2018年02月26日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」34

 ●天皇と国家「勅と法」(5)
 天皇陛下の退位の儀式(退位礼正殿の儀)は2019年4月30日に皇居で国事行為としておこなわれる。
 国民主権と象徴天皇制を定める憲法との整合性に配慮して、天皇がご自身の意思で皇位を譲ることを宣する「宣命」はおこなわれず、国民の代表たる首相が、国会が定めた特例法にもとづいて、陛下が退位される旨を表明する。
 陛下がおことばを述べられるのは、首相が天皇退位を宣言した後で、それも政治的な内容をふくまぬよう宮内庁や政府が慎重に調整するという。
 天皇がご自身の意思で皇位を譲る形になれば、天皇の国政関与を禁じた憲法4条にふれるからである。
 といっても一昨年7月、NHKが「天皇陛下が生前退位のご意向」と報じた翌月の8月8日、天皇陛下が譲位をにじませるビデオメッセージを公表された段階で、この原則は破られている。
 摂政を置くことを定めた憲法第5条があるにもかかわらず、天皇のご発言によって、皇位継承について定めてある皇室典範を改正せざるをえなかったからで、これが、今上天皇の一代に限って「生前退位」を認める特措法にかわったところで、天皇のご発言が政治をうごかした事実にかわりはない。
 そして一方、退位が、国民主権と象徴天皇制を定める憲法や国会が議決した特措法に縛られることによって、天皇が政治にコントロールされるという逆の事態も生じた。
 天皇の政治への関与が、政治の天皇への干渉を招いたわけで、国体と政体のもたれあいが、権威(天皇)と権力(政府)の二元論を危うくするのは、天皇を国家元首に据えた明治憲法から天皇に軍服を着せた昭和軍国主義まで、同じ構造である。
 国体と政体の二元論は、天皇と政府、権威と権力の癒着を避ける役割をはたしてきたのだが、これが一元論的になると、天皇の政治利用、天皇の権力化に歯止めがきかなくなる。

 もともと、超越的・超法規的存在である天皇を憲法のなかに封じ込めようというGHQの対日戦略が無謀で、そのGHQ憲法を70年間もひきずってきた怠惰のツケが、天皇退位に臨んで回ってきたといってよい。
 2013年、80歳を迎えた誕生日の記者会見で陛下は「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法をつくり、さまざまな改革をおこなって、今日の日本を築きました」と護憲の意思を明らかにされた。
 陛下が皇太子時代、家庭教師だったヴァイニング夫人は、リベラルな傾向をもつクェーカー教徒で、1969年、ベトナム反戦デモに参加して、ワシントンの国会議事堂前で逮捕されている。
 ヴァイニング夫人の影響をおうけになった陛下がいかにリベラルなお考えをもたれようと、国体と政体の二元論が成立しているかぎり、政治は影響をうけない。
 ちなみに天皇のお考えを御心というなら、歴史をつらぬく皇祖皇宗の真実が大御心で、葦津珍彦は「陛下がまちがったことを仰せになったら大御心だけに耳を傾けて、御心には耳をふさぐこと」とのべている。
 しかし、国体と政体の二元論が崩れると「天皇の御心」と「権力の意思」が政治の場と国体の場の二箇所でぶつかりあうことになる。
 一元論においては、真実は一つしかないので、一方が一方をつぶしにかかる。
 明治以降、とりわけ、昭和の軍国主義時代は、権力が肥大して、権威の影が薄くなった。
 権威たる天皇が権力の象徴たる軍服を召されたからである。
 天皇を現人神として神格化する必要が生じたのは、そのためで、権力とバランスをとろうとしたのである。
 それが天皇ファシズムで、天皇の政治利用のきわめつけであった。

 二元論では、真実が二つあるので、権威と権力は両立しつつ、ささえあう。
 国家を木にたとえるなら、権威は根で、権力は幹や枝、葉である。
 権威と権力が二元論的にはたらいて、国体も政体も安定する。
 ところが、今回の天皇陛下の退位は、その原則がはたらかなかった。
 天皇のおことばが政治をうごかし、結果として、退位の儀式が政治化されるという経緯において、権威と権力の分離という歴史の英知は、どこにもはたらかなかった。
 理由は、憲法が一元論のきわめつけだったからである。
 憲法99条にこうある。
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」
 天皇以下、すべての日本人に土下座をもとめる憲法という紙切れには、共産主義革命のスローガンとなった国民主権やアメリカ民主主義、敗戦国の罰則としての武装解除、国家主権の自己否定がつらつらと書き並べられている。
 ほとんどマンガだが、現在、日本では、憲法が「神聖ニシテ侵スヘカラス」ものになっている。
 大日本帝国憲法第3条(「天皇の神聖不可侵」)が天皇から憲法へそっくり入れ替えられているのである。
 次回以降、憲法と天皇の関係をもう一歩つきつめて考えてみよう。
posted by office YM at 09:37| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月21日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」33

 ●天皇と国家「勅と法」(4)
 権力は、正統性(レジテマシー)をえて、はじめて、権力たりうる。
 レジテマシーをもたない権力は、暴力装置で、盗賊とかわらない。
 民主党政権時代、自衛隊を暴力装置と発言した官房長官(仙石由人)がいたが、防衛大臣を何度も経験している自民党の石破茂も、自衛隊を軍隊と位置づけた上で、暴力装置と表現したことがある。
 レジテマシーのなんたるかをわかっていないのである。
 戦国時代、武田信玄や織田信長ら戦国武将が、上洛して、天皇謁見を望んだのは、権力のレジテマシーをもとめてのことで、天皇から征夷大将軍などの官位を戴かなければ、他の武将を従える天下人になることも、幕府をひらくこともできなかった。
 中国がいまなお毛沢東を称えるのは、権力は、カリスマというレジテマシーを必要とするからである。
 中国共産党人民解放軍といえども、中国共産党主席と中央軍事委員会主席を務めた毛沢東のカリスマ性なくしては、権力を維持できないのである。
 戦争や死刑執行が殺人罪にあたらないのも、国家には主権というレジテマシーがそなわっているからで、この超越性の上に成立しているのが国家である。

 主権は、なにものからも干渉をうけない絶対的な権利である。
 この主権は、歴史上、戦前まで、天皇=国体に属するものだった。
 主権が、政体たる幕府・政府ではなく、歴史や文化たる国体におかれていたのである。
 権力に権威というレジテマシーがそなわって、政体と国体が合一した国家という共同体ができあがる。
 ところが、戦後、歴史的存在であった天皇の地位と権威が憲法という文字を綴ったにすぎないものへ移しかえられた。
 その結果、権威が空洞化した。
 一方、憲法から、国家主権が抜け落ちている。
 日本では、現憲法の下、国家主権も、国家主権のレジテマシーたる権威も宙に浮いたままなのである。
 それが、天皇を無力化して、形だけを残したGHQ憲法のからくりである。
 日本国憲法は、日本をアメリカの都合のよい国につくりかえるための占領基本法である。
 憲法から日本の国家主権が抜け落ちているのは、占領中、日本の国家主権をもっていたのがアメリカだったからである。
 占領基本法である憲法には、歴史や権威にかんする記述が一つもない。
 交戦権を放棄した9条にいたっては、自然権や習慣法である国家防衛までを否定している。
 したがって、サンフランシスコ講和条約が締結されて、主権者だったGHQが去ったあと、日本は主権なき国家になった。
 国家主権のない憲法などさっさと捨ててしまうべきだが、日本は、いまから70年前、アメリカが日本を庇護下においた占領基本法を、いまもなお国家の基本法=憲法として重んじている。

 保守論陣のなかにも、憲法が権威だという論調がなきにしもあらずである。
 それが、憲法は第二の国体という主張で、その根拠が国民主権である。
 戦後、国家主権にとって代って、国民主権となったが、国民主権などというものは、そもそも、存在しない。
 国民には、なにものからも干渉をうけない絶対的な権利がそなわっていないからである。
 国民主権は、革命の産物で、旧体制を否定する口実にほかならなかった。
 共産主義や共和制における国民主権はタテマエで、国民の名を借りて奪った権力を為政者が横取りする。
 それが独裁で、民主主義は、衆愚による独裁ということである。
 米ロ英仏中ら国連常任理事国は、革命国家で、中国以外は、かつて、列強と呼ばれた。
 その列強が、散々、食い散らかしたのがアジアである。
 インドや東南アジアが列強の餌食になったのは、国家としての体裁が整っていなかったからだった。
 あったのは、国土ではなく領土で、国家としての統一性も同一性もなかった。
 そもそも、国家という概念が未熟だったので、国家意識が完成していた列強に歯が立つはずがなかった。
 どんな国も、神話や信仰、言語や習俗、民族の自立や誇りなどの共同体意識をもっている。
 それが国家のレジテマシーで、国家独立の条件である。
 インドや東南アジアが英仏蘭の餌食になったのは、領主が乱立して、争っていたからである。
 あったのは、広大な領地だけで、国家も国家主権も、国権をささえるレジテマシーもなかった。
 タイが唯一アジアで独立を保つことができたのは、英仏を相手の外交手腕もさることながら、王国だったからで、国家は、王という超越的な存在があってはじめて、国家という観念をもつことができる。
 領主が支配するところは領土にすぎないが、国権が支配するところは国土となる。
 国権をささえるレジテマシーの下で、権威と権力の二元論を形成するのが伝統国家で、そのレジテマシーにイデオロギーや法をもちこむのが革命国家である。
 日本が、薩長には動揺があったものの、列強の侵略をうけることがなかったのは、天皇がおられたからで、幕府や藩にとって、外国の侵略から天皇をまもることが最大の使命だった。
 次回は、今上天皇の譲位における「勅と法」について考えてみよう。
posted by office YM at 13:51| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月13日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」32

 ●天皇政治における「勅と法」(3)
 大川周明が古代史のヒーローとして、聖徳太子と中大兄皇子(天智天皇)をあげたのは、国家や法(律令)、天皇の概念を確立させたからで、天皇を中心とした日本という国の原型をつくったのはこの二人といってよい。
 33代推古天皇の摂政として、冠位十二階や十七条憲法を定めた聖徳太子がもとめたのは、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立であった。
 遣隋使を派遣して、国書に中国皇帝にしか使用されていなかった天子ということば(日出処の天子)を使って、日本が、隋と対等な関係にあるとしたのも聖徳太子で、日本は、七世紀初頭、国家や法、天皇の概念を立て、大国の隋を向こうにまわして、堂々と独立国家の道を歩みはじめたのである。
 聖徳太子と協力関係にあったかにみえた蘇我馬子だが、内実は異なる。
 蘇我氏には、国家も法も天皇もなく、あるのは、権力欲だけであった。
 聖徳太子没後、蘇我入鹿が聖徳太子の子山背大兄王を攻めて、一族を自殺に追いこんだのは、天皇を意のままにするためで、蘇我に服従的だった田村皇子(舒明天皇/敏達天皇系)を推す蘇我入鹿にとって、山背大兄王(用明天皇系)は邪魔者だったのである。
 蘇我馬子は東漢直駒という刺客を放って、32代崇峻天皇を弑逆している。
 稲目、馬子、蝦夷、入鹿の蘇我四代にとって、天皇は、権力を維持するための道具にすぎず、一族は、天皇の任命権どころか、生殺与奪の権利まで握っているかのようであった。
 蘇我氏が推した舒明天皇の崩御後、皇后の皇極天皇が即位したのは、継嗣となる皇子が定まらなかったからだが、皇極天皇の在位中は、蘇我蝦夷が大臣の地位につき、入鹿が国政を執った。

 その入鹿が、宮中で、中大兄皇子と藤原鎌足に襲われて、斬殺されるという事件(乙巳の変)がおき、入鹿の父である蘇我蝦夷も自宅に追手をかけられて自刃した。
 中大兄皇子は、舒明天皇と皇極天皇の子で、次の天皇候補だった。
 だが、山背大兄皇子と同様、蘇我一族の血を引いていないので、後継どころか、入鹿に襲われた山背大兄王の二の舞になる可能性すらあった。
 蘇我が推すのは、舒明天皇の第一皇子、古人大兄皇子で、母親が蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女であった。
 蘇我がめざしたのは、朝廷を外戚で固めた独裁体制で、蘇我は、天皇を政治利用してのしあがってきたのだった。
 天皇の政治利用は、近世になって、明治維新と昭和軍国主義と二度体験しているが、古代においては、物部氏や葛城氏、大伴氏、蘇我氏、藤原氏らによる外戚政治がまかりとおっていたのである。
 蘇我という絶大な権力が一瞬に崩壊したことによって、日本は、豪族支配の国から一挙に律令的な天皇の国へと変容する。
 大化の改新といわれるこの大改革は、豪族らの私有地を廃止する公地公民制や律令制にもとづく班田収授や租庸調などの土地制度や税法など法の導入が中心で、日本は、七世紀半ばにして、法治国家へ歩みだしたのである。

 だが、天皇の地位が磐石となるまで、まだ時間がかかる。
 乙巳の変から18年後、百済を救うため唐・新羅の連合軍と争った白村江の戦い(663年)で日本は大敗する。
 日本は唐からの攻撃を警戒して、対馬、壱岐、筑紫などに防人を置き、大宰府の防衛のため水城を築いて、唐からの侵攻に備えた。
 中大兄皇子が天智天皇として即位した(668年)のは、大和の地から都を移した近江の大津宮で、この年に完成した「近江令」は、後の「大宝律令」の基礎となる法典である。
 671年、天智天皇は46歳で没して、その後、日本中をゆるがす権力闘争が勃発する。
 聖徳太子が基礎をつくり、大化の改新後、確立された天皇政治が、皇位継承をめぐって、大乱(壬申の乱)をひきおこすのである。
 大化改新を指導した天智天皇が近江大津宮で崩御して、第一皇子、大友皇子 (弘文天皇) が近江朝の主となると、妻(後の持統天皇)らと吉野宮に引退した天智天皇の実弟大海人が挙兵する。
 草壁皇子や高市皇子、大津皇子、地方豪族らを味方につけた大海人皇子がいくさに勝ち、大友皇子は自害する。
 大海人皇子が天武天皇で、即位後、天皇や皇族を中心とした「皇親政治」を敷いて、律令制による中央集権国家の建設に力を注ぐ。
 ここで、法(律令支配)と勅(天皇の権力)が重なり合って、天皇官僚制というべき体制ができあがる。
 それがのちの摂関政治や朝廷・幕府の二元論へひきつがれてゆくが、天皇の勅と官僚・摂関・幕府などによる法の支配は、微妙なバランスの上に成立してきた。
 それが、権威と権力の二元論で、その要諦は、権威と権力の分離にある。
 勅を権威のなかに封じ、権力を法で制御することによって、権力構造を安定させてきたわけだが、それが江戸300年の安泰につながった。
 次回以降、勅と法の関係が混乱してきた明治以降、天皇の御心、皇祖皇宗の大御心が問われる憲法や皇室のあり方について、考えてみたい
posted by office YM at 09:14| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月07日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」31

 ●天皇政治における「勅と法」(2)
 日本という国家の基本原理として二元論をあげることができる。
「権威(天皇)と権力(摂関・幕府)」「国体と政体」の二元論である。
 二元論という国家原理が、なぜ安定的で、数千年の歴史をもつ日本のような伝統国家をつくりうるのか、これまで、そのテーマが本格的に議論されてきたことはない。
 権力だけに依存する一元論の国家は、暗黒化して、やがて衰弱してゆく。
 他国に攻められて滅びるか、革命で倒される。
 権力と民の心が離れているので、国家を長きにわたって維持する国力がそなわらないのである。
 権威だけに依存する国家も、易姓革命によって、滅びへとむかう。
 易姓革命がおきるのは、儒教国家で、儒教において重要なのは、徳治主義である。
 徳治主義では、失敗や損失などの不利益の原因が、すべて、前王の徳が足りなさに帰されるので、徳のあるとされる新王があらわれて、前王の悪と不徳を徹底的に糾弾すれば、易姓革命が成立して、歴史の連続性が断たれる。
 天命によって、王朝が交替する易姓革命では、前王を否定することが新しい王になる絶対条件となるのである。
 徳治主義が後進的なのは、原因の究明をおこなわず、すべて、善悪や徳・不徳で片付けてしまうからで、当然、嘘や策略、陰謀がまかりとおる。
 天命という儒教的価値が革命の道具になっているのである。
 中国や朝鮮が、徳治主義の一元論だったのは、儒教の国だったからで、そこから合理的精神にもとづいた法治主義はでてこない。

 古代日本において、天皇の権威があったにもかかわらず、律令制などの法治主義がとられたのは、天皇の権威が権力の正統性を担保していたからである。
 権威と権力が二元化されていたので、権威の下で、権力による法治主義が可能だったのである。
 両者が一体化されると、権威は「勅」となって、権力の一部となる。
 権威が権力にとりこまれると、権威が空位となって、権力が暴走する。
 徳川幕府が、公家諸法度をおき、朝廷の権威を敬う一方、権力から遠ざけたのは、南北朝の動乱から応仁の乱をへて戦国時代にいたる暗黒の中世の悲劇をくり返さないためで、天皇が権力をもとめた「建武の新政」以来、権威が空位になって、日本は、250年以上にわたって、ユーラシア大陸的な権力闘争に明け暮れたのである。
 天皇の地位が定まるのは、大化の改新から壬申の乱をへて、天武・持統朝になってからで、藤原氏を中心とした摂関政治がはじまるのは、そののちのことである。

 大王(天皇)は、もともと、豪族の長(族長)で、紀元前において、祭祀王だったところ、大和朝廷の成立と発展にともなって、豪族間の勢力争いにまきこまれてゆく。
 最初の大豪族は、5世紀前半、子(磐之媛)が仁徳天皇(16代)の皇后となって履中(17代)・反正(18代)・允恭(19代)の三天皇を産んだ葛城氏で、のちに平群氏がこれに変わる。
 六世紀になって、後嗣を定めずに崩御した武烈天皇(25代)の後継に越前にいた応神天皇の5世の孫を26代天皇(継体)に迎えた功績で、大伴金村が台頭する。
 ところが、512年、百済に任那の4県をあたえた金村に反発した物部氏が大伴氏を追放、代わって勢いをえる。
 この物部に対抗したのが、帰化人を率いて朝廷の財政を握った蘇我氏だった。
 物部氏と蘇我氏は、朝廷を二つにわけるほどの力をもってにらみ合う。
 そしてのちに、天皇の継嗣問題や仏教の導入をめぐって、決定的に対立する。
 仏教の礼拝をめぐって物部守屋と蘇我馬子がたたかって物部氏が滅ぼされた争い(丁未の乱)にくわわった聖徳太子は、日本を天皇中心の国へむかわせるが、志半ばで死去して、蘇我氏の独裁体制ができあがってゆく。
 蘇我馬子は物部守屋が天皇に推した穴穂部皇子を殺し、みずからが推挙した崇峻天皇を弑虐し、聖徳太子の子、山背大兄王まで殺してしまう。
 大和朝廷は、豪族の連合国家で、大王(天皇)は、みこしののせられた族長にすぎず、蘇我氏のような大豪族におびやかされる存在だったのである。
 次回以降、天皇が権力者として、あるいは権威として地歩を固めていく歴史をみていこう。
posted by office YM at 16:13| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月29日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」30

 ●天皇政治における「勅と法」
 仏教の礼拝をめぐって蘇我馬子と物部守屋がたたかい、物部氏が滅ぼされた「丁未の乱」が天皇を奪い合う内ゲバだったことは明らかで、以後、蘇我氏が天皇側近(外戚)として絶対権力をふるった。
 その曽我氏を倒したのが中大兄皇子と中臣鎌足による大化の改新で、これが中臣氏のちの藤原氏の独裁政治につながってゆく。
 外戚関係を固めた側近勢力が絶対権力をもち、あるいは独裁政治をふるうのが天皇政治の特徴で、例外が、天武・持統朝の皇親政治だった。
 天皇政治は、大和朝廷が天皇と豪族の連合政権だったことからもわかるように、覇王型ではなく合議型で、それが祭祀国家や「国体・政体の分離」という特有の国家形態をつくりだした。
 日本は、早い時期(飛鳥時代後期)から律令制をとって、法治国家としての体裁を整え、天皇がその総覧者となった。
 それが祭祀国家の必然のなりゆきで、祭祀王が権威となり、行政官の集団が権力を掌握して、権威と権力の二元論が確立されると、そこからやがて、摂関政治がはじまるのである。
 その原型となったのが、蘇我氏らの豪族政治や藤原氏の側近政治だが、藤原鎌足やその子で摂関政治の基礎をつくった藤原不比等の死後、藤原一族の謀略事件が勃発する。
「長屋王の変」である。
 天武天皇の孫で天武の右腕だった高市皇子の子、長屋王が聖武天皇のもとで左大臣となり、藤原氏をおさえて、皇親政治をおしすすめる。
 その長屋王が、藤原一族の謀略にによって、自殺に追いこまれるのである。
 この事件は、藤原不比等の子で、聖武天皇の夫人だった光明子を天皇になれる皇后にしようとする藤原四家(南家、北家、式家、京家)の企てに端を発する。
 この事件が特異なのは、これまで、天皇の下で、権力をふるっていた側近が天皇家や皇統継承者に牙をむいたことで、そこには、権力(法)ばかりか権威(勅)までもわがものにしようという藤原一族の野望があった。
 
 発端は継嗣問題で、天皇の外戚関係をとおして、権力を握っていた藤原家に凶事がふりかかってきた。
 聖武天皇と藤原光明子との間に産まれた基王が、一年後、死亡するのである。
 基王の死によって、藤原氏は血族内の天皇候補を失った。
 しかもその年、聖武天皇のもうひとりの夫人(県犬養広刀自)に男子が誕生した。
 安積親王である。
 そこで考えられたのが、聖武天皇の後継として、藤原光明子を天皇に擁立することだった。
 この時代は、男が文武・聖武の2人にたいして、女帝が持統・元明・元正と3人おり、女性が天皇になることに違和感はなかった。
 その案に立ちはだかったのが当時の最高実力者だった長屋王だった。
 もともと、長屋王一族は、皇位継承の有力候補者で、藤原一族にとって宿命のライバルだった。
 このとき、長屋王は律令の「法」を立て、一方、藤原氏は聖武天皇に「勅」をもとめた。
 藤原氏は、法よりも勅を優先させ、いわば、天皇を政治利用する形で権力を握ろうとしたのである。
 聖武天皇は光明子を皇后 (光明皇后) として、みずから立后の旧慣を破った。
 かくして長屋王の悲劇は起こった。
 長屋王の屋敷が藤原の軍に囲まれて、長屋王は夫人、子らと自害する。
 長屋王の死後、藤原四兄弟は妹である光明皇后のもとで、藤原四家(南家、北家、式家、京家)政権を樹立する。

 長屋王の父である高市皇子は、壬申の乱のとき、天武天皇から軍の指揮権を委ねられたほどの実力者で、天武天皇亡きあと、持統女帝のもとで太政大臣となって、藤原京造営などで政治に辣腕をふるった。
 藤原不比等は、高市皇子のライバルで、高市皇子の死後、持統女帝が望んでいた軽皇子(文武天皇)の即位を実現させ、文武・元明・元正三代の天皇を支え、右大臣という最高位まで昇りつめた。
 その不比等が亡くなると、翌年、不比等に代わって、右大臣の座に着いたのが、高市皇子の子、長屋王であった。
 一方、不比等の四人の男子は、藤原四家として政界に重きを成した。
 高市皇子と不比等の対立は、世代が変わって「長屋王」対「藤原四兄弟」として受け継がれたのである。
 長屋王の変の八年後、藤原四兄弟は全員、天然痘にかかって死亡する。
 政権内では、天罰ともたたりともささやかれたという。
 次回以降、天皇をめぐる「法」と「勅」について、考えてみたい。
posted by office YM at 03:02| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月24日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」29

 ●稲作文化と天皇(5)
 日本という国家は、米穀(稲作)とともに発展してきたといってよい。
 強国や富める国の植民地にならなかったのは、完全食品である米を自給自足できたからで、河川や平野、森林がゆたかだった日本は、食糧や資材の不足に苦しむこともなく、外国からつけいられるすきがなかった。
 天孫降臨の際、天照大神がニニギノミコトに下した三大神勅の3つめ「斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅」(日本書紀)には、高天原から下った稲穂を育て、民を養いなさいという記述がある。
 現在でも皇居のなかに田んぼがあり、稲を育て、11月の新嘗祭には神前に捧げる儀式をおこなっている。
 このことからも、稲作が国家の真髄にまで浸透していることがわかる。
 そしてそれが、日本が祭祀国家にして伝統国家であることの裏づけとなっている。
 ユーラシア大陸における麦作および狩猟・牧畜は、かならずしも、絶対量が十分ではなかったのみならず、安定性や永続性をともなってもいなかった。
 なによりも、土地と民の一体感がなく、つねに、略奪の対象となった。
 土地は領土として争奪の対象となり、戦争に負けると農民は、奴隷として売買された。
 したがって、祭祀よりも闘争の論理が優先されたのは当然で、それが、市民革命のひきがねとなって、ユーラシア大陸において、伝統国家が根絶やしとなって、革命国家ばかりになった。

 日本の場合、稲作のための田圃は、灌漑をともなう土木事業で、土地と民が一体となってつくりあげたものである。
 稲作も、民の手間と水田という土木技術の合作で、民と土地を切り離して考えることができない。
 したがって、民と土地を別々に略奪したところで、なんの意味もなかった。
 日本で、武将同士のたたかいはあっても、地域や領国の総力戦がなかったのはそのためで、民は農地の一部、農地は民の一部であって、武将の権力闘争とはなんのかかわりもなかった。
 権力が農地を略奪することも支配すこともできなかったのは、民がいなければコメづくりができなかったからで、いくさに勝った覇王といえども、民から税(年貢米)を徴収するには、民が納得する大義名分が必要だった。
 それが征夷大将軍の官位で、徴税権を行使できたのは、天皇から征夷大将軍を任じられた幕府および幕藩だけだった。
 天皇は、祭祀王で、祭祀というのは、収穫祭(新嘗祭)である。
 それが祭祀国家の基本的な構造で、稲作国家である日本では、覇王ではなく、豊作を祈る祭祀王=天皇が国家の頂点に立ったのである。
 日本にも、戦国時代をあげるまでもなく、領主たちの領土争いや覇権闘争があった。
 だがそれは、天皇から征夷大将軍の任命をうけるためのいくさで、ユーラシア大陸型の絶対権力をもとめたたたかいとは区別されなければならない。
 日本のいくさが革命型ではなかったのは、天皇の下で、国家としてりっぱに成立していたからで、ベースとなっていたのは、稲作を中心とする農本主義であった。
 明治維新の西洋化によって、石油や電気、大量の鉄などが国家の必要物資となったが、それまで、日本は、国内で生産できる諸物資、伝統文化、数千年にわたってつちかってきた習俗にもとづいて、伝統国家として堂々とふるまってきた。

 第二次世界大戦で、日本は、革命国家連合に負けたが、伝統国家であることを放棄したわけではない。
 日本は、GHQによって、天皇の憲法上の地位や民主化、交戦権の放棄などについて、憲法をとおして、国家改造を強いられた。
 だが、1951年のサンフランシスコ講和条約で敗戦状態≠ェ解除されたことによって、GHQ軍令はすべて無効になった。
 国家主権がGHQにおかれている日本国憲法も廃棄され、自主憲法が制定されるべきところであった。
 ところが、憲法論議は、いまなお、9条三項の自衛隊項目の加憲など低次元なところで低迷している。
 自主憲法制定の根幹は、伝統国家と革命国家、および保守主義と民主主義の峻別にあるのは疑いがない。
 伝統国家と革命国家、そして、保守主義と民主主義、この二項対立の議論を深めておかなければ、憲法議論以前に、日本という国がどんな国だったのかがわからなくなってしまうのである。
posted by office YM at 11:22| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月15日

神道と世界最古の文明「縄文文化」28

 ●稲作文化と天皇(4)
 旧石器・新石器時代は、西洋の古代史における呼称で、日本の場合、旧石器時代以降の呼び方が縄文・弥生時代となる。
 日本は、明治以降、西洋から古代史を学んできたので、時代区分に西洋の基準を使う悪癖をいまなおひきずっている。
 西洋は狩猟民族なので、打製(旧石器)であれ磨製(新石器)であれ、動物を狩って、肉を切り裂く道具として、石器がもちいられた。
 日本にも旧石器時代があったことにされて、教科書でも、原日本人がマンモスを追って、日本列島へやってきたことになっているが、染色体などを調べても、ユーラシア大陸内部には日本人特有のYAP遺伝子は存在せず、日本人がユーラシア人より先に日本列島に住んでいたことがわかっている。
 西洋式古代史のウソを暴いたのが、三内丸山の縄文文化の存在だった。
 国の特別史跡に指定されている三内丸山遺跡は、5500年前から4000年前までおよそ1500年間にわたって500人ほどが定住していたとされる縄文時代の集落で、遺跡跡からは住居や墓にくわえ、大量の縄文土器や装身具などが出土している。
 またクリやゴボウ、ヒョウタンやマメなどの植物栽培の痕跡もみられ、狩猟中心の新石器時代の古代観がもののみごとにくつがえされている。

 新石器時代(紀元前8000年頃)は日本の縄文時代とかさなるが、両者は世界観がまったく異質で、際立っているのが、新石器時代から土器がまったく出土していないことである。
 土器の有無が新石器時代と縄文時代の決定的なちがいで、それが古代文明の東西の分岐点となった。
 人類は火を利用することを知って、大きな進歩をとげたが、同様に、土器の発明によって水を自在に扱えるようになった縄文人は、狩猟民族とは異なった新しい文明のみちを歩みはじめた。
 水を保存し、移動させる土器が、農業と海洋進出を可能にしたのである。
 三内丸山では、縄文時代、各種の農業栽培がおこなわれたことがわかっており、これが、のちの陸稲・水稲栽培へつながってゆく。
 そして、もう一つが海洋進出で、三内丸山遺跡から1メートル近いマダイや大型魚の骨が出土しているところから沖合漁業がおこなわれていたのは明らかで、その他、新潟県のヒスイ、岩手県のコハク、北海道の黒曜石がみつかっているのは、船団による地方遠征がおこなわれていたからであろう。
 伊豆七島の八丈島で縄文土器が発見されていることから、土器をつくった縄文人が、農業開拓者である一方、海洋民族だったことがわかる。

 1960年中頃、バヌアツ共和国でフランスの考古学者ジョゼ・ガランジェ博士が採取した土器のかけらが、日本の縄文式土器に似ていることに注目した篠遠喜彦博士がオックスフォード大学に分析を依頼した結果、土器がつくられたのは約5000年前で、ミクロパーライトという成分がふくまれていることから、青森県周辺でつくられた縄文式土器だったとわかった。
 また、エクアドル太平洋沿岸のバルディビアで数多く発見された土器が日本の縄文式土器に似ており、年代測定すると5500年前のものだという。
 エクアドルには縄文式土器のような高度な土器の前駆となる素朴な土器がない。
 そこから、アメリカ・スミソニアン大学のベティメガーズ博士は、約5000年前に縄文人が南米エクアドルへ移動してきたという仮説を提示した。
 5000年前、縄文人が高い航海技術を持っていたことは、三内円山遺跡で新潟県のヒスイ、岩手県のコハクがみつかっていることや八丈島で縄文土器がみつかっていることからも明らかである。
 当時の丸木舟は、脇に浮きを付けたアウトリガー方式と思われるが、実験で安定度を測定したところ、台風クラスの波をうけても転覆しないことが分かった。
 日本付近から黒潮がアメリカ大陸にむかって流れている。
 その黒潮にのると、6か月後、カナダ南部からアメリカ西海岸に到着する。
 日本付近を北上後、北太平洋海流となって東進する黒潮は、アメリカ西海岸を南下するカリフォルニア海流となって、赤道手前で北赤道海流と赤道反流に分かれる。
 赤道反流に乗り移った場合、次にぶつかる陸地がエクアドルあたりの海岸になる。
 一方、黒潮反流にのってフィリピンを迂回するルートをとれば、島づたいに南下して、エクアドルからバヌアツへもたどり着くことができる。
 日本からアメリカ西海岸やエクアドルまでも約6か月前後かかるが、食糧は船の影に集まる魚を取り、水は雨水を溜める土器があれば問題はない。
 粘土を焼いて、土器をつくった縄文人は、石器中心の文化をつくった西洋とはまったくちがったみちをあゆんで、日本文明をつくりあげた。
 日本文明の根底にあるのが縄文文化だが、その特質は、土器と農業とりわけ稲作である。
 次回から日本文明の特殊性へふみこんでいこう
posted by office YM at 03:02| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月04日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」27

 ●稲作文化と天皇(3)
 稲作は米食という食習慣をもたらしただけではなかった。
 文化や制度、習俗なども、稲作の影響をうけ、日本という国家は「豊葦原の瑞穂の国(神意によって稲が豊かに実り、栄える国)」(古事記)というにふさわしい稲作国家となった。
 民に水田を割りあて、収穫を納税させる班田収授制(652年)が明治時代の地租改正にいたるまでの日本の租税の基軸で、武士の報酬も石高だった。
 貨幣も米本位制で、衣食住のなかで、稲作文化とかかわりをもたないものは、日本ではなにひとつない。
 平安時代には朝廷の「新嘗祭」「大嘗祭」が整えられ、民間でも、田楽という豊作祈念の歌や踊りがおこなわれるようになって、それが日本の芸能の原型となったといわれる。
 その稲作が、いつごろ、だれによって、日本にもたらされたものか、それが戦前からの歴史上の大きな問題だった。
 稲作の伝来は、稲作文化の伝来でもあって、稲作をつたえた人々と日本人の交流の足跡でもある。
 終戦直後から20年ほど前まで、稲作が朝鮮半島からつたわったという説が有力だったが、いまでは、俗説として退けられている。
 寒冷地でコメは育たず、朝鮮半島北部で稲作が定着したのは、明治時時代に日本で冷害に強い品種(農林一号)ができてからで、それまで、イネは、済州島や半島南端で細々と栽培されていただけだった。

 稲作のルーツは、中国の江西省・湖南省で、1万2000年前までの稲籾が続々と発見されている。
 もっとも、これらはすべて陸稲栽培で、水田遺構の発見は、それから6500年も下らなければならない。
 水稲栽培は、揚子江(長江)の中・下流の起源説が有力で、日本へ伝来したのは長江産のジャポニカである。
 ジャポニカが日本へ伝来したルートは4つあるといわれる。
 @揚子江下流域から山東半島を経て、朝鮮半島南部から九州北部へ
 A中国・遼東半島から朝鮮半島を南下して、九州南部へ
 B揚子江下流域から直接、九州北部(対馬暖流ルート)
 C中国・江南地域から南西諸島を経て、南九州へ(黒潮ルート)
 稲作の場合、種子蒔きから収穫まで、手の込んだプロセスや耕作技術もつたえなければならず、当然、そこには、人的交流がなければならない。
 朝鮮半島伝来ということになれば、朝鮮半島の稲作伝達者との接点がなければならないが、その形跡が一つもなく、考古学的に見ても日本の稲作のほうが明らかに古い。
 稲作が朝鮮半島からつたわったという思い込みは、ユーラシア大陸の文化がすべて朝鮮半島を経由して日本にわたったという先入観からで、まだ日本にはそういうタイプの学者が多いのである。

 稲作が文化であることは、中国の「黄河文明=麦の文化」と「揚子江文明=米の文化」の二つの文明が衝突あるいは侵略があったことから十分にうかがえる。
 漢民族の黄河文明は、乾燥した寒冷地帯に位置するので、米は育たず、麦を主食(麺や饅頭)としていた。
 一方、南に位置する越人=ベトナム系の揚子江文明は、高温多湿地帯で、米を主食としていた。
 日本につたわったジャポニカ米は、中国揚子江沿いの湖南省が発祥と言われる。
 そのことから、揚子江文明に属する人々がジャポニカ米をもって、日本列島に渡り、稲作をつたえたとわかる。
 弥生時代に日本へ水稲耕作をもたらした人々が長江人だったとすれば、かれらが弥生人で、日本本土で、縄文人と共存して、混血して日本人となったのである。
 稲作の伝来が、人的な交流なくして考えられないという根拠はそれで、黄河文明との闘争に敗れた長江文明は、縄文文化と合流することによって、日本で生きのびたのである。
 日本への移入ルートは海路で、動力のない筏でも、長江(揚子江)河口から黒潮(対馬海流)にのれば、3日から10日ほどで九州に至る(840km)。
 長江流域・北部沿岸には、紀元前三世紀以前、筏を改良した沙船という大型の船があったことから、移民目的で、はるか昔から長江の人々が日本に渡って来た可能性はおおいにある。
 縄文文明と長江文明が合流すれば四大文明を超える大文明がうまれてなんの不思議もない。
 次回は、稲作と並んで、日本の国力を飛躍的に高めた農業についてのべる。
 そこに、日本の縄文文化が世界の四大文明を超える大文明を形成する理由がひそんでいるのである。
posted by office YM at 23:20| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月24日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」26

 ●稲作文化と天皇(2)
 縄文晩期から弥生時代初期にかけて、大陸から稲作が伝来、定着したことによって、日本列島で、人類史上、劇的な変化が生じた。
 一粒の種籾から2000粒、2年で400万粒にふえる驚異的な繁殖力をもつ稲作(米穀)が、人類の生態を根本から変えてしまったのである。
 米穀が採集・狩猟よりはるかに食効率が高く、なによりも「余剰」を生み出す食糧だったことから、定住と人口の増加、備蓄と相俟って、社会の原型というべきものがつくりあげられたのである。
 定住が人口増加を、備蓄が冨を、集団化が権力をつくりだす一方で、飢えから解放された人類は、文化や宗教という無形の価値も手に入れた。
 それが祭祀国家の萌芽で、自然崇拝が穀霊崇拝という形をとって、収穫祭からのちの新嘗祭へ発展し、祭祀主としての天皇が出現する。
 稲作が伝来して、集落が発生してから数百年後、日本列島に、ユーラシア大陸には存在しなかった現人神≠ェあらわれたのである。
 その意味で、天皇は稲作からうまれたといってよいのである。
 そこで、古代史の最大のテーマでもある、天皇の権力や権威はどこからきたのかという大問題につきあたる。
 ヨーロッパのキングも中国の皇帝も征服王(覇王)で、軍隊をもたない祭祀王が、なぜ、覇王をしのぐ強い力をもちえたのか、長いあいだ、謎とされてきた。
 理由は、祭祀王=天皇が、権力ではなく、権威だったからである。
 権力にとって、権威は、決定的に重要な存在で、権力者がその地位にとどまることができるのは、権威が万全なかぎりにおいてである。
 人々の心をつかむのは、法や政治などの権力ではなく、文化や宗教という権威であって、権力は、権威と円満な関係にあるとき、安定する。
 権力者は、権威の構造が定まったところへ権力の基盤を打ち込む。
 権力者にとって、権威は、競合者どころか、かけがいのないパートーナーだったのである。

 それが日本特有の権力構造で、権力は権威を立てて、はじめて、権力者たりえるのである。
 権力者が思い上がって権威を倒した場合、その権力者は、早晩、他の権力者の標的となって、長期政権など望むべくもない。
 権威という絶対的存在がなければ、権力は、漂流するほかないのである。
 それが後醍醐天皇の「建武の新政」が失敗したあとの戦国時代で、権威が不在になれば武者たちの群雄割拠があるばかりである。
 権力者が天皇を絶対化したのは、おのれの権力を磐石にするためでもあった。
 権威と権力の二元性をわきまえていなかったのは、天皇にとって代ろうとした蘇我一族だけで、その蘇我氏を討った中臣鎌足の一族は、その後、権力の座について、のちのちまでも天皇を補佐するのである。
 その意味で、大化の改新は、中臣(藤原)一族が蘇我一族にしかけたクーデターということができる。
 天皇の絶対性は、藤原氏ら中心とする家臣団がつくりあげたもので、天皇が絶対であれば家臣団も絶対なのである。
 これが日本の権力構造で、権威と権力の二系統がたがいの支えあっているのである。
 そうなると、最大の善は、力の論理や個人主義ではなく、むしろ、対立を否定する中庸の精神やあいまいさ、決着を避けるグレーゾーンで、日本では、鎌倉から江戸まで権力(幕府)が内紛で瓦解した例は一つもない。

 ユーラシア大陸と日本の国家形態が異なるのは、稲作文化と麦作・狩猟文化のちがいでもあって、稲作国家において、もっとも高いモラルが聖徳太子のいう和の心≠ナある。
 一方、麦作・狩猟文化のモラルは闘争心≠ナ、ユーラシア大陸で通用するのは、個人主義と「力の論理」だけである。
 そこからでてくるのが唯物史観で、近代以降、西洋の国々は、英国のような伝統国家の形態をとる国をふくめて、すべて、革命国家となった。
 日本が、世界で唯一、伝統国家たりえているのは、稲作文化の国だからである。
 自然崇拝の流れをくむ穀霊祭(収穫祭)がそのまま政(まつりごと)になった国では、革命の必然性はどこからもでてこない。
 稲作の国は、飢饉さえなければ、すべての民が飢えることなく生きてゆける。
 だが、狩猟や麦作の国では、力のある者しか生きのびることができない。
 そこで、革命がおきて、過去と旧体制が清算される。
 革命は食糧の絶対的不足もその一因だったのである。
 稲作国家は、政治と自然、宗教が一体化しているので、革命による独裁権力の樹立ではなく、祭祀国家から宗教的な君主制への移動というおだやかな方法がとられる。
 稲作国家である日本が伝統国家として生き残ったのは、稲作という食文化の恩恵といえるだろう。
 長いあいだ、稲作は朝鮮半島からつたわったという曲解がまかりとおってきた。
 次回は、稲作がどこからどんな人々の手をとおって日本につたわったかを検証していこう。
posted by office YM at 03:43| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月15日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」25

 ●稲作文化と天皇
 日本は稲作文化の国である。
 稲作文化は、むろん、米食文化だけをさすのではない。
 狩猟文化が西洋文明の根幹になっているように、稲作文化が日本文明の土台になっているのである。
 稲作文化と狩猟文化とでは、自然観や宗教観、生命観に大きなちがいがある。
 自然を生活資材や糧とする狩猟文化は、自然を征服し、利用しつくし、ときには、殺してしまう。
 一方、稲作文化は、大自然と共にあって、互いにその恩恵にさずかっている。
 自然破壊の西洋において自然はモノだが、自然崇拝の日本では自然はカミなのである。
 コメづくりは、太陽や大地、水の調和で、自然神と生命を宿す精霊、八百万の神々との協業である。
 自然の神々が力を合わせて、コメという霊性の高い(穀霊)食べ物をつくったのである。
 稲作文化は、神と自然、ヒトが一体となった神話的な世界で、日本人の生活全般、宗教や歴史、習俗に稲作文化の影響がおよんでいる理由がそこにある。
 日本人の精神世界が神話的だからで、だから「日本は神の国」といわれるのである。

 稲作よって最初に生じた大変動が弥生初期の人口爆発だった。
 縄文時代晩期には十五万人程度で、絶滅の危険さえあった日本人の数が、稲作の普及によって急増して、やがて、弥生の小国家群の形成につながってゆく。
 米には高い生産性と備蓄性があるからで、1粒の種もみから80粒の米がつく苗ができ、この苗を田んぼに植えると10本ほどにふえるので、収穫は800粒にもなる。
 土地当たりの収穫性も高く、農地1ヘクタールで何人扶養できるかという試算では、日本を10とするとヨーロッパ諸国が2〜4、アメリカが1、オーストラリアが0・1という。
 コメは主食として完全食品であるところから、経済活動の中心で、生活技術や信仰儀礼、社会様式へも大きな影響力をもった。
 人類は稲作を知って、高度な集団生活を営めるようになったのである。
 日本の衣食住から、習俗、制度にいたるまで、稲作文化にかかわらないものはないが、律令・封建体制をささえたのも、役人や武士への録として米であって、貨幣経済も米本位制だった。

 稲作文化から生じたのが祭祀と祭祀王=天皇である。
 生産性の高いコメの伝来によって、人口の急増と集団化がすすみ、日本は、農耕(稲作)国家として歩みはじめるが、農耕国家ということは、とりもなおさず、祭祀国家ということでもあった。
 近代においてすら、冷害や日照り、自然災害などによって村落が全滅するというケースが、歴史上まれではなかったことから、古代社会において、天災による不作の恐怖はいかばかりであったろう。
 コメへの依存度が高まるほど、不作の恐怖も大きくなるが、人々は、ゆたかな実りを神に祈るしかなかった。
 イネの豊凶が村落存続の保障で、しかも、原始的農耕は、自然の脅威の前では無力に近かった。
 豊作の祈念や実りを感謝する収穫祭が、人々の最大の行事で、また、作物の出来がかれらの最大の関心事だったのである。
 そこから、共同体あげての挙げての儀礼中心の宗教(民族宗教/自然宗教)が営まれた。
 日本の土着的宗教=神道が集団宗教なのはそのためである。
 収穫祭が地域連合となって、それが政治連合へ発展していったのは、ヤマト連合政権が、覇権争いではなく、宗教的なむすびつきとして形成されていった経緯からもうかがえる。
 その宗教的むすびつきの中心におられたのが、収穫祭のちの新嘗祭の祭祀主としての天皇であった。
 天皇は、絶対者としての資質をみずからつちかったのではなく、祭祀国家という構造が、天皇=祭祀王という絶対者を必要としたのである。
 天皇は新嘗祭をとおして、世俗を超越して、神となったのである。
 のちの古墳時代において、朝廷の高官や豪族、有力者が、こぞって、大和朝廷の勢力圏であることを示す「前方後円墳」をつくっている。
 大和朝廷・連合政権の結束が、利害ではなく、つよい宗教的権威にもとづいていたとみるほかない。
 エジプトのピラミッドに匹敵する大型の前方後円墳の建造技術は、最低でも数百年の知的蓄積が必要で、祭祀の国家的統一も一朝一夕でできるわざではない。
 その歳月をのりこえて、国全体が大和朝廷へ同一化をはかったのは、祭祀主である天皇への絶対的信仰があったからである。
 時系列的にみると、稲作を身につけた弥生人が小国家群をつくったのが弥生初期(紀元前10世紀頃)であるとするなら、紀元前660年の初代神武天皇、天皇が祭祀主としてふるまった欠史八代、そして、九州北部だけでも100をこえる小国家がうまれ、10代崇神天皇が大和朝廷の国家運動にのりだした紀元前100年までが、大和朝廷の黎明期ということができるだろう。
 そして、その3世紀のちに古墳時代をむかえ、大和朝廷と天皇の権威が確立してゆく。
 次回は、日本というクニの国家形成に大きな役割をはたしたコメ、そのコメづくりを伝来した人々がどこからやってきたのかについて考えよう。

posted by office YM at 13:24| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月24日

神道と世界最古の文明「縄文文化」24

 ●伝統としての天皇と神話
 日本において、皇位の簒奪が不可能だった理由は、皇位が、制度ではなく、伝統だったからである。
 伝統は歴史という時間軸のなか、制度は現在性という平面軸のなかにある。
 皇位は、歴史のなかに用意された玉座であって、歴代天皇はそこへお座りになられた。
 天皇は、空間的存在ではなく、歴史的存在なのである。
 わが国で、天皇にとって変わろうとするものがでてこなかったのは、制度が歴史をこえることができなかったからで、歴史=伝統が天皇を支えてきたのである。
 伝統は、歴史をつうじて後代へ受け継がれていくもののうち変更が不可能な文化で、神話や宗教、血統や祭祀のほか、習慣や習俗、思想や芸術などもふくまれる。
 伝統の対極にあるのが、革命や進歩、自由や平等、民主主義などの近代思想である。
 これらは、変更が可能というよりも、社会の変革や改革、伝統破壊を目的とした文化である。
 極端なケースが暴力革命だが、民主主義や改革も同じ線上にあって、伝統の価値をみとめないばかりか、改革の抵抗や妨害者と見て、敵視する。
 改革主義に対抗するのが保守主義である。
 伝統と保守主義は同じ陣営にあって、ともに革命や改革主義と対抗する。
 革命や改革主義がなければ、伝統をまもる保守主義も右翼もうまれなかったろう。
 保守主義や右翼、民族派は、フランス革命やロシア革命を全否定する。
 そして、神話であろうと実史であろうと、歴史を全肯定する。
 それが、伝統主義に立つ右の陣営の根本思想である。

 天皇の伝統や権威、根拠が歴史にもとづくのはいうまでもない。
 その一つに、神武以来、万世一系の血統が維持されてきた皇紀2600年をあげることができる。
 そして、もう一つあげられるべきは、日本書紀がつたえる「三つの神勅」の神話である。
「三つの神勅」は、天孫ニ二ギノミコトが高天原から葦原中国に天下られるに際して、天照大神から賜った三つのお告げである。

『宝祚無窮(ほうそむきゅう)の神勅』
 葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。
 秋に稲穂が実る葦原瑞穂の国(日本)は、わが(天照大神)の子孫が治めるべき地である。我が子よ、行って治めなさい。天孫が継いでいく限り、この天壌(天と地)はけっして窮することがありません。
『同床共殿(どうしょうきょうでん)の神勅』
 吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与に床を同くし殿を共にして、斎鏡をすべし。
 わが子よ、この鏡をわれ(天照大神)と思ってみなさい。そして、この鏡を宮殿内に安置し、お祭りの神鏡にしなさい。
『斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅』
 吾が高天原に所御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつるべし。
 わが(天照大神)高天原に実った神聖な田の稲穂を、わが子に授けよう。

「三つの神勅」は日本書紀に記された神話であるが、その神話が、天皇や宮中祭祀、神道、米づくりなど、日本という国家や国体の根幹とむすびつき、日本精神や日本的な価値観のようなものをつくりだしている。
 新嘗祭の起源とされているのが『斎庭の穂の神勅』である。
 日本では、古くから五穀の収穫を祝う風習があった。
 宮中祭祀としての新嘗祭が最初におこなわれたのは、飛鳥時代の皇極天皇の御代とつたえられるが、収穫祭の起源はもっと古く、穀物の収穫や備蓄が安定的になって、集落規模も大きくなった縄文晩期から弥生時代にかけてであったろう。
 収穫祭は新嘗祭の原型である穀霊祭でもあって、祭祀主が新穀を天神地祇に供え、みずからもこれを食して、その年の収穫に感謝する。
 当時、穀物の実りは最大の関心事で、穀霊がアニミズムなら、穀霊に祈りを捧げる祭祀主はシャーマンであったろう。
 縄文晩期から弥生時代にさしかかる紀元前10世紀頃、新嘗祭の原型となる収穫祭(穀霊祭)がおこなわれていたと思われる。
 それが日本書紀に記された「三つの神勅」神話とふれあっている。
 縄文時代の素朴な信仰心が、穀霊祭をとおして、神道へ近づいていった。
 自然(穀霊)崇拝のアニミズムが新嘗祭へ、穀霊祭の祭主としてのシャーマニズムが天皇へとうごいて、日本の国体の原型が徐々にできあがってゆくのである。
posted by office YM at 09:15| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月16日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」23

 ●絶対権力者としての天皇の系譜
 大川周明は、古代史のヒーローとして、聖徳太子と中大兄皇子(天智天皇)の二人をあげる。
 聖徳太子は、推古天皇の摂政として、蘇我馬子と協調して政治をおこない、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど、天皇を中心とした中央集権国家体制の基礎をかためた。
 遣隋使を派遣して、国書に中国皇帝にしか使用されていなかった天子ということば(日出処の天子)を使って、日本が、隋と対等な関係にあるとしたのも聖徳太子で、これは、冊封体制からの離脱宣言だったとみてよい。
 日本は、七世紀初頭、聖徳太子によって、華夷秩序から脱して、独立国家の道を歩みはじめたのである。
 一方、中大兄皇子は、藤原鎌足とともに蘇我入鹿を暗殺、蘇我蝦夷を自害に追いこみ(乙巳の変)、稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたって絶対的権力をふるった蘇我氏を滅ぼして、天皇中心国家の根幹をつくりあげた。
 大川は、大化の改新を断行した中大兄皇子を強者と評価する一方、蘇我馬子と協調関係にあった聖徳太子にたいしては逆の評価をする。
 聖徳太子が強者になれなかったのは、蘇我の閨閥関係(外戚)にあったからだろう。
 聖徳太子の子山背大兄王が蘇我入鹿に攻められて一族が自殺に追い込まれたのは、田村皇子(舒明天皇)との皇位争いに敗れてのことで、ここで、聖徳太子の血筋は完全に絶えてしまう。

 628年、推古天皇の没後、舒明天皇が蘇我蝦夷に擁立されて即位する。
 当事、天皇の任命権まで、蘇我氏に握られていたのである。
 舒明天皇は即位13年目で崩御する。
 皇位は皇太子の中大兄皇子に継承されるはずだったが、若すぎた(16歳)ために皇后の宝皇女が皇位に就いた。
 これが第35代皇極天皇である。
 皇極天皇は中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)の生母である。
 大化の改新後、皇極天皇の弟の孝徳天皇に譲位したが、孝徳天皇が没すると重祚して斉明天皇となった。
 皇位継承権のある中大兄皇子、古人大兄皇子、山背大兄王の争いを避けるためだったと思われる。
 孝徳天皇が崩御した後も、中大兄皇子は即位しない。
 661年に斉明天皇が崩御するが、それでも、中大兄皇子は即位せず、皇太子のまま政務にあたる。
 663年、朝鮮半島の白村江にて、友好国の百済を救うため、日本軍は唐・新羅の連合軍と争うが、大敗する(白村江の戦い)。
 その後、日本は唐からの攻撃を警戒し、対馬、壱岐、筑紫などに防人を置くなどして侵攻に備えた。
 中大兄皇子が天智天皇として即位した(668年)のは、外国からの襲来に備えて、歴代の天皇が都を構えた大和から遠く離れた近江大津宮だった。
 ちなみに、天智天皇が完成させた「近江令」はのちの「大宝律令」の基礎となる法典である。
 天智天皇は、その三年後の671年、46歳で亡くなる。
 そして、その後、日本中をゆるがす権力闘争が勃発する。
 聖徳太子が基礎をつくり、大化の改新後、確立された天皇政治が、皇位継承をめぐって、大乱(壬申の乱)をひきおこすのである。

 壬申の乱は、天智天皇の弟(大海人皇子)と天武天皇の子大友皇子との争いである。
 たたかいは、草壁皇子や高市皇子、大津皇子、地方豪族を味方につけた大海人皇子の勝利に終わって、大友皇子は自害する。
 大海人皇子がのちの天武天皇である。
 皇位をめぐるこの内乱が、結果として、天皇の絶対主義を固め、天武天皇の皇親政治をうみだすことになった。
 天武天皇は「日本という国の原形をつくりあげた」といわれるほど、日本に大きな影響を与えた天皇である。
『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じ、天皇の名称や日本の国号を制定したのも天武天皇といわれる。
 神道を制度化したのも天武天皇で、各地の神を祀る祭儀を朝廷公式の儀礼へ取り込み、新嘗祭を創設した。
 天武天皇は、唐をモデルとした新たな都、藤原京を建設する。
 ソフト面は飛鳥浄御原令、ハード面は藤原京を建設することによって、天武天皇は、天皇を中心とした本格的な律令権国家を築き上げようとしたのである。
 日本史をふり返って、聖徳太子から中大兄皇子(天智天皇)、天武天皇へつながる権力者・天皇の強烈な系譜は他に例がない。
 蘇我氏を討った中大兄皇子や皇親政治の天武天皇の強権が、天皇絶対主義の土壌をつくりだして、やがて、摂関政治や権威と権力の二元論的へとすすんでゆく。
 次回は、この歴史をふまえて、日本において、なぜ皇位の簒奪が不可能だったのかを考えてみたい。
posted by office YM at 22:43| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月12日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」22

 ●神道と天皇の誕生
 記紀の時代(8世紀)からみて、紀元前660年は、千年をはるかにこえる大昔で、神武東征も橿原における神武天皇即位も、空想=神話世界の出来事であったろう。
 だが、神話であろうと実史であろうと、日本人にとって、皇紀2600年と神武天皇の真実は、ゆるがぬ歴史の記憶で、歴史は、民族の記憶であり、伝承なのである。
 実在したとされる10代崇神天皇を初代天皇に見立てるむきもあるが、それも、神話と実史のつながる時期が異なるだけで、歴史観に大きな変化が生じるわけではない。
 人々が信じてきたもの、それが歴史なのであって、神話と実史が融合している天皇の歴史は、永遠に変わるところがない。
 大きく変わったことは、崇神天皇の時代に、シャーマニズムとアニミズムの原始宗教が終わって、天皇の時代がはじまったということである。
 自然崇拝にもとづくシャーマニズムは、新嘗祭(穀霊祭)に代表される宮中祭祀へひきつがれ、アニミズムも天神地祇の祭事へ吸収された。
 宮中三殿の賢所は天照大神を祀り、皇霊殿は皇祖皇宗(歴代天皇)と皇族の霊を祀る。
 そして、神殿では八百万の神々(天神地祇)が祀られる。
 これが神道のはじまりで、天皇は、収穫祭の祭祀主だったのである。
 
 縄文文化のエッセンスである神話や素朴な原始宗教が宮中祭祀へと結実する一方、祭祀王だった天皇は、為政者・権力者としての顔をもちはじめる。
 神武以降、欠史八代(紀元前581年〜98年)の約500年にわたる神話時代が終わって、崇神天皇の時代(紀元前97〜30)から人間天皇の物語がはじまるのである。
 ※崇神天皇を3〜4世紀の天皇とする説もある。
 崇神天皇による四道将軍(北陸・東海・西道・丹波)派遣は、神武から9代開化天皇にいたるまで、畿内にとどまっていた大和朝廷が、全国規模の政権へふみだした画期的な一歩であった。
 もっとも、日本全土の支配権を確立するのは、崇神天皇の四道将軍派遣ではなく、崇神から二代下った12代景行天皇の子ヤマトタケルノミコト(日本武尊)の西方の熊襲征伐、東方の蝦夷平定にあったと思われるが、ヤマトタケルノミコトはたたかいのさなかに命を落とす。
この時代は、内憂外患の時代でもあって、14代仲哀天皇の急死(200年)後、269年まで政事を執った神功皇后は、新羅征討の兵を挙げ、朝鮮半島の広い地域を服属下におき、このとき、新羅や高句麗、百済(馬韓・弁韓・辰韓)は朝貢を約して、人質をさしだしたという。
 三韓征伐は、日本・朝鮮両国の史書ばかりか、支那の史書にも「三韓の地はあるときは支那に臣従し、あるときは倭に服属していた」と記されている。
 これは、日本の外史上、画期的なことで、日本の三韓支配は、日本が日本軍と百済復興軍が唐・新羅の連合軍とたたい、敗れた白村江の戦(663年)までつづく。
 このかん、筑紫の国造磐井が新羅と結んで任那に赴く大和朝廷軍に対抗した磐井の反乱(527年)があったが、物部氏に平定されている。
 以後、地方政権の抵抗は収束して、大和朝廷は、完成期へむかうことになる。

 これが3世紀中頃から7世紀にいたる大和時代(古墳時代)である。
 日本の古代史は、『漢書』や『後漢書』、『隋書』、『魏志倭人伝』など中国の歴史文献に依存している。
 したがって、中国の歴史文献に倭国の記述があらわれてこない266年から413年までの約150年が「空白の4世紀」と呼ばれて、大和朝廷の成立や変遷が謎に包まれたままである。
 だが、大和時代に、朝廷の支配がつよまって、古代国家の基礎が整えられたことは、巨大な前方後円墳がさかんにつくられたことからも明らかである。
 大和時代の初期に、全国で11番目の大きさの前方後円墳である箸墓古墳がつくられている。
 箸墓は倭迹迹日百襲姫命の墓で、魏志倭人伝がつたえる卑弥呼の墓でもある可能性が高い。
 すると、邪馬台国と大和朝廷が一線上につながって、天皇の時代としての大和時代がクローズアップされる。
 といっても、前期は、大伴・物部・蘇我らの各豪族が実権を握って、日本という国のかたちも定まっていなかった。
 天皇中心の政治へ変換していったのは、聖徳太子の法律(十七条憲法)および官制(冠位十二階)改革を経て、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が蘇我氏を討った大化の改新(645年)後のことである。
 大化の改新が成功していなかったら、日本は、蘇我氏らによって、儒教的な国家へみちびかれていたと思われる。
 儒教的な国家というのは、徳治主義に立った国家で、王は、正しいか否かで判定される。
 といっても、正しさの物差しはなく、後任者が前任者を否定することによって、正しさが否定され、体制がひっくり返る。
 これが易姓革命で、儒教思想に染まった蘇我一族とそのとりまきに、天皇に敬意を抱く者はなかった。
 蘇我馬子が、東漢直駒という刺客をさしむけて、崇峻天皇を弑逆した背景にあったのは、儒教思想だったのである。
 次回以降、天皇が権力者として、日本という国の土台をつくってゆく過程をみてゆこう。
posted by office YM at 13:02| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月05日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」21

 ●縄文文化と原日本人像
 三内丸山縄文遺跡の発見によって、縄文時代の歴史認識ががらりとかわってしまった。
 弥生時代も、そのはじまりが500年もさかのぼるなど、古代史の枠組みが大きく変動した。
 弥生時代のはじまりが早まったのは、水田稲作の伝来時期が、近年の年代測定によって紀元前10世紀とされたためで、従来の縄文晩期が、新しい年代の設定法によって、弥生時代の早期・前期へ書き直された。
 すると、神武天皇が即位した紀元前660年は、縄文の晩期ではなく、弥生の前期にあたることになって、吉野ヶ里弥生遺跡へイメージがつながりやすくなってくる。
 三内丸山縄文文化から1千数百年が経過し、吉野ヶ里弥生文化まで数百年という年代背景を思えば、紀元前7世紀は、野蛮な原始時代ではなく、稲作や集落、集団生活や食料備蓄が定着した古代社会だったと思われる。
 服装も、土偶などから、貫頭衣や巻布衣のほか、袖のついた衣服、ズボンを身に着けていたことがうかがえ、歴史学者のいう原始時代とはかなりイメージがちがう。
 紀元前660年にたいするわれわれのイメージは、考古学にもとづく学者の見解とはずいぶん異なるのである。
 縄文が謎につつまれているのは、1万数千年前から1万年にもおよぶ時代の長さゆえで、三内丸山(約5500年〜4000年前)の縄文文明も、どこへ消えたのか定説がない。

 原日本人がどこからきたのかもわかっていない。
 日本の歴史家は、大陸や半島からやってきた人々が日本人の祖先となったと主張してきた。
 だが、日本人と大陸人・半島人のあいだに血縁関係はまったくない。
 アジアで支配的なY染色体はO系統やC2系統で、日本人のY染色体は「ハプログループD1b縄文系」と「ハプログループO1b2弥生系」の二種類だけである。
 ハプログループはYAP型ともいわれるが、このYAP型は朝鮮人や中国人(漢民族)にはまったく見られない。
 YAP型のハプログループD1b型はアイヌ人・沖縄人・日本人の3集団に多く見られるタイプで、一方、「ハプログループO1b2弥生系」は大陸沿岸人と思われる。
 このことから、縄文人は、どこかから渡来してきたのではなく、数万年前、日本列島に忽然とすがたをあらわし、大陸沿岸部からやってきた同類のハプログループO1b2弥生系と混血して、現在に至ったということになる。
 大陸・半島に「ハプログループO1b2弥生系」が存在しないのは、O系統やC2系統の内陸人に滅ぼされたからで、一部が日本にやってきて、縄文人と混血したのである。
 結局、原日本人=縄文人のルーツはわからない。
 縄文文化も、一万数千年前、忽然とすがたをあらわし、弥生文化と融和したのち、古墳時代をへて、クニ(大和朝廷)を全国規模に広げていった。
 その末裔が今上天皇で、世界最古の伝統国家日本には、縄文人(YAP型)と縄文文化という二本の主柱がそなわっている。
 神道や天皇のルーツについても、日本列島土着である以上のことは、なにもわかっていない。
 1世紀前後に、日本文明が中華文明から分枝した(ハンチントン)というのは、むろん、科学的根拠をもたない見当外れである。

 山田康弘(『つくられた縄文時代』)は「戦前、縄文時代ということばがもちいられたことはなく、一律に石器時代という呼称が使用されてきた」とのべている。
 石器時代は、銅、青銅、鉄がもちいられなかった時代という意味で、人間の歴史の大部分は石器時代に該当し、ほとんど200万年にわたっている。
 原日本人=縄文人のルーツは、旧石器時代の200万年の深い闇にのまれてしまったわけだが、いえることは、縄文文化や日本民族は、どこかからやってきたのではなく、日本列島にうまれていまに残っているという厳然たる事実である。
 それを保守といいうるなら、日本という国家は、日本列島に樹立された世界一の保守国家なのである。
 縄文時代は、紀元前一万年前からはじまる新石器時代にあたるが、世界的な歴史区分にはないので、縄文は、時代的概念ではなく、文化概念ということになる。
 これまで、三内円山からはじまる縄文文化を探ってきたのは、天皇と神道のルーツをもとめるためだった。
 その核心にふれるポイントが記紀の神武東征と紀元前660年の神武天皇の即位であった。
 考古学的には否定されているが、それは大きな問題ではないだろう。
 神話にしろ実史にしろ、大事なのは、物語性のほうである。
 歴史は文化概念で、われわれが記紀を尊重するのは、古人がそれを信じてきたという物語性のほうである。
 天皇や神道の真実も物語にあって、だれも見たことのない実史と空想でしかない神話がないまぜになっているのが歴史である。
 縄文文化のアニミズムとシャーマニズムが、長い時間をへて、古道の原型をつくって、やがて、神道へ発展していった。
 そして、神道=古道から、天皇の権力および権威がうまれた。
 次回以降、日本という国家の誕生にともなう天皇の権力および権威について考えてみよう。
posted by office YM at 17:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月29日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」S

 ●縄文時代にさぐる日本国のルーツ
 大川周明は日本史を4期に分けて、第一期を建国から大化の改新までとした。
 実史から天皇以前≠割愛したのである。
 建国以前は縄文時代で、歴史学的には、ほとんど史料がない。
 縄文時代は、歴史学者によると、原始時代で、人々が毛皮をまとって、獣を追っていたとされるだけで、人文科学的な分析がまったくなされていない。
 古道(神道)や天皇のルーツは、その縄文時代にある。
 古道という土着的宗教が、自然崇拝からアニミズム、シャーマニズムなどをへて文化的な発育をとげたと思われるのが縄文時代だが、のべたように、縄文時代の文化史的な研究にみるべきものはなく、むろん、推論も存在しない。
 手がかりになるのが青森県の三内丸山縄文遺跡(5500〜4000年前)である。
 紀元前30世紀から20世紀にかけて、東北中心に「縄文都市」というべき文明が存在していた。
 同遺跡では、約1500年間つづいた集落跡の遺構や遺物から、住んでいた人々の生活技術から精神世界までをみることができる。
 竪穴住居跡、掘立柱建物跡、大型掘立(竪穴)柱建物跡、道路跡から、当時の文化レベルが明らかで、大人と子どもの墓、縄文土器や石器、釣り針、刺突具などの骨角牙貝製器、土偶、土・石製の装身具、袋状編み物や編布などの日用品から当時の人々の生活様式がうかがえる。
 注目されるのが、遠隔地から運ばれたと思われるヒスイやコハク、黒曜石が出土したことで、DNA分析によって、ヒョウタンやゴボウ、マメなどのほかにクリまでが栽培されていたことがわかっている。

 三内丸山の縄文文化は、まぎれもなく、日本文化のルーツで、日本は、紀元前5500〜4000年前からこの土着文化を連綿と保守してきたのである。
 天皇史は、記紀にもとづいて、紀元前7世紀の神武東征や神武天皇の即位を起点にしている。
 それ以前は神話で、記紀神話は、天皇の正統性を謳ったものである。
 神話に隠れて、実史がみえにくくなっているが、日本列島に誕生した文明と文化が、神武神話をはるかにさかのぼって誕生したのはいうまでもない。
 保守は連続性で、神道や天皇という文化、大和朝廷という文明をうみだした縄文文化は、古墳時代をへて、やがて、飛鳥や奈良、平安の日本史へ合流してゆく。
 有史以前から神話、実史をつらぬいているのは、保守という潮流で、日本は同一の宗教観・価値観を有史以前からうけつぎ、今日まで継承してきた。
 それが祭祀国家の原型で、根底にあったのは、自然崇拝と自然を畏れ、敬う素朴な宗教感情だった。
 日本の土着宗教が自然崇拝となったのは、自然が恵みだったからで、砂漠の宗教(キリスト教・イスラム教)が闘争的な一神教なのにたいして、日本の宗教は、平和的な多神教(アニミズム)であった。
 一方、自然は、荒魂が暴れる脅威でもあって、自然神と交流をはかる卑弥呼のようなシャーマンが要請された。
 それが天皇の原型で、紀元前1世紀に「分かれて百余国となる」(漢書地理志)とある国々の族長≠ニしての天皇が、そのはるか以前から存在していたのである。

 天皇や大和朝廷から切り離せないのが古墳である。
 古墳は、権力の象徴として、大和朝廷が日本国家の統一をなした3世紀後半から7世紀にかけてつくられた。
 古墳造成が400年以上つづけられたのは、そのかん、権力の動揺がなかったからである。
 古墳は、当時、世界最大の土木工事で、大手ゼネコン大林組の試算によると、日本最大の仁徳天皇陵に要した日数が15年8か月、必要人員は延べ680万人、かかった費用が2000億円という。
 当時、このような大工事が可能だったのは、大和朝廷が権力国家ではなく、宗教(祭祀)国家だったからで、すでに大和朝廷は、磐石の基盤をもっていたのである。
 三内丸山縄文遺跡と古墳をつなぐのが大規模な土木技術である。
 三内丸山遺跡の3層の掘立柱建物は、6本の巨大木柱を組み合わせた堅牢な建造物で、高度な土木技術のほか、集団的労働力や計画性、すぐれた指導力があったことをうかがわせる。
 吉野ヶ里の弥生遺跡(紀元前3世紀〜紀元3世紀)の復元された掘立柱建物では、直径50p以上の柱が使用されていることから大きな宮殿が建立された可能性が高い。
 日本国の歴史の連続性と4000年の保守思想は、年代をまたぐ遺跡として、歴然として輝いているのである。
posted by office YM at 17:50| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月26日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」R

 ●文明の衝突としての神道・儒教・仏教その2
 日本に仏教が伝来したのは6世紀半ばである。
 そして、崇仏派の蘇我馬子と聖徳太子が排仏派の物部守屋を討った「丁未の乱(587年)」ののち、中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足が蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼした「大化の改新(645年)」後も、仏教が国教としての地位をえてきた。
 仏教が日本で栄えた理由を三つ挙げることができるだろう。
 一つは、仏教が文明とうけとめられたことで、仏教は、宗教という枠組みをこえ、日本に新文明の導入と普及、その発達という形で開花した。
 大川周明はこう指摘している。
「仏教の渡来とともに寺工、仏工が入国したので、建築・彫刻が俄然として発達した。推古天皇の十八年に高麗より渡来せる僧雲徴は紙及び墨の製法を伝え、同じく推古天皇の時代、百済僧観勒は天文・地理学及び暦本を献じて、播種・収穫その他一般農業上に非常なる進歩を促し、孝謙天皇の時に渡来せるシナ僧鑑真はわが国における医術の祖と呼ばれた」
 土着信仰である神道(古道)が内なる神だったのにたいして、大陸から伝来した仏教は、文明という威をそなえた外なる神で、多神教世界だったわが国において、仏教は、内なる神と並び立つ有力な神となったのである。
 仏教が日本で栄えた二つ目の理由に仏像仏画をあげることができる。
 日本の土着信仰には、神の像を彫り、画いてこれを拝するという習俗はなかった。
 ところが仏教は、万物皆空・諸行無常を説きながら、実際には物象主義的であって、仏像仏画を飾り、堂塔伽藍を建立して、慈悲・偉大・荘厳なる仏陀の福音を形象化することにつとめた。
 抽象的道理はかならずしもひとをうごかさない。
 理論を以って理性にうったえるよりも、具体的な崇拝の対象をあたえ、感情にうったえうることことのほうが、はるかに人心を惹きつける。
 百済から朝廷に仏教をつたわったとき、欽明天皇は「相貌端厳、全く未だ看ざるところなり」と仰せられている。
 古道には神体=偶像がないので、仏像の荘厳美麗なるすがたが当時の人々の信仰心をはげしくゆさぶったのである。
 崇拝の対象を具体化する仏像仏画によって、日本では、仏教の布教が急速にすすんだのである。
 ちなみに、神道が神殿や聖堂をもつにいたったのも、仏教の影響で、それまで小さな祠や自然の一部だった祈祷場が、仏教の堂塔伽藍を模して、大規模な建造物をもつにいたった。
 仏教が日本で栄えた第三の理由に、朝廷が率先して、仏教に帰依した事実をあげることができる。
 僧官を置き、官寺を各国に建立して、国家の鎮護と人民の布教を任じることによって、僧侶は国家における特別の地位を占め、仏教伝道は、国家の事業であるがごとき様相を呈した。
 といっても、皇室の伝統に仏教がとりいれられることはなかった。
 仏教の「輪廻転生」「解脱」が、個人のものであるのにたいして、神道の「八百万の神々」「自然崇拝」が集団や共同体のものだったからである。
 もともと、朝廷が仏教を重んじたのは、仏教が、内神の及ばない力をもつと信じられる外神だったからで、朝廷は、天変地異や疫病などの災いから国家や民をまもるために、外神の霊験に頼ったのである。

 大陸や半島から日本につたわった大乗仏教は、解脱や個人の悟りをもとめる小乗仏教にたいして、大衆救済や社会奉仕という公共的な要素を多くふくんでいた。
 大乗仏教の代表的な人物が、朝廷から初めて仏教界の最高位である「大僧正」の官位をあたえられた行基である。
 1000人をこえる門弟集団を擁していた行基は、49の道場や寺院、15の溜池、9筋の溝と堀、6所の架橋、困窮者のための布施屋9所のほか多くの灌漑事業などの社会事業をおこなった。
 そして、疫病や飢饉、天災に苦しむ民の救済をねがう聖武天皇の要請をうけて、東大寺の大仏を造った。
 大乗仏教が絶対善となったのは、慈悲の思想からだった。
 だが、その後、仏教は、開祖や宗派によって、密教(天台宗/真言宗)や念仏信仰(日蓮宗/浄土宗/浄土真宗)へ変容しながら、それぞれ別個の発展をとげてゆき、行基の社会善から大きくかけ離れたものになっていった。

 中国から伝来した大乗仏教は、もともと、先祖崇拝の儒教や道教(地獄)と習合していたため、祖先崇拝の教義をもっていた。
 これに切支丹禁止令と表裏の関係にある檀家制度があいまって、江戸時代に墓参り仏教、葬式仏教ができあがった。
 一方、孔子思想としての儒教は、学問として武士層にうけいれられて、武士道や忠君愛国、尊皇思想へ変化していった。
 神道と仏教、儒教のなかで、日本的な精神としていまに残っているのは、結局、大川周明のいう古道、神道だけということになる。
 神道の原型は、古代史上、いつごろ萌芽したものであろうか。
 もともと、自然崇拝や大自然にたいする畏怖、一体感に由来するものだったはずで、古道は、本居宣長の大和心にもつうじるだろう。
 次回以降、日本の心としての古道の原点がどこにあったのかをさぐっていこう。
posted by office YM at 09:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月19日

神道と世界最古の文明「縄文文化」Q

 ●文明の衝突としての神道・儒教・仏教
 大川周明は日本史を4期に分けて、第一期を建国から大化の改新、第二期を大化の改新から鎌倉幕府、第三期を鎌倉幕府から徳川幕府の大政奉還、第四期を明治維新から現代までとした。
 その根底にあるのが、儒教と仏教、神道、西洋思想の衝突とその分化・棲み分けであろう。
 大川は、儒教が学問、仏教が宗教、神道が政治、西洋思想が文化への傾きを深めて、日本史の4期の区分けができあがったというのである。
 聖徳太子は、神道をもって政治の根本主義をなし、儒教をもって国民の道徳的生活を向上せしめ、仏教をもって宗教的生活の醇化をはかったと大川は指摘する。
 そして、道徳と政治を兼ね備える儒教は、日本固有の思想と相容れざるものだったと警告する。
 儒教は、天は有罪を討ち、有徳に命じて主権者たらしめると教える。
 それは、とりもなおさず易姓革命であって、力による王位の争奪である。
 シナは易姓革命を幾度となく繰り返して今日におよんでいる。
 ところが、日本においては、神武天皇の直系でなければ主権者となることができない。
 わが国の主権者たる天皇は「天神にして帝王」なるが故に命を受くるところがないと大川はいう。
 大川は天皇を「族の長」としてとらえ、これをして絶対者とする。
 日本が神武以来、万世一系の安泰を保ってきたのは、天皇が族長≠ニいう絶対的存在にして高天原が至高の理想だったからで、その根本にあるのは神道である。
 仏教や儒教がいかに栄えても、皇室においては、神道が尊ばれて、仏儒思想が入り込む余地はなかった。

 仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と大連・物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた丁未の乱(587年)によって、仏教は、国教に準ずるものとなった。
 だが、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣(藤原)鎌足らが蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼして孝徳天皇を即位させ、中大兄皇子が皇太子として実権を握った大化の改新(645年)によって、日本は、政治から仏教勢力を一掃するという古代政治史上最大の改革をなしとげる。
 蘇我氏打倒はその後の日本の政治に決定的な影響をおよぼす。
 国体としての天皇と、政体としての権力(摂政・幕府)の二元性が確立されてのち、その体制が鎌倉・江戸幕府から現代にまで継承されるのである。
 大化の改新以後の朝廷の安定は、易姓革命や宗教政治を排除した神道の絶対性と無縁ではない。
 根幹において変化がないことが国家安定の基盤で、大川が族長≠ニ呼んだこの絶対性は、血統であり神性であり歴史であって、一切の変更をみとめない。
 新嘗祭に代表される皇室の儀式はすべて神道で、太古よりなにもかわるところがない。
 それが祭祀国家の本質で、民の幸と国家の繁栄の祈りは、永遠にして不変なのである。
 国体が絶対にして不変である一方、政体が柔軟だった理由に、蘇我一族や藤原氏ら天皇の外戚(女系)が独占した摂政制度をあげることができる。
 日本で易姓革命がおきなかったのは、摂政あるいは幕府がしばしば交代したからである。
 有徳をもって権力者となるのは、政体の主であって、国体の主ではなかったのである。
 権力抗争は政体の出来事であって、原則として、国体は、権力抗争に関与しなかった。
 摂政あるいは幕府が交代しても、国体が関与しないかぎり、天下の大乱にはならない。
 大川周明が、鎌倉幕府から徳川幕府の大政奉還までを一時代としたのは、700百年近くつづいた武家政権において、国体がまもられたからだった。
 例外が「建武の新政」で、後醍醐天皇がもとめたのは倒幕という権力抗争であって、国体の安泰ではなかった。
 湊川の戦いで散った楠正成の「七生報国」は儒教の思想で、北畠親房の神皇正統記は南朝の正統性を主張して、皇統が神武以来100代にして滅びるという慈円「愚管抄」の百王説を否定した。
 後醍醐天皇、絶対的権威ではなく、相対的権力をもとめて挙兵したのである。
 武家政治をささえた武士道にも、その中心に江戸時代に奨励された朱子学をはじめ陽明学などが中心にあって、それが、御恩と奉公から幕末の維新運動にまで援用された。
 権力をもとめてゆれうごくのが文明の相なら、権威の下で不動なのが文化の相である。
 日本文明は、縄文文化という歴史の下敷きにそって展開されてきた独自の文明運動で、中華文明や西洋文明などと衝突しながら四つの時代区分をかけぬけてきた。
 これもまた大川周明流の『文明の衝突』なのである。
posted by office YM at 15:20| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月10日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」P

 ●皇国史観排除によって失われた日本人の歴史感覚
 大国主命は、出雲の国(島根県)で八十神を滅ぼし、葦原中国の王となったが、協力者のスクナビコ(小人神少彦/一寸法師のモデル)が常世国へ去って途方に暮れる。
 そのとき、われを大和国の三輪山に祀るべしという声が聞こえてくる。
「その声はだれや」と問うと「我は汝の幸魂(さちみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。
 声の主は大国主命自身で、聞こえたのは自身の魂の声だったのである。
 ここでフィクションと史実、史料が交錯する。
 第10代崇神天皇を支えた第8代孝元天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命は三輪山の神である大物主神(大国主命)の妻(神婚)になったという。
 百襲姫が魏志倭人伝のいう「卑弥呼」で、援けた男弟が「崇神天皇」だったことは、百襲姫の墓(箸墓)が、死期や大きさなどから卑弥呼の墓とみられることからも明らかだろう。
 大国主命と百襲姫の伝説が、卑弥呼の墓(箸墓)という史実をとおしてむすびついているのである。
 神話は、その神話を信じてきた人々の歴史でもあって、実証主義的な実史よりもいきいきと描かれている。
 それが、天孫降臨や神武東征、紀元前660年の神武天皇の即位で、皇国史観は、考古学的にして物語性を欠いた実史よりはるかにゆたかな内容をもっている。

 神武天皇は、大国主命を祀った三輪山麓に朝廷をひらき、10代崇神天皇は三輪山(大和)から全国覇権の第一歩をふみだす。
 ここで問題になるのは三輪山麓の大和という土地柄である。
 大和は地政学的に見て日本国を統一支配するには不適切な地域である。
 四方を山に囲まれた盆地で、陸路・海路から隔たった閉鎖的な場所だからである。
 農業生産の拠点としても狭隘で、河川流域という都市の第一条件を満たしてもいない。
 神武天皇が即位し、都を築いたのは、その大和の南端に近い橿原である。
 大和の中心は、現在の奈良や天理市が近い北方で、南はさびれている。
 神武天皇が橿原で即位した理由は、当時、そこが、豪族たちの力がおよんでいない半ば打ち捨てられた地域だったからではないか。
 神武天皇は、大和をめざしたのではなく、たどりついた地が大和南部だったのである。
 そして、橿原の地で、欠史八代の永きにわたって、地歩を固めて、10代崇神天皇にいたって、全国制覇に打って出る。
 記紀の編纂者は、大和東遷を合理化するために、大国主命の三輪山エピソードを神話に仕立てたのであろう。
 神武東征は、カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和の地に至って、橿原宮で即位するまでが記されている。
 東征が東遷とも呼ばれるのは、都を日向から大和に移すという意味である。
 カムヤマトイワレビコは兄のイツセ(五瀬命)とともに、葦原中国を治めるべく、日向(高千穂)から東へむかい、岡田宮で1年余、阿岐国で7年、吉備国で8年を過ごす。
 進軍が遅れたのは敵対勢力の妨害が激しかったからで、イツセは、浪速国の戦闘でついに戦死する。
 熊野まで来たとき、大熊があらわれて、兵士たちはみな気絶してしまう。
 このとき、カムヤマトイワレビコは、熊野のタカクラジ(高倉下)が運んできた一振りの太刀によって目を覚まし、熊野の荒ぶる神を切り倒し、兵士たちも元気を回復した。
 この太刀は、タカクラジの夢にあらわれたアマテラスとタカミムスビ(高木神)から下されたという。
 これは、天孫族のカムヤマトイワレビコに高天原からの神助があったという兆しで、一行はタカミムスビから遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、大和の宇陀に至った。
 カムヤマトイワレビコは、宇陀のエウカシ・オトウカシ兄弟、エシキ(兄師木)・オトシキ(弟師木)兄弟、土雲の八十建、ナガスネヒコ(登美毘古)らと壮絶にたたかう。
 有名なのが戦いの最中、カムヤマトイワレビコの弓の先にとまった金色の鵄(とび)で、ナガスネヒコの軍は、金鵄の光輝に眩惑されて戦闘不能に陥る。
 こうして、カムヤマトイワレビコは、荒ぶる神たちを服従させ、ついに畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)で神武天皇として即位する。
 
 神武東征は、物語が単純ではなく、多くの示唆に富んでいる。
 一つは敵が多かったこと、高天原からの神助があったこと、ひたすら大和の地をめざしたことである。
 敵が多かったのは史実だろうが、神助はフィクションで、大和を目指したのは結果論であろう。
 もっと重要なのは、軍団を率いて、長い歳月をかけて、日向から大和をめざしたカムヤマトイワレビコが橿原宮で即位するにいたった文化の力である。
 戦後日本人は、70年前、皇国史観を捨て去って、日本史を歴史実証主義にゆだねてきた。
 歴史教科書の縄文時代晩期の紹介では、土器や竪穴住居があるだけで、小集団の原始人が狩りや採集で生計を立てていたとする。
 小集団だったのは、確保できる食糧が少なかったからという。
 出土した土器と竪穴住居跡などの史料から一歩も出ないのである。
 ところが、神武東遷の神話には、当時の様子が物語性ゆたかに描き出されている。
 歴史実証主義が見失っている文化の力が、神話のなかでみごとによみがえっているのである。
 皇国史観排除という名目で、戦後、日本人は、歴史を奪われてきた。
 次回以降、日本の基礎を固めた古代天皇の足跡を見ていこう。

posted by office YM at 14:45| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月19日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」O

 ●神話に隠された歴史の真実
 スサノオは、天照大神や月読命とともに、イザナギの禊からうまれた3神のうちの一柱である。
 天照大神は高天原を、月読命は夜の食国(オスクニ)を、そしてスサノオは海原を治めるようイザナギに命じられるが、スサノオは、イザナミのいる根之堅洲国に行きたいと泣き叫び、中つ国から追放されてしまう。
 スサノオは、天照大神に別れ告げるため高天原へ上るが、天照大神はスサノオが攻めて来たと思い、武装して待ち構える。
 二神は互いの疑いを解くために誓約(うけい)をおこなう。
 誓約は結果が宣言どおりか否かによって、邪心のあるなしを判断する卜占である。
 天照大神がスサノオの持っている十拳剣を噛み砕き、吹き出した息から三柱の女神(宗像三女神)が産まれた。
 この三女神を祀るのが、2017年に世界遺産登録された沖の島宗像大社の沖津宮、中津宮、辺津宮である。
 次に、スサノオが、アマテラスの「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を噛み砕くと、宣言どおり、吹き出した息から五柱の男神が生まれた。
 スサノオの潔白は証明されたが、高天原に滞在することになったスサノオが乱暴をはたらいたため、天照大神は嘆いて、天の岩屋に隠れてしまう。
 これが天の岩戸隠れで、太陽神=天照大神が身を隠したため世界が真っ暗になってしまう。
 高天原を追放されて、出雲の鳥髪山へ降ったスサノオは、その地を荒らしていた八岐大蛇の生贄になりかけていた美しい少女櫛名田比売(くしなだひめ)と出会う。
 スサノオは、櫛名田比売を櫛に変えて髪に挿し、八俣遠呂智を退治する。
 そして八俣遠呂智の尾から出てきた草那芸之大刀(くさなぎのたち)を天照御大神に献上し、それが三種の神器の一つとなった(熱田神宮の御神体)。
 こうして、スサノオは櫛名田比売を妻として、出雲の根之堅洲国に留まる。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまごみ)に 八重垣つくる その八重垣を」
 スサノオは、日本で最初の和歌を詠った歌人でもあったのである。

 スサノオは、天つ神ではなく、国つ神である。
 国つ神の代表であるオオクニヌシ(大国主命)はスサノオの子孫である。
 この設定は多くの示唆をふくんでいる。
 一つ目は、天孫族(天つ神)と地祇(国つ神)が対立関係にあったこと。
 二つ目は、天つ神と国つ神は、全面戦争を避けて、棲み分けしたこと。
 三つ目は、世界を現象界(=顕界)と観念界(=幽界)に分け、前者を天つ神、後者を国つ神が支配するとしたこと。
 肉体の目に見える顕界と、魂の目に見える幽界の二元論である。
 幽界が設計図なら、設計図どおりにつくられたのこの世が顕界で、両者は表裏の関係にある。
 神道では、高天原と葦原中国、天つ神と国つ神、天照大神(伊勢神宮内宮祭神)と豊受大神(伊勢神宮外宮祭神)というふうに二項対立(二元論)が基本原理になっている。
 これが、権威と権力の二元論にひきつがれて、天皇に地位が確定する。

 天皇中心の政治というのは、天皇と摂政、天皇と幕府の二元体制で、天皇は祭祀、為政者は権力をあずかった。
 祭祀と権力もまた二元論で、祭祀は国家の安泰と民の幸を祈念し、権力者は政体をコントロールする。
 政体は、法や権力を操作する一過性の形や状態である。
 したがって、政体(権力)が変わっても国体(権威)に変化は生じない。
 その二元構造が日本を世界一の伝統国家たらしめてきたといってよい。
 中世以降、二元構造が崩壊に瀕する危機が二度あった。
「建武の新政」と明治維新から第二次大戦敗戦までの80年余である。
 後醍醐天皇の新政が失敗すると「応仁の乱」から戦国時代へ日本は「暗黒の中世」へ突入してゆく。
 権力をもとめた権威が空洞化したため、権力が手綱を失った暴れ馬のように暴走したのである。
 後醍醐天皇や北畠親房、楠木正成らが傾倒していたのが儒教で、親房の『神皇正統記』は徳治と名分論を謳った易姓革命のテキストだった。
 建武の新政は、神道が後退した時期の政変だったのである。
 もう一つは、天皇を国家元首に担いだ明治憲法体制で、国体と政体の合一によってつくりあげられた帝国主義は、ヨーロッパの政治システム真似た軍部による天皇の政治利用でもあった。
 その結末が1945年の国体の危機で、朝鮮戦争がなかったら、日本は共産主義革命にのみこまれていたろう。

 戦後の平和と繁栄は、国体護持の賜物で、象徴天皇の存続によって、国体と政体の二元論が復活して、日本再生が曲がりなりにも実現した。
 戦後、日本は、民主主義の国になったが、民主主義は、課税や法律、行政と同様、政体の範疇にあるもので、国家の安全や発展、民の幸という国体概念を超えるものではない。
 国会の開会式に天皇陛下がご臨席されるのは、日本が、国体(権威)と政体(権力)が二元論に立っているあかしで、天皇が憲法上の存在であるというのは、左翼反日の妄想にすぎない。
 憲法が最高法規で、民主主義が最高の意志決定手段というのは、政体=国家の革命国家のルールであって、国体を有するわが国には通用しない。
 伝統国家では、法規や多数決など政体の一過性のルールだけではなく、習慣や伝統、しきたりが重んじられる。
 国体は歴史の一部なので、過去が現在に反映されるのである。
 政治の目的は、国家・国民の繁栄の継続であって、国家は、現在を生きるにすぎない人々の占有物ではない。
 国民投票でEUから脱退したイギリスや大統領公選制のアメリカにあるのはのは、多数決(民主主義)だけであって、国体という政治の理想がない。
 神道の伝統にもとづき、権威と権力の二元論を立てた日本の国の形は、世界でもっとも洗練された政治体制といっていいであろう。
posted by office YM at 00:15| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月15日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」N

 ●神話と実史の融合点と断絶点
 神武天皇の祖先にあたるのが、神代のイザナギ・イザナミである。
 そこに神話と実史の接点がある。
 イザナギ・イザナミが国土や多くの神々を生み、黄泉国から帰ったイザナギが禊払いしたときに天照大神・月読尊・須佐之男命が生まれている。
 ここまでが神話である。
 天照大神の孫で、天孫降臨したニニギノミコトの曾孫が神武天皇である。
 ニニギノミコトが地上に降り立ったあとが人代(実史)にあたる。
 イザナギ→天照大神→アメノオシホミミ→ニニギ→山幸彦→ウガヤフキアエズ→神武天皇。
 したがって、皇室の祖は、イザナギでもイザナギからうまれた天照大神でもなく、天照大神から2代下った人代のニニギノミコトということになる。
 女系天皇論者が、天照大神を皇室の祖というのは、神話と実史の混同で、天照大神は、皇祖ではなく、皇祖神である。
 ちなみに天皇以外の氏族もすべて、イザナギ・イザナミからはじまっている。
 大伴氏はアメノオシヒノミコト、物部氏はニギハヤヒミコト、中臣氏(藤原氏)はアメノコヤネが祖先で、神を祖先にしていない大豪族は百済出身といわれる蘇我氏だけである。
 有力豪族が天皇に忠実だったのは、かれらの祖先がニニギの降臨に従った神々(五伴緒/イツトモノオ)だったからで、神話秩序の下にあった支配層の手によって、天皇中心の体制をつくりあげられてゆく。
 日本史で、唯一、天皇に刃をむけたのは、第32代崇峻天皇を弑逆した蘇我馬子だけだが、大化の改新で、蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿の直系4代による独裁体制が破られて、天皇中心の体制が復活する。
 ちなみに、蘇我氏が大きな力をもったのは、天皇の外戚(女系)だったからで、天皇の妃は蘇我一族がほぼ独占していた。

 天皇が尊いのは、神の子孫だからではなく、神武以来の血統(万世一系)がまもられてきたからである。
 その伝統こそが天皇の正統性である。
 天皇の地位は、歴史に用意された血統(男系相続)という玉座≠ノあって、そこに座られるのが天皇陛下である。
 皇位は、歴史上の地位であって、皇室の家系にとどまるものではない。
 女系天皇容認論は、歴史をつらぬいてきた真実を裏切る伝統破壊にほかならず、女性天皇という事態になれば、天皇の正統性が根こそぎ失われる。
 皇室断絶の危機を回避する唯一の方策は、旧皇族の皇籍復帰か、旧皇族への皇統承継権の付与しかなく、GHQが図った皇室断絶政策(11宮家の臣籍降下)をいつまでもひきずるほど愚かな歴史的選択肢はない。
 まもらなければならないのは、天皇の正統性で、天皇陛下も皇室も、皇位という歴史に刻まれた玉座をまもることによってまもられる。
 世界遺産に登録された沖ノ島(宗像神社)が神の島とされているのは、神性をおびているからではなく、4世紀から現在まで厳しく伝統がまもられてきたからである。
 沖ノ島にはきびしい入島制限と女人禁制がある。
 それが伝統で、世界遺産委員会は、女人禁制をふくめて歴史遺産としたのである。
「いまは男女平等の時代」などといって、女性宮家・女系天皇をみとめようというのは、伝統を毀損、破壊する亡国の徒のたわごとにすぎない。

 神話へ話をもどそう。
 天皇にかかわる神話は国譲り≠ナあろう。
 これは、ニニギノミコトの降臨(天孫降臨)に先だち、高天原から国土委譲をもとめる使者が派遣され、大国主命がこれを承認して、出雲(出雲大社)に祀られる話である。
 この神話から、大国主命は「国譲りの神」とも呼ばれる。
 国譲りの第一の使者、天穂日神(アメノホヒノカミ)は大国主命に媚びて命をつたえず、第二の使者、天若日子(アメノワカヒコ)は問責使の雉を射たために神意によって矢に当たって死ぬ。
 最後の使者、建御雷神(タケミカヅチノカミ)には、大国主命の二人の子のうち、事代主神は委譲すべきと答え、もう一人の建御名方神は、力くらべを挑むが、敗れて諏訪湖に逃げて、国譲りが決定する。
 大国主命で有名なのが「因幡の白兎」である。
 心やさしい大国主命が兄たちと争ったヤマガミヒメを娶ったあと、次に恋したのが大国主命から六代遡った祖先スサノオの娘スセリビメである。
 スサノオは幾多の試練に耐えた大国主命を婿としてみとめ、中つ国を治める大任を授ける。
 このあたりのストーリーは粗雑で、スサノオと大国主命、スセリビメの関係や時系列が不自然である。
 ヘビやムカデのいる部屋で寝かされ、野原で火をかけられる試練、寝ているスサノオの髪を柱に縛って刀と弓を奪って遁走するストーリーは奇想天外だが、それが神話で、かつて日本人は、神話と実史を重ね合わせて、日本を神の国としたのである。
 次回はスサノオの神話へ目を転じてみよう。
posted by office YM at 09:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする