2018年09月25日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」62

 ●民主主義と権力主義(5)
 元号についての議論で気にかかるのが、便宜性から伝統を語ろうとする見当違いと外国にたいするへつらいである。
 元号を文化と見て、一刀両断的にいうなら、日本固有に文化なので、これを問答無用にうけいれなくてはならない。
 便宜性に問題がある、外国人にわかりにくいなど、そんなものはとるに足らない問題で、まともにとりあうほうがどうかしている。
 元号問題は、哲学で言うなら与件、絶対前提で、うごかすことにできない第一原因である。
 その絶対前提にあたるのが天皇の存在で、いみじくも、元号は、天皇の御世の尊号である。
 元号は、世界に類のない国宝級の伝統で、日本人たるものこれに誇りをもって世界に宣してよい。
 ところが、警察庁は、改元にあたって、運転免許証の元号表記を西暦に変更する改定案を発表した。
 理由は「元号が外国人にわかりにくい」「マイナンバー制度に西暦がもちいられている」の2点だが、警察庁の意識や知的レベルの低さには開いた口が塞がらない。
 運転免許所有者のうち外国人が何パーセントか知らないが、わずかな外国人が元号の不便性をうったえたとして、それがなんなのだ。
 外国人の元号へのクレームは、免許をあたえてくれた他国への無礼、文化侵害であって、警察庁がふるえあがって恐縮することではないのだ。
 マイナンバー制度の西暦は、有効期限表示で、十年後、元号が変わっている可能性があるので、便宜上、西暦だが、生年月日は元号である。

 元号と西暦の併記は、伝統と国際慣例の並立で、キリスト教国家ではないわが国は、元号法は整備されているが、西暦が法制化された事実はなく、明治5年以降、グレゴリオ暦(西暦/太陽暦)が国際慣例としてもちいられてきたにすぎない。
 警察庁はテロ防止キャンペーンに女性タレントを使って「私はテロをゆるさない」なるポスターをべたべた貼り出して自己満足にふけっている。
 頭のレベルがその程度なら元号など文化の根源に触れる問題には近づかないほうがよいのである。
 これに先立って、政府は、各省庁がコンピュータ・システムでやりとりする日付データについて、和暦(元号)と西暦で混在している現状を改め、今後、数年かけて日付データを西暦に一本化する考えだという。
 呆れた暴挙で、日本国の正式な年号(元号)を放逐して、便宜上の暦(キリスト暦)を国家の年号にしようというのである。
 理由は、便宜性と合理性、事務の簡便化だけである。
 便宜性や簡便化が理由だとしても、行政文書での元号使用を強制しなければよいだけの話で、それが、どうして、元号廃止の理由になるのか。

 元号廃止の背後にあるのは、一切の伝統を廃止する革命思想である。
 これは、広義の民主主義革命で、伝統・権威・制度が否定されると、社会が崩壊の危機にさらされる。
 この民主主義革命は、左翼暴力革命が血みどろの闘争であるのにたいして、一見、平和的で、そもそも、革命などという物騒なムードすらかもしださない。
 議会内革命・国民投票・大衆迎合がキーワードで、その三つを呑みこんでいるのが民主主義という大舟である。
 多数決や国民投票、大衆的討議の果てになにがあるかといえば、国民的堕落というふしだらさである。
 ゴミの処分場をつくれ、だが、自宅の近隣は絶対反対というのが大衆的ふしだらさである。
 政治的決定は、さまざまの条件や選択肢、価値観、信条などが検討されてでてくる高度な判断で、偉人や英傑、哲人らが人々から尊敬されるのは、かれらの決断がすぐれていたからにほかならない。
 ところが、現在、もてはやされているのは、衆愚のきわみである国民投票で、どの政治家も二言目には国民投票を口にする。
 国民投票は、英知や知性、知恵や知識、テーマにかんする情報や付帯条件をあたえられないか、それが、不十分なまま、感情や好悪、目先の利益や気分任せに投じる政治決定で、これがこれまで、最悪の結果を招いてきたケースは枚挙にいとまがない。。
 向上には、努力や忍耐が必要だが、国民投票ではいちばんイージーな政策が選択されるので、国民投票の結果、国家は、まっしぐらに衆愚政治へ転落してゆく。
 元号を国民投票にかけると「面倒」「西暦のほうが便利」などという理由から廃止になる可能性がきわめて大きい。
 文化的異義や伝統的価値を重んじる知的レベルの高いひとは、いつの世でも、少数派だからである。
 民主主義とは、圧倒的多数の愚論が少数派の賢者の論を踏み潰してゆくプロセスで、伝統(元号)には一円の価値もない叫ぶ亡者がふり回す亡国の斧だったのである。
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2018年09月21日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」61

 ●民主主義と権力主義(4)
 昭和54年、旧大東塾の影山正治は「一死似て元号法制化の実現を熱祷しまつる」とする遺書を残して割腹後、散弾銃により自決した。
 元号法が可決されたのはその直後(第87回国会)のことだった。
 日本において、元号は、かくのごとく思い意味をもっている。
 一人の天皇について一つの元号に限る「一世一元」によって、天皇と元号が一体化して、天皇への親近感と日本特有のアイデンティティ(文化)がつくりだされる。
 西暦645年の「大化」から西暦1989年の「平成」まで延べ1344年間、247の元号が重ねられてきたが、そのかん、元号にまつわる混乱は皆無だった。
 それだけ、元号は、日本人に深くなじんできたといえる。
 元号は天皇がおきめになるもので、明治憲法下でも、元号は、勅定=天皇の決定事項と明記されていた。
 その公表は、法的効力を持つ詔書で、明治憲法下における改元は、元首たる天皇の権威を示す一大イベントだった。
 ところが安倍政権は、元号の政府決定どころか、元号の事前公表までを計画している。
 さらに、パスポートや運転免許証、公的文書などへの西暦表記を関係省庁へ通達したという。
 戦後、GHQ命令によって、天皇の法的効力(勅定・詔書)は失われた。
 元号も法的根拠を失ったが、政府は歴史的慣習としてこれを存続させてきた。
 そして、昭和54年の元号法成立で、元号は、よみがえった。
 ところが、同法では「元号は、政令で定める」とされている。
 政令は、内閣による命令なので、元号を決めるのは天皇ではなく、内閣総理大臣ということになる。
 日本は独立国なので、天皇の法的効力(勅定・詔書)を復活させてよかったはずだが、どういう力がはたらいたのか、GHQ意向がそのまま残った。
 天皇ではなく、首相が元号をきめるのなら、元号の決定が天皇の権威を示すイベントとなりえないのではないか。
 元号制度をとる国は、世界で日本が唯一で、天皇の権威を示すものとなっている以上、新元号は、新天皇(皇太子)におきめいただく配慮がはたらいてしかるべきではなかったか。

 1979年(昭和54年)に元号法が成立してから40年近くが過ぎた。
 いまにいたって、元号を廃止する理由も根拠も見当たらない。
 にもかかわらず、安倍首相は、なぜ、パスポートや運転免許証、公的文書などへの西暦表記を関係省庁へ通達したのか。
 その謎を解くカギは、じつは、安倍首相の「9条加憲」にある。
 自衛隊を憲法で明文化する安倍首相の「9条加憲」は、護憲派ばかりか改憲派や中道、無党派層のいずれの層からもそっぽをむかれている。
 憲法9条の1項、2項をそのままにして、3項を追加して、そこに自衛隊の合憲化を書き込むというアイデアは、果たして可能であろうか。
 賛成反対以前に、論理的矛盾につきあたって、だれだって、お手上げである。
 このアイデアを名案として歓迎するムキが一つだけある。
 アメリカである。
「われわれ(アメリカ)がつくった憲法をまもって、わが国(アメリカ)との集団的自衛権を保持せよ」とアメリカから迫られた場合、日本は、論理的矛盾はさておき、9条に3項をくわえて、自衛隊の合憲を謳うしかない。
 これが、安倍首相の「9条加憲」の深層構造だったのである。
 アメリカは、9条の改正を望んではいない。
 事実、日米構造協議や年次改革要望書で、あれほど、露骨な内政干渉をしておきながら、アメリカは、集団的自衛権の妨害となっている憲法9条の改正にいちども言及したことがない。
 アメリカ人の大雑把な思考なら、1項、2項をそのままにして、3項で自衛隊を合憲化する論理的矛盾を意に介さない。
 どっちみち、日本を植民地のような国と思っている国なので、9条がどんな矛盾をひきおこそうが知ったこっちゃないのである。
 日本は、GHQが撤退して70年近くたっているのに、いまもって、憲法も天皇条項もそのGHQの金縛りになっているような国である。
 独立国家としての誇りや自主性をまったくもちあわせていないのである。
 国家としての誇りが元号で、これを新天皇の勅定とすることで、アメリカの呪縛をきっぱり断つことができるが、安倍首相にその気はさらさらない。
 安倍首相が、国家の誇りをもたない、アメリカべったりの拝米主義者だったのなら「9条加憲」から、パスポートや運転免許証、公的文書などの西暦表記や元号の政府決定・事前公表がうなずける。
 安倍首相は、日本の政治を、アメリカの視点に立って、おこなっているのである。
 アメリカにとって、元号はなんの意味もないどころか、西暦との二重表記はわずらわしいだけである。
 日本人のなかにもにも、西暦と元号の併記は面倒というひとがいるが、西暦(キリスト教暦)の使用は、あくまで、国際的な便宜のためで、西暦に660を足すと皇紀(2678年)になる。
 さらに問題なのは、安倍首相が、新元号を事前に公表しようとしていることである。
 今上天皇に元号を冠して(おくりな/諡・諡号)お呼びするのが非礼であるように、次期天皇の元号を前もって、宣するすることはゆるされない。
 ところが、安倍首相は、新元号発足の数カ月前に新元号を公表する腹づもりで、そうなれば、今上天皇による新元号の勅定という、儀礼上、辻褄のあわないことになる。
 安倍首相は、不便性を口にするが、それでは、伝統をもたない軽薄なヤンキーとかわるところがない。
 安倍首相が、伝統国家日本の首相ではなく、革命国家アメリカの使い走りというなら、われわれは、ちがう観点から、安倍首相を批判しなくてはならなくなるだろう。
 次回は、このテーマについて、議論を深めよう。
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2018年09月17日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」60

 ●民主主義と権力主義(3)
「神道政治連盟」は安倍政権と密接な関係の「日本会議」より先鋭的な思想をもつといわれる。
 思想が文化にかかわるものなら、多彩でも先鋭的でもいっこうにかまわないが、政治や権力にかかわるものならそうはいかない。
 政治的先鋭は、大抵の場合、権力の暴走を意味するからだ。
 一般的に、政治あるいは権力という場合、権力抗争であって、国家や国民の安全やゆたかさ念頭におくまつりごと(政)とは別物である。
 政治がまつりごとにおかれる場合、おおむね、よい政治で、権力抗争や政権構想におかれる場合、劣悪な政治といわねばならない。
 長友学園や加計学園は、権力抗争のネタで、まつりごととなんの関係もない。
 出会い系バーに入り浸っていた元文部事務次官が持ち込んだ文書など「だからなんだ」というレベルで、それよりも、50年以上も獣医学部をつくらせなかったことによる日本の獣医学のレベルダウンのほうがまつりごとにとってよほど大きな問題だろう。
 テレビや新聞は、連日連夜、森友学園や加計学園問題に集中砲火を浴びせたが、これは、野党とマスコミ労連提携による反安倍闘争≠ナあって、国民の利益ということはまつりごとを度外視した権力闘争であった。
 石破氏の党総裁選スローガン「正直、公正」は、野党とマスコミ労連の反安倍≠フ論法をそっくり頂戴したもので、次期首相候補者たるものが、野党の権力闘争の論法を借りてきてどうするといいたい。
 党総裁選に大きな波乱はないだろうが、かといって、安倍首相の政治姿勢に問題なしとはしない。
 というより、本来、権威の側に立つべき神社本庁(「神道政治連盟」)が権力(安倍政権)べったりというのは由々しき事態で、これでは、権威が権力からおびやかされた場合、手の打ちようがない。
 小泉純一郎の「皇室典範に関する有識者会議」が万世一系を否定したときに真っ先に異義を唱えるべきは神社本庁だったが、権力になびいて、沈黙した。
 これでは、国体がまもれない。
 万が一、共産党が天皇制の廃棄を謳ったら、神社本庁が共産党打倒の戦いを挑むというのが、伝統をまもる権威=神社本庁のあり方だが、権力べったりの現状では、旧民主党系・共産党政権ができた場合、自民党と心中で、とうてい、権力とはたたかえない。
 政権から距離をおくから、政権を監視できるのであって、政権の太鼓持ちを演じて、国体をまもることなどできない相談なのである。

 神社本庁の前身は戦前の内務省神社局(後の神祇院)で国家機関だった。
「国家神道」の推進者で、廃仏毀釈を実行した神官の集団でもあった。
 権力の走狗となったのは、権威としての自覚がなかったからである。
 権威は聖で、権力は世俗のものである。
 その認識こそが権威と権力を分かつ分水嶺で、そのみきわめがつかなければ権威は権力をもとめて俗に堕ち、権力は権威をもとめて汚れた手で聖を冒す。
 それが、明国皇帝から「日本国王」に冊封された義満で、わが子足利義嗣を皇位に据えて「太上天皇」の尊号を手する寸前、急死する。
 朝廷は義満に「太上天皇」を宣下したが、幕府(4代将軍足利義持/管領斯波義将)はこれを返上した。
 権力の座にあるものが権威となると、却って、権力の座が危うくなると知っていたのである。
 権威が空位になると、権威から授かる権力の正統性が不全となるのである。
 ところが、安倍首相には、足利義持や斯波義将の知恵がそなわっていなかった。
 神社とアメリカお両方を味方につけて、無人の野を往く風情なのである。
 神社本庁は、戦後、宗教法人となって、国家機関ではなくなった。
 だが、地方機関である都道府県の神社庁をつうじて、全国約8万社の神社を包括している。
 宮司など神職約2万人、信者約8千万人を擁する圧倒的なスケールで、全国各地の祭り(神事)を担う氏子総代会や保存会の潜在的パワーは、他の宗教教団を寄せつけるものではない。
 安倍内閣の閣僚20人中、19人がメンバーにくわわっている神道政治連盟(神政連)の中核は、神社本庁の神職たちで、各県の神社庁ごとに地方組織が置かれ、地方議員連盟も組織されている。
 神政連は、保守陣営の理論的中核で大票田でもあるが、政治家は、この神政連から一定の距離をおかなければならない。
 神政連を、権力という俗物性で汚してはならないからだ。

 その兆しはすでにあって、神政連(神社本庁)は、安倍内閣が、天皇のご退位、新天皇のご即位、改元日を5月1日にきめたことに一言もなかった。
 5月1日はメーデー(労働者の日)で、アメリカでは、5人が死刑になったゼネストの記念日として知られている。
 日本では、1952年、暴力革命を叫ぶ一部左翼団体が暴徒化して、警察官側に740人、デモ隊側に200人の負傷者(死者1人)がでたが、この人民闘争は、労働界・左翼革命勢力のなかで、いまなお、高く評価されている。
 新天皇の船出、新元号発足の当日がメーデーとかさなると、メーデー行進のデモ隊が「元号反対」や「天皇制反対」のスローガンをもちださないともかぎらず、そうなれば、新生日本国の門出にも、治安上にも、大きな問題を残す。
 安倍首相はなにを考えているのか。
 また安倍政権は、パスポートや運転免許証などの西暦表記、政府による元号決定と事前公表(今上天皇による新元号の勅令)などという不埒な計画を着々とすすめている。
 次回はこのあたりのデテールについてじっくりのべよう。
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2018年09月10日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」59

 ●民主主義と権力主義(2)
 社会を動かす原理が民主主義や自由主義であるかぎり、世界に平和や安定はやってこない。
 民主主義も自由主義も権力だからである。
 権力はかならず衝突して、火花を散らす。
 権力は一元論でもあって、権力の衝突は、政敵が存在するかぎり熄むことはない。
 平安時代や江戸時代、そして、戦後日本が平和だったのは、権力抗争がすくなかったからで、その一方、文化が隆盛をきわめた。
 権力と文化は、両極にある二元論で、権力は政治、文化は権威におきかえることができる。
 権力と政治、権威と文化は、それぞれ、同質で、権威と権力、政治と文化が次元の異なる二元論である。
 社会も国家も、権威と権力、政治と文化の二元論から成り立っている。
 両者は、補完関係にあって、一方だけでは、暗黒化するか、崩壊する。
 日本にも、建武の新政から南北朝、応仁の乱、戦国時代まで280年、第82代後鳥羽天皇(上皇)の討幕軍が鎌倉幕府に鎮圧された承久の乱を入れると400年にもおよぶ暗黒の中世があった。
 原因は、権威たるべき天皇が権力をもとめたため、権威の座が空位になってしまったためだった。
 権威が空位になると、権威によって正統性をあたえられない権力が、存続をかけて、群雄割拠の闘争に突入する。
 この争いは不毛で、権威が関与しなければ、最後には、すべてが、共倒れになってしまう。
 織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らが天下をとれたのは、天皇の後ろ盾を得たからで、第106代正親町天皇が信長を立て、第107代後陽成天皇が秀吉を太閤に叙し、家康を征夷大将軍に任じて、権威と権力の二元論が恢復した。

 権威から権力の正統性を授かって、権威も権力も、ともに安定する。
 それが江戸の平和で、権力が封じられて、民が文化を享受したのである。
 その平和を根底からゆるがしたのが「黒船来航」だった。
 ペリー率いるアメリカの艦船4隻が江戸湾浦賀に着岸するや、日本は幕末という怒涛の大動乱の時代へ突入していった。
 江戸幕府は、黒船来航の翌年、井伊直弼を立てて、日米修好通商条約をむすぶが、違勅調印として水戸藩士が朝廷に直訴、孝明天皇が江戸260年の禁を破って、水戸藩などへ幕府非難の勅諚を出すに到った。
 ここから、安政の大獄や桜田門外の変と幕末政治は大暗転して、討幕運動が加速してゆく。
 江戸幕府ではなく、薩長による開国が、戊辰戦争をへて、尊皇攘夷から文明開化、西洋化、欧米視察、西南戦争、鹿鳴館文化、廃仏毀釈と八方破れになっていったのは、伊藤博文や岩倉具視らが暗愚だったというよりも、権威である天皇が政治に口出ししたからだった。
 倒幕後、明治政府は、権威不在のまま、天皇(王)を頭に戴くヨーロッパ型帝国主義国家のみちを驀進してゆく。
 日本は、その後、日清戦争と日露戦争へと打って出るが、この両戦に負けていれば、清国やロシアの属国になっていたかもしれなかった。
 日本は、天皇=権威という国体を捨てて、天皇ファシズムという帝国主義のみちをすすみ、日本を亡国の危機にむかわせたのである。
 その運動原理となったのが、権威と権力の一体化だった。
 権威や文化には、だれもが、好意や敬意を抱き、よろこんでしたがう。
 一方、人々を暴力的に縛りつけ、支配しようとする権力は嫌悪される。
 この二つを噛み合わせると、権力が増強され、権威が失墜する。
 歴史や芸術、宗教などは大きく文化のカテゴリーに括られる。
 政策や権力、イデオロギーが政治にカテゴリーにあるのはいうまでもない。
 その境界線を取っ払ったのが、天皇ファシズムで、天皇が軍服を召されて、軍馬にお乗りになった。
 権力が強化される一方、権威が形骸化された一つの典型が、国家神道と廃仏毀釈だった。
 明治神祇官(神祇省・教部省/のちの神道本局・神祇院)には、全国神社の神官が就いたが、多くが、平田神道の影響をうけた国家神道の信奉者で、廃仏毀釈という日本史上、最悪の文化破壊をおこなった。
 権威=天皇をまもるべき神官が、神祇官として権力にとりこまれて、権力=政治の下僕となり、神道の権力化(国家化)に血眼になったのである。

 超党派の保守系議員でつくる「日本会議国会議員懇談会」は2018年6月「新元号の公表は改元当日の来年5月1日にすべきだ」との見解をまとめた。
 新元号の事前公表は、今上天皇を諡(おくりな/平成天皇)でお呼びすると同様、あってはならないことで、これは当然である。
 ところが、安倍内閣は、@改元月日を5月1日のメーデーにあてるA元号の事前公表B運転免許証やビザ(査証)、役所文書の西暦表示(元号廃止)の計画を着々とすすめている。
 問題なのは、安倍内閣の閣僚20人中、安倍本人を含めて、19人が「神社本庁」とかかわりの深い「神道政治連盟」のメンバーであることである。
 神社は、天皇=権威をささえる中核であって、安倍政権をささえる政治勢力であってはならない。
 そのことは、本稿で、縷々のべてきたとおりである。
 神社本庁は、安倍首相の元号抹殺という文化破壊に手を貸すのか?
 次回は、このテーマについて、つっこんだ議論を展開したい。
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2018年08月26日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」58

 ●民主主義と権力主義(1)
 私は、昔から、右翼人や保守主義者たる以前に反権力主義者で、現在もそうである。
 右の運動も保守主義の涵養も、根幹にあるのは、思想ではなく、反権力という情操である。
 権力にたいして、猛烈な反発心があって、これは、気性なので仕方がない。
 一方、権力主義の本領は、左翼暴力革命につきるだろう。
 共産主義もまた、思想ではなく、革命運動のイデオロギーで、マルクスも、英国のインド侵略にはエールを送っている。
 マルクス主義は、自由でも平等でもなく、権力主義で、暴力革命とギロチンがその象徴である。
 夢想家ルソーはフランス革命家に、自然権のロックはアメリカ独立運動に、反資本主義のマルクスはロシア革命に、それぞれ、利用されただけで、革命の本質は、くり返すようだが、思想ではなく、権力闘争である。
 かつて、右の運動が反共・反革命にむかったのは、反権力だったからである。
 しかし、その後、右の陣営は、権力の擁護者となって、反権力の衣を捨てた。
 これが右翼の堕落で、権力にとりこまれた右翼は、体制の一員の大政翼賛会にすぎない。
 神社本庁は、安倍内閣の応援団になっているが、神社がまもるべきは天皇の権威であって、安倍政権でも自民党政権でもないはずである。
 このテーマについては次回にゆずるとして、閑話休題。
 さて、右翼が反権力主義力といっても、むろん、無政府主義ではない。
 国家権力をみとめるのは、保守主義者も同様で、西洋では、社会契約説のホッブスがいる。
 ルソーやロックも、王権神授説を超えた社会契約説だが、国家権力を大前提とするのはホッブスだけで、だから、フランス革命を批判したエドマンド・バークとともに保守主義者の父と呼ばれるのである。
 保守主義者は、日本でいえば、玄洋社の頭山満が筆頭で、大アジア主義の立場から、日露戦争の折、満州義軍(馬賊)を結成するも、朝鮮併合や満州事変、日華事変(日支戦争)では、政府に異を唱えた。
 そして、蒋介石との和平を望み、蒋も尊敬する頭山とは和平に応じる構えだった。
 これは、統制派から阻止されたが、一方、頭山は、同志だった犬養毅首相らから入閣をいくら請われても応じなかった。
 右翼人、大アジア主義者、思想家には、権力は無用なのである。

 保守主義は、改革や現状打破、進出・侵略を望まない。
 ふり返ってみるに、明治以降の西洋化と帝国主義が、原爆による敗戦に帰結して、3百万人戦死・戦災死をふくめて、すべてを失ったことを考えると、戦争を避けようとした保守主義は、もっとも賢明な政治哲学だったとわかる。
 保守主義が権力のブレーキになりうるのは、国体(天皇)という文化構造が権力という政治構造の上位におかれるからで、頭山満の玄洋社の憲則三条には、第一条皇室を敬戴すべし、第二条本国を愛重すべし、第三条人民の権利を固守すべし、とある。
 保守主義を国家主義・全体主義とみるのはおおまちがいである。
 国家主義はヨーロッパ型の帝国主義、全体主義は共産・共和主義で、保守主義は、天皇が権力ではなく、民の側にあったように、むしろ、人民の側に立つ。
 玄洋社の頭山満、黒龍会の内田良平が、日本政府のアジア戦略に反対したのは、東亜連携が、同胞のきずなではなく、アジアを植民地にした列強の支配・被支配の立場に立ったからであった。
 大東亜戦争のアジア解放も、独立運動のきっかけにはなったものの、当初は、英米蘭仏に代わって、日本の軍部が統治の実権をにぎった。
 日本の軍部および日本という国家が権力的だったのは、否定できない事実で、その権力主義を、戦後、そっくりひきついだのが民主主義であった。
 民主主義が、民権運動の延長線上にあって、権力主義の対極にあるかのように錯覚しているひとがいるかもしれない。
 私に反*ッ主主義の共同戦線をもちかけてきた西部邁氏がのべたように、民主主義は、自由も平等も、善もモラルも有さない、ただの多数決で、数の暴力にほかならない。
 民主主義を最大限に利用したのがヒトラーやスターリン、ルーズベルトで、ルーズベルトが日本への原爆投下をきめたのが民主的に4回目の大統領当選をはたした直後であった。
 ナチス党が政権をとるのに、民主主義は、なんの抵抗にもならなかったどころか、党の情宣活動から普通選挙法に到るまで、徹頭徹尾、追い風の役割をはたしただけだった。
 ロシア革命のボルシェヴィキ(多数派)は、プロレタリアート(労働者階級)独裁プロレタリアート政党と同義で、多数派をつくる民主主義ほど暴力的で強烈な権力はないのである。

 フランシス・フクヤマは『歴史の終わり』で、民主主義(政治)と自由主義(経済)が最終的価値として残されたと記した。
 だが、それは、その二つが、哲学的な普遍性をもっているからではなく、民主・自由がもっとも野蛮で手がつけられない原理だったからである。
 民主・自由だから、平和や繁栄がもたらされるのではなく、逆に、ホッブスの万人の戦争ではないが、混乱と紛争、格差拡大がひきおこされるだけである。
 ひるがえって、保守主義はなにかと考えるに、これは、民主と自由の制御にほかならない。
 保守=伝統は、歴史的価値観に添いしたがうことで、それは、とりも直さず、権威にたいする謙(へりくだ)りで、現実的な力としての権力が権威によって制御されて、それが、社会や精神のバランスであり、節度である。
 民主主義も自由主義も、権力なので、放埓で、ブレーキも自己制御もきかない。
 それを利用したのが、前世紀における暴力革命だが、民主主義信仰が深く根を下ろしている現代においても、民主主義は、十分に、暴走しうる。
 先日、ある集会で、伊吹文明衆院議員が「民主主義は衆愚政治を生む」と発言されたのを印象ぶかく聞いたが、伊吹議員の認識はまれで、大方は、民主主義が賢明な政治手法にして人類の英知の結晶と考えている。
 警戒心がないだけに、その民主主義が暴走しても、チェック機能がはたらかないのは、小泉内閣の「皇室典範有識者会議」における万世一系否定の民主的決議をみてわかるとおりである。
 民主主義は、元来、一過性のもので、たとえ、民主政権(人民政府)が誕生しても、民衆は議事堂に入りきらないので、多数決の絶対権利は、個人(独裁者)や政党(一党独裁)にゆだねられる。
 こうして、統治権が取り引きされて、独裁政権がうまれる。
 権力が独占されるから独裁なのではない。
 委任された多数派権力≠ェ大きすぎるので、強権独裁になるのである。
 多数決の権力は絶大で、絶対である。
 第一次世界大戦は、20世紀の初頭(1914〜1918年)におきたが、時代的には、議会民主主義が定着して、議会の多数決で参戦がきめられる情勢下にあった。
 第一次世界大戦の戦死者が、第二次大戦をこえる1600万人、戦傷者2000万人にたっしたのは、多数決(開戦)と徴兵令、武器の近代化の三つがかみあった結果だった。
 第一次世界大戦は多くの犠牲者をだすに価する戦争ではなかった。
 ところが、民主主義体制においては、安易に、多数決という非人格的・機械的判断(決定)が下されるため、善悪の判断や忍耐、善意などの人間らしさが封じ込まれて、軍事衝突を回避することができなくなる。
 多数決は、縛り首(私刑)の論理で、かつて、アメリカでは、多数決によって、公的死刑の何倍、何十倍もの人々が吊るし首(奇妙な果実)にされた。
 世界大戦が民主主義の戦争だったことにだれも気がつかないのは、民主主義信仰がきわまっているからで、将来、世界戦争や大規模な紛争がおきるとすれば、引き金になるのは、民主主義という名の権力主義であって、君主の判断ではない。
 むしろ、紛争にブレーキをかけるのが、政治的無色の君主で、それが、反権力=伝統主義という権威である。
 権威が権力を制御できるのは、頭山満の高弟でもあった葦津珍彦が指摘したとおり、権威=君主は政敵を有さぬ(帝王学)からである。
 政治や権力が「敵と味方の峻別(C・シュミッツ)」であるなら、文化の範疇にある権威は、敵と味方の区別をつけないことで、この泰然たるところによって、国家間の紛争や利害の対立、民族の憎悪をのりこえることができる。
 右翼人・保守主義者が、反権力の立場に身をおき、歴史や文化、国体、天皇に最大の重きをおいてきたのはそのためである。
 次回は、元号と改元、安倍内閣をささえる神社本庁のありようについてのべよう。
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2018年08月19日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」57

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(15)
 私事になるが、過日、講演中に、聴衆の一人から「あなたは腹を切れるか」と問われた。
 明治維新以降、とりわけ、昭和軍国主義における「承詔必謹」および現人神信仰にたいして、わたしは、一つ疑問を呈した。
 皇祖皇宗の大御心と天皇の御意志に齟齬が生じた場合、これを諌めてもよいというのが歴史を重視する態度で、葦津珍彦は、天皇が世襲である以上、大御心も世襲であるとのべている。
 腹を切れるか云々は、天皇諫言論にたいする反発で、承詔必謹(「天皇の詔を承ったからには必ず謹め」)に異議を立てるなら、その覚悟はあるのかというのである。
 臣下が主君を諌める場合、死の覚悟をもって不忠を清算するのが諫死という考え方で、儒教にもとづく封建思想である。
 だが、民は、天皇の臣下だったことはなく、十七条憲法でも、承詔必謹の対象は豪族や官僚で、太子は群卿(豪族/第四条)や群臣(官僚/第十四条)ということばを使っている。
 そもそも、民という概念がうまれるのは、十七条憲法から40年下った大化の改新(公地公民)以降のことで、それまでは、民も土地も、氏上が所有する私地私民だった。
 天皇と民の接点はなく、したがって、天皇と民のあいだで、承詔必謹や諫死の思想が生じたと考えることはできない。
 民には、お上(幕府将軍)の上に天子様というもっと尊い貴人がおられるというほどの認識しかなく、庶民はおろか、大名ですら、天皇と会うことはできなかった。
 なにごとの 在しますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
伊勢神宮に参った西行法師のうたであるが、庶民にとって、天皇は、どなたさまかは存じ上げないが、ただひたすらかたじけない存在であった。
 だからこそ、天皇は、日本の歴史や文化、民族の象徴なのである。
 
 わたしが呈した疑問というのは、天皇と民主主義の兼ね合いだった。
 天皇=伝統主義と革命の産物である民主主義は、対立概念で、民主主義においては、小泉純一郎内閣の「皇室典範に関する有識者会議」が公然と万世一系を否定したように、伝統がまもるべき価値ではなく、破棄されるべき旧弊となるのである。
 かつて、故西部邁氏から「右陣営はなぜ民主主義に攻勢をかけないのか」とハッパをかけられたことがあったが、さすがに鋭い目のつけどころであった。
 わたしは、西洋の民主主義を日本精神の破壊者と見るもので、むろん、民主主義の信奉者ではない。
 しかしながら、日本が民主主義を捨てて、日本主義に回帰する可能性は万に一つもない。
 そうなら、民主主義と折り合いをつけて、共存する以外、天皇を未来永劫にわたってまもってゆく方法がない。
 象徴天皇は、戦後、GHQがもちこむ以前に、摂関・院政・武家政権において、すでに定着しており、天皇が、権力ではなく、歴史や文化、民族の象徴にして、権威であることは、日本の歴史の真実である。
 民主主義にしても、ルソーが国家の理想とした君民共治≠ェ古代においてすでに実現されており、革命の産物であるデモクラシーより、日本の民主主義(君民一体)のほうがはるかに伝統的なのである。
 歴史的に実現されていた天皇と民主主義の共存を破壊したのが、明治憲法の天皇元首(大元帥/統治権の総攬者)と昭和軍国主義の現人神信仰だった。
 西部氏は、天皇主権も国民主権もみとめなかったが、わたしも同感で、主権は、国家のもの、しかもそれは、権利にともなう義務のほうが大きい、国家の負荷というべきものでなければならない。

 そこで、障碍になってくるのが天皇元首論と「承詔必謹」である。
 かさねて指摘しておくが、天皇は、歴史上、国民に、直接、下命することはなかった。
 その大原則をひっくり返したのが徴兵令(全国徴兵の詔/明治5年) だった。
 大元帥となった天皇は、理論上、国民皆兵の指揮者となって、ここで、天皇と国民がむきあう関係になった。
 この構造を利用して、政府は、赤紙一枚で、大量の国民を戦場に駆り立てることができるようになって、日露戦争では1か月の局地戦(203高地・旅順要塞攻略)で戦死者1万6千人、戦傷者4万4千人という未曽有の大被害をだした。
 赤紙一枚でいくらでも兵隊をとれる徴兵令が、対米戦争(南洋島嶼作戦)や中国戦線の戦線拡大につながって、大東亜戦争の戦死者は、二百十二万人にもおよんだ。
 西部氏の教え子で京大教授の佐伯啓思氏が朝日新聞(異論のススメ/2018年7月6日)で「日米戦争と重なる悲劇 自刃した『西郷どん』の精神」なる一文を寄せている。
「明治維新のもつ根本的な矛盾とは、それが攘夷、すなわち日本を守るための復古的革命であったにもかかわらず、革命政府(明治政府)は、日本の西洋化をはかるほかなく、そうすればするほど、本来の攘夷の覚悟を支える日本人の精神が失われてゆく、という矛盾である」「盟友の大久保利通らと袂を分かって鹿児島へ帰郷し、4年後に明治政府に対する大規模な反乱(西南戦争)をおこしたあげく最後は自刃する。西郷を動かしたものは、攘夷の精神を忘れたかのように西洋化に邁進する明治政府への反発や維新の運動に功をなしたにもかかわらず報われずに零落した武士たちの不満であった」
 佐伯氏はふれていないが、士族の反乱の根底に、徴兵令があったのは疑いえない。
 志願兵制度(「壮兵」)を構想していた西郷隆盛や「萩の乱」の首謀者として処刑された前原一誠、西郷隆盛とともに私兵を率いて政府軍と戦い、壮絶なる最期を遂げた桐野利秋(中村半次郎)らは「国家のために死ぬ武士の名誉を奪うもの」として、徴兵令に反対した。
 佐伯氏のいう日本人の精神の頂点に、国家のために死ぬ武士の名誉があったはずで、葦津珍彦も「近代民主主義の終末/日本思想の復活)」で同様の論述をくりひろげている。
 承詔必謹が、日本人を戦場に送り出すため、軍人が17条憲法から盗用した論法で、天皇の政治利用だったことに気づかなければ、天皇=国体の純粋性を未来永劫にわたってまもってゆくことはできないのである。
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2018年08月12日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」56

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(14)
 神武天皇の末裔である天皇は祭祀王で、今上天皇は、いまなお、五穀豊穣と国の弥栄、民の幸を高天原に祈っておられる。
 それが神道あるべき姿で、神道は、宗教ではなく、祈りの儀式なのである。
 聖徳太子が、仏教を宗教、儒教を道徳、神道を政治に仕分けたのは、賢明な判断で、祭祀国家である日本の政治は、高天原の理想(幽契=天照大神と豊受大神の約束)の実現を祈る儀式で、天皇の祈りは高天原の祈りなのである。
 アニミズムの最高頂点が高天原なら、シャーマニズムが、卑弥呼や草薙剣を授けて日本武尊の難を救った倭姫命らの系統で、シャーマンが男性天皇にうけつがれたのは、万世一系という歴史的伝統によってだった。
 世襲においては、神武の血統へとたどりつく男系が絶対で、女系では、代がかわるごとに男系の祖がかわって、伝統を維持できない。
 壬申の乱ののちに皇親政治を敷いた天武天皇を除いて、天皇が絶対権力者ではなかったのは、天皇の権威は、神武の血統継承者にして神道の最高神官という二点にあったからである。
 大王家と大和豪族の連立政権は、葛城や蘇我、物部、中臣らの豪族が大王に統一されたのではなく、豪族らが統一の象徴として、大王を立てたというのが実際のところで、天皇の権威は、豪族や太政官、摂関家、上皇ら権力構造との微妙なバランスの上に成立していた。
 穴穂部皇子(欽明天皇の皇子)や崇峻天皇が蘇我馬子に殺されたのは、その力関係のあらわれで、天皇は、大和朝廷という政(マツリゴト)の御みこしのような存在だったのである。
 道鏡の皇位簒奪事件では、弓削道鏡を寵愛する孝謙上皇が、道鏡排除の乱をおこした藤原仲麻呂にたいして、仲麻呂の専制に不満を持つ貴族を結集させて仲麻呂を滅ぼし、さらに、仲麻呂の推挙で天皇に立てられた淳仁天皇を廃位に追いこみ、淡路国に流刑途上、ひそかに殺害している。
 重祚復位した称徳天皇のもとで、太政大臣から法王にまでのしあがった道鏡は、みずからを天皇にという宇佐八幡神のお告げを工作するが、和気清麻呂に破られて、称徳天皇の病没後、失脚する。
 そのかんの度重なる政変で、多くの親王・皇子・天皇が粛清され、藤原仲麻呂の乱では、淳仁天皇以下、15人の皇族が流刑になっている。
 天皇や皇族にたいする最高刑が流刑なのは、死刑にすると祟られるからで、配流は事実上の死刑だった。

 歴史上、天皇が絶対者や現人神だったことは一度もなく、江戸時代は、禁中公家諸法度によって、権力からきびしく遠ざけられていた。
 天皇を権力者にしたのは明治維新の薩長政府で、天皇を担いで、武家政治を転覆させた。
 薩長や倒幕公家(岩倉具視・三条実美)に担がれた天皇が、権力の後ろ盾となったのが明治維新の基本構造で、その思想的背景に、国学という文化の範疇にあった神道(神ながらの道)の宗教化があった。
 神道を絶対化すれば、天皇を元首に戴く維新政府の天皇ファシズムが万全になって、明治政府は、戦争遂行をふくめた帝国主義政策を強力におしすすめることができる。
 明治憲法を萌芽として、昭和初期の軍国主義にむかって、天皇ファシズムがすすんでいった背景に、神道を国家神道に仕立て、国家自体を神がかりにして政治を思うままにすすめようという薩長の企てがあったのである。
 皇室の儀式だった神道が、江戸時代に脚光を浴びた理由は、国学者の契沖や荷田春満、賀茂真淵、本居宣長が、古事記や万葉集、古今和歌集の研究をとおして、神道のなかに日本精神を見出したからだった。
 江戸時代の学問は、漢学(四書五経)と国学に大別される。
 国学者たちの神道は、あくまで、古典研究の範囲でとどまっていた。
 ところが、本居宣長の死後、平田篤胤という人物があらわれて、神道のオカルト化をはかる。
 平田は驚くべき勉強家で、仏教・儒教・道教・キリスト教のほか西洋医学やラテン語、暦学・易学・軍学などにも精通していた。
 本居宣長の弟子を自称していたにもかかわらず、宣長がきらった漢意(からごころ)の大家だったのである。

 平田が試みたのは、神道のキリスト教への大改造だった。
 キリスト教は一神教で、多神教・汎神論の神道と折り合いがつくはずがない。
 天皇が「神に祈る神(のようなひと)」で、歴史上、現人神だったことが一度もなかったのは、日本が多神教世界だったからである。
 平田神道の一神教は、天皇の神格化で、天皇がキリストに仕立てられた。
 ゴッド(全能の創造神)は、天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の三神で、キリスト教の三位一体になぞらえられている。
 世の悪を人間の責任に帰しているのが原罪思想なら、最後の審判で、死後の人間を裁くのが、天孫降臨以後、国土を天皇の祖神に譲って幽世に移り住んだとされる大国主神である。
 なにからなにまでがキリスト教的なのである。
 平田神道のきわめつけが「黄泉の国」である。
 死者の世界(異界)は現世のあらゆる場所にあって、神々が神社に鎮座しているように、死者の魂は、この世にとどまって、永遠に家族や友人をみまもるという。
 平田神道に、下級武士から神職、地主、在郷商人まで千人以上が門人として殺到したのは、キリスト教的な合理性をもっていたからだが、平田神道(復古神道)とラジカルな水戸学がむすびついたのが「尊王攘夷」論だった。
 儒教的秩序・歴史観にもとづく水戸学の尊皇攘夷と異国の文物を汚らわしいものとみなす平田神道の排他性が共鳴したわけだが、そこから、現人神という思想がでてくる。
 君民の秩序として天皇を重んじる水戸学と天皇をキリストとみる平田神道が合体して、理性を失った天皇崇拝がでてくるわけだが、日本史上、天皇が神となったのは、これがはじめてである。
 平田神道は、神社の神官につよく支持されるが、この神官たちが政府に登用(神祇官)されて、廃仏毀釈運動(神仏分離令)という日本史上最悪の文化破壊がおこなわれる。
 この狂信性が、国体破壊であって、元凶は、天皇の政治利用である。
 そして、対米戦争というとんでもない方向へ日本をひっぱってゆく。
 そのときに悪用されたのが「承詔必謹(天皇のみことのりには必ず従え)」という観念である。
 小林よしのりは皇后陛下の「謹んでこれを承りました」というおことばをとらえて、これを見習えという。
 そして、こう悪態をつく。
 皇后陛下のおことばが産経新聞の愛読者である「男系血脈派」に届くのか?
 自民党の国会議員に届くのか?
 竹田恒泰を奉じる日本会議系の国会議員に届くのか?
 安倍政権に届くのか?
 有識者会議に届くのか?
 答えは風に舞っている。
「承詔必謹」に一片の批判精神ももちあわせない小林という男はなんという愚かな男であろうか。
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2018年08月05日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」55

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(13)
 神道がいつごろから宗教の形態をとったのか、正確にはわかっていない。
 神道という文字の初見は『日本書紀』の用明天皇紀で、そこに「天皇、仏法を信けたまひ、神道を尊びたまふ」(6世紀末)とある。
 神道が表舞台にでてきたのは天武・持統朝の「律令祭祀制(7世紀末〜8世紀初頭)」からで、新嘗祭や朝廷から全国官社へ幣帛が下される「幣帛班給制度」もこのときからはじまった。
 伊勢神宮の整備や斎宮制度(未婚の皇女または王女が伊勢神宮の祭神=天照大御神に仕える)を整えたのも天武天皇だが、大宝律令など、当時の律令制度にかんする歴史的史料は残っているものの、神道の発生や実態を示す記述や記録はほとんど存在しない。
「葦原の 瑞穂の国は神ながら 言挙げせぬ国(柿本人麻呂)」だからで、日本人が神道を信仰してきたのは、神道の原点たる高天原が日本民族の魂の故郷だからである。
 神道に経典や教義、戒律がなく、キリスト経やイスラム教のような絶対神がいないのは、神格にあたるのが、非人格の高天原だからである。
 神道は、啓示宗教とちがい、神のことばや人間理性にもとづかない自然宗教(崇拝)で、神にあたるのが、人格神ではなく、言挙げをしない高天原という聖地なのである。
 そこから、神話や八百万の神々、ミコト(尊)や英雄、巫女や神官、日本人の祖先にあたる氏子などがうまれて、日本開闢の物語が展開される。
 中心になるのが天皇で、日本人は、どこかからやってきたのではなく、天孫神話を共同幻想とする民族で、高天原から降りてきたのである。
 これを事実と反するというのは、大馬鹿者で、民族もヒトも、神話や幻想を共有して、はじめて、万物の霊長たりうるである。
 わたしたちが、孤独な個人ではなく、一人ひとり、日本民族の同胞たりえているのは、天皇が、わたしたちが共有する神話や歴史世界の中心におられるからである。
 といっても、天皇は、日本民族の象徴で、個人崇拝の対象ではない。
 天皇を個人崇拝(現人神)の対象としたのは、軍人勅諭(1882年)と戦陣訓(1941年)だが、これについては、次回に詳説することにして、今回は、文化概念だった神道が宗教へ、文化的存在だった天皇が現人神へと仕立てられていったプロセスをみてゆこう。

 日本土着の素朴な信仰心は、縄文時代に、アニミズム(自然崇拝)やシャマニズム(神との交流)、祖霊崇拝などと混交して、おそらく、弥生時代になってから、高天原神道(神話)となって、祭祀の儀式にとりいれられていった。
 神道の参拝は、何事も念じない。
 拝礼して、高天原の理想(幽契=天照大神と豊受大神とがとり結んだ約束)をうけとめるだけである。
 神社あるいは祭祀は、そのための祈りの場(神籬=ひもろび)で、高天原につうじるこの世の異空間である。
 高天原とこの世は、神社や鎮守の森でつながっている。
 なにごとの 在しますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
 伊勢神宮に参った西行法師のうたである。
 高天原につうじるひもろびだからこそ、伊勢神宮を訪れる日本人は魂をゆさぶられるのである。
 降る雪や 静寂厳 このやしろ 高天原へ 白き神籬(山本峯章/2016年)
 なんの装飾も華美さもない、簡素なたたずまいの神社に、これほど降る雪が似合うのは、高天原につながっているからなのである。

 高天原は、万物の産み出る処で、一切をはらみつつ、一切をもたない、知慮分別を超えた、空無の聖空間である。
 その摩訶不思議を崇め、畏れるのが神道の精髄で、日本人は、高天原という絶対無比を、古来より、唯一の信仰対象としてきた。
 神道の神格は、あくまで、高天原だが、高天原は、万物の有である一方、無一物の無で、そこに、日本精神の根本原理がある。
 日本文化の特性の一つに、無と空がある。
 親鸞の無上仏から無心の善や美、般若心経の色即是空と空即是色、鈴木大拙ら禅宗の空は、西洋の虚無(ニヒリズム)とちがって、何かを産みだす力の源泉である。
 高天原の思想をうけついでいるのである。
 高天原神道は、近世・近代になって、三神を創造主とする平田(篤胤)神道や祝詞(神社)神道、廃仏毀釈をうんだ国家神道などへ枝分かれしていった。
 古事記と日本書紀にも、造化三神による天地創造の神話がある。
 けれども、天地創造したあと、すがたを消して、二度とあらわれない。
 造化三神は、高天原そのもので、この世の神ではなかったからである。
 天地創造は、無の高天原から有の葦原中つ国(この世)がつくりだされた神の御所為で、西洋の天地創造とは、根本構造が異なる。
 近代精神においても、有を生むのは、無である。
 目に見える物質(有)と目に見えないエネルギー(無)は、不即不離の関係にあり、万有引力や物理の法則、自然現象をつくりだす原理、生物を生育させる力も、目に見ることができない無の力である。
 本居宣長は、無や空の力を産巣日(ムスビ)といい、ムスビの力によって生成される一切を「神の御所為(ミシワザ)」とよんだ。
 そして、理屈を並べ、賢しらに説明しようとする作為を漢意(カラゴコロ)として排した。
 それが、古事記から再構築された近代神道=高天原神道である。
 神道を原始信仰という学者がいるが、けっして、そうではない。
 むしろ、「汝はわれのほかを神としてはならない」というモーゼの十戒に比べて、はるかに高い普遍性をもっている。
 次回は、高天原信仰と天皇のありようを根本的にゆるがした平田神道をみていこう。
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2018年07月30日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」54

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(12)
『国体の本義』を著した国学者の山田孝雄は、国体を空気にたとえた。
 国体は、空気のようにあたりまえの存在なので、とりたてて、意識できないというのである。
 国体と同様、天皇と神道も、日本人の無意識のなかにひそんでいる。
 日本人にとって、きわめて重要な文化的概念で、圧倒的な心的影響力をもちながら、あまりにも、歴史的・民族的な普遍性が高いので、却って、意識することができないのである。
 無意識という雲の上にあった神道や天皇が、国家の宗教的支柱や現人神として、国民から意識されるようになったのは、けっして、古い話ではない。
 明治政府の国家神道が、神社を国家の丸抱えにした神道の政治利用だったのなら、現人神はもっと新しく、2・26事件で、皇道派将校19人が銃殺刑になって、統制派が、荒木貞夫や真崎甚三郎ら皇道派の重鎮をすべて追放したのちのことである。
 統制派は、戦陣訓や軍人勅諭をもちだして、みずから、天皇の官僚・軍属であることをアピールし、東条英機などは「生きて虜囚の辱を受けず」(陸訓一号/1941年)などの訓令をだして、玉砕や自決による日本兵の大量死をまねいた。
 明治の軍隊は、海軍の薩摩、陸軍の長州と薩長閥だったが、西郷隆盛の下野と西南戦争における敗死、紀尾井坂の変の大久保利通の暗殺によって薩摩閥は勢いを失い、政界・軍部ともに、伊藤博文や山縣有朋ら長州閥の独り勝ちとなった。

 これに反発したのが、政界や財界とむすんで、軍部の影響力を強めていった統制派で、その代表が、永田鉄山陸軍少将や東條英機陸軍大将だった。
 政・官・財界と組んで力をつけてきた統制派は、皇道派や薩長閥を排除して栄達の道を歩みはじめるが、薩長閥のような実績や人脈がなかった。
 そこで、かれらが権力の正統性としたのが、天皇と学歴だった。
 永田鉄山は、陸大をトップででて恩賜の軍刀を贈られているが、東条英機も丸暗記で有名な勉強家で、陸大をトップに近い成績で卒業している。
 知将今村均、猛将山下奉文、賢将石原莞爾が冷や飯を食わされたのは、日本の軍部が、陸軍士官学校や陸大、海軍兵学校の成績順位だけで、軍人の身分をきめていったからで、連合艦隊参謀長の宇垣纏は、海軍兵学校や海軍大学校の卒業順次がじぶんより下の者へ、敬礼も返さなかったという。
 昭和の日本軍は、極端な偏差値社会だったわけで、薩長の出身者がほとんどいなかった当時の軍事エリートは、勉強はできたが、薩長とは比べものにならないほど戦争が下手だった。
 中国大陸侵攻や南洋島嶼作戦は、陸軍と海軍が予算を分捕るためにおこした意味のない戦争で、その一方、サイパン島・硫黄島の要塞化など、本土防衛に必要だった作戦はなに一つ実行に移されなかった。
 日本は、統制派の狭量と権力主義、官僚主義のために戦争に負けたのである。
 旧日本軍上層部のでたらめをささえたのが「承詔必謹」で、十七条憲法第3条「詔を承りては必ず謹め」(君主がいうことに臣下はしたがえ)を借りてきて、国民は天皇の命令に逆らってはならないとした。
 これは、とんでもない誤りで、聖徳太子の時代の豪族(氏族)政治において、氏上や民たる氏子はいたが、国民などおらず、氏子とて、天皇との接点はなかった。
 承詔必謹は、臣下や官僚、地方豪族にたいするもので、かれらは、群卿百寮(第8条)、群臣百寮(第14条)と名指しされている。
 国民という概念は、大化の改新の「公地公民」からのもので、そこから50年近くも遡る聖徳太子の時代に、天皇が国民に「承詔必謹」を呼びかけるはずはない。
 昭和の軍部は、天皇陛下という号令に、だれもが、直立不動の姿勢をとって服従する現人神$_話を悪用して、数百万人の日本兵を死地に駆りだした。
「承詔必謹」はその悪夢の呪詛で、もっとも悪質な天皇の政治利用であった。

 漫画家の小林よしのりは「皇后さまの『承詔必謹』を見習うべし」としてネット上に以下の文章を載せている。
 皇后陛下の82歳の誕生日のお言葉を、産経新聞と東京新聞が全文載せていた。
 産経新聞は皇室のニュースを割と大きく報じて、いかにも尊皇心があるようなふりをする。
 ところが「承詔必謹」は全くない!
 それどころか、天皇陛下に平然と異議を唱える論客(逆賊)ばかりを紙面に登場させる。
 要するに自分たちの希望する「天皇像」に今上陛下は合致しないのである。
 Y染色体・男系血脈としての天皇を彼らは尊崇していて、個人としての天皇には興味がない。
 彼らの主張はこうだ。
 天皇は祭祀だけをしていればよい、公務は余計だ、御簾の奥に隠れてカリスマ性を保て、閉ざされた皇室が望ましい。
 天皇陛下が公務をなさり、国民に直接「お言葉」を伝えると、彼らは不愉快になるのだ。
 彼らは「承詔必謹」なきエセ尊皇家である
 皇后陛下でも、天皇陛下には、承詔必謹を心がける。
「私は以前より、皇室の重大な決断がおこなわれる場合、これに関わられるのは皇位の継承に連なる方々であり、その配偶者や親族であってはならないとの思いをずっと持ち続けておりましたので、皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされたこの度の陛下の御表明も、謹んでこれを承りました」
 この箇所は、8月8日の玉音放送を受けての、態度表明として非常に重大な言葉である。
 皇后陛下でも「承詔必謹」なのだから、国民も、国民の代表者たる国会議員も、本来は「承詔必謹」で臨まなければならない。
 それを悟らせるために皇后陛下は「謹んで承った」と仰ったのだろう。
 
 小林は、女系天皇論者で、男系祖先がどこの馬の骨とも知れぬ天皇に「承詔必謹」という絶対権力を与えよという。
 それでは、北朝鮮の主体思想(チュチェ思想=カリスマ崇拝)となにもかわらない。
 小林の尊皇は、長州藩のそれと同じで、天皇をギョク(玉)と呼び、御所に大砲を撃ちこみ、天皇の誘拐をくわだてる尊皇で、目的とするところは、天皇の政治利用にほかならない。
 万世一系という皇統の大原理を捨て、なお、尊皇というのは、天皇の政治的な利用価値のみを見ているからで、こういう輩は、歴史の真実ではなく、制度や機関として天皇をとらえているので、いつ反天皇に転じるかわかったものではない。
 小林は、天皇の御心に従わねば「承詔必謹」に反するという。
 だが、承詔必謹は、明治維新以降、とりわけ昭和軍国主義の産物で、天皇の政治利用の方便だった。
 日本は、承詔必謹をもって、戦争を遂行し、国体を危うくしたのである。
 葦津珍彦は、皇祖皇宗の大御心は、天皇の個人の意思よりも遥かに高い所にあって、万が一、天皇個人の御心が大御心に反した場合、これを諌めてもよいとのべている。
 葦津氏は、大御心は日本民族の一般意思ともいっているが、それが、天皇の祈りであり、象徴ということなのである。
 次回は、江戸国学の歪曲から現人神がうまれた経緯をみていこう。
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2018年07月23日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」53

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(11)
 縄文の遺伝子というべきアニミズム(八百万の神々)やシャーマニズム(神との交信)が、紀元前千年前後と思われる稲作の伝来にともなう穀霊祭や収穫祭と合流して、天皇の原型というべき祭祀王が誕生した。
 神武天皇が即位した紀元前660年から欠史八代、第十代崇神天皇にいたる千年におよぶ天皇の古代史は、神話と実史の綯い交ぜで、崇神天皇の四道将軍派遣にいたるまで、神武以来の天皇は、大和という一地方の霊神だったはずである。
 崇神天皇は、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王ととらえる見方が有力で、記紀に記された事績の類似性にくわえ、諡号の共通性から神武天皇と同一人物とする説もある。
『日本書紀』における神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と崇神天皇の称号である『御肇國天皇』はどちらも「はつくにしらすすめらみこと」と読めるからである。
 大和朝廷の黎明と邪馬台国の末期が年代的に重なるところから崇神を「卑弥呼の後継の女王だった台与の摂政」「『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の男弟」とみる説のほか、卑弥呼を、崇神に仕えた倭迹迹日百襲姫命(第7代孝霊天皇皇女)とみる説もある。
『日本書紀』に百襲姫の墓と記されている「箸墓」は、全国で最古・最大級(全長約280M・後円部の直径が約150M)の前方後円墳で、これを卑弥呼の冢に比定する説がある。
 根拠は、年代の一致と『魏志倭人伝』に記されている「倭国の女王卑弥呼の墓は径百余歩」という記述で、径百余歩は約150Mである。
 卑弥呼が、崇神を操った百襲姫だったのなら、日本は、古代から、巫女というシャーマンが大きな力をもっていた国ということになる。

 卑弥呼から台与、百襲姫や神功皇后、推古天皇ら8人の女性天皇は、巫女の系統で、皇統の男系をまもる男性天皇は、巫女の援けをうけてきた皇胤の系統といえる。
 それが、万世一系で、男系をたどってゆけば、神武天皇にゆきつくところに天皇の権威がある。
 天皇の権威がどこから生まれたのか、それが、古代史の最大の謎であった。
 その謎を解くカギの一つが万世一系(皇位の男系相続)だろう。
 女系相続なら、婚姻のたび、祖先が婿方(Y染色体)へ替わってしまう。
 祖先をたどることができるのは、父から息子へつたわるY染色体だけだからで、XとYの両方の染色体をもっているのは、男性だけである。
 女性(X染色体×2)はY染色体をもたないので、天皇が女系になった場合は、女性天皇の相方が、たとえば、外国人なら、天皇の祖先が、その外国人のY染色体をたどって、海のむこうのとんでもないところにいってしまう。
 皇室の祖は、イザナギから天照大神、ニニギの尊、神武天皇へつづく神話の系統で、日本人は、その神話を共有することによって、日本人たりえている。

 ヨーロッパの王権は、武力や政治、神授説の産物で、一元的にできている。
 日本の場合、権力(摂政・院政・幕府)と権威(天皇)の二元論で、権威は権力をささえ、一方、権力は、みずからの権力の正統性(レジティマシー)を権威にもとめる。
 血統相続による皇胤は、権力で奪うことができないので、これを権威として立て、権力と並立させ、権力の安定に役立たせたほうが得策だった。
 権力が天皇を立ててきたのは、そのためで、天皇の権威は、権力がつくったともいえるのである。
 天皇の権威は、天皇が生来的にもっているものではなく、権力が必要としたためにうまれたもので、権威は、二次的な文化的産物といえる。
 血統という歴史の連続性や伝統、言語や習俗も文化で、権力に文化的な要素がなければ、民を安んずらせ、国を治めることはできない。
 権威を立てることによって、権力は、文化という新しい鎧を身に着けることができる。
 それが日本の伝統的支配構造で、権力には、武の一元論に立つヨーロッパ型のほかに、文武二元論の日本型があるのである。

 日本史において、天皇が神だったことはいちどもなかった。
 政治権力をふるった天皇も、皇親政治の第40代天武天皇や平安京の遷都をすすめた第50代桓武天皇、西日本を勢力下においた朝廷が東日本を勢力下におく鎌倉幕府執権(北条義時)討伐の兵を挙げた後鳥羽上皇の承久の乱(1221年)、鎌倉幕府を討滅して天皇親政による復古的政権を樹立した後醍醐天皇の建武の新政(1333年)があるにすぎない。
 天皇は、権力者どころか、飾り物で、摂政や院政がはじまると、天皇はあたかも皇太子のような存在になってゆく。
 その典型が幼帝で、摂関家や上皇・法皇が、みずからの権力をふるうために幼い天皇を利用したのである。
 第56代清和天皇(即位9歳/藤原良房が政治の実権)、第66代一条天皇(即位7歳/摂政・藤原兼家)、第73代堀河天皇(即位8歳/摂政・藤原師実)、第74代鳥羽天皇(即位5歳/白河法皇が院政)、第80代高倉天皇(即位8歳/父・後白河院が院政)、75代崇徳天皇(即位4歳/鳥羽天皇が院政)、第76代近衛天皇(即位3歳/鳥羽天皇が院政)らが幼帝で、天皇は、権力の道具になっていった。
 江戸時代、禁中公家諸法度に縛られた天皇は、明治維新後、一転して、主権者にして現人神というとんでもない存在に仕立てられてゆく。
 次回は、幕末の復古神道から狂気をはらんだ軍人勅諭へ、天皇の政治利用の軌跡を追っていこう。

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2018年07月16日

神道と世界最古の文明「縄文文化」52

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(10)
 日本という国家の原型をつくったのは、疑いもなく、聖徳太子である。
 第2回遣隋使「日の出づる処の天子」(607年)と第3回遣隋使「東の天皇敬みて西の皇帝に曰す」(608年)の派遣(小野妹子)で、聖徳太子は、隋の皇帝煬帝にたいして、倭国が対等の立場にあることを宣している。
 倭国が律令国家としての体裁を整えたのは、冠位十二階と17条憲法制定にによってだが、それには、第一回遣隋使外交の失敗という手痛い教訓がばねになっていた。
 第一回遣隋使派遣(600年)の記録は『隋書(東夷傳俀國傳)』にはあるが『日本書紀』にはない。
 外交関係を拒絶されたことを愧じて、記録に残さなかったのだろう。
 東夷傳俀國傳には「高祖曰 此太無義理 於是訓令改之(高祖曰く 此れ大いに義理なし 是に於て訓えて之を改めしむ)」という一文がある。国書ももたずに外交をもとめる俀國(倭国)にたいして、隋の皇帝文帝が道理から外れているので改めるよう「所司」をつうじて訓令したというのである。
 その3年後の603年。廐戸皇子(聖徳太子)30歳のとき、冠位十二階が制定された。
 翌604年 廐戸皇子が31歳の折、憲法十七条を制定する。
 そして、607年の第2回遣隋使、608年の第3回遣隋使へとつづく。
『日本外史』の頼山陽は、蘇我氏の血を色濃く受け継ぐ(父方母方とも祖母が蘇我稲目の娘)廐戸皇子にたいして批判的で、異教である仏教の移入に努めたばかりか、蘇我馬子による崇峻天皇弑逆を放置したことをきびしく糾弾(『日本政記』)している。
 ところが「日の出づる処の天子」についえは、易姓革命による中華王朝の存亡流転と対比させ、万世一系の皇統を護る日本の国体の永久不変を謳った(『日本楽府』)ものとしてたたえている。
 蘇我馬子とともに物部守屋を滅ぼした15歳の廐戸皇子が、19歳で推古天皇の摂政となって、冠位十二階と憲法十七条を定め、34歳で、国体の永久不変を「日の出づる処の天子」と謳ったわけだが、廐戸皇子のこの思想的変遷には、ある人物が深くかかわっている。

 廐戸皇子22歳の折、高句麗から僧・慧慈(えじ)が来日する。
 この慧慈が、廐戸皇子の終生の師にして友人で、皇子が著した仏教の注釈書『三経義疏(『法華経』『勝鬘経』『維摩経』)』を携えて高句麗へ帰国した(615年)のち、廐戸皇子の訃報にふれて、翌年の同じ日に浄土で廐戸皇子と会うことを誓約して、623年の皇子の命日に、高句麗で没したという。
 隋と高句麗は、当時(598年〜614年)交戦中で、スパイ僧でもあった慧慈は、当然ながら、隋の事情につうじていた。
 廐戸皇子は、慧慈から、隋が仏教を厚く保護していること、長安には寺院が多くあって、仏教文化が花開いていることなどを教えられた。
 とりわけ皇子の関心をひいたのが隋の国家体制だった。
 中央集権国家が完成しており、官僚の規律として、儒教が重んじられていることなどを知ったが、なによりも貴重な知恵は、国家には、だれもが平伏する指導者=権威が必要とするということだった。
 慧慈の知恵を借りて、廐戸皇子は、冠位十二階と憲法十七条を制定したのち小野妹子に「日の出づる処の天子」「東の天皇敬みて西の皇帝に曰す」の国書ををもたせて隋に送り、隋の煬帝は、小野妹子の帰国に際して、裴世清を使節として日本に送った。
 慧慈がいうとおり、天皇の存在を宣することによって、煬帝は、倭国を国家としてみとめたのである。
 裴世清がもってきた返書が『日本書紀』に残っている。
「(略)倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う」
 天皇の呼称は、第3回遣隋使の国書にもちいられたことからはじまったいうのが定説で、隋の煬帝も、返書に倭皇ということばをもちいている。
 百余国(漢書地理志)あるいは三十余国(魏志倭人伝)に分裂していた倭国が稲作伝来以来の祭祀王(大王)を立てて大和朝廷を統一させ、隋と外交関係をむすぶにあたって、天皇を立てたというのが天皇の権威の歴史的推移であろう。
 天皇が神になったのは、8世紀の古事記・日本書紀以降、江戸末期における復古神道以降で、天皇は、もともと、国家の権威だったのである。
 
 したがって、33代推古天皇以前は、すべて大王で、10代崇神天皇以前の欠史八代は、その時期に伝来した稲作の収穫を祈念し、寿ぐ大和の地における祭祀王だったのではないか。
 天皇をつくったのは、慧慈の知恵を借りた聖徳太子で、蘇我氏の出自でありながら、蘇我王国ではなく、冠位十二階と憲法十七条にもとづいた官僚国家をめざした。
 その思想が、やがて大化の改新へつながってゆくが、その前に、聖徳太子がおこなった偉業をもう一つあげておかなければならない。
 仏教と神道、儒教の仕分けである。
 聖徳太子は、仏教を宗教、神道を政治、儒教を道徳に分けて、これらの一元化を避けた。
 仏教と神道、儒教のうち、いずれが優越しているか、絶対的かといういうのが一元論で、それが、明治の神国思想や廃仏毀釈というヒステリーにつながったのはいうまでもない。
 仏教と神道、儒教の共存は、和の精神ともいえるが、日本の固有的な考え方である『棲み分け理論(今西錦司)』でもあって、一元論の西洋や中華思想にはみられない。
 次回は、天皇が神になっていった歴史的経緯をふり返ってみよう。
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2018年07月10日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」51

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(9)
 国体を空気にたとえたのが『国体の本義』を著した国学者の山田孝雄だった。
 国体が空気なら、国家は無意識下の身体で、それが山田の「国家有機体説」である。
「国体は国の体なり。喩えば人の体あるが如し。人とは何か。之を物理学的に見れば、一個の有機体なり。之を科学的に見れば、各種元素の組織体なり」というのである。
 国家有機体説は、国家を一個の生物とみなす国家観で、古くはプラトンから絶対的精神のヘーゲル、保守主義のエドモンド・バーク、ホッブスらによって論じられてきた。
 ヘーゲルによれば、国家は、個と全体の調和が実現された有機的な統一体であって、バークによれば、国家は、現在、生きている人々のみならず、かつて生きていた人々、将来、生きるであろう人々、その三者の共同体である。
 そして、ホッブスは、国家(リヴァイアサン/怪物)を、人間がみずからを模してつくりあげた人工物とみた。
 この人口的国家は「万人の万人にたいする闘争」をくりひろげるであろうから、国家には、超越的主権が必要というのである。
 国家有機体説は、国家を機械的な制度とみるジャン・J・ルソーの社会契約説や美濃部達吉の天皇機関説、穂積八束・上杉慎吉の天皇主権説とは逆の立場で、国家が、文化や倫理という精神性、生産や消費という物質性を併せもった歴史的存在、生きている有機体つまり生命体であるとする。

 生命体である国家にとって、国体は空気で、とりたてて意識されない。
 意識されるのは、革命国家や独裁国家、全体主義国家におけるイデオロギーや法、暴力性をともなう権力で、圧政と暗黒政治、抑圧政策は、人々の自由を奪い、虐げ、心を牢獄につながずにいない。
 民主主義も人権も、自由も平等もイデオロギーで、絶対王権や専制・独裁に喘いできたユーラシア大陸ならいざしらず、天皇の権威が権力の専権横暴から民をまもってきた日本には無用の長物で、そこに、日本人特有の民族性があるといってよい。
 日本人は、民主主義や人権ではなく、被災地で地べたに膝をつき、被災者のご心配をなさる天皇皇后の善や愛、やさしさの文化にまもられてきたのである。
 政治や権力、法から無縁のほうがしあわせなのはいうまでもない。
 歴史上、日本人ほど政治や権力、法に縛られなかった民族はいなかった。
 その理由は、天皇がおられたからで、幕府(政府)は、民の側に立つ天皇の認可をえて、はじめて、統治権や徴税権を行使することができた。
 政治や権力、法で、民を苦しめて、どうして、天皇から権力の正統性をさずかることができたろう。

 天皇が権力者ではなく、権威となった鎌倉時代以降、人々にとって、天皇は、意識されざる空気のような存在であった。
 空気を失えば、死んでしまうが、だれも、空気の有難さに気づかない。
 天皇=国体は、血肉化して、無意識の領域にあったのである。
 だからこそ、憲法公布の直後におこなわれた世論調査では、各新聞社や米国調査とも、象徴天皇制への支持が90%近くにものぼったのである。
 江戸時代、天皇は、京都御所におられるお内裏さま、天子さまで、庶民とは直接かかわりのない存在だった。
 ところが、明治維新で天皇が国家元首・大元帥にまつりあげられると、徴兵令で集められた日本兵の最高上官になって「天皇陛下万歳」という精神文化が生じた。
 天皇制ファシズムは、天皇の政治利用の極めつけで、その嚆矢が薩長による倒幕と維新政府樹立だったのはいうまでもない。
 軍部は「大日本帝国憲法第3条(天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス)」を盾に軍令を勅令におきかえて、これを「承詔必謹」と称した。
 この四文字によって、天皇が空気ではなく、権力の牙城として、国民の上に君臨するようになったのである。
 承詔必謹は聖徳太子の「十七条憲法」第三条の「詔を承りては必ず謹め」の成句で、天皇陛下のことば(詔)はかならずつつしんでうけたまわれというのである。
 といっても、承詔必謹は、民にむかって発せられたことば(勅)ではない。
 聖徳太子は、憲法の形を借りて、豪族にたいして、天皇への帰服を諭したのである。
 当時は、豪族政治の時代で、ヤマト王権を構成していたのは、畿内や地方に蟠踞する氏族だった。
 聖徳太子の承詔必謹は、氏族の長、氏上にたいして発したことばで、これは第一条の「和を以て貴しとなす」も同様である。
 豪族は、相和して、天皇の詔を重んじて、大和朝廷の発展に尽くせというのである。
 以和為貴や承詔必謹を民にむけたことばとするのは後世の脚色である。
 とりわけ、承詔必謹は、戦時中、天皇の命令を絶対化するための便法としてもちいられた。
 次回以降、この承詔必謹が、大化の改新をへて、天皇政治=皇親政治につきすすんでいった過程、および、近世にいたって、このことばが、天皇神格化の道具になっていったプロセスをみていこう。
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2018年07月03日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」50

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(8)
 豪族(氏族)が跋扈していた倭国が、三世紀中頃から四世紀にかけて、次第に統一されていった。
 それが天皇を中心とする大和朝廷(奈良県)で、次第に勢力を広げ、やがて西は九州から、東は関東までを勢力圏内におさめてゆく。
 さらに、四世紀半ばには、朝鮮半島にまで勢いをのばして、それが白村江の戦い(663年)までつづく。
 5世紀以降、大和朝廷が大きな力をもっていたことは、仁徳天皇陵のような巨大な墳墓(前方後円墳/大阪府堺市)が数多くつくられたことからもわかる。
 大和朝廷を形成した豪族には、大伴氏や物部氏、蘇我氏、中臣氏のほか、葛城氏、平群氏、巨勢氏、膳部氏、紀氏などがいるが、大きくは、二つの系統に分けられる。
 一つは、軍事や祭祀をうけもっていた「大連」の物部氏(物部尾輿)の系統で、忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中臣氏は、仏教受容問題で、物部氏とむすんで蘇我氏と対立した。
 もう一つは、財政や外交を担当していた「大臣」の蘇我氏(蘇我稲目)の系統である。
 蘇我馬子と物部守屋がたたかった「丁未の変」では、廐戸皇子(聖徳太子)や泊瀬部皇子(崇峻天皇)、竹田皇子(敏達天皇・推古天皇の子)ら蘇我氏の血を引く皇族のほか、紀氏や巨勢氏、膳部氏、葛城氏、大伴氏、安倍氏、平群氏などの有力豪族も蘇我馬子の軍にくわわった。
 神道・祭祀系の物部派と仏教・渡来系の蘇我派が睨みあっていた豪族政治において、天皇の存在は、かならずしも、磐石ではなかった。
 592年。聖徳太子19歳の折、崇峻天皇が、蘇我馬子が放った刺客、東漢直駒に弑逆される。
 豪族連合に擁立された祭祀王=天皇はけっして絶対的な存在ではなかったのである。

 飛鳥時代は、外来と土着をめぐって、文化や宗教、民族が衝突した古代史における最大の革命期であった。
 渡来人が活躍した時代でもあって、中国や朝鮮半島から、文字や仏教、儒教のほか、建築や鍛冶、織物、養蚕などの大陸文化が流れこんできた。
 外来文化は主に帰化人によって伝えられたが、東漢氏や西文氏らの渡来人や帰化人を擁していたのが蘇我氏で、当然、仏教導入にも熱心だった。
 そのため、排仏を主張する物部氏や中臣氏、忌部氏らと対立して、これがのちの「丁未の変」へつながってゆく。
 外交や宗教、文化、民族問題が混沌としていたこの時期、忽然とあらわれたのが「丁未の変」で、蘇我馬子についた聖徳太子だった。
 蘇我氏は渡来人と結びつくことで勢力を伸ばし、二人の娘を欽明天皇の妃とする(天皇の外戚)ことによって、地位を確固たるものにしていた。
 聖徳太子の父方も母方も祖母は蘇我稲目の娘で、蘇我の血を濃く受け継いでいる。
 推古天皇も、母は蘇我稲目の女(堅塩媛)で、推古天皇、聖徳太子とも蘇我氏の血族であることから、蘇我の時代にゆるぎはないかのように見えた。
 592年。推古天皇が豊浦宮で即位して、甥の廐戸皇子(聖徳太子)が推古天皇の摂政となった。
 すべて蘇我氏の思惑どおりであった。
 ところが、聖徳太子の政治は、蘇我家の期待にかなうものではなかった。
 聖徳太子の最大の功績は、蘇我氏の独断を排除して、天皇と豪族との関係を正したことである。
 それが、冠位十二階と憲法十七条である。
 冠位十二階が外からの規範的改革とすると、十七条憲法は、内からの精神的改革で、聖徳太子がもとめたのは、豪族政治からの脱皮と中央集権国家建設の基礎となる官僚政治への移行だった。
 冠位十二階によって、人材登用の道がひらかれて、蘇我独裁体制にブレーキがかかった。
 追い打ちをかけたのが十七条憲法だった。
 十七条憲法でよく知られているのが、第一条の「以和為貴。和を以って貴しとなし」と第三条の「承詔必謹。詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め」であろう。
 第一条の「和を以って貴し」はともかく、第三条の「承詔必謹」には誤解があるので、付言しておく。
 女系天皇論者で、漫画家の小林よしのりが、皇后さま82歳の誕生日の宮内記者会のご発言から、承詔必謹を読みとって、男系天皇論者を「承詔必謹なきエセ尊皇家」と罵っている。
 皇后さまは、天皇陛下の御放送にふれて、こうのべられた。
「皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされた陛下の御表明も、謹んでこれを承りました」
 小林よしのりは、このご発言をもって、皇后さまの承詔必謹を見習うべしというのだが、見当違いもはなはだしいどころか、これは、一種の危険思想である。
 十七条憲法の承詔必謹は、大和朝廷の構成員である豪族にたいして発した戒めで、天皇の神格化を前提としてはいない。
 天皇の神格化は、明治政府が、天皇を政治利用するためにあたってもちいた政治トリックで、日本史上、天皇を神(現人神)としたのは、この時期だけである。
 小林はこういう。
「皇后さまでも、承詔必謹なのだから、国民も、国民の代表者たる国会議員も承詔必謹で臨まなければならない。それを悟らせるために皇后陛下は、謹んで承ったと仰ったのだろう」
 小林は、愚かにも、戦時中の天皇トリック≠もちだして、悦に入っている。
 聖徳太子が「東天皇敬白西皇帝(東の天皇が敬いて西の皇帝に白す/日本書紀)」として、天皇を立てたのは、隋に、天皇が中心となった中央集権体制の完成をつたえるためだっただろう。
 第一回遣隋使が、国家の体裁をなしていないとして、倭国が外交を拒絶された反省から、聖徳太子は、第二回以降、小野妹子に託した国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す恙無きや(隋書倭国伝)」と天子、天皇を謳ったのである。
 国書をうけとった皇帝煬帝は怒ったともつたえられるが、実際は、裴世清を使者に立てて、丁重なる返書を送ってきている(日本書紀)。
 日本は、天皇を立てることによって、隋から国家としてみとめられたのである。
 ちなみに、岩倉具視使節団は、国書(天皇の委任状)をもっていかなかったため、アメリカで条約調印ができなかった。
 神格化せずとも、天皇は、歴史上、日本という国家の中心におられるのである。
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2018年06月26日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」49

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(7)
 大和朝廷は、豪族による連合政権で、天皇は、その豪族連合に担がれた祭祀集団の長だったと思われる。
 縄文時代から、日本には、縄文の遺伝子というべきアニミズムやシャーマニズムなどの神道的な宗教感覚が根づいており、くわえて、稲作の導入によって穀霊祭や収穫祭などの神事がはやくから習俗化されていた。
 新嘗祭の起源を稲作伝来に重ねる見解もあって、神々が人々と共存していた太古において、祭祀集団の長だった天皇の地位は、有力豪族と同等か、それ以上だったはずである。
 ここに国家二元論(「権威と権力」)の原型をみることができる。
 大和朝廷は、権威(天皇)と権力(豪族)の二元論で、有力豪族は、天皇の外戚に娘たちを送りこむことによって、権力の正統性を獲得し、一方、豪族の権力が強化されることによって皇統(万世一系)がまもられ、天皇+有力豪族の二元的な政権ができあがった。
 万世一系(男系)と外戚政治(女系)の両輪が大和朝廷の基本構造で、有力な豪族が天皇の外戚になろうとしたのは、天皇の権威を借りなければ、覇者といえどもただの戦大将で、施政権がそなわらないばかりか、油断すれば敵から寝首をかかれかねなかったからだった。
 歴史家は、天皇が豪族の一派で、覇権戦争に勝ち抜いて、大和朝廷の頂点に立ったとする。
 そうなら、大和朝廷成立前に、長期間におよぶ戦国時代がなければならないが、記紀には豪族戦争の記録がみあたらない。
 豪族の連立を巡って争いがなかったのは、大和朝廷が宗教的結束だったからで、仲介の役割をはたしたのが天皇を戴く祭祀集団だった。
 ところが、日本の歴史家は、日本という国家が国体(権威)と政体(権力)の二元論に立っている事実を見ようとしない。
 日本の歴史学会が、マルクス主義の唯物史観一辺倒だからで、左翼ならずとも、日本人の多くが皇国史観を諸悪の根源と思い込んでいる。

 豪族の連合政権だった大和朝廷が安定政権となったもう一つの理由が、世襲による権威と権力の血縁相続である。
 権威=天皇の相続が男系(万世一系)なら、権力=執権の相続が女系(天皇の外戚)で、葛城や蘇我、中臣ら有力豪族は、娘を天皇に嫁がせて、后の系列から権力を強化した。
 注意をむけるべきは、大和朝廷から平城京、平安京、さらに江戸幕府にいたるまで、日本の政権は、万世一系(男系)と外戚政治(女系)が両輪になっていて、その二元論が、摂関政治から幕府政治まで維持されてきた歴史的事実である。
 大伴や物部ら大豪族を制して、天皇の外戚関係から権力を握ったのが、武内宿禰を共通の祖とする葛城氏と蘇我氏、天児屋命(アメノコヤネ)を祖とする中臣(藤原)氏で、かれらは、みずからの血統をまもるため、天皇をまもったといえる。
 歴史上、弓削道鏡や平将門、足利義満のほかに皇位簒奪をはかった権力者がいなかったのは、権力は、単独で存立できないからで、皇位を奪えば、権威にささえられた安定的な権力を維持することができなかった。
 ここに、国体(天皇)の本質があって、日本の場合、権力者は、剣のみではなく、国体という権威の裏づけをもって、はじめて、天下に号令をかけることができた。
 軍事力で覇権を争ったユーラシア大陸や日本の戦国時代が終わりなき乱世となったのは、権威が不在となったからだった。
 権力が世俗的なパワーなら、権威は超越的な価値で、これには、文化や歴史から習俗や宗教(祭祀)までがふくまれる。
 卑弥呼の邪馬台国(ヤマトコク)を継承する大和朝廷が祭祀国家だったのはいうまでもない。
 武装集団でもあった豪族が、畿内から河内、九州にいたる広範囲にわたって大和朝廷に服従的だったのは、宗教的アイデンティティがはたらいていたからで、その象徴が前方後円墳だった。
 日本の歴史家は、エジプトのピラミッドに並ぶ前方後円墳を軽視する。
 古代人(縄文・弥生)が古墳時代に入って、とつぜん、前方後円墳をつくりはじめたようにいうのだが、巨大な前方後円墳をつくるには、計画性や高度な土木技術、組織力や政治力などの文化・文明の力が必要で、巨大前方後円墳の存在それ自体が、大和朝廷の国家的完成度や民度の高さを示している。
 そもそも、古墳時代というのは考古学の用語で、このことばを歴史書にもちいることがまちがっている。
 皇国史観をきらう日本の歴史学者は、古代の人々を未開人、歴史を考古学としてとらえるので、歴史を物語として描きだすことができない。
 現在の歴史学は、観念や史料を重んじる唯物史観やランケの実証史学にもとづいているので、物語性を度外視して、もっぱら、科学的・実証的分析に走る。
 かつて、古墳時代の代わりに、大和時代という時代区分があった。
 これは、神武天皇の即位(紀元前660年)から欠史八代、卑弥呼をへて、大和朝廷をつくりあげるまでの歴史的経過を俯瞰したもので、それなりの合理性もあった。
 採集生活をしていた古代人が、前方後円墳をつくるまでの文明人になるのにかかる歴史時間は、500年、千年単位だったと思われる。
 三内丸山遺跡の縄文都市が紀元前2000年前〜3500年前だったことを思えば、歴史学者のいう未開の古代≠ネるものは、すくなくとも、現代から遡って5000年前以内にはなかったと考えたほうがよい。
 はるか紀元前から大和時代にいたる古代史には、唯物史観や歴史実証主義がおよびもつかないゆたかな物語性があったはずで、古代史は、神話と実史が融合した一大ロマンなのである。
 次回以降、大和時代から飛鳥時代、奈良時代にわたってくり広げられてきた国体と政体のドラマをみていこう。
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2018年06月18日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」48

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(6)
 古代日本が豪族の国で、大和朝廷が豪族の連合政権だったことは疑えない。
 だが、それ以上のことは、なにもわかっていない。
 日本人はどこからきたのか、国家の原型がいつできたのか、天皇のルーツはどこにあるのかについて、日本の歴史家は、知らぬ存ぜぬをおしとおす。
 史料にもとづいて歴史を確定する歴史実証主義に立っているからで、史料が乏しい日本の古代は謎につつまれたままなのである。
 大和朝廷の成立から拡張期にあたる3世紀半ばから5世紀の初めまで中国の歴史書に倭国にかんする記述がない(「空白の4世紀」)のは事実だが、だからといって、日本の古代が不明だ空白だとするのは、歴史学者の怠慢である。
 日本には、エジプトのピラミッドや中国の万里の長城と肩を並べる数多くの前方後円墳(箸墓古墳/3世紀、仁徳天皇陵/5世紀)のほか、三内丸山遺跡(縄文時代中期)や吉野ヶ里遺跡(弥生時代)、登呂遺跡(1世紀)などの遺跡も少なくない。
 古事記や日本書紀などの史書もゆたかなので、多少、想像力や推論をはたらかせれば、古代にもっと光をあてられるはずなのだ。
 史料がないからといって、空白だ不明だと言いだすのは、空想力と構想力の欠如で、歴史が記録されるもの≠ナはなく記述されるもの≠ナあることを忘れている。
 歴史は登場人物の活動をとおして理解される。
 それが生きた歴史で、歴史は、考古学とはちがう。
 歴史は、伝承や遺跡、史跡や史料からの推論だが、人々が信じてきた神話や伝説も歴史であって、歴史は、民族や国家のフィクションといってよい。
 源平から徳川に到る武家盛衰史を描いた頼山陽の「日本外史」は、幕末から明治にかけてもっとも多く読まれた歴史書だが、描かれているのは英傑偉人の物語である。
 戦後、日本の歴史観は、唯物史観と歴史実証主義に汚染されて、物語性を失い、日本人は、国史という民族の歴史から疎遠になった。
 歴史を失った民族は滅びるといわれるが、戦後、皇国史観を放棄させられた日本人は、建国の物語といっしょに国家や民族の誇りまで捨ててしまったように見える。
 戦後の日本人は、祖国の始原や民族のルーツ、日本文明の由来についてなにも知らない一方、アメリカ製の憲法と民主主義を第二の国体として、わが国が世界で最古の伝統国家であることを忘れはてている。

 国体とは、肇国以来の歴史で、国家も国民も、歴史という時間的蓄積からうまれる。
 GHQが目の敵にしたのがその国体で、神話や古典、伝統などの歴史的価値までが標的にされた。
 追い打ちをかけたのが、日教組や歴史学会で、皇国史観を徹底的に排除する一方、唯物史観や実証主義をもちこみ、古事記や日本書紀などそれまで国史とされてきた史料を根こそぎ否定した。
 その結果、日本は、伝統国家どころか、国家誕生の物語すらもたない亡霊のような国になってしまった。
 現在、もとめられているのは、GHQや左翼・反日、歴史家が破壊しつくした古代史を復活させることで、肇国の歴史(神話)をイメージすることができなければ、国家との一体感や日本人としてのアイデンティティは育ってこない。
 古代史を解明するキーワードは、大和朝廷と天皇、前方後円墳の三つである。
 この三つのキーワードを統一的に説明することができれば、豪族政治に終止符を打つ聖徳太子の飛鳥時代(崇峻天皇の弑逆から平城京に遷都まで)へ歴史の歯車がつながってゆく。
 天皇が豪族の一派だったという認識が、歴史学会では一般的である。
 だが、それだけでは、三十余国の小国家が分立していた3世紀の日本(魏志倭人伝)が4世紀末に大和・河内を中心に強大な統一国家をつくりあげ、朝鮮半島に出兵する国力をもつにいたった急速な発展に説明がつかない。
 大和朝廷と天皇、前方後円墳の三つキーワードをつなぐキーもみつからない。
 天皇が豪族の一派であったなら、他の豪族を従えて大和朝廷を樹立するまで多くのいくさがあったはずだが、記紀などの史書には、豪族間のいくさがほとんど記録されていない。
 わずか百年余で、三十余国の小国家群が強大な大和朝廷になっていった理由も不明で、そこに、別のメカニズムがはたらいていた可能性が高い。
 大王一族は、豪族らに擁立された宗教集団だったのではないか。
 群雄割拠する豪族が覇権をもとめて争えば、乱は、いつまでも終わらない。
 たとえ、どこかの豪族が覇権を握っても、権威がそなわらないので、政権は不安定きわまりない。
 大和朝廷が権威をそなえた安定政権だったことは、全国各地で、大和朝廷のシンボルである前方後円墳が4百年(古墳時代/3世紀〜7世紀)にも亘ってつくられたことからも明らかだろう。
 大王一族が豪族らに擁立された宗教集団だったなら、大和朝廷と天皇、前方後円墳の三つのキーワードもつながってくる。
 権力は権威によって正統性(レジテマシー)があたえられる。
 それが歴史の真実で、織田信長は、正親町天皇を保護するという大義名分を立てなければ京都を制圧できず、薩長軍も、官軍を名乗らなければ江戸幕府を倒すことができなかった。
 大和朝廷が豪族の連合政権だったことは疑えないが、それは、神格をもった大王を立てて、その下で連立を組む「権威と権力」の二元論だったはずである。
 次回以降も、大和朝廷の謎解きをすすめていこう。


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2018年06月04日

神道と世界最古の文明「縄文文化」47

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(5)
 倭国が国家としての基盤を固めつつあった3世紀半ばから5世紀の初めまで中国の文献に倭国にかんする記述がなく、したがって、この時代は「空白の4世紀」と呼ばれる。
 この時期は、国家的モニュメントである前方後円墳が、全国規模でさかんにつくられた古墳時代の前半期にあたる。
 正確には、女王壹與が、晋の皇帝(武帝)に朝貢した266年から倭の五王(讃、珍、済、興、武)が中国に朝貢を再開する413年までの150年ほどで、このかん、倭国の文字が見える歴史史料は『高句麗広開土王碑の碑文』があるだけで、そこには、倭の勢力が朝鮮半島北部近くまで押し寄せて来た(391年)とある。
 高句麗好太王碑の碑文によると、新羅や百済とむすんで高句麗と戦っていた倭国は、朝鮮半島における軍事勢力として中心的な役割を果たしており、それが、倭と百済の連合軍が新羅と唐に破れる白村江の戦い(663年)までつづく。
 このことから、倭国は、当時、相当の国力を有していたことがわかる。
 3〜4世紀の天皇は、三韓征伐の神功皇后(第十四代仲哀天皇の后)、第十五代応神天皇、第十六代仁徳天皇の3人で、応神天皇の母で、武内宿禰とともに新羅や百済、高句麗を降伏させ、70年間にわたって皇太子(応神天皇)の摂政としてみずから政治をとった神功皇后および善政(「高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」)を敷き、大規模な土木工事をおこなった仁徳天皇はよく知られている。
 ところが、大和朝廷の成立において、大きな役割をはたした豪族、とりわけ朝鮮半島における倭国(軍)の主軸をなしていたはずの豪族についてはあまり知れられていない。

 大和朝廷は、豪族の連合政権で、大王は、豪族連合のバランスの上に成り立っていた。
 時代はやや下るが、大伴金村が「任那4県」を百済に割譲(512年)した25年後、金村の子、盤と狭手彦が任那を救援(537年)し、さらにその25年後の562年、狭手彦が高句麗軍を破っている。
 物部氏も、盤井の乱(528年)で、物部麁鹿火が大伴金村とともに筑紫の国造盤井を討っていることからわかるとおり、古墳時代は、豪族(氏)の時代でもあった。
 大和政権は、5世紀には、大王を中心として、大和周辺を基盤とする豪族の連合体として、九州から東北地方南部に至る広い地域を支配するようになる。
 その支配体制の根幹となったのが、大王のもとに、中央貴族や地方豪族を統一する氏姓制度であった。
 氏姓(しせい)制度は「氏姓(うじ・かばね)の制」ともいい、大和朝廷が授ける官位(氏姓)によって、中央貴族や地方豪族が天皇の下に系列化されることになったばかりか、血縁者以外の被征服者や従属者も大和朝廷の構成員にくわえられるようになった。
 さらにこの氏姓制度が、世襲されるにいたって、やがて、天皇を中心とした壮大なる秩序の体系ができあがり、これが、権威(天皇)と権力(摂政・幕府)の二元論の源になってゆく。
 日本が同属国家・家族国家となった原点が、この氏姓制度で、氏の代表者である氏上(うじのかみ)は、氏人(うじびと)を率いて大和政権にくわわった。
 この過程で、しばしば行幸がおこなわれたのは前回ふれたとおりで、大王が氏上の地を訪れたのは、氏族の結束を固め、氏族を大和朝廷にとりこむ二重の効果を効果を狙ってのことだった。

 大王が、大和朝廷をまとめあげたのは、圧倒的な力をもっていたというよりも、連合体の中心軸だったからで、豪族たちは、天皇中心の力学(円環の論理)にしたがって、すすんで大王に服従して、その結果、大和朝廷という大帝国ができあがったのである。
 それが全国で5000基にのぼる前方後円墳の秘密で、豪族は、みずからの安全と発展をねがって、大和朝廷のモニュメントである前方後円墳をつくったのである。
 有力豪族には、蘇我氏(祖は武内宿禰)、物部氏(祖神は饒速日命)、中臣氏(藤原氏。天児屋命を祖とする)、大伴氏(物部氏に並ぶ名族)、息長氏(神功皇后・継体天皇をうんだ家系)、吉備氏(吉備国の名家。ヤマトタケルの母系)、葛城氏(祖は武内宿禰)のほか、平群氏、巨勢氏、阿倍氏、春日氏、上毛野氏などがいる。
 持統天皇が祖先たちの墓記(オクツキノフミ)を献上させた豪族にはほかに大三輪氏、雀部氏、石上氏、石川氏、膳部氏、紀伊氏、羽田氏、佐伯氏、采女氏、穂積氏、阿曇氏などがおり、大和朝廷が、畿内・地方の多くの豪族集団にささえられていたことがわかる。
 身分制度には、臣(おみ)と連(むらじ)があって、天皇の血筋である臣には、葛城や蘇我、出雲がおり、天皇家とは祖先がちがう連には、物部や大伴、中臣がいた。
 ところが、氏姓や臣連は、かならずしも安定的に機能せず、やがて、蘇我氏の専横から崇峻天皇の弑逆という大事件がおきる。
 天皇を中心とした身分制度は聖徳太子の冠位十二階までまたねばならない。
 次回は蘇我氏と推古天皇、聖徳太子の歴史的存在意義にふれよう。
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2018年05月30日

神道と世界最古の文明「縄文文化」46

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(4)
 前回は古代史をざっとながめていくつかのエポックを発見した。
 そのエポックをたどってゆけば、縄文晩期から弥生から古墳・飛鳥時代へといたる古代の文化(精神)史および文明(物質)史の全体像がうかびあがってくるはずである。
 列記してみよう。
 @アニミズムと神道のめばえ
 A稲作と大集落
 Bシャーマンと司祭長
 C大嘗祭の発祥
 D大和連合の形成
 E祭祀国家
 F権威と権力の二元論
 G卑弥呼の時代
 H邪馬台国と大和朝廷
 I纏向(まきむく)遺跡と前方後円墳
 宗教学者の山折哲雄は、神と仏を「見えるものと見えざるもの」に分けた。
 神は目に見えないもので、仏は目に見えるものというのである。
 神道は、自然崇拝あるいは自然のなかに神や霊魂をみるアニミズムで、わたしはこれを縄文の遺伝子≠ニ呼んでいる。
 これが見えざる神で、かつて、敬虔な日本人は、自然から見えざる神をかんじていたのである。
 縄文から継承されてきた神性はたしかにあるものの、それが形としてあらわれているかといえば、かならずしもそうではなかった。
 その無形性が神道の源流で、そこに神話や祖霊崇拝、民間信仰などがむすびついて神道の大枠がつくられた。
 神道は日本人の価値観でもあって、日本人は、唯物論ではなく、何ごとにも神性をかんじる唯心(神)論なのである。
 仏教は黄金の仏像や堂塔伽藍のきらびやかさでひとの心をつかむ唯物(仏)論で、神道と仏教が共存できたのは、仏教が有形だったのにたいして、神道が無形だったからであろう。
 神道が神社をもつ宗教へ発展したのは、仏教と対抗したからだが、めざした方向は逆で、仏教が教義を立てたのにたいして、神道は、一万年以上にわたる自然および八百万神との共存共栄にもとづいて、日本的心の基層をつくりあげた。
 天皇の定着も、神道の浸透と足並みを揃えていたと思われる。
 自然崇拝がアニミズムをはらんでいたのであれば、稲作の普及にともなって発生した豊作祈願・穀霊祭がシャーマニズムで、穀霊祭の司祭主がシャーマンとして、人々の畏敬を集めていたであろうことは想像に難くない。
 穀霊祭はのちの新嘗祭で、天皇の権威は、新嘗祭にもとめられる。
 ユーラシア大陸の国々とわが国の成り立ちのちがいは、そこにあって、国家の根幹をなしているのが、わが国の場合、権力ではなく、神威=権威だったのである。
 なんどもふれてきたように、稲作というずばぬけて高い食性をもった食糧が登場してきたため、秩序の基準が、武力の高さではなく、豊作を祈念する霊力のあらたかさに移って、それが国家の原型となった。
 それが祭祀国家=国体で、その頂点に立つのが天皇である。
 鎌倉時代以降、日本は、国体とは別に政体を有し、それが江戸幕府から明治政府にいたって、近代国家となった。
 それが国体と国家の二元論で、国体を有する日本が、世界最古の伝統国家と呼ばれる所以である。
 
 日本国家の原型は、大和朝廷で、豪族たちによる連合政権であった。
 豪族らを国家へむすびつけた集権力が祭祀で、豪族らは太刀をおき、神殿にぬかずいて朝廷への忠誠を誓った。
 その延長線上にあるのが、権威の象徴としての前方後円墳で、豪族らも天皇陵を模して、競って、前方後円墳を造成した。
 権威(国体)が権力(国家)の上に立って、国家が安定したのである。
 これらの事実は、魏志倭人伝につたえられる卑弥呼と壹與のエピソードからうかがえる。
 卑弥呼も壹與も巫女(シャーマン)で、天皇に仕えていたと思われる。
 卑弥呼の墓は奈良県纏向遺跡の箸墓という見方が有力である。
 宮内庁によると箸墓は倭迹迹日百襲媛命の墓である。
 すると、卑弥呼と倭迹迹日百襲媛命は同一人物となって「魏志倭人伝」中の「倭の女王に男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)とある男弟と百襲媛命に援けられた崇神天皇が重なってくる。
 箸墓は日本で最初の巨大な前方後円墳(全長280メートル)で、崇神天皇陵(行燈山古墳)よりも大きい。
 第7代孝霊天皇皇女というだけでは説明のつかない大きさである。
 崇神天皇は、卑弥呼(日巫女=百襲媛命)を立てて、政をおこなったのであろう。
 卑弥呼から壹與、そして崇神天皇へ政権が移っていったのなら、邪馬台国と大和朝廷の連続性が明瞭になる。
 もともと、邪馬台は蔑意をふくんだヤマトの当て字で、元は大和である。
 現在、纒向(奈良県桜井市)が邪馬台国の最有力候補地とされている。
 放射性炭素(C14)年代測定で纒向の遺跡が「西暦135〜230年」に該当するからで、卑弥呼の活動時期と年代が重なるばかりか、一帯(大和盆地東南部の三輪山山麓)には行燈山古墳(崇神天皇陵)、渋谷向山古墳(景行天皇陵)などのほか、外山茶臼山古墳やメスリ山古墳など大和朝廷とゆかりがあると思われる墳墓が並んでいる。
 次回は3世紀半ば以降、日本がどういう経緯で国のかたちをさだめていったのか、考えてみよう。
 ちなみに、この時期は「空白の4世紀」と呼ばれて、中国の史書から倭国の記述がふっつり途絶えている。
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2018年05月23日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」45

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(3)
 日本は、神話とはいえ、紀元前660年を国の肇(はじめ)とする伝統国家で、わが国の国のかたち≠ヘ、古代から、昨年、譲位をきめられた125代今上陛下に至るまで連綿とひきつがれてきた。
 同一の体制(国体)を二千年以上もまもってきたわが国の歴史とりわけ古代史において、天皇を中心として、歴史の節目となる大事件がいくつかあった。
 ■3世紀/卑弥呼が邪馬台国(大和国)の女王に就く
 ■3世紀半ば〜7世紀末頃まで(古墳時代)/前方後円墳がつくられる
 ■3世紀半ば〜4世紀末頃/大和朝廷の勢力が全国規模に拡大
 ■527 筑紫国造磐井の乱
 ■587 蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす(丁未の乱)
 ■604 聖徳太子が一七条の憲法および冠位十二階を制定
 ■645 大化の改新(中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を誅す)
 ■703〜745 皇親政治(天武天皇から聖武天皇の頃まで)
 ■729 藤原四兄弟の陰謀によって長屋王自殺(長屋王の変)
 本稿では、天皇の権力がどこからうまれ、どういう経緯をへて、国家へ組み込まれていったのかというテーマを追ってゆく。
 縄文文化の本質は自然合一で、神なるものも自然のなかにひそんでいる。
 縄文の遺伝子というべき自然霊崇拝(アニミズム)をひきついだのが神道である。
 縄文晩期から弥生時代にかけて稲作が入ってくると、自然崇拝から穀霊祭が派生して、シャーマニズムがうまれた。
 それが大嘗祭の起源で、大嘗祭の祭祀主(シャーマン)が大王である。
 覇者が王となるユーラシア大陸とちがい、わが国では、祭祀王であるシャーマンが大王となった。
 この仕組みは、大和朝廷が豪族の連合政権だったことに深い関連がある。
 豪族らが、大王頂点に立つ統一連合体をもとめたのである。
 群雄割拠して、権力抗争に入っていれば、共倒れになっていたか、永遠に争いがつづいたはずである。
 豪族らが共存をはかったのは、稲作によって、食糧を確保できたからで、かれらは、争うより、共同体をつくって、共存する方法をえらんだ。
 その共同体の長は、軍事力をもった豪族ではなく、稲作の守り神、穀霊祭の大祭司(祭祀主)でなければならなかった。
 共同体の長が豪族であれば、その座を狙って、ふたたび争いがはじまる。
 長が司祭主なら、どんな豪族もその座を奪うことができない。
 こうして、大司祭の下に豪族が大連合する政権ができあがった。
 豪族といえども、すべてが、磐石な基盤をもっているわけではなかった。
 支配地で民の支持が薄い場合も、競合相手に立場を脅かされる場合もあったろう。
 大王は、しばしば、遠方まで行幸におよんだ。
 大王を迎える豪族たちは、これを領内に広く知らしめ、大王との深い関係をアピールした。
 豪族が大王をささえたのではなく、大王が豪族の地盤固めに力を貸し、それが、結果として、大王を中心とした中央集権体制の完成に功を奏したのである。
 こうして、権威の下で、権力が連合する特有の政体ができあがった。
 これが権威(国体)と権力(政体)の二元論の原型である。
 すると、この時期、全国で一斉に前方後円墳がつくられた理由もわかってくる。
 地方の豪族らは、大王の直属であることを証明するために、競って、大和朝廷のシンボルである前方後円墳をつくったのである。

 紀元前に「分れて百余国となる(漢書地理誌)」と記されたわが国が紀元150年に至って大乱に陥った(後漢書他)という。
 二元論的体制が、なんらかの理由で破綻したからであろう。
 そのかん事情をうかがわせるのが魏志倭人伝の記述である。
「倭国で男王の時代に内乱があったので、女王(卑弥呼)を立てた」「卑弥呼の死後、男王が立てられるが内乱となって1000余人が死んだため、卑弥呼の宗女13歳の壹與を王に立て、国は治まった」
 中国の史書に倭国の記述があるのはこのころまでで、西暦266年から413年(空白の4世紀)まで、中国史書から、倭国の記述が消えた。
 したがって、文献から、邪馬台国と大和朝廷の連続性や大和朝廷の発展過程やスケール、全国的に前方後円墳がつくられるようになった経緯や事情を知ることはできない。
 国内にも、なんら明確な論説が存在しない。
 歴史実証主義の立場から、史料が存在しないのでわからないというのだが、遺跡を検討するだけで見えてくるものがある。
 奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡がそれである。
 纏向遺跡は3世紀からはじまる前方後円墳発祥の地で、倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている(宮内庁)箸墓古墳のほか行燈山古墳(崇神天皇)、宝来山古墳(垂仁天皇)、渋谷向山古墳(景行天皇)、佐紀石塚山古墳(成務天皇)などの古墳が分布する。
 崇神天皇が即位した3世紀の中ごろは、卑弥呼の時代であり、崇神天皇期の巫女だった百襲姫命を卑弥呼と同一視する説が有力視されている。
 箸墓古墳も、中国史書などによって、卑弥呼の墓とされる。
『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の墓の大きさ(「径百余歩」)箸墓の後円部(約160m)と一致するばかりか、邪馬台国の時代と古墳時代が時間的につながって(3世紀中ごろ)、卑弥呼の死亡時期と重なる。
遺跡が語るもう一つの問題点は、大和朝廷の黎明期である。
 3世紀からはじまる前方後円墳の建設には、土木技術や計画性、指揮能力や人員動員など、高い文明力が必要だが、それには、数百年にわたる国家的文化蓄積があったはずである。
 仮にそれを500年とすると、紀元前2世紀には、国家ができていたことになって、古代のイメージがこれまでのものと大きく変わってくる。
 次回以降、古代史にひめられた国家と天皇の知られざる真実をみていこう。

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2018年05月14日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」44

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(2)
 縄文時代の自然神崇拝からアニミズム(精霊信仰)やシャーマニズム(精霊交信)が派生した。
 天皇の系譜がそこにあるのは、疑いがないところで、その根本に稲作がある。
 収穫率や栄養価、保存性において、奇跡といっていいほどにすぐれた米穀という自然の恵みは、日本に、祭祀(穀霊祭や祈祷)という文化をうみださずにいなかった。
 古代は、カミとヒトが共存していた時空で、合理性のかけらもない。
 生も死もカミが支配するところで、世界が神秘のベールにつつまれていたのである。
 豊作と凶作が自然神にゆだねられていた古代において、自然神と交信できるシャーマンが、権力者以上の力をもったのは、当然で、たとえ、闘争に勝っても、神の怒りにふれて、凶作や天災に見舞われては、どんな権力者も、滅びるしかなかった。
 権力のほかに権威が生じて、支配構造が覇者(軍事力)と祭祀王(天皇)の2系統となった。
 これが天皇の国=日本の最大の特性で、権力構造が、権力(政治)と権威(文化)の二重構造になっている。
 もっとも、権威と権力は、はじめからの二元論の形式をとっていたわけではなく、長い歳月をかけて、分離していった。
 天皇が権威と権力の両方をもった時代と、臣下たる豪族の長が天皇をしのぐ力をもった時代が交錯して、それが、第10代崇神天皇の大和朝廷黎明期から聖徳太子、大化の改新、壬申の乱をへて、皇親政治の第40代天武天皇、皇親政治から藤原氏の摂関政治へきりかわる第42代文武天皇、第45代聖武天皇まで延々とつづく。
 皇親政治が終焉したのは、長屋王(天武天皇の孫)が、藤原四兄弟の謀略にかかって倒れたからだった。
 長屋王は、藤原不比等の娘で、文武天皇の夫人宮子、聖武天皇の皇后光明の皇位への接近に反対して、藤原四兄弟の恨みを買ったのである。

 支配構造が覇者(権力)と祭祀王(権威)の2系統に分離された例は世界に例がない。
 権力と権威の分離は、政治と文化、男性(武力)と女性(巫女)の分離でもあって、西洋では権力の所有物にすぎなかった女性が、日本では、支配構造の一角を占める。
 卑弥呼や壱与、第7代孝霊天皇の皇女で第10代崇神天皇を補佐したモモソヒメ(百襲姫命)、第15代応神天皇の生母で三韓征伐の神功皇后など古代日本では、女性が神秘的な力を有する権力あるいは権威として、敬われていた。
 権力が男性由来なら、天皇の権威は、女性(巫女)由来といえる。
 一神教(ユダヤ・キリスト教・イスラム教)の絶対神(ヤハウェ)は男性であるが、自然崇拝(多神教/神道)の最高神格は女性(天照大御神)である。
 天照大御神を皇祖神とするのが天皇で、伊勢神宮や賀茂神社に、巫女として奉仕される天皇の皇女(内親王)が斎王または斎皇女である。
 天皇と巫女は、もともと、密接な関係にあって、崇神天皇と卑弥呼の関係がそれにあたる。
 天皇は、巫女あるいは巫女的な力を借りて祭祀をおこなうが、天皇の地位は男系相続である。
 女性が天皇になれないのは、血統の継承ができないからである。
 女性の遺伝子はXXで、男性の遺伝子はXYである。
 女系では、Y遺伝子が介在しないので、祖先が特定できない。
 藤原不比等の娘である文武天皇の夫人宮子、聖武天皇の皇后、光明子は神武天皇のY遺伝子を引き継いでいないので、その子が皇位を継ぐと、天皇の祖が宮子や光明子の夫の系統へ移ってしまう。
 長屋王と藤原四兄弟の確執はそこにあって、皇統をまもろうとした長屋王にたいして、藤原四兄弟は、藤原天皇を望んだのである。
 長屋王の死後、藤原四兄弟は、全員、天然痘にかかって死んでしまう。
 長屋王の祟りと噂されたもので、聖武天皇も、恭仁京、難波京、紫香楽宮と遷都をくり返して、長屋王の祟りから逃れようとした。

 神武天皇が即位したとされる紀元前660年は、考古学的には、弥生時代のはじめにあたるが、遺跡も史料もないので、神話の世界である。
 神話もりっぱな歴史で、建国が神話ではない国は、近代になって建国された革命国家以外、一つもない。
 炭素年代にもとづく縄文・弥生時代の年代検証によって、弥生時代の開始が500年さかのぼって、紀元前10世紀前後ということになった。
 紀元前660年なら、すでに水田稲作がはじまり、集落が発展していたはずで、衣食住も、これまでの常識から500年進歩させてよい。
 皇国史観と時代考証が近づいてくるが、そのことは、さして重要ではない。
 歴史は、その歴史を信じてきた人々の歴史でもあるので、神話や皇国史観をうけいれつつ、そこに、合理的な歴史観をかぶせていって、はじめて、本当の歴史がみえてくる。
 注目されるのが日本書紀(崇神紀)に「はつくにしらすすめらみこと(御肇国天皇/初めて国を治めた天皇)」と記されている第10代崇神天皇である。
 日本書紀(神武紀)では、この読み呼称(始馭天下之天皇)が神武天皇にも使用されている。
 それが実史と神話の読みわけで、紀元前660年の神武天皇即位と崇神天皇による大和朝廷の全国展開(四道将軍)は、いわば、歴史の裏と表なのである。
 そこで、クローズアップされるのが、邪馬台国と大和朝廷、とりわけ、崇神天皇と卑弥呼の関係である。
 次回は、邪馬台国の都に比定する説が有力視されている奈良県三輪山近くの纏向遺跡を中心に古代国家のすがたを探っていこう。
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2018年05月07日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」43

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(1)
 古代史は、記録(文字)が残っていないので、伝承や遺跡などから想像力をはたらかせるほかない。
 その意味で、古代史は、歴史というよりおとぎ話で、神話の延長線上にあるといってよい。
 民族の遺伝子的な記憶をさかのぼって、歴史をつくったわけで、その傑作が皇紀2600年の皇国史観だった。
 戦後、左翼や日教組、マスコミが、皇国史観を悪の権化としたのは、筋違いで、否定するなら、皇国史観ではなく、皇国史観を利用した軍部や軍国主義であろう。
 皇国史観は日本民族の文化であって、権力のプロパガンダでも、政治イデオロギーでもないからである。
 文献にもとづくのが歴史学、遺跡にもとづくのが考古学なら、戦後、日本の歴史学が手がかりとなったのが中国の史書(漢書地理志/後漢書東夷伝/魏志倭人伝)だった。
 八世紀のはじめに完成した記紀(古事記・日本書紀)は、伝承なので歴史学の範疇から外れるだろうが、中国の史書も、多くが伝聞で、どこまで信用できるか保証のかぎりではない。
 ■「漢書」地理志(1世紀に書かれた中国の歴史書)
 描かれている日本の時代/紀元前1世紀(日本にかんする最古の史料)。そのころ倭国が100あまりの小さな国に分かれていたと記されている。
 ■「後漢書」東夷伝(5世紀に書かれた中国の歴史書)
 描かれている日本の時代/57年(奴国の王が光武帝から金印が与えられた/その金印が江戸時代に福岡県の志賀島で発見された)107年(倭国の王が後漢に奴隷を贈った)147〜189年(倭国に戦いが多かった)
 ■「魏志」倭人伝(3世紀に書かれた「三国志」の一つ)
 描かれている日本の時代/3世紀ごろ(倭国の様子や習俗、地理や産物、習慣などについて書かれている)。邪馬台国の位置をめぐって、畿内説と九州説が対立してきた。女王卑弥呼が30余の国々をしたがえ統一国家(邪馬台国)をつくったと記されている。

 後漢書から2〜3世紀の倭国に争いが多かった(倭國大亂)ことがわかる。紀元前1世紀に「分かれて百余国を為す(漢書地理志)」とされる倭国は、大乱の時代(147〜189年)を経て、卑弥呼と壱与の邪馬台国に至って安定するまで、戦乱の渦中にあったのである。
 戦乱の原因は、農耕(稲作)社会と集落の成立であった。
 備蓄された余剰生産物をめぐって、武器をもった人々や防御的施設を備えた集落が争い、または統合されて、より大きな政治的な集落(クニ)へ発展していったのである。
 縄文晩期から弥生時代初期にかけて、日本列島で、人類史上、劇的な変化が生じたのは、一粒の種籾が一年で2000粒、2年で400万粒にふえる高い繁殖力の稲作が開始されたからである。
 採集・狩猟よりはるかに食効率が高く、なによりも「余剰」を生み出す稲作が、定住と人口の増加、備蓄と相俟って、社会の原型というべきものをつくりあげたのである。

 ここで、ふしぎなことがおこる。
 2〜3世紀まで闘争をくりひろげてきた倭国が、突如、争いをやめて、統一へむかい、一斉に、ヤマト朝廷への服従を意味する前方後円墳をつくりはじめるのである。
 これが古代史最大の謎で、たたかわずに成立した大和朝廷と、ピラミッドと並ぶ巨大遺跡の前方後円墳が大量につくられたことについて、なにもわかっていない。
 もう一つの大きな謎は天皇で、ヤマト朝廷を統一した天皇について、いまだに、定説が存在しない。
 中国の3史書もそのことにふれていない。
 卑弥呼の死後(248年)、13歳で女王になった卑弥呼の宗女壱与が洛陽に使いを送ったとされる266年以後、約150年間わたって中国の歴史書から倭国にかんする記載が消えた。
 これが「空白の4世紀」である。
 中国の史書がなければ、日本の古代史は暗闇にのまれるのである。
 中国が、晋の滅亡後、南北朝の分裂期にはいってしまったからだが、日本のほうも、国内の統一や建設、治世に精一杯で、外交に手がまわらなかった。
 その4世紀におきたのが、大和朝廷の発展と前方後円墳の建設だった。
 歴史学的にも考古学的にも、大和朝廷と前方後円墳は、大きな謎で、それが天皇とどのようにかかわるのか、そのことにふれた学説も論文も存在しない。
 天皇が穀霊祭(のちの大嘗祭)の祭祀王だったことに思い至れば、その謎が解ける。
 稲作社会は、天候不順や天災によって、集落の全員が飢え死にするリスクを負った社会で、稲作のゆたかさは飢餓の恐怖と背中合わせになっていた。
 天候不順や天災を避けるには、神とつうじる天皇もしくは巫女の祈念に頼るほかなかった。
 古代社会は、神霊に支配された非合理の世界で、当時、米の不作にたいする恐怖から、人々が、シャーマンとしての天皇を敬ったのは、卑弥呼の例をみるまでもない。
 自然崇拝と穀霊への敬い、それが神道の根本で、天皇への畏敬も、そこにある。
 次回以降、卑弥呼の邪馬台国から大和朝廷へつながる天皇の系譜へ目をむけよう。
posted by office YM at 10:17| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする