2018年07月30日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」54

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(12)
『国体の本義』を著した国学者の山田孝雄は、国体を空気にたとえた。
 国体は、空気のようにあたりまえの存在なので、とりたてて、意識できないというのである。
 国体と同様、天皇と神道も、日本人の無意識のなかにひそんでいる。
 日本人にとって、きわめて重要な文化的概念で、圧倒的な心的影響力をもちながら、あまりにも、歴史的・民族的な普遍性が高いので、却って、意識することができないのである。
 無意識という雲の上にあった神道や天皇が、国家の宗教的支柱や現人神として、国民から意識されるようになったのは、けっして、古い話ではない。
 明治政府の国家神道が、神社を国家の丸抱えにした神道の政治利用だったのなら、現人神はもっと新しく、2・26事件で、皇道派将校19人が銃殺刑になって、統制派が、荒木貞夫や真崎甚三郎ら皇道派の重鎮をすべて追放したのちのことである。
 統制派は、戦陣訓や軍人勅諭をもちだして、みずから、天皇の官僚・軍属であることをアピールし、東条英機などは「生きて虜囚の辱を受けず」(陸訓一号/1941年)などの訓令をだして、玉砕や自決による日本兵の大量死をまねいた。
 明治の軍隊は、海軍の薩摩、陸軍の長州と薩長閥だったが、西郷隆盛の下野と西南戦争における敗死、紀尾井坂の変の大久保利通の暗殺によって薩摩閥は勢いを失い、政界・軍部ともに、伊藤博文や山縣有朋ら長州閥の独り勝ちとなった。

 これに反発したのが、政界や財界とむすんで、軍部の影響力を強めていった統制派で、その代表が、永田鉄山陸軍少将や東條英機陸軍大将だった。
 政・官・財界と組んで力をつけてきた統制派は、皇道派や薩長閥を排除して栄達の道を歩みはじめるが、薩長閥のような実績や人脈がなかった。
 そこで、かれらが権力の正統性としたのが、天皇と学歴だった。
 永田鉄山は、陸大をトップででて恩賜の軍刀を贈られているが、東条英機も丸暗記で有名な勉強家で、陸大をトップに近い成績で卒業している。
 知将今村均、猛将山下奉文、賢将石原莞爾が冷や飯を食わされたのは、日本の軍部が、陸軍士官学校や陸大、海軍兵学校の成績順位だけで、軍人の身分をきめていったからで、連合艦隊参謀長の宇垣纏は、海軍兵学校や海軍大学校の卒業順次がじぶんより下の者へ、敬礼も返さなかったという。
 昭和の日本軍は、極端な偏差値社会だったわけで、薩長の出身者がほとんどいなかった当時の軍事エリートは、勉強はできたが、薩長とは比べものにならないほど戦争が下手だった。
 中国大陸侵攻や南洋島嶼作戦は、陸軍と海軍が予算を分捕るためにおこした意味のない戦争で、その一方、サイパン島・硫黄島の要塞化など、本土防衛に必要だった作戦はなに一つ実行に移されなかった。
 日本は、統制派の狭量と権力主義、官僚主義のために戦争に負けたのである。
 旧日本軍上層部のでたらめをささえたのが「承詔必謹」で、十七条憲法第3条「詔を承りては必ず謹め」(君主がいうことに臣下はしたがえ)を借りてきて、国民は天皇の命令に逆らってはならないとした。
 これは、とんでもない誤りで、聖徳太子の時代の豪族(氏族)政治において、氏上や民たる氏子はいたが、国民などおらず、氏子とて、天皇との接点はなかった。
 承詔必謹は、臣下や官僚、地方豪族にたいするもので、かれらは、群卿百寮(第8条)、群臣百寮(第14条)と名指しされている。
 国民という概念は、大化の改新の「公地公民」からのもので、そこから50年近くも遡る聖徳太子の時代に、天皇が国民に「承詔必謹」を呼びかけるはずはない。
 昭和の軍部は、天皇陛下という号令に、だれもが、直立不動の姿勢をとって服従する現人神$_話を悪用して、数百万人の日本兵を死地に駆りだした。
「承詔必謹」はその悪夢の呪詛で、もっとも悪質な天皇の政治利用であった。

 漫画家の小林よしのりは「皇后さまの『承詔必謹』を見習うべし」としてネット上に以下の文章を載せている。
 皇后陛下の82歳の誕生日のお言葉を、産経新聞と東京新聞が全文載せていた。
 産経新聞は皇室のニュースを割と大きく報じて、いかにも尊皇心があるようなふりをする。
 ところが「承詔必謹」は全くない!
 それどころか、天皇陛下に平然と異議を唱える論客(逆賊)ばかりを紙面に登場させる。
 要するに自分たちの希望する「天皇像」に今上陛下は合致しないのである。
 Y染色体・男系血脈としての天皇を彼らは尊崇していて、個人としての天皇には興味がない。
 彼らの主張はこうだ。
 天皇は祭祀だけをしていればよい、公務は余計だ、御簾の奥に隠れてカリスマ性を保て、閉ざされた皇室が望ましい。
 天皇陛下が公務をなさり、国民に直接「お言葉」を伝えると、彼らは不愉快になるのだ。
 彼らは「承詔必謹」なきエセ尊皇家である
 皇后陛下でも、天皇陛下には、承詔必謹を心がける。
「私は以前より、皇室の重大な決断がおこなわれる場合、これに関わられるのは皇位の継承に連なる方々であり、その配偶者や親族であってはならないとの思いをずっと持ち続けておりましたので、皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされたこの度の陛下の御表明も、謹んでこれを承りました」
 この箇所は、8月8日の玉音放送を受けての、態度表明として非常に重大な言葉である。
 皇后陛下でも「承詔必謹」なのだから、国民も、国民の代表者たる国会議員も、本来は「承詔必謹」で臨まなければならない。
 それを悟らせるために皇后陛下は「謹んで承った」と仰ったのだろう。
 
 小林は、女系天皇論者で、男系祖先がどこの馬の骨とも知れぬ天皇に「承詔必謹」という絶対権力を与えよという。
 それでは、北朝鮮の主体思想(チュチェ思想=カリスマ崇拝)となにもかわらない。
 小林の尊皇は、長州藩のそれと同じで、天皇をギョク(玉)と呼び、御所に大砲を撃ちこみ、天皇の誘拐をくわだてる尊皇で、目的とするところは、天皇の政治利用にほかならない。
 万世一系という皇統の大原理を捨て、なお、尊皇というのは、天皇の政治的な利用価値のみを見ているからで、こういう輩は、歴史の真実ではなく、制度や機関として天皇をとらえているので、いつ反天皇に転じるかわかったものではない。
 小林は、天皇の御心に従わねば「承詔必謹」に反するという。
 だが、承詔必謹は、明治維新以降、とりわけ昭和軍国主義の産物で、天皇の政治利用の方便だった。
 日本は、承詔必謹をもって、戦争を遂行し、国体を危うくしたのである。
 葦津珍彦は、皇祖皇宗の大御心は、天皇の個人の意思よりも遥かに高い所にあって、万が一、天皇個人の御心が大御心に反した場合、これを諌めてもよいとのべている。
 葦津氏は、大御心は日本民族の一般意思ともいっているが、それが、天皇の祈りであり、象徴ということなのである。
 次回は、江戸国学の歪曲から現人神がうまれた経緯をみていこう。
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2018年07月23日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」53

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(11)
 縄文の遺伝子というべきアニミズム(八百万の神々)やシャーマニズム(神との交信)が、紀元前千年前後と思われる稲作の伝来にともなう穀霊祭や収穫祭と合流して、天皇の原型というべき祭祀王が誕生した。
 神武天皇が即位した紀元前660年から欠史八代、第十代崇神天皇にいたる千年におよぶ天皇の古代史は、神話と実史の綯い交ぜで、崇神天皇の四道将軍派遣にいたるまで、神武以来の天皇は、大和という一地方の霊神だったはずである。
 崇神天皇は、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王ととらえる見方が有力で、記紀に記された事績の類似性にくわえ、諡号の共通性から神武天皇と同一人物とする説もある。
『日本書紀』における神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と崇神天皇の称号である『御肇國天皇』はどちらも「はつくにしらすすめらみこと」と読めるからである。
 大和朝廷の黎明と邪馬台国の末期が年代的に重なるところから崇神を「卑弥呼の後継の女王だった台与の摂政」「『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の男弟」とみる説のほか、卑弥呼を、崇神に仕えた倭迹迹日百襲姫命(第7代孝霊天皇皇女)とみる説もある。
『日本書紀』に百襲姫の墓と記されている「箸墓」は、全国で最古・最大級(全長約280M・後円部の直径が約150M)の前方後円墳で、これを卑弥呼の冢に比定する説がある。
 根拠は、年代の一致と『魏志倭人伝』に記されている「倭国の女王卑弥呼の墓は径百余歩」という記述で、径百余歩は約150Mである。
 卑弥呼が、崇神を操った百襲姫だったのなら、日本は、古代から、巫女というシャーマンが大きな力をもっていた国ということになる。

 卑弥呼から台与、百襲姫や神功皇后、推古天皇ら8人の女性天皇は、巫女の系統で、皇統の男系をまもる男性天皇は、巫女の援けをうけてきた皇胤の系統といえる。
 それが、万世一系で、男系をたどってゆけば、神武天皇にゆきつくところに天皇の権威がある。
 天皇の権威がどこから生まれたのか、それが、古代史の最大の謎であった。
 その謎を解くカギの一つが万世一系(皇位の男系相続)だろう。
 女系相続なら、婚姻のたび、祖先が婿方(Y染色体)へ替わってしまう。
 祖先をたどることができるのは、父から息子へつたわるY染色体だけだからで、XとYの両方の染色体をもっているのは、男性だけである。
 女性(X染色体×2)はY染色体をもたないので、天皇が女系になった場合は、女性天皇の相方が、たとえば、外国人なら、天皇の祖先が、その外国人のY染色体をたどって、海のむこうのとんでもないところにいってしまう。
 皇室の祖は、イザナギから天照大神、ニニギの尊、神武天皇へつづく神話の系統で、日本人は、その神話を共有することによって、日本人たりえている。

 ヨーロッパの王権は、武力や政治、神授説の産物で、一元的にできている。
 日本の場合、権力(摂政・院政・幕府)と権威(天皇)の二元論で、権威は権力をささえ、一方、権力は、みずからの権力の正統性(レジティマシー)を権威にもとめる。
 血統相続による皇胤は、権力で奪うことができないので、これを権威として立て、権力と並立させ、権力の安定に役立たせたほうが得策だった。
 権力が天皇を立ててきたのは、そのためで、天皇の権威は、権力がつくったともいえるのである。
 天皇の権威は、天皇が生来的にもっているものではなく、権力が必要としたためにうまれたもので、権威は、二次的な文化的産物といえる。
 血統という歴史の連続性や伝統、言語や習俗も文化で、権力に文化的な要素がなければ、民を安んずらせ、国を治めることはできない。
 権威を立てることによって、権力は、文化という新しい鎧を身に着けることができる。
 それが日本の伝統的支配構造で、権力には、武の一元論に立つヨーロッパ型のほかに、文武二元論の日本型があるのである。

 日本史において、天皇が神だったことはいちどもなかった。
 政治権力をふるった天皇も、皇親政治の第40代天武天皇や平安京の遷都をすすめた第50代桓武天皇、西日本を勢力下においた朝廷が東日本を勢力下におく鎌倉幕府執権(北条義時)討伐の兵を挙げた後鳥羽上皇の承久の乱(1221年)、鎌倉幕府を討滅して天皇親政による復古的政権を樹立した後醍醐天皇の建武の新政(1333年)があるにすぎない。
 天皇は、権力者どころか、飾り物で、摂政や院政がはじまると、天皇はあたかも皇太子のような存在になってゆく。
 その典型が幼帝で、摂関家や上皇・法皇が、みずからの権力をふるうために幼い天皇を利用したのである。
 第56代清和天皇(即位9歳/藤原良房が政治の実権)、第66代一条天皇(即位7歳/摂政・藤原兼家)、第73代堀河天皇(即位8歳/摂政・藤原師実)、第74代鳥羽天皇(即位5歳/白河法皇が院政)、第80代高倉天皇(即位8歳/父・後白河院が院政)、75代崇徳天皇(即位4歳/鳥羽天皇が院政)、第76代近衛天皇(即位3歳/鳥羽天皇が院政)らが幼帝で、天皇は、権力の道具になっていった。
 江戸時代、禁中公家諸法度に縛られた天皇は、明治維新後、一転して、主権者にして現人神というとんでもない存在に仕立てられてゆく。
 次回は、幕末の復古神道から狂気をはらんだ軍人勅諭へ、天皇の政治利用の軌跡を追っていこう。

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2018年07月16日

神道と世界最古の文明「縄文文化」52

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(10)
 日本という国家の原型をつくったのは、疑いもなく、聖徳太子である。
 第2回遣隋使「日の出づる処の天子」(607年)と第3回遣隋使「東の天皇敬みて西の皇帝に曰す」(608年)の派遣(小野妹子)で、聖徳太子は、隋の皇帝煬帝にたいして、倭国が対等の立場にあることを宣している。
 倭国が律令国家としての体裁を整えたのは、冠位十二階と17条憲法制定にによってだが、それには、第一回遣隋使外交の失敗という手痛い教訓がばねになっていた。
 第一回遣隋使派遣(600年)の記録は『隋書(東夷傳俀國傳)』にはあるが『日本書紀』にはない。
 外交関係を拒絶されたことを愧じて、記録に残さなかったのだろう。
 東夷傳俀國傳には「高祖曰 此太無義理 於是訓令改之(高祖曰く 此れ大いに義理なし 是に於て訓えて之を改めしむ)」という一文がある。国書ももたずに外交をもとめる俀國(倭国)にたいして、隋の皇帝文帝が道理から外れているので改めるよう「所司」をつうじて訓令したというのである。
 その3年後の603年。廐戸皇子(聖徳太子)30歳のとき、冠位十二階が制定された。
 翌604年 廐戸皇子が31歳の折、憲法十七条を制定する。
 そして、607年の第2回遣隋使、608年の第3回遣隋使へとつづく。
『日本外史』の頼山陽は、蘇我氏の血を色濃く受け継ぐ(父方母方とも祖母が蘇我稲目の娘)廐戸皇子にたいして批判的で、異教である仏教の移入に努めたばかりか、蘇我馬子による崇峻天皇弑逆を放置したことをきびしく糾弾(『日本政記』)している。
 ところが「日の出づる処の天子」についえは、易姓革命による中華王朝の存亡流転と対比させ、万世一系の皇統を護る日本の国体の永久不変を謳った(『日本楽府』)ものとしてたたえている。
 蘇我馬子とともに物部守屋を滅ぼした15歳の廐戸皇子が、19歳で推古天皇の摂政となって、冠位十二階と憲法十七条を定め、34歳で、国体の永久不変を「日の出づる処の天子」と謳ったわけだが、廐戸皇子のこの思想的変遷には、ある人物が深くかかわっている。

 廐戸皇子22歳の折、高句麗から僧・慧慈(えじ)が来日する。
 この慧慈が、廐戸皇子の終生の師にして友人で、皇子が著した仏教の注釈書『三経義疏(『法華経』『勝鬘経』『維摩経』)』を携えて高句麗へ帰国した(615年)のち、廐戸皇子の訃報にふれて、翌年の同じ日に浄土で廐戸皇子と会うことを誓約して、623年の皇子の命日に、高句麗で没したという。
 隋と高句麗は、当時(598年〜614年)交戦中で、スパイ僧でもあった慧慈は、当然ながら、隋の事情につうじていた。
 廐戸皇子は、慧慈から、隋が仏教を厚く保護していること、長安には寺院が多くあって、仏教文化が花開いていることなどを教えられた。
 とりわけ皇子の関心をひいたのが隋の国家体制だった。
 中央集権国家が完成しており、官僚の規律として、儒教が重んじられていることなどを知ったが、なによりも貴重な知恵は、国家には、だれもが平伏する指導者=権威が必要とするということだった。
 慧慈の知恵を借りて、廐戸皇子は、冠位十二階と憲法十七条を制定したのち小野妹子に「日の出づる処の天子」「東の天皇敬みて西の皇帝に曰す」の国書ををもたせて隋に送り、隋の煬帝は、小野妹子の帰国に際して、裴世清を使節として日本に送った。
 慧慈がいうとおり、天皇の存在を宣することによって、煬帝は、倭国を国家としてみとめたのである。
 裴世清がもってきた返書が『日本書紀』に残っている。
「(略)倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う」
 天皇の呼称は、第3回遣隋使の国書にもちいられたことからはじまったいうのが定説で、隋の煬帝も、返書に倭皇ということばをもちいている。
 百余国(漢書地理志)あるいは三十余国(魏志倭人伝)に分裂していた倭国が稲作伝来以来の祭祀王(大王)を立てて大和朝廷を統一させ、隋と外交関係をむすぶにあたって、天皇を立てたというのが天皇の権威の歴史的推移であろう。
 天皇が神になったのは、8世紀の古事記・日本書紀以降、江戸末期における復古神道以降で、天皇は、もともと、国家の権威だったのである。
 
 したがって、33代推古天皇以前は、すべて大王で、10代崇神天皇以前の欠史八代は、その時期に伝来した稲作の収穫を祈念し、寿ぐ大和の地における祭祀王だったのではないか。
 天皇をつくったのは、慧慈の知恵を借りた聖徳太子で、蘇我氏の出自でありながら、蘇我王国ではなく、冠位十二階と憲法十七条にもとづいた官僚国家をめざした。
 その思想が、やがて大化の改新へつながってゆくが、その前に、聖徳太子がおこなった偉業をもう一つあげておかなければならない。
 仏教と神道、儒教の仕分けである。
 聖徳太子は、仏教を宗教、神道を政治、儒教を道徳に分けて、これらの一元化を避けた。
 仏教と神道、儒教のうち、いずれが優越しているか、絶対的かといういうのが一元論で、それが、明治の神国思想や廃仏毀釈というヒステリーにつながったのはいうまでもない。
 仏教と神道、儒教の共存は、和の精神ともいえるが、日本の固有的な考え方である『棲み分け理論(今西錦司)』でもあって、一元論の西洋や中華思想にはみられない。
 次回は、天皇が神になっていった歴史的経緯をふり返ってみよう。
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2018年07月10日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」51

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(9)
 国体を空気にたとえたのが『国体の本義』を著した国学者の山田孝雄だった。
 国体が空気なら、国家は無意識下の身体で、それが山田の「国家有機体説」である。
「国体は国の体なり。喩えば人の体あるが如し。人とは何か。之を物理学的に見れば、一個の有機体なり。之を科学的に見れば、各種元素の組織体なり」というのである。
 国家有機体説は、国家を一個の生物とみなす国家観で、古くはプラトンから絶対的精神のヘーゲル、保守主義のエドモンド・バーク、ホッブスらによって論じられてきた。
 ヘーゲルによれば、国家は、個と全体の調和が実現された有機的な統一体であって、バークによれば、国家は、現在、生きている人々のみならず、かつて生きていた人々、将来、生きるであろう人々、その三者の共同体である。
 そして、ホッブスは、国家(リヴァイアサン/怪物)を、人間がみずからを模してつくりあげた人工物とみた。
 この人口的国家は「万人の万人にたいする闘争」をくりひろげるであろうから、国家には、超越的主権が必要というのである。
 国家有機体説は、国家を機械的な制度とみるジャン・J・ルソーの社会契約説や美濃部達吉の天皇機関説、穂積八束・上杉慎吉の天皇主権説とは逆の立場で、国家が、文化や倫理という精神性、生産や消費という物質性を併せもった歴史的存在、生きている有機体つまり生命体であるとする。

 生命体である国家にとって、国体は空気で、とりたてて意識されない。
 意識されるのは、革命国家や独裁国家、全体主義国家におけるイデオロギーや法、暴力性をともなう権力で、圧政と暗黒政治、抑圧政策は、人々の自由を奪い、虐げ、心を牢獄につながずにいない。
 民主主義も人権も、自由も平等もイデオロギーで、絶対王権や専制・独裁に喘いできたユーラシア大陸ならいざしらず、天皇の権威が権力の専権横暴から民をまもってきた日本には無用の長物で、そこに、日本人特有の民族性があるといってよい。
 日本人は、民主主義や人権ではなく、被災地で地べたに膝をつき、被災者のご心配をなさる天皇皇后の善や愛、やさしさの文化にまもられてきたのである。
 政治や権力、法から無縁のほうがしあわせなのはいうまでもない。
 歴史上、日本人ほど政治や権力、法に縛られなかった民族はいなかった。
 その理由は、天皇がおられたからで、幕府(政府)は、民の側に立つ天皇の認可をえて、はじめて、統治権や徴税権を行使することができた。
 政治や権力、法で、民を苦しめて、どうして、天皇から権力の正統性をさずかることができたろう。

 天皇が権力者ではなく、権威となった鎌倉時代以降、人々にとって、天皇は、意識されざる空気のような存在であった。
 空気を失えば、死んでしまうが、だれも、空気の有難さに気づかない。
 天皇=国体は、血肉化して、無意識の領域にあったのである。
 だからこそ、憲法公布の直後におこなわれた世論調査では、各新聞社や米国調査とも、象徴天皇制への支持が90%近くにものぼったのである。
 江戸時代、天皇は、京都御所におられるお内裏さま、天子さまで、庶民とは直接かかわりのない存在だった。
 ところが、明治維新で天皇が国家元首・大元帥にまつりあげられると、徴兵令で集められた日本兵の最高上官になって「天皇陛下万歳」という精神文化が生じた。
 天皇制ファシズムは、天皇の政治利用の極めつけで、その嚆矢が薩長による倒幕と維新政府樹立だったのはいうまでもない。
 軍部は「大日本帝国憲法第3条(天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス)」を盾に軍令を勅令におきかえて、これを「承詔必謹」と称した。
 この四文字によって、天皇が空気ではなく、権力の牙城として、国民の上に君臨するようになったのである。
 承詔必謹は聖徳太子の「十七条憲法」第三条の「詔を承りては必ず謹め」の成句で、天皇陛下のことば(詔)はかならずつつしんでうけたまわれというのである。
 といっても、承詔必謹は、民にむかって発せられたことば(勅)ではない。
 聖徳太子は、憲法の形を借りて、豪族にたいして、天皇への帰服を諭したのである。
 当時は、豪族政治の時代で、ヤマト王権を構成していたのは、畿内や地方に蟠踞する氏族だった。
 聖徳太子の承詔必謹は、氏族の長、氏上にたいして発したことばで、これは第一条の「和を以て貴しとなす」も同様である。
 豪族は、相和して、天皇の詔を重んじて、大和朝廷の発展に尽くせというのである。
 以和為貴や承詔必謹を民にむけたことばとするのは後世の脚色である。
 とりわけ、承詔必謹は、戦時中、天皇の命令を絶対化するための便法としてもちいられた。
 次回以降、この承詔必謹が、大化の改新をへて、天皇政治=皇親政治につきすすんでいった過程、および、近世にいたって、このことばが、天皇神格化の道具になっていったプロセスをみていこう。
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2018年07月03日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」50

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(8)
 豪族(氏族)が跋扈していた倭国が、三世紀中頃から四世紀にかけて、次第に統一されていった。
 それが天皇を中心とする大和朝廷(奈良県)で、次第に勢力を広げ、やがて西は九州から、東は関東までを勢力圏内におさめてゆく。
 さらに、四世紀半ばには、朝鮮半島にまで勢いをのばして、それが白村江の戦い(663年)までつづく。
 5世紀以降、大和朝廷が大きな力をもっていたことは、仁徳天皇陵のような巨大な墳墓(前方後円墳/大阪府堺市)が数多くつくられたことからもわかる。
 大和朝廷を形成した豪族には、大伴氏や物部氏、蘇我氏、中臣氏のほか、葛城氏、平群氏、巨勢氏、膳部氏、紀氏などがいるが、大きくは、二つの系統に分けられる。
 一つは、軍事や祭祀をうけもっていた「大連」の物部氏(物部尾輿)の系統で、忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中臣氏は、仏教受容問題で、物部氏とむすんで蘇我氏と対立した。
 もう一つは、財政や外交を担当していた「大臣」の蘇我氏(蘇我稲目)の系統である。
 蘇我馬子と物部守屋がたたかった「丁未の変」では、廐戸皇子(聖徳太子)や泊瀬部皇子(崇峻天皇)、竹田皇子(敏達天皇・推古天皇の子)ら蘇我氏の血を引く皇族のほか、紀氏や巨勢氏、膳部氏、葛城氏、大伴氏、安倍氏、平群氏などの有力豪族も蘇我馬子の軍にくわわった。
 神道・祭祀系の物部派と仏教・渡来系の蘇我派が睨みあっていた豪族政治において、天皇の存在は、かならずしも、磐石ではなかった。
 592年。聖徳太子19歳の折、崇峻天皇が、蘇我馬子が放った刺客、東漢直駒に弑逆される。
 豪族連合に擁立された祭祀王=天皇はけっして絶対的な存在ではなかったのである。

 飛鳥時代は、外来と土着をめぐって、文化や宗教、民族が衝突した古代史における最大の革命期であった。
 渡来人が活躍した時代でもあって、中国や朝鮮半島から、文字や仏教、儒教のほか、建築や鍛冶、織物、養蚕などの大陸文化が流れこんできた。
 外来文化は主に帰化人によって伝えられたが、東漢氏や西文氏らの渡来人や帰化人を擁していたのが蘇我氏で、当然、仏教導入にも熱心だった。
 そのため、排仏を主張する物部氏や中臣氏、忌部氏らと対立して、これがのちの「丁未の変」へつながってゆく。
 外交や宗教、文化、民族問題が混沌としていたこの時期、忽然とあらわれたのが「丁未の変」で、蘇我馬子についた聖徳太子だった。
 蘇我氏は渡来人と結びつくことで勢力を伸ばし、二人の娘を欽明天皇の妃とする(天皇の外戚)ことによって、地位を確固たるものにしていた。
 聖徳太子の父方も母方も祖母は蘇我稲目の娘で、蘇我の血を濃く受け継いでいる。
 推古天皇も、母は蘇我稲目の女(堅塩媛)で、推古天皇、聖徳太子とも蘇我氏の血族であることから、蘇我の時代にゆるぎはないかのように見えた。
 592年。推古天皇が豊浦宮で即位して、甥の廐戸皇子(聖徳太子)が推古天皇の摂政となった。
 すべて蘇我氏の思惑どおりであった。
 ところが、聖徳太子の政治は、蘇我家の期待にかなうものではなかった。
 聖徳太子の最大の功績は、蘇我氏の独断を排除して、天皇と豪族との関係を正したことである。
 それが、冠位十二階と憲法十七条である。
 冠位十二階が外からの規範的改革とすると、十七条憲法は、内からの精神的改革で、聖徳太子がもとめたのは、豪族政治からの脱皮と中央集権国家建設の基礎となる官僚政治への移行だった。
 冠位十二階によって、人材登用の道がひらかれて、蘇我独裁体制にブレーキがかかった。
 追い打ちをかけたのが十七条憲法だった。
 十七条憲法でよく知られているのが、第一条の「以和為貴。和を以って貴しとなし」と第三条の「承詔必謹。詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め」であろう。
 第一条の「和を以って貴し」はともかく、第三条の「承詔必謹」には誤解があるので、付言しておく。
 女系天皇論者で、漫画家の小林よしのりが、皇后さま82歳の誕生日の宮内記者会のご発言から、承詔必謹を読みとって、男系天皇論者を「承詔必謹なきエセ尊皇家」と罵っている。
 皇后さまは、天皇陛下の御放送にふれて、こうのべられた。
「皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされた陛下の御表明も、謹んでこれを承りました」
 小林よしのりは、このご発言をもって、皇后さまの承詔必謹を見習うべしというのだが、見当違いもはなはだしいどころか、これは、一種の危険思想である。
 十七条憲法の承詔必謹は、大和朝廷の構成員である豪族にたいして発した戒めで、天皇の神格化を前提としてはいない。
 天皇の神格化は、明治政府が、天皇を政治利用するためにあたってもちいた政治トリックで、日本史上、天皇を神(現人神)としたのは、この時期だけである。
 小林はこういう。
「皇后さまでも、承詔必謹なのだから、国民も、国民の代表者たる国会議員も承詔必謹で臨まなければならない。それを悟らせるために皇后陛下は、謹んで承ったと仰ったのだろう」
 小林は、愚かにも、戦時中の天皇トリック≠もちだして、悦に入っている。
 聖徳太子が「東天皇敬白西皇帝(東の天皇が敬いて西の皇帝に白す/日本書紀)」として、天皇を立てたのは、隋に、天皇が中心となった中央集権体制の完成をつたえるためだっただろう。
 第一回遣隋使が、国家の体裁をなしていないとして、倭国が外交を拒絶された反省から、聖徳太子は、第二回以降、小野妹子に託した国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す恙無きや(隋書倭国伝)」と天子、天皇を謳ったのである。
 国書をうけとった皇帝煬帝は怒ったともつたえられるが、実際は、裴世清を使者に立てて、丁重なる返書を送ってきている(日本書紀)。
 日本は、天皇を立てることによって、隋から国家としてみとめられたのである。
 ちなみに、岩倉具視使節団は、国書(天皇の委任状)をもっていかなかったため、アメリカで条約調印ができなかった。
 神格化せずとも、天皇は、歴史上、日本という国家の中心におられるのである。
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2018年06月26日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」49

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(7)
 大和朝廷は、豪族による連合政権で、天皇は、その豪族連合に担がれた祭祀集団の長だったと思われる。
 縄文時代から、日本には、縄文の遺伝子というべきアニミズムやシャーマニズムなどの神道的な宗教感覚が根づいており、くわえて、稲作の導入によって穀霊祭や収穫祭などの神事がはやくから習俗化されていた。
 新嘗祭の起源を稲作伝来に重ねる見解もあって、神々が人々と共存していた太古において、祭祀集団の長だった天皇の地位は、有力豪族と同等か、それ以上だったはずである。
 ここに国家二元論(「権威と権力」)の原型をみることができる。
 大和朝廷は、権威(天皇)と権力(豪族)の二元論で、有力豪族は、天皇の外戚に娘たちを送りこむことによって、権力の正統性を獲得し、一方、豪族の権力が強化されることによって皇統(万世一系)がまもられ、天皇+有力豪族の二元的な政権ができあがった。
 万世一系(男系)と外戚政治(女系)の両輪が大和朝廷の基本構造で、有力な豪族が天皇の外戚になろうとしたのは、天皇の権威を借りなければ、覇者といえどもただの戦大将で、施政権がそなわらないばかりか、油断すれば敵から寝首をかかれかねなかったからだった。
 歴史家は、天皇が豪族の一派で、覇権戦争に勝ち抜いて、大和朝廷の頂点に立ったとする。
 そうなら、大和朝廷成立前に、長期間におよぶ戦国時代がなければならないが、記紀には豪族戦争の記録がみあたらない。
 豪族の連立を巡って争いがなかったのは、大和朝廷が宗教的結束だったからで、仲介の役割をはたしたのが天皇を戴く祭祀集団だった。
 ところが、日本の歴史家は、日本という国家が国体(権威)と政体(権力)の二元論に立っている事実を見ようとしない。
 日本の歴史学会が、マルクス主義の唯物史観一辺倒だからで、左翼ならずとも、日本人の多くが皇国史観を諸悪の根源と思い込んでいる。

 豪族の連合政権だった大和朝廷が安定政権となったもう一つの理由が、世襲による権威と権力の血縁相続である。
 権威=天皇の相続が男系(万世一系)なら、権力=執権の相続が女系(天皇の外戚)で、葛城や蘇我、中臣ら有力豪族は、娘を天皇に嫁がせて、后の系列から権力を強化した。
 注意をむけるべきは、大和朝廷から平城京、平安京、さらに江戸幕府にいたるまで、日本の政権は、万世一系(男系)と外戚政治(女系)が両輪になっていて、その二元論が、摂関政治から幕府政治まで維持されてきた歴史的事実である。
 大伴や物部ら大豪族を制して、天皇の外戚関係から権力を握ったのが、武内宿禰を共通の祖とする葛城氏と蘇我氏、天児屋命(アメノコヤネ)を祖とする中臣(藤原)氏で、かれらは、みずからの血統をまもるため、天皇をまもったといえる。
 歴史上、弓削道鏡や平将門、足利義満のほかに皇位簒奪をはかった権力者がいなかったのは、権力は、単独で存立できないからで、皇位を奪えば、権威にささえられた安定的な権力を維持することができなかった。
 ここに、国体(天皇)の本質があって、日本の場合、権力者は、剣のみではなく、国体という権威の裏づけをもって、はじめて、天下に号令をかけることができた。
 軍事力で覇権を争ったユーラシア大陸や日本の戦国時代が終わりなき乱世となったのは、権威が不在となったからだった。
 権力が世俗的なパワーなら、権威は超越的な価値で、これには、文化や歴史から習俗や宗教(祭祀)までがふくまれる。
 卑弥呼の邪馬台国(ヤマトコク)を継承する大和朝廷が祭祀国家だったのはいうまでもない。
 武装集団でもあった豪族が、畿内から河内、九州にいたる広範囲にわたって大和朝廷に服従的だったのは、宗教的アイデンティティがはたらいていたからで、その象徴が前方後円墳だった。
 日本の歴史家は、エジプトのピラミッドに並ぶ前方後円墳を軽視する。
 古代人(縄文・弥生)が古墳時代に入って、とつぜん、前方後円墳をつくりはじめたようにいうのだが、巨大な前方後円墳をつくるには、計画性や高度な土木技術、組織力や政治力などの文化・文明の力が必要で、巨大前方後円墳の存在それ自体が、大和朝廷の国家的完成度や民度の高さを示している。
 そもそも、古墳時代というのは考古学の用語で、このことばを歴史書にもちいることがまちがっている。
 皇国史観をきらう日本の歴史学者は、古代の人々を未開人、歴史を考古学としてとらえるので、歴史を物語として描きだすことができない。
 現在の歴史学は、観念や史料を重んじる唯物史観やランケの実証史学にもとづいているので、物語性を度外視して、もっぱら、科学的・実証的分析に走る。
 かつて、古墳時代の代わりに、大和時代という時代区分があった。
 これは、神武天皇の即位(紀元前660年)から欠史八代、卑弥呼をへて、大和朝廷をつくりあげるまでの歴史的経過を俯瞰したもので、それなりの合理性もあった。
 採集生活をしていた古代人が、前方後円墳をつくるまでの文明人になるのにかかる歴史時間は、500年、千年単位だったと思われる。
 三内丸山遺跡の縄文都市が紀元前2000年前〜3500年前だったことを思えば、歴史学者のいう未開の古代≠ネるものは、すくなくとも、現代から遡って5000年前以内にはなかったと考えたほうがよい。
 はるか紀元前から大和時代にいたる古代史には、唯物史観や歴史実証主義がおよびもつかないゆたかな物語性があったはずで、古代史は、神話と実史が融合した一大ロマンなのである。
 次回以降、大和時代から飛鳥時代、奈良時代にわたってくり広げられてきた国体と政体のドラマをみていこう。
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2018年06月18日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」48

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(6)
 古代日本が豪族の国で、大和朝廷が豪族の連合政権だったことは疑えない。
 だが、それ以上のことは、なにもわかっていない。
 日本人はどこからきたのか、国家の原型がいつできたのか、天皇のルーツはどこにあるのかについて、日本の歴史家は、知らぬ存ぜぬをおしとおす。
 史料にもとづいて歴史を確定する歴史実証主義に立っているからで、史料が乏しい日本の古代は謎につつまれたままなのである。
 大和朝廷の成立から拡張期にあたる3世紀半ばから5世紀の初めまで中国の歴史書に倭国にかんする記述がない(「空白の4世紀」)のは事実だが、だからといって、日本の古代が不明だ空白だとするのは、歴史学者の怠慢である。
 日本には、エジプトのピラミッドや中国の万里の長城と肩を並べる数多くの前方後円墳(箸墓古墳/3世紀、仁徳天皇陵/5世紀)のほか、三内丸山遺跡(縄文時代中期)や吉野ヶ里遺跡(弥生時代)、登呂遺跡(1世紀)などの遺跡も少なくない。
 古事記や日本書紀などの史書もゆたかなので、多少、想像力や推論をはたらかせれば、古代にもっと光をあてられるはずなのだ。
 史料がないからといって、空白だ不明だと言いだすのは、空想力と構想力の欠如で、歴史が記録されるもの≠ナはなく記述されるもの≠ナあることを忘れている。
 歴史は登場人物の活動をとおして理解される。
 それが生きた歴史で、歴史は、考古学とはちがう。
 歴史は、伝承や遺跡、史跡や史料からの推論だが、人々が信じてきた神話や伝説も歴史であって、歴史は、民族や国家のフィクションといってよい。
 源平から徳川に到る武家盛衰史を描いた頼山陽の「日本外史」は、幕末から明治にかけてもっとも多く読まれた歴史書だが、描かれているのは英傑偉人の物語である。
 戦後、日本の歴史観は、唯物史観と歴史実証主義に汚染されて、物語性を失い、日本人は、国史という民族の歴史から疎遠になった。
 歴史を失った民族は滅びるといわれるが、戦後、皇国史観を放棄させられた日本人は、建国の物語といっしょに国家や民族の誇りまで捨ててしまったように見える。
 戦後の日本人は、祖国の始原や民族のルーツ、日本文明の由来についてなにも知らない一方、アメリカ製の憲法と民主主義を第二の国体として、わが国が世界で最古の伝統国家であることを忘れはてている。

 国体とは、肇国以来の歴史で、国家も国民も、歴史という時間的蓄積からうまれる。
 GHQが目の敵にしたのがその国体で、神話や古典、伝統などの歴史的価値までが標的にされた。
 追い打ちをかけたのが、日教組や歴史学会で、皇国史観を徹底的に排除する一方、唯物史観や実証主義をもちこみ、古事記や日本書紀などそれまで国史とされてきた史料を根こそぎ否定した。
 その結果、日本は、伝統国家どころか、国家誕生の物語すらもたない亡霊のような国になってしまった。
 現在、もとめられているのは、GHQや左翼・反日、歴史家が破壊しつくした古代史を復活させることで、肇国の歴史(神話)をイメージすることができなければ、国家との一体感や日本人としてのアイデンティティは育ってこない。
 古代史を解明するキーワードは、大和朝廷と天皇、前方後円墳の三つである。
 この三つのキーワードを統一的に説明することができれば、豪族政治に終止符を打つ聖徳太子の飛鳥時代(崇峻天皇の弑逆から平城京に遷都まで)へ歴史の歯車がつながってゆく。
 天皇が豪族の一派だったという認識が、歴史学会では一般的である。
 だが、それだけでは、三十余国の小国家が分立していた3世紀の日本(魏志倭人伝)が4世紀末に大和・河内を中心に強大な統一国家をつくりあげ、朝鮮半島に出兵する国力をもつにいたった急速な発展に説明がつかない。
 大和朝廷と天皇、前方後円墳の三つキーワードをつなぐキーもみつからない。
 天皇が豪族の一派であったなら、他の豪族を従えて大和朝廷を樹立するまで多くのいくさがあったはずだが、記紀などの史書には、豪族間のいくさがほとんど記録されていない。
 わずか百年余で、三十余国の小国家群が強大な大和朝廷になっていった理由も不明で、そこに、別のメカニズムがはたらいていた可能性が高い。
 大王一族は、豪族らに擁立された宗教集団だったのではないか。
 群雄割拠する豪族が覇権をもとめて争えば、乱は、いつまでも終わらない。
 たとえ、どこかの豪族が覇権を握っても、権威がそなわらないので、政権は不安定きわまりない。
 大和朝廷が権威をそなえた安定政権だったことは、全国各地で、大和朝廷のシンボルである前方後円墳が4百年(古墳時代/3世紀〜7世紀)にも亘ってつくられたことからも明らかだろう。
 大王一族が豪族らに擁立された宗教集団だったなら、大和朝廷と天皇、前方後円墳の三つのキーワードもつながってくる。
 権力は権威によって正統性(レジテマシー)があたえられる。
 それが歴史の真実で、織田信長は、正親町天皇を保護するという大義名分を立てなければ京都を制圧できず、薩長軍も、官軍を名乗らなければ江戸幕府を倒すことができなかった。
 大和朝廷が豪族の連合政権だったことは疑えないが、それは、神格をもった大王を立てて、その下で連立を組む「権威と権力」の二元論だったはずである。
 次回以降も、大和朝廷の謎解きをすすめていこう。


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2018年06月04日

神道と世界最古の文明「縄文文化」47

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(5)
 倭国が国家としての基盤を固めつつあった3世紀半ばから5世紀の初めまで中国の文献に倭国にかんする記述がなく、したがって、この時代は「空白の4世紀」と呼ばれる。
 この時期は、国家的モニュメントである前方後円墳が、全国規模でさかんにつくられた古墳時代の前半期にあたる。
 正確には、女王壹與が、晋の皇帝(武帝)に朝貢した266年から倭の五王(讃、珍、済、興、武)が中国に朝貢を再開する413年までの150年ほどで、このかん、倭国の文字が見える歴史史料は『高句麗広開土王碑の碑文』があるだけで、そこには、倭の勢力が朝鮮半島北部近くまで押し寄せて来た(391年)とある。
 高句麗好太王碑の碑文によると、新羅や百済とむすんで高句麗と戦っていた倭国は、朝鮮半島における軍事勢力として中心的な役割を果たしており、それが、倭と百済の連合軍が新羅と唐に破れる白村江の戦い(663年)までつづく。
 このことから、倭国は、当時、相当の国力を有していたことがわかる。
 3〜4世紀の天皇は、三韓征伐の神功皇后(第十四代仲哀天皇の后)、第十五代応神天皇、第十六代仁徳天皇の3人で、応神天皇の母で、武内宿禰とともに新羅や百済、高句麗を降伏させ、70年間にわたって皇太子(応神天皇)の摂政としてみずから政治をとった神功皇后および善政(「高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」)を敷き、大規模な土木工事をおこなった仁徳天皇はよく知られている。
 ところが、大和朝廷の成立において、大きな役割をはたした豪族、とりわけ朝鮮半島における倭国(軍)の主軸をなしていたはずの豪族についてはあまり知れられていない。

 大和朝廷は、豪族の連合政権で、大王は、豪族連合のバランスの上に成り立っていた。
 時代はやや下るが、大伴金村が「任那4県」を百済に割譲(512年)した25年後、金村の子、盤と狭手彦が任那を救援(537年)し、さらにその25年後の562年、狭手彦が高句麗軍を破っている。
 物部氏も、盤井の乱(528年)で、物部麁鹿火が大伴金村とともに筑紫の国造盤井を討っていることからわかるとおり、古墳時代は、豪族(氏)の時代でもあった。
 大和政権は、5世紀には、大王を中心として、大和周辺を基盤とする豪族の連合体として、九州から東北地方南部に至る広い地域を支配するようになる。
 その支配体制の根幹となったのが、大王のもとに、中央貴族や地方豪族を統一する氏姓制度であった。
 氏姓(しせい)制度は「氏姓(うじ・かばね)の制」ともいい、大和朝廷が授ける官位(氏姓)によって、中央貴族や地方豪族が天皇の下に系列化されることになったばかりか、血縁者以外の被征服者や従属者も大和朝廷の構成員にくわえられるようになった。
 さらにこの氏姓制度が、世襲されるにいたって、やがて、天皇を中心とした壮大なる秩序の体系ができあがり、これが、権威(天皇)と権力(摂政・幕府)の二元論の源になってゆく。
 日本が同属国家・家族国家となった原点が、この氏姓制度で、氏の代表者である氏上(うじのかみ)は、氏人(うじびと)を率いて大和政権にくわわった。
 この過程で、しばしば行幸がおこなわれたのは前回ふれたとおりで、大王が氏上の地を訪れたのは、氏族の結束を固め、氏族を大和朝廷にとりこむ二重の効果を効果を狙ってのことだった。

 大王が、大和朝廷をまとめあげたのは、圧倒的な力をもっていたというよりも、連合体の中心軸だったからで、豪族たちは、天皇中心の力学(円環の論理)にしたがって、すすんで大王に服従して、その結果、大和朝廷という大帝国ができあがったのである。
 それが全国で5000基にのぼる前方後円墳の秘密で、豪族は、みずからの安全と発展をねがって、大和朝廷のモニュメントである前方後円墳をつくったのである。
 有力豪族には、蘇我氏(祖は武内宿禰)、物部氏(祖神は饒速日命)、中臣氏(藤原氏。天児屋命を祖とする)、大伴氏(物部氏に並ぶ名族)、息長氏(神功皇后・継体天皇をうんだ家系)、吉備氏(吉備国の名家。ヤマトタケルの母系)、葛城氏(祖は武内宿禰)のほか、平群氏、巨勢氏、阿倍氏、春日氏、上毛野氏などがいる。
 持統天皇が祖先たちの墓記(オクツキノフミ)を献上させた豪族にはほかに大三輪氏、雀部氏、石上氏、石川氏、膳部氏、紀伊氏、羽田氏、佐伯氏、采女氏、穂積氏、阿曇氏などがおり、大和朝廷が、畿内・地方の多くの豪族集団にささえられていたことがわかる。
 身分制度には、臣(おみ)と連(むらじ)があって、天皇の血筋である臣には、葛城や蘇我、出雲がおり、天皇家とは祖先がちがう連には、物部や大伴、中臣がいた。
 ところが、氏姓や臣連は、かならずしも安定的に機能せず、やがて、蘇我氏の専横から崇峻天皇の弑逆という大事件がおきる。
 天皇を中心とした身分制度は聖徳太子の冠位十二階までまたねばならない。
 次回は蘇我氏と推古天皇、聖徳太子の歴史的存在意義にふれよう。
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2018年05月30日

神道と世界最古の文明「縄文文化」46

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(4)
 前回は古代史をざっとながめていくつかのエポックを発見した。
 そのエポックをたどってゆけば、縄文晩期から弥生から古墳・飛鳥時代へといたる古代の文化(精神)史および文明(物質)史の全体像がうかびあがってくるはずである。
 列記してみよう。
 @アニミズムと神道のめばえ
 A稲作と大集落
 Bシャーマンと司祭長
 C大嘗祭の発祥
 D大和連合の形成
 E祭祀国家
 F権威と権力の二元論
 G卑弥呼の時代
 H邪馬台国と大和朝廷
 I纏向(まきむく)遺跡と前方後円墳
 宗教学者の山折哲雄は、神と仏を「見えるものと見えざるもの」に分けた。
 神は目に見えないもので、仏は目に見えるものというのである。
 神道は、自然崇拝あるいは自然のなかに神や霊魂をみるアニミズムで、わたしはこれを縄文の遺伝子≠ニ呼んでいる。
 これが見えざる神で、かつて、敬虔な日本人は、自然から見えざる神をかんじていたのである。
 縄文から継承されてきた神性はたしかにあるものの、それが形としてあらわれているかといえば、かならずしもそうではなかった。
 その無形性が神道の源流で、そこに神話や祖霊崇拝、民間信仰などがむすびついて神道の大枠がつくられた。
 神道は日本人の価値観でもあって、日本人は、唯物論ではなく、何ごとにも神性をかんじる唯心(神)論なのである。
 仏教は黄金の仏像や堂塔伽藍のきらびやかさでひとの心をつかむ唯物(仏)論で、神道と仏教が共存できたのは、仏教が有形だったのにたいして、神道が無形だったからであろう。
 神道が神社をもつ宗教へ発展したのは、仏教と対抗したからだが、めざした方向は逆で、仏教が教義を立てたのにたいして、神道は、一万年以上にわたる自然および八百万神との共存共栄にもとづいて、日本的心の基層をつくりあげた。
 天皇の定着も、神道の浸透と足並みを揃えていたと思われる。
 自然崇拝がアニミズムをはらんでいたのであれば、稲作の普及にともなって発生した豊作祈願・穀霊祭がシャーマニズムで、穀霊祭の司祭主がシャーマンとして、人々の畏敬を集めていたであろうことは想像に難くない。
 穀霊祭はのちの新嘗祭で、天皇の権威は、新嘗祭にもとめられる。
 ユーラシア大陸の国々とわが国の成り立ちのちがいは、そこにあって、国家の根幹をなしているのが、わが国の場合、権力ではなく、神威=権威だったのである。
 なんどもふれてきたように、稲作というずばぬけて高い食性をもった食糧が登場してきたため、秩序の基準が、武力の高さではなく、豊作を祈念する霊力のあらたかさに移って、それが国家の原型となった。
 それが祭祀国家=国体で、その頂点に立つのが天皇である。
 鎌倉時代以降、日本は、国体とは別に政体を有し、それが江戸幕府から明治政府にいたって、近代国家となった。
 それが国体と国家の二元論で、国体を有する日本が、世界最古の伝統国家と呼ばれる所以である。
 
 日本国家の原型は、大和朝廷で、豪族たちによる連合政権であった。
 豪族らを国家へむすびつけた集権力が祭祀で、豪族らは太刀をおき、神殿にぬかずいて朝廷への忠誠を誓った。
 その延長線上にあるのが、権威の象徴としての前方後円墳で、豪族らも天皇陵を模して、競って、前方後円墳を造成した。
 権威(国体)が権力(国家)の上に立って、国家が安定したのである。
 これらの事実は、魏志倭人伝につたえられる卑弥呼と壹與のエピソードからうかがえる。
 卑弥呼も壹與も巫女(シャーマン)で、天皇に仕えていたと思われる。
 卑弥呼の墓は奈良県纏向遺跡の箸墓という見方が有力である。
 宮内庁によると箸墓は倭迹迹日百襲媛命の墓である。
 すると、卑弥呼と倭迹迹日百襲媛命は同一人物となって「魏志倭人伝」中の「倭の女王に男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)とある男弟と百襲媛命に援けられた崇神天皇が重なってくる。
 箸墓は日本で最初の巨大な前方後円墳(全長280メートル)で、崇神天皇陵(行燈山古墳)よりも大きい。
 第7代孝霊天皇皇女というだけでは説明のつかない大きさである。
 崇神天皇は、卑弥呼(日巫女=百襲媛命)を立てて、政をおこなったのであろう。
 卑弥呼から壹與、そして崇神天皇へ政権が移っていったのなら、邪馬台国と大和朝廷の連続性が明瞭になる。
 もともと、邪馬台は蔑意をふくんだヤマトの当て字で、元は大和である。
 現在、纒向(奈良県桜井市)が邪馬台国の最有力候補地とされている。
 放射性炭素(C14)年代測定で纒向の遺跡が「西暦135〜230年」に該当するからで、卑弥呼の活動時期と年代が重なるばかりか、一帯(大和盆地東南部の三輪山山麓)には行燈山古墳(崇神天皇陵)、渋谷向山古墳(景行天皇陵)などのほか、外山茶臼山古墳やメスリ山古墳など大和朝廷とゆかりがあると思われる墳墓が並んでいる。
 次回は3世紀半ば以降、日本がどういう経緯で国のかたちをさだめていったのか、考えてみよう。
 ちなみに、この時期は「空白の4世紀」と呼ばれて、中国の史書から倭国の記述がふっつり途絶えている。
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2018年05月23日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」45

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(3)
 日本は、神話とはいえ、紀元前660年を国の肇(はじめ)とする伝統国家で、わが国の国のかたち≠ヘ、古代から、昨年、譲位をきめられた125代今上陛下に至るまで連綿とひきつがれてきた。
 同一の体制(国体)を二千年以上もまもってきたわが国の歴史とりわけ古代史において、天皇を中心として、歴史の節目となる大事件がいくつかあった。
 ■3世紀/卑弥呼が邪馬台国(大和国)の女王に就く
 ■3世紀半ば〜7世紀末頃まで(古墳時代)/前方後円墳がつくられる
 ■3世紀半ば〜4世紀末頃/大和朝廷の勢力が全国規模に拡大
 ■527 筑紫国造磐井の乱
 ■587 蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす(丁未の乱)
 ■604 聖徳太子が一七条の憲法および冠位十二階を制定
 ■645 大化の改新(中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を誅す)
 ■703〜745 皇親政治(天武天皇から聖武天皇の頃まで)
 ■729 藤原四兄弟の陰謀によって長屋王自殺(長屋王の変)
 本稿では、天皇の権力がどこからうまれ、どういう経緯をへて、国家へ組み込まれていったのかというテーマを追ってゆく。
 縄文文化の本質は自然合一で、神なるものも自然のなかにひそんでいる。
 縄文の遺伝子というべき自然霊崇拝(アニミズム)をひきついだのが神道である。
 縄文晩期から弥生時代にかけて稲作が入ってくると、自然崇拝から穀霊祭が派生して、シャーマニズムがうまれた。
 それが大嘗祭の起源で、大嘗祭の祭祀主(シャーマン)が大王である。
 覇者が王となるユーラシア大陸とちがい、わが国では、祭祀王であるシャーマンが大王となった。
 この仕組みは、大和朝廷が豪族の連合政権だったことに深い関連がある。
 豪族らが、大王頂点に立つ統一連合体をもとめたのである。
 群雄割拠して、権力抗争に入っていれば、共倒れになっていたか、永遠に争いがつづいたはずである。
 豪族らが共存をはかったのは、稲作によって、食糧を確保できたからで、かれらは、争うより、共同体をつくって、共存する方法をえらんだ。
 その共同体の長は、軍事力をもった豪族ではなく、稲作の守り神、穀霊祭の大祭司(祭祀主)でなければならなかった。
 共同体の長が豪族であれば、その座を狙って、ふたたび争いがはじまる。
 長が司祭主なら、どんな豪族もその座を奪うことができない。
 こうして、大司祭の下に豪族が大連合する政権ができあがった。
 豪族といえども、すべてが、磐石な基盤をもっているわけではなかった。
 支配地で民の支持が薄い場合も、競合相手に立場を脅かされる場合もあったろう。
 大王は、しばしば、遠方まで行幸におよんだ。
 大王を迎える豪族たちは、これを領内に広く知らしめ、大王との深い関係をアピールした。
 豪族が大王をささえたのではなく、大王が豪族の地盤固めに力を貸し、それが、結果として、大王を中心とした中央集権体制の完成に功を奏したのである。
 こうして、権威の下で、権力が連合する特有の政体ができあがった。
 これが権威(国体)と権力(政体)の二元論の原型である。
 すると、この時期、全国で一斉に前方後円墳がつくられた理由もわかってくる。
 地方の豪族らは、大王の直属であることを証明するために、競って、大和朝廷のシンボルである前方後円墳をつくったのである。

 紀元前に「分れて百余国となる(漢書地理誌)」と記されたわが国が紀元150年に至って大乱に陥った(後漢書他)という。
 二元論的体制が、なんらかの理由で破綻したからであろう。
 そのかん事情をうかがわせるのが魏志倭人伝の記述である。
「倭国で男王の時代に内乱があったので、女王(卑弥呼)を立てた」「卑弥呼の死後、男王が立てられるが内乱となって1000余人が死んだため、卑弥呼の宗女13歳の壹與を王に立て、国は治まった」
 中国の史書に倭国の記述があるのはこのころまでで、西暦266年から413年(空白の4世紀)まで、中国史書から、倭国の記述が消えた。
 したがって、文献から、邪馬台国と大和朝廷の連続性や大和朝廷の発展過程やスケール、全国的に前方後円墳がつくられるようになった経緯や事情を知ることはできない。
 国内にも、なんら明確な論説が存在しない。
 歴史実証主義の立場から、史料が存在しないのでわからないというのだが、遺跡を検討するだけで見えてくるものがある。
 奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡がそれである。
 纏向遺跡は3世紀からはじまる前方後円墳発祥の地で、倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている(宮内庁)箸墓古墳のほか行燈山古墳(崇神天皇)、宝来山古墳(垂仁天皇)、渋谷向山古墳(景行天皇)、佐紀石塚山古墳(成務天皇)などの古墳が分布する。
 崇神天皇が即位した3世紀の中ごろは、卑弥呼の時代であり、崇神天皇期の巫女だった百襲姫命を卑弥呼と同一視する説が有力視されている。
 箸墓古墳も、中国史書などによって、卑弥呼の墓とされる。
『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の墓の大きさ(「径百余歩」)箸墓の後円部(約160m)と一致するばかりか、邪馬台国の時代と古墳時代が時間的につながって(3世紀中ごろ)、卑弥呼の死亡時期と重なる。
遺跡が語るもう一つの問題点は、大和朝廷の黎明期である。
 3世紀からはじまる前方後円墳の建設には、土木技術や計画性、指揮能力や人員動員など、高い文明力が必要だが、それには、数百年にわたる国家的文化蓄積があったはずである。
 仮にそれを500年とすると、紀元前2世紀には、国家ができていたことになって、古代のイメージがこれまでのものと大きく変わってくる。
 次回以降、古代史にひめられた国家と天皇の知られざる真実をみていこう。

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2018年05月14日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」44

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(2)
 縄文時代の自然神崇拝からアニミズム(精霊信仰)やシャーマニズム(精霊交信)が派生した。
 天皇の系譜がそこにあるのは、疑いがないところで、その根本に稲作がある。
 収穫率や栄養価、保存性において、奇跡といっていいほどにすぐれた米穀という自然の恵みは、日本に、祭祀(穀霊祭や祈祷)という文化をうみださずにいなかった。
 古代は、カミとヒトが共存していた時空で、合理性のかけらもない。
 生も死もカミが支配するところで、世界が神秘のベールにつつまれていたのである。
 豊作と凶作が自然神にゆだねられていた古代において、自然神と交信できるシャーマンが、権力者以上の力をもったのは、当然で、たとえ、闘争に勝っても、神の怒りにふれて、凶作や天災に見舞われては、どんな権力者も、滅びるしかなかった。
 権力のほかに権威が生じて、支配構造が覇者(軍事力)と祭祀王(天皇)の2系統となった。
 これが天皇の国=日本の最大の特性で、権力構造が、権力(政治)と権威(文化)の二重構造になっている。
 もっとも、権威と権力は、はじめからの二元論の形式をとっていたわけではなく、長い歳月をかけて、分離していった。
 天皇が権威と権力の両方をもった時代と、臣下たる豪族の長が天皇をしのぐ力をもった時代が交錯して、それが、第10代崇神天皇の大和朝廷黎明期から聖徳太子、大化の改新、壬申の乱をへて、皇親政治の第40代天武天皇、皇親政治から藤原氏の摂関政治へきりかわる第42代文武天皇、第45代聖武天皇まで延々とつづく。
 皇親政治が終焉したのは、長屋王(天武天皇の孫)が、藤原四兄弟の謀略にかかって倒れたからだった。
 長屋王は、藤原不比等の娘で、文武天皇の夫人宮子、聖武天皇の皇后光明の皇位への接近に反対して、藤原四兄弟の恨みを買ったのである。

 支配構造が覇者(権力)と祭祀王(権威)の2系統に分離された例は世界に例がない。
 権力と権威の分離は、政治と文化、男性(武力)と女性(巫女)の分離でもあって、西洋では権力の所有物にすぎなかった女性が、日本では、支配構造の一角を占める。
 卑弥呼や壱与、第7代孝霊天皇の皇女で第10代崇神天皇を補佐したモモソヒメ(百襲姫命)、第15代応神天皇の生母で三韓征伐の神功皇后など古代日本では、女性が神秘的な力を有する権力あるいは権威として、敬われていた。
 権力が男性由来なら、天皇の権威は、女性(巫女)由来といえる。
 一神教(ユダヤ・キリスト教・イスラム教)の絶対神(ヤハウェ)は男性であるが、自然崇拝(多神教/神道)の最高神格は女性(天照大御神)である。
 天照大御神を皇祖神とするのが天皇で、伊勢神宮や賀茂神社に、巫女として奉仕される天皇の皇女(内親王)が斎王または斎皇女である。
 天皇と巫女は、もともと、密接な関係にあって、崇神天皇と卑弥呼の関係がそれにあたる。
 天皇は、巫女あるいは巫女的な力を借りて祭祀をおこなうが、天皇の地位は男系相続である。
 女性が天皇になれないのは、血統の継承ができないからである。
 女性の遺伝子はXXで、男性の遺伝子はXYである。
 女系では、Y遺伝子が介在しないので、祖先が特定できない。
 藤原不比等の娘である文武天皇の夫人宮子、聖武天皇の皇后、光明子は神武天皇のY遺伝子を引き継いでいないので、その子が皇位を継ぐと、天皇の祖が宮子や光明子の夫の系統へ移ってしまう。
 長屋王と藤原四兄弟の確執はそこにあって、皇統をまもろうとした長屋王にたいして、藤原四兄弟は、藤原天皇を望んだのである。
 長屋王の死後、藤原四兄弟は、全員、天然痘にかかって死んでしまう。
 長屋王の祟りと噂されたもので、聖武天皇も、恭仁京、難波京、紫香楽宮と遷都をくり返して、長屋王の祟りから逃れようとした。

 神武天皇が即位したとされる紀元前660年は、考古学的には、弥生時代のはじめにあたるが、遺跡も史料もないので、神話の世界である。
 神話もりっぱな歴史で、建国が神話ではない国は、近代になって建国された革命国家以外、一つもない。
 炭素年代にもとづく縄文・弥生時代の年代検証によって、弥生時代の開始が500年さかのぼって、紀元前10世紀前後ということになった。
 紀元前660年なら、すでに水田稲作がはじまり、集落が発展していたはずで、衣食住も、これまでの常識から500年進歩させてよい。
 皇国史観と時代考証が近づいてくるが、そのことは、さして重要ではない。
 歴史は、その歴史を信じてきた人々の歴史でもあるので、神話や皇国史観をうけいれつつ、そこに、合理的な歴史観をかぶせていって、はじめて、本当の歴史がみえてくる。
 注目されるのが日本書紀(崇神紀)に「はつくにしらすすめらみこと(御肇国天皇/初めて国を治めた天皇)」と記されている第10代崇神天皇である。
 日本書紀(神武紀)では、この読み呼称(始馭天下之天皇)が神武天皇にも使用されている。
 それが実史と神話の読みわけで、紀元前660年の神武天皇即位と崇神天皇による大和朝廷の全国展開(四道将軍)は、いわば、歴史の裏と表なのである。
 そこで、クローズアップされるのが、邪馬台国と大和朝廷、とりわけ、崇神天皇と卑弥呼の関係である。
 次回は、邪馬台国の都に比定する説が有力視されている奈良県三輪山近くの纏向遺跡を中心に古代国家のすがたを探っていこう。
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2018年05月07日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」43

 ●天皇と国家「古代史のなかのオオキミ」(1)
 古代史は、記録(文字)が残っていないので、伝承や遺跡などから想像力をはたらかせるほかない。
 その意味で、古代史は、歴史というよりおとぎ話で、神話の延長線上にあるといってよい。
 民族の遺伝子的な記憶をさかのぼって、歴史をつくったわけで、その傑作が皇紀2600年の皇国史観だった。
 戦後、左翼や日教組、マスコミが、皇国史観を悪の権化としたのは、筋違いで、否定するなら、皇国史観ではなく、皇国史観を利用した軍部や軍国主義であろう。
 皇国史観は日本民族の文化であって、権力のプロパガンダでも、政治イデオロギーでもないからである。
 文献にもとづくのが歴史学、遺跡にもとづくのが考古学なら、戦後、日本の歴史学が手がかりとなったのが中国の史書(漢書地理志/後漢書東夷伝/魏志倭人伝)だった。
 八世紀のはじめに完成した記紀(古事記・日本書紀)は、伝承なので歴史学の範疇から外れるだろうが、中国の史書も、多くが伝聞で、どこまで信用できるか保証のかぎりではない。
 ■「漢書」地理志(1世紀に書かれた中国の歴史書)
 描かれている日本の時代/紀元前1世紀(日本にかんする最古の史料)。そのころ倭国が100あまりの小さな国に分かれていたと記されている。
 ■「後漢書」東夷伝(5世紀に書かれた中国の歴史書)
 描かれている日本の時代/57年(奴国の王が光武帝から金印が与えられた/その金印が江戸時代に福岡県の志賀島で発見された)107年(倭国の王が後漢に奴隷を贈った)147〜189年(倭国に戦いが多かった)
 ■「魏志」倭人伝(3世紀に書かれた「三国志」の一つ)
 描かれている日本の時代/3世紀ごろ(倭国の様子や習俗、地理や産物、習慣などについて書かれている)。邪馬台国の位置をめぐって、畿内説と九州説が対立してきた。女王卑弥呼が30余の国々をしたがえ統一国家(邪馬台国)をつくったと記されている。

 後漢書から2〜3世紀の倭国に争いが多かった(倭國大亂)ことがわかる。紀元前1世紀に「分かれて百余国を為す(漢書地理志)」とされる倭国は、大乱の時代(147〜189年)を経て、卑弥呼と壱与の邪馬台国に至って安定するまで、戦乱の渦中にあったのである。
 戦乱の原因は、農耕(稲作)社会と集落の成立であった。
 備蓄された余剰生産物をめぐって、武器をもった人々や防御的施設を備えた集落が争い、または統合されて、より大きな政治的な集落(クニ)へ発展していったのである。
 縄文晩期から弥生時代初期にかけて、日本列島で、人類史上、劇的な変化が生じたのは、一粒の種籾が一年で2000粒、2年で400万粒にふえる高い繁殖力の稲作が開始されたからである。
 採集・狩猟よりはるかに食効率が高く、なによりも「余剰」を生み出す稲作が、定住と人口の増加、備蓄と相俟って、社会の原型というべきものをつくりあげたのである。

 ここで、ふしぎなことがおこる。
 2〜3世紀まで闘争をくりひろげてきた倭国が、突如、争いをやめて、統一へむかい、一斉に、ヤマト朝廷への服従を意味する前方後円墳をつくりはじめるのである。
 これが古代史最大の謎で、たたかわずに成立した大和朝廷と、ピラミッドと並ぶ巨大遺跡の前方後円墳が大量につくられたことについて、なにもわかっていない。
 もう一つの大きな謎は天皇で、ヤマト朝廷を統一した天皇について、いまだに、定説が存在しない。
 中国の3史書もそのことにふれていない。
 卑弥呼の死後(248年)、13歳で女王になった卑弥呼の宗女壱与が洛陽に使いを送ったとされる266年以後、約150年間わたって中国の歴史書から倭国にかんする記載が消えた。
 これが「空白の4世紀」である。
 中国の史書がなければ、日本の古代史は暗闇にのまれるのである。
 中国が、晋の滅亡後、南北朝の分裂期にはいってしまったからだが、日本のほうも、国内の統一や建設、治世に精一杯で、外交に手がまわらなかった。
 その4世紀におきたのが、大和朝廷の発展と前方後円墳の建設だった。
 歴史学的にも考古学的にも、大和朝廷と前方後円墳は、大きな謎で、それが天皇とどのようにかかわるのか、そのことにふれた学説も論文も存在しない。
 天皇が穀霊祭(のちの大嘗祭)の祭祀王だったことに思い至れば、その謎が解ける。
 稲作社会は、天候不順や天災によって、集落の全員が飢え死にするリスクを負った社会で、稲作のゆたかさは飢餓の恐怖と背中合わせになっていた。
 天候不順や天災を避けるには、神とつうじる天皇もしくは巫女の祈念に頼るほかなかった。
 古代社会は、神霊に支配された非合理の世界で、当時、米の不作にたいする恐怖から、人々が、シャーマンとしての天皇を敬ったのは、卑弥呼の例をみるまでもない。
 自然崇拝と穀霊への敬い、それが神道の根本で、天皇への畏敬も、そこにある。
 次回以降、卑弥呼の邪馬台国から大和朝廷へつながる天皇の系譜へ目をむけよう。
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2018年04月27日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」42

 ●天皇と国家「勅と法」(13)
 歴史も国家も、合理と非合理の両面からできている。
 理屈で割り切れるものと、理屈どおりにいかぬものが混じりあい、あるいは交互にあらわれて、歴史や国家、世界をつくりあげているのである。
 国家における権威と権力、社会におけるカネと文化の関係がそれで、モノやコトは、その一方で、目に見えない神秘的でふしぎなるものとバランスをとりあっている。
 古代社会や中世の封建制のみならず、現代の社会体制および社会全般においてすら、理屈と理屈で割り切れぬものが、ひろく、深く根を下ろしている。
 初詣や七五三詣、地鎮祭やお祓い、行事や儀式から親子や男女、社会生活における習俗まで、人間や社会を支配しているのは、理屈をこえた、ふしぎなるもので、世界が理にかなったことだけからできているなどというのは、とんだカンちがいである。
「天皇の男系相続には合理的理由や論理的必然がない」といってのけた山尾志桜里は、先の衆院選(愛知7区/無所属)で当選後、ダブル不倫疑惑を報じられた倉持麟太郎弁護士を堂々と政策顧問に起用した。
 それが「合理的理由や論理的必然」のゆきつくところで、常識や恥の意識という社会通念を欠いたガチガチの唯物論なのである。
 共産主義をうんだ唯物論はとっくに滅びたが、日本では、合理主義や論理的思考として、いまなお、左翼や反日主義者の最大の武器になっている。
 共産主義が滅びたのは、心というふしぎなるものを捨てたからで、唯物論が大手をふっているのは、中・朝の共産党国家と日本共産党、日本の左翼アカデミズムだけである。
 日本共産党は「一つの家系(皇室)が日本を象徴する制度が未来永劫つづくのは不合理(日本共産党小池晃書記局長)」という立場に立っている。
 綱領で「日米同盟破棄」「自衛隊廃止」を謳うのと同じレベルの話で、合理や論理を立ててゆくと、現実を見失い、やがて、迷妄の世界へ落ちこんでゆくのである。

 現実が、合理や論理をこえていることを理解しておかなければ、唯物史観や歴史実証主義に陥って、現実や生きた歴史が見えなくなる。
 生きた歴史というのは、歴史の連続性のことだが、歴史学会や法曹界など日本のインテリは根こそぎ左翼で、小泉政権下の「皇室典範に関する有識者会議」の吉川弘文座長(元東大総長)は、誇らしげに歴史の断絶を宣言した。
 いうまでもないが、天皇は歴史的存在で、万世一系は、歴史の連続性と一体である。
 ところが、古代史をみても、天皇中心の国のかたちが見えてこない。
 歴史学者が唯物史観や歴史実証主義に立っているからで、合理や論理をとおして歴史を見ているのである。
 戦後、歴史書から天皇が消え、日本史は、日教組仕込みの唯物史観になった。
 皇国史観が悪の権化になったからだが、天皇は、国家においても歴史においても、合理をこえた最大のふしぎであって、天皇を抜きに日本の歴史を読み解くことはできない。

古代は、原始古代(紀元前)から大和朝廷時代、奈良、武士が台頭してくる平安時代後期(1100年頃)までをさす。
 そのなかから、この国の成り立ちや天皇のすがたを浮き彫りにする出来事を書き出してみよう。
 
 BC 660 神武天皇が橿原宮で即位
 BC 581〜98 欠史八代
 BC 100 楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為る(漢書地理志)
 150 日本で大乱(後漢書他)
 239 邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送る(三国志魏志倭人伝)
 248 卑弥呼が死、壱与が女王に(三国志魏志倭人伝)
 527 筑紫国造磐井の乱
 587 蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす(丁未の乱)
 593 聖徳太子が推古天皇の摂政に
 604 一七条の憲法制定
     一条 以和為貴 和を以って貴しとなし
     三条 承詔必謹 詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め
 607 隋の煬帝へ「日いずる処の天子」(小野妹子・遣隋使)隋書
     日出る処の天子 書を 日没する処の天子に致す 恙なきや
 608 遣隋使「東の天皇 敬しみて 西の皇帝に白す」
 645 大化の改新(中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺す)
 663 白村江の戦い 朝鮮半島から撤退
 672 天智天皇の弟大海人皇子(天武天皇)が大友皇子を倒す(壬申の乱) 
 701 大宝律令がつくられる
 703〜745 皇親政治(天武天皇から聖武天皇の頃まで)
 720 長屋王政権 藤原不比等が薨去。
 729 藤原四兄弟の陰謀によって長屋王自殺(長屋王の変)
 866 藤原良房が摂政、藤原基経が関白となる
     摂関政治がはじまる
1016 藤原道長が摂政となる
     摂関政治の全盛期
1086 白河上皇が院政を開始
     武士の台頭

 次回以降、この古代略史にそって、天皇のすがたに迫ってゆく。
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2018年04月19日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」41

 ●天皇と国家「勅と法」(12)
 士族の反乱は、秩禄処分や征韓論をめぐる内紛だけが原因ではなかった。
 徴兵令(1873年)や廃刀令(1876年)などで士族の特権を根こそぎ奪われた武士が反革命ののろしをあげたのである。
 そこから、士族・武士が主人公ではなかった明治維新の性格がみえてくる。
 明治維新には市民革命の要素が大きい。
 市民にあたるのが、薩長土肥の足軽・中間以下で、イデオロギーにあたるのが文明開化やヨーロッパ化である。
 維新の志士たちが身分や幕藩体制をあっさり捨てたのは、伝統や体制の守護者ではなく、百姓上がりの雑兵だったからである。
 その象徴が明治政府軍(官軍)と会津藩・奥羽越列藩同盟・徳川旧幕府軍がたたかった会津戦争で、薩長土肥の官軍が残虐のかぎりをつくしたのは、官軍兵士が、士族にあらざる中間や百姓(兵)ばかりだったからである。
 戊辰戦争では、結局、千年の伝統をまもってきた武士は、幕府や藩とともに打倒される。
 勝ったのは、天皇を担いだ薩長土肥の雑兵で、天皇を奪われた武士は、幕府や藩ともども、明治維新という新体制の外へ放り出された。
 不平士族の反乱は、佐賀の乱につづいて、熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱、山口で前原一誠らによる萩の乱などがつづき、1877年には西郷隆盛を慕う私学校の乱、最大規模の内戦となった西南戦争がおこる。
 西南戦争では、政府軍が、兵数や装備、兵站などで西郷軍を圧倒していたにもかかわらず、西郷軍と同等の戦死者数、戦傷者数を出した。
 武士としての熟練度が低かったためである。
 熊本城に篭城せず、京をめざしていれば、途中、武士の大量参戦がみこめただけに、反革命クーデターが成功していた可能性が大きかった。
 西郷が京をめざさなかったのは、東征が天皇への反抗となるからだった。
 天皇を担いだ薩長明治政府の戦略が、結果として、功を奏したのである。
 士族の反乱が平定されたことで、明治維新後の日本は、武士の国から平民の国へとうまれかわって、近代化・ヨーロッパ化のみちをひた走る。
 西南戦争は、皮肉にも、薩長土肥出身者による藩閥を生み、日本のその後の富国強兵政策の礎になったのである。

 明治維新によって、権威としての天皇は失墜して、権力へとりこまれる。
 権力をにぎったのが、それまで、権力に近づいたことのなかった足軽以下の下層階級だった。
 天皇をとりこまなければ、とうてい、天下へ号令をかけることなどできない。
 明治新政府にとって、尊皇も攘夷も、口先だけで、頭にあったのは、天皇の政治利用だけだった。
 尊皇も攘夷も、朱子学や水戸学、国学にもとづく上級武士のもので、真の尊皇家が徳川慶喜なら、真の攘夷思想家は孝明天皇だった。
 尊皇や攘夷思想は、文化で、教養や品格、身分に宿る。
 一方、文明は、権力や冨、物質主義などの唯物論で、無教養で下品、身分の低い者は、先を争って、これに走る。
 それが、文明開化やヨーロッパ化、華族制度や鹿鳴館風俗、帝国主義や軍国主義で、それが災いして、日本は、百年もしないうち、1945年の国体の危機を招く。
 天皇を国家元首に立てる帝国主義においては、天皇が戦争責任を負わざるをえず、事実、日本は、敗戦よって、国体解体の危機にさらされた。
 この危機を救ったのが日本国民だった。
 終戦直後の1946年、新聞各社の協力の下で日本輿論研究所がおこなった「天皇制」のアンケート調査で、95%が「支持」と回答(支持3174票/支持しない174票)した。
 このアンケート結果に驚いたのが、GHQとりわけマッカーサー元帥だった。
 欧米の常識では、戦争に負けた場合、戦争責任者は、国外へ追放されないまでも、国民の支持を失って、失脚する。
 マッカーサーは、このとき、日本統治を成功させるカギが天皇にあると気づき、極東委員会(GHQの上部機関)がもとめる天皇処罰論を退ける一方、憲法で象徴天皇を打ち出して、極東委員会を沈黙させた。

 天皇への支持率95パーセントのなかに天皇の本質がある。
 天皇が権力者や宗教的権威であったら、95パーセントの支持率などありえない。
 まして、終戦直後で、日本人の多くが、肉親や家屋、財産を失い、食糧難に苦しんでいた。
 それでもなお、日本人のほぼ全員が天皇に敬愛の意を表し、驚くべきことに1946年から1954年までつづいた昭和天皇の巡幸中、一度も不敬事件がおきなかった。
 この奇跡のような事実を合理や論理で説明することはできない。
 日本人は、有史以前から、天皇という不可思議なる存在を、合理や論理で切り刻むことなく、ありがたいもの、かたじけないものとして、大事にしてきた。
 お伊勢参りをした西行は、その神々しさに胸を打たれて、こう詠んだ。
 なにごとの おはしますか 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
 それが日本人の民族の心である。
 元検察官で立憲民主党所属の衆議院議員、山尾志桜里はかつて「天皇の男系相続には合理的理由や論理的必然がない」とのべ立てた。
 天皇への敬愛心は、非合理や非論理・無論理そのものである。
 人生も、芸術やインスピレーション、愛や信仰、神話などの不可思議なものにつつまれている。
 合理的理由や論理的必然などで説明がつくものは、ただの唯物論で、つまらないものと相場がきまっている。
 それが明治維新のヨーロッパ化政策で、鹿鳴館時代、浮世絵などの伝統的な文化遺産の多くが海外へ流失した。
 海外の文明に比べて、日本の文化は拙く貧弱という民族的コンプレックスがはびったのである。
 次回は、日本が、歴史上、政治(合理)と文化(非合理)の折り合いをどうつけてきたのかみていこう。
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2018年04月12日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」40

 ●天皇と国家「勅と法」(11)
 明治維新は、複雑な経緯をたどった政変で、いまなお歴史的評価が定まっていない。
 江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が明治天皇に政権を返上して大政奉還(1867年)が成ったところで維新の目的は達成されたはずで、鳥羽・伏見の戦い(1868年)の引き金になった旧幕府勢力への強権圧迫は、まったく必要がなかった。
 まして、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟への常軌を逸した弾圧は、維新の本筋から逸脱しており、戊辰戦争にいたっては長州征伐の事実上の復讐でしかなかった。
 維新運動は、朝廷(公)の伝統的権威と幕府および諸藩(武)の世俗的権力をむすびつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとする公武合体論が主流だった。
 それで明治維新が決着していれば、日本の近代化はまったくちがった道筋をたどっていたろう。
 1、武家政治がひきつがれた
 2、ヨーロッパ化(鹿鳴館・身分制度・帝国主義)のみちをたどらなかった
 3、天皇の政治利用(元首・明治憲法)はありえなかった
 ところが、歴史の歯車は、公武合体論に与しなかった。
 幕府信任の信念を変えなかった孝明天皇の崩御にともなって、薩長や公家の倒幕派が台頭、徳川慶喜の新政権参加が葬られると、公武合体論は政治生命を失い、以後、明治維新は、薩長土肥による討幕運動へつきすすんでゆく。
 主役は、孝明天皇暗殺の下手人とささやかれた岩倉具視で、薩摩・長州への「討幕の密勅」を工作するにいたって、明治維新は、政変から謀略へとすがたをかえてゆく。

 明治維新が政変から革命へと変容したのは、薩長らの下級武士が天下取りに走ったからで、その口実になったのが、尊皇攘夷だった。
 天皇を尊び、外敵を斥けようという尊皇攘夷は、水戸学や国学に影響を受けた維新期の政治スローガンで、公武合体と対立する。
 公武合体で、幕府と朝廷がむすべば、京都や江戸から遠く離れた薩長土肥の出番がなくなる。
 まして、同藩下級武士ともなれば、天下とりなど思いもおよばない。
 薩長の下級武士が尊皇攘夷を叫んだのは、公武合体をつぶす方便で、かれらの目的は倒幕だった。
 薩長土肥の下級武士が尊皇攘夷という政治スローガンを背負って台頭、これが明治維新のエネルギーとなったのは、天皇を立て、みずからを天皇の軍隊(官軍)と名乗る以外、江戸三百藩の大名とその家臣団を統率する方法がなかったからだった。
 この階級闘争が成功して、藩を廃止して廃藩置県(1871年)まで改革が一気にすすんだのは、薩長の下級武士が天皇をとったからで、幕府との抗争では「タマ(天皇)をとれ」が薩長の合言葉だった。
 下級武士といっても足軽以下で、西郷や大久保はかろうじて武士(御小姓与)だったものの、伊藤博文と山県有朋は武士にあらざる小物(中間)で、維新の志士のなかで上級武士は一人もいなかった。
 その意味で、明治維新は、非士族(足軽以下)が士族(藩士・幕臣)を排除して権力をにぎった階級闘争(=革命)といってよいだろう。

 明治維新の要諦は、尊皇攘夷から一転して、ヨーロッパ化で、筆頭に挙げられるのがヨーロッパ王政を真似た王政復古だった。
 日本には、皇親政治の第40代天武天皇(673〜686年)と建武の新政の第96後醍醐天皇(1318〜1339年)以外、王政の伝統はない。
 日本の皇室は、明治維新期につくりかえられたものだったのである。
 明治政府がとった文明開化路線、殖産興業政策による西洋技術・文化の輸入は、西洋の産業革命の移入でもあって、日本は、1893年(明治26年)に国産の国産機関車(860形)を完成させる。
 日本が産業革命の成果をうけいれることができたのは、江戸時代の文明度がそれだけ高かったからで、世界史をながめても、異文化をこれほどスムースに受容したケースはまれである。
 明治政府は、廃藩置県につづいて、矢継ぎ早に革命的な政策をうちだす。
 大名・武士階級の廃止から四民(士農工商)平等や華族(公卿や大名)士族(旧幕臣・旧藩士)の身分制度などだが、いずれもヨーロッパの真似で、これが鹿鳴館文化や皇室の西洋化などの西洋コンプレックスへつながってゆく。
 制度改革のきわめつけは、江戸時代まで武士がもらっていた家禄(秩禄)を廃止した秩禄処分で、一時金(金禄公債)はえたものの、以後、武士の大半が経済的に没落してゆく。
 秩禄処分は、支配層が無抵抗のまま既得権を失ったという点で、世界史的に稀有な例で、天皇を政権にとりこんだ明治政府がいかに強力な権力構造だったかわかる。
 そのゆがみが一気に噴出したのが不平士族の反乱だった。
 次回は、士族の反乱から鹿鳴館文化、そして帝国主義へむかった天皇軍国主義への道筋をみていこう。
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2018年04月04日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」39

●天皇と国家「勅と法」(10)
 天皇は、戦後、憲法上の存在となった。
 そこに、三島由紀夫の憤怒と絶望があった。
「自衛隊は憲法をまもる存在になったのか」
 自衛隊市ヶ谷駐屯地の三島の雄叫びは、新憲法で育った戦後生まれの日本人にはピンとこないかもしれない。
 げんに、市ヶ谷の三島の演説は、自衛隊員の野次と怒号で掻き消された。
 戦後、左翼が中心になってすすめ、保守が迎合した「憲法は新しい国体」という思潮のなかで、大方の日本人、自衛隊員さえ、戦勝国から投げ与えられた属国憲法を金科玉条としてきた。
 三島は、自衛隊にこう檄をとばした。
「オレは自衛隊が怒るのを待っていた。だが、もはや、憲法改正のチャンスはない! 自衛隊が国軍になる日はない! 建軍の本義はない! それをオレは嘆いている。自衛隊にとって建軍の本義とはなんだ。日本を守ることだ。日本を守るとはなんだ。日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることだ。(略)自衛隊がたちあがらなければ、憲法改正ってものはないのだ。諸君は永久にアメリカの軍隊になってしまうのだぞ」
 現在、天皇も自衛隊も、憲法に規定される法的存在でしかない。
 憲法をもって国家を規制するのが共和主義である。
 革命をとおして伝統国家から共和(共産)制国家へと移行する。
 共和主義は、民主主義にもとづいて、君主制を廃止することである。
 このとき、歴史や伝統、習俗など、民族の文化が破棄される。
 三島にとって、憲法は、属国憲法である以上に、革命綱領であって、国体の破壊者でもあった。

 自衛隊が憲法違反というなら憲法を破棄すればよい。
 憲法は、もともと、共和制国家のもので、伝統国家には必要がない。
 共和制国家の支配構造は、憲法と大統領、議会の三つで、この三者が、民主主義(普通選挙法/議会の多数決)の原則にのっとって、国家を運営する。
 共和制国家における憲法の役割は、大統領の権限を制限することで、国家のありようを定めているわけではない。
 憲法は、いわばガードレールで、大きすぎる権力をもった大統領という車が道路からはみださないように見張っている。
 日教組教育をうけた者のなかには、憲法が、国家の監視役であるかのようにいう者がいるが、おおまちがいである。
 そんな理屈が通用するのは、憲法が、戦勝国が敗戦国を永続的に隷属させる占領法であるかぎりにおいてで、日本は、占領基本法を憲法として奉っている世界に稀有な国家なのである。
 伝統国家には、大統領は不要で、憲法も必要がない。
 歴史の英知や民族の知恵、伝統や習慣、独自の価値観、経験則など憲法とは比べようもないほどの文化をもっているからで、この歴史的規範が憲法をこえるのはいうまでもない。
 日本が憲法をもったのは、明治政府が樹立されてから22年後の1889年のことで、国内政治が一段落して、目を海外へむけた時期にあたる。
 日英通商航海条約と日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)、朝鮮併合(1910年)と、日本は西洋型の帝国主義をのみちをすすみはじめる。
 日本の憲法(大日本帝国憲法)は、ヨーロッパ化政策と天皇の政治的利用を目的にしたもので、モデルになったのが、主権者たる国王が国政に裁可権限を有するドイツのプロイセン憲法だった。
 プロイセン憲法において、国王は、権力者だった。
 プロイセン憲法の導入によって、文化概念としての天皇が政治概念としての天皇にきりかえられて、日本は、事実上、国体を失った。
 日本は、独自の文明をもった誇り高き伝統国家であって、列強を真似た帝国主義国家ではなかったからである。
 プロイセン王国は、第1次世界大戦の敗北によって滅びた。
 日本も、敗戦によって、第二のプロイセン王国になるところだったが、これを救ったのが、皮肉にも、日本国憲法の提唱者だったマッカーサーだった。

 日本国憲法が占領基本法だった以上、国家主権の否定や武装解除(憲法9条)、「天皇・摂政・公務員の憲法尊重擁護義務(憲法99条)」は当然だったろう。
 問題は、講和成立後、GHQが日本から撤退したあと、占領基本法の性格をもつ憲法を廃棄しなかったことである。
 戦後、勢力をもった社会主義・革命勢力(社会党・共産党・労組)が、日本の弱体化を企図したGHQ憲法を逆手にとって、憲法擁護を革命の戦略とした。
 共和主義を謳う現憲法下においては、議会内闘争をとおして、革命の実現が可能となるからである。
 革命は、憲法を停止させて、人民政府をつくることだが、現在の日本の状況では、憲法をまもることによって、左翼革命もしくは中国への属国化が容易に実現する。
 日本防衛の法的根拠は、日米安保条約と国連憲章、国際法や自然法であって、憲法には依拠していない。
 憲法には「敵が攻めてきたら白旗を掲げろ」としか書かれていないからである。
 革命の道具=民主主義だけが正義の現在の日本では、国体・国家の屋台骨はきわめてもろい。
 だから三島は自衛隊に憲法停止≠フ武装蜂起をうったえたのだった。
 日本には、国家反逆罪もスパイ防止法も、不敬罪もない。
 日本人の脳みそには「民主主義=正義」という方程式がインプリントされており、それは、皇室も例外ではない。
 今上天皇につづいて次期天皇(徳仁親王)も憲法擁護を口にされる可能性が高い。
 安倍首相は、憲法九条の維持をうったえている。
 そうなると、国体および国家がじりじりと共和制へ接近してゆきかねない。
 憲法をまもることが国体・国家の否定につながるジレンマに気づいていないのである。
 憲法や民主主義、近代主義や西洋合理主義などの相対的な価値観で、文化や歴史、伝統という絶対的な価値をまもることはできない。
 アメリカ民主主義は世界一の軍事力に支えられ、中・ロ・英・仏はむろんのこと北朝鮮も、軍事力が体制維持の主柱になっている。
 文化(菊)をまもるのは力(刀)で、それが、歴史の鉄則である。
 次回は、危機状態にある国体・国家防衛について、思うところをのべよう。

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2018年03月28日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」38

 ●天皇と国家「勅と法」(9)
 天皇が文化で、ヨーロッパの王が権力なのは、いうまでもない。
 ヨーロッパで王政が文化になりえなかったのは、そもそも、ヨーロッパには文化の土壌がなかったからだった。
 中世ヨーロッパでは、ペスト(黒死病)やコレラ、天然痘などの疫病が猛威をふるい、人々は、生きのびることだけに必死で、文化へ目をむける余裕などなかった。
 疫病が流行したのは、不潔で、貧しく、公共心がなかったからだった。
 上水道・下水道がなく、市街地は、人々が投げ捨てる糞尿まみれで、ペスト菌の媒介者であるネズミが、人間の数よりはるかに多かった。
 やせた土地から採れるのは小麦やブドウだけとあって、勢い、肉食に頼ったが、家畜との共存は、かれらの生活をますます不衛生にした。
 当時、死因の上位にあったのが、産褥熱などの感染症で、衛生観念はないにひとしかった。
 ヨーロッパの宣教師が、日本で、庶民が絵画や花を飾った清潔な家に住んでいるのを見て、度肝をぬかれたという。
 家畜とともに不潔な家屋に住み、生きてゆくのに精一杯だったヨーロッパでは、部屋に絵画や花を飾るなどの文化的な行為は、思いもおよばなかったのである。
 くわえて、宗教的迷信が根深く、魔女狩りで、百万人近い女性が処刑されたばかりか、その数倍、数十倍にのぼる人々が、異端裁判や宗教戦争などで命を奪われた。
 産業革命(18〜19世紀)前のヨーロッパは、文化面や衛生面で日本よりもはるかに後進的だったのである。

 ところが、産業革命以後、ヨーロッパは文明のみちを切り拓き、日欧の関係が逆転する。
 日本は、開国後(19世紀後半)、ヨーロッパから文物を輸入して、近代化へ走る。
 江戸時代まで、独創的だった日本文明が、近代化以後、鹿鳴館文化や帝国主義など西洋のコピーへ傾いていったのは、薩長の田舎侍が西洋を真似たからだが、ヨーロッパの近代は、革命の時代でもあって、日本が建国のモデルにしてよい国はどこにもなかった。
 先進国はむろんのこと、世界でも、伝統国家としての歴史と形態を維持しているのは、日本だけである。
 理由は、文化・経済の両面でゆたかだっただけではなかった。
 君民一体の下で、当時、世界に類がなかった平等という観念がゆきわたっていたからだった。
 宗教も、個人救済ではなく、国家護持で、ヨーロッパの世界観・宗教観とは大きくかけはなれていた。
 そこに、日本で、革命や宗教戦争がおきなかった理由がある。
 ヨーロッパでは、戦争に負けると、民が奴隷として売買され、教会の教えにそむくと死刑に処される。
 ペストやコレラ、食糧難をのりこえたところで、民に救いはなかった。
 権力者ににらみをきかせる民の味方、天皇という文化的存在がなかったからである。
 革命のエネルギーは、怨念や復讐心といってよい。
 フランス革命やロシア革命では、王族や貴族の皆殺しが何年にもわたって延々とつづき、中国の文化大革命やカンボジアのポルポト革命では、知識人や教養人というだけで、何百万、何千万の善良な人々が虐殺された。
 すべて、文化と権威が不毛だったことが原因で、文化と権威をもたない種族は、非戦闘員に原爆を投下したアメリカ人のように、どこまでも残酷になれるのである。

 三島由紀夫の『文化防衛論』がまもろうとしているのは、文化概念としての天皇である。
 国家をつくりあげているのは、文化と歴史、権威で、その象徴が天皇である。
 日本という国家の本質は文化にあって、その文化(菊)は、刀によってまもられなければならない。
 三島由紀夫は、日本の独自の文化をまもってきたものを、『菊と刀』になぞらえて、刀という。
 国家をまもることは、文化をまもることだが、文化をまもることは難しい。
 文化は、大砲や文化侵略、伝統破壊にたいして無力で、革命にはひとたまりもないからである。
 日本が他国侵略(元寇など)や宗教侵略(天草四郎の乱など)を防ぐことができたのは、文化の力ではなく、刀という、ときには、みずからの命さえ絶つ「力の論理」であった。
 外国人が、なによりも恐れたのは、武士の刀だった。
 刀は武士の誇りでもあって、武士の誇りを傷つけるとその場で斬殺されかねなかった。
 まして、軍靴で帝(みかど)の地を侵略すれば、武士がいっせいに抜刀して襲いかかってくる。
 日本侵略など、とうてい、思いおよばなかったのである。
 天皇をまもるのは、法でも弁論でも、正義でも真実でもない。
 ただ一つ、刀であって、それが文化防衛論の要諦だった。
 次回以降、タブーを破って、「刀と文化防衛」へと議論をふかめていこう。
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2018年03月20日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」37

 ●天皇と国家「勅と法」(8)
 天皇の本質は、権威と権力、政体と国体、政治と文化などの二元論にあるといってよいだろう。
 天皇は権力をもたず、権力(政府)は、権威(天皇)を敬うという二元性がはたらくのが国家本来のすがたで、それが伝統国家である。
 国家は、現在という空間軸と、歴史という時間軸からできている。
 権力やカネ、法などのヨコ軸と、歴史や伝統、文化などのタテ軸が交差するところに用意されているのが天皇の地位で、天皇は中今(現在)の存在であると同時に、歴史的存在(皇祖皇宗)でもある。
 聖俗も二元論である。
 国家も人間も、理屈でわりきれる俗なる合理性と、理屈が通用しない聖なる非合理性をあわせもつことによって、はじめて、奥行きのある国家観や人格ができあがる。
 イエス・ノーを保留するあいまいさ、どちらでもよいという両立性も二元論といえるだろう。
 答えが一つしかない一元論では、イエスかノーしかないので、永遠に争いがつづく。
 棲み分けや共存、共栄の論理がなりたっている二元論・多元論の世界では、国家を転覆させるような内乱や革命がおきない。
 革命や民主主義は、一元論の世界のものだったのである。
 一元論が破綻するのは、世界や自然、歴史が多元的にできているからで、人間が頭のなかでひねくりまわす一元論は、じつは、どこにも存在しない妄想でしかない。
 西洋の宗教戦争や領土戦争、市民革命、海外侵略、帝国主義が凄惨だったのは、一元論に立っていたからで、一元論の世界観では、従わないものはすべて敵で、殲滅しなければならない。

 それが西洋の近代合理主義というもので、歴史というタテ軸が断たれている。
 戦後、アメリカから、近代合理主義が怒涛のようにおしよせてきて、日本的価値観が隅におしやられた。
 日本的価値観というのは、伝統のことで、戦後日本は、アメリカ民主主義一辺倒の国となった。
 民主主義は、一元論で、多数決にしろ力の論理にしろ、数に帰される。
 一方、伝統は、多元論で、文化にしろ芸術にしろ、質に帰される。
 いうまでもないが、政治は合理主義で、文化は反合理である。
 社会から政治、文化から皇室にまでおよんだ日本の西洋化は、結局、合理化ということであって、合理化して、残るのは、数の論理だけである。
 数は合理化できるが、文化や思想という質は、合理化できない。
 かつて、日本人は、合理化できるものと合理化できないものの両方をもっていた。
 合理主義をうけいれながら神にも祈ったわけで、その伝統が、新鋭ビルの竣工に際しておこなわれる地鎮祭である。
 敗戦後のアメリカ化・民主化によって、合理主義と伝統を同時にうけいれる高次な精神が失われて、日本人は、朝から晩まで民主主義を叫ぶ愚かな民族となった。
 賢明だった日本人が、49%の少数派を切り捨てる数の論理を万歳を叫んで迎えたのである。
 革命の方便にすぎない民主主義が至高の価値となった戦後、ついに、天皇にまで合理の定規があてられ、皇室までが民主化されるはめになった。
 権力と権威を隔てる二元論がゆるんで、天皇とヨーロッパの王政との区別がつかなくなってしまったのである。
 
 これが天皇の危機である。
 世界の王政がすべて滅び、滅亡を免れたとしても、英国のように形式を残すだけになったのは、民主主義という毒牙に伝統や文化を食いちぎられたからである。
 民主主義が猛威をふるっているかぎり、反共・伝統防衛の旗を降ろすことはできない。
 日本の民主主義は君民一体≠ナ、西洋の民主主義は君主打倒≠ナある。
 日本人が、人類最高法規と信じている西洋の民主主義は、現在進行形の革命用語で、ゆきつくところは、スターリンやヒトラーがめざした民主主義にもとづく独裁である。
 独裁者が民主主義(多数派)を権力のレジテマシーとするのである。
 かつて、右翼は共産主義を敵としたが、共産主義が滅びると、慢心と油断にひたって、右翼陣営はもぬけの殻同然となった。
 恐るべきは、正体がバレている共産主義ではなく、共産主義の隠れ蓑である民主主義のほうで、民主主義という一元論をたどってゆくと、人民政府という独裁体制があらわれる。
 軍部・軍属が天皇を利用して軍国主義をつくったように、左翼・反日勢力が民主のスローガンを利用して民主ファシズムをつくる。
 むかう先は、共産化と中国への属国化である。
 民主が唯一の正義となる国家は、天皇が唯一の正義だった国家と同様、危険きわまりないのである。
 天皇をまもることは、歴史をまもることで、右陣営がたたかうべきは、共産主義ではなく、民主ファシズムである。
 次回以降、天皇・国体防衛について、さらに論をすすめよう。

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2018年03月12日

神道と世界最古の文明「縄文文化」36

 ●天皇と国家「勅と法」(7)
 国家が、本来、歴史(国体)と権力(政体)の二重構造と知っているひとは多くない。
 理由は、国連安保理常任理事国(米・英・仏・ロ・中)をはじめ、200をこえる世界の国々の多くが、国体をもたない革命国家だからである。
 革命国家や共和制国家が、権力(政体)だけの一元構造になったのは、歴史(国体)が否定されて、伝統的秩序が民主主義へきりかえられたからで、近代以降、80か国以上が、革命や政変、独立などをとおして、君主制などの伝統国家から民主主義にもとづく共和制国家に移行した。
 民主主義は、現在における政治決定で、対象になるのは、現在、生きている人々だけである。
 民主主義が、歴史を否定した上になりたっているのからで、かつて生存した歴史的国民や歴史の英知、伝統文化も、現在、生きている人々の利害や都合の前ではひとたまりもない。
 それが革命国家の正体で、民主主義以外のものがなに一つ通用しない。
 民主主義は多数決にすぎないが、国民全体の多数決を採ることは不可能なので、革命軍のリーダーがこれをあずかる。
 その口実が国民主権で、国民の主権をあずかったということにすれば、国民の名の下で、独裁や弾圧、逮捕や強制収容所送り、死刑などのテロルがまかりとおって、暗黒国家ができあがる。
 民主主義と国民主権は、革命派による支配イデオロギーだったのである。
 それをそっくり真似たのが日本国憲法=占領基本法である。
 国体を否定するGHQという革命軍が、民主主義と国民主権もちいて、日本国民を支配したのである。
 日本国憲法の主宰者は、日本国家でも日本国民でもなく、GHQなのである。
 民主主義を立て、国家主権を破壊したのち、国民主権をあずかったGHQが敗戦国日本の絶対支配者になったわけで、その裏付けとなったのが日本国憲法だった。
 日本国憲法が担保しているのは、日本や日本国民の利益ではなく、GHQの権力だったのである。
 憲法99条にこうある。
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法(GHQ命令書)を尊重し擁護する義務を負ふ」

 国家主権から防衛権、統治権や国民の安全をまもる権利は、国家におのずとそなわっている自然権で、当然のことながら、この国家自然法は、人為法たる憲法をこえる。
 それが伝統国家のありようで、革命国家でありながら、伝統国家の体裁を保とうというイギリスは、国家を規制する憲法をもっていない。
 憲法は、伝統的価値や歴史的規範を捨てた革命国家が、その代わりに採ったイデオロギー法で、どの国の憲法も、タテマエとして、民主主義と国民主権を国家の最高法としている。
 近代主義の産物にして、歴史を捨てた革命国家は、民主主義や国民主権以外の規範をもちえないのである。
 戦後、日本では、民主主義が、人類の最高法としてさかんにもちあげられてきた。
 だが、民主主義は、多数決と普通選挙法のことにほかならず、そんなものを国家規範にして、政治が混乱しないわけはない。
 民主主義国家は、自然法にもとづいた国家よりはるかに後進的で、不完全な国家だからで、しょせん、人間が頭のなかで考えた人為法や人口国家が歴史の産物である自然法や伝統国家をこえるわけはないのだ。
 民主主義は歴史を拒絶する。
 それだけで、伝統国家の象徴である天皇と革命国家の象徴である民主主義が相容れないとわかる。
 日本に民主主義や国民主権の精神がなかったわけではない。
 その逆で、日本には「君民一体」という思想があって、天皇は国民とともにあった。
 天皇と国家国民が一体であれば、天皇陛下万歳が、国民や国土の弥栄(いやさか)をねがう心とわかるだろう。

 何事にも、矛盾や不条理、不思議や非合理がついてまわって、人間の知識がとうていおよぶところではない。
 国家もそうで、多数決にすぎない民主主義や実体のない国民主権をふり回したところで、なんの解決にならないばかりか、混乱がうまれるばかりである。
 イエスかノーか一元論では、片一方が否定されてしまうので、解決どころか、かえって、対立が深まる。
 51%を肯定して49%を否定する民主主義のどこに政治哲学があるのか。
 権力者にゆだねられて独裁を生じる国民主権のどこが国民中心主義なのか。
 革命国家が一元論なら、伝統国家が二元論で、グレーゾーンやあいまいさが矛盾や不条理、不思議や非合理をのみこんで、体制を安定させる。
 それが多様性と奥行きをもつ日本主義で、文明と価値観の衝突となる今後の世界情勢のなかで、対立をうむ民主主義に代わって、中心的思想になってゆくだろう。
 日本が提唱している異文化共栄圏思想(日・米・オセアニア・アセアン・インド)がそれだが、このテーマについては、後日、改めてのべよう。
 さて、二元論だが、伝統国家である日本が二元論の国家なのは、いうまでもない。
 権威と権力、国体と政体、天皇と政府、文化と政治が、互いに干渉することなく両立している。
 二元化されている価値と価値の中間にグレーゾーンが広がって、それがあいまいの文化である。
 ところが、価値が一元化されている革命国家には、グレーゾーンがない。
 戦後、民主主義絶対主義のアメリカによる日本改造が、いかに日本の文化や価値、伝統をゆるがしたか、いまさら、指摘するまでもない。
 戦後日本の迷走は、革命国家のルールを伝統国家にもちこんだ構造矛盾から生じたのである。
 次回以降、伝統国家のあるべきすがたと天皇問題をさらに検討していこう。
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2018年03月06日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」35

 ●天皇と民主主義「勅と法」(6)
 歴史と現在性の関係は、わかっているようで、案外、理解されていない。
 歴史はタテに連続する時間軸で、一方、現在は横に広がる空間軸である。
 われわれが生きているのは、現在という空間軸だが、現在は、過去や歴史という時間軸の上に成り立っている。
 ひとは、現在を生きる空間的な存在でありながら、一方では、歴史を生きる文化的な存在で、言語から習俗、文化、文明に至るまで、現在あるものは、すべて過去からひきつがれた歴史の恩恵である。
 人類は、歴史という時間軸と現在という空間軸の両方を生きることによって人類たりえている。
 したがって、だれもが、生来的な保守主義者といえる。
 何人といえども、過去を否定することはできない。
 過去は、過去の人々によって築かれたからで、これを否定するなら、過去の人々にも投票権があたえられるべきである。
 死者が投票場へ足を運べないなら、現在を生きる者たちは、ひたすら、過去を受け継がなければならない。
 現在が、過去の集積であるとするならば、現在を生きる人々も過去に生きた人々も、ともに歴史的国民だからである。
 現在を生きている人々の身勝手な都合によって、歴史や伝統を否定するのは歴史や先人らへの冒瀆であって、死者と生者が共にある歴史的国民の原則に反する。
 保守主義は、歴史を継承することにあって、これは、歴史を破壊するよりもはるかに価値があり、はるかに困難な仕事なのである。

 万世一系を否定した「皇室典範に関する有識者会議」(2005年)の吉川弘之座長(元東京大学総長)は「伝統は無視した」と堂々と言い放ったものである。
 昨今の女系天皇論も、歴史の不可逆性を無視した暴論で、現在を生きているにすぎない者たちが歴史を変更できるとするのは、無知でなければ傲岸不遜なる思い上がりというしかない。
 人々は、過去の事跡や伝統、文化的価値などの歴史の遺産に目もくれない。
 そして、歴史的存在であることを忘れて、目先の利害に右往左往している。
 生きているのは、現在という瞬間ではなく、過去から現在、現在から未来へつながっていく歴史の連続性という自覚がないのである。
 そこに、保守主義者と左翼・革新・反日を隔てるボーダーラインがある。
 国民と人民・市民のちがいもそこからでてくる。
 国民は、歴史や文化、民族性などの同一性を共有する歴史的国民で、人民や市民は、歴史や国家から切り離された孤独な人々の群れである。
 歴史が失われるのは、革命によって、時間軸が断ち切られたからで、残るのは、現在という過去を失った空間だけである。
 民主主義が革命イデオロギーになったのは、民主の民≠ェ歴史や文化から断絶した民≠セったからである。
 左翼が民主主義をもてはやすのは、革命の武器だからで、民主主義を立てて歴史から国体までをかえてしまおうというのは悪魔の思想というしかない。
 民主主義こそが過去殺しで、革命で歴史を断ち切った英・仏・米・ロが民主主義を標榜したのは、歴史の叡智を捨てると、チャーチルが「独裁よりマシなだけ」といった民主主義しか残らないからである。
 民主主義は、多数決のことで、国民主権の国民と同様、多数派の正義ということである。
 すべて多数決できめる民主主義は究極の衆愚政治で、戦後、この民主主義が大手をふってきたのは、戦争に負けたからである。
 それでも、日本が三流国家へ転落しなかったのは、君民一体の天皇がおられたからで、したがって、民主主義が暴走することなく、伝統国家としての品格や叡智、誇りもまもられたのである。

 歴史と現在の落差は、宗教や政治、思想などの分野で、さまざまな二元論をつくりだしてきた。
 保守と革命、伝統と革新、唯心論と唯物論、生と死などである。
 歴史は過去で、死でもあるが、その過去に根源的価値をみるのが保守主義である。
 現在を生きる人々が、エゴをむきだしにして生きれば「万人の戦争がおこる」(ホッブス)ので、国家や法、常識などのかつてつくられた制度やシステムの網をかけようというのが保守主義なら、過去ではなく、人間の頭の中で考えたイデオロギーで人民を支配しようというのが革命主義である。
 革命や改革主義は、美辞麗句や美しい観念論を並べるが、所詮、歴史や伝統を断ち切った過去殺しで、過去を失った世界には、一滴の血も流れていない。
 歴史のタテ軸と現在の横軸を、聖俗二元論に置き換えることもできる。
 ひとはパンのみに生きずに非ずで、俗にどっぷり漬かりながら、聖をもとめるのが人間なのである。
 伝統は、天皇中心の平和な国民国家を形成するが、天皇が政治利用されると、この構図が逆転する。
 次回以降、天皇と国家の関係について、近代以降をふり返ってみよう。
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