2020年09月10日

 とりもどせ! 国家の主体性C

 ●経済をとって支配原理を捨てた日本
 戦後、吉田茂は、経済をとって、防衛を捨てた。
 アメリカがタダでまもってくれるのだから、日本は経済だけに精力をむけていればよいというひとりよがりの理屈だった。
 ところが、日本が捨てたのは、防衛だけではなかった。
 外交権・防衛権をGHQに奪われた日本は、国家の支配原理≠サのものを放棄してしまうのである。
 支配原理というのは政治力のことである。
 そして、その下で働くのが、官僚である。
 明治以降、富国強兵と世界の強国をめざしてきた日本が、第二次世界大戦に負けたとたん、国家の支配原理を投げ捨てて、経済だけが頼りという情けない国になってしまったのである。
 支配原理に代わって、台頭してきたのが、官僚制だった。
 だが、官僚は、とうてい、国家の支配原理になりえない。
 官僚には国家がないからで、あるのは、自己利益の原則と知識だけである。
 天皇の官僚が、一夜明けたら、GHQの官僚になってしまったのは、官僚にとって、ご主人は、給料さえくれれば、だれでもよいからである。
 ソ連の共産党官僚は腐敗して崩壊したが、中国の共産党官僚は、支配原理を共産主義から資本の論理へモデルチェンジして、逆に、大きな発展を遂げた。
 朝鮮の官僚階級(ヤンパン)は、日本が廃止させ、韓国は、35年にわたる日本化を支配原理として、現在の繁栄をえた。
 吉田ドクトリンも、バブル景気にわいた1980年代までで、1990年代になると世界2位の経済力も下降線を描きはじめ、2010年には中国に追い抜かれ、現在は、独・英・仏やブラジル、インドや韓国に肉薄されている。
 国家原理がないので、国家間競争にめっぽう弱いのである。
 1989年の世界時価総額ランキングでは、NTT以下、日本企業がTOP5を独占、50位までに日本企業32社がランクインした。
 ところが、2019年の世界時価総額ランキングでは、アメリカのマイクロソフトやアップル、アマゾン、中国のアリババやテンセントなど、米中のIT企業が上位を占め、50位以内に入った日本企業はトヨタ1社(42位)だけとなった。
 半導体産業も、1980年代は、NECや東芝などの日本の製造業が世界のトップシェアを握ったが、現在は、台湾のTSMCが4割、アメリカのインテルが3割、韓国勢が2割で、日本は世界市場から完全に放逐されている。
 日本企業が、これほど弱体化してしまった理由は、日本が官僚国家だからである。
 官僚国家に欠けるのが、支配原理で、役人は、じぶんの生活原理にしか興味がない。

 2019年の世界時価総額は 1989年当時の10倍以上となった。
 その原動力がIT(情報技術)で、アメリカからはじまったデジタル革命によって、世界の経済構造は10倍にもスケールアップされた。
 5G(第5世代移動通信システム)がその代表だが、日本では、5GやAI(人工知能)どころか、パソコンを使ったことがない大臣(桜田義孝)が国家のサイバーセキュリティを担当するという愚かなことが堂々とまかりとおってきた。
 なぜ、そんなばかげたことがことがおきたのか。
 日本では、高学歴の官僚が、許認可権や行政指導をとおして民間を指導するという制度が、明治時代から現在まで、百年以上にわたって、延々とつづいてきたからである。
 したがって、デジタル革命によって、産業構造が変わっても、対応できない。
 経済・生産活動をおこなわない官僚は、ITやデジタルには、なんの関心ももたないからである。
 日本では、そんなお役人さまが、経済から行政、法律のすべてを仕切っている。
 これでは、ヤンパンという特権エリートがすべてを牛耳って、世界で最低の非効率社会となった朝鮮李王朝とすこしもかわるところがない。
 次期首相に最有力の菅義偉は、新内閣の切り札として、縦割り行政の打破や「デジタル庁」の創設を明言したが、産業構造のデジタル化という地殻変動にたいして、思い切った手を打っていかなければ、役人国家、日本は、沈没するほかない。
 現在、日本は、半導体で世界最大のシェアをもつ台湾のTSMCを誘致する計画をすすめているという。
 実現すれば、半導体産業ばかりか、官僚指導型で沈滞している日本の経済が活気づくはずである。
 半導体にかぎらず、日本の経済がダメになったのは、日本が学歴社会だからである。
 官庁ばかりか、大企業も、役人の採用と同様、学力を優先して、偏差値人間ばかりを集める。
 したがって、古い知識をもっていても、創造的なことはなにもできないエリートが経済の前線に立つことになる。
 それが失敗の原因で、過去の知識がいくらゆたかでも、現在をゆたかにする知恵がなければ、競争には勝てない。
 アメリカIT企業の御三家、アップル社のスティーブ・ジョブス、マイクロソフトのビル・ゲイツ、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグをはじめとして、ITやデジタル分野の成功者で、高学歴者はほとんどいない。
 学歴エリート主義(科挙)と官僚の特権思想(ヤンパン)という儒教観念をぶち壊さなければ、日本に未来はないのである。
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2020年09月06日

 とりもどせ! 国家の主体性B

 ●防衛と外交で大きく立遅れた日本
 領土と国民、主権の3つが「国家の3要素」といわれる。
 もっとも、これは、王権神授説にもとづくもので、唱えたのは、16世紀のボーダン(「国家論」)である。
 17世紀のホッブズやロック、18世紀のルソーの「社会契約説」によって、王権神授説が否定されて、国家主権の根拠が、神から国民へと移った。
 ルソーは、国民一般に主権があるとして、それが、フランス革命の理論的な根拠となったが、アメリカ革命(独立戦争)やロシア革命も、背骨にあるのは「社会契約説」である。
 社会契約説がいう国民は、ピープル(国民すべて・大衆・民族)で、個人を意味するパーソンではない。
 その国民主権を丸ごとあずかって、ヒトラーやスターリンのような独裁者が出現したが、原爆投下を独断したアメリカの大統領も、民主主義からうまれた独裁者である。
 国民主権と民主主義は、表裏一体の関係というより、ほぼ、同じ意味である。
 国民主権は、多数派のことで、多数派は、多数決によってつくられる。
 多数派も衆愚政治も、独裁すらも、民主主義によって、かんたんにできあがってしまう。
 民主主義も国民主権も、結局、王権神授説の安手の代用品にすぎなかったのである。

 フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」で、民主主義と自由経済の勝利を宣言したのは、1992年のことだが、その仮説が、いまや、あやしくなってきている。
 共産党独裁の中国の大躍進のショックと、民主主義や自由への幻滅が、世界中にひろがっているのである。
 一国主義の台頭は、民主主義と自由の後退で、いまや、世界は、一帯一路の中国経済圏と、米・欧・日の自由主義経済圏に分かれて、するどく、対峙している。
 国家の3要素も変化して、領土と国民、主権だけでは、国家の説明がつかなくなっている。
 新しい国家の3要素は、経済と外交、防衛で、米中摩擦をみれば、そのことがよくわかる。

 戦後、日本は、経済をとって、外交と防衛を捨てた。
 その結果、憲法9条(不戦条項)が日本の平和をまもっているという愚かな思想が蔓延して、日本は、一国主義や自主防衛、積極外交という世界的趨勢に乗り遅れた。
 日本の安全をまもっているのは、世界第6位の軍事力と日米安保条約、国連憲章51条「個別的自衛権」で、憲法9条における交戦権放棄は、自国防衛を義務づける国際慣例法にたいする重大なルール違反なのである。
 日本は、経済力において、たしかに、一応の成功をおさめた。
 だが、防衛と外交政策において、世界から、大きく立ち遅れている。
 国家は、権力の政体(ネーション)と文化の国体(ステート)の両面をもつ。
 中国のステートは、共産主義で、アメリカのステートは、民主主義である。
 伝統国家の日本は、国体としての天皇や歴史、文化をもっている。
 足りないのは、政体の残りの2つ、防衛と外交だけである。
 安倍首相は、辞任の前に決着をつけておくべき懸案として、安全保障政策の新たな方針をあげたが、これは、具体的に、敵基地攻撃能力の保有をさす。
 くわえて、中国の影響力を排除、中国依存度を軽減するため、オーストラリアやインド、ASEAN間のサプライチェーン強化を明確に打ち出した。
 次回は、ポスト安倍における日本の防衛と外交の青写真を描いてみよう。

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2020年08月31日

 とりもどせ! 国家の主体性A

 ●アメリカ民主主義を国是にした愚
 戦後日本のフレームをつくったのが、経済主義・平和主義・民主主義の3つのイズム(主義)で、別名「吉田ドクトリン」である。
 国防は、アメリカにまかせて、日本は、経済だけに力を注ぐべしというのが吉田ドクトリンだが、そこから、主体性の欠如という、国家として、致命的な欠陥が生じた。
 国家の主体性は、国家防衛を契機として、うまれるものである。
 国の護りを外国に頼って、どうして、主体性がそなわるだろう。
 主体性というのは、それ自体の責任において、存在するということである。
 たとえば、日本は、あくまで、日本であって、独立自立して、なにものにも依存しない絶対的な存在である。
 それが、国家主権で、独立権から統治権、交戦権までがふくまれる。
 国をまもる気概や国を誇りに思う心も、主体性で、道徳心の基礎である。
 国家主権と道徳心がセットになって、国家防衛の体制がつくられる。
 ところが、戦後、日本では、国をまもる気概も手段も根こそぎ失われた。
 敗戦と日本軍の解体、武装解除(憲法9条)とGHQの進駐によって、国をまもるという概念が、旧陸海軍とともに、一夜にして、消失してしまったのである。
 極東委員会とGHQは、敗戦によって、四等国(マッカーサー)へ転落した日本に、さらに、財閥解体や産業破壊、農地解放、労組助成などで追い打ちをかけた。
 なかでも熾烈だったのは、産業破壊で、SCAP(連合国軍最高司令部)が画策したのは、ドイツと同様、工業部門の徹底的な破壊だった。
 重化学工業を中心に、日本中の工場が破壊されて、工業機械が没収あるいはスクラップになった。
 日本をアジアの一農業国に転落させるというSCAPの計画は、中国革命や朝鮮戦争がなかったら、実行に移されて、現在の日本の繁栄はとうていありえなかった。
 吉田茂が国家防衛を捨てて、経済主義に走ったのは、日本は、軍事的敗北につづいて工業破壊≠ニいう経済的敗北に直面していたからである。

 GHQによる国家解体の決定打となったのが「公職追放令」と「人権指令」だった。
 公職追放令は「好ましくない人物(連合国側にとって)を公職から追放」する命令で、対象者が21万人にのぼった。
 これらに要人に平均100名の部下がいたとして、合計で、2100万人が影響をうけたわけで、人口7200万人だった終戦当時、勤労男子のほとんどが公職追放令のとばっちりをうけたことになる。
 退役軍人(一般徴兵)700万人も公職追放の対象で、多くが公職への道を断たれている。
 一方、猛威をふるったのが「人権指令」である。
 治安維持法など、反体制活動を制限する15の法律や法令の廃止や政治犯の即時釈放、特高の廃止などを命じたもので、「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」とあるように、この人権指令は、共産主義者らの国際派にとって、願ってもない福音となった。
 公職追放令で生じた空隙に、マルクス主義者らの国際派がはいりこんだのはいうまでもない。
 とりわけ、大学教壇や学会、マスコミや言論界、官界や法曹界は、共産主義者の牙城となった。
 こうして、日本は、戦前とガラリと様相を変えた左翼の国になってしまったのである。
 日本は、戦後、天皇主権からアメリカ民主主義へ、180度、体制転換した。
 そして、民主主義を採用するよい国へ生まれ変わったとみずから喧伝した。
 だが、民主主義は、日本人が思っているほどすぐれた制度ではない。
 日本には、君民一体や自他共栄、もちつもたれつ、相身互いなど民主主義に該当する文化や習慣がある。
 アメリカが、民主主義を唯一の社会規範としてきたのは、歴史の蓄積がない多民族の新興国家では、多数決を、唯一のルールにして、最高の文化的価値とするほかなかったからである。
 日本人は、民主主義が、国民主権と同様、個人のものと思っている。
 だが、実際は、民主主義は、多数決全体主義で、国家のものである。
 げんに、アメリカの第二次大戦のスローガンは、封建体制の打破と民主主義の防衛だった。
 ヨーロッパにとって、民主主義は手段だが、アメリカにとって、民主主義は目的だったのである。
 ちなみに、国民主権も、国家があずかる国民総体の権利で、国家に属する。
 日本国憲法には、アメリカ民主主義が反映されていて、日本の伝統的な価値観は一行もしたためられていない。
 日本および日本人が、主体性を失ってしまった最大の原因は、国是を、わが国固有の歴史や伝統、文化ではなく、アメリカ民主主義としたところにあったのである。
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2020年08月24日

 とりもどせ! 国家の主体性@

 ●日本はなぜ国家の主体性を失ったのか
 日本が、国家の主体性を失ったのは、戦争に負けたからである。
 それも、東京大空襲と広島・長崎への原爆投下で、30万人以上の非戦闘員を虐殺されるという酷い負け方であった。
 日本軍の戦死者は、230万人で、終戦当時、日本兵が、710万人だったことを思えば、じつに、3割以上が戦場で命を落としたことになる。
 すべて、甲種合格のりっぱな日本男子だった。
 日本は、戦後、指導的立場に立つべき230万人ものリーダーを失ったままアメリカ(GHQ)に占領されたのである。
 日本が、国家として、いまだ、主体性をもてない理由の一つに、甲種合格の日本男子230万人を失った歴史的な痛手をあげなければならない。
 そして、その代わりに、日本の中枢へ入りこんだのが、日本の敗戦を利得とした国際派やマルクス主義者、日本人の誇りを捨て去った卑しい人々の群れであった。
 GHQにしっぽをふった敗戦利得者については、のちに、詳しくふれる。
 戦後、軍国主義に代わって、猛威をふるったのが、GHQの思想改造だった。
 思想改造というのは、軍事制圧と上陸占領につづいて、戦勝国がとる第三の手段で、敗戦国の歴史や伝統、文化などの精神的価値を根こそぎ否定しようというのである。
 軍国主義の根絶やしから神道指令、WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)にいたるGHQの文化侵略には、教科書の黒べた塗りから武道禁止、茶などの古典焚書などもふくまれる。
 なかでも、大きな効果を発揮したのが、新憲法と民主主義だった。
 憲法は、占領基本法の焼き直しで、国家主権の放棄と武装解除が宣言されている。
 戦勝国が、敗戦国の国家主権を奪って、武装解除するのは、戦争の大原則である。
 ただし、これは、戦争行為であって、平時には、通用しない。
 そこで、GHQは、占領政策を憲法に格上げすることにした。
 そうすれば、敗戦国=日本を、永遠に、戦勝国=連合国総司令部(GHQ)の支配下におくことができる。
 だが、占領下における法改正は、ハーグ陸戦条約で禁止されている。
 はなはだしく、被占領国に、不利益をもたらすからである。
 マッカーサー憲法は、国際法違反だったのである。

 護憲主義者は、武装解除(憲法9条)を平和主義などといって歓迎する。
 だが、自衛権の放棄は、平和とはなんの関係もないただの売国思想である。
 というのも、国家の主体性は、国家の防衛を土台にしているからである。
 国家でも人間でも、自己をまもる本能がはたらいて、はじめて、尊厳がたもたれる。
 国家の尊厳は、自国は自国でまもるという主体性にたいして、そなわるものなのである。
 日本は、憲法で交戦権が否定されているので、敵国が攻めてきたら降伏するしかないと主張する者たちがいる。
 とんでもない妄言で、国家の自衛権は、生存権で、おのずとそなわっている権利である。
 むしろ、交戦権の放棄を謳った憲法9条が、国際法や慣習法、国連憲章などと整合しない異端法で、じじつ、日本の安全保障は、慣習法と日米安保条約によってまもられている。
 日本が、国家としての主体性を危うくしている最大の理由は、国家をまもる気概を失ったことにある。
 その原因を4つあげることができる。
 @国家防衛をアメリカ任せにしたこと
 A政治を捨てて、経済主義に走ったこと
 B民主主義を全体主義と気づかなかったこと
 C自主憲法制定にふみきらなかったこと

 次回から、以上4つのテーマと、ワンマン宰相、吉田茂の功罪について順次のべていこう。
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2020年08月10日

コロナ後の世界展望と民主主義C

 ●コスモポリタイズムと原爆体験
 アメリカの原爆投下から75年が経過して、8月6日に広島で、そして本日(8月9日)長崎で、75回目の「原爆の日」の式典がおこなわれた。
 原爆による犠牲者数は、広島市において、人口35万人のうち4割にあたる14万人、長崎でも、少なくも、7万4000人が死亡している。
 全員、生きながらの焼死で、その寸前まで、日常の生活がおこなわれていた。
 たとえようがない残酷で野蛮なおこないだが、アメリカは、ビキニ環礁などで、水爆などの核実験を百回以上もおこない、美しい南太平洋の海を死の海に変えてしまった。
 現在、9か国が1万4525基の核兵器を保有している。
 人類は、世界を500回、滅亡させることができる核を保有していることになるが、皮肉なことに、これが、核の使用を不可能にしている。
 そして、その一方、核は、防衛手段としての有効性を高めつつある。
 北朝鮮は、核を保有して、はじめて、体制維持が可能になったのである。
 今回も「原爆の日」の式典で、参列した政治家が声を揃えて核兵器の廃絶をうったえたが、これほど、壮大なる虚言≠フセレモニーはない。
 いくら誓おうと叫ぼうと、核兵器がなくなることはないからである。
 それなら、核兵器を前提とした安全保障、国家防衛の具体策を立てなければならない。
 だが、日本人は、大言壮語をもてあそぶだけで、具体的な対策を考えようとしない。
 そして、平和主義者と称する者たちが漫才師(太田光)の「憲法9条を世界に輸出しよう」などというたわごとをもちあげる一方、安倍首相の「敵基地攻撃能力」への言及を戦争主義とくってかかる。
「敵基地攻撃能力」に関する政府記者会見で、新聞記者が中国や韓国の理解がえられるかという愚問を発して、河野太郎防衛相が「わが国の領土を防衛するのになぜ中国や韓国の了解が必要なのか」と気色ばむシーンがあった。
 平和主義の前で思考停止に陥っているのが、日本のマスコミで、りっぱなことばさえ発していれば、現実的な対応や対策はどうでもよいのである。

 広島を訪れたパル判事は、慰霊碑に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちは くり返しませぬから」ということばから大きな衝撃をうけた。
「ここに祀られているのは、原爆犠牲者の霊で、原爆を落としたのはアメリカである。過ちを詫びるのは、日本人ではなく、アメリカであろう」(1952年11月3日)
 これにたいして、碑銘を書いた広島大教授の雑賀忠義はパルに猛反論した。
「われわれは広島市民であるとともに世界市民である。原爆投下は広島市民の過ちではないというのは世界市民につうじないことばだ。そんなせせこましい立場に立つと、過ちをくり返さぬということが不可能になって、霊前でものをいう資格はない」
 なにをいっているのかさっぱりわからない。
 だが、これが日本平和主義の原点となって、ここから原水協(共産党系)や原水禁(旧社会党系)の核廃絶から護憲派の自衛権の放棄にいたる平和運動が展開されてきた。
 雑賀は、もともと英文学者で、心の故郷が英米にあるコスモポリタンである。
 コスモポリタニズムは、世界主義のことで、ノーベル賞の大江健三郎はこううそぶいた。
「日本が悪いから、原爆を落とされた。原爆は、日本人にあたえられた反省の材料である。だが、わたしは日本人ではない。ノーベル賞をうけ、文化勲章を断ったのは、世界市民だからである」
 日本の平和主義者は、例外なく、コスモポリタンで、「9条の会」の小森陽や羹尚中、高橋哲哉ら東大教授に代表される日本の学者や学会、マスコミ、教育界、法曹界、共産党から自民党左派にいたるまでの政党が、コスモポリタニズムに毒されている。
 国から甘い汁を吸う一方で、国を足蹴にするのがコスモポリタニズムという卑劣な思想で、かれらが信奉するのが、自由や平等、そして、民主主義である。
 民主主義には、愛国心も同胞愛も、正義も道義も、モラルすらもない。
 パル判事は、戦争が主権国家の交戦権の行使である以上、戦勝国が「平和にたいする罪」や「人道にたいする罪」という事後法で敗戦国を裁くのは違法と主張した。
 これが、英国法曹界の重鎮ハンキー卿に支持された結果、東京裁判は違法という考え方が世界の常識になって、ウエッブ裁判長もこれをみとめた。
 東京裁判が違法だと世界にうったえて、成果をあげた日本人がいたろうか。
 1959年に広島の原爆資料館を訪れたキューバの革命家、チェ・ゲバラは「きみたち日本人はなぜ腹を立てないのか」と憤った。
 以後、キューバでは、毎年8月6日と9日に国営放送で特番を組み、広島と長崎の原爆投下について教えている。
 原爆投下がアメリカの戦争犯罪だと世界にうったえた日本人がいたろうか。

 日本では、戦後、国権を立てて、国家や国民の利益をまもったことがいちどもない。
 日韓併合や従軍慰安婦、徴用工、南京大虐殺問題などで、中国や韓国のデマゴギーにたいして、国家としての反論定説を一つも用意せずに、謝ってばかりいた。
 日本では、主権が国家にあって、国家主権や国家理性、国家意志が不在なのである。
 それが、如実にあらわれたのが、コロナ禍における日本政府の対応だった。
 戦後、最大の国難にあたって、ただのいちども禁止や命令をださなかったのは、原爆投下や東京裁判にたいして、国家主権を立てていちどもモノをいってこなかったこととけっして無縁ではない。
 日本人は、為政者をふくめて、民主主義が最高価値で、主権は国民にあって国家にはないと思っているのである。
 禁止や命令は国家主権の行使である。
 日本では、国家主権の法的根拠を憲法にもとめることができない。
 国家主権が不在の日本では、国民にお願いして、諸外国に頭を下げるしかないのである。
 日韓併合も、大韓帝国一進会の李容九が百万人の署名をそえて、李完用首相に送った「韓日合邦を要求する声明書」(1909年)が発端で、日本が武力侵攻したわけではない。
 ちなみに、この声明書には「これまでの朝鮮の悲劇は、朝鮮民族がみずからまねいたことであり、朝鮮の皇帝陛下と日本の天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、国を発展させようではないか」と記されている。
 なぜ、日本は、国家主権の下で、国益や国民をまもり、外国に堂々とモノをいうことができないのであろうか。
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2020年08月07日

 コロナ後の世界展望と民主主義B

 ●民主主義を国家精神≠ノしてしまった戦後日本
 今回の世界的なコロナ禍で、改めて問われたのは、民主主義の真価だった。
 民主主義の先進国であるアメリカやヨーロッパなどでパンデミック(大規模流行)が発生したのにたいして、中国や台湾、韓国やベトナムなど国家権力がつよい国では、ある程度、コロナウイルスがおさえこまれた。
 コロナ防衛は、民主主義と全体主義のたたかいでもあって三密≠フ回避やマスク着用、ソーシャルディスタンスは、民主主義や個人主義と折り合わない全体主義にもとづいた政策であった。
 したがって、欧米では、外出禁止令などにたいする反対デモが頻発した。
 全体主義は、当然、強制をともなうので、中国や韓国、台湾の罰則のきびしさは、語り草になったほどだった。
 欧米で、全体主義が反発を買うのは、民主主義ではなく、個人主義の風潮がつよいからで、パンデミックに突入しても、マスク着用は半数にみたなかった。
 日本で、マスク着用やハンドウオッシュが徹底したのは、清潔好きの国民性のたまものであろうが、一方、国内からも海外からも不評だったのが、政治的な指導力の欠如である。
 日本政府が強権を発動しないのは、発動すれば、野党やマスコミから非民主的と叩かれる可能性があったからで、事実、60年安保では、全野党・全マスコミが「反安保」ではなく「民主主義をまもれ」と叫んだものである。
 だが、政府・自民党が、コロナ対策に強権をうちださない理由は、それだけではない。
 民主主義を善≠ニとらえ、強制力をともなう全体主義を悪≠ニ見立てる価値観に立っているからである。
 したがって、国家主権や国家理性をふまえた命令″痩ニ的な決断力を下せないのである。

 コロナ後の世界展望において、民主主義を最良の政治手段としてきた時代は終わりを告げたとみてよい。
 コロナ以後、多数決で物事をきめるような情勢ではなくなる。
 今後、世界は、強力なリーダーシップの下で、全体主義的な方向をたどってゆくはずである。
 さて、政治とは、個(個人)と全体(国家)の矛盾を調整する手段である。
「個と全体の矛盾」は、プラトンの大昔から、人々が頭を悩ましてきた大きな問題だった。
 プラトンは、聡明な、たとえば哲学者による独裁を考えたが、全体の利益に奉仕する思想家も権力者も、ついに、あらわれなかった。
 人間が愚かというより、個と全体の矛盾は、こえられない壁として、人類の前に立ちはだかってきたのである。
 そして、近代になって、民主主義が、「独裁よりマシ(チャーチル)」という理由から、政治手段や人民支配の便法としてもちいられることになった。
 日本人には、戦後、GHQがもちこんだ「アメリカ民主主義」の印象がつよいだろう。
 当時、日教組やマスコミ、インテリらは、喜々として、「日本は民主主義の国にうまれかわりました」と叫んだものである。
 だが、かれらは、民主主義が全体主義であることには気づかなかった。
 多数派独裁が、全体主義であることは、すこし考えればわかるだろう。
 49パーセントの少数派を断ち切って、どうして、民主になるのか。
 左翼の宣伝屋は、民主主義は個を大事にするというが、ウソである。
 左翼が大事にするのは、多数派で、レーニンが率いたボリシェビキ党のボリシェビキは、多数派という意味である。
 ヒトラーは、民主主義を利用して独裁体制を打ち立て、人民を虫けらのようにあつかう北朝鮮は、国名に民主主義を謳っている。
 啓蒙思想の一つであるルソーの民主主義は、古代ギリシャの衆愚政治を揶揄したことばで、それがフランス革命の精神になったのは、革命も、衆愚政治の一つだったからである。

 そのルソーも、民主主義が個人のものなどとは、一言もいっていない。
 国民総体の意志(一般意志)が、最高にして絶対の権力(人民主権)となるという内容が革命権とうけとめられただけである。
 ルソーの国民は、一般化された国民で、日本人一億まとめて国民である。
 憲法の国民主権も、国民一般の主権で、一人ひとりの日本人に主権があるといっているわけではない。
 ところが、大方の日本人は、ひとり一人の日本人が主権をもっているように思っている。
 主権は、ソブリンティ(君主権/国権)のことである。
 ソブリンティには、徴兵して戦争をおこす権利、国民を逮捕して、処刑する権利までがふくまれる。
 国民ひとり一人がそんな主権をもっているはずはない。
 もっているというなら、個人が交戦権をもち、他人を処刑する権利をもっているというようなもので、これでは、ホッブスの「万人の戦争」どころの話ではない。
 保守系をふくめて、多くの政治家が、民主主義がなにかりっぱな思想であるかのような錯覚に陥っている。
 そして、民主を優先させて、国益をないがしろにする。
 国民にマスクを支給するのが、民主主義的な政治家のように思っているようだが、国民が首相に望んでいるのは、マスクなどではなく、コロナ防衛という国益に立ったつよいリーダーシップである。
 旅行業界のドン、二階幹事長は「GO-TOキャンペーン」を強引にすすめて受託業者から4200万円以上の献金をうけている。
 国家や国益という大道から外れると、結局、私利私欲の罠に落ちるのである。
 二階は、女系天皇容認の弁に「民主主義、男女同権の世の中に」と口走った。
 民主主義を語る者には、国家や国体、歴史や伝統、国益や国家理性の認識がぽっかりと欠落しているのである。
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2020年07月31日

コロナ後の世界展望と民主主義A

 ●一国主義≠フなかで立ち枯れる日本
 コロナ以降の世界情勢が反グローバリズムの一国主義≠ヨむかっているのはだれの目にも明らかだろう。
 といっても、ブロック経済や欧米が地球上の土地の84%を支配した20世紀はじめの植民地・帝国主義とは異なる。
 国家の支配イデオロギーが、民主主義や自由・平等、平和主義などの空想的な観念論から、国益や自国優位の国家主義や国家理性、あるいは他国敵視政策へ移り変わってきたのである。
 一国主義の兆候は、すでに、コロナ以前からあらわれていた。
 イギリスの「EU離脱」がその一つで、約20兆ドルと世界GDPの約25%を占める欧州連合の一角が崩れると、その一方で、英仏独など欧州の10か国が移民反対をうちだし、欧州ナショナリズムというべきものの存在をみせつけた。
 イスラム圏7か国の入国規制を打ち出したトランプがメキシコからの不法移民を防ぐため国境に3000Kmの壁を建設するなどはばかげた構想に思えるが、中国総領事館(テキサス州ヒューストン)の閉鎖命令と同様、まぎれもない現実である。
 米中貿易摩擦は、将来、米中のどっちが将来的な世界覇権を握るかというテーマでもあって、対立軸が、経済から科学や技術、軍事面にまでひろがっている。
 いちはやく一国主義を打ち出したのは、アメリカのトランプ、中国の習近平、ロシアのプーチンだが、リードしたのは「一帯一路」の習近平だった。
 といっても、アメリカは、ヘッジファンドを主とした国際金融資本を操作して、国際金融危機とりわけ日本のバブル崩壊やアジア通貨危機をつくりだして、アジアから天文学的な利益を貪った、一国主義の先駆者である。
 グローバリゼーションは、かつて、自由主義経済をリードする思想としてもてはやされたが、文化的にはアメリカ化、経済としてはアメリカ金融資本への隷属以外のなにものでもなかった。
 グローバリゼーションが、実際は、アメリカナイぜーションで、これが一国主義の端緒で、これにつづいたのが、中国の元経済圏構想(一帯一路)だったとといえる。

 米中冷戦が、かつての米ソ冷戦と決定的に異なるのは、東西両陣営という対立軸をつくりださなかったことである。
 米ソ冷戦時代は、アメリカが、NATO(北大西洋条約機構)と日米安保体制の盟主として、ソ連に対抗したが、米中冷戦では、このような対立的な陣営化は生じていない。
 世界には、アメリカと中国の二大大国のほかに、日本やロシア、EU諸国や英国、カナダや豪州、ブラジルやインド、台湾や韓国、トルコやイスラエル、UAE(アラブ首長国連邦)やサウジアラビアなどの強国がひしめきあって、各国がそれぞれ相応の軍事力をもっている。
 核保有国は、NPT(核兵器の不拡散条約)を批准しているアメリカとロシア、イギリス、フランス、中国の5大強国と、NPTを批准していないインドとパキスタン、北朝鮮、イスラエルのあわせて9か国あるが、核は、事実上、使用不可とあって、2大強国をふくめて、各国とも独自の安全保障・防衛構想を立てている。
 かつて核の傘≠ニいう考え方があったが、日本を核攻撃した中国にアメリカが核ミサイルで反撃するということはありえない。
 報復の報復によって、アメリカ国民の生命や国家経済や文化が危機にさらされるからである。
 その意味で相互確証破壊の論理は破綻しているが、原爆使用の報復として、経済その他の制裁をうければ、核の被害は、自国にもおよぶのである。
 韓国は、日本の原発を標的にした巡航ミサイル(玄武3B/3C)を配備しているが、日本も、F-35などに搭載できる国産巡航ミサイルで敵射程外から報復(敵基地攻撃)できる体制をすすめている。

 一国主義において、国家の防衛や安全、繁栄をまもるには、確乎たる信念や自信、使命感がなくてはならないが、その背景にあるのが愛国心や同胞愛、民族や歴史にたいする誇りである。
 それが国をまもる気概で、戦後、日本が失ってしまったのが、自国は自国でまもるというモラルや独立心、自尊心だった。
 自国防衛のモラルを捨て、国防をアメリカに依存する腑抜けた姿勢を平和主義と呼んできたが、実際は、平和ボケで、精神の退廃である。
 この精神のゆるみが、新コロナウイルス対策にもあらわれて、日本はコロナ第二波≠フ脅威にさらされておる。
 日本は、協力要請だけで、これまで、コロナ防衛で、いちども命令を発令していない。
 命令という強権をふるうには、国家や国民を思うつよい決意や情熱がはたらかなければならない。
 安倍首相は、マスクの2回目の給付をきめて不評を買い、二階幹事長は「GOTOキャンペーン」で墓穴を掘った。
 命がけで国家をまもる気がないので、強権を発動することができず、一方、利権や既得権の確保には気がむくのである。
 世界が一国主義という戦国時代にむかうなか日本だけが平和ボケ≠ニいうぬるま湯に浸ったままなのである
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2020年07月20日

コロナ後の世界展望と民主主義@

 ●国を挙げてコロナと戦えない脆弱さ
 大阪府警は、売春防止法違反(周旋)の疑いで、大阪・ミナミのホストクラブ経営者、田中雅秀ら3人を逮捕した。
 田中らは、クラブの遊興代金を支払わせるため、女性客に売春させたもので、被害女性が府警に駆け込んで事件が発覚した。
 府警保安課によると、女性は18年10月から1年2カ月にわたって愛知県内のビジネスホテルに監禁状態で、1日10万円の売春ノルマを課せられていたという。
 女性は約2200回にわたって売春させられ、田中らは、売春の代金約2900万円の大半をとりあげていた。
 女性は「たびたびホストクラブに連れて行かれ、じぶんのツケがいくらかわからないまま売春させられた」という。
 ホストクラブ女性客に高額なツケの代金を請求して、売春を強要するケースは、ホスト業界では、日常茶飯事である。
 ホストとのセックスを目的に来店する女性客の90パーセントはホステスで、売春に抵抗がない風俗関係者もすくなくない。
 ホストの志願者は、女性とセックスができる、高収入が期待できるとあって、人気業種だというが、このホスト業界が、現在、第二次コロナ流行の最大の汚染源になりつつある。
 ホストからコロナに感染した客のホステスが、じぶんが勤務している店だけではなく、コンビニやスーパー、美容院などでコロナウイルスをまきちらすのである。
 新型コロナの1日当たり新規感染数を更新している東京都で、感染者290人(7月18日)のうち感染経路不明者が158人にもたっしたが、国立国際医療研究センターによると、積極的な対策を講じなければ、2か月後には100倍以上、2万人近くにのぼるという。
 欧米並みのパンディミックが、恥ずかしい話しながら、歌舞伎町のホストクラブからうまれようとしている。
 3711人の乗客・乗務員のうち712人が感染、13人が死亡した豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号の第一波コロナ流行は自衛隊らの献身的な船内防疫活動で、事なきをえた。
 ところが、今回の歌舞伎町ホストクラブの第二波コロナ流行は、船内感染とちがって、感染者が野放しの市中感染状態で手の打ちようがない。
 クラスター(集団感染)封じは、閉店命令と客や従業員らの隔離しかないが、セックス産業とあって、顧客の把握はむずかしい。
 歌舞伎町にあるホストクラブ約240店のうち、1割を超える約30店で感染者がでているばかりか、10数店で、感染者が5人以上のクラスターが発生しているが、国も都も手をこまねくばかりである。
 東京都新宿区がおこなったPCR検査で、ホストクラブなど夜の街で働く接客業者の陽性率が一般(4%)の8倍の31%にたっしたというが、ホストクラブは、相変わらず営業をつづけている。
 本来なら、国民の健康をまもるため、国や都は、営業禁止命令などの強制的措置をとるべきだろう。
 だが、国も都も、ホストクラブを聖域化して、クラスターをおこした店名すら公表しない。
 人権侵害の汚名を着ても国民の命や健康をまもろうという気概がないのである。
 ふしぎな話だが、マスコミは、全面的にホストクラブ擁護論である。
 読売新聞(7月17日)は、ホストクラブなど16店を所有する経営者(手塚マキ)を好意的にとりあげて「ホストを差別しないで」という彼女の言い分をそのまま記事のタイトルに掲げている。
「ホストクラブがPCR検査を積極的に受けた結果、感染者数が増えているだけ」「都が『夜の街』への注意をうながしたためホストクラブへの風当たりがつよまった」「特定の場所や業種を取り上げて、分断をあおらないでほしい」というのだが、読売は、コロナの危機や国民の健康よりも反差別≠ニいうねじまがった正義のほうが大事なのである。

 和田アキ子が「アッコにおまかせ!」(TBS)で、カリスマホストのROLAND(27)が運営する歌舞伎町のホストクラブの閉店に同情して「がんばって」と熱っぽいエールを連発した。
 個人的にも親しいとみえ、再開まで、移転先の空家賃を払いつづける金満家ぶりに「カッコイイ」と手放しだが、すべてホストクラブで客のホステスからまきあげたカネである。
 和田アキ子は芸能界のドンだが、在日朝鮮人で、時折、日本の成功や発展をよろこばない反日発言をくりだす。
 和田アキ子は大のパチンコファンで、パチンコ「マルハン」のCMに起用されたが、「マルハン」の創業者、在日韓国人の韓昌祐会長は日本の植民地支配に批判的な発言をくり返す反日家で、日本で築きあげた資産(資産ランキング国内22位)の半分を韓国に還元すると明言している。
 韓昌祐がもっていて、日本人がもっていないのが、国家や民族にたいする愛着や敬慕、身びいきの心情である。
 グローバリズムの終焉後、世界は、国家や民族、独自の歴史や文化を軸とする一国主義にむかいはじめた。
 その流れに拍車をかけたのが新型コロナウイルスの大流行で、国家は一国主義とナショナリズムのもとでコロナ防衛にこれ努めた。
 ところが、日本だけ様相がちがった。
 国家や民族などの実体よりも、民主主義や自由、平等や人権、ヒューマニズムなどの観念を大事にするのである。
 国民の命や国家の安全に比べると、女性を食いモノにしているホストの差別など屁のようなものに思えるが、日本で最大の発行部数を誇る読売新聞は、逆で、ホストの人権が大事で、国民の命や国家の安全のほうが屁なのである。
 日本が、コロナ対策で、禁止や強制、罰則のをうちだせないのも、国家概念が風化しているからで、世界の国家が国家が掲げる国家主権や国家理性、国益主義が、日本では、害悪とうけとめられる。
 そして、民主主義や人権、自由、平等がもちあげられる。
 日本人の愚かさは、民主主義や人権、自由、平等をまもっているのが国家だということに思いおよんでいないところにある。
 朝日新聞が半世紀にわたって叫んできた「偏狭なナショナリズム」というスローガンが浸透した結果、若者から社会的に大きな影響力をもつTVタレントまでがコスモポリタン(世界市民主義者)になって、太田光や中居正広ら人気タレントは、憲法9条を信奉する平和主義者である。
 国家などいらない、平和憲法と民主主義だけがあればよいという狂気がこの国を覆って、久しい。
 次回も、この亡国思想とコロナ以後の世界情勢を展望してゆこう。

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2020年07月08日

官僚国家ニッポンの悲劇D

 ●社会保険事務局が工作した静和病院冤罪事件
 2010年3月10日、静岡地方裁判所は、静和病院の吉田晃元院長と水谷信子元事務長に、健康保険法違反と詐欺罪の有罪判決を下した。
 それぞれ、懲役6年6月、5年6月という殺人罪並みの重刑だった。
 だが、この判決で、健康保険法(「15対1入院基本料の施設基準」)違反の具体的事実や違反した数値、証拠や根拠が明らかにされることはなかった。
 それどころか、このとき、静岡地裁は、静和病院一般病棟(55床)の適正看護師数を19人と誤った上で、有罪を宣するという、司法史上、前例のない醜態を演じた。
 適正看護師数は、静岡社会保険事務所が静岡県警に陳述したとおり、9人である。
 なぜ、静岡地裁と静岡地検は、適正看護師数を19人とする致命的なミスを犯したのか。
 平成18年4月以降、新法(15対1入院基本料の施設基準)を適用させるべきところを、旧法(3対1)を適用させたからである。
「3対1基準(旧法)」と「15対1基準(新法)」では、数値が異なる。

 ●新法「15対1入院基本料の施設基準」の適正看護師数=9人
   計算/55床÷15×3(8時間3交代)=10・999…(11人時間)
   ※夜勤2人は16時間勤務のため実質9人
 ●旧法「3対1基準」の適正看護師数=19人
   計算/55床÷3=18・333…(19人)


 本来なら、法令誤認の事実が判明した時点で、原判決破棄の差し戻しとならねばならない。
 だが、司法は、みずからの誤りをみとめようとせず、再審請求は却下された。

 静和病院事件の共犯者で、元院長と元事務長を主犯と告発、執行猶予処分をうけた木口崇は、公判で、静和病院一般病棟55床の必要看護師数を19人と証言している(木口レポート)。
 検察や裁判所が、必要看護師数を19人と誤認したのは、木口証言を真実としたからである。
 木口の第三回公判調書(平成20年〈わ〉第533号)にこうある。
 松枝検察官「15対1の基準というのは、平成18年4月の改正までの基準だと、3対1に相当するわけですよね」 
 木口「はい」
 吉田・水谷裁判の判決文でも「従来の3対1基準に相当する『15対1入院基本料の施設基準』」という文言が幾度となくくり返されている。
 木口は、強制捜査直前、静和病院を退職して、西伊豆病院に転職している。
 西伊豆病院は、吉田晃が、補助金の不正受給があったとして、国会で問題にさせた熱川温泉病院と同系列(社団健育会)の病院である。
 木口が、なぜ、吉田院長と敵対関係にあった健育会系の西伊豆病院へ移ったのか。
 西伊豆病院が木口をとりこみ、静岡県警に協力させて、静和病院院長の吉田晃を陥れたとみるのが自然だろう。

 看護師不足は、行政指導の範疇にあって、ほとんどの行政が放置していた。
 看護師が不足している病院は、山ほどあって、行政指導が追いつかないのである。
 ところが、静和病院事件では、静岡社会保険事務局と県医務室が静岡県警の強制捜査にくわわった。
 理由は、生活法で刑罰のない健康保険法違反を根拠に、強制捜査をおこなうことはできなかったからである。
 強制捜査には、刑法上の犯罪である詐欺容疑が立っていなければならない。
 詐欺罪の前提となるのが健康保険法違反だった。
 健康保険法違反にもとづいて診療報酬の不正受給がおこなわれ、なおかつ、同不正受給が、欺罔(だまし)や計画性にもとづくと判定されて、はじめて、詐欺容疑が成り立つ。
 静岡県警が、強制捜査前に、詐欺容疑を立てることができたのは、静岡社会保険事務局が静和病院の健康保険法違反を認定、告発したからだったのである。
 静岡県警は、看護師数が足りないとする健康保険法違反と、診療報酬の不正受給、詐欺容疑を三重につなぎあわせて、静和病院の吉田院長と水谷事務長を送検、静岡地検は、健康保険法違反を誤認したまま起訴、静岡地裁は、必要な看護師9人を19人と錯誤して、院長と事務長に殺人犯並みの重刑を科したのである。

 でためな判決がまかりとおった理由は、強制捜査に、静岡社会保険事務所がくわわったからだった。
 旧社会保険事務所は、厚生労働省の外局だった旧社会保険庁の傘下にあって、保険料の徴収や保険給付、保険給付裁定、被保険者資格得喪の認定など、国や厚生労働省の健康保険事業を代行する専門機関として、もっとも権威をもっていた。
 社会保険事業の権威である静岡社会保険事務局が、強制捜査にくわわったことによって、健康保険法違反が既成事実とされた。
 静和病院の健康保険法違反は、静岡県警と静岡社会保険事務局の談合だったのである。

 静和病院が強制捜査をうけたのが、平成20年4月である。
 社会保険庁が廃止されたのは平成21年で、同庁の業務は、翌22年、特殊法人「日本年金機構」にひきつがれている。
 年金記録問題などの不祥事や、社会保険庁のオンライン化(平成19年)にともなうコンピュータ入力のミスや不備が多いことなどずさんな管理が国会やマスコミで批判されて、自民党政権が倒れる騒ぎにまで発展した。
 社会保険庁のオンライン化計画にたいして、社会保険職員労働組合が「独占資本のための合理化である」として反対したばかりか、労働強化反対と称して集団サボタージュを正当化させる覚書を取り交わしていたことまでが明らかになった。
 社会保険庁(社会保険事務所)が、当時、健康保険法の正しい適用法を管轄しえただろうか。
 社会保険事務所は、静岡県警の事情聴取にたいして「15対1入院基本料の施設基準」の看護師数が9人であると陳述している。
 ところが、静岡社会保険庁も静岡県警も、検察や司法の法令誤認を見て見ぬふりをして、世紀の大誤審を誘導した。
 静和病院冤罪の原因は、健康保険法を私物化して、静和病院を潰し、無実の吉田元院長と水谷元事務長に殺人罪並みの重刑を誘導した厚生省・旧社会保険庁にあったのである。
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2020年07月05日

官僚国家ニッポンの悲劇C

 ●社会保険事務局の犯罪/静和病院冤罪事件A
 伊豆半島で最大級の病床数(307床)を有していた静和病院(熱川市)は6階建て2棟の大病院で、当時、多額納税の病院として知られていた。
 施設や設備も充実していて、日経新聞(2004年3月8日)に発表された「経営充実度」病院ランキングで、静和病院は、聖路加国際病院ら名門と肩を並べて、全国8位(関東3位)という高い評価をえている。
 その静和病院の院長と事務長に、それぞれ、6年6月と5年6月の懲役刑が科せられた。
 看護師数を規定する健康保険法の違反から診療報酬の不正受給と詐欺罪を推認されたのである。
 看護師が足りないというどこの病院もかかえている問題から、なぜ、そんな重刑がとびだしてきたのか。
 今回は、そのミステリーを解いてみよう。
 ところで、実際に看護師は足りなかったのか。
 源泉徴収簿兼賃金台帳によれば、静和病院では、1日平均60人の看護師が勤務についていた。
 若い看護師助手も約50人以上在籍していた。
 源泉徴収簿兼賃金台帳によると、当時、静和病院には、約82人の看護師が登録されていた。
 看護師の出勤日数は、平均22日なので、1日当たり出勤者数は55人強となる。
 源泉徴収簿兼賃金台帳には、健康保険料、厚生年金、所得税、住民税などの控除額が記載されている。
 給与のほか、勤務日数を記録した給与元帳もついている。
 源泉徴収簿兼賃金台帳をみるかぎり、静和病院に看護師数の不足はみとめられない。
 たとえ、看護師が、多少、少なくても、それが刑事事件に発展したケースは日本の医学史上、前例がない。
 しかも、科せられたのは、殺人罪並みの重刑である。
 背景にあったのが、県や医療行政との摩擦であった。
 医療費の不正受給については、通常、社会保険事務所と医療機関のあいだで手続きがおこなわれ、返済や課徴金などで行政処理される。
 げんに20億円に上る診療報酬を不正受給していた静岡県の熱海温泉病院や50億円をこえる不正受給が発覚した愛知県の医療法人「豊岡会グループ」ですら、責任者の逮捕、起訴にはいたっていない。
 院長と事務長に重刑が科されたこの静和病院事件で、不正受給したとされる診療報酬金額は8700万円である。
 豊岡会グループ50億円の57分の1である。
 にもかかわらず、院長と事務長に重刑が科された。
  静岡県にとって、静和病院は、もともと、厄介な存在だった。
 静岡県は、静和病院の療養病棟252床を老人ホームにきりかえるようもとめた。
 入院患者のほぼ全員が県外からの移入者であるにもかかわらず、静和病院が保有する307床によって、静岡県が、病床数の制限(基準病床数制度/厚生労働省)をうけるからだった。
 吉田晃はこれを拒絶した。
 静和病院に、静岡県警と静岡社会保険事務所、県の医療課による合同捜査が入ったのは、その数か月後である。

 平成13年、吉田晃は、元県知事の秘書を介して、民主党の木下厚に、熱川温泉病院の補助金問題を国会(第153回衆議院厚生労働委員会)で取り上げさせた。
 そして、熱川温泉病院から補助金6億円を返還させた。
 このとき、木下代議士はこんな質問をおこなっている。
「もう一つ。この熱川温泉病院を経営している健育会は、全国に九つの病院やクリニック、特別養護老人ホームをもっています。このグループにはさまざまなうわさがあります。先代の理事長は茨城県出身です。そこから、茨城県出身の厚生族の大物国会議員がバックにいるということで、かつて、何回も問題になったことがあります。今回の案件について、政治力がはたらいたのではないかという指摘がありますが、その辺はどうですか」
 茨城県出身の大物国会議員というのが、熱川温泉病院と顧問関係をむすんでいた厚労族のドン丹羽雄哉(第75・83・84代厚生大臣)である。
 補助金を取り上げられた熱川温泉病院の遺恨は深かった。
 それ以上に腹を立てたのは丹羽雄哉だった。
 顔をつぶされた上、国会で難癖までつけられたのだ。
 さらに吉田晃は、静岡空港(平成21年開設)の反対運動を支援して、計画をすすめていた石川嘉延知事を激怒させている。
 石川知事は、熱川温泉病院の民事訴訟で、保健衛生部医務課長とともに被告席に座らされてもいる。
「静和病院をつぶしてやる」
 元静岡県山本敬三郎知事の秘書で、熱川温泉病院の補助金問題で国会質問をしかけた吉田院長のパートナー、飯田忠雄は、石川知事の呪詛のことばを耳にしている。
 決定的だったのは、静岡県とやりあって、税金(所得税)の納付先を大阪にきりかえたことだった。
 県に逆らい、県の利益になんら貢献しない静和病院など、静岡県から消えてくれたほうがよかった。
 静岡県にとって、静和病院は、怨恨の対象でしかなかったのである。
 ちなみに、飯田元秘書は、その後、自殺をとげている。
 静和病院が強制捜査をうけたのが、平成20年4月である。
 社会保険庁が、連発する不祥事のため、廃止されたのは平成21年で、同庁の業務は、翌年、特殊法人「日本年金機構」にひきつがれている。
 社会保険庁(社会保険事務所)が、はたして、健康保険法の正しい適用法を指導しえただろうか。
 次回は、社会保険庁に静和病院の健康保険法違反を告発する資格があったか否かを問おう。

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