2017年04月10日

 伝統と民主主義C

 ●右翼は「君民一体」の守護者たれ
 政治思想上の最大のテーマは「個と全体」の矛盾解消にある。
 個は、一人ひとりの国民のことで、全体は、国家にあたる。
 西洋では「社会契約説」で、ホッブスやルソー、ロックがこのテーマを論じた。
 ホッブスは両者の二元化(「国家は怪物(リバイアサン)」「万人の戦争」論)で、一応、片をつけたが、ルソーとロックは、両者の一元化(「人民代表による国家運営」)をもとめた。
 問題なのは人民代表≠ニいう考え方で、暴力革命や独立戦争、選挙にもとづく独裁(ファシズム・大統領制)も、人民が主役となる民主主義である。
 日本は、中世以降、権威と権力の二元化をもって「個と全体」の矛盾を解消してきた。
 それがわが国の伝統で、歴史という時間軸のなかでは、文化と政治、権威と権力が融合する。
「個と全体」の矛盾を解消するカギは、一過性の現在ではなく、歴史の連続性や永続性のなかにあったのである。
 日本は、政体(権力)と国体(権威)の二元論の国家で、民は、天皇とともにある。
 それが「君民一体」である。
 権力は民を支配するが、民は、権力に正統性を授ける権威と同位(三位一体)にある。
 日本で独裁や恐怖政治がうまれなかった理由がそれで、ルソーも「君民一体」が理想の政治とみとめている。

 玄洋社(頭山満)や黒龍会(内田良平)の流れを汲む大日本生産党の政綱に次のようにある。
 一、欽定憲法に遵い、「君民一致」の善政を徹底せしむること
 二、国體と国家の進運に適合せざる制度法律の改廃を行い政治機関を簡素化せしむること
 三、自給自足立国の基礎を確立せしむること
 大日本生産党は、血盟団事件(井上日召)、五・一五事件の流儀をうけついだ神兵隊事件の中心的な役割をはたした右翼団体である。
 中村武彦や白井為雄らの理論家をうんだ戦後右翼の一つの原点で、両先達の研究テーマが「個と全体」の調和だったことは、自著にあるとおりである。
 民主主義で「個と全体」の矛盾を解消することはできない。
 むしろ、その矛盾を広げるのが民主主義といってよい。
 個の集合(大衆)を一つの実体とみなして、その代表を元首とするのは暴力革命や全体主義(独裁)を正当化するためのこじつけで、民から委任されたとする全権が民の意思を反映するとはかぎらない。
 民主主義(国民主権)の最大の欠陥は、主である民が国民一般におきかえられて、実体をともなっていないところにある。

 憲法第一条に「天皇の地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」とある。
 主権をもつのが国民全体で、その総意が存在するというのは、御伽噺である。
 それが民主主義や国民主権の正体で、どこにも実体がないのである。
 第一条がうけいれられているのは、日本国民がこれを「天皇はわが国の伝統である」と読み解いているからで、天皇が憲法上の存在などは思っていない。
 ところが、自民党改憲案では、象徴を元首にさしかえ、以下、一条の全文をほぼ全面的に踏襲している。
 明治憲法の欠陥は、ドイツ憲法を模倣して、権威の座にあった天皇を権力の座(=元首)にすえたことで、一方、GHQ憲法の過ちは、日本の君民一体を西洋の民主主義(主権在民)にすりかえたところにある。
 自民党の改憲案は、明治憲法とGHQ憲法の悪いところ取りで、これを改憲案として堂々と掲げるところに自民党の保守党としての限界がある。

 民主主義は、歴史の連続性を断ち切った一過性の決定で、過去の事跡や歴史の智恵が切り捨てられている。
 国家も国民も歴史的存在で、歴史を失ったら、国土は不動産に、国民は住民にすぎないものになってしまう。
 民主主義では、日本人が日本人で、日本の国土や民族の文化・文明が日本のものであることが明らかにならないのである。
 それができるのは、理屈をこえた伝統だけで、歴史の連続性や歴史との一体感は、理屈ではなく、精神文化なのである。
 伝統を多数決でひっくり返そうとしたのが、小泉政権下の「皇室典範に関する有識者会議」で、同じことが、将来、おきないという保証どこにもないどころか、自民党幹事長が歴史破壊を堂々と口にしている。

 天皇が憲法上の存在となっているかぎり、歴史の証である天皇が、道路交通法のように、法手続きによって廃絶させられる危機から免れえない。
 天皇退位問題にたいして、安倍内閣は特例法(「皇室典範の付則に記述」)で処置するという。
 これは、天皇が歴史上の存在で、伝統の象徴であることの否定で、GHQが憲法の形でおしつけた民主主義への屈服である。
 わが国の数千年の歴史は、GHQがわずか一週間で書き上げた占領基本法と比較するべくもなく、まして、これに屈すべき理由はケシ粒ほどもない。
 同様に11宮家の臣籍降下も皇室典範の憲法への組み入れも、戦勝国の時限的な戦時占領政策で、いつまでもこれをまもらなければならない理由はどこにもない。

 日本が、戦後70年以上にわたって、アメリカの占領政策をひきずっているのは、護憲・民主主義・国民主権を武器にしている左翼を中心とした反日勢力の口車にのせられたのである。
 内部から国家体制を切り崩すのが敗戦革命のメカニズムである。
 レーニンが編み出した敗戦革命は、敗戦国内に祖国にたいする絶望と憎悪を高めさせ、一方で反逆者を育成することによって、革命前夜の危機的な情況をつくりだせるという革命理論である。
 戦後、日本の政界は、親米(自民党ら)と親ソ・親中(旧社会党ら)が憲法をめぐって激しく対立した。
 敗戦革命の機関紙となったのが朝・毎などの大新聞で、広告塔となったのがNHKなどの放送メディアだった。

 戦後、日本で革命がおきなかったのは、歴史と伝統の証としての皇室が存在したからである。
 日本人は、空想の民主主義ではなく、実在する伝統をとったのである。
 反日勢力が民主主義(憲法)をふりまわすのは、伝統(国体)が敗戦革命の最大の妨害となっているからで、国民投票によって、万世一系から皇室の存続までを否定しようという魂胆である。
 戦争に負けた日本に伝統をまもる政党も大組織も存在しない。
 日本を世界に誇る伝統国家たらしめているのは、民を思う天皇と天皇を慕う国民だけである。
 右翼の使命は、国体の伝統をまもることで、「君民一体」の守護者でなければならないのである。

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2017年04月06日

 伝統と民主主義B

 ●日本の皇室とヨーロッパの王室
 ヨーロッパの王室は、ローマ帝国における皇帝の末裔で、現在、その血族がハプスブルク家やブルボン家、ウィンザー家(旧ゴータ家)などの名家として残っている。
 したがって、ヨーロッパの王族はみな親類で、オランダやノルウェー、スウェーデンの王家はイギリス国王の継承権をもっている。
 デンマーク、ベルギー、ルクセンブルク、スペイン、かつて王室が存在したフランス、ギリシア、ルーマニア、ドイツ、ロシア、オーストリアの旧王室も血縁をとおしてイギリス国王(ウィンザー家)や旧フランク王国(ハプスブルク家)とつながっている。
 中世のヨーロッパで一番格式が高かったのは西ローマ帝国を継承したとする神聖ローマ帝国皇帝で、当時のイングランド王やフランス王は、皇帝の格下とされた。

 紀元前8世紀に建国された王制ローマ帝国は、紀元前5世紀に共和政へ移行して、500年後の紀元前27年から帝政時代に入る。
 帝政ローマは、4世紀に東西に分裂したのち、東ローマ帝国は15世紀までつづくものの、西ローマ帝国は5世紀になってゲルマン族に滅ぼされる。
 神聖ローマ帝国は、10世紀に西ヨーロッパ大陸部のほぼ全域におよぶフランク王国のカール大帝をへて東フランクのオットー大帝(ドイツ王) がローマ教皇から皇帝位を授かった国家で、西ローマ帝国の事実上の継承であった。
 皇帝は、帝国の軍総司令官・最高行政長官・元老院議長・最高神祇官などを兼ねる絶対権力者で、領地や部族の長にすぎない王をしのぐ権力をもち、王の中の王と呼ばれた。
 神聖ローマ帝国(第一帝国)の後継を名乗ったのが第一次大戦をひきおこすヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝)のドイツ帝国(第二帝国)で、その後、ヒトラーのナチス政権は第三帝国を名乗った。
 明治憲法は、第二帝国のドイツ(プロイセン)帝国憲法をモデルにしている。
 ヨーロッパは、革命の時代となる19世紀まで、ローマ帝国と皇帝の威光のもとにあったのである。

 紀元前のヨーロッパは多神教で、同時代の日本の邪馬台国・大和朝廷と同じような祭祀国家だった。
 ヨーロッパが権力闘争の修羅場となったのは、ローマ教皇(法王)とローマ皇帝という二人の権力者が出現して、権力に正統性をあたえるべき権威の座が空位になったからだった。
 パンテオン宮殿が象徴する多神教を追い出したキリスト教は、神の代理人であるローマ法王庁をとおして権力化され、俗化してゆく。
 権威が不在とあって、皇帝は、権力の正統性を元老院・軍隊・市民の推戴と軍事力にもとめるほかなかった。
 ローマ帝国は民主化された軍事政権だったのである。
 皇帝の地位には、世襲と血統、格式が重んじられたが、ギリシア民主主義の流れを汲む市民集会の決議が必要で、西ローマ帝国の威光を借りた神聖ローマ帝国皇帝も、有力諸侯らの選挙でえらばれるにすぎなかった。
 手続き上の存在だったローマ皇帝に、神の血を受け継ぐ天皇や天命を受ける支那の皇帝のような世俗を超越した権威がそなわらなかったのは当然だった。

 フランス革命によって共和政が成立した後、1804年にナポレオン・ボナパルトが議会の議決と国民投票によって、フランス人の皇帝ナポレオン1世となった。
 このとき、皇帝は、ローマ帝国の後継者としての正統性を失い、皇位を支える基盤は、権威でも、元老院・軍隊・市民の推戴でもなく、ドイツ諸邦を支配下に組み入れるための軍事同盟(ライン同盟)だけとなった。
 ナポレオンの皇帝即位を承認した神聖ローマ皇帝フランツ2世は神聖ローマ皇帝位から退位して、オーストリア皇帝の地位へ下がり、千年近くもつづいた神聖ローマ帝国はここで崩壊する。
 第一次世界大戦後、敗戦国のドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国では革命がおきて帝政が倒れた。
 オスマン帝国やロシア帝国でも、革命によって帝政が崩壊して、ヨーロッパには皇帝が1人もいなくなり、ローマ帝国以来の皇帝の歴史は完全に幕を閉じた。

 天皇と皇帝の決定的なちがいは、皇帝が権力者だったのにたいして、天皇が権力から離れた権威だったところにある。
 日本で、権威と権力の二元性が維持されてきた理由は、仏教やキリスト教が入ってきても、神話=神道が日本精神として、ゆるがなかったことだろう。
 それが伝統の力で、合議や多数決、決議や承認などの一過性の決定は、不安定なばかりか、巨大化した国家のなかではなかなかゆきわたらない。
 皇帝の専制政治がおこなわれた東ローマ帝国が1千年の命脈をたもったのにたいして、西ローマ帝国が早々に滅びたのは、元老院の承認や市民集会の決議などの手続きが巨大化した国家全体に浸透する前にゲルマン人の侵略をゆるしたからである。
 江戸三百年の平和は、幕府(権力)が天皇(権威)から預かった土地や民を御宝として扱い、民が天皇を慕い、天皇が民の幸と国家の安泰を祈るという三位一体の国体が成立していたからである。
 国家の三要素(領土・国民・主権)をまもるには、権力や法、民主主義などの手続きではなく、伝統という心に刻まれた永遠の規範が必要なのである。
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2017年03月31日

 伝統と民主主義A

 ●不毛なる民主主義への反撃
 伝統をまもるにはつよい意志と高い精神性がもとめられる。
 一方、伝統を破壊するには、無節操と野蛮さがあればよい。
 戦後、日本中に吹き荒れたのは、伝統破壊という荒っぽい突風だった。
 主役を演じたのは、GHQの容共政策に乗じた左翼で、戦後日本は、教育界(日教組・大学)から論壇・学会、マスコミに至るまで、伝統破壊をもくろむ横着なやからであふれ返った。
 伝統破壊の合言葉が民主主義だった。
 日本の民主主義は君民一体(共治)なので、伝統と矛盾しない。
 もともと、多数決にすぎない民主主義は、権力(政体)のカテゴリーにあって、文化(国体)の領域におよぶものではない。
 ところが、左翼の民主主義は、多数決によって、国民の主権を独裁者に委任するという革命理論なので、伝統と真っ向から対立する。
 インチキなのが国民主権である。
 国民という実体はなく、主権(君主権=ソブリンティ)は、君主から国家へ委譲されたものなので、国民主権という概念は成立しない。
 その国民主権=民主主義をもって伝統国家を倒すのが革命である。
 戦後、左翼が躍進して、社会主義(共和制)者や共産主義(一党独裁)が先進的社会のモデルであるかのようなムードが高まった。
 この危機的情況がGHQ憲法と相俟って、のちに敗戦革命(八月革命)≠ニ呼ばれることになる。
 現在でも、日本では、民主主義が絶対的な正義になっている。
 戦後の左翼ブームが、いまなお猛威をふるっているのである。
 そして、民主主義的なるモノが、次々と伝統を放逐している。
 音頭をとっているのは、男女平等をもちだして万世一系を否定した自民党の二階幹事長や小泉政権下の「皇室典範に関する有識者会議」の吉川弘之座長ら日本の指導的な立場にある者たちで、かれらこそ、アメリカ民主主義に民族の魂を抜かれて、日本が伝統国家であることを忘れてしまった典型的な戦後日本人なのである。

 伝統は、文化的遺産や歴史的芸能、古典や遺跡だけをさすのではない。
 歴史の連続性そのものが伝統であって、それがなければ、人間も国家も原始時代のままである。
 コンピュータは、数字が発明された紀元前からの歴史的産物で、人類は数千年の文化的な蓄積を伝統という形でうけついで、子どもでもスマホをあやつる現代のIT社会を築きあげた。
 伝統を否定すれば、コンピュータどころか、いつまでも、指で数をかぞえる原始人のままである。
 現在がコンピュータの時代だからといって、手動計算機を否定するのは伝統破壊で、人間も、幼児や青年だった時代を否定すると成人となった現在の自分は存在しない。
 歴史も同様で、天武天皇の治世がなければ日本の原型はなく、秀吉の検地や刀狩り、キリシタン禁止令、家康の鎖国がなかったら、現在の日本はなかったろう。

 歴史の連続性を断ち切るのが革命である。
 その結果、国を束ねてきた伝統的な価値観や社会的規範がすべて失われる。
 そこで、紀元前のギリシアでうまれた民主主義や貨幣ができる前の古代共産主義を借りてきて、革命国家が人工的につくりあげられた。
 民主主義が賛美されるのは、すぐれたイデオロギーだからではない。
 革命国家には、民主主義以外、規範となる文化的な価値や基準が存在しないのである。
 伝統国家には、民主主義や共産主義よりもはるかにすぐれた道徳や習慣など伝統にもとづいた精神文化の高さがそなわっている。
 したがって、古代社会の多数決制や共産制を採る必要が生じなかった。
 左翼がいくら煽っても、日本で革命がおきなかったのは、伝統をまもることによって、独自の文化と高度な文明社会を維持できるからである。
 戦前、日本人は、伝統国家であることに自信と自尊心をもっていた。
 その象徴が天皇で「天皇陛下万歳」は、伝統国家であることを誇る雄叫びであって、革命国家でいう個人崇拝やカリスマ支配とは本質が異なる。
 マックス・ウェーバーは国家支配の類型を三つに分類した。
 合法的支配(官僚)とカリスマ的支配(独裁)、伝統的支配(権威)である。
 ソ連が崩壊(1991年)したのは、共産党官僚の腐敗とカリスマ的指導者の不在、そしてなにより、歴史に根ざす価値観(権威)がなかったからだった。
 あったのは民主主義(人民独裁)だけだったが、権力争奪や独裁の手続きにすぎない民主主義に治世の英知が宿っているわけではない。

 スターリンやルーズベルトら第二次大戦の指導者が絶対的権力をふるったのは、米ソとも民主(人民)主義を基盤とした革命国家だったからで、ヒトラーも、民主主義(ワイマール憲法)を逆手にとって、独裁者となった。
 日本人が賛美してやまない民主主義は、独裁権力の製造機にすぎなかったのである。
 現在、先進諸国のなかで、革命を経験していない伝統国家は日本だけである。
 革命国家と伝統国家では、国家の成り立ちや価値観、歴史観が異なる。
 歴史にもとづいた伝統国家とイデオロギーを土台にした革命国家では、文化構造が本質的にちがうのである。
 第二次大戦は「民主主義とファシズムの対決」といわれるが、実際は「革命国家と伝統国家の対決」で、日本以外の戦争当事国は、すべて革命国家だった。
 戦後、日本で民主主義旋風が吹き荒れたのは、戦争に勝ったのが、米英ソを中核とする革命国家群だったからである。
 戦争に負けた日本は、憲法から制度、社会通念にいたるまで革命国家のものへと改造された。
 日本の危機は、伝統国家でありながら、革命国家の憲法を有しているねじれにある。
 権力機構(政体)からだけではなく、文化構造(国体)から憲法問題を見直す必要があるのはいうまでもない。
 戦後、日本で民主主義を人類の英知であるが喧伝してきたのは、政権奪取をめざす左翼のデマゴギーで、民主主義は、伝統破壊以外、何一つ歴史の智恵を宿していない。
 民主主義の不毛さを世に広く知らしめることが、戦後から現在まで尾を引く敗戦革命≠ヨの反撃となるのである。
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2017年03月23日

 伝統と民主主義@

 ●「君民一体」と民主主義
 日本は、大和朝廷以来、現在にいたるまで、いちども革命を経験していない伝統国家である。
 にもかかわらず、伝統国家としての自覚に乏しく、伝統の意味すらわきまえない日本人が少なくない。
 戦争に負けて、誇り高く、伝統を重んじる民族が百八十度豹変してしまったのである。
 戦後、GHQによって、憲法が革命国家の内容に書き直されて、進歩主義や唯物史観が蔓延した。
 科学や合理主義、革命によって近代がつくりあげられたという歴史観の前では、過去や歴史、伝統が根こそぎ否定されてしまう。
 それがのちにいう「民主主義革命」で、標的となったのが、伝統という精神文化だった。
 戦後、GHQと左翼が手をむすんだ敗戦革命によって、国体に危機が生じていたのである。
 くわえて、皇国史観や教育勅語を悪の権化とする日教組やマスコミ、論壇や歴史学会の反伝統主義にはすさまじいものがあって、天皇を「土人の酋長」と教える日教組の教員さえいる。
 この風潮に対抗するのがインターネット世論である。
 それまで、一方通行だったマスコミ情報に、インターネットという第三者が介在しないメディアが異議を唱えはじめた。
 伝統破壊を売り物にするマスコミにたいして、かつての日本人の気風を残している草莽の一般国民が、ネットで反日メディアに対抗する流れがうまれてきたのである。

 ネット投稿蘭の「野蛮国の証拠」「税金のムダ遣い」という若者の天皇批判にたいして、同世代と思われる人々から反論が寄せられている。
「日本は『君臨すれども統治せず』の君主制と民主制が共生する国です。天皇は祭事などの伝統儀式で『国民の安寧』と『国家の平和』を祈りつづけておられる。このような『滅私奉公(民)』という崇高な御心をもった君主は諸外国にはいらっしゃいません」
「天皇は太古の昔から、日本国民の「 精神的支柱 」(=国民統合の象徴)なのです。あなた(投稿者)のような、歴史も、伝統も、文化も分からないような人間に『皇室廃止』などという傲慢不遜極まりないことを言ってほしくない」
「あなた(投稿者)の言動は、二千六百年の歴史・文化・伝統をもった日本国と日本列島に住む一億三千万人の日本国民、道義と品格の体現者ともいうべき天皇とともに歴史を歩みつづけてきた私たちの祖先にたいする夜郎自大、傲慢不遜、思い上がりも甚だしい冒涜と侮辱以外の何ものでもありません」
 投稿への反論者がネットウヨ≠ニ呼ばれる人々で、左翼・反日陣営ばかりか、意外なことに、右からも批判を浴びている。
 理由は、かれらが、戦後の日本人が絶対善としているアメリカ民主主義の信奉者ではないからである。

 右も左も、民主主義を最高の価値とするが、そこに落とし穴がある。
 左翼・反日のいう民主主義や主権在民は、国民の一般意思≠ニいう実際には存在しない抽象概念を独裁者にゆだねる革命の手法にすぎない。
 民主主義が国民主権へつながったのは、政権を多数決にゆだねると自動的に国民(人民)政権が成立するという理屈からで、それがルソー流の革命理論である。
 ところが日本人は、民を主とする考え方が民主主義で、民が主権をもつことを主権在民であるかのように誤解している。
 君民一体の民≠ニ民主主義の民≠混同させているのである。
 観念にすぎない民主主義の民は、観念上の存在で、実在しない。
 一方、君民一体は、天皇が実際におられるので、民も実在する。
 天皇の実在と民の実在が同位にあるのが君民一体で、ルソーもそんな理想的なクニ(君民共治)があるなら民主主義はいらないと書き残している。
 天皇を戴いているという事実は、わが国が革命イデオロギーや空疎な理想論に浸食されていない証で、民の幸も国家の繁栄も、現実のものとして、天皇や国民とともにあるのである。

 民主主義は、権力=政体のカテゴリーにあって、一方、君民一体は、文化=国体に属する。
 それが日本の伝統で、日本という国のかたちは、国体という文化構造と政体という権力機構が二元論的に両立している。
 民主主義や主権在民は、歴史上、政体(権力)が国体(権威)から施政権をあずかる君民一体のなかに組み込まれている。
 左翼・反日が伝統に牙を剥くのは、君民一体の伝統が、君民を対立させる革命理論にたいする妨害となるからである。
 多数決によって歴史までひっくり返せる西洋の民主主義と日本の臣民一体の伝統が、ここで決定的に対立する。
 右翼は民主主義に反対しているのではない。
 君民一体の国体のなかにあって、革命思想としての民主主義を排除しようとするだけで、そこから伝統をまもるという闘争的な姿勢がでてくる。
 伝統を破壊するには、下劣な品性と感情論だけですむが、まもるには見識と打って出る行動が必要となる。
 専守防衛だけでは、気づいたときには一面焼け野原となっているのである。
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2017年03月13日

謀略国家アメリカの正体C

 ●憲法・日教組・大新聞が反日主義の元凶
 テレビの討論番組で「反日主義のどこがわるい」と居直った若者が、日本という国家自体が憲法違反だという珍論をくりだした。
 そして、左翼憲法学者の論を借りてきて「国家を監視するのが憲法」と主張した挙げ句、「憲法は国体」と言い放った。
「国家は悪である」というルソーの革命思想と大統領の権力を憲法で制限するアメリカ民主主義、そして、国家主権が否定されている戦後憲法の三者を組み合わせて、珍妙なる理屈をこねたわけだが、それが反日主義の論法である。
 反日思想を培養したのは日教組と大新聞である。
 日教組教育をうけ、朝日新聞を読んでいるとほとんどが左翼か反日主義者になってしまう。
 くわえて、日本国憲法は、国家主権を否定して、国民主権を謳っている。
 戦後、日本から伝統国家の精神が消えたのは、憲法が共和制(革命国家)のものになっているせいでもある。
 17世紀のイギリス革命から20世紀のロシア革命にいたる200年ほどのあいだヨーロッパでは革命の嵐が吹き荒れた。
 この理論的支柱となったのがロック(アメリカ独立戦争)とルソー(フランス革命)そしてマルクス(ロシア革命)だった。
 遊離した国家と人民の関係をむすびなおそうとしたのが社会契約説である。
 万人の万人に対する闘争を避けるために国家が必要としたホッブスの半世紀後にロックが人民の抵抗権を、百年後にルソーが直接民主主義を、20世紀になって、マルクスが暴力革命によるプロレタリアート独裁を唱えた。
 戦後、革命の経験も必要もなかった日本でヨーロッパの革命思想が流行したのは、じつに奇妙な話で、よほど、西洋の真似をしてみたかったのであろう。

 ルソーの人民主権(直接民主主義)は、議会に収容することできない人民の意思を一般化して、一人の独裁者にゆだね、ロックは、人民の主権を議会や三権分立に委託した。
 前者がナポレオンやヒトラー、スターリンなら、後者がアメリカの大統領というわけだが、アメリカの場合、大統領と議会、憲法が三つ巴の関係で、ルソーとロックがごちゃまぜになっている。
 首相公選制や国民投票、地方分権は、革命国家の政体であって、伝統国家である日本にはそぐわない。
 ロックやルソーをもちださずとも、日本には、万人の戦争を避けうる国体と国家の二元構造があって、その伝統が天皇の存在である。
 先の若者は、革命思想を吹き込まれて、伝統のなんたるかを知らなかったのであろうが、戦後、日本では、革命を進歩的、改革ともちあげ、伝統を守旧的、反動、右翼と悪し様にいう風潮がはびこってきた。
 さらに大きな誤りは、民主主義を文化の領域にまでひろげて、歴史の否定をおこなったことである。
 社会常識や習慣などの文化的規範に法の範疇にある自由や平等、人権や民主主義をもちこみ、いらぬ混乱や摩擦をひきおこしているのである。

 日本というクニは、国体と政体の二本の柱からできている。
 国体は、歴史にもとづく文化の系統で、政体は、政治をおこなう権力の系統である。
権力(政体)に正統性を授けるのは、権威(国体)という文化構造である。
 したがって、伝統国家には憲法が要らない。
 イギリスが憲法をもたないのは伝統国家の体裁をとっているからで、文化の歴史的蓄積ができているため一般的慣習法(コモンロー)ですべて足りるのである。
 ところが、歴史のないアメリカには、歴史に培われた社会規範がない。
 したがって、なんでも裁判で決着をつけなければならない。
 そこにアメリカが過剰な法治主義に陥っている原因がある。
 多数決(民主主義)と法だけで決着のつくのは文化果つる野蛮な地で、戦争や軍事力を背景にした「力の支配」だけがまかりとおるのである。
 アメリカがアメリカたりえているのは、超軍事大国にして、国家の仕組みが軍産複合体という臨戦体制になっているからで、日本は、どうあがいても、アメリカのような国になれず、なる必要もない。
 アメリカは自由の国といわれるが、その自由は、ジャングルの自由で、武器の携帯がゆるされているのは、自由のリスクは、命がけでまもらなければならないからである。
 日本では、あらゆる権利が憲法で保障されているが、反対給付の自己責任や義務はほとんどない。
 それでも、日本で「万人の戦争」がおきないのは、自由には節度、平等には分相応、人権には人格という常識や良識、社会通念がはたらいているからである。
 その意味で、日本は、文化的には伝統国家だが、政治的には、新興国並みである。
 民主主義と法だけを社会規範とする新聞論説など幼稚園並みといってよい。
 アメリカで、民主主義と法だけですべて片がつくのは、それ以外の社会的な規範がないからで、自由と個人主義のリスクと自己責任は、日本人が想像できないほど大きい。
 国家は悪だ、武器を捨てれば平和になると叫ぶ反日主義は、恥ずべき「甘えの構造」なのである。
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2017年03月09日

謀略国家アメリカの正体B

 ●文化の領域に侵入してきた民主主義
 現在、世界中で、リベラリズムと保守主義が対立している。
 個と全体の矛盾が二つの潮流となって、政治の場で衝突しているのである。
 個を重く見るのがリベラルで、全体を重視するのが保守である。
 保守と革新の対立は、マルクス主義の破綻と保守主義の中道化によってほぼ解消されて、残っているのは、いまや、国家と個人が対立する構図だけとなった。
 個(個人)と全体(国家)の絶対矛盾はけっして解消されることはない。
 個は全体の一部で、一方、全体は、個なくして成り立たないからである。
 したがって、先進国の政党は、たとえ野党でも、国家を第一義におく。
 それが「大きな政府・小さな政府」論である。
 民主主義や国民主権を国家運営の根幹に据える国などどこにもない。
 政治がコントロールできるのは国家であって、個は政治の外にある文化の領域におかれているからである。
 ところが日本の場合、野党(反日勢力)が個である民主主義をタテにとって全体(政府・国家)を否定するというヒステリー状態が戦後から現在までつづいてきた。
 それを象徴するのが鳩山由紀夫の「日本列島は日本人だけのものではない」や官直人の「国民主権」発言だった。
 多数派独裁の手続きでしかない民主主義=国民主権を、国民が中心となった政治と曲解して、国権や国家を悪とみなすというトンチンカンをやってのけているのである。
 政治は国家運営のことだが、旧民主党政権には、その国家が不在だった。
 あったのは、国民主権や国権の制限など、反政府的なスローガンだけだったが、マスコミ総がかりでとった政権に居座って、反国家的な政策を打ち出した結果、対米関係の悪化と中韓の侮日という重大な国益の毀損がもたらされた。
 反政府運動を煽ることしか能がない旧民主党には、もともと、政権担当能力がそなわっていなかったのである。

 民進党(旧民主党)をリベラル政党ということはできない。
 リベラルは保守と方法論が異なるだけで、ともの国益をもとめるが、日本の場合、リベラルは反体制で、国家や国益、国家の威信を民主主義の反対概念ととらえるのである。
 国家は、機能でありながら文化概念でもあって、両者は表裏の関係にある。
 したがって、伝統文化と民主主義は、二元論的に両立する。
 ところが、自民党左派をふくめる左翼・反日は、民主主義という政治概念をもって、国家を国家たらしめている文化概念を否定しようとする。
 二階官房長官が、女性天皇の問題にからめて、皇位の男系相続が男女平等に反すると発言して一部で物議をかもした。
 政治と文化の区分けがついていないのである。
 戦後民主主義はマッカーサー憲法を原典とする。
 皇室典範(日本国憲法第2条及び第5条に規定)の第一章(第一条)に「皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する」とある。
 日本に民主主義をもちこんだマッカーサーが男系男子(万世一系)をみとめたのは、民主主義という政治概念と伝統という文化概念が並立するとしたからである。
 民主主義は、政治権力の主体を民におき、それを為政者があずかる手続きにすぎず、一片の政治理念も示されていない。
 まして徳性や文化とは無縁の代物で、かつて、武力に頼っていた権力闘争の手段が多数決に代わっただけの話である。
 ところが戦後、マスコミや文化人は、民主主義を、人類が到達した最高道徳であるかのような言説をふりまいてきた。
 民主主義は、権力奪取の手段であって、文化的要素などそなわっていない。
 文化とは、伝統を継承し、過去から学ぶことで、歴史の知恵である。
 したがって、保守主義に文化が宿るが、民主主義は文化不毛の地となる。
 ヨーロッパでも、民主主義が文化や善、正義としてとらえられることはない。
 それどころか、日本で偉人扱いのルソーが奇人や妄想家の扱いである。
 戦後、日本で、自由や平等、人権や民主主義がもてはやされ、道徳や歴史的な価値観がないがしろにされてきたのは、左翼のプロパガンダにのせられてのことだったのである。
 それが、戦後、絶対善となった民主主義と国民主権の正体である。

 アメリカはリベラル(民主党)と保守(共和党)の二大政党である。
 リベラルは大きな政府(=経済への政府関与)を、保守は小さな政府(=市場主義)を掲げる。
 自民と反自民の権力抗争といった低次元のレベルではなく、政策による選択肢があたえられるのである。
 ニューディール政策のルーズベルトは民主党の大統領で、コミンテルンから多大な影響をうけた経済政策はアメリカ版共産主義≠ニ呼ばれ、最高裁から違憲判決までうけている。
 共和党のトランプ大統領が、共和党の一部から批判され、民主党の一部から支持されているのは、共和党の新自由主義を捨て、政府が経済政策に積極的に関与する民主党の路線をとったからである。

 識者のなかには、民進党(民主党+維新の党)をアメリカの民主党にたとえるひともいるが、民進党は反日主義の権力集団で、同党の蓮舫代表は、国家を乗っ取ることしか頭にない政治的クレーマーである。
 民進党の民主主義や人権は、国家打倒のスローガンで、議会内革命をめざす日本共産党とも共闘関係にある。
 民主主義は権力の系譜なので、民進党や共産党は、文化がゼロの政党ということができる。
 アメリカ民主党は、たとえていえば、自民党の保守本流(宏池会)で、共和党が非主流(岸信介・鳩山一郎派)である。
 日本では、政治向けの政策をおこなう非主流派と経済政策をもっぱらとする保守本流が交代に政権を担当して、バランスをとってきた。
 このサイクルが狂ったのが、細川護煕政権(非自民・非共産8党派連立政権/1993年)と民主党政権(2009年)だった。
 自民党が8党派連立政権に政権を明け渡したのは、宮沢首相の指導力欠如と分派行動が原因だったが、民主党に政権を奪われたのは、マスコミ総出の反自民キャンペーンによるもので、このとき民主党ブームがおこって、議席占有率(64.2%)は過去最高となった。
 アメリカにおける政権交代は、自民党左派と右派の主導権争いのようなもので、民進党や共産党のような反体制政党が政治の表舞台に登場することはありえない。
 先進国にして成熟した資本主義国家である日本で、反体制派(政党)が政権争いに参入してくるのは、国家基本法(憲法)が反体制派のバイブルになっているからである。
 保守系論者のなかにも、戦後、憲法が国体となったとのべる者もいる。
 権力にすぎない民主主義が、憲法をとおして、文化の領域に侵入してきたのである。
 次回は憲法と反日主義の関連についてのべよう。
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2017年03月03日

 謀略国家アメリカの正体A

 ●民主主義を文化概念でとらえた誤り
 戦後、日本人は、自由や平等、人権や民主主義が人類の普遍的な価値であるかのような教育をうけてきた。
 そして、戦前の教育勅語や道徳教育を「軍国主義」の象徴として、徹底的に排除した。
 このとき、忠孝や友愛、礼儀や謙虚などの伝統的な道徳観念が捨てられた。
 日本人は、人格の代わりに人権、節度の代わりに自由、恭順や慎みの代わりに平等を採ったのである。
 自由や平等、人権は、民主主義と同様、啓蒙主義から市民革命へいたるなかからうまれてきたことばで、革命を善とする進歩主義である。
 完全なる自由や平等、人権は、だれも手にできない空想である。
 それを手にしようと思えば、勢い、体制批判となる。
 実現不能な欲求を立て、実現できない責任は政府(あるいは国家)にあるというデマゴギーをふりまくのが左翼や反体制派、無政府主義者らのやり方で、自由や平等、人権は、そのプロパガンダにもちられてきた戦略用語である。

 ヨーロッパには、法の下では万民平等でも、身分制度が残っている。
 現実と空想の仕分けができているのである。
 ところが、日本では、法の外にある不平等までが差別として糾弾される。
 奴隷制度や身分制度を体験したことがないため、法の制約にすぎない平等を「人間は生まれながらにして平等である」と観念的にとらえてしまうのである。
 人権や平等も同様で、ルソーの「自然に帰れ」を盲信して、国家がまもっている人権や法の上の平等を、国家が奪ったと逆転させる。
 パスポートを失い、不法滞在で長期拘留されたひとは、母国の大使館に救出されて、はじめて、人権が自然権ではなかったことを知る。
 人間は生まれながらにしてあらゆる権利をもっているという左翼のウソに一杯食わされてきたわけだが、その片棒を担いできたのが、日教組やマスコミ、論壇である。

 絵空事でしかない自由や平等、生まれながらの人権、紀元前の大昔に退けられた民主主義をよみがえらせたのは18世紀のルソーである。
 革命という歴史破壊には、ルソー主義という大嘘が必要だったのである。
 革命の熱が冷めて、現実政治に立ち返った近代において、自由や平等などのことばは法の専門用語として残ったにすぎず、国民主権も、実効的な意味合いを失っている。
 ところが、戦後日本では、国民主権が大手をふるい、保守系政治家さえこの空語を連呼して、国体や国家主権、国益については貝のように口をつむぐ。
 国民の利益以外のことを口にすれば、あるいは国家に言及すれば、右翼と叩かれて選挙に落ちるからである。

 前項で、民主主義が文化的観念ではなく、力(ポリティカルパワー)であると指摘した。
 この大衆的な力には感情がふくまれるので、民主主義の政治は、扇情政治や衆愚政治をうみだす。
 民主主義は、革命や選挙をとおして、力へと変化した国民主権)を独裁者が一手にあずかるという思想である。
 国民主権を煽って、選挙に勝てば、ヒトラーやトランプのように、国民的な支持の下で、独裁者になれるのである。
 国民主権は、多数派の独裁ということであって、政治の技能をもたず、権力操作ができない民衆に代わって、為政者が権力を掌握するだけ話で、民主主義はかならず衆愚政治という名の独裁となる。
 民主主義において、大衆は主権者だが、個人はふくまれず、少数派は政治勢力から除外されるからである。
 それをあたかも、個人に主権があるようにいってきたのが、戦後民主主義である。
 民主主義は、政治力学として不合理で、政策や理念がなく、まして、一片の文化的要素も宿していない。
 戦後、日本人が、人類最高の英知としてもちあげてきた民主主義の正体がこれである。

 政治はきわめつきの現実主義である。
 国益と国家防衛という全体利益の追求が政治で、個人的な心情がはいりこむ余地はない。
 個をなげうって、国家や国民のために現実的な判断を下し、実行に移すのが政治で、個人的心情にもとづいて、国家を犠牲にする鳩山や官、河野や村山のような者たちは、政治家ではなく、社会的扇動家にすぎない。
 ところが、国民は、候補者が政治家か扇動家か区別がつかない。
 政治にはデマゴギーがゆるされるので、自由や平等、人権や福祉などの美辞麗句を並び立てられると、国民は、国家への貢献度ではなく、個人的な心情にしたがって一票を投じる。
 それが民主選挙で、事の是非や善悪、適不適という基準が排除されたただの「数の論理」でしかない。
 多数派が正しいとするのが民主主義で、戦後、日本がこれをもちあげてきたのは左翼の戦術で、数の論理は、暴力同様、問答無用に政府(国家)を転覆できる潜在能力をひめているからである。
 それには、主権が国民にあって、国民の多数が望むなら、なんでもできるという既成観念をつくっておかなければならない。
 それがリベラリズムで(自由主義)で、左翼的ニュアンスが濃いのは、自由や民主は、歴史から学び、過去を土台とする保守や伝統と真っ向から対立するからである。
 次回以降、リベラリズムと世界中で台頭しつつある保守主義の対立の構図をみていこう。
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2017年02月24日

謀略国家アメリカの正体@

 ●民主主義を文化概念でとらえる誤り
 アメリカ建国200年の歴史うち戦争をしていなかった期間は20年にみたない。
 各州がそれぞれ主権をもつ合衆(州)国アメリカは、戦争をしていなければ連邦制を維持できない特殊な条件のもとでできあがった国家といえる。
 数十もの州が連邦政府と主権を共有するメリットは力(軍事力)である。
 世界最強のアメリカの軍事力が、腰に拳銃をぶら下げていた時代からアメリカ人のアイデンティティーで、USAが力で他国をねじ伏せるパワーをもっているかぎり、かれらは、ヨーロッパからの移民でも州の住民でもなく、誇りと愛国心をたずさえた生粋のアメリカ人なのである。
 テキサスの併合を拒絶したメキシコを米墨戦争へひきずりこみ、その勝利で領土を大きく広げた第11代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ポークは就任式でこう謳い上げた。
「わたしは領土を拡張しようとするアメリカ国民の熱情を支援してゆくことを約束する」
 そして、米墨戦争に勝ち、合衆国が広大な西部の領地を獲得したとき、アメリカ国民は狂喜し、ポーク大統領を熱烈に支持した。
 アメリカにとって、力が正義で、その正義をうみだすのが民主主義だったのである。
「力=正義=民主主義」の単純な公式がアメリカの国是で、歴史も伝統的な社会規範ももたない文化果つる地においては、拳銃と多数決の正義しかなかったのである。

 アメリカは戦争によって、大きくなった国である。
 独立戦争やインディアン戦争、南北戦争のほか、メキシコ国土の三分の一を奪った米墨戦争、キューバを支配下におき、フィリピン・プエルトリコ・グアムを領有した米西戦争、そして、二つの大戦に勝利して、アメリカは世界一の強国となった。
 アメリカが、建国以来、戦争ばかりしてきたのは、紛争を解決するためではなく、紛争をおこして、利益をえるためだった。
 そのときにもちいられる論理が民主主義である。
 アメリカの民主主義は、政治(権力)のカテゴリーにあって、かつての武力戦が多数決におきかえられたものにすぎない。
 大統領の権力の正統性も民主主義(=国民主権)におかれる。
 国民主権は、立法や司法の上位にある大統領の権力が、国民の支持を基盤にしているところからでてきたもので、スターリンもヒトラーも、人民の代表として、独裁的権力をふるった。
 その意味で、民主的な手続きで全権を掌握したヒトラーとトランプはかわるところがない。
 ところが、戦後日本では、国民主権が、国民中心の理想的な政治であるかのような曲解が広がり、官直人元首相はこれを理想の政治としたほどだった。
 国民主権は、多数派の独裁ということであって、政治の技能をもたず、権力操作ができない民衆に代わって、為政者が権力を掌握するだけの話である。
 したがって、民主主義は、かならず衆愚政治と独裁に陥る。

 アメリカの戦争は、権力を一手に握る大統領の指導力と国民の熱狂的支持の下でおこなわれてきた。
 国家の形態も臨戦型で、アメリカ合衆国大統領行政府(ホワイトハウス)と中央情報局(CIA)、国防総省(ペンタゴン)の三者が<軍産複合体制(MIC)>を形成している。
 軍産複合体制には、アメリカを代表する数千の企業と数万の下請け、金融機関、大学、研究施設からマスコミまでがふくまれる。
 原爆を製造・投下したのもMICで、現在でも、最新兵器にはアメリカ中の科学の粋が結集される。
 タテマエとして、憲政主義と三権分立を謳っているが、三権分立の二権(立法府・司法府)は、強くなりすぎた大統領の権力をチェックするための機関にすぎない。
 最近、左翼(護憲)学者らが「憲法は国政や国家権力の暴走を防ぐための最高法規」と主張しているのは、アメリカのケースを誤解しているのである。
 伝統的規範をもたない革命国家アメリカでは、憲法というガードを設けなければ、大統領の権力や多数決の独裁に歯止めがきかなくなるのである。

 国務大臣から裁判官、天皇にまで尊重擁護義務を負わせた「憲法の最高法性(98条・99条)」はアメリカの模倣である。
 アメリカの権力構造は、突出した大統領の権力を抑えるため三権≠フ上に憲法を置き、立法や司法が憲法をタテにホワイトハウス(行政)の暴走を阻止できる仕組みになっている。
 イギリスの議会民主主義は、民主主義が議会に属しており、憲法をもたないのは、伝統(コモンロー)が機能しているからである。
 日本は天皇民主主義で、伝統的価値観や国民的良識、習俗や慣習などが不文律(コモンロー)で、民主主義は、普通選挙法と多数決以上の意味をもつものではない。
 憲法こそが暴走する民主主義で、これをチェックするのは、文化でなくてはならない。
 ところが、戦後の日本人は、アメリカ民主主義を最高道徳(=憲法)としてとらえ、これを国体の上位においてきた。
 それを端的にあらわしたのが二階発言である。
 自民党の二階幹事長はテレビ番組で「女性尊重の時代に天皇陛下だけ例外というのは時代遅れだ」「トップが女性の国もいくつかある」などとのべている。
 二階幹事長のいう女性尊重や女性進出は、男女同権にもとづくものと思われるが、男女平等は法の下≠ノおける平等であって、民主主義と同様、政治のカテゴリーにある。
 一方、皇位は伝統であって、文化と同様、法や政治、権力の支配をうけない。
 次回以降、文化と政治を峻別して、民主主義の正体を明らかにしていこう。
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2017年02月09日

伝統と西洋合理主義C

 ●伝統と保守主義を明確に識別せよ
 伝統は文化概念で、一方、保守主義は政治の用語である。
 文化である以上、伝統に国体や天皇がふくまれるが、保守主義にはこれらがふくまれない。
 日本の保守派論客は、保守思想家として、ホッブスやエドモンド・バークをもちあげるが、かれらは国体=天皇という伝統を知らないのである。
 政治である以上、保守に民主主義がふくまれるが、伝統にはこれらがふくまれない。
 歴史の叡智は、数の論理や大衆迎合よりはるかにまさっているからである。
 伝統と保守のちがいは、民主主義の有無といってよい。
 紀元前、ギリシャで流行った民主主義がルソーによってよみがえった。
 これに大昔の原始共産制をくっつけたのがマルクス主義である。
 マルクス主義に専制政治をくっつけたのがスターリン主義で、毛沢東主義も同じようなものである。
 政治は、三大宗教と同じように、古代から一歩も前進していない。
 そして現在、アメリカでは、国益第一のトランプが大統領になり、フランスでは極右政党(国民戦線=FN)のルペンが大統領候補に取沙汰されている。
 ロシアのプーチンも中国の習近平も独裁的で、世界のリーダーは、だれもが民主的な手続きでえらばれた小粒なアレキサンダー大王なのである。

 西洋の近代化は、三つの革命によって実現された。
 宗教革命と市民革命、そして産業革命である。
 メイフラワー号でアメリカにやってきた人々はピューリタンで、英国から独立をかちとったアメリカ革命は、宗教革命でもあった。
 三つ目の産業革命は、伝統が残るヨーロッパよりも、新興国アメリカのほうで大きく開花した。
 摩天楼や車社会、オートメーションに象徴されるアメリカ文明は、過去なき地に打ち立てられ、かつてなかった形態とスケールで巨大化していった。
 歴史なき地で社会規範になりうるのは、宗教的戒律と民主主義だけである。
 相続すべき歴史的遺産がないからで、あるのは、プロティスタンティズムの自由と革命のエネルギーとなった民主主義だけだった。
 そして、アメリカは、そのアメリカイズムを普遍的な価値として、世界中におしつけてきた。
 アメリカの戦争は、すべて、民主主義を大義に掲げたもので、キリスト教を立て、侵略と虐殺をおこなったかつての列強の論理とかわるところがない。
 アメリカがすすめてきたグローバリズムはアメリカ化にほかならず、伝統を民主主義におきかえる文化破壊だった。
 イスラム過激派との戦争は、そこから生じたもので、アメリカという重爆撃機に抵抗する戦法としてえらばれたのがテロリズムだった。

 伝統は、議論の余地のない絶対的価値で、歴史に根ざしている。
 国家や政治についてはおおいに論じるべきだろう。
 だが、国体や天皇などの歴史的存在を論じることはできない。
 できるのは、歴史に反する俗論を正論をもって排除することだけである。
 この場合、言説以外の手段も許容される。
 なぜなら、民主主義において、すでに数の暴力(多数派による専制)≠ェ容認されているからである。
 民主主義も「力による支配」で、内部に「力による反逆」という対立軸をかかえこんでいる。
 対抗できるのは予備拘束だけだが、それでは、民主主義の自己否定になる。
 したがって、多数決による民主的決定は、永遠に、普遍性をもった絶対的価値とはならない。
 民主主義の生みの親は革命で、歴史を破壊しつくし、多くの血を流してきた。
 いまさら、民主主義は平和的で、暴力を否定するなどといってもとおらない。
 それなら、民主主義に、歴史にたいする不可侵を約束させなければならない。

 伝統は民主主義を排除しない。
 それが歴史主義で、歴史は、すべてこれを受容する。
 秀吉の検地・刀狩りやキリシタン禁止令、江戸幕府の鎖国令は、歴史上の出来事にとどまらず、現在の日本を成り立たせている根源的な要因になっている。
 伝統国家は、歴史という絶対的な土台の上に建っているのである。
 日本がキリスト教化されず、人身売買や奴隷制度がなく、士農工商の身分秩序の下で礼儀や道徳がおもんじられてきたのも、歴史と伝統の成果で、歴史は現在も生きている。
 その最高点に国体があり、天皇がおられる。
 この歴史を薄っぺらな民主主義でひっくり返そうとしたのが小泉政権下の「皇室典範に関する有識者会議」だった。
 民主主義は、伝統に牙をむく。
 国の内外から迫ってくる牙と対抗するのが「文化防衛」で、伝統をまもるには、よほどの情熱と胆力がもとめられるのである。
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2017年02月02日

 伝統と西洋合理主義B

 ●革命の西洋と伝統の日本
 トランプ大統領は、就任早々、イスラム7か国(イラン、イラク、シリア、リビア、イエメン、スーダン、ソマリア)国民のアメリカ入国を禁じる大統領令に署名、異議を唱えたイェーツ司法長官代理を罷免するなど、はやくも独裁者ぶりを発揮している。
 大統領令には、メキシコ国境の壁(グレートウォール)建設やTPP脱退がふくまれているほか、未署名の公約にはNAFTA(北米自由貿易協定)やNATO(北大西洋条約機構)の抜本的な見直し、中国にたいする45%の関税導入やロシアとの協力体制(ISIS関連)が謳われている。
 直接、日本に関連したものはないが、在日米軍の撤退(駐留コストの全額負担)や関税・為替問題を口にしているところから、いずれ、対日攻勢に打って出てくるのはまちがいない。
 常軌を逸脱したトランプのアメリカ・ファースト≠ノ世界中が戸惑っているが、これが、開拓史の西部劇からスタートしたアメリカの荒っぽい本質である。

 アメリカは戦争からうまれた国である。
 イギリスの13植民地(アメリカ東部沿岸)の叛乱(独立戦争)にはじまるアメリカ建国は、先住民族を全滅させたインディアン戦争、メキシコから領土(カリフォルニア・ニューメキシコ・テキサス)を奪った米墨戦争、アメリカ戦争史最大の62万人(第一次世界大戦11万人/第二次世界大戦32万人)の戦死者をだした内乱(南北戦争)、そして、二つの世界大戦を経て、独立後、わずか170年にして、世界の最強国になった。
 政体的には、連邦制(合衆国)をとっているが、基本にあるのは、13州が主権をもっていた当時の独立自治体制で、一般法も州によって異なる。
 大統領公選制と厳密な権力分立、民主主義をとっているのは、伝統的支配の体験がないからで、戦争(革命)国家であるアメリカは、国家そのものが権力構造なのである。

 アメリカの権力構造はペンタゴン(アメリカ国防総省)と大統領の監督下にあるCIA(中央情報局)の両輪で、その下にFBI(連邦捜査局)と州警察がつらなっている。
 権力構造が民主的な政治機構(議会)とは別のところにあって、その象徴がペンタゴンとCIAの管轄下にある軍産複合体(MIC)である。
 アメリカ大統領が絶大な力をもつのは、ペンタゴンやCIAと直接つながっているからで、徹底した対日敵対政策をとって日米戦争をまねいたルーズベルト大統領は、ホワイトハウス独裁をつらぬき、のちに帝王的大統領≠ニ呼ばれることになる。
 トランプは、日系人強制収用(大統領令9066号)をおこなったルーズベルトを評価していることから、理想としている大統領像は帝王型と思われる。
 アメリカが正義を旗印にした民主主義国家というのは大まちがいで、アメリカにあるのは、トランプ大統領が「アメリカが軍事力ナンバー1の地位をゆずることはない」と力説したように、力の論理だけである。

 アメリカ特有の治安制度に保安官(シェリフ)の存在がある。
 各州によって法が異なり、州や準州(ルイジアナなど)が入り混じっていた上、銃の所持に制限がなかった西部開拓当時、アメリカは全土にわたって無法地帯で、ワイアット・アープのような腕の立つ保安官がいなければ治安をまもることができなかった。
 保安官は、ワイアット・アープがそうだったように、腕の立つ粗暴なガンマンで、治安維持には、ほぼ公認の銃殺とリンチをもっぱらとした。
 トランプは公約に「銃規制緩和および撤廃・銃購入の権利」「拷問の認可」をあげている。
 リベラル派は眉をひそめるが、ほぼ同数の保守派は支持している。
 アメリカの良心など木っ端みじんだが、そこに、インディアンの殲滅を娯楽作品(西部劇)に仕立ててきたアメリカの本質がある。
 大半のアメリカ人がジョン・ウェインやジョン・フォード監督を愛しているように、トランプは、西部劇のスター、ワイアット・アープ気取りなのである。
 ルーズベルトもトルーマンも、騎兵隊長や保安官のような大統領で、イラク戦争を仕掛けたブッシュJも同様だろう。
 かれらは、保守派や軍産複合体の支持がえられるならためらうことなく拳銃のひきがねを引くならず者で、究極の迎合政治家である。

 日本がトランプとやりあうには、議会とつうじておくことである。
 トランプは、粗暴さと無知、誤認をもとに、これからも大統領令にサインをしまくるだろう。
 議会は、大統領令の正当性を質し、世論に訴え、反対法案をつくって対抗することができる。
 かつて、日本の真珠湾攻撃に激怒して、ラジオをつうじ、それまで反対してルーズベルト支持を全米に訴えたハミルトン・フィッシュ(下院議員)は議会に隠されていた「ハル・ノート」の存在を知り、深い後悔をもって、ルーズベルト支持の演説を撤回する。
 日本が「ハル・ノート」をアメリカの議会にもちこみ、その正統性を質していたら日米開戦はありえなかったのである。
 トランプと付き合うには、議員レベルで、アメリカ議会と交流を深めておくべきだろう。
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2017年01月26日

 伝統と西洋合理主義A

 ●民主主義よって破壊された伝統的価値
 戦後、日本では、民主主義が最大の価値となった。
 民主主義は、紀元前、プラトンから衆愚政治として退けられて以後、ソクラテスからプラトン、アリストテレスへとつづく西洋思想史から完全にすがたを消した代物である。
 復活したのは、18世紀になって、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』が登場してからである。
 ルソーの主権在民論がフランス革命の精神的支柱となり、マルクスの資本論に援用されたことはすでに知られている。
 民主主義が衆愚政治に堕すのは、古代ギリシャからの常識だが、ルソーはそこで名案を思いついた。
 民衆の代表者(民)を独裁者(主)に仕立て上げれば衆愚政治を免れるというアイデアである。
 古代ギリシャの民主主義は直接民主主義で、民衆全員が議事堂に入りきらない以上、もともと、現実性をそなえたものではなかった。
 だが、民衆の意思を一人の独裁者にゆだねるルソーの間接民主主義は、実現が可能である。
 このときルソーが使った論法が「民衆の総意にもとづく」という一般化理論である。
 日本国憲法の「日本国民の総意に基づく」(第一条天皇)がこの論法である。
 国民一人ひとりを民衆≠ニ一般化して、なおかつ総意≠ニいうゴマカシをもちいて、独裁者が君臨する近代民主主義を考案したのである。
 この論法からできあがったのが、フランス革命の恐怖政治(ジャコバン派)やナポレオン帝政、ロシア革命、ヒトラー独裁で、絶対権力者が人民代表の名の下で強権をふるったのである。

 ルソーの民主主義がうけいれられたのは、絶対王政から専制政治、独裁政治とすすんできた伝統的な政治が腐敗したからで、ここから、主権在民論が革命を正当化する論理として浮上してきた。
 日本国憲法でも国民主権が堂々と謳われている。
 ニューディーラーだったGHQが共産主義のシンパだったからである。
 先進国も、革命国家である以上、主権在民を謳っているが、当然、国家主権が優先されるので、有名無実となっている。
 ところが、日本国憲法では、国家主権(交戦権)が否定(9条)されているので、国民が唯一の主権者になっている。
 そして、民主主義が唯一の真実としてもちあげられる。
 現行憲法は、事実上、革命憲法で、日本共産党が六全協(1955年)で暴力革命路線を体制内革命路線へと転換したのは、憲法護持がそのまま革命運動になりうるからだった。
 戦後、日本人が人類の最高英知であるかのように考えてきた民主主義は、ただの革命理論で、徳や歴史の英知、まして、伝統的精神を宿してはいない。
 しかも、民主主義は、だれが真の権力者かを問うているだけで、政治はどうあるべきかという肝心なことには一言もふれていない。
 戦後日本人は、なにをもって、民主主義を信奉してきたのであろうか。

 民主主義を排除したプラトンが国家論で主張したのは、哲人政治で、高潔な人格者による政治であった。
 古代ギリシャでは、民主主義のアテナイ同盟と軍国主義のスパルタ同盟がたたかい、ともに疲弊して、マケドニアに滅ぼされている。
 民主主義と武闘主義が競った古代ギリシャにあったのは権力争奪だけで、政治がなかったのである。
 ちょうどその時代、日本では天皇政治(祭祀国家)が開始された。
 大和朝廷は、幾多の豪族を統一して、永遠の国体をつくりあげた。
 プラトンが理想とした国家は、日本において、実現されていたのである。
 プラトンの思想(イデア論)は本質の不変性で、伝統につうじる。
 プラトンは、真理は天上にあって、この世はその反映であると考えた。
 この考え方は、真実は高天原にあって、この世はその恩恵であるという日本の神話信仰とつうじる。
 大日本帝国憲法第3条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とある。
 これが伝統的価値で、新憲法では「日本国民の総意に基づく」から「天皇はわが国の伝統である」へ変更されなければならない。

 戦後、伝統的価値観を捨て、民主主義へ走った日本人は、信じるべきものをすべて失い、それでも、なんでも多数決できめられると思いこんでいる。
 教育勅語を悪の権化のようにいい、道徳教育に反対するのは、民主主義に反するというわけで、朝日新聞は判でおしたように「軍靴の音が聞こえてくる」とくり返す。
 伝統をまもるのは英知である。
 一方、民主主義が相手にしているのは感情である。
 戦後の日本人が民主主義を後生大事にしてきたのは、自分勝手な感情の捌け口になるからだったのである。
 民主主義とは感情に支配される政治で、それがポピュリズムである。
 衆愚政治は、有権者が愚かであるがゆえに、低レベルの政治がおこなわれることで、ポピュリズムは、その愚かさにつけこんだ政治や政策のことである。
 衆愚政治とポピュリズムの下で、道州制導入の国民投票や首相公選制がおこなわれると、ファシズム並みの悲惨な政治状況がうまれるだろう。
 伝統という絶対価値を失えば、行く先にあるのは、革命や国家崩壊だけである。
 次回は、革命と伝統の本質的ちがいを歴史をとおしてみてみよう。
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2017年01月20日

 伝統と西洋合理主義@

 ●反日主義の土台となった西洋合理主義
 日本は、戦後、西洋合理主義によって、国家改造がはかられた。
 戦勝国による敗戦国にたいする文化破壊である。
 伝統国家である日本の文化構造が、連合国の西洋合理主義の前で風前の灯となったのである。
 その危機の構造を見抜いたのが三島由紀夫の「文化防衛論」だった。
 戦争に勝ったのは、中華民国(辛亥革命)をふくめて、すべて、革命国家である。
 戦争に負けた日本は、革命を経験していない伝統国家で、大東亜戦争・日米戦争は、革命国家と伝統国家のたたかいだったといえる。
 革命は、西洋合理主義の一つの帰結で、伝統を破壊した上に成立する。
 革命国家にとって伝統国家は、合理主義に目覚めていない野蛮な体制ということになる。
 かつて列強が非キリスト教圏を未開の地と見たのと同じ発想で、白人が現地人に暴虐のかぎりをつくした理由がそこにある。
 前大戦において連合国側は、民主主義という西洋合理主義を立て、日・独のファシズム打倒をスローガンに掲げた。
 連合国側には、ワイマール憲法がうんだ独裁者と伝統国家の天皇の区別がついていなかったのである。
 これにたいして日本は、大東亜共栄思想を立て、資源確保のほか、植民地の解放や人種差別の撤廃をめざした。
 革命や海外侵略など西洋の「力の論理」にたいして、日本は、平等や共栄という東洋の徳を立てたのである。

 日本は、海軍が真珠湾奇襲と南洋進出いう愚かな戦術をとって、アメリカの参戦をまねき、敗戦した。
 本土防衛を手薄にして、サイパン島などの島嶼基地を失い、本土空爆をゆるしたのが敗因だった。
 武力戦に勝ったのち、敵地占領から武装解除、思想戦へとすすむのが近代の戦争である。
 旧敵国が二度と立ち向かえないようにするためで、その筆頭が、武装解除である。
 神道指令や公職追放令などの一過性の軍令は、占領が終了してGHQが撤退すれば失効する。
 ところが、武装解除(9条)を盛り込んだ憲法や教育基本法、労働組合法、財閥解体、農地改革、あるいは教育勅語の廃棄などは、占領が終わっても、恒久的な法や制度、構造として残り、主権が回復されたあとでも、国家と国民を拘束しつづける。
 昭和27年にサンフランシスコ講和条約が締結された時点で、日本は、最低限、占領憲法の廃棄と皇室典範の憲法からの分離を実現させておくべきだった。
 ところが、戦前から親英米派だった吉田茂にその気はなく、公職追放されていた鳩山一郎が政界に復帰したときは、護憲派が議席の三分の一を握ったあとだった。
 講和が成立して、独立をはたしたあとでも、日本は、敗戦構造をひきずったままで、戦後体制(戦後レジーム)から脱却の機運がうまれてきたのは、第二次安倍内閣にいたってからである。
 そのかん日本中に吹き荒れていたのは、濃淡の差こそあれ、反日主義という敗戦国特有の風で、戦後、戦勝国から植えつけられた西洋合理主義が、左翼から進歩主義、反伝統、自虐史観、売国思想に化けて、日本中に摩擦をひきおこしていたのである。
 西洋合理主義で伝統を論じることはできない。
 女性天皇(女系天皇)をみとめた皇室典範に関する有識者会議(平成17年)の吉川弘之座長(元東京大学総長)が「伝統は無視した」とのべたことからもわかるように西洋(近代)合理主義の下では、伝統は異物としか映らないからである。

 西洋合理主義を次の四つのキーワードで読み解いてみよう。
 @キリスト教
 A民主主義
 B科学万能主義
 C革命思想(相対主義)
 西洋の価値観の根底にあるのがキリスト教である。
 西洋の一元論は、唯一神であるキリスト教の影響で、正義も真理も、正しいものは一つしか存在しない。
 近代になって、絶対的なものが神から科学に移り変わった。
 といっても、神と科学がそっくり入れ替わったのではなく、科学もまた神の思し召しの一つとなったのである。
 四つ目の革命思想は、啓蒙思想のジャン・J・ルソーやJ・ロックから共産主義のマルクスへつながる進歩主義の系譜で、フランス革命やイギリスのピューリタン革命、アメリカ独立戦争、ロシア革命のイデオロギーとなった。
 西洋合理主義にたいして日本の伝統主義は――。
 @道徳主義
 A神道 
 B歴史主義
 C国体思想(絶対主義)
 に根ざしている。
 次回以降、日本と西洋とりわけアメリカとの文化比較をとおして、伝統国家日本の復活について、論をすすめていこう。
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2017年01月11日

 三極時代における日本の外交戦略C

 ●軍事から経済へ方向転換するグローバリズム
 これまで、軍事力を中心に展開されてきたグローバリズムは、今後、経済を中心とする世界のブロック化へと様相を変えてゆくだろう。
 世界大国アメリカの一極支配から地域大国となる米・ロ・中の多極支配へとパラダイムが変更されるのである。
 大国による軍事制圧は、イラク戦争がIS(イスラム国)という怪物をうんだだけだったように、テロの報復や敵対勢力の拡散、新たな紛争、難民流出をまねくだけで、支配の決定的な力にならず、今後、なることもない。
 大国による軍事衝突の可能性も消滅したといってよい。
 かつての大戦は、すべて、独裁政権と国民の無知のもとでおこなわれた。
 情報ネットワークの発達によって、仮想敵という観念が希薄になりつつあるのにくわえ、全世界がネット情報を共有する環境の下で、大規模な国家戦争はおこなわれないとみるのが妥当だろう。
 実戦の代用となっているのが、米ソ冷戦に片をつけたシミュレーション戦争で、大国による軍拡競争は、データによる仮想戦争といってよい。
 仮想戦争で、軍事力と並んで大きな要素となるのが経済力と地政学的条件である。
 米ソ冷戦でアメリカが勝利した理由の一つが、日本の基地の威力で、旧ソ連は、太平洋方面の劣勢を最後まで覆すことができなかった。

 軍事力と地政学的力学にもとづく仮想戦争が終わると、残るのは経済戦争だけである。
 現在、国家あるいは国際社会において、軍事的な緊張をこえる混乱や摩擦のタネになっているのが経済である。
 といっても、自由貿易や資本の自由化の下にある実体経済は、経済制裁などのケースを除いて、大きな問題になる可能性はほとんどない。
 問題は、国際金融資本と新自由主義で、実体経済を破壊する金融経済と富が少数の資本家に独占される新自由主義によって、資本主義体制が根底からゆらぎはじめている。
 バブルとその崩壊、巨額の不良債権処理、経済規模の縮小や中間層の貧困化、雇用問題などの尻拭い(「国家と市場の戦い」)をさせられる国家が危機に瀕するのである。
 トランプの登場の背後にあったのは、1911年のウオール街の叛乱≠ノ端を発した新自由主義への反抗で、他の先進国も同様の事情をかかえている。
 ヨーロッパ金融界をのみこんだサブプライムローン問題やギリシャを筆頭とする欧州財政危機が国家のみならずEU全体をゆるがしたのである。

 世界大国主義から地域大国主義への移行も経済問題と無縁ではない。
 トランプの一国主義宣言やイギリスのEU離脱の背景にあったのは、経済の建て直しで、国際金融資本と新自由主義の暴風が吹き荒れた後、新たな経済体制をつくりあげなければ国家も国際関係も立ち行きならなくなったのである。
 米ロ接近は、対テロ戦争で手を組み、それぞれ、自国の経済建て直しに全力を尽くそうというわけで、今後、国際関係は、軍事力ではなく、経済が中心になっていかざるをえない。
 軍事力で仕切られてきた世界構造が、産業や資本、技術、雇用という非軍事部門に左右されはじめるのである。
 大きな役割を担うのが日本である。
 中心になるのが産業技術の分野で、日本の外交は、米・ロの二元外交を軸にして、インドや東南アジア諸国にたいして、積極的にすすめられるべきである。
 これは、大東亜共栄圏の再現で、再び、共存共栄のスローガンが謳われる。

 かつて英米は、大東亜共栄圏が西洋への敵対思想だとして、経済封鎖や軍事挑発をおこなって、日本を第二次大戦へひきずりこんだ。
 日本にとってトランプが望ましいのは、無能で日本嫌いだったルーズベルトとは異なるタイプだからで、日本は、欧米の妨害をうけることなく、開国以来の国是である対米・対ロ・対亜の三方外交を展開できる。
 日本外交の要諦は、覇権でも領土的野心でも、まして植民地化でもない。
 中・韓が日本外交の重点から除外されるのは、特アには、大東亜共栄思想が通用しないからである。
 中・韓は、かつてのルーズベルトのようなもので、交渉をかさねるほど溝が深くなる。
 日本が対米交渉を中止して「ハルノート」を無視していたら、大東亜戦争はあっても、日米開戦はありえなかった。
 平和的交渉が不可能な国には、沈黙して、防衛を万全にしていることが最善の外交なのである。

 当時の日本にゼロ戦や戦艦大和があったように、現在の日本には先端技術と工業技術がある。
 スーパーコンピューターをはるかにしのぐ量子コンピューターもノーベル賞レベルで世界をリードし、国産ステルス戦闘機「心神」は米軍「F―35」を凌駕する能力をもっている。
 中国は基礎研究と軍事技術での敗北をみとめたが、これが、研究技術分野で実現できる安全保障である。
 対ロ・対米・対亜にたいしても、日本は、技術面で平和外交を展開できる。
 ロシアには技術提供と民間資本導入にもとづくシベリア開発が有望で、とりわけ要求されているのがIT分野の技術である。
 工業技術や基礎研究がない中国や韓国には手がだせない分野で、シェア世界一のサムソンのスマートフォンの部品はほとんど日本製である。
 日本の新幹線を導入するインドや製造業のインフラ設備が整っていない東南アジアへの技術導入には、経済成長にともなって、巨大な市場が誕生するメリットもある。

 アメリカではローテク製造業が不振で、それが高い失業率につながっている。
 アメリカでは第二次世界大戦後につくられた道路や橋などのインフラ施設の老朽化が問題化しており、トランプは、大型インフラ投資の方針を掲げている。
 トランプが選挙期間中にコマツを名指しで批判したことにたいして、同社の大橋徹二社長は「米国のコマツ工場は全体で約6000人を雇用している」と切り返している。
 空洞化しているアメリカの製造業に日本のメーカーがのりこんで技術移出と雇用をひきうければ、アメリカ経済は復活し、日本にとっても、中国以上の大市場となる。
 資源関連も同様で、日本は、技術力で、潜在的資源国家になりうる。
 地下のシェール層に約5000億ドル(約49兆億円)の原油が埋蔵されている米オハイオ州東部の油田開発が、コスト高が原因で打ち切られたという。
 原油の資源量は、経済的に採算がとれる埋蔵量や確認埋蔵量(重質油・超重質油)の数倍といわれる。
 原油の重質留分分解技術は、日本が世界一で、原油の残渣物を10%下げることによって、その分、新たに原油を掘り当てたにひとしい。
 日本は軍事面でアメリカに依存しているが、技術ではアメリカと肩を並べるかそれ以上である。
 政治家である以上に経済人であるトランプの登場によって、日本は、技術によって、米・ロ・亜と共存共栄の路線を堂々と選択できる。
 大東亜共栄圏と耳にしただけで、拒絶反応をおこす者もいる。
 ルーズベルトやスターリンの「日本滅亡」思想に毒されているのである。
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2017年01月06日

三極時代における日本の外交戦略B

 ●米・ロとの二極外交と日本の自主独立
 日本は、かつて、三つの大戦をたたかった。
 日清戦争と日露戦争、大東亜戦争である。
 中国(中華民国)とロシアには勝ち、アメリカには負けた。
 現在、日本外交の重点が米・ロ・中の3国に絞られているのは、過去のこの三つの大戦とけっして無縁ではない。
 日本がアメリカとロシア、中国と深い因縁をもつ理由は三つあるだろう。
 1、海を隔てた隣国同士で、日本は、米・ロ・中の中間地点に位置している
 2、革命国家(米・ロ・中)と伝統国家の確執がある
 3、米・ロ・中と日本は文明圏が異なり、価値観に大きな相違がある
 米・ロ・中と戦争したのは、利害が対立あるいは競合したからである。
 地政学的には太平洋をめぐる確執で、かつて、西太平洋を勢力圏とした日本が、米・ロ・中には、いまなお、利害対立者として立ちはだかっているのである。
 戦後、戦争当事国のあいだで和平が成立したのは、戦勝国によって新秩序が打ち立てられたからで、それが「YP(ヤルタ・ポツダム)体制である。
 対等だった立場が、戦争の勝敗によって、上下の関係におかれる。
 日本とドイツは、現在も、国連憲章の敵国条項(53条・107条・77条)に指定されたままで、同憲章には、戦勝国による一方的な軍事的制裁を容認する不平等が謳われている。
 米・ロ・中の日本にたいする高圧的な外交姿勢は戦勝国のもので、とりわけ中国は、国家のアイデンティティを対日勝利≠ノおいているほどである。
 米・ロ・中との外交の難しさは、この三大国が戦勝国で、国連の常任理事国というところにあるといってよい。

 グローバリズムは、戦勝国によってつくられた世界版図あるいは勢力争いのことで、その埒外におかれた枢軸国(日・独)は、経済や技術に活路を見出すほかなかった。
 敗戦国である日本が短時日で復興と経済成長をなしとげ、一流国の仲間入りをはたすことができたのは、アメリカとの同盟に負うところが大きい。
 戦後、日本は、アメリカの軍事力に依存する一方、極東の島国という絶好の地政学的ポジションを基地として提供することによって、アメリカの世界戦略に加担してきた。
 その意味で、日米安保は、かならずしも、片務的ということはできない。
 外交・防衛について、日本がアメリカに追従してきたのは、戦争に負けたというより、戦後、自主的な世界戦略を放棄してきたからである。
 そして、武器を捨てると平和になるという平和観念論(憲法前文・九条)に立てこもって、外交・防衛という現実路線をべったりアメリカに依存してきた。
 YP体制を肯定する護憲的改憲ではなく、自主憲法の制定が望まれる所以である。
 憲法で国家主権を否定し、スパイ防止法も国家反逆罪ももたず、大使館には情報官も駐在していないのは、潜在主権を戦勝国アメリカに置いた戦後体制をひきずっているからで、その象徴がほかならぬ現行憲法なのである。
 YP体制は、戦勝国が強制したというよりも、日本がみずから選択した敗北主義で、戦後レジームを否定するなら憲法以下、法制や政令、制度を独立国家のものにきりかえなければならない。

 トランプの登場によって、戦勝国支配という世界体制に変化が生じる可能性がでてきた。
 反グローバリズムは、戦勝国みずからによるYP体制の否定で、強国(戦勝国)支配から地域大国によるブロック支配へ移ってゆこうというのである。
 その象徴がトランプが示唆するNATOや極東からの米軍撤退、自由貿易や移民の制限である。
 地殻変動の前触れがイギリスのEU離脱で、初動が米・ロ接近である。
 これに、ロシアとEU、ロシアと日本の接近がつづくだろう。
 日米関係もタテ型から横型へ変化してゆく。
 日本とアメリカは、敗戦国と戦勝国の関係から、太平洋の東と西に位置する同盟国として、新たな関係へ移ってゆく。
 パラダイムの変更によって、外交・防衛をアメリカに頼ってきた日本のこれまでの外交・安全保障の概念が根本から崩れ落ちたのである。
 日本が米・ロ・中と確乎たる外交関係をむすばなければならないのは、敵対関係になることを避けるためでる。
 外交とは、戦争を防ぐための交渉であって、交流や友好、通商は二の次三の次の問題である。
 戦争を防ぐための要点は、交戦力・情報収集力・相互不干渉の三つである。
 交戦力や情報力をもち、なおかつ一定の距離を保つところに外交という高等技術が展開される。
 日本は憲法で交戦力を否定し、情報・諜報機関をもたず、親米や親中という無節操な外交に終始して、米・ロ・中、韓との自主外交を台無しにしてきた。
 日本の平和外交は、摩擦や紛争の種をまきちらす火遊びだったのである。
 次回は、米・ロ・中を中心にした日本の外交戦略を展望してゆこう。
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2016年12月31日

 三極時代における日本の外交戦略A

 ●米・ロとの二極外交で中国の野望を打ち砕く
 米・ロの接近によって、大きな影響をうけるのが中国だろう。
 ロシアとアメリカのプレゼンスが高まって、中国の地位が相対的に低下するからである。
 バランス・オブ・パワーの力学では1+1は3にも4にもなる。
 これに日本がくわわって、日・米・ロの「トライアングル外交」が成立すると中国の覇権主義にブレーキがかかろう。
 中国は、これまで、軍事力と経済力を武器に、侵略的な対外政策をすすめてきた。
 チベットやウイグル、南シナ海では、軍事力にモノをいわせ、中央アジアやアフリカなどでは経済で影響力を高めるという両刀使いの戦略を展開してきたのである。
 その背景にあったのが、拒否権をもった国連常任理事国の驕りと大国中国に歯向かえる国はないという思い上がりだったろう。
 核を保有する五大強国に戦争を仕掛ける国があるはずもなく、五大常任理事国がホット・ウオーに突入する可能性もゼロである。
「確証破壊」のメカニズムというよりも、核戦争のリスクを冒していいほどの戦争原因が存在しないからである。
 中国が無人の野を行くように勝手放題にふるまうのは、地球上から大規模な軍事衝突の可能性が消えたからで、中国の横暴は、バランス・オブ・パワーの破綻から生じたものだったといってよい。

 中国が軍拡に走るのは、現代の戦争は、実戦ではなく、軍事力比較によって勝敗が決するシミュレーション・ウオー(仮想戦争)だからである。
 この仮想戦争では、軍拡競争に後れをとって軍事的優位性を失えば、事実上の敗戦となる。
 日・米(1位・4位)と中・ロ(2位・3位)の軍事力は、日米側が優位にあるが、それでも、中ロ同盟は、日米同盟やNATOと世界版図を三分する大勢力である。
 米・ロ接近や日・ロの関係強化、日・米・ロのトライアングル外交によってこのバランス・オブ・パワーに変化が生じる。
 日・米・ロの調和路線が中国の覇権主義の抵抗となってくるからで、軍事力や経済力で他国の利益を蹂躙してきた中国流は、国家間の共同利益をもとめる新たなグローバリズムによって、今後、通用しなくなってくる。
 トランプの一国主義は国益主義≠ナ、今後、国益にもとづく国家的連携が新たな国際秩序となってゆくはずである。
 強国の論理や利益を地球規模におしひろげてゆく覇権主義≠ヘ、かつての帝国主義のように、過去のものになりつつあるのである。

 中国の日本にたいする敵対政策は覇権主義にもとづいている。
 覇権をもとめ、仮想敵をつくることによって、国家の求心力を保とうというわけで、中国政府は、これまで日本の戦争犯罪(南京虐殺・靖国問題)などを煽って、反日デモまで工作してきた。
 覇権主義のベースとなっているのが中華思想で、中国と平等な立場に立った外交が困難なのは、中国外交には、伝統的に、君臨と服従以外の選択肢がないからである。
 中国の圧力に屈服せず、経済・軍事の両面で拮抗し、実質的にアジア安保となっている日米安保条約を堅持している日本は、中国にとって、中華思想に馴染まない永遠の仮想敵なのである。
 日・米・ロの新しい外交が開かれても、日中外交にはいかなる展望も見えてこない。
 中国にたいする安易な接近や妥協が、日本外交の障害となる危険性を弁えておくべきだろう。
 中国の友好的な関係にあるのはロシアだけである。
 日米安保条約に対抗するのが中露善隣友好協力条約で、同条約は、事実上の防衛協定(第9条)にして軍事協定(第7条・第16条)である。
 ソ連崩壊後、ロシアと中国の力関係が逆転し、とりわけ経済では、十倍もの開きが生じているが、資源や技術などでは、中国がロシアに依存している。
 欧米から経済制裁をうけているロシアにとっても、中国は重要なパートナーで、中ロ同盟は、北大西洋条約機構(NATO)や日米安保条約に対抗しうるバランス・オブ・パワーバランスの役割をはたしている。
 そのロシアが、アメリカや日本に接近すれば、中国にとって、逆風となる。
 中国政府がしばしば口にする中国封じ込め≠ェ現実のものなってくるのである。

 日本にとっては順風で、米・ロの協調路線が軌道に乗れば、日米安保の枠やアメリカの外交政策に縛られてきた対ロシア外交が、日本独自の戦略にもとづいておこなえるようになる。
 日ロ外交は、幕末開国から日米外交とともに重要な国家戦略で、日露戦争には勝ち、日米戦争には負けた。
 次回以降、日米・日ロ外交の戦略についてのべるが、要約していえば、中国とは距離をおき、一方、米・ロについては、互いに主権と国益に尊重しあえる関係を築き上げるべきことに尽きる。
 その大テーマへゆく前にふれておかなければならないのが、日本側の問題である。
 はたして日本は、アメリカやロシアと対等に外交をおこなえる条件を十分に整えているだろうか。
 否である。
 米占領下からスタートした戦後日本は、経済以外の分野において、独立国としての諸条件を欠いた属国構造をいまだひきずっている。
 憲法上の主権を有さず、国家反逆罪やスパイ防止法をもたない国が、主権の行使である自主外交をおこなえるはずがない。
 在日米軍と自衛隊が、軍事機密や軍事戦略、軍事システムを共有できないのも同じ理由で、同盟国として、重大な軍事機密を盗んでも窃盗罪しか問われないような国といっしょにたたかうわけにはいかないのである。
 外交は「戦闘をともなわない戦争」といわれるように、主権と国益をかけた壮絶な駆け引きで、きわめつけの現実主義である。
 これまで日本は、自主外交を放棄して、対米従属の外交に終始してきた。
 外務省が無能で、政治家が外交に不熱心だったばかりではない。
 外交とは他国と仲良くやることくらいの認識しかない日本には、アメリカのリードがなければ、一人前の国家としてふるまうことができないのである。
 主権を放棄した属国憲法を戴いてきたツケがいまになって重くのしかかっているのである。
 自主外交の戦略を構築する前に、主権国家としての条件を整えておくことが先決されるべきなのはいうまでもない。
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2016年12月22日

 三極時代における日本の外交戦略@

 ●米・ロ相手の二極外交で中国の野望を打ち砕け
 トランプが大統領になる2017年以降、アメリカとロシア、中国の3つの強国が世界版図の分け合う情勢になるだろう。
 この3強国は、アメリカが軍事国家、ロシアは資源国家、中国が覇権国家とそれぞれ特性が異なる。
 そこから3強国の駆け引きがいっそう複雑なものになっていく。
 カギを握るのが中東情勢だろう。
 イランとの歴史的合意(イラン核協議)によって、アメリカが、イランとの戦争を回避したのは、世界版図の上で大きな意味がある。
 イラクにつづいてイランを親米国家にできれば、中東を完全におさえることができ、アメリカは、ロシアや中国にたいして、圧倒的な優位に立てる。
 ロシアにたいしては原油価格、中国にたいしては原油供給の大元をおさえることができるからである。
 ロシアの原油は1バレル当たり50ドルが採算分岐点で、それ以下なら赤字で、一方、大幅に上回るとシェールオイルに太刀打ちできず、需要の頭打ちや原油高にともなうルーブル高というデメリットもでてくる。
 アメリカのシェールオイルや海洋油田も条件はほぼ同じなので、米ロ2国が組んで、石油価格を戦略的に低くおさえているOPEC(石油輸出国機構)に圧力をかけることが可能になる。
 ちなみに、サウジアラビアの石油はバレル当たり18ドルで採算が取れる。
 中国は世界5位の石油産出国だが、産出量の3倍近くも消費する世界2位の消費国でもあるので、ロシアや中東からの石油供給が止まると経済のみならず国民生活までが破綻する。
 ロシアや中東からの石油供給がストップすれば、中国は、ABCD包囲網によって石油の輸入をとめられた戦前の日本と同じ運命をたどることになるのである。

 アメリカとイランとの緊張関係が解けると、中東の反米国家は内乱中のシリア、国内が分断しているレバノンだけになる。
 中東はマスコミがつたえるような反米地帯ではなく、UAE、サウジ、オマーン、カタール、クウェート、トルコ、バーレーンには国内に米軍が駐留している。
 問題はシリアで、イランとイラクのほかロシアと中国などが現アサド政権を支援している。
 反政府軍を支援しているのは、欧米とイスラエル・カタール・サウジアラビアなどだが、アルカイダなどのイスラム過激派やイスラム国もくわわっているので、反テロ作戦を展開中のアメリカとしてはうかつにうごけない。
 ロシアや中国がシリアを支援するのは、イラン・イラクがらみの他、特殊な思惑や因縁もあるが、アメリカ(ネオコン=親イスラエル)を中心とする西側陣営との代理戦争という側面もあるだろう。
 ロシアも中国も中東をむざむざとアメリカの手に渡したくないのである。
 ちなみに、シリア内戦をめぐる中東諸国の対応がばらばらなのは、イスラム教圏内の内ゲバ≠ナ、アサド政権側がシーア派、反体制側がスンニ派である。
 
 アメリカとイラン、トランプとプーチンの接近によって、シリア内戦をめぐる欧米とロ・中の代理戦争という構図が崩れてくる。
 イランとの敵対関係がなくなると、アメリカは、イランの同盟国であるシリアを攻撃する大義名分を失うどころか、シリア国内のイスラム国(ISIL)勢力や反政府武装組織にたいして空爆を展開しているロシアのバックアップに回る可能性がでてくる。
 ロシアの空爆によって、イラク軍が手を焼いているイスラム国の勢いが衰えをみせてきたことから、米軍機がシリア空爆にくわわれば、イスラム国に壊滅に拍車がかかり、米・ロとも反イスラム過激派の世界世論を味方につけることができるだろう。
 サウジアラビアとイランの関係にも緩みがうまれつつある。
 8年ぶりの減産枠組みで合意して、ロシアなどの産油国をよろこばせたOPEC(2016年9月)では、盟主サウジが大幅に譲歩して、イランに限って増産をみとめた。
 サウジアラビア(多数派のスンニ派)とイラン(少数派のシーア派)の対立は宗教戦争で、中東は、宗派という分断線によって、地域全体が敵と味方に分かたれている。
 したがって、サウジとイランの関係が融和されると、中東全体の緊張が緩和されることになる。
 アメリカとロシアそしてイラン、イランとサウジのあいだでデタント(緊張緩和)がすすみ、米・ロによるイスラム過激派(イスラム国)制圧が現実すると、米・ロ・中の三極構造にも大きな変化があらわれる。

 覇権国家中国が浮き上がってくるのである。
 米・ロ接近以前、ロシアは、GDPで10倍近い開きがある中国にたいして劣勢で、2015年、中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)へみずから参加を表明したほどだ。
 中国は、近い将来、アメリカから世界ナンバーワン≠フ地位を奪うことを国家戦略としている。
 中国が尖閣列島や南シナ海、東シナ海へ野心をむき出しにしているのは資源確保(南シナ海は天然資源の宝庫)だけが目的ではない。
 中国海軍・空軍の作戦区域(対米国防ライン)の要衝だからで、潜水艦基地のある海南島は、西太平洋に進出できる南シナ海の深海部につながっている。
 中国の海洋戦略は「第一列島線(九州・沖縄・台湾・フィリピン・ボルネオ島)」を支配することで、米海軍(第7艦隊)に代わって、西太平洋とインド洋に制海権を打ち立てようというのである。
 アメリカとロシアの接近および日米・日ロの二元外交が、中国の国家戦略の妨害になるのはいうまでもない。
 オランダ・ハーグの仲裁裁判所から国際法上の根拠がないと認定(国連海洋法条約)された南シナ海(九段線)の主権宣言と基地建設が侵略行為とみなされて、中国は、国際社会から批判を浴びている。
 中国が、仲裁裁判所の判決を「紙切れ」といってのけたのは、世界で中国に逆らえる国はないという自信からだろうが、米・ロに日本がくわわった包囲網のなかでは、その傲慢も通用するまい。
 次回は、米・ロ・中3極構造の今後と日本外交のありかたを検討してみよう。
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2016年12月12日

トランプ大統領とアメリカ一国支配の終焉C

 ●時代のパラダイムから取り残される日本国憲法
 トランプは「バイアメリカン、ハイアアメリカ(アメリカ制品を買え、アメリカ人を雇え)」と叫ぶ。
 トランプの脱グローバリズムや一国主義は、そこからでてきたもので、トランプがみずから主義や思想を語ったことはいちどもない。
 アメリカは、依然として、グローバリズムにもとづいた覇権国家で、国益のためなら、経済・金融・貿易・為替の分野でいかなる政策もとるだろう。
 トランプの脱グローバリズム一国主義は、理念や価値観にもとづくものではなく、それが国益に適うからで、それ以上ではない。
 今後、世界の潮流になるのがグローバリズムと国益主義の合体である。
 中国の元安や国家が主導するロシアの経済政策が象徴するように、ロシアや中国の一国主義は、軍事力を強化しつつ国家が経済の後ろ盾にまわろうというきわめて現実的な戦略なのである。
 トランプが、アメリカ人の雇用を奪っている移民政策の見直しやTPPから離脱を宣言したのは自国の製造業をまもるためで、元安・円安に対抗する立場から輸入関税を上げるとも公言している。
 その一方で、国防費の上限撤廃を主張するトランプの一国主義は、ロシアや中国と同様、覇権主義と国家資本主義の二元的路線で、グローバリズムの終焉などと呼べる代物ではない。

 開国以来、孤立主義と国際主義のあいだをゆれうごいてきたアメリカが両方の機能を併せもつようになったのは、第二次大戦後である。
 日本やドイツとの戦争のためにつくりあげられた国家臨戦態勢=軍産複合体(MIC)≠ェ発展的にひきつがれて、現在のアメリカの国家構造になっているのである。
 アメリカは国家丸ごと軍産複合体で、国防総省(ペンタゴン)やCIA(中央情報局)と密着している。
 350万人以上の将兵を抱える軍部と国防総省、「デュポン」「ロッキード」「ダグラス」など3万5千社にのぼる傘下企業群、大学や研究室、政府機関やマスコミ、議会までが一体となった軍産複合体はアメリカ特有なもので、アメリカのパワーの源泉である。
 軍産複合体の市場は、世界の火種である中東と中国の拡張政策にさらされている極東で、湾岸戦争の折、サウジアラビアなどはアメリカから大量に兵器を購入し、日本も尖閣列島危機にからめて、オスプレイ17機(3600億円)の購入をきめている。
 トランプがNATOや極東からの米軍退却をちらつかせたのは、米軍の退却とひきかえに兵器を売りつけようというハラで、戦後、GHQから航空機の製造を禁じられた日本は、戦闘機などの重要な軍備をすべてアメリカから買ってきた。
 アメリカが米軍「F35」を凌駕するステルス戦闘機「心神」(三菱重工)の完成に不快感をしめしたのはそのためで、そこに対米関係と日本の自主防衛のむずかしさがある。

 日本人はアメリカの真のすがたを知らない。
 アメリカは、国家自体が軍産複合体というコングロマリットで、国家という一般的な概念ではとらえることができない。
 インドシナからの撤退やデタント(緊張緩和)による軍事費縮減をすすめたケネディ大統領の暗殺(アメリカ政府による真相の76年間封印)や資源外交や全方位外交をすすめた田中角栄の失脚工作(ロッキード事件)の背後に軍産複合体の存在があったのは明らかで、トランプの逆転当選にも、共和党=ネオコンをとおして軍産複合体による工作があったのは疑えない。
 イラク戦争やリビア侵攻を批判したばかりか、ロシア・中国との協調路線を唱え、軍産共同体の怒りを買ったトランプが、突如、国防費の上限撤廃を打ち出したのがその傍証で、軍産共同体の系列にあるマスコミも、以後、トランプ批判をぴたりと止めた。

 アメリカが謀略国家なのは、世界の常識だが、日本にはその認識がない。
 ロッキード事件では、朝日新聞や文藝春秋など日本中のマスコミがアメリカ発のガセ情報に踊らされ、国民は、希代の天才政治家角栄逮捕の報にこぞって喝采を送った。
 もっとも悲劇的なのは、連合国が日本の無力化を、GHQが日本の共産化をはかった占領政策の憲法が、いまだ最高法として君臨している事実である。
 世界が一国主義へむかうなか、国家主権と国体を否定した現憲法ほど有害にして障害になるものはない。
 ところが、現在、自主憲法制定のうごきはなきにひとしい。
 自主憲法制定派にとって、大きな痛手が自民党の変節である。
 自民党は、事実上、護憲派の一員で、改憲は、護憲的改憲にすぎない。
 護憲派が現憲法を金科玉条とするなら、自民党は9条と全文の削除、維新の党が地方自治権、公明党が環境権の上乗せで、改憲論はもっぱら護憲論の土俵のなかで議論されている。

 護憲的改憲派は、憲法96条の三分の二条項をもちだすが、自主憲法制定に必要なのは現憲法廃棄であって、げんに、昭和27年のサンフランシスコ講和条約でうけいれた東京裁判における戦犯判決を、翌28年の国会決議(戦犯処刑は法務死であって戦死者とみなす)でひっくり返している。
 国家主権と民主主義の原理において、国会決議に勝るものはなく、同決議は多数決が原則である。
 鳩山一郎や岸信介らの日本民主党と吉田茂が率いる自由党が合同(55年体制)して以来、自民党の党是は「新憲法制定」と「経済復興」だった。
 このとき鳩山一郎が、総議員の3分の2以上の確保を目指したのは、53年の時点(吉田自由党政権)で、保守全体で三分の二の議席にたっしていたからだった。
 三分の二条項は改憲手続きであって、憲法廃棄と新憲法制定は、国家決議の過半数で可能である。
 自民党が三分の二条項にこだわるのは、自主憲法制定の意思がなく、護憲の範囲内で条文の変更をおこなおうという敗北主義に陥っているからで、改憲を主張する自民党が自主憲法制定の最大の障害になっている。
 今後、世界は、国益という国家エゴと軍事力を背景にした力の論理によってはげしくゆれうごくことになる。
 それがグローバリズムと一国主義が並び立つ新時代のパラダイムである。
 現憲法は、国際主義という前世紀の遺物で、共産主義が人類の理想とされていた時代の妄想にすぎない。
 人類の理想やら恒久の平和やらと念仏を唱えて、世界から取り残される愚を犯してはならない。
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2016年12月07日

トランプ大統領とアメリカ一国支配の終焉B

 ●グローバリズムと一国主義の兼ね合い
 トランプ新大統領の登場によって、グローバリズムから、一国主義の時代に移ってゆくという論調が目立つ。
 大きなまちがいで、アメリカの世界戦略が変更されても、グローバリズムという世界の潮流に変化が生じるわけではない。
 大航海時代の海外侵略から大英帝国(グロブブリテン)の世界支配、列強による植民地政策、国際共産主義による革命国家の誕生、第二次大戦後の冷戦とアメリカ一極支配、ITによる地球規模の情報ネットワーク構築、大国による世界の分割支配など、グローバリズムは、形を変えながら、いまもなお世界史の主軸なのである。
 終焉したとされるグローバリズムは、他国の伝統や慣習、ルールや価値観と衝突したアメリカの世界戦略のことで、トランプ大統領の登場は、これまでのアメリカのそのやり方が破綻したことを意味している。
 グローバリズムが幕を下ろしたのではなく、文明や価値観、経済原理を他国におしつけてきたメリカ的なやり方が通用しなくなっただけの話である。
 大統領選挙で、トランプが製造業の復活と雇用問題を争点に絞ったのは賢明で、アメリカ人は、アメリカの活力を奪った新自由主義と自由貿易にうんざりしている。
 ニクソン・ショック(ドルと金の交換停止)とプレトン・ウッズ体制が破綻した1971年以降とりわけ1980年代にはいって、アメリカ経済は、投資効率の高い国際金融へ移行していった。
 背景にあったのが新自由主義で、金融の国際戦略をささえたのがグローバリズムだった。
 1991年にソビエト連邦が崩壊した後、圧倒的な軍事力を背景にアメリカが世界の画一化(アメリカニゼーション)をおしすすめ、基軸通貨ドルの下で世界を金融支配するにいたった。
 その結果、生じたのが「中間層の没落」とアメリカ製造業を沈滞させている「つくらざる経済」だった。
 金融経済では、資産が特権階級に独占される一方、製造業が空洞化するからである。

 グローバリズムには、政治的局面と経済的局面があって、前者が国家権力の世界化(グローバル化)なら後者が「ヒト・モノ・カネ」の流れを国際化するグローバリゼーションで、両者は、通常、一体化している。
 グローバリズムと対立的にとらえられている一国主義も、グローバリズムと相補的な関係にあって、国家は、すべて、国益主権と世界戦略の両方の志向を併せもっている。
 その極端なケースが戦争で、アメリカは、戦後、朝鮮戦争をはじめベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争、紛争までふくめると百件以上の戦争をひきおこし、現在はIS(イスラム国)やアルカイダらイスラム過激派と交戦状態にある。
 革命の輸出もグローバリズムで、米ソ冷戦は、共産主義と資本主義がにらみあったグローバリズムの衝突であった。
 グローバリズムの背後にあるのが一国主義とイデオロギー、経済である。
 ソ連邦が崩壊して、共産主義が滅び、イデオロギーの対立はなくなった。
 一国主義にもとづく軍事衝突も、軍事力の増強や高度化によって、不可能になった。
 冷戦時代のものだった相互確証破壊の論理がはたらき、どちら側も手を出すことができず、いったん開戦となれば、世界がまきこまれて、勝者なき戦争になるどころか、破壊がグローバル化されることになる。
 米ソ冷戦がアメリカの勝利となったのは、軍事力や資金力、地政学的条件や同盟関係などのシミュレーションによって、戦火を交える以前に勝敗が決したからである。
 ちなみに日本の防衛力は、軍事予算が日本の15倍のアメリカがふくまれているので、シミュレーション戦において、ロシアや中国を寄せつけない。
 戦後、日本が平和だったのは、相互確証破壊という安全弁を放棄した九条があったからではなく、日米安保条約があったからである。
 グローバリズムの衝突がおこりうるのは、経済分野だけである。
 そこに、TPP離脱とロシア・中国との対話路線を掲げたトランプの狙いがあったろう。
 次回は、経済戦争の主軸であるアメリカの軍産複合体とロシア・中国の国家経済のハザマで、日本がいかに国益と独立をまもっていくかについてのべよう。
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2016年11月29日

 トランプ大統領とアメリカ一国支配の終焉A

 ●日本は対米従属から一国主義へ転回できるか
 一国主義の台頭や孤立主義をとるトランプの登場によって、グローバリズムや軍事的拡張主義が国際緊張を高めた時代は、終わりを告げようとしている。
 現在、国家および国際的危機の原因になりうる要因は、イデオロギーの対立でもパワー・オブ・バランスの歪みでも、まして軍事衝突でもなく、唯一、経済だけである。
 その経済も、最大の問題は、中間層の没落と貧富の格差で、消費の担い手である中産階級の貧困化という資本主義の構造的危機が、いまや、世界的な現象になりつつある。
 生産と消費、貯蓄から成る経済のうち、金融経済として拡張したストックがバブルをつくり、実体経済を破壊する。
 それが不良債権や消費を担う中間層の貧困化である。
 実体経済から奪われたマネーが、一握りの富裕層に独占されるメカニズムが格差社会で、これをささえる理論が新自由主義である。
 世界構造がグローバリズムから一国主義へ移り変わってゆく背景にあったのが、新自由主義の破綻だったのは、だれの目にも明らかだろう。

 例外が中国で、かつての高成長は影をひそめたものの、中国が世界第二位の経済大国たりえている条件の一つに、購買力が旺盛な中間層の存在をあげることができる。
 理由は、管理型の資本主義では、無制限な富の偏在や資産所得の独占などがおこりにくいからで、国家の管理が、皮肉にも、資本主義の欠陥である通貨の不安定性や中間層の没落を防いでいたのである。
 ロシアも同様で、経済制裁やルーブル不安、過剰な輸出依存(地下資源・穀物)などによって低迷していたロシア経済が徐々に安定してきたのは、ロシア型の資本主義が国家管理のもとにあるからで、アメリカのような極端な富の偏在も貧富の格差もうまれていない。

 1980年代以降、新自由主義に傾倒したアメリカ経済は、上位1%が富を独占して、99%が豊かさを享受できない極端な格差社会をつくりだした。
 上位0.1%や0.01%(メガリッチ)が占有する資産が中間層全体(下位90%)の総資産に匹敵するといわれるほどで、アメリカでは、国民総資産の半分以上が1%の富裕層に握られている。
 富裕層が独占する金融資産は実体経済に循環してくることがないので、実体経済が縮小して、中間層が没落する。
 それが世界不況の原因で、リーマン・ショックで失われた資金が、経済活動を鈍化させ、マーケットの資金を枯渇させている。
 現在、欧米の大企業が日本に大規模融資を打診しているのは、大型長期貸付ができるのが、不良債権処理を済ませた日本の銀行だけだからである。
 といっても、日本も、雇用を中心に、いまなお、新自由主義の痛手をひきずっている
 株価が上がっても、実体経済に反映されないのは、アベノミクスが小泉・竹中コンビの新自由主義をひきついだものだからで、金融経済と実体経済の区別がつかない安倍首相が頭をきりかえないかぎり、日本は、中間層の没落と貧富の格差拡大というアメリカ的な荒廃からいつまでたっても抜け出せないだろう。

 米大統領選におけるトランプの勝利は、予想を裏切るものだったが、歴史的な必然性からみれば、むしろ順当で、ロシアのプーチン、中国の習近平が強力な国家主導型資本主義をすすめてゆくなか、新自由主義の毒にあたって死の床にあるアメリカを救えるのは、アメリカ・ファーストのトランプだけだったかもしれない。
 今後、世界情勢は、アメリカの一国支配から米・ロ・中の協調路線へ変わってゆくはずで、第二ブロックを形成するのが日本とドイツ、インドであろう。
 これまでのパラダイムと異なるのは、日本がアメリカに従属する関係にはないことで、戦後70年を経て、日本は、アメリカから離れて、一国主義という未知の領域に足をふみいれる。
 日本がアメリカに従属的だったのは、米ソ、米中が冷戦あるいは対立関係にあったからで、安全保障というフレームのなかでは、日本は、アメリカの極東戦略に組み込まれてしまわざるをえなかった。
 日本の防衛費は5兆円弱で、在日米軍支出が6〜7千億円程度、そのうち思いやり予算が2千億円前後である。
 日本における国家防衛の本隊は、予算5兆円弱の自衛隊ではなく、6〜7千億円のコストがかかる在日米軍である。
 日本が国家防衛を在日米軍に依存せざるをえないのは、核装備をもっていないどころか、敵国への反撃や先制攻撃ができず、軍事衛星システムもアメリカに依存しているからである。
 日本は、約7千億円の支出で、核をふくめた制限のない攻撃がおこなえ、前線に150機の航空機と原子力空母、原子力潜水艦や数隻のイージス艦、5万人の兵力をおしたてた極東米軍を味方につけているわけだが、アメリカの総軍事費は、日本の在日米軍支出の100倍にあたる70兆円である。
 中国や北朝鮮、ロシアが日本に手をだせない理由は、自衛隊がつよいからではなく、日本のバックに軍事費70兆円のアメリカがついているからである。
 トランプが、日本はもっと在日米軍にもっとカネを払うか、自前で核をもてというのは正論で、日本には、在日米軍支出を増額するか、9条を撤廃して核をもち、自衛隊に専守防衛をこえた攻撃能力をもたせる以外の選択肢はない。
 民主党時代、鳩山は、米国と合意した普天間移設を白紙にもどし、防衛大臣は「在日米軍は迷惑施設」と言い放った。
 トランプの「在日米軍撤退」発言の根にあるのが日本不信で、安倍首相がイのいちばんにトランプを訪問したのは、中国の脅威にさらされているアジア防衛にアメリカの存在が欠かせないからである。
 次回以降、日本およびアジアの安全保障と日米と日ロ、日中の新しい関係を展望しよう。


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2016年11月22日

トランプ大統領とアメリカ一国支配の終焉@

 ●「中間層没落」とグローバリズムの破綻
 アメリカを訪問中だった安倍首相が、次期米大統領に決定したドナルド・トランプ氏と会談した。
 90分間におよんだ会談の詳しい内容は明らかにされていないが、世界のメディアは、安倍首相の「トランプ氏は信頼できるリーダー」という発言を大きく報じた。
 一方、トランプ氏もフェイスブックに「偉大なる友情の第一歩がはじまった」と投稿するなど安倍首相が機先を制した新しい日米関係はいまのところ順調な滑り出しを見せている。
 大統領選挙前、トランプの評判は、日米とも最悪だった。
 とりわけ日本では、クリントンとトランプのどちらが日本にとって都合がいいかという視点で語られたため、トランプの過激な発言が警戒され、テレビなどでは反トランプ一色となった。
 専門家も、駐日米軍が撤退して安保体制が崩壊する、日米共同ですすめてきた自由貿易(TPP)が破綻するなどと危機感を煽って、トランプ優勢がつたえられると、一時、株価が下落するありさまだった。
 アメリカでは、メキシコとの国境に壁をつくる、移民を国外に追放するなどの暴言がリベラル派の猛反発を買って、マスコミを中心に反トランプ旋風が吹き荒れた。
 にもかかわらず、優勢をつたえられたクリントンを破って、トランプが悠々と勝利した。
 勝因は「中間層(中産階級)」の没落と「グローバリズムの破綻」という世界的危機が背景にあったからで、過激な発言や極論も、現状打破を望む有権者にはかえって頼もしく聞こえたのである。

 トランプの主張が孤立主義のように聞こえるのは、自国の産業や経済をまもるためで、外交や防衛にかんしては、IS(イスラム国)壊滅のためマイケル・フリン(元国防情報局長官)を大統領補佐官に起用するなど、むしろ対外的には、民主党以上の積極策をとっていく姿勢がみてとれる。
 中国にたいしても、東シナ海と南シナ海における米軍の存在感を高めると明言していることから、現在のアジア安保体制から退却という事態は考えにくい。
 但し、トランプは、政治には素人の経済人なので、政治や外交、防衛の問題を経済の局面から切り込んでくる狡猾さがある。
 駐日米軍の撤退云々も、結局、コストの問題で、中国にたいする外交姿勢も同様である。
 人民元切り下げや知的財産権侵害、環境基準や労働基準、ハッキングにいたるまで、トランプにいわせると「アメリカの雇用とカネをかすめ取っている」という話なのである。
 為替問題についても、中国や日本、メキシコやアジア諸国が通貨を切り下げ、米国の利益を略奪しているという論法をくりだして、アメリカの産業をまもるため防衛的関税を設けるという。
 トランプ流が端的にあらわれたのが税制である。
 年収300万円にみたない低所得者の所得税を免除するほか、税制を段階的に設定して、富裕層にたいしては、税控除や租税回避を減らして、これを実質的な富裕税にしようという構えである。
 法人税を15%に引き下げる一方、最低賃金の引き上げに消極的なのは、労働コストの低い海外に移転した製造業を米国に引き戻すためで、今後10年間で2500万人の雇用を創出するという。
 グローバリズムと孤立主義のいいとこ取り≠狙うのは政治の素人だからだが、その簡明さや大胆さが、今回、有権者の支持をえた最大のポイントとなった。
 というのも、現在、世界を危機に陥れている「中間層の没落」と「グローバリズムの破綻」は、トランプの素人流のやりかたでしか解決できそうにないからである。

 恐慌と過去の2つの大戦は「中間層の没落」から生じたといってよい。
 産業革命やオートメーション化、経営の合理化などによって、少数の富裕層と大多数の中間層のあいだに格差が生じ、富裕層の富の蓄積がすすむほど中間層が貧困化してゆく。
 富の極端な偏在と消費構造の空洞化によって、経済活動が停滞してしまうのが恐慌で、この構造矛盾を解消するため、戦争という大消費と兵役という失業の救済がおこなわれた。
 この悪の構造は、避けることができない資本主義の業で、日本は、官民一体の高度経済成長からや財民一体の所得倍増計画≠るいは法的規制など中間層の没落を回避する工夫をこらしてきた。
 ところが、掠奪型の西洋の経済には「中間層の没落」を防ぐ考え方や仕組みがない。
 あるのは、自由競争や自然淘汰、弱肉強食の論理だけなので、最終的に富が一部に偏在して、中間層の貧困化がすすむ。
 拍車をかけたのが金融経済で、欧米から韓国、ブラジルなどにひろがる中間層の没落は、国際金融が荒れ狂った爪痕といってよい。

 生産と消費にもとづく実体経済は、おのずと限度がある。
 ところが、生産も消費もしない金融経済は、金庫のなかで金利をうみながら無限に拡大してゆく。
 金本位制を離れた金融経済は、実体経済の何倍、何十倍にも膨れ上がってゆくが、実体の裏づけがあるわけではない。
 リーマン・ブラザーズがサブプライムローンなどの空証券を売りまくったあと倒産したリーマン・ショックでは、空証券を買ったヨーロッパなどの銀行が何百兆円もの不良債権をかかえこみ、世界を不況のただなかに叩きこんだ。
 この事件による損失額は、世界大戦の被害に匹敵するともいわれる。
 何百兆円もの損失がうまれたということは、どこかで同額の利得が発生したということだが、ゴールドマン・サックス証券など一握りのグループに独占されて、市場には還ってこない。
 国際金融資本が富裕層の資産まで食って、焼け野原で唯一人の勝者となるのがグローバリズムの正体で、戦争と本質的にはかわらない。
 トランプは、国際金融資本が海外にためこんだ膨大なマネーを低税率(10%)で国内に還流させるという。
 1985年のプラザ合意による円高・ドル安是正によって、日本経済は、円高+金融緩和がうみだしたバブル経済へ突入するが、のちにソロモン・ブラザーズなど米証券に売り浴びせられて、数百兆円もの不良債権をつかまされた。
 トランプと付き合うには、意気投合する前に、アメリカが謀略国家であることを肝に銘じておかなければならない。
 次回以降、アメリカ一国支配から米・ロ・中の三頭支配となるであろう世界情勢と日本がとるべきスタンスについて考えてみよう。
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