2018年02月07日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」31

 ●天皇政治における「勅と法」(2)
 日本という国家の基本原理として二元論をあげることができる。
「権威(天皇)と権力(摂関・幕府)」「国体と政体」の二元論である。
 二元論という国家原理が、なぜ安定的で、数千年の歴史をもつ日本のような伝統国家をつくりうるのか、これまで、そのテーマが本格的に議論されてきたことはない。
 権力だけに依存する一元論の国家は、暗黒化して、やがて衰弱してゆく。
 他国に攻められて滅びるか、革命で倒される。
 権力と民の心が離れているので、国家を長きにわたって維持する国力がそなわらないのである。
 権威だけに依存する国家も、易姓革命によって、滅びへとむかう。
 易姓革命がおきるのは、儒教国家で、儒教において重要なのは、徳治主義である。
 徳治主義では、失敗や損失などの不利益の原因が、すべて、前王の徳が足りなさに帰されるので、徳のあるとされる新王があらわれて、前王の悪と不徳を徹底的に糾弾すれば、易姓革命が成立して、歴史の連続性が断たれる。
 天命によって、王朝が交替する易姓革命では、前王を否定することが新しい王になる絶対条件となるのである。
 徳治主義が後進的なのは、原因の究明をおこなわず、すべて、善悪や徳・不徳で片付けてしまうからで、当然、嘘や策略、陰謀がまかりとおる。
 天命という儒教的価値が革命の道具になっているのである。
 中国や朝鮮が、徳治主義の一元論だったのは、儒教の国だったからで、そこから合理的精神にもとづいた法治主義はでてこない。

 古代日本において、天皇の権威があったにもかかわらず、律令制などの法治主義がとられたのは、天皇の権威が権力の正統性を担保していたからである。
 権威と権力が二元化されていたので、権威の下で、権力による法治主義が可能だったのである。
 両者が一体化されると、権威は「勅」となって、権力の一部となる。
 権威が権力にとりこまれると、権威が空位となって、権力が暴走する。
 徳川幕府が、公家諸法度をおき、朝廷の権威を敬う一方、権力から遠ざけたのは、南北朝の動乱から応仁の乱をへて戦国時代にいたる暗黒の中世の悲劇をくり返さないためで、天皇が権力をもとめた「建武の新政」以来、権威が空位になって、日本は、250年以上にわたって、ユーラシア大陸的な権力闘争に明け暮れたのである。
 天皇の地位が定まるのは、大化の改新から壬申の乱をへて、天武・持統朝になってからで、藤原氏を中心とした摂関政治がはじまるのは、そののちのことである。

 大王(天皇)は、もともと、豪族の長(族長)で、紀元前において、祭祀王だったところ、大和朝廷の成立と発展にともなって、豪族間の勢力争いにまきこまれてゆく。
 最初の大豪族は、5世紀前半、子(磐之媛)が仁徳天皇(16代)の皇后となって履中(17代)・反正(18代)・允恭(19代)の三天皇を産んだ葛城氏で、のちに平群氏がこれに変わる。
 六世紀になって、後嗣を定めずに崩御した武烈天皇(25代)の後継に越前にいた応神天皇の5世の孫を26代天皇(継体)に迎えた功績で、大伴金村が台頭する。
 ところが、512年、百済に任那の4県をあたえた金村に反発した物部氏が大伴氏を追放、代わって勢いをえる。
 この物部に対抗したのが、帰化人を率いて朝廷の財政を握った蘇我氏だった。
 物部氏と蘇我氏は、朝廷を二つにわけるほどの力をもってにらみ合う。
 そしてのちに、天皇の継嗣問題や仏教の導入をめぐって、決定的に対立する。
 仏教の礼拝をめぐって物部守屋と蘇我馬子がたたかって物部氏が滅ぼされた争い(丁未の乱)にくわわった聖徳太子は、日本を天皇中心の国へむかわせるが、志半ばで死去して、蘇我氏の独裁体制ができあがってゆく。
 蘇我馬子は物部守屋が天皇に推した穴穂部皇子を殺し、みずからが推挙した崇峻天皇を弑虐し、聖徳太子の子、山背大兄王まで殺してしまう。
 大和朝廷は、豪族の連合国家で、大王(天皇)は、みこしののせられた族長にすぎず、蘇我氏のような大豪族におびやかされる存在だったのである。
 次回以降、天皇が権力者として、あるいは権威として地歩を固めていく歴史をみていこう。
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2018年01月29日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」30

 ●天皇政治における「勅と法」
 仏教の礼拝をめぐって蘇我馬子と物部守屋がたたかい、物部氏が滅ぼされた「丁未の乱」が天皇を奪い合う内ゲバだったことは明らかで、以後、蘇我氏が天皇側近(外戚)として絶対権力をふるった。
 その曽我氏を倒したのが中大兄皇子と中臣鎌足による大化の改新で、これが中臣氏のちの藤原氏の独裁政治につながってゆく。
 外戚関係を固めた側近勢力が絶対権力をもち、あるいは独裁政治をふるうのが天皇政治の特徴で、例外が、天武・持統朝の皇親政治だった。
 天皇政治は、大和朝廷が天皇と豪族の連合政権だったことからもわかるように、覇王型ではなく合議型で、それが祭祀国家や「国体・政体の分離」という特有の国家形態をつくりだした。
 日本は、早い時期(飛鳥時代後期)から律令制をとって、法治国家としての体裁を整え、天皇がその総覧者となった。
 それが祭祀国家の必然のなりゆきで、祭祀王が権威となり、行政官の集団が権力を掌握して、権威と権力の二元論が確立されると、そこからやがて、摂関政治がはじまるのである。
 その原型となったのが、蘇我氏らの豪族政治や藤原氏の側近政治だが、藤原鎌足やその子で摂関政治の基礎をつくった藤原不比等の死後、藤原一族の謀略事件が勃発する。
「長屋王の変」である。
 天武天皇の孫で天武の右腕だった高市皇子の子、長屋王が聖武天皇のもとで左大臣となり、藤原氏をおさえて、皇親政治をおしすすめる。
 その長屋王が、藤原一族の謀略にによって、自殺に追いこまれるのである。
 この事件は、藤原不比等の子で、聖武天皇の夫人だった光明子を天皇になれる皇后にしようとする藤原四家(南家、北家、式家、京家)の企てに端を発する。
 この事件が特異なのは、これまで、天皇の下で、権力をふるっていた側近が天皇家や皇統継承者に牙をむいたことで、そこには、権力(法)ばかりか権威(勅)までもわがものにしようという藤原一族の野望があった。
 
 発端は継嗣問題で、天皇の外戚関係をとおして、権力を握っていた藤原家に凶事がふりかかってきた。
 聖武天皇と藤原光明子との間に産まれた基王が、一年後、死亡するのである。
 基王の死によって、藤原氏は血族内の天皇候補を失った。
 しかもその年、聖武天皇のもうひとりの夫人(県犬養広刀自)に男子が誕生した。
 安積親王である。
 そこで考えられたのが、聖武天皇の後継として、藤原光明子を天皇に擁立することだった。
 この時代は、男が文武・聖武の2人にたいして、女帝が持統・元明・元正と3人おり、女性が天皇になることに違和感はなかった。
 その案に立ちはだかったのが当時の最高実力者だった長屋王だった。
 もともと、長屋王一族は、皇位継承の有力候補者で、藤原一族にとって宿命のライバルだった。
 このとき、長屋王は律令の「法」を立て、一方、藤原氏は聖武天皇に「勅」をもとめた。
 藤原氏は、法よりも勅を優先させ、いわば、天皇を政治利用する形で権力を握ろうとしたのである。
 聖武天皇は光明子を皇后 (光明皇后) として、みずから立后の旧慣を破った。
 かくして長屋王の悲劇は起こった。
 長屋王の屋敷が藤原の軍に囲まれて、長屋王は夫人、子らと自害する。
 長屋王の死後、藤原四兄弟は妹である光明皇后のもとで、藤原四家(南家、北家、式家、京家)政権を樹立する。

 長屋王の父である高市皇子は、壬申の乱のとき、天武天皇から軍の指揮権を委ねられたほどの実力者で、天武天皇亡きあと、持統女帝のもとで太政大臣となって、藤原京造営などで政治に辣腕をふるった。
 藤原不比等は、高市皇子のライバルで、高市皇子の死後、持統女帝が望んでいた軽皇子(文武天皇)の即位を実現させ、文武・元明・元正三代の天皇を支え、右大臣という最高位まで昇りつめた。
 その不比等が亡くなると、翌年、不比等に代わって、右大臣の座に着いたのが、高市皇子の子、長屋王であった。
 一方、不比等の四人の男子は、藤原四家として政界に重きを成した。
 高市皇子と不比等の対立は、世代が変わって「長屋王」対「藤原四兄弟」として受け継がれたのである。
 長屋王の変の八年後、藤原四兄弟は全員、天然痘にかかって死亡する。
 政権内では、天罰ともたたりともささやかれたという。
 次回以降、天皇をめぐる「法」と「勅」について、考えてみたい。
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2018年01月24日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」29

 ●稲作文化と天皇(5)
 日本という国家は、米穀(稲作)とともに発展してきたといってよい。
 強国や富める国の植民地にならなかったのは、完全食品である米を自給自足できたからで、河川や平野、森林がゆたかだった日本は、食糧や資材の不足に苦しむこともなく、外国からつけいられるすきがなかった。
 天孫降臨の際、天照大神がニニギノミコトに下した三大神勅の3つめ「斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅」(日本書紀)には、高天原から下った稲穂を育て、民を養いなさいという記述がある。
 現在でも皇居のなかに田んぼがあり、稲を育て、11月の新嘗祭には神前に捧げる儀式をおこなっている。
 このことからも、稲作が国家の真髄にまで浸透していることがわかる。
 そしてそれが、日本が祭祀国家にして伝統国家であることの裏づけとなっている。
 ユーラシア大陸における麦作および狩猟・牧畜は、かならずしも、絶対量が十分ではなかったのみならず、安定性や永続性をともなってもいなかった。
 なによりも、土地と民の一体感がなく、つねに、略奪の対象となった。
 土地は領土として争奪の対象となり、戦争に負けると農民は、奴隷として売買された。
 したがって、祭祀よりも闘争の論理が優先されたのは当然で、それが、市民革命のひきがねとなって、ユーラシア大陸において、伝統国家が根絶やしとなって、革命国家ばかりになった。

 日本の場合、稲作のための田圃は、灌漑をともなう土木事業で、土地と民が一体となってつくりあげたものである。
 稲作も、民の手間と水田という土木技術の合作で、民と土地を切り離して考えることができない。
 したがって、民と土地を別々に略奪したところで、なんの意味もなかった。
 日本で、武将同士のたたかいはあっても、地域や領国の総力戦がなかったのはそのためで、民は農地の一部、農地は民の一部であって、武将の権力闘争とはなんのかかわりもなかった。
 権力が農地を略奪することも支配すこともできなかったのは、民がいなければコメづくりができなかったからで、いくさに勝った覇王といえども、民から税(年貢米)を徴収するには、民が納得する大義名分が必要だった。
 それが征夷大将軍の官位で、徴税権を行使できたのは、天皇から征夷大将軍を任じられた幕府および幕藩だけだった。
 天皇は、祭祀王で、祭祀というのは、収穫祭(新嘗祭)である。
 それが祭祀国家の基本的な構造で、稲作国家である日本では、覇王ではなく、豊作を祈る祭祀王=天皇が国家の頂点に立ったのである。
 日本にも、戦国時代をあげるまでもなく、領主たちの領土争いや覇権闘争があった。
 だがそれは、天皇から征夷大将軍の任命をうけるためのいくさで、ユーラシア大陸型の絶対権力をもとめたたたかいとは区別されなければならない。
 日本のいくさが革命型ではなかったのは、天皇の下で、国家としてりっぱに成立していたからで、ベースとなっていたのは、稲作を中心とする農本主義であった。
 明治維新の西洋化によって、石油や電気、大量の鉄などが国家の必要物資となったが、それまで、日本は、国内で生産できる諸物資、伝統文化、数千年にわたってつちかってきた習俗にもとづいて、伝統国家として堂々とふるまってきた。

 第二次世界大戦で、日本は、革命国家連合に負けたが、伝統国家であることを放棄したわけではない。
 日本は、GHQによって、天皇の憲法上の地位や民主化、交戦権の放棄などについて、憲法をとおして、国家改造を強いられた。
 だが、1951年のサンフランシスコ講和条約で敗戦状態≠ェ解除されたことによって、GHQ軍令はすべて無効になった。
 国家主権がGHQにおかれている日本国憲法も廃棄され、自主憲法が制定されるべきところであった。
 ところが、憲法論議は、いまなお、9条三項の自衛隊項目の加憲など低次元なところで低迷している。
 自主憲法制定の根幹は、伝統国家と革命国家、および保守主義と民主主義の峻別にあるのは疑いがない。
 伝統国家と革命国家、そして、保守主義と民主主義、この二項対立の議論を深めておかなければ、憲法議論以前に、日本という国がどんな国だったのかがわからなくなってしまうのである。
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2018年01月15日

神道と世界最古の文明「縄文文化」28

 ●稲作文化と天皇(4)
 旧石器・新石器時代は、西洋の古代史における呼称で、日本の場合、旧石器時代以降の呼び方が縄文・弥生時代となる。
 日本は、明治以降、西洋から古代史を学んできたので、時代区分に西洋の基準を使う悪癖をいまなおひきずっている。
 西洋は狩猟民族なので、打製(旧石器)であれ磨製(新石器)であれ、動物を狩って、肉を切り裂く道具として、石器がもちいられた。
 日本にも旧石器時代があったことにされて、教科書でも、原日本人がマンモスを追って、日本列島へやってきたことになっているが、染色体などを調べても、ユーラシア大陸内部には日本人特有のYAP遺伝子は存在せず、日本人がユーラシア人より先に日本列島に住んでいたことがわかっている。
 西洋式古代史のウソを暴いたのが、三内丸山の縄文文化の存在だった。
 国の特別史跡に指定されている三内丸山遺跡は、5500年前から4000年前までおよそ1500年間にわたって500人ほどが定住していたとされる縄文時代の集落で、遺跡跡からは住居や墓にくわえ、大量の縄文土器や装身具などが出土している。
 またクリやゴボウ、ヒョウタンやマメなどの植物栽培の痕跡もみられ、狩猟中心の新石器時代の古代観がもののみごとにくつがえされている。

 新石器時代(紀元前8000年頃)は日本の縄文時代とかさなるが、両者は世界観がまったく異質で、際立っているのが、新石器時代から土器がまったく出土していないことである。
 土器の有無が新石器時代と縄文時代の決定的なちがいで、それが古代文明の東西の分岐点となった。
 人類は火を利用することを知って、大きな進歩をとげたが、同様に、土器の発明によって水を自在に扱えるようになった縄文人は、狩猟民族とは異なった新しい文明のみちを歩みはじめた。
 水を保存し、移動させる土器が、農業と海洋進出を可能にしたのである。
 三内丸山では、縄文時代、各種の農業栽培がおこなわれたことがわかっており、これが、のちの陸稲・水稲栽培へつながってゆく。
 そして、もう一つが海洋進出で、三内丸山遺跡から1メートル近いマダイや大型魚の骨が出土しているところから沖合漁業がおこなわれていたのは明らかで、その他、新潟県のヒスイ、岩手県のコハク、北海道の黒曜石がみつかっているのは、船団による地方遠征がおこなわれていたからであろう。
 伊豆七島の八丈島で縄文土器が発見されていることから、土器をつくった縄文人が、農業開拓者である一方、海洋民族だったことがわかる。

 1960年中頃、バヌアツ共和国でフランスの考古学者ジョゼ・ガランジェ博士が採取した土器のかけらが、日本の縄文式土器に似ていることに注目した篠遠喜彦博士がオックスフォード大学に分析を依頼した結果、土器がつくられたのは約5000年前で、ミクロパーライトという成分がふくまれていることから、青森県周辺でつくられた縄文式土器だったとわかった。
 また、エクアドル太平洋沿岸のバルディビアで数多く発見された土器が日本の縄文式土器に似ており、年代測定すると5500年前のものだという。
 エクアドルには縄文式土器のような高度な土器の前駆となる素朴な土器がない。
 そこから、アメリカ・スミソニアン大学のベティメガーズ博士は、約5000年前に縄文人が南米エクアドルへ移動してきたという仮説を提示した。
 5000年前、縄文人が高い航海技術を持っていたことは、三内円山遺跡で新潟県のヒスイ、岩手県のコハクがみつかっていることや八丈島で縄文土器がみつかっていることからも明らかである。
 当時の丸木舟は、脇に浮きを付けたアウトリガー方式と思われるが、実験で安定度を測定したところ、台風クラスの波をうけても転覆しないことが分かった。
 日本付近から黒潮がアメリカ大陸にむかって流れている。
 その黒潮にのると、6か月後、カナダ南部からアメリカ西海岸に到着する。
 日本付近を北上後、北太平洋海流となって東進する黒潮は、アメリカ西海岸を南下するカリフォルニア海流となって、赤道手前で北赤道海流と赤道反流に分かれる。
 赤道反流に乗り移った場合、次にぶつかる陸地がエクアドルあたりの海岸になる。
 一方、黒潮反流にのってフィリピンを迂回するルートをとれば、島づたいに南下して、エクアドルからバヌアツへもたどり着くことができる。
 日本からアメリカ西海岸やエクアドルまでも約6か月前後かかるが、食糧は船の影に集まる魚を取り、水は雨水を溜める土器があれば問題はない。
 粘土を焼いて、土器をつくった縄文人は、石器中心の文化をつくった西洋とはまったくちがったみちをあゆんで、日本文明をつくりあげた。
 日本文明の根底にあるのが縄文文化だが、その特質は、土器と農業とりわけ稲作である。
 次回から日本文明の特殊性へふみこんでいこう
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2018年01月04日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」27

 ●稲作文化と天皇(3)
 稲作は米食という食習慣をもたらしただけではなかった。
 文化や制度、習俗なども、稲作の影響をうけ、日本という国家は「豊葦原の瑞穂の国(神意によって稲が豊かに実り、栄える国)」(古事記)というにふさわしい稲作国家となった。
 民に水田を割りあて、収穫を納税させる班田収授制(652年)が明治時代の地租改正にいたるまでの日本の租税の基軸で、武士の報酬も石高だった。
 貨幣も米本位制で、衣食住のなかで、稲作文化とかかわりをもたないものは、日本ではなにひとつない。
 平安時代には朝廷の「新嘗祭」「大嘗祭」が整えられ、民間でも、田楽という豊作祈念の歌や踊りがおこなわれるようになって、それが日本の芸能の原型となったといわれる。
 その稲作が、いつごろ、だれによって、日本にもたらされたものか、それが戦前からの歴史上の大きな問題だった。
 稲作の伝来は、稲作文化の伝来でもあって、稲作をつたえた人々と日本人の交流の足跡でもある。
 終戦直後から20年ほど前まで、稲作が朝鮮半島からつたわったという説が有力だったが、いまでは、俗説として退けられている。
 寒冷地でコメは育たず、朝鮮半島北部で稲作が定着したのは、明治時時代に日本で冷害に強い品種(農林一号)ができてからで、それまで、イネは、済州島や半島南端で細々と栽培されていただけだった。

 稲作のルーツは、中国の江西省・湖南省で、1万2000年前までの稲籾が続々と発見されている。
 もっとも、これらはすべて陸稲栽培で、水田遺構の発見は、それから6500年も下らなければならない。
 水稲栽培は、揚子江(長江)の中・下流の起源説が有力で、日本へ伝来したのは長江産のジャポニカである。
 ジャポニカが日本へ伝来したルートは4つあるといわれる。
 @揚子江下流域から山東半島を経て、朝鮮半島南部から九州北部へ
 A中国・遼東半島から朝鮮半島を南下して、九州南部へ
 B揚子江下流域から直接、九州北部(対馬暖流ルート)
 C中国・江南地域から南西諸島を経て、南九州へ(黒潮ルート)
 稲作の場合、種子蒔きから収穫まで、手の込んだプロセスや耕作技術もつたえなければならず、当然、そこには、人的交流がなければならない。
 朝鮮半島伝来ということになれば、朝鮮半島の稲作伝達者との接点がなければならないが、その形跡が一つもなく、考古学的に見ても日本の稲作のほうが明らかに古い。
 稲作が朝鮮半島からつたわったという思い込みは、ユーラシア大陸の文化がすべて朝鮮半島を経由して日本にわたったという先入観からで、まだ日本にはそういうタイプの学者が多いのである。

 稲作が文化であることは、中国の「黄河文明=麦の文化」と「揚子江文明=米の文化」の二つの文明が衝突あるいは侵略があったことから十分にうかがえる。
 漢民族の黄河文明は、乾燥した寒冷地帯に位置するので、米は育たず、麦を主食(麺や饅頭)としていた。
 一方、南に位置する越人=ベトナム系の揚子江文明は、高温多湿地帯で、米を主食としていた。
 日本につたわったジャポニカ米は、中国揚子江沿いの湖南省が発祥と言われる。
 そのことから、揚子江文明に属する人々がジャポニカ米をもって、日本列島に渡り、稲作をつたえたとわかる。
 弥生時代に日本へ水稲耕作をもたらした人々が長江人だったとすれば、かれらが弥生人で、日本本土で、縄文人と共存して、混血して日本人となったのである。
 稲作の伝来が、人的な交流なくして考えられないという根拠はそれで、黄河文明との闘争に敗れた長江文明は、縄文文化と合流することによって、日本で生きのびたのである。
 日本への移入ルートは海路で、動力のない筏でも、長江(揚子江)河口から黒潮(対馬海流)にのれば、3日から10日ほどで九州に至る(840km)。
 長江流域・北部沿岸には、紀元前三世紀以前、筏を改良した沙船という大型の船があったことから、移民目的で、はるか昔から長江の人々が日本に渡って来た可能性はおおいにある。
 縄文文明と長江文明が合流すれば四大文明を超える大文明がうまれてなんの不思議もない。
 次回は、稲作と並んで、日本の国力を飛躍的に高めた農業についてのべる。
 そこに、日本の縄文文化が世界の四大文明を超える大文明を形成する理由がひそんでいるのである。
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2017年12月24日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」26

 ●稲作文化と天皇(2)
 縄文晩期から弥生時代初期にかけて、大陸から稲作が伝来、定着したことによって、日本列島で、人類史上、劇的な変化が生じた。
 一粒の種籾から2000粒、2年で400万粒にふえる驚異的な繁殖力をもつ稲作(米穀)が、人類の生態を根本から変えてしまったのである。
 米穀が採集・狩猟よりはるかに食効率が高く、なによりも「余剰」を生み出す食糧だったことから、定住と人口の増加、備蓄と相俟って、社会の原型というべきものがつくりあげられたのである。
 定住が人口増加を、備蓄が冨を、集団化が権力をつくりだす一方で、飢えから解放された人類は、文化や宗教という無形の価値も手に入れた。
 それが祭祀国家の萌芽で、自然崇拝が穀霊崇拝という形をとって、収穫祭からのちの新嘗祭へ発展し、祭祀主としての天皇が出現する。
 稲作が伝来して、集落が発生してから数百年後、日本列島に、ユーラシア大陸には存在しなかった現人神≠ェあらわれたのである。
 その意味で、天皇は稲作からうまれたといってよいのである。
 そこで、古代史の最大のテーマでもある、天皇の権力や権威はどこからきたのかという大問題につきあたる。
 ヨーロッパのキングも中国の皇帝も征服王(覇王)で、軍隊をもたない祭祀王が、なぜ、覇王をしのぐ強い力をもちえたのか、長いあいだ、謎とされてきた。
 理由は、祭祀王=天皇が、権力ではなく、権威だったからである。
 権力にとって、権威は、決定的に重要な存在で、権力者がその地位にとどまることができるのは、権威が万全なかぎりにおいてである。
 人々の心をつかむのは、法や政治などの権力ではなく、文化や宗教という権威であって、権力は、権威と円満な関係にあるとき、安定する。
 権力者は、権威の構造が定まったところへ権力の基盤を打ち込む。
 権力者にとって、権威は、競合者どころか、かけがいのないパートーナーだったのである。

 それが日本特有の権力構造で、権力は権威を立てて、はじめて、権力者たりえるのである。
 権力者が思い上がって権威を倒した場合、その権力者は、早晩、他の権力者の標的となって、長期政権など望むべくもない。
 権威という絶対的存在がなければ、権力は、漂流するほかないのである。
 それが後醍醐天皇の「建武の新政」が失敗したあとの戦国時代で、権威が不在になれば武者たちの群雄割拠があるばかりである。
 権力者が天皇を絶対化したのは、おのれの権力を磐石にするためでもあった。
 権威と権力の二元性をわきまえていなかったのは、天皇にとって代ろうとした蘇我一族だけで、その蘇我氏を討った中臣鎌足の一族は、その後、権力の座について、のちのちまでも天皇を補佐するのである。
 その意味で、大化の改新は、中臣(藤原)一族が蘇我一族にしかけたクーデターということができる。
 天皇の絶対性は、藤原氏ら中心とする家臣団がつくりあげたもので、天皇が絶対であれば家臣団も絶対なのである。
 これが日本の権力構造で、権威と権力の二系統がたがいの支えあっているのである。
 そうなると、最大の善は、力の論理や個人主義ではなく、むしろ、対立を否定する中庸の精神やあいまいさ、決着を避けるグレーゾーンで、日本では、鎌倉から江戸まで権力(幕府)が内紛で瓦解した例は一つもない。

 ユーラシア大陸と日本の国家形態が異なるのは、稲作文化と麦作・狩猟文化のちがいでもあって、稲作国家において、もっとも高いモラルが聖徳太子のいう和の心≠ナある。
 一方、麦作・狩猟文化のモラルは闘争心≠ナ、ユーラシア大陸で通用するのは、個人主義と「力の論理」だけである。
 そこからでてくるのが唯物史観で、近代以降、西洋の国々は、英国のような伝統国家の形態をとる国をふくめて、すべて、革命国家となった。
 日本が、世界で唯一、伝統国家たりえているのは、稲作文化の国だからである。
 自然崇拝の流れをくむ穀霊祭(収穫祭)がそのまま政(まつりごと)になった国では、革命の必然性はどこからもでてこない。
 稲作の国は、飢饉さえなければ、すべての民が飢えることなく生きてゆける。
 だが、狩猟や麦作の国では、力のある者しか生きのびることができない。
 そこで、革命がおきて、過去と旧体制が清算される。
 革命は食糧の絶対的不足もその一因だったのである。
 稲作国家は、政治と自然、宗教が一体化しているので、革命による独裁権力の樹立ではなく、祭祀国家から宗教的な君主制への移動というおだやかな方法がとられる。
 稲作国家である日本が伝統国家として生き残ったのは、稲作という食文化の恩恵といえるだろう。
 長いあいだ、稲作は朝鮮半島からつたわったという曲解がまかりとおってきた。
 次回は、稲作がどこからどんな人々の手をとおって日本につたわったかを検証していこう。
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2017年12月15日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」25

 ●稲作文化と天皇
 日本は稲作文化の国である。
 稲作文化は、むろん、米食文化だけをさすのではない。
 狩猟文化が西洋文明の根幹になっているように、稲作文化が日本文明の土台になっているのである。
 稲作文化と狩猟文化とでは、自然観や宗教観、生命観に大きなちがいがある。
 自然を生活資材や糧とする狩猟文化は、自然を征服し、利用しつくし、ときには、殺してしまう。
 一方、稲作文化は、大自然と共にあって、互いにその恩恵にさずかっている。
 自然破壊の西洋において自然はモノだが、自然崇拝の日本では自然はカミなのである。
 コメづくりは、太陽や大地、水の調和で、自然神と生命を宿す精霊、八百万の神々との協業である。
 自然の神々が力を合わせて、コメという霊性の高い(穀霊)食べ物をつくったのである。
 稲作文化は、神と自然、ヒトが一体となった神話的な世界で、日本人の生活全般、宗教や歴史、習俗に稲作文化の影響がおよんでいる理由がそこにある。
 日本人の精神世界が神話的だからで、だから「日本は神の国」といわれるのである。

 稲作よって最初に生じた大変動が弥生初期の人口爆発だった。
 縄文時代晩期には十五万人程度で、絶滅の危険さえあった日本人の数が、稲作の普及によって急増して、やがて、弥生の小国家群の形成につながってゆく。
 米には高い生産性と備蓄性があるからで、1粒の種もみから80粒の米がつく苗ができ、この苗を田んぼに植えると10本ほどにふえるので、収穫は800粒にもなる。
 土地当たりの収穫性も高く、農地1ヘクタールで何人扶養できるかという試算では、日本を10とするとヨーロッパ諸国が2〜4、アメリカが1、オーストラリアが0・1という。
 コメは主食として完全食品であるところから、経済活動の中心で、生活技術や信仰儀礼、社会様式へも大きな影響力をもった。
 人類は稲作を知って、高度な集団生活を営めるようになったのである。
 日本の衣食住から、習俗、制度にいたるまで、稲作文化にかかわらないものはないが、律令・封建体制をささえたのも、役人や武士への録として米であって、貨幣経済も米本位制だった。

 稲作文化から生じたのが祭祀と祭祀王=天皇である。
 生産性の高いコメの伝来によって、人口の急増と集団化がすすみ、日本は、農耕(稲作)国家として歩みはじめるが、農耕国家ということは、とりもなおさず、祭祀国家ということでもあった。
 近代においてすら、冷害や日照り、自然災害などによって村落が全滅するというケースが、歴史上まれではなかったことから、古代社会において、天災による不作の恐怖はいかばかりであったろう。
 コメへの依存度が高まるほど、不作の恐怖も大きくなるが、人々は、ゆたかな実りを神に祈るしかなかった。
 イネの豊凶が村落存続の保障で、しかも、原始的農耕は、自然の脅威の前では無力に近かった。
 豊作の祈念や実りを感謝する収穫祭が、人々の最大の行事で、また、作物の出来がかれらの最大の関心事だったのである。
 そこから、共同体あげての挙げての儀礼中心の宗教(民族宗教/自然宗教)が営まれた。
 日本の土着的宗教=神道が集団宗教なのはそのためである。
 収穫祭が地域連合となって、それが政治連合へ発展していったのは、ヤマト連合政権が、覇権争いではなく、宗教的なむすびつきとして形成されていった経緯からもうかがえる。
 その宗教的むすびつきの中心におられたのが、収穫祭のちの新嘗祭の祭祀主としての天皇であった。
 天皇は、絶対者としての資質をみずからつちかったのではなく、祭祀国家という構造が、天皇=祭祀王という絶対者を必要としたのである。
 天皇は新嘗祭をとおして、世俗を超越して、神となったのである。
 のちの古墳時代において、朝廷の高官や豪族、有力者が、こぞって、大和朝廷の勢力圏であることを示す「前方後円墳」をつくっている。
 大和朝廷・連合政権の結束が、利害ではなく、つよい宗教的権威にもとづいていたとみるほかない。
 エジプトのピラミッドに匹敵する大型の前方後円墳の建造技術は、最低でも数百年の知的蓄積が必要で、祭祀の国家的統一も一朝一夕でできるわざではない。
 その歳月をのりこえて、国全体が大和朝廷へ同一化をはかったのは、祭祀主である天皇への絶対的信仰があったからである。
 時系列的にみると、稲作を身につけた弥生人が小国家群をつくったのが弥生初期(紀元前10世紀頃)であるとするなら、紀元前660年の初代神武天皇、天皇が祭祀主としてふるまった欠史八代、そして、九州北部だけでも100をこえる小国家がうまれ、10代崇神天皇が大和朝廷の国家運動にのりだした紀元前100年までが、大和朝廷の黎明期ということができるだろう。
 そして、その3世紀のちに古墳時代をむかえ、大和朝廷と天皇の権威が確立してゆく。
 次回は、日本というクニの国家形成に大きな役割をはたしたコメ、そのコメづくりを伝来した人々がどこからやってきたのかについて考えよう。

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2017年11月24日

神道と世界最古の文明「縄文文化」24

 ●伝統としての天皇と神話
 日本において、皇位の簒奪が不可能だった理由は、皇位が、制度ではなく、伝統だったからである。
 伝統は歴史という時間軸のなか、制度は現在性という平面軸のなかにある。
 皇位は、歴史のなかに用意された玉座であって、歴代天皇はそこへお座りになられた。
 天皇は、空間的存在ではなく、歴史的存在なのである。
 わが国で、天皇にとって変わろうとするものがでてこなかったのは、制度が歴史をこえることができなかったからで、歴史=伝統が天皇を支えてきたのである。
 伝統は、歴史をつうじて後代へ受け継がれていくもののうち変更が不可能な文化で、神話や宗教、血統や祭祀のほか、習慣や習俗、思想や芸術などもふくまれる。
 伝統の対極にあるのが、革命や進歩、自由や平等、民主主義などの近代思想である。
 これらは、変更が可能というよりも、社会の変革や改革、伝統破壊を目的とした文化である。
 極端なケースが暴力革命だが、民主主義や改革も同じ線上にあって、伝統の価値をみとめないばかりか、改革の抵抗や妨害者と見て、敵視する。
 改革主義に対抗するのが保守主義である。
 伝統と保守主義は同じ陣営にあって、ともに革命や改革主義と対抗する。
 革命や改革主義がなければ、伝統をまもる保守主義も右翼もうまれなかったろう。
 保守主義や右翼、民族派は、フランス革命やロシア革命を全否定する。
 そして、神話であろうと実史であろうと、歴史を全肯定する。
 それが、伝統主義に立つ右の陣営の根本思想である。

 天皇の伝統や権威、根拠が歴史にもとづくのはいうまでもない。
 その一つに、神武以来、万世一系の血統が維持されてきた皇紀2600年をあげることができる。
 そして、もう一つあげられるべきは、日本書紀がつたえる「三つの神勅」の神話である。
「三つの神勅」は、天孫ニ二ギノミコトが高天原から葦原中国に天下られるに際して、天照大神から賜った三つのお告げである。

『宝祚無窮(ほうそむきゅう)の神勅』
 葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。
 秋に稲穂が実る葦原瑞穂の国(日本)は、わが(天照大神)の子孫が治めるべき地である。我が子よ、行って治めなさい。天孫が継いでいく限り、この天壌(天と地)はけっして窮することがありません。
『同床共殿(どうしょうきょうでん)の神勅』
 吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与に床を同くし殿を共にして、斎鏡をすべし。
 わが子よ、この鏡をわれ(天照大神)と思ってみなさい。そして、この鏡を宮殿内に安置し、お祭りの神鏡にしなさい。
『斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅』
 吾が高天原に所御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつるべし。
 わが(天照大神)高天原に実った神聖な田の稲穂を、わが子に授けよう。

「三つの神勅」は日本書紀に記された神話であるが、その神話が、天皇や宮中祭祀、神道、米づくりなど、日本という国家や国体の根幹とむすびつき、日本精神や日本的な価値観のようなものをつくりだしている。
 新嘗祭の起源とされているのが『斎庭の穂の神勅』である。
 日本では、古くから五穀の収穫を祝う風習があった。
 宮中祭祀としての新嘗祭が最初におこなわれたのは、飛鳥時代の皇極天皇の御代とつたえられるが、収穫祭の起源はもっと古く、穀物の収穫や備蓄が安定的になって、集落規模も大きくなった縄文晩期から弥生時代にかけてであったろう。
 収穫祭は新嘗祭の原型である穀霊祭でもあって、祭祀主が新穀を天神地祇に供え、みずからもこれを食して、その年の収穫に感謝する。
 当時、穀物の実りは最大の関心事で、穀霊がアニミズムなら、穀霊に祈りを捧げる祭祀主はシャーマンであったろう。
 縄文晩期から弥生時代にさしかかる紀元前10世紀頃、新嘗祭の原型となる収穫祭(穀霊祭)がおこなわれていたと思われる。
 それが日本書紀に記された「三つの神勅」神話とふれあっている。
 縄文時代の素朴な信仰心が、穀霊祭をとおして、神道へ近づいていった。
 自然(穀霊)崇拝のアニミズムが新嘗祭へ、穀霊祭の祭主としてのシャーマニズムが天皇へとうごいて、日本の国体の原型が徐々にできあがってゆくのである。
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2017年11月16日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」23

 ●絶対権力者としての天皇の系譜
 大川周明は、古代史のヒーローとして、聖徳太子と中大兄皇子(天智天皇)の二人をあげる。
 聖徳太子は、推古天皇の摂政として、蘇我馬子と協調して政治をおこない、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど、天皇を中心とした中央集権国家体制の基礎をかためた。
 遣隋使を派遣して、国書に中国皇帝にしか使用されていなかった天子ということば(日出処の天子)を使って、日本が、隋と対等な関係にあるとしたのも聖徳太子で、これは、冊封体制からの離脱宣言だったとみてよい。
 日本は、七世紀初頭、聖徳太子によって、華夷秩序から脱して、独立国家の道を歩みはじめたのである。
 一方、中大兄皇子は、藤原鎌足とともに蘇我入鹿を暗殺、蘇我蝦夷を自害に追いこみ(乙巳の変)、稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたって絶対的権力をふるった蘇我氏を滅ぼして、天皇中心国家の根幹をつくりあげた。
 大川は、大化の改新を断行した中大兄皇子を強者と評価する一方、蘇我馬子と協調関係にあった聖徳太子にたいしては逆の評価をする。
 聖徳太子が強者になれなかったのは、蘇我の閨閥関係(外戚)にあったからだろう。
 聖徳太子の子山背大兄王が蘇我入鹿に攻められて一族が自殺に追い込まれたのは、田村皇子(舒明天皇)との皇位争いに敗れてのことで、ここで、聖徳太子の血筋は完全に絶えてしまう。

 628年、推古天皇の没後、舒明天皇が蘇我蝦夷に擁立されて即位する。
 当事、天皇の任命権まで、蘇我氏に握られていたのである。
 舒明天皇は即位13年目で崩御する。
 皇位は皇太子の中大兄皇子に継承されるはずだったが、若すぎた(16歳)ために皇后の宝皇女が皇位に就いた。
 これが第35代皇極天皇である。
 皇極天皇は中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)の生母である。
 大化の改新後、皇極天皇の弟の孝徳天皇に譲位したが、孝徳天皇が没すると重祚して斉明天皇となった。
 皇位継承権のある中大兄皇子、古人大兄皇子、山背大兄王の争いを避けるためだったと思われる。
 孝徳天皇が崩御した後も、中大兄皇子は即位しない。
 661年に斉明天皇が崩御するが、それでも、中大兄皇子は即位せず、皇太子のまま政務にあたる。
 663年、朝鮮半島の白村江にて、友好国の百済を救うため、日本軍は唐・新羅の連合軍と争うが、大敗する(白村江の戦い)。
 その後、日本は唐からの攻撃を警戒し、対馬、壱岐、筑紫などに防人を置くなどして侵攻に備えた。
 中大兄皇子が天智天皇として即位した(668年)のは、外国からの襲来に備えて、歴代の天皇が都を構えた大和から遠く離れた近江大津宮だった。
 ちなみに、天智天皇が完成させた「近江令」はのちの「大宝律令」の基礎となる法典である。
 天智天皇は、その三年後の671年、46歳で亡くなる。
 そして、その後、日本中をゆるがす権力闘争が勃発する。
 聖徳太子が基礎をつくり、大化の改新後、確立された天皇政治が、皇位継承をめぐって、大乱(壬申の乱)をひきおこすのである。

 壬申の乱は、天智天皇の弟(大海人皇子)と天武天皇の子大友皇子との争いである。
 たたかいは、草壁皇子や高市皇子、大津皇子、地方豪族を味方につけた大海人皇子の勝利に終わって、大友皇子は自害する。
 大海人皇子がのちの天武天皇である。
 皇位をめぐるこの内乱が、結果として、天皇の絶対主義を固め、天武天皇の皇親政治をうみだすことになった。
 天武天皇は「日本という国の原形をつくりあげた」といわれるほど、日本に大きな影響を与えた天皇である。
『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じ、天皇の名称や日本の国号を制定したのも天武天皇といわれる。
 神道を制度化したのも天武天皇で、各地の神を祀る祭儀を朝廷公式の儀礼へ取り込み、新嘗祭を創設した。
 天武天皇は、唐をモデルとした新たな都、藤原京を建設する。
 ソフト面は飛鳥浄御原令、ハード面は藤原京を建設することによって、天武天皇は、天皇を中心とした本格的な律令権国家を築き上げようとしたのである。
 日本史をふり返って、聖徳太子から中大兄皇子(天智天皇)、天武天皇へつながる権力者・天皇の強烈な系譜は他に例がない。
 蘇我氏を討った中大兄皇子や皇親政治の天武天皇の強権が、天皇絶対主義の土壌をつくりだして、やがて、摂関政治や権威と権力の二元論的へとすすんでゆく。
 次回は、この歴史をふまえて、日本において、なぜ皇位の簒奪が不可能だったのかを考えてみたい。
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2017年11月12日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」22

 ●神道と天皇の誕生
 記紀の時代(8世紀)からみて、紀元前660年は、千年をはるかにこえる大昔で、神武東征も橿原における神武天皇即位も、空想=神話世界の出来事であったろう。
 だが、神話であろうと実史であろうと、日本人にとって、皇紀2600年と神武天皇の真実は、ゆるがぬ歴史の記憶で、歴史は、民族の記憶であり、伝承なのである。
 実在したとされる10代崇神天皇を初代天皇に見立てるむきもあるが、それも、神話と実史のつながる時期が異なるだけで、歴史観に大きな変化が生じるわけではない。
 人々が信じてきたもの、それが歴史なのであって、神話と実史が融合している天皇の歴史は、永遠に変わるところがない。
 大きく変わったことは、崇神天皇の時代に、シャーマニズムとアニミズムの原始宗教が終わって、天皇の時代がはじまったということである。
 自然崇拝にもとづくシャーマニズムは、新嘗祭(穀霊祭)に代表される宮中祭祀へひきつがれ、アニミズムも天神地祇の祭事へ吸収された。
 宮中三殿の賢所は天照大神を祀り、皇霊殿は皇祖皇宗(歴代天皇)と皇族の霊を祀る。
 そして、神殿では八百万の神々(天神地祇)が祀られる。
 これが神道のはじまりで、天皇は、収穫祭の祭祀主だったのである。
 
 縄文文化のエッセンスである神話や素朴な原始宗教が宮中祭祀へと結実する一方、祭祀王だった天皇は、為政者・権力者としての顔をもちはじめる。
 神武以降、欠史八代(紀元前581年〜98年)の約500年にわたる神話時代が終わって、崇神天皇の時代(紀元前97〜30)から人間天皇の物語がはじまるのである。
 ※崇神天皇を3〜4世紀の天皇とする説もある。
 崇神天皇による四道将軍(北陸・東海・西道・丹波)派遣は、神武から9代開化天皇にいたるまで、畿内にとどまっていた大和朝廷が、全国規模の政権へふみだした画期的な一歩であった。
 もっとも、日本全土の支配権を確立するのは、崇神天皇の四道将軍派遣ではなく、崇神から二代下った12代景行天皇の子ヤマトタケルノミコト(日本武尊)の西方の熊襲征伐、東方の蝦夷平定にあったと思われるが、ヤマトタケルノミコトはたたかいのさなかに命を落とす。
この時代は、内憂外患の時代でもあって、14代仲哀天皇の急死(200年)後、269年まで政事を執った神功皇后は、新羅征討の兵を挙げ、朝鮮半島の広い地域を服属下におき、このとき、新羅や高句麗、百済(馬韓・弁韓・辰韓)は朝貢を約して、人質をさしだしたという。
 三韓征伐は、日本・朝鮮両国の史書ばかりか、支那の史書にも「三韓の地はあるときは支那に臣従し、あるときは倭に服属していた」と記されている。
 これは、日本の外史上、画期的なことで、日本の三韓支配は、日本が日本軍と百済復興軍が唐・新羅の連合軍とたたい、敗れた白村江の戦(663年)までつづく。
 このかん、筑紫の国造磐井が新羅と結んで任那に赴く大和朝廷軍に対抗した磐井の反乱(527年)があったが、物部氏に平定されている。
 以後、地方政権の抵抗は収束して、大和朝廷は、完成期へむかうことになる。

 これが3世紀中頃から7世紀にいたる大和時代(古墳時代)である。
 日本の古代史は、『漢書』や『後漢書』、『隋書』、『魏志倭人伝』など中国の歴史文献に依存している。
 したがって、中国の歴史文献に倭国の記述があらわれてこない266年から413年までの約150年が「空白の4世紀」と呼ばれて、大和朝廷の成立や変遷が謎に包まれたままである。
 だが、大和時代に、朝廷の支配がつよまって、古代国家の基礎が整えられたことは、巨大な前方後円墳がさかんにつくられたことからも明らかである。
 大和時代の初期に、全国で11番目の大きさの前方後円墳である箸墓古墳がつくられている。
 箸墓は倭迹迹日百襲姫命の墓で、魏志倭人伝がつたえる卑弥呼の墓でもある可能性が高い。
 すると、邪馬台国と大和朝廷が一線上につながって、天皇の時代としての大和時代がクローズアップされる。
 といっても、前期は、大伴・物部・蘇我らの各豪族が実権を握って、日本という国のかたちも定まっていなかった。
 天皇中心の政治へ変換していったのは、聖徳太子の法律(十七条憲法)および官制(冠位十二階)改革を経て、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が蘇我氏を討った大化の改新(645年)後のことである。
 大化の改新が成功していなかったら、日本は、蘇我氏らによって、儒教的な国家へみちびかれていたと思われる。
 儒教的な国家というのは、徳治主義に立った国家で、王は、正しいか否かで判定される。
 といっても、正しさの物差しはなく、後任者が前任者を否定することによって、正しさが否定され、体制がひっくり返る。
 これが易姓革命で、儒教思想に染まった蘇我一族とそのとりまきに、天皇に敬意を抱く者はなかった。
 蘇我馬子が、東漢直駒という刺客をさしむけて、崇峻天皇を弑逆した背景にあったのは、儒教思想だったのである。
 次回以降、天皇が権力者として、日本という国の土台をつくってゆく過程をみてゆこう。
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