一時的に覇権を握ることができても、中国の春秋・戦国時代のように、めまぐるしく覇王が入れ替わって、止むことがない。
 春秋・戦国時代に決着をつけた始皇帝の秦ですら短期政権だったのは、民の支持がなかったからだった。
 権威の源泉は民の支持で、権威なき権力は盗賊とかわるところがない。
 権力と権威を分かつのが、世俗と神聖の二元性である。
 そして、この二元性を統一するのが収穫祭≠セった。
 収穫祭は、世俗における生の賛歌である一方、祭祀王が祭祀をとおして神と交流する神聖な行為でもある。
 国体(権威)と政体(権力)は二元論で、人の世は聖俗二元論≠ゥら成り立っている。
 俗なるものが権力で聖なるものが権威である。
 聖なるものは不可知論でもあって、ひとは、奇異なるもの不可思議なるものを、俗なるものよりも深く信仰する。
 知りえぬもののなかに真実があることを知っているのである。
 それが伝統で、継承される過去には合理的な説明がつかないものが多い。
 一方、合理は即物的・唯物論的で、それが権力である。
 権力には、警察や軍隊のほか、法や制度、民主主義までがふくまれる。
 革命は権力闘争の結果で、民主主義と合理主義ですべて片付ける。
 民主主義も権力で、ヒトラーは、民主主義的な手法(一般投票)で独裁者になり、北朝鮮ですら国名に民主主義を謳っている。
 民主主義には一片の権威もそなわっていないのである。

 権力だけあって、権威が不在なとき、乱世となる。
 後醍醐天皇の「建武の新政」の失敗以降、日本が、応仁の乱から戦国時代にいたる暗黒の中世≠ヨ突入していった。
 天皇が俗なる権力をもとめたため、聖なる権威が空位になったからだった。
 一方、朝廷と幕府が不離不即の関係にあった江戸時代は、権威と権力の二元論的力学がはたらき、280年にわたる平和と秩序がまもられた。
 2・26事件で銃殺刑に処された磯部浅一大尉はこんな日記(獄中日記)を残している。
「天皇陛下、なんという御失政でござりますか。なぜ奸臣を遠ざけて、忠烈無双の士をお召しになりませぬか」「何というザマです。皇祖皇宗に御あやまりなさいませ」
 磯辺は、聖なる権威を捨てて、俗なる権力に取り込まれた天皇陛下を叱ったのである。
 明治憲法は、天皇を政治的な主権者、陸海軍の大元帥に立てて、権力の側に取り込み、国民の代表たる新嘗祭の大祭司であることを放棄させた。
 そして、戦後、天皇主権は国民主権に変わって、民主主義革命が達成されたと左翼を狂喜させた(八月革命説)。
 だが、本来、天皇主権は、収穫祭の祭祀王という次元で国民主権とイコールであって、明治憲法の天皇元首も戦後憲法における象徴天皇もインチキだったのである。
 現憲法の国民主権は、実際には行使できないので、これを権力があずかるというルソー流で、国民主権は、権力に利用されているにすぎない。
 民主主義は、権力にとって、きわめて都合のよい代物なのである。
 戦後日本は、民主主義一辺倒の国になって、教育勅語や皇国史観が徹底的に排除された。
 日本は、君民一体の祭祀国家から民主独裁の権力国家へ変容したのである。
「皇統の男系男子相続には合理的な根拠が乏しい」とする民進党の山尾志桜里議員の発言がむなしく響くのである。

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2017年08月24日

神道と世界最古の文明「縄文文化」I

 ●収穫祭と神道、国家のトライアングル
 天皇の権威はいつごろうまれたのであろうか。
 そのとき、古代神道や縄文文化はどんな状態にあったのか。
 もっとも興味深いテーマだが、それを明快に語る学説や書物は存在しない。
 文献や史料が乏しく、歴史的な想像力が不足しているからで、あるのは本筋を外れた瑣末な議論ばかりである。
 天皇の深淵を探るには、紀元前をはるかに遡った太古の歴史観と文化的考証が必要なのはいうまでもない。
 キーワードは宗教と食糧だろう。
 宗教と権威は切り離すことができないばかりか、ほとんどイコールである。
 どんな権威も、たとえそれがいかに素朴な信仰であっても、宗教的権威だからである。
 もう一つの要素が食糧である。
 イネの豊凶は、村落存続の決定的なカギで、日照りや冷害などによる凶作や洪水などの災害によって、村が全滅するケースさえあった。
 ここで、天皇と食糧問題をむすぶテーマとして、新嘗祭が浮上してくる。
 天皇の宗教的権威が収穫祭と深い関連性をもっていることは、新嘗祭の原型が日本の原始農耕社会でひろくおこなわれていたイネの収穫祭だったことからも明らかだろう。
 人力が自然の脅威の前に無力である一方、生産を支配する大地、水、太陽の精霊、穀霊の存在が大きかった古代社会では、収穫祭は、人間の非力さや死生観、当時の自然観や宗教観を反映した生きるための儀式だった。
 万物に霊が宿っているとするアニミズム、自然現象や自然の力を神格化する自然崇拝、超越的な力を信仰するマナイズム、神と交流するシャーマニズムや祖霊崇拝、呪術などの原始的宗教観念が人々の生活を支えていたのである。

 イネづくりの広範な普及によって、小集団だった原始社会の人的規模が拡大し、文化的にも飛躍的に向上して、より高度な古代社会へと歩みはじめる。
 日本の原始農耕社会は、弥生前期にはじまった稲作の全土的な普及によって本格化し、弥生時代中期の紀元前100年頃には、大きな規模をもつ農業共同体に発展して、九州北部では100を超える小国家がうまれたとされる。
 農業の発展にともなって、国家が形成されるのは、世界共通の現象である。
 弥生以前、縄文晩期には、一部でイモ類の栽培がおこなわれていただけとされてきたが、三内丸山縄文遺跡(縄文時代前期から中期/紀元前35世紀〜20世紀)の発見によって、その認識が大幅にかわった。
 三内丸山では、堅果類(クリ・クルミ・トチなど)のほかエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメ類が栽培されていたことがわかっている。
 また、日本の陸稲栽培は、6700年前まで遡ることができるので、縄文の中期には、イネが中心の農耕共同体ができあがっていたはずである。
 国立歴史民俗博物館が土器に付着した炭化米を放射性炭素年代測定にかけた結果、紀元前10世紀頃のものとわかった(2003年発表)という。
 炭化米が付着した土器が弥生式だったことから、弥生時代を紀元前10世紀まで遡らせる騒ぎとなったが、このことから、紀元前10世紀には米穀が主な農産品の一つだったことが明らかになった。
 農耕儀礼を中心とする原始神道の起源は、縄文時代から弥生時代にかかる紀元前3〜2世紀頃とされてきたが、弥生時代の見直しによって、紀元前10世紀前後へ繰り上げになった。
 稲作と神道は収穫祭(新嘗祭)をとおしてむすびつく。
 すでに稲作がはじまっていた皇紀元年(紀元前660年)には、古代神道もまた一応の完成をみていたはずである。

 縄文晩期から弥生にかけて、水田耕作が普及すると、農業の生産力は大幅に上昇し、集落ごとに穀物の備蓄も増え、吉野ヶ里遺跡の高床式倉庫や物見櫓のような建造物も立てられた。
 吉野ヶ里遺跡は、弥生時代がそっくりあてはまる紀元前三世紀から紀元三世紀までの600年間にわたる遺跡だが、その600年のあいだに、小集落から大集落、小国家から小国家連合のような国家形成がすすんだ。
 東海・北陸をふくむ西日本各地で有力な地域勢力が形成されたのが紀元1世紀頃で、2世紀末から3世紀にかけて畿内でヤマト政権が成立、3世紀中頃から古墳時代に移ってゆく。
 これが、これまでの古代史観で、国家がうまれたのは、稲作農業社会が成立をみた弥生時代とされてきた。
 この歴史認識も見直されなければならない。
 国家および原始神道がうまれたのは、弥生時代以前、紀元前10世紀頃の縄文時代後期だったと思われるからである。
 なにしろ、弥生時代が500年以上、遡ってしまったのである。
 この500年にすっぽりおさまるのが欠史8代である。
 2代綏靖天皇以降、9代開化天皇までの史料が乏しいのは、焼失などの特殊な事情があったのでなければ、天皇が収穫祭を執行する大祭司だったからであろう。
 祭祀王は、祭祀という聖域にあって、政治の舞台に登場しなかったのである。
 いずれにしろ、土器に炭化した米が付着していた紀元前10世紀以降、収穫祭(イネ祭り)が継続的におこなわれてきたはずで、古事記には、天照大神が新嘗祭をおこなった神話が残っている。
 集落ごとのイネの収穫祭は、集落唯一のマツリゴト(政)でもあった。
 ここで、食糧問題としての収穫祭と天皇、国家の三つがリンクする。
 集落が小国家へ発展していくなかで、祭司は、より大きな収穫祭を主宰するようになって、やがて、オオキミ(大王)になってゆく。
 大祭司として収穫祭を執行するオオキミは、新嘗祭をとおして、国家の神と一体化して、あらためて王権の保持者となったことを内外に示した。
 年ごとの収穫祭(新嘗祭)は、オオキミの再生の儀礼、反復される即位式にほかならなかったのである。
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2017年08月18日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」H

 ●神道は究極の平和主義
 神道は、縄文時代の後期から弥生時代にかけて、原型ができあがっていたと思われる。
 神道ということばの初見は『日本書紀(用明天皇紀)』である。
「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」とあって、聖徳太子の父・用明天皇(31代)が外来宗教の仏教と神道を並び立てていることがわかる。
 神道には、創唱者や経典が存在せず、奈良時代以降、仏教との習合が本格化したこともあって、神道本来の思想内容がなかなかつたわってこない。
 特定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついていたことから、地域的・閉鎖的という指摘もあるが、神祇信仰が全国規模で広がっていたことからも、かならずしも、限定的ということはできなかろう。
 神道の特性を挙げてみよう。

1、共同体の安寧を祈るもので、個人宗教とは一線を画す
2、八百万の神々への信仰とアニミズム(万物に精霊が宿る)の類似性
3、「惟神の道(かんながらのみち/神と共にある)」と汎神論(神と自然は同一)の類似性
4、祭祀/祭祀主とシャーマニズム(宗教的職能者を中心とした信仰)の類似性
5、開祖や経典が存在せず、教義・解釈がことばによって明らかにされない(「言挙げせず」)
6、神話(天皇を天津神の子孫とする)と一体化している。
7、禊ぎや祓い、浄めという特有の意識や感覚を有する

 神道は、苦悩や絶望からの救済である仏教やキリスト教とはちがい、来世を見ない現実主義で、浄めによって、すべてを水に流す楽観的な世界観に立っている。
 伊勢神道では、内宮祭神の天照大御神と外宮祭神の豊受大神(天之御中主神や国常立尊)とのあいだで幽契(かくれたるちぎり)がむすばれて、国の形がきまったとされる。
 幽契の内容は、この世を高天原のような理想郷にするというもので、現在を神代の延長としてとらえた思想が中今≠ナある。
 神道においては、地上は、キリストの愛や仏陀の慈悲にすがらなければならないような苦悩の地でも穢土でもないのである。
 キリスト教でも、創造主は、この世を理想の地としてつくったはずである。
 その地が穢れたのは、人間が罪を犯したからというのが、キリスト教の原罪で、そこから、神に許しを乞うという信仰構造と神に選ばれた者だけが天国へいけるという差別的な救済思想がうまれた。
 そこに神道との決定的ちがいがある。
 神道には苦悩、絶望、死の恐怖を抱える個人という視座が用意されていない。
 その意味では、全体主義で、見ているのは、共同体や国家の安泰だけである。
 個人主義がでてくるのは、近代以降で、権力が個人の自由を奪った反動からである。
 そういう事情を度外視すれば、本来、全体の利益は個人の利益につながる。
 国が富めば民も富み、民がゆたかになれば国もゆたかになる。
 そこに個と全体の矛盾はない。
 そもそも、自然界においては、個と全体は矛盾せず、すべてが雄大なリズムのなかを滑らかに回転している。
 そのリズムを壊すのは、個人のエゴで、神道的にいえば穢れである。
 穢れは、禊ぎによって浄化され、水に流される。
 ところがキリスト教では、禁断の実を食べたアダムとイブがエデンの園から追放される寓話や堕落した人類が神の怒りにふれて洪水によって滅ぼされるノアの箱舟という物語をつくって、神に許しを乞うという特有の宗教原理をつくった。
 原罪という足鎖を用意して、人々を宗教の奴隷にしたのである。
 大乗仏教は、輪廻転生という釈迦の思想と儒教の祖霊をくっつけて、人々を二重に拘束して、それを教団の利益にむすびつけた。
 檀家制度は、江戸幕府のキリスト教禁止令とセットになっていて、キリスト教徒ではないという証として広がったのが寺請(証文)だった。
 人為宗教は、神話やタブーを教団の利益にむすびつけるのである。
 神道は、自然崇拝という民族古来の素朴な信仰心がそのまま宗教になったので、人為がはたらいていない。
 記紀の編纂にたずさわった藤原不比等には、天皇を天孫族として権威づける意志がはたらいていたであろうが、神話には脚色がつきもので、それを素直に読むのが純心にほかならず、批判は、あくまで付け足しの小智恵にすぎない。
 神道は約束(幽契)の宗教で、自然と自然の一部である人間が協和しながら自己完結的に生を営むことによって、平和や繁栄という約束が果たされる。
 それが日本人=縄文人(万葉人)の素朴な宗教心で、それが、数千年、数万年に年にわたって、脈々と民族の血のなかで生きつづけてきた。
 身を浄め、穢れを捨て去ることによって、高天原とこの世のあいだの幽契が実現するというのは、究極の楽観論だが、これほど平和で聡明な宗教は世界のどこにもないのである。

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2017年08月17日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」G

 ●祭祀が国体となった日本の宗教性
 神武天皇は、天照大神の5代末裔にあたるので、天照大神は、実史においては、紀元前10世紀前後の神さまということになる。
 その頃、日本は、縄文時代晩期で、中国では周王朝が成立、インドではガンジス川流域に都市国家がうまれている。
 かといって、近代的合理精神がうまれていたわけではなく、人々は、古代的迷信と神話的世界に生きていた。
 日本も同様で、天照大神は、縄文末期の神さまではなく、その当時の人々の心に宿っていた神さまだった。
 天孫降臨は、実史の縄文時代晩期と重なっているが、当時の日本人(縄文人)にとって、5代前は昔々大昔のことで、それが神代であっても、違和感はなかったろう。
 古人にとって、この世は、神が支配するもので、自然の営みも、誕生も死も、人為を超えた奇異なる世界の出来事だった。
 宗教心は、いかに素朴なものであっても、奇異なるものへの畏怖のまなざしであって、それが、シャーマニズムやアニミズム、パンセイズム(汎神論)へつながり、そこから神的世界ができあがる。
 素朴な神的世界というのは、神道や仏教、儒教以前の宗教感情で、縄文時代にはすでに畏れという形でその心根が芽生えていただろう。
 武力などの人為的な恐怖は、飢饉や疫病、天災などの恐怖に比べると取るに足らない。
 本物の恐怖は、人為のおよばない恐怖で、自然の脅威にたいして、ひとは、救済をもとめずにいない。
 人為宗教は、絶対神を立てて、祈りと救済をバーターにする。
 自然宗教(崇拝)では、鎮魂や鎮め、禊ぎ祓い、誓約などにもって、神意にすがる。
 それが祀りで、祀られることによって、神は、和魂としてのすがたをあらわす。
 天皇は祭祀王で、しかも、太陽神(天照大神)は天皇の祖霊である。
 縄文晩期、人々が恐れたのは侵略者や略奪者ではなく、飢饉や日照り、洪水などの天災、疫病だったはずで、尊敬を集めたのは、権力をもった為政者ではなく、荒魂を鎮め、和魂を賑わす祭祀王=天皇だった。
 時代が下った7世紀の天武・持統朝の律令体制において、神祇官が太政官の上位(二官八省)にあったのは、政治より祭祀が重んじられていたなによりのあかしだろう。
 
 神武天皇が辺鄙な橿原で即位して、やがて、大和全域を支配するにいたったのは、武力にすぐれていたからではなく、祭祀王として、畏敬を集めたからだったはずである。
 それが神武天皇から欠史8代の天皇、卑弥呼こと百襲姫、そして三世紀末の第10代崇神天皇へいたる1000年だったのではないか。
 記紀に欠史8代の系譜や墓陵の記録はあるが、事跡は記されていない。
 政治などの表舞台に登場することなく、一生、祭祀に身を捧げ、死後も祭祀の主催者をつとめたのだと思われる。
 欠史8代のほかにも百歳以上の天皇が多いのも、死後において、神=祭祀主をつとめたからであろう。
 祭祀の重要性は、現代人が想像もできないほど大きく、生活、人生の隅々にまで神事が浸透していた。
 宗教感情のなかに畏怖心と並んで崇拝心がある。
 崇拝は、対象に絶対的価値を見出すことで、宗教心の根幹といってよい。
 それが祭祀王である天皇への畏敬心で、天皇が宗教的権威でなければ、日本人の天皇にたいする敬愛心には説明がつかないのである。

 魏志倭人伝に、倭人の習俗について「葬儀のあと人々は水中に入って澡浴(みそぎ)をする」と記されている。
 日本の古来の習俗に「祀り上げ」と並んで「禊ぎ」と「浄め」がある。
 それが宗教以前の素朴なる宗教心で、そこに神道の根本的な精神がひそんでいよう。
 神道では、ゼロが原点で、災いは、その原点が失われたとき襲いかかってくる。
 黄泉の国からもどってきたイザナギが、左目を浄めると太陽女神アマテラスオオミカミ、右目を浄めると月の神ツクヨミノミコト、鼻を浄めると荒ぶる神スサノオノミコトの3柱が生まれる。
 浄めが、穢れを落とす以上の創造的な意味合いをもっていたのである。
 神道に「人は神なり、神は人なり」という思想がある。
 ひとは、純化することによって、かぎなく神に接近してゆく。
 ひとを神から遠ざけているのは、執着という不純さである。
 純化が、修行だったり瞑想だったり、よい心をもつことだったりするだろうが、そのいずれにも、人間の浅智恵がはたらいている。
 ところが、神道は、端的に、浄めをもって、みずからを純化しようとする。
 そのときの心が、はからいから離れた無念無想で、神にいちばんよく近づく。
 純正が神道の根本思想で、浄めによって、思念という穢れを払拭して、純に立ち還れば、すべてうまく回転するというのが神道の予定調和である。
 キリスト教の救済は、滅びから救出されることで、根底にあるのは予定破綻である。
 仏教の救済は浄土で、この世は穢土(六道の一つ)なので、生きて救われることはない。
 親や年上を敬う儒教の孝≠ヘ祖先から末代まで「連続する生命」の自覚といわれる。
 これは、難解な理屈で、理屈で固めるほど純正から遊離してゆくので、儒教ほど不純な思想はないということになる。
 神道には、予め「この世が高天原にようにあるように」という道筋が立っている。
 この予定調和を破壊するのが不純なので、禊ぎや祓いで、純に回帰しようというのである。
 純心であれば、高天原とこの世の約束によって、すべてうまくいき、たとえうまくいかなくとも、最悪の事態は避けられる。
 うたを詠みながら、万葉人が平和に暮らしていたのは、かれらの精神の奥底には、神道の根幹である純≠ェ宿っていたからなのである。

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2017年08月11日

神道と世界最古の文明「縄文文化」F

 ●日本の神話とギリシャ神話
 神道では、死ぬと魂が身体を離れて、モノ(鎮守の森など/祖神)やコト(祭事など/氏神)になり、あるいは、高天原へ帰ってゆく。
 神社の教えに、命は先祖からもらった宝なので、先祖に感謝すべきというのがあるが、これは神仏儒習合の思想であって、神道は、元来、無念無想である。
 神は、物思うという人間のちっぽけな思惟を超えた存在だからである。
「葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国」(柿本人麻呂)とあるように言挙げしないのが神道の本質で、それが仏教(経)や儒教(観念)、キリスト教(ロゴス)と決定的に異なるところである。
 言語化されるのは万物の表層や一部であって、モノ・コトの大半は非言語のなかをただよっている。
 言挙げすることによって、非言語の領域にあるものが見失われる。
 神道は直観の世界でもあって、ことばや理屈(観念)は不在でも、すべてを直観でみとおす。
 わかるものとわからないものがあるのは当然で、本居宣長は、わかることもつきつめてゆくと奇異にぶつかるので、結局、すべてが奇異なのだというふうにいっている。
 古事記を解読した宣長は、昔の人が理解したように理解するのが正しい読み方で、不合理だの辻褄が合わないとケチをつけては、本当に読んだことにならないともいっている。

 神道が仏教や儒教と際立って異なるのが死生観であろう。
 仏教にとって死は輪廻転生の結節点で、儒教にとって死は招魂再生の開始である。
 仏教とって、遺骸はかつての魂の入れ物で、死ねば用がなくなる。
 一方、儒教にとって、遺骸は魂の依りどころ(依り代/魄)で、墓を立ててこれをまもる。
 墓や位牌を大事にする日本の仏教は、インド仏教(小乗)ではなく、儒教と習合した中国仏教(大乗)なのである。
 神道は魂の宗教なので、墓も位牌もないが、仏教のように単体として輪廻をくり返すわけでもない。
 神道にとって、死は生の次のステップで「祀り上げ」によって、神になる。
 ひとは死して神になるが、それには、「祀り上げ」という神的行事が必要なのである。
 それが祭祀やお祭りで、マツリが十分でなければ、霊が悪霊となって災いをもたらす。
 日本の三大怨霊とされる菅原道真は天満宮、平将門は神田明神、崇徳天皇は白峯神宮にマツられて、神になったが、霊を粗末に扱っていたときには様々な災いが襲ってきたという。
 神道の死生観において、死が不浄とされたのは、古墳時代以降で、それまで死者は、神や司祭者と考えられており、冥界も陰惨な世界ではなかった。
 これには、神武天皇と崇神天皇を含めた欠史8代のなかに百歳以上が7人もいることとも関連がある。
 初代神武(127歳)、5代孝昭(114歳)、6代孝安(137歳)、7代孝霊(128歳)、8代孝元(116歳)、9代開化(115歳)、10代崇神(120歳)。
 天皇が司祭者だった場合、崩御されても、司祭者でありつづけることができるので、祭祀体制さえ整っていれば、死せる天皇が生者のごとく扱われる。
 7人の天皇は、死後も、祭祀主でありつづけたのである。
 神道において、死と死体は別物で、死によって魂は肉体から離れるが、肉体は地に還る。
 魂は祀られて神になり、肉体は地に還って、地の滋養となるのである。
 ただそれだけのことだが、記紀では、死が黄泉の国のイザナギ・イザナミのおどろおどろした話につくりかえられている。

 日本の神話とギリシャ神話には多くの共通点がある。
「古事記」は元明天皇(持統天皇の異母妹)の詔により太安万侶が稗田阿礼の誦するところを筆録した(712年)ものである。
 稗田阿礼についって、何の記録も残っていない。
 太安万侶は、正五位上太朝臣安万侶だが、阿礼には姓や官位がない。
 聡明な記憶力を買われて、天武天皇の舎人として仕えるようになったというが、平安初期に編纂された氏族名鑑「新撰姓氏録」に稗田という氏族は載っていない。
 二十八歳にして国史編纂という大事業の主役に抜擢されたとされる稗田阿礼はペンネームで、記紀の編纂にあたったインテリ集団の一人か、責任者だった藤原不比等だった可能性もある。
 唐の成立によってシルクロードが栄え、当時、シルクロードの終着駅である奈良へもキリスト教文明やギリシャ風様式が及んだ。(正倉院・法隆寺)
 萩原朔太郎(『日本への回帰』)は法隆寺に、堀辰雄(『大和路・信濃路』)は唐招提寺にギリシャの影響を見たが、なにより、正倉院にはギリシャやローマ、ペルシャなど異国の宝物が収められている。
 記紀の編纂にあたったインテリ集団がギリシャ神話を知っていてむしろ当然だったろう。
 イザナミを追って黄泉国に入ったイザナギは、振り返ってはならないというイザナミとの約束を破ったため、妻を連れ帰ることに失敗する。
 これは、妻エウリュディケを冥界から連れ帰ろうとしたオルペウスが、振り返ってはならないという約束を破ったため、妻を連れ帰ることに失敗するギリシャ神話(琴座神話)と瓜二つである。
 第12代景行天皇の皇子、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、父の命を受けて九州で熊襲(くまそ)を平定、東国で蝦夷(えみし)などの敵対勢力を平定した帰路、病に倒れて葬られたのち、白鳥になって大和へ飛び立ってゆく。
 これも、恋人レーダーに会うために白鳥に姿を変えた全知全能のゼウス神を思わせる(白鳥座神話)。
 因幡の白兎がとびこえたワニ(和邇)の背中はサメではなく、日本にいないワニで、鰐の背中をとびこえる民話は世界中にある。
 イザナギ・イザナミの黄泉の国の話は、儒教や仏教、ギリシャ神話の知識をもった8世紀の知識人の創作で、かならずしも、古代日本の習俗を語ったものではなかったのである。
 次回以降、祀りと並ぶ神道の特質、禊についてふれよう。

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2017年08月09日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」E

 ●宗教的宇宙観が異なる儒教と仏教、神道
 儒教の背後にある観念論を漢意(からごころ)≠ニして徹底的に批判したのが本居宣長である。
「中国には仁や義、礼など立派な教えがあるが、人々は憎みあい、戦争ばかりしているではないか」というのである。
「物の理(ことわり)は、仕舞いにみな不可思議なところに落ちこんでいくもので、陰陽も太極無極も阿字真如も、なんの役にも立たないただのお喋りにすぎない」
 儒教は、壮大なる観念論で、物事の善悪や是非、物の道理(原理・原則)をとうとうとのべ立てるが、現実や身体、日常性からは大きくかけ離れている。
 宣長は、その空理空論を漢意と称して、排除したのである。
 儒教の世界では、中国が父(大中華)で、朝鮮が兄(小中華)、そして日本は中華思想の外にある夷狄で、侮蔑の対象となる。
 韓国が日本に侮蔑と敵愾心をむきだしにするのは儒教国家だからで、日本にたいして、弟分のくせにという小中華の思い上がりが隠れている。
 韓国の未熟さ、後進性は、儒教の自己中心性によってもたらされたといってよい。
 儒教は、道徳と宗教が背中合わせの構造になっている。
 五常(仁・義・礼・智・信)にたいする五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)がそれである。
 儒教の父子関係は、祖先から末代に連続する生命の一つの局面で、一つの生命が親から子、長から幼、君から臣などの関係へひろがって、社会全体が硬直した年功階層におしこめられる。
 それもまた中華思想で、その頂点が入れ替わるのが易姓革命である。
 父子や君臣、長幼の絶対秩序によって争いがなくなるというのは、空想的な観念論で、中国は、孔子がうまれた覇権主義の春秋時代からやがて群雄割拠の戦国時代へと突入してゆく。

 儒教の生命観は魂魄≠ノつきるだろう。
 死は「魂は天へ昇って魄は地へ帰る」現象だが、儒教には、天国や地獄という考え方も輪廻転生という思想もない。
 いったん天に昇った魂は、空に漂ったあと、地にある魄(白骨/墓)へ舞い戻ってくる。
 それが招魂で、墓を参ることによって、先祖と子、孫が再会する。
 生命は先祖から末代まで直線的につながっているので、墓は、生者と死者の面会所なのである。
 仏教は、輪廻転生なので、生命が連続するという思想も、死者の墓をつくる習俗も、むろん、先祖の墓に参るなどの習慣もない。
 日本の入ってきた仏教は、仏儒習合したのちの中国仏教なので、本尊のほかの先祖霊を祀る。
 それが墓や仏壇で、仏壇のなかでは本尊と父母の位牌が並んでいる。

 儒教と仏教、神道では、死生観や宗教的宇宙観がそれぞれ異なる。
 儒教は天上と地上、地下が一体となった一元的世界で、あるのは時間の連続性だけである。
 仏教は輪廻転生がおこる多元的世界で、六道(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)のほか、六道を超越した浄土までが用意されている。
 神道は高天原と葦原中国、黄泉国の三次元、海の向こうの常世国を入れると四次元のように思えるが、実際には、高天原と中つ国(葦原中国)の二次元である。
 中つ国は高天原の反映で、高天原のようにあれかしというのが神道の理想である。
 これは、プラトンのイデア論に似ている。
 この世のことは、すべて、本質にたいする影のようなもので、見えないところに現象(影)をつくりだす大元があるというのがイデア論である。
 高天原のあるのが、実体なのかイメージなのか、それともエネルギーなのかわからないが、高天原の運動によって、中つ国(この世)でさまざまな出来事がおきる。
 天照大御神は、この世を高天原のようなところにしようと思って、ニニギノミコトを天降らせた(天孫降臨)が、実際にはそうならなかった。
 地上には、大国主命らの国つ神や災いをひきおこす荒魂、祟りなどの悪霊が跋扈していたからである。
 神道で、荒魂や悪霊(祟り)を畏れるのは、いかに神さまでも手に負えないからで、それが、神道が仏教を受容した理由の一つである。

 鎮護国家に蕃神(ばんしん/となりのくにのかみ)を借りてきたのである。
 東大寺大仏がその代表だが、8世紀後半には、こんどは、寺院が神を鎮守や守護神にするようになった。
 興福寺における春日大社がそれで、東大寺も宇佐八幡神を勧請して鎮守(手向山八幡宮)とした。
 ちなみに、七福神も蕃神で、最古の仏教説話集『日本霊異記』では、蕃神が「隣国の客神」とされている。
 神が仏(蕃神)の助けを借りたのが神仏習合で、互いにささえあっている。
 神道には絶対神がいない反面、太陽(天照大御神)はすべてを平等に照らし出すので、異神(蕃神)を寛容にうけいれる。
 仏教には荒魂(天災)や悪霊(祟り)という概念がなく、浄土は完成された世界なので、神は仏に、疫病や天災、飢饉などの災いから逃れるための法力をたのんだのである。
 ちなみに、日本では、儒教の宗教性は仏教に吸収されて、鎌倉時代以降、観念だけが支配階級にうけいれられてゆく。
 大義名分論(名称にもとづく秩序)や朱子学(天の思想や理の自己純化)、陽明学(知行合一)などがそれだが、それがやがて、武士道から尊皇攘夷思想へつながってゆく。
 次回以降、神道と仏教、儒教それぞれの発展過程をみていこう。

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2017年08月07日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」D

 ●日本独自の歴史観をつくれない悲劇
 三内丸山遺跡は、縄文都市で、縄文人は太平洋を股にかける海洋国際人でもあった。
 毛皮を身にまとい、森で小動物を追いまわしていたとする縄文人観は一日もはやく払拭したほうがよい。
「縄文時代」以前を「石器時代」、縄文時代以後を「弥生時代」と呼ぶのは旧い常識だが、三内丸山遺跡は、この常識をも覆した。
 縄文時代は、たんなる時代区分ではなく、世界四大文明を凌駕する人類最古の文明だったのである。
 ところが、膨大な予算と組織をもつ文化審議会(文化財分科会)は、縄文文化が世界四大文明に先駆ける古代文明のであることをみとめようとしない。
 世界文化遺産登録をめざす「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、4年連続で国内推薦を見送られたのはそのせいで、縄文人を原始人とみなす文化審議会の石頭が引退しないかぎり、三内丸山遺跡の世界文化遺産登録は、関係者のかなわぬ夢で終わるだろう。
 さて、その縄文人はどこからきたのか。
 歴史教科書は、日本が大陸と陸続きだった時代、大陸からやってきた人々が日本人の祖先になったと説明する。
 そして、中国が父で、朝鮮が兄、日本が末子という固定観念を捨てることができない日本の歴史家は、文明が、中国から朝鮮半島を経て日本へつたわったという自虐史観をふりまわす。
 日本独自の歴史観がうまれてこないのは、韓国や中国の歴史観とすりあわせるのに懸命で、日本の縄文文明の核心を見ようとしないからである。
 それどころか、韓国や中国の歴史ねつ造につきあい、あっちこちで辻褄の合わないことになって、貝のように沈黙するだけである。

 日本の歴史学者は、稲作が、弥生時代、朝鮮半島からつたわったと主張してきたが、実際は、その逆だったことは、本ブログBですでに指摘した。
 そして、こんどは任那の存在について、韓国と日本の歴史家の大嘘がバレた。
 戦前の日本の歴史教科書には、朝鮮半島南部の地域が任那と記され、日本が半島の一部を支配していたという歴史観が明治時代から60年間つづいてきた。
 ところが、この記述は、韓国側からのクレームで見直されて、任那があった伽耶地方は「小さな国に分かれていた」という意味不明な表記に変更された。
 むろん日本の支配下にあったなど一言も触れられていない。
 日本が朝鮮半島を支配した事実を否定する韓国の歴史ねつ造に日本が従ったのである。
 1990年以降、朝鮮半島の南部で13の前方後円墳が発見されている。
 韓国の歴史学会やマスコミは、一時、日本の前方後円墳のオリジナルは朝鮮半島にあったと大騒ぎしたが、これらの古墳が、五世紀末から6世紀につくられたものとわかって、調査を中断、なかには古墳を破壊してしまったケースもあったという。
 日本に4800基ある前方後円墳は、3世紀からはじまって、6世紀末にはつくられていない。
 大和朝廷の全国統一が完了したからである。
 このことから、前方後円墳が、大和朝廷の勢力範囲を示すモニュメント的な建造物だったとわかる。
 大和朝廷に服する意思表示として、あるいは、大和朝廷の一員であることを内外に示す証として、大和朝廷の高官や豪族、支配権を与った首長などが判で押したように前方後円墳をつくったのである。
 韓国南部で前方後円墳がみつかったのは、日本府があった任那で、この地に前方後円墳があったということは、大和朝廷の勢力範囲が半島南部(伽耶)の全域におよんでいた何よりの証拠である。
 日本の歴史学者はこれを何と説明するおつもりか。
 日本が、伽耶地方の任那に日本府をおき、百済と同盟関係をむすんだ理由の一つに中国南朝 (宋・斉・梁・陳)とその後の隋との関係をあげることができる。
 日本と南朝、隋との外交関係に欠かせなかったのが、海洋経路の途中にある伽耶と百済だった。
 当時、南朝や隋、百済は、大国で軍事国家だった高句麗の脅威にさらされており、日本も高句麗と戦火を交えている。

 聖徳太子が隋の煬帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」(607年)という国書を小野妹子にもたせ、怒りを買った(帝覧之不悦)といわれるが、卑屈な憶測にすぎない。
 隋にとって日本は、ともに高句麗を敵とする同盟国であって、そんなことに腹を立てる余裕などなかったはずで、事実、隋は、10年後、唐に滅ぼされて(618年)いる。
 唐・新羅連合軍は白村江の戦いで百済復興を目指す百済遺民と日本の連合軍を破る(663年)と668年には高句麗を滅ぼしている。
 日本が朝鮮半島に領土をもっていなければ、国境を破って、新羅の朝貢国にしたり、高句麗と戦ったりできるはずはないが、日本の歴史家は、伽耶地方の日本統治や任那の日本府をいまなお否定しいる。
 韓国側から「申し入れがあったから」というのだが、そこに、本ブログの第二のテーマである「神道・仏教・儒教」の葛藤がある。
 中国を父、朝鮮を兄としてみる日本の卑屈な態度の根底にあるのが儒教である。
 次回以降、「神道・仏教・儒教」の葛藤へと論旨をふりかえていこう。

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2017年08月02日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」C

 ●日本文明の土台は縄文文化
 縄文文化を代表する遺跡が三内丸山遺跡(青森県青森市)である。
 全国に縄文遺跡は数多くあるが、三内丸山ほど大規模で、人々の生活形態が浮き彫りになっている遺跡は他に例がない(2000年特別史跡に指定)。
 大規模な竪穴住居や掘立柱建物の建設には、労働力や団結力、指導力のほか高い技術力が必要となる。
 縄文人は、ことばのほか、抽象的な観念ももっていたのである。
 縄文時代前期から中期(約5,500年〜4,000年前)にかけて、これほどハイレベルな文明があったことに、縄文人=原始人と思いこんでいた考古学・歴史学会は大きな衝撃をうけたはずである。
 計画的な集落設計、舗装(アスファルト)道路と墓列などの大規模な造成のほか、高床式倉庫跡や貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場などもみつかっていることから、三内丸山遺跡にいまや「縄文都市」という冠辞がつけられている。
 縄文土器(鉢類や皿)、石器(やじり、槍、磨製斧)、木器(掘棒や朱漆)のほか袋状編み物(ポシェット)、編布、土偶、石や木製の装身具、骨角牙貝製器(針、釣り針、刺突具)などが次々に出土して、当時の人々の暮らしが徐々に明らかになりつつあるが、驚くべきは、堅果類(クリ・クルミ・トチなど)のほか、一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメまでを栽培していたことである。
 縄文人は、毛皮を身につけて森で獣を追っていたとする日本の考古学会との乖離は甚だしいものがあるが、文化審議会などの学者グループは、三内円山遺跡の世界遺産への推薦を頑強に拒みつづけている。
 西洋の古代観を裏切る日本の高度な縄文文化を意地でもみとめたくないのである。

 縄文人が方向・計数感覚にすぐれた海洋民族だったこともわかってきた。
 三内丸山遺跡のシンボルである3層の掘立柱建物は、6本の巨大木柱を組み合わせた三階建ての建造物で、柱穴の間隔が4.2mに統一されている。
 4.2mは35p(縄文尺)の12倍で、4.2mを3尺、4尺、5尺で折り返せば直角三角形(ピタゴラス三角形)ができ、直角(90度)がえられる。
 三内丸山遺跡の6本の木柱は正長方形に配置されていることから、かれらがピタゴラス三角形を知っていたと考えるほかない。
 かれらが数学力をもっていたのは、海洋民族だったからで、航海には星座を読む幾何学のほか、方位や暦の知識ももとめられる。
 3層の掘立柱建物の使用目的はわかっていないが、これが灯台か、漁業用の物見やぐらだったことは、立地条件から明らかだろう。
 当時、三内丸山は海岸線に隣接しており、体長1mのマダイやマグロ、ブリなどの骨のほか、釣り針やモリ(骨器)、1mのオールも出土していることから沖合で大型魚を捕獲していたことがうかがわれる。
 船は、丸太の双胴船かアウトリガー(舷外浮材)付きの丸太船で、それなら波の荒い外洋航海に耐えられる。
 太平洋諸島の先住民は、アジア南部からアウトリガー付き丸太船を使って移動してきたと考えられているが、南太平洋では、現在もアウトリガーの付きカヌーを見ることができる。
 縄文人が外洋航海を得意としていたことは、糸魚川でしか産出されない翡翠や産地(長野・静岡・神奈川・伊豆七島)が限定されている黒曜石が出土していることから明らかである。

 縄文人は海洋民族でもあって、文化の伝播も、陸路ではなく、海路だった。
 世界最古の日本の縄文土器は、朝鮮半島をはじめ日本列島から6000Kmも離れた南太平洋のバヌアツ共和国(エファテ島/1996年/太平洋考古学の篠籐喜彦博士)、中米エクアドル(1965年/バルディビア遺跡/クリフォード・エヴァンス、ベティー・メガーズ博士夫妻博士夫妻)にまでひろがっていたという。
 篠籐博士が発見したバヌアツ共和国の縄文土器は、成分分析の結果、5000年前に青森県で焼かれた円筒下層式土器である事が証明された。
 縄文土器はおよそ1万4000年前にうまれ、簡単なものから徐々に複雑な模様に変化していったが、エクアドルで出土した土器は、発展過程がなく、とつぜん複雑な縄文式土器が出現している。
 このことから、エヴァンスとメガーズ博士夫妻は、縄文人が土器文化を携えて太平洋を渡って移住してきた可能性が高いと発表している。
 縄文人の太平洋横断を可能にしたのは海流である。
 日本付近から黒潮にのると約2か月でアメリカ西海岸に到達する。
 サンフランシスコ沖からカリフォルニア海流にのって南下、赤道反流に乗り移ると、次にぶつかるのが、バルディビア土器が発見されたエクアドルあたりである。
 海流速度や風力、手漕ぎのスピードを計算すると、アウトリガー式の丸木舟で、日本からエクアドルまで約6か月で到着できるという。
 食糧は船陰に集まってくる魚で、水は10日に1度の割合で降る雨を貯める土器が役に立ったはずである。
 寒冷化による飢饉、噴火や大地震による縄文人の難民となって、命からがら外洋に出て、その一部が南米や南太平洋へたどりついた可能性を否定することはできない。
 縄文人は、海を生活圏とする海洋民族で、すぐれた航海技術をもち、太平洋を股にかけて海洋交易をおこない、地球の反対側にまで文明をつたえていたのである。
 日本人は、日本文明の土台が縄文文化にあったことに一日も早く気づくべきだろう。

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2017年07月31日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」B

 ●世界四大文明をしのぐ日本の縄文文明
 子ども時代、教科書などで、毛皮を身につけた原始人がマンモスを追い回す絵柄を見たことがあるはずである。
 それが戦後日本人の抱く原始時代のイメージで、紀元前7世紀もその延長線上におかれている。
 戦前の歴史教科書には、金の鵄(とび)を従えた神武天皇の画像(月岡芳年)が載り、そこに「日向高千穂から出立し瀬戸内海を経て大和に入り、橿原宮で即位した初代神武天皇」というキャプションが付いていた。
 画像の神武天皇は、紅白の衣類をまとい、左手に弓、右手に指揮棒を掲げて丘陵の上に立っている。
 7世紀といえば、ギリシャでスパルタが覇権を握ってイスタンブールが建設され、エジプトでも王朝の栄枯盛衰がくりひろげられていた時代である。
 ところが、日本では、当時の様子をうかがえる研究が何一つなされていない。
 縄文人が毛皮を身につけて森で動物を追っていたとするだけである
 縄文末期の衣服にかんしてすぐれた研究(尾関清子)があって、当時、手のこんだ衣服が着用されていたことは、土器の縄文模様や土偶などからわかっているが、歴史学会は「縄文人は毛皮を着用していたことになっている」としてこれを退け、布や衣服の縄文文化を国際学会にも発表できない始末である。
 毛皮を着て、獣を追い回していたのは、肉食で植物が乏しかったヨーロッパの古代観で、アジアとりわけ日本に通用する話ではない。
 ところが、ヨーロッパの歴史(考古学)を学んだ学者たちは、記紀の記述や学会に属さない人々の研究にはまったく目をむけようとしない。
 共同体や生活形態などの社会分野についても同じで、当時の日本人がどんな制度や宗教、習慣をもっていたかなどには無関心で、知ろうともしない。
 日本の古代は、したがって、深い闇につつまれたままなのである。

 日本文明を世界八代文明の一つに数えたハンチントンでさえ、2〜5世紀に中華文明から派生した文明圏とするなど、日本文明を、西洋史観からながめている。
 日本の歴史学会はもっと劣悪で、日本文明を中華文明や半島(朝鮮)文明の亜流とみなし、日本を、父である中華、兄である朝鮮を侵略した粗暴で野蛮な国家ときめつける。
「日本軍が慰安婦の強制連行に深く関与し、実行したことは揺るぎない事実」(2014年)という声明を出した歴史学研究会の綱領に「国家的、民族的な古い偏見をうち破り、民主主義的、世界史的な立場を主張する」とある。
 かれらがマルキスト集団で、反皇国史観の輩であることが明らかだが、新聞論調や歴史教科書などに大きな影響力をもつ歴史の専門家集団が歴史破壊者であることが日本の悲劇でなくてなんだろう。

 日本文明の根幹は縄文文化(紀元前130〜4世紀頃)にある。
 世界的に見ると中〜新石器時代にあたるが、土器のほうは、かつては農業の起源地とされていた中近東や北アフリカをはじめヨーロッパには、一万年前をしめす遺跡が存在しない。
 中国南部(湖南省玉蟾岩遺跡)から世界最古とされる約1万8000年前の土器が発見されたというが、信憑性はともかく、場所が限られている。
 世界最古の土器の一つに青森県大平山元遺跡から出土した1万6500年前のものがあるが、1万4500年前ごろにはほぼ同型の土器が全国に広がっている。
 これが縄文文化圏で、土器は、火と石器とともに、人類の文明化に多大なる恩恵をもたらした。
 土器によって、貯水や煮炊きが可能になって、米食文化がうまれた。
 稲作は、弥生時代に大陸から朝鮮半島を経由して日本にもたらされたとされてきたが、炭素14年代測定法によって、稲作開始が朝鮮半島より日本の方がかなり早かったことが判明している。
 日本の稲作開始は、陸稲栽培で6700年前、水稲栽培で3200年前まで遡ることができるが、朝鮮半島の水稲栽培(無去洞玉?遺跡)はせいぜい2800年程度前までしか遡ることができず、遺伝子学的にも日本の古代米と満州米の交雑種なので、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へつたわったとわかる。

 縄文文明は土器のみならず、稲作や共同体の形成など衣食住≠ノかかわる文化のすべてにおよんでいる。
 縄文文化と世界四大文明を比較するとおもしろいことに気づく。
 メソポタミア文明:紀元前3500年頃〜
 エジプト文明  :紀元前3000年頃〜
 インダス文明  :紀元前7000年頃〜
 黄河文明    :紀元前7000年頃〜5000年頃
 縄文文明    :紀元前14000年頃〜4000年頃
 日本の縄文文化は、四大文明をはるかにしのぐ古さとスケールをもっていたのである。
 中華文明には、黄河文明のほか長江文明がある。
 長江文明    :紀元前14000年〜1000年頃
 日本の縄文文明と長江文明はほぼ同時期に興っており、日本の米種(ジャポニカ)は長江から移入されたこともわかっている。
 長江文明と日本の縄文文化には接点があったのである。
 黄河文明との闘争に敗れて、中国史から抹殺された長江文明は、縄文文化と合流することによって、日本で生きのびたといってよい。
 日本への移入ルートは海路で、動力のない筏でも、長江(揚子江)河口から黒潮(対馬海流)にのれば、3日から10日ほどで九州に至る(840km)。
 長江流域・北部沿岸には、紀元前三世紀以前、筏を改良した沙船という大型の船があったことから、移民目的で、はるか昔から長江の人々が日本に渡って来た可能性はおおいにある。
 縄文文明と長江文明が合流すれば四大文明を超える大文明がうまれてなんの不思議もない。
 縄文人と長江人の共通点に「海洋民族」をあげることができる。
 次回以降、海洋民族だった縄文人が日本人の祖先という検証をすすめていこう。

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2017年07月27日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」A

 ●どこにもなかった邪馬台国
 邪馬台国論争は意外なところからボロをだす。
 宮内庁から、第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の箸墓古墳(大市墓)が卑弥呼の墓である可能性が高まってきたのだ。
 邪馬台国(卑弥呼)と大和朝廷(纒向/大和盆地)が地理的に一致したのである。
 古墳時代にはいって、次々と大きな古墳が築造された三輪山山麓(大和)は初期の大和朝廷が存在した地と考えられている。
 箸墓古墳は、行灯山古墳(第10代崇神天皇)、渋谷向山古墳(第12代景行天皇)と数キロ離れた山麓に並び立っている。
 放射性炭素年代測定法によると、箸墓古墳の築造年代は240〜260年だが、これは「魏志倭人伝」に記載された卑弥呼の死亡年247年頃と一致するばかりか、墓(円墳)と大きさ(径百余歩)も魏志倭人伝の記述と一致する。
 時間的にも形状も、百襲姫命の墓に治定されている箸墓古墳が卑弥呼の墓と断定しうるのである。
 崇神の治世は、中国の文献に記載されている邪馬台国の時代の後半と重なるため、中国の文献にある邪馬台国が大和(倭)国であることは当初から明らかで、「崇神は卑弥呼の男弟」(西川寿勝/大阪教育委員会文化財保護課)「崇神は卑弥呼の後継女王台与の摂政」(水野正好/元・奈良大学学長)など邪馬台国と大和朝廷が同一という前提に立つ考古学者も少なくない。
 ちなみに、纒向遺跡の勝山古墳は卑弥呼の父の墓ではないかという説もあるが、卑弥呼が百襲姫命なら、勝山古墳は孝霊天皇の墓ということになる。
 纒向遺跡からは、同時期の建物としては国内最大級(南北19.2m・東西12.4m、床面積は約238u)の大型建物跡もみつかっている。
 3世紀前半(弥生時代末〜古墳時代初め)は卑弥呼が君臨した時期にあたることから、神殿(祭祀施設)の可能性が高い。

 邪馬台国が大和国であることは、中国の文献(旧唐書)からも明らかだ。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名」
 というのがそれで、「日本国は倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた」と書かれている。
 そして、日本がどういう国かという記述がこのあとにつづく。
「其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國」
 東西南北に各数千里、西と南の外れは大海で、東と北には山脈があり、その山の向こうは、毛人(蝦夷/アイヌ)の国というのである。
 どうみても近畿で、四方を海に囲まれた島国で、四方の海には多数の小島があるとされている九州ではない。
 一方、倭国について「隋書」にこういう記載がある。
「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行?祭」
 倭国には「阿蘇山」があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異として祭祀を執りおこなっているというのである。
 明らかに九州である。
 すると、「倭国」「倭奴国」と表記された九州国とは別に、遥か東方の大和に「日本国」が興ったということになる。
 記紀に描かれた「神武東征」でも、九州に在った神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)が東へと向かい、大和の地を都と定めて、神武天皇を名乗ったとある。
 かといって、邪馬台国が九州にあったことにはならない。
 卑弥呼(百襲姫命)は三輪山麓にあった大和朝廷の巫女で、神武から下って10代目の崇神天皇を援けている。
 西(九州)は倭国、東(三輪山麓)は大和国で、邪馬台国などどこにもでてこない。
 邪馬台国論争は、京都帝国大学の内藤湖南が唱えた畿内説に東京帝国大学の白鳥庫吉が猛反発して「邪馬台国九州説」を主張したのが発端だが、もともとこれは、魏志倭人伝の邪馬台(ヤマト)国をヤマタイコク≠ニ誤読したことからはじまった漫画のような話なのである。

 それでは、なぜ、カムヤマトイワレヒコノミコトは遥か東方を目指したのか。
 中国大陸からの圧力が増大したせいではないか。
 当時、中国は覇者の時代≠ナ、斉や晋、楚らが相次いで覇権を立て、やがて、群雄割拠の戦国時代へ突入してゆく。
 後漢書東夷傳に「建武中元二年(西暦57年) 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」という記述がある。
「倭奴国が貢を奉じて朝賀したので、光武帝が印綬を以て賜う」とあり、このときに下された印鑑が江戸時代天明年間に発見され、昭和6年に国法となった「漢委奴国王印」である。
 このことから、九州にあった倭国は、1世紀には国際交易をおこなうだけの力をもっていたとわかる。
 隋書に「新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來」とある。
 新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来しているというのである。
 通使には朝貢という意味合いもあるので、隋は、倭国が百済や新羅の上位にある国とみとめていたことになる。
 事実、百済も新羅も、後継ぎとなる国王の長男の王子を倭国へ人質に出している。

 ところが、初期(崇神天皇以前)の大和朝廷には中国大陸の影響がほとんど見えない。
『日本書紀』に「任那」の文字があらわれるのは崇神天皇以後で、三韓征伐を指揮した神功皇后は、第14代仲哀天皇の后である。
 百済・日本連合と唐・新羅連合がたたかった白村江の戦いにいたっては38代天智天皇の時代である。
 中国と最初にかかわりをもったのは、第33代推古天皇の摂政で、遣隋使の派遣を開始した聖徳太子である。
 聖徳太子は、隋の皇帝煬帝に「日出処天子至書日没処天子無恙(日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや)」という国書を送っている。
 歴史書には煬帝が激怒したとあるが、小野妹子が、隋からの使者・裴世清をともなって帰国していることから、煬帝激怒云々は自虐史観的な創作で、もともと、日本は隋と対等の関係にあったのである。
 カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)が東を目指したのは、宗教観や文化の相が異なる大陸の影響下にある九州を見限ったからではないか。
 そして、大和(三輪山麓)の地に神道世界を樹ち立て、祭祀国家をつくったのではないか。
 紀元前660年は、歴史学者によると、毛皮をまとって、獣を追っていたとされるが、紀元前30世紀から20世紀にかけて、東北中心に「縄文都市」というべき文明(三内丸山縄文遺跡)が存在していた。
 このことから、紀元前7世紀に遷都の発想があってもなんら不思議はない。
 次回以降、紀元前7世紀がどんな時代だったか検証していこう。
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2017年07月26日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」@

 ●実在した欠史8代の天皇
 皇紀元年は紀元前660年である。
 神武天皇はこの年に橿原宮(かしはらのみや)で即位している。
 ところが、日本の歴史家(学会)は、神武天皇が想像上の人物にすぎないとして、その存在を否定、歴史教科書からも削除してしまった。
 実在を確証できるのが、崇神天皇(10代)以降として、欠史8代の天皇の存在すらもみとめようとしない。
 それなら、崇神天皇以前の日本はだれが治め、どんな政治体制にあったのか。
 日本の歴史家は、その素朴な疑問にいっさい答えようとしない。
 かれらは、皇国史観を否定するために歴史家になった左翼なので、古事記や日本書紀を否定すれば事足りるとして、紀元前660年については、ただ縄文後期と記して平気の平左なのである。
 紀元前が空白なのは、当時、日本は、国家形成などおぼつかない野蛮な原始時代だったというわけで、その一方、中国の春秋時代(紀元前6世紀)や伝説上の国家にすぎない箕子朝鮮(紀元前3世紀)にはそれなりの記述がある。
 中国の書物に日本という国号がでてくるのは『旧唐書』(10世紀)が最初で、そこには「小国だった日本が倭国を併合した」と書かれている。
『旧唐書』のあとに書かれた『新唐書』にこういう記述がある。
「日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居(中略)彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。次曰綏靖、次安寧、次懿コ、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀」
「日本は、いにしえの倭奴国なり。唐の都から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中に在る島である」につづいて「彦瀲(ひこなぎさ)の子の神武が立ち、天皇を号して、大和州に移って統治した。次は綏靖、次は安寧、次は懿コ、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀」と欠史8代をふくめて、13人の天皇の名前が列記されている。
 彦瀲(ひこなぎさ)は、記紀によると、山幸彦(彦火火出見尊)と豊玉姫の子で、神武天皇の父親にあたるミコト(神)である。
 神話と実史が入り混じるのは、どの建国史もそうで、古代ローマ史も、伝説と伝承、実史が渾然一体となっている。

 紀元前7世紀の日本について一言も触れない日本の歴史学会が血道を上げてきたのが「邪馬台国論争」である。
『魏志倭人伝』に記載された邪馬台国がどこにあるかという、愚にもつかない問題を大々的に論じてきたわけだが、邪馬台国も卑弥呼も蔑称で、そんなものが実在するわけはなく、記紀には一言も載っていない。
 邪馬台の台(タイ)≠ヘ日本語読み(訓)で、中国語の音はトである。
『隋書』は「邪靡堆」、『魏志』は「邪馬臺」、『後漢書』は「邪摩堆」で、読み(音)いずれもヤマトである。
 ちなみに卑弥呼の次の女王「台与」の読みも「とよ」である。
 なぜ、魏志倭人伝にかぎって「台」を「タイ」と読むのか。
 卑弥呼も、女王の位にあるものがみずから卑≠ニいう文字を使用するわけはなく、倭国の倭(背の低い・曲がった)≠ニ同様、語呂合わせの蔑称である。
 卑弥呼は日女命(ひめのみこと)のことで、正式には「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)である。
 孝霊天皇の皇女で、大和朝廷の御神体である三輪山の祭神・大物主のお告げをつたえ(鬼道)、崇神天皇をしばしば援けた。
 歴史学会が魏志倭人伝の記述を盲信して、表記どおりだと海上に出てしまう道のりを辿って邪馬台国の場所をもとめたのは、冗談でなければ、大和朝廷の存在を否定するためで、邪馬台国が実際にあったとすれば、紀元前660年の皇紀元年が消えてしまう。
 邪馬台国論争は、大和朝廷(歴史学会はヤマト政権)の存在を打ち消すためのめくらましで、日本の歴史学者は、皇国史観を否定できればなんでもいいのである。
 げんに、歴史研究者は、神武天皇の東征をお伽噺として片付け、史料として一顧だにしない。

 古事記や日本書紀に載っている「東征」は、壮大なる叙事詩で、文芸性のみならず歴史性もきわめて高い。
 しかも、そこには、邪馬台国論争を超える大きな真実が隠されている。
 一つは、出自が南九州の日向国(宮崎県)というところにある。
 フィクションならはじめから大和の地(奈良県)に中央政権があったとしたほうが都合よかったはずである。
 日向を立って、強敵とたたかう苦難の果て、大和の三輪山麓に朝廷を立てたということは、九州やその他の地域に大勢力があって、大和朝廷は、そのなかの一つにすぎなかったとみずから告白しているにひとしい。
 これは史実で、天皇の権威が確立するまで、各地で権力抗争がくり返されていたはずである。
 もう一つは、三輪山麓に拠点を設けた大和朝廷が徐々に力をつけてゆく背景に、神話もしくは宗教的な感情がはたらいていたと思われることである。
 紀元前7世紀末の神武から9代開化天皇、さらに、全国規模の政権になった崇神天皇(10代)までの一〇〇〇年近いあいだ、記紀にはいくさにかんする記述がほとんどない。
 武力衝突なくして、長期の政権を維持できたのは、神話的・宗教的な結束があったからと考えるほかない。
 欠史8代の天皇が異常に長寿なのも、そのことと無縁ではないだろう。
 天皇の崩御を隠蔽して、為政者が、その後も体制を維持したのである。
 天皇が不在でも体制を維持できたのは、天皇が祭祀王だったからで、当時の政治体制は、天皇の宗教的権威の下で、権力者による集団指導がおこなわれていたと考えられる。
 天皇が日本国全体の統治にのりだしたのは、10代崇神天皇以降である。
 崇神朝の四道将軍(北陸・東海・西海・丹波に崇神の4皇子を派遣)や景行天皇(12代)の皇子「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の九州・出雲・東国の平定などがそれで、以後、天皇は、政治の表舞台にでてこない祭祀王から政(マツリゴト)の陣頭指揮をとる覇者へとすがたを変えるのである。


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2017年07月11日

 万世一系と「女系天皇・女性宮家」D

 ●伝統主義と祭祀国家
 女性・女系天皇問題に「男女平等」をもちだすのは憲法違反でもある。
 現憲法では、第2条で、皇位の世襲が謳われているからである。
 そして、皇位の継承については、皇室典範の定めるところによるとしている。
 皇室典範の第1条には、皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承すると明記されている。
 憲法が男女不平等≠宣しているのである。
 憲法14条(法の前の平等)には「国民は、人種、信条、性別、社会的身分または門地によって差別されない」とある。
 すると、2条と14条は矛盾していることになる。
 近代法である現憲法のなかで、天皇条項だけが、伝統という非合理性の上に立っているのである。
 これは、重大なポイントで、わが国では、伝統が、憲法において担保されている。
 民主主義の使徒、マッカーサーですら、天皇という伝統的存在を合理性から切り離さざるをえなかったのである。
 自民党の二階幹事長が「現代は女性尊重の時代で、天皇陛下だけはそうならないというのはおかしい」というのは、憲法に謳われている二重規範をみない浅はかな考えで、アメリカ人のマッカーサーに及ばない短慮である。
 憲法に伝統が謳われていることに大方の日本人は無関心で、皇統の男系相続には「合理的根拠がない」(山尾志桜里議員)などの愚論がまかりとおっている。
 伝統が不合理なのはあたりまえで、その代表が神話や祭祀である。

 沖ノ島の古代祭祀が世界遺産に登録された。
 沖ノ島で国家的な祭祀が始まったのは大和朝廷の初期の4世紀である。
 その古代祭祀が廃れたのは、宮中祭祀が確立され、伊勢神宮、全国の神社が整備されたからであろう。
 古代祭祀は、その一部が宮中祭祀にひきつがれて、現在に残る。
 世界遺産委員会が沖ノ島(沖津宮)のほか、内地の宗像大社中津宮・宗像大社辺津宮、新原・奴山古墳群など八つの構成資産のすべてを世界遺産にみとめたのは、宮中祭祀にひきつがれた古代祭祀の歴史的連続性を評価したからである。
 沖津宮と中津宮、辺津宮の3女神を生んだのが天照大御神で、皇室の始祖であり、日本人の総氏神である。
 天照大御神が女性神だったことから、古代日本に男尊女卑の思想がなかったことがわかる。
 男女を比較するのは、人間という近代的観念が生じたあとのことである。
 日本の神話にも、人間や人間という考え方はでてこない。
 天地開闢には「造化の三神」やニ柱の「別天津神」が登場するが、すがたをみることはできず、むろん、性別もない。
 そのあとうまれるのが国之常立神と豊雲野神、そして五組の男性神と女性神の「神世七代」である。
 神世七代の最後にあらわれるのが伊邪那岐神(イザナギノカミ)と伊邪那美神(イザナミノカミ)である。
 国産み・神産みでは、イザナギとイザナミとの間に日本本土となる大八洲の島々や山・海・川・石・木・海・水・風・火など森羅万象の神々がうまれる。
 このときイザナミとイザナギは「成り成りて成り合はざる処一処在り」「成り成りて成り余れる処一処在り」といい交わしている。
 天照大御神をうみだした(イザナキからの左目から生まれた)日本開闢の始祖であるイザナギとイザナミが男神と女神だったことは象徴的である。
 日本の神代にいたのは、男神と女神で、人間神ではなかったのである。

 男女差別の土台となっているのがヒューマニズム(人間主義)である。
 人間という考え方は、ルネッサンスの啓蒙思想で、神や教会に対抗できるのが、男と女をひっくるめた人間という存在だった。
 だが、人間主義は、宗教的観念にすぎず、生きているのは、あくまで、男と女である。
 女性は母性でもあって、子を産み、育てる母親と、金銭や組織のために外で働く男は別々の存在で、したがって、男と女を比べるという発想もなかった。
 フランス革命の人権宣言でも、男女平等は謳われておらず、これに抗議したのが、フェミニズム運動のはじまりである。
 男女同権という考え方がでてくるのは、第3回国際連合総会(1948年)の世界人権宣言「基本的人権、人間の尊厳および価値並びに男女の同権」(前文)以降のことで、それも、フェミニズム運動の成果としてとりいれられたにすぎない。
 世界経済フォーラムの報告によると『世界男女格差レポート』で日本は世界145カ国中101位という。
 日本に、女性の政治家や官僚、企業の重役、勤労所得や労働参加人口が少ないのは、短期就業のOLや専業主婦が多いからである。
 一方、国連開発計画 (UNDP) の「人間開発報告書」のデータでは、日本の男女間の不平等格差(平均寿命、1人あたりGDP、就学率など)は187カ国中の17位で、非就業の日本女性が、英米仏の女性よりも恵まれた環境ですごしているのである。
 戦後、伝統を旧弊として退ける風潮がはびこってきた。
 そして、近代合理主義や唯物論を善とする改革主義が猛威をふるってきた。
 だが、真に価値あるものは、歴史的連続性の上に立った普遍性こそにある。
 そのことは、伝統国家である日本が、その伝統をまもることによって、世界の大国たりえていることからも明らかなのである。
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2017年07月06日

万世一系と「女系天皇・女性宮家」C

 ●皇統の男系をまもった八人の女性天皇
 天皇政治が確立される6世紀頃まで、蘇我氏や物部氏、中臣氏、大伴氏らの豪族が天皇をしのぐほどの大きな力をもっていた。
 皇統は男系でも、のちに摂政(源平籐橘)へひきつがれる豪族政治は、女系(天皇の外戚)で、初期の大和朝廷は、女系が男系を圧倒していた時代ということができる。
 豪族たちは、競うように子女を天皇に嫁がせ、天皇家と外戚関係(女系)をむすんで勢力を拡大していったのである。
 欽明天皇(29代)の子のうち、天皇になったのは、敏達天皇(30代)と用明天皇(31代)、崇峻天皇(32代)、推古天皇(33代)の四人である。
 そのうち、敏達天皇以外、母親は、蘇我稲目の子女である。
 ちなみに、推古天皇が、敏達天皇の皇后薨去にともなって、後添えとなったのは近親婚(異母兄妹)で、敏達天皇のあいだに竹田皇子をもうけている。
 天皇との外戚関係を固め、政治の実権を握ってのしあがってきたのが、仏教戦争(丁未の乱)で物部氏を討った蘇我氏で、4代(稲目・馬子・蝦夷・入鹿)にわたって、権勢をほしいままにする。
 蘇我氏は天皇にとっても最大の難敵で、穴穂部皇子(欽明天皇の子)の殺害や崇峻天皇の暗殺、山背大兄王(聖徳太子の子)の討滅と、天皇家の生殺与奪の権を握っているかのような勢いだった。

 敏達天皇と用明天皇が相次いで疱瘡で崩御したのち、崇峻天皇が蘇我馬子のさしむけた刺客に暗殺されるという事件がおきて、欽明天皇の第三女、額田部皇女がわが国初めての女帝、推古天皇となる。
 額田部皇女が稲目の孫にあたることから、蘇我氏の後押しもあっただろう。
 だが、推古天皇は、蘇我氏の傀儡になることなく、用明天皇の子、厩戸皇子(聖徳太子)を摂政に立て「冠位十二階」や「憲法十七条」などの律令的な政策を打ち出し、天皇政治の基礎を固める。
 推古天皇は、わが身を矢面に立たせて、聖徳太子に自由に政治をやらせたのである。
 そのせいか、聖徳太子の子、山背大兄王は、蘇我入鹿に攻め滅ぼされて、子孫が絶えている。
 推古天皇を継いだのは、押坂彦人大兄皇子をへて、敏達天皇の直系の男孫にあたる舒明天皇(34代)である。
 皇統は、推古天皇を中継ぎとして、男系のまま継承されたのである。

 聖徳太子がめざした天皇中心の政治の完成には「大化の改新」まで待たねばならない。
 統治、政治の実権を握っていたのは蘇我蝦夷・入鹿親子で、依然として、蘇我氏の天下がつづいている。
 蘇我氏に推挙された舒明天皇が崩御した後、皇后が史上二番目の女帝として皇位につく。
 皇極天皇(35代)である。
 敏達天皇から押坂彦人大兄皇子、茅渟王と下った三代目で、孝徳天皇(36代)は弟にあたる。
 天智天皇(38代)・天武天皇(40代)の母でもあって、中大兄皇子と中臣鎌足らによる蘇我入鹿の暗殺、翌日の蝦夷の自殺(乙巳の変)は、皇極天皇の目の前でおきた事件である。
 蘇我氏4代の繁栄は、乙巳の変によって、一夜にして崩壊する。
 中大兄皇子はのちの天智天皇である。
 乙巳の変の直後、皇極天皇は退位し、弟が孝徳天皇、中大兄皇子が皇太子になる。

 ここで異変がおきる。
 孝徳天皇が、中大兄皇子と不和となって、翌年、憤死するのである。
 皇極天皇が重祚して斉明天皇(37代)となったのは、中大兄皇子が即位に応じなかったからである。
 中大兄皇子が即位するのは、白村江の戦い(日本・百済対唐・新羅)に大敗した後のことで、大宰府(北九州)防衛に奔走した天智天皇は、全精力を使い果たしたかのように没する。
 ここでふたたび紛争(壬申の乱)がもちあがる。
 天智天皇の弟(大海人皇子)が、天智天皇の子(大友皇子)に反旗を翻すである。
 大友皇子が後の弘文天皇(39代)で、大海人皇子が後の天武天皇(40代)である。
 反乱者である大海人皇子が勝利して、天武天皇の時代が到来する。
 ここが古代史のターニングポイントで、天武・持統朝から現在の日本の原型がつくりあげられてゆく。

 天武天皇と持統天皇(41代)、文武天皇(42代)、二人の女帝、元明天皇(43代)元正天皇(44代)の時代は、聖徳太子が掲げた天皇中心の政治を完成させた時代であった。
 持統天皇が皇位を継承した理由は、実子の草壁皇子と異母兄弟の大津皇子の政争を避けるためである。
 ところが、大津皇子に謀反の疑いがかかって、逮捕・処刑されるという事件がおきる。
 そして、大津皇子の処刑後、草壁皇子も病死する。
 持統天皇が退位しなかったのは、草壁皇子の長男が即位できる歳まで待ったのである。
 それが14歳の若さで即位した文武天皇(42代)である
 持統天皇は、天武天皇から草壁皇子、文武天皇へ男系相続を引き継ぐための中継ぎを果たしたのである。
 ところが文武天皇は短命で、長男の首皇子が幼かったため、文武天皇の母である元明天皇(43代)、姉である元正天皇(44代)が相次いで即位する。
 元明・元正の両女帝を経た後、皇統は、文武天皇の直系である首皇子のちの聖武天皇(45代)へと継承される。

 
 聖武天皇の系列が絶えると孝謙天皇(46代)と称徳天皇(48代)という女性天皇を挟み、天武天皇の系列から淳仁天皇(47代)、そして、天智天皇の系列から光仁天皇(49代)が即位して、桓武天皇(50代)にひきつがれる。
 孝謙天皇・称徳天皇は同一人物(重祚)で、天武天皇から舎人皇子、淳仁天皇へ、天智天皇から志貴皇子、光仁天皇へと皇統をうけわたす役割をはたしていたのである。
 徳川幕府の皇室封じ込め政策に反発して退位した後水尾天皇(108代)の後、皇位についたのが後水尾天皇の皇女、明正天皇(109代)で、異母弟の後光明天皇(110代)への中継ぎ役をはたしている。
 後桜町天皇(117代)もまた、桜町天皇(115代)の内親王で、後桃園天皇(118代)への中継ぎだった。
 かつて、日本に存在した女性天皇は、皇統の男系相続をまもるためで、皇統以外の男性遺伝子(Y染色体)をもった子を産み、男女を問わず、その子を天皇にしようという女系天皇とは考え方がまったく逆である。
 女性天皇は、皇統の男系継承の補佐であって、女性天皇から女系天皇という道筋はありえないのである。

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2017年06月29日

 万世一系と「女系天皇・女性宮家」B

●混乱している「皇統」と「家系」
 歴史学者ですら「皇統」と「家系」の区別がつかない者が少なくない。
 嫡子がいなかった武烈天皇(25代)のあとを継いだ継体天皇(26代)が、応神天皇(15代)の5代末裔であることをもって、王朝交替があったなどというのがそれである。
 同一王朝なら、桓武天皇(50代)から5代末裔の平将門が天皇になるようなもので、ありえない話というのである。
「皇統」と「家系」を混同して、代を重ねるごとに血統の純粋性が失われると思っているのであろう。
 便宜上、X染色体とY染色体を例にとって話をすすめよう。
 男性の染色体がYXで、女性がXXである。
 Y染色体を継承するのが皇統で、X染色体をひきつぐのが家系である。
 Y染色体は男性だけに継承されるので、父方をさかのぼっていけば、祖先の男性にゆきつく。
 ところが、X染色体の母方をさかのぼっていっても、無限数の女性の祖先があらわれるだけで、祖を特定することはできない。
 男性も女性もX染色体をもっているからで、代をかさねるごとに男女両方のX染色体が累々と混交して、いわゆる「血が薄くなる」という現象がおきる。
 Y染色体がいくら代をかさねても、他のY染色体と混交しないのは、女性がY染色体をもっていないからである。
 神武天皇のY染色体は、継体天皇にも平将門にも、純粋な形でひきつがれていたのである。

 応神天皇から継体天皇までは、若野毛二派皇子〜意富富等王〜乎非王〜彦主人王とすべて男性だが、桓武天皇と平将門の5代のあいだに女系(入り婿)が混じっていれば、将門には皇位の継承権がなかったことになる。
 神武天皇のY染色体が入り婿のY染色体にすりかわってしまったからである。

 皇統は一本の樹木にたとえることができる。
 傍系が枝で、どの枝(系列)も、神武天皇のY染色体を継承している。
 今上天皇の系列は、光格から仁孝、孝明、明治、大正、昭和の各天皇へつらなる閑院宮家(東山天皇の第六皇子閑院宮直仁親王が創設)という枝である。
 この枝は、後桃園天皇(118代)に直系男子がいなかったため、閑院宮家二代目典仁親王の皇子が光格天皇として即位したのがはじまりである。
 閑院宮家の創設(1710年)にうごいたのが、皇統存続に危機感を抱いた新井白石で、傍系が皇籍離脱(出家)するしきたりを枉げ、皇位継承ができる世襲親王家(伏見宮・桂宮・有栖川宮)に閑院宮をくわえた。
 閑院宮家という枝を折っていたら、皇統が絶えかねなかったところに皇室の危うさがあり、徳川家も、家康直系の尾張と紀州、水戸の御三家があったために、七代将軍家継が8歳で死去して本家が断絶しても、紀州の徳川吉宗が八代将軍に立って、血統がまもられた。
 メディチ家やハプスブルク家など名家・名門から成るヨーロッパの王位継承順位が、他国の王室までまきこんで、驚くほどの数にのぼっているのは、内乱や戦乱が多かった名残で、血統をまもるため幾重にも保険をかけたのである。
 世襲による血統の維持、とりわけ男系相続はきわめて困難で、男子が生まれなければ、日本の皇室の場合、たちまち、皇統断絶の危機にさらされる。

 戦後の日本統治に天皇を利用したGHQが、皇室の将来的な廃絶を意図していたことは、11宮家の臣籍離脱を強要し、皇室の財産を没収したことからも明らかであろう。
 象徴天皇は、天皇を憲法上の存在へ変質させ、皇室典範を憲法に組み込むことだったのである。
 11宮家が廃止となって、51人が皇籍を離脱したのち、皇統維持に必要な皇族は、昭和天皇の直宮3宮家(秩父宮・高松宮・三笠宮)だけとなった。
 重臣会議の席上、鈴木貫太郎首相が「皇統が絶える懸念はないか」たずねると、加藤宮内次官は「国民がみとめるなら、かつての皇族のなかにふさわしいかたがおられる」「(旧皇族には)皇位を継ぐべきときがくるかもしれないとの自覚のもとで身をお慎みになっていただきたい』と返答している。
 また、赤坂離宮でのお別れ晩餐会では、昭和天皇から「身分は変わるようになったけれども、わたしは今までとまったく同じ気持ちをもっている」というおことばがあった。
 皇室と11宮家の交流は、菊栄親睦会をつうじていまもつづき、ェ仁親王は「わたしのなかには皇族と元皇族の垣根はありません」と語ってもおられる。

 皇室典範第二条(「皇位は左の順序により皇族にこれを伝える」)のなかに「前項各号の皇族がないときは、皇位は、最近親の系統の皇族にこれを伝える」とある。
 この文章を「皇族もしくは旧皇族」と書き換えることで、皇統の継嗣問題は一挙に解決する。
 臣籍降下した11宮家を皇統維持の枠から除外している条項はこの一行だけある。
 女性天皇などもちださずとももしくは旧皇族≠フ7文字をくわえるだけで皇統の男系男子はまもられるのである。
 旧皇族の皇籍復帰が望ましいが、それには野党やマスコミ(日本マスコミ文化情報労組会議)が猛烈に反対するであろうし、保守系のなかにも、一般人になったひとが天皇になることには違和感があるという意見が少なくない。
 そこから、天皇の内親王が天皇になる「女性天皇」論が浮上してくる。
 女性天皇から、その皇子が新たな天皇になる女系天皇へは一本道である。
 そのとき、神武天皇の血統が絶え、天皇の祖先が別の樹木に移る易姓革命がおきる。
 神武天皇の男系直系である旧皇族の皇籍復帰には違和感があって、Y染色体をひきつがない女性、女性宮家の入り婿になった一般人男性が天皇になるのに違和感がないというのはとおる話ではない。
 次回は、女性天皇を中継ぎにしながら男系相続がまもられてきた歴史を振り返ってみよう。
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2017年06月26日

 万世一系と「女系天皇・女性宮家」A

 ●易姓革命を防いだ聖俗%元体制
 皇位や皇統は神事で、世俗の政治や制度と同列に語ることができない。
 皇統の男系相続も、神事のしきたりで、俗説をもって、聖域を論じることができないのは、神を合理で語ることができないのと同じ話である。
 東大法卒でハーバード大学留学、検察官だった民進党の山尾志桜里が皇統の男系男子を「合理的な根拠がない」とのべたのは、俗論以下の暴言というしかない。
 秘書に暴言を浴びせかけ、暴力をふるい、自民党を離党した豊田真由子議員も、東大法卒でハーバード大学留学、厚労省高級官僚という同じような経歴をもっている。
 このことから、合理が俗説や暴論の範疇にあることが容易にみてとれる。
 合理の結晶が革命で、共産主義が虐殺と腐敗、圧政などの暗黒性しかもたらさなかったことはだれもが知っている。
 科学も合理だが、現代文明をつくりあげたのは、数学や技術の数千年におよぶ歴史的蓄積で、同じ合理でも、歴史を破壊した上に成り立つ革命とは、むいている方向が逆である。
 合理と伝統は、裏と表の関係で、おおよそ物事は、合理で説明のつくものとつかないものが渾然一体となって成り立っている。
 ところが、東大卒やハーバード留学などのインテリ馬鹿は、すべて、合理で説明がつくと思っている。
 天皇や皇統をめぐる議論は、歴史的価値を尊重する人々と合理しか見えない者たちたちの争いで、世界最古の木造建築である法隆寺を壊して、近代建築に建て替えろという合理主義者にたいして、伝統や歴史の価値を説いたところでラチが明かない。
 男系相続という、合理を超えた伝統的価値を理解することができないからである。

 共同体(国家)も、科学と同様、伝統という合理を超えた土台をもっている。
 それが祭祀で、宗教的結束からできあがった祭祀国家の形態を維持しているのが伝統国家である。
 祭祀を司る天皇の下で、摂政や関白、征夷大将軍、幕府、政府と権力構造が移ろってきたのがわが国の歴史で、日本は、世界最古の宗教国家でもある。
 戦後、キリスト教などの一神教のみを宗教として、日本を無宗教国家、日本人を無神論者ときめつける風潮がはびこったが、とんでもない話である。
 人口にたいする宗教施設(神社や仏閣)は世界一で、初詣や七五三、供養や法事など国民生活に密着する宗教的行事の多さも比類がない。
 キリスト教などの一神教は啓示宗教で、神話やアニミズム、汎神論にもとづく神道は自然宗教(崇拝)である。
 そして、神道と習合した大乗仏教は、集団宗教である神道にたいして、個人宗教で、釈迦の死生観は、西洋哲学に大きな影響をあたえた。
 日本人の素朴な信仰心にもとづく国体の上に、政体という権力構造がのっているのが、伝統国家・日本の国の形である。
 日本を無神論国家という強弁は、祭祀(国体)を無視して、権力構造(政体)だけに目をむけさせようという魂胆で、国体の破壊をもくろむ左翼の論法である。
 政体をひっくり返すのが革命で、中国の易姓革命も西洋の市民革命も、そのたびに、王や皇帝ともども、一族や前政権をささえた人々が皆殺しにされた。
 日本が祭祀国家の形態をとって、国体と政体を切り離したのは、易姓革命を避けるためで、日本で政変がおきても、権力構造が代わるだけで、祭祀国家の頂点にいる天皇になんの動揺もなかった。

 そこに、皇統が男系相続となった最大の理由がある。
 男系相続であれば、父から父へたどる系図が一本道なので、争いがおきない。
 ところが、母から母へたどる系図では、入り婿という形で、権力者が入ってくる可能性がある。
 女系相続では、女帝の孝謙天皇(重祚して称徳天皇)に仕えた道鏡や次男の義嗣を天皇にして治天の君(上皇)になろうとした足利義満のような野心家を、皇統の純血性から排除できないのである。
 古代から皇統の男系相続を貫いてきたのは、天皇の血統に他の男系の血統を入れないためで、その智恵が、結果として、神武天皇のY遺伝子が純粋な形で今上天皇まで引き継がれた。
 女系相続では父親由来のY遺伝子、男系相続では母親由来のミトコンドリアが、それぞれ途切れる。
 ミトコンドリアにそって、女系遺伝をたどっていけば人類の始祖というべき一人の女性(「ミトコンドリア・イブ」)にゆきつくという仮説に科学的根拠があたえられたのが2000年(ネイチャー・ジェネティクス誌)である。
 同じ論理で、Y遺伝子にそって、男系遺伝をたどっていけば、天皇の始祖である神武天皇にゆきつく。
 といっても、二六七七年の伝統国家をささえてきたのは、皇統維持に男系を選択して、その原則をまもりとおしてきた日本人の叡智と宗教的信念で、科学的な根拠は、現代人があとから付けた理屈にすぎない。
「皇位の男系男子継承は女性差別である(小林よしのり)」や「女性尊重の時代に天皇陛下だけ例外というのはおかしい(二階俊博幹事長)」というのは、現在の価値観をもって歴史をながめる態度で、ノーテンキもはなはだしい。
 現在は過去の積み重ねで、過去の出来事や価値観も現在にひきつがれている。
 平安時代に成立した能(能楽)が古いからといって、現代風なジャズをとりいれるのは、改革ではなく、ただの伝統破壊である。
 次回は、皇統や男系の血統に歴史的実証性や科学的根拠がないという愚論を批判しよう。
posted by office YM at 14:45| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする