2021年10月24日

 なぜ日本は中道政治≠実現できないのか@

 ●自由主義と保守主義は唯心論
 政治は「国家と個人」あるいは「政治と経済」という異質なものを調整する能力で、二元論である。
 民主主義と自由主義も二元論である。デモクラシーが、民主政という国家の体制なら、リベラルは、自由をもとめる個人の信条で、ここでも、全体と個が対立している。
 ところが、日本では、この構図が逆転して、民主主義が個人の信条になっている。
 そして、共産と立民、社民をリベラル派と呼ぶように、本来、個人のものであるはずのリベラルが、共産主義・社民主義的体制の代名詞となっている。
 自由主義や保守主義は、個人の信条なので唯心論≠ナある。
 一方、民主主義や社民主義は、体制の問題なので唯物論≠ナある。
 政治とは「唯心論」と「唯物論」の調整でもあったのである。
 個人の自由と権利をもとめるのがリベラルである以上、個人よりも、憲法や多数派支配を尊重する立憲民主党や、個人よりも党を重んずる共産党をリベラルと呼ぶことはできない。
 二元論に、保守と革新を挙げるひともいるが、これは、論外である。
 保守は、古来、政治の王道で、人類は、数千年にわたって、古きにならって政治をおこなってきた。政治は、もともと、保守なのである。
 一方、革新は、18世紀の市民革命からうまれた価値で、たかだか数百年の歴史しかない。しかも、革新(革命)は、左翼の一党独裁で、人類の普遍的な価値である自由(リベラル)のかけらさえない。
 保守と革新を同列に並べることがすでにナンセンスなのである。

 リベラルなのは、むしろ自民党(リベラル・デモクラシー)で、自民党ほど自由裁量がみとめられた政党は、世界でもまれである。
 1955年、護憲と反安保を掲げて、左右社会党が統一されると、危機感をもった財界からの要請で、日本民主党と自由党が保守合同して、自由民主党が誕生した。
 一応、二大政党の体裁をなしたが、労組(総評など)をバックにする社会党には、財界を後ろ盾にする自民党をひっくり返せる力はなく、労使協和の政策協定をむすぶにとどまって、やがて、労働運動に衰退にともなって、しぼんでゆく。
 社会党の左右統一という事情と財界の危機感に応じて、急きょ、つくられた自由民主党に、統一的なビジョンなどあるはずはなかった。
 だが、それが、むしろさいわいして、自民党は、リベラル・デモクラシーの名にふさわしい多様性と奥行きのある政党として地歩を固めていくことになる。
 自民党は、吉田茂=旧自由党系の経済重視と鳩山一郎=旧民主党系の政治の優先という二本立てで、1955年から1993年、細川内閣が成立するまでの38年間、政権与党の座についてきた。
 その土台となったのが、自民党が候補者を二人立てることができた中選挙区制と、派閥の領袖が企業から政治献金を集めて、子分に分配する政治資金制度だったのはいうまでもない。
 自民党の単独政権というのは、皮相的な見解で、自民党旧自由党系と旧民主党系のあいだで、事実上の政権交代がおこなわれてきた。
 そして、振り子のように、日本の政治を、政治主体と経済主体、自由主義と民主主義へとふりわけて、振幅や奥行きをつくってきた。
 ちなみに、日本の野党は、社民主義やマルクス主義の影響下にあって、理想論をのべたてるのは得意だが、現実的な政権担当能力をもちあわせていない。
 旧自由党系は、池田勇人の宏池会が、大平正芳や宮沢喜一らから岸田文雄にひきつがれて、現在、政権を担っている。対抗するのが佐藤栄作の木曜研究会で、田中角栄から竹下登へ継承されて、小渕恵三や橋本龍太郎ら宰相をうんできた。佐藤栄作は、沖縄返還や日韓基本条約で知られる外交派だが、旧自由党系の大御所吉田茂が、もともと、経済派で、防衛や憲法改正には不熱心だった。
 これにたいして、旧民主党系の鳩山一郎は、憲法改正や防衛に熱心な政治派で、鳩山の路線をひきついだのが、戦前、東條内閣に商工大臣として入閣した経歴をもつ岸信介だった。
 岸派をひきついだのが福田赳夫の「清和政策研究会」で、森喜朗や小泉純一郎、安倍晋三ら3人の首相をうみ、現在、自民党最大の派閥となっている。

 そこで、あらためて、問題になるのが、自民党の統一的なビジョンである。
 自民党は、保守党といわれているが、保守である前に、自由でなくてはならない。歴史や伝統、国を愛するのは、個人の自由という唯心論だからで、保守主義者は、イデオロギーに縛られない自由主義者でもある。
 共産や立憲民主、社民らリベラルを名乗る政党にあるのは、イデオロギーと権力志向だけで、自由主義がない。自由主義のない政党がリベラルを名乗るのは異様というほかない。
 といっても、自民党も、保守主義や自由主義が根づいているとは言い難い。
 吉田茂の旧自由党系宏池会(岸田派)や平成研究会(竹下派)、志公会(麻生派)などは、経済中心の現実路線で政治に疎い。しかも、小沢一郎や羽田孜をはじめ、鳩山由紀夫、岡田克也らの造反者をだしている。
 一方の旧民主党系には「60年安保」の岸信介から福田赳夫にひきつがれた清和政策研究会のほか、河野一郎から中曽根康弘、渡辺美智雄をへて亀井静香や二階俊博、石原伸晃へ流れる系統があるが、ここにも、保守主義者や自由主義者はいない。
 清和会から「自民党をぶっつぶす」と宣言して三期総理大臣に就任した小泉純一郎は、ブレーンの竹中平蔵とともに新自由主義に走って、雇用や設備投資などの社会貢献を担っていた日本型資本主義を、株主や投資家に奉仕するアメリカ資本主義にかえて、先進諸国のなかで勤労者所得が最低の格差社会をつくりだした。
 清和会の大元である岸は、戦前、満州で計画経済を構想して、対立した小林一三(阪急電鉄創始者)から「あれはアカ(共産主義者)だ」と批判されている。岸ですら、保守主義者、自由主義者たりえなかったのである。
 まして、小泉の新自由主義は、自由主義どころか、資本の論理への屈服で、マルクス主義と同様、人間疎外以外のなにものでもない。
 自民党のビジョンに、保守主義と自由主義が見えてこないのは、この二つは心的な価値で、ビジョンとして明文化できる性格のものではないからである。
 保守主義と自由主義は心の問題で、ヨーロッパでは、モラルの範疇にくくられる。日本では、聖徳太子の17条憲法とりわけ「和を以って貴しとなす」がこれをよく表している。
 自民党が国民的な政党になるには、高いモラルをみずからしめさなければならないのである。
 次回は、岸田新政権が打ち出した「新しい日本型資本主義」に検討をくわえることにしよう。
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2021年10月12日

 天皇と保守主義8

 ●改革≠ヘ不毛な相対主義
 立憲民主党の枝野幸男が自民党の総裁選にからんで「自民党は変わらない。変われない。新総裁(岸田文雄)になって、安倍、菅内閣となにが変わったのか説明いただく」と息巻き、これがネットでも増幅された。
 マスコミも、自民党は変わらない、日本の政治は変わらないと言い立てた。
 保守を諸悪の根源のようにいうのは、変化や進歩、革命を善≠ニとらえる強迫観念にとらわれているからである。
 じじつ、体制の変化を望まない自民党は悪≠フ根源とされている。
 ヨーロッパでは、最大の美徳が保守で、革新は軽薄の代名詞である。
 ところが、日本では、保守が頑迷な守旧派で、革新は先進的な進歩派となる。
 知識人の95%が啓蒙主義者やマルキストの日本では、インテリが、西洋の思想家や西洋の用語を借りてきて、文化文明論をくり広げる。
 かれらが、日本論の根幹である国体や天皇にふれないのは、海外の文献には国体も天皇もないからである。
 歴史的な文化蓄積が大きく、すぐれた土着文化をもつ一方、平安後期のかな文字などの国風文化を培ってきた日本が、西洋の感化をうけるようになったのは、明治維新がヨーロッパ化で、多分に、自己否定のおもむきをもっていたからである。
 明治政府に招聘されたドイツ人医師ベルツは、政府の若い役人が「われわれに歴史はありません。われわれの歴史はこれからはじまるのです」と口を揃えたことに深く失望した(『ベルツの日記』)という。
 薩長の明治政府は、武士という誇り高き文化階級を捨てて、一神教的な神権国家や帝国主義に走った末に、鹿鳴館や貴族制度など西洋の物マネにうつつを抜かした。
 江戸幕府によって近代化がおこなわれていれば、日本は、現在とはちがった国になっていたはずである。

「自民党をぶっつぶす」と叫んで政権をとったのが、改革主義者の小泉純一郎(「清話会」)だった。ブッシュにそそのかされ、竹中平蔵の口車にのった郵政民営化が天下の失政、愚策だったことは、だれの目にも明らかだが、政界引退後は、12兆円の国富を節約できるうえ、CO2を排出しない準国産のエネルギー資源である原発の撤廃運動に血眼になっている。
 竹中とともに新自由主義という経済リバタリアニズム(無差別的自由主義)に走って、雇用や設備投資、規制や制限によってまもられていた日本型の資本主義を、株主や資本家、投資家が富を独占するアメリカ型の資本主義に変えてしまった。
 それが改革の正体で、変えることに目的があって、変えた後のことなどどうでもよいのである。
 旧日本海軍は、御前会議で「数か月は暴れてみせます」といって真珠湾攻撃を強行したが、真珠湾攻撃後の世界戦略がなかったため、国家を存亡の危機に追いやって、原爆投下という人類最大の悲劇までまねいた。
 ところが、戦後、海軍の人気は上々で、山本五十六は、いまなお、国民的なヒーローである。
 日本人は、ヴィジョンがなくても、その場かぎりのスタンドプレーに喝采を送る国民性をもっている。

 野党やマスコミは、変われというが、かれらは、代わった後のヴィジョンをもっているのだろうか?
 改革や進歩、変化をもとめるかれらの目的は、伝統や文化、体制を破壊して革命前夜の混沌とした状況をつくることにある。
 国体維持や国家建設プランなどちゃんちゃらおかしいのである。
 これは「二段階革命論」である。すべてに反対して、現体制を破壊したのちに、共産主義革命をめざすというもので、これが、六全協以降の日本共産党の基本戦略である。
 第一段階が啓蒙思想にもとづくブルジョア革命で、イギリス革命(清教徒革命/名誉革命)やアメリカ独立革命、フランス革命がこれにあたる。
 第二段階がマルクス・レーニン主義のプロレタリア革命ということになるが、この二段階革命論は、民主主義を共産主義へと移行させることができず、結局、失敗に終わった。
 二段階革命論に対立するのが一般革命論(永続革命論/トロッキズム)である。五全協までの日本共産党やかつての新左翼、過激派は、暴力革命をおこして権力を奪取せよと叫んだものである。
 二段階革命論に立っているのが、現在の日本の日本の左翼である。
 西洋が民主主義の実現をもって革命の終了≠ニしたのにたいして、日本の左翼は、現体制を革命の経過≠ニしか見ない。
 したがって、自民党政権を倒せ、政治を変えようというだけで、民主主義が実現されている現体制をまもろうとは、口が裂けてもいわない。
 民主主義に価値があるのは、多数決と普通選挙法という普遍性をもっているからである。
 それがモラル≠ナ、議会では、多数決というモラルにしたがって、粛々と議事がすすめられる。
 日本が、聖徳太子の昔から、戦争以外の方法で、意志決定をすすめてきたのは、委任や談合、調整やなどのモラル(基準)がはたらいたからで「和の心」もその一つである。
 ところが、左翼は、歴史や伝統、文化を破壊することが民主主義と思いこんでいる。民主主義を、共産主義や社会主義へ至る革命の手段と考えているのである。
 共産党と共闘しようという立憲民主党が、リベラル・デモクラシーの政党に変われ≠ニ迫って、マスコミがこれをバックアップするという異様な事態にさらされているのが日本の民主主義なのである。

 世界のマネをして、日本は変わるべきという強迫観念から抜けでたのが、安倍外交で、それを踏襲したのが高市早苗だった。
 自民党の総裁選で、高市(議員票114票)が下馬評をくつがえして、河野太郎(議員票86票)をおさえたのは、具体的な政策を掲げて、相対論から抜けでたからである。
 安倍首相が、憲法改正からインド太平洋構想、アメリカ抜きのTPPなどにむかったのは、国益にそって、レジームを再構築するためだった。
 安倍路線を踏んで、高市は、抑止力のあるミサイル配備から原発容認、靖国参拝、経済成長投資などをうったえ、リベラル派の「女系天皇容認論」「夫婦別姓」「脱炭素」「日中友好」を退けた。
 改革という相対論を卒業して、国家指針という絶対論を掲げたのである。
 マスコミは、岸田内閣でなにが変わったのか、麻生・安倍内閣のコピーではないか気勢を上げた。
 岸田内閣のどこが、麻生・安倍内閣のコピーなのか。
 岸田文雄が政治の師と仰ぐのが宮沢喜一である。宏池会を率いて、91年に首相に就任したが「近隣諸国条項(1982年/内閣官房長官談話)」で、中韓への土下座外交の端緒をひらいて、保守派から批判された。
 岸田首相も、徴用工訴訟に応じる気はないとするものの、徴用工の強制性については、安倍首相の「なかった」とはニュアンスの異なった論をのべたこともある。
 初の記者会見で、韓国への言及はなかったが、中韓への不要なへりくだりが「宏池会」の伝統で、経済にはつよいが、政治的には熟練度が高くない。それが池田勇人から宮沢、岸田へつながる旧自由党系の体質で、創始者の吉田茂は憲法改正にまったく不熱心だった。
 宏池会は、絶対的な価値観をもたない相対主義で、これまで日本は、改革に最大の価値があるという不毛な相対論に惑わされてきた。
 相対主義を捨てわが道を行く≠ニいう絶対主義に立たないかぎり、岸田自民党も日本の未来も、ひられてこないのである。
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2021年10月04日

 天皇と保守主義7

 ●政治は相対≠ニ絶対≠フ兼ね合い
 かつて、左翼は「革命がおきたらハンドーは、みな、ギロチンだ」と叫んだものである。
 ハンドーは保守反動のことで、保守は、革命という先進的な流れに逆行しているというのである。
 だが、日本で、革命はおきなかった。革命は、進歩ではなかったのである。
 革命がおきなかった日本では、アンシャン・レジームが維持されて、いまもなお、天皇は、国家と国民の象徴でありつづけている。
 アンシャン・レジームは、フランス革命における旧体制のことである。
 革命の成功後、封建的体制が崩壊して、自由と平等、博愛と「人権宣言」を謳った新たな体制が発足した。
 だが、その新体制は、ロベスピエールの恐怖政治をへて、ナポレオンの軍事独裁政権に移り変わっただけで、基本的なレジームにかわりはなかった。
 レジームとは、政体のことで、一方、破壊された歴史と伝統、文化にあたるのが国体である。
 フランス革命は、歴史と伝統、文化を破壊して、自由と平等、博愛と人権という18世紀の啓蒙思想を借用した文化革命だった。革命は、政体たるレジームを転覆させる一方、国体たる文化構造までを破壊する歴史的蛮行だったのである。

 米・ロ・仏・英・中の常任理事国5か国を筆頭に革命国家が国体をもたないのは、伝統的価値を、すべて、自由や平等、民主主義などの啓蒙思想的価値ととりかえてしまったからである。
 日本にも、GHQ憲法やアメリカ民主主義、対米従属構造、日米安保体制を新たな国体≠ニ見立てる短絡的な思考がある。
 国体と政体の区別がつかない愚論で「八月革命論」の亜流である。
 国体と政体の区別がつかないのであれば、歴史や文化、伝統という絶対的な価値と、進歩と保守、革新と守旧、先進と反動などの相対的な価値との区別もつくはずはない。
 相対論は、右や左、上や下、新旧や強弱のように、変化や程度、状態などを比較することで、それ自体はなにも語っていない。右である、上であるといわれても、実体がないので、なんのことやら見当もつかない。
 だが、わたしのうまれた国、富士山、東京タワー、わたしのパスポートなどという具体的なモノやコトなら、明瞭にイメージできる。
 これが絶対論で、歴史や文化、伝統、天皇は、絶対的で、疑うべくもない。
 疑うことも、相対化することもできないのが国体で、国家は、絶対的国体と相対的政体の両方から成っている。

 国体と政体は、二元論で、デカルトの「心身二元論」のようなものである。
 別々にはたらくが、人間も国家も、その両面をもって、一人前になる。
 民主主義という制度と、歴史や文化、伝統という文化や価値があって、はじめて、ヒトは安心して生きていける。
 もっとも、民主主義は、多数決と普通選挙法のことで、制度である。
 ところが、多くの日本人は、民主主義を、思想や文化と思っている。
 国民主権と同義にとらえているからで、憲法にも民主主義の文字はない。
 国民主権の国民は、国民全体の総称で、個人をさしているわけではない。
 主権も、国家主権のサブリンティで、個人にあたえられるものではない。
 サブリンティは、自然や神がもつ絶大にして超越的、絶対的な能力である。
 ひとり一人がそんな魔王的な権力をもっていたら収拾がつかないことになる。
 これを国家にあてはめたのは、国家には、戦争権があって、武力で相手国を滅ぼす権利さえ有するからである。
 前述したように、国民ひとり一人がこの主権をもっていると主張する論者がいる。白井聡(国体論/永続敗戦論/主権者のいない国)とそのシンパである。
 かれらの頭のなかで、国体と政体、文化と制度、現実と空想、絶対的なモノと相対的なモノが、区別なく、ごちゃ混ぜになっている。

 政治には、これまで、先人が挑んできて、不可能だったものが二つある。
 一つは「個と全体」の矛盾を克服、あるいは、調整である。
 もう一つは、一神教、一元論の宗教戦争に終止符を打つことである。
 個と全体の利害の調整は、デモクラシーとリベラルの兼ね合いで、多数決に従いつつ、個人の価値をもとめるのが、現段階で、個と全体の矛盾を解消する唯一の方法である。
 それには、民主主義の規則性と、自由主義の柔軟性を両立させなければならない。
 全体の秩序をまもりながら、個人の自由をもとめることが、人類に残された最後の手段で、それが、自由民主主義(リベラル・デモクラシー)である。
 ところが日本では、他人の自由を奪う好き勝手な自由、リバタリアニズムが大手をふっている。
 リバタリアニズムの先にあるのが、アナキズムや反日・反国家、そして、言論テロや破壊行為、犯罪である。
 民主主義と自由主義、絶対主義と相対主義は、互いに、歩み寄って、中庸の精神がえられる。
 日本が、革命を体験することなく、君民共治の事実上の自由民主主義を実現できたのは、国体と政体、権威と権力、天皇と幕府の二元論体制ができていたからである。
 一神教=一元論は、他の存在をゆるさないので、永遠の抗争がうまれる。
 だが、二元論では、共存の原理がはたらく。二元論は、同一性のあるものがなれ合うのではなく、異質なものが和することで、それが「和の精神」である。
 個と全体、民主と自由、絶対と相対は、二元論をもって、融合するのである。
 次回は。現実政治を見ながら、民主主義と自由主義の二元論をについてのべよう。
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2021年09月26日

 天皇と保守主義6

 ●民主主義と自由主義の相克2
 民主主義という制度はあるが、民主主義という思想はない。
 自由主義という思想はあるが、自由主義という制度はない。
 民主主義は、多数決と普通選挙法のことで、国家の制度である。
 一方、自由主義は、自由に最大の価値をおく個人の思想である。
 制度である民主主義と、個人の思想である自由主義が補完しあって、現在の自由民主主義(リベラル・デモクラシー)ができあがっている。
 ところが、現在、多くの日本人は、民主主義が、唯一にして絶対的な価値と思いこんでいる。
 民主主義が、多数決と普通選挙法以外のどんな意味も価値ももっていないと思い到っていないのである。
 政体としての民主主義は、立憲民主主義や議会民主主義、社会民主主義から立憲君主制や連邦共和制、大統領制まで多岐多様におよぶが、多数決の原則と普通選挙法がとられているかぎり、すべて、民主主義国家である。
 天皇と民主主義は折り合わないという意見もあるが、民主主義は、政体上の制度で、一方、天皇は、国家の象徴という文化の系列で、国体である。
 政体と国体は二元論で、両者が折り合う必要は、つゆほどもない。

 民主主義と自由主義が相容れないようにみえるのは、両者が「個と全体」という絶対矛盾の上に成立しているからである。
 人類は、古来、個と全体の矛盾と一神教の「闘争の論理」に苦しんできた。
 個人と国家の利害は、かならず、対立する。そして、正しいものが一つしかない一神教=一元論では、永遠の闘争がくりひろげられる。
 この解決不能なテーゼに、多数決の大衆政治(デモクラシー)と自由の精神(リバティ)をもってたちむかったのがヨーロッパの近代だった。
 ちなみに、日本にこの二つの混乱がなかったのは「個と全体」の矛盾を融和する国体および多神教=多元論という歴史・文化構造があったからで、その要(かなめ)となったのが天皇だった。

 ヨーロッパは、自由を手に入れるまで、14世紀のルネサンスから宗教戦争をへて啓蒙時代、近代の市民革命まで、500年以上の年月をかけてきた。
 そして、革命をとおして、ようやく、自由に手がとどきかけた。
 民主主義という新しい体制が自由と平等を謳っていたからだった。
 だが、その民主主義は野蛮な「大衆の反逆(オルテガ)」でしかなかった。
 事実、フランス革命は、ロベスピエールの恐怖政治から、ナポレオン独裁へとひきつがれた。
 民主政治は、独裁の一手法にすぎず、自由は、他人の自由を奪う自由でしかなかった。そして、自由と平等のフランス革命の「人権宣言」から女性と奴隷が除外されていた。
 民主主義は、人民による権力の奪取だが、権力を握ったのは、人民ではなく新たに登場してきた独裁者だった。
 多数決の民主主義は、旧ソ連のボリシェヴィキ(多数派)や中国、北朝鮮の一党独裁、あるいは、ヒトラーをうんだワイマール憲法をみればわかるように多数派の政治的暴力で、大きな制度欠陥をかかえていた。
 この欠陥だらけの民主主義に対抗したのが、自由主義だった。
 民主主義は、個人の自由や尊厳を侵さずにいないというのである。
 ヨーロッパには、ホッブズやオルテガ、チェスタトンら、自由主義の伝統があって、衆愚政治やポピュリズム、独裁へと陥る民主主義を批判してきた。
 このとき、自由主義者によって、もちだされたのが保守思想だった。
 人間の頭のなかでひねくりまわした進歩主義(革新)よりも、歴史の試練をくぐってきた保守のほうに価値があるとしたのである。

 ヨーロッパ人は、みずからの歴史と血で、自由と平等、そして、民主主義をかちとってきた。民主主義(デモクラシー)に限界があることを最初に知ったのもヨーロッパ人で、かれらは、自由主義(リベラル)を立てて、中庸をもとめた。
 ちなみに、左翼がリベラルを騙るようになったのは、旧ソ連崩壊後、共産主義や社会主義を名乗りにくくなったからで、詐称である。
 本来の自由主義は、民主主義の独断専行を防ぐためで、もともと、多数決の民主主義は、全体主義なのである。
 一方、自由主義は、民主主義の制限をうけて、個人の放埓さにブレーキをかける。
 民主主義と自由主義は、相互的にはたらいて「個と全体」の矛盾をみずから中和しようとするのである。

 自由と民主主義の兼ね合いをずたずたにしたのがルソーだった。
 曰く「人間は自由なものとして生まれた。しかし、いたるところで鎖につながれている」という名調子で、革命分子を扇動した。人間が不自由で不平等なのは私有財産をもったせいだ、自然に帰れ」と。そして、ホッブズの「万人による万人の戦争」をこう批判した。人間は本性に《憐憫の情》をそなえているので、人々は、助け合って、仲よく暮らす。したがって、戦争にはならない。
 なんというふざけた楽観論であろうか! 
 さらにアジテーターのルソーはこう煽った。「人々が不自由、不平等になったのは、私有財産をもったせいである。人間が完全なる自由や平等を手に入れるには、人民が主権を有する人民政府をつくらなければならない」
 フランス革命を批判したのが、西洋における保守の鑑とされるエドモンド・バークだった。そして、ルソー主義を批判したのが人間は社会的な動物≠ニ喝破した近代科学の祖、オーギュスト・コントだった。
 コントは、愛を原理に、秩序を基礎に、進歩を目的にする「人類教」を説いた。これは、ルソーの「市民宗教(『社会契約論』)」に対抗したものだった。
 コントがもとめたのは、人間の頭でこねくりまわした理屈ではなく、モラルだった。
 このモラルは日本の国体にあたる。善と徳性、家族愛的結束が、日本という国家の繫栄や安定、文化興隆の源泉となっている。
 ところが、多くの日本人は、日本が、歴史的遺産を継承する伝統国家であることの自覚にとぼしい。
 そして、戦後、アメリカ民主主義にとびついて、モラルを破壊してきた。
 アメリカ製の日本国憲法には、自由や平等、人権が天からあたえられたかのように書かれている。わずか9日で、日本国憲法をつくったGHQの若きニューディーラーは、左翼というより、ルソー主義者だったのである。
 そして、戦後、日本人は、世界に類のないルソー教の信者となった。
 日本人は、自由を好き放題にふり回すが、表現の自由には、表現の自由から身をまもる自由もあることを忘れている。アメリカの自由は、じぶんの生命はじぶんでまもる自由の銃℃ミ会で、南米は、リッチになるには手段をえらばないギャング社会である。
 モラルなき自由や平等、民主主義が、いかに危険でおろかなものか、ルソー熱にうかれた日本人には永遠にわからないのである。
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2021年09月19日

 天皇と保守主義5

 ●民主主義と自由主義の相克
 自民総裁選で、河野太郎が石破茂に支援をもとめ、くわえて、小泉進次郎が河野支持にまわったことから、一部マスコミはリベラル政権誕生か≠ニいう耳目をひくキャッチフレーズを立てた。
 女系天皇容認の河野が首相で、安倍・麻生の天敵、石破が幹事長、脱原発の進次郎が官房長官では、なるほど、リベラル政権である。
 細川連立政権の「政治改革関連4法案」に賛成して離党、西岡武夫らと共に改革の会を結成した(1993年)石破や、敵基地攻撃能力の保有に否定的な河野、国家の利益より人類の理想が大事な進次郎らがもっていないのは、国体観や国体観、歴史観だけではない。
 保守という、自民党員にとって、もっとも大事な資質を欠いている。
 総裁選で、河野の対抗馬とされる岸田文雄は、民主主義の政治をすすめると宣言する一方で、保守主義について、寛容の精神をあげた。
 だが、保守は、歴史を継承することであって、それ以外のなにものでもない。
 人間の理性は、有限なばかりかまちがうのが常である。したがって、歴史の叡智を重く見て、改革は、慎重に、漸進的にすすめられるべきである。歴史を継承することは、温故知新なので、新たに学ばなければならないのである。
 岸田が「寛容の精神」を強調したのは、大衆の民主主義に、個人のリベラリズムを対比させてのことと思われる。
 大衆化して、劣化する民主主義にたいして、良識やよき習慣、歴史の叡智に立って対抗するのがリベラリズムである。
 それが「多数派が少数派をみとめる寛容性と多様性」(オルテガ)で、民主主義という大衆の反逆が、個人の自由というリベラリズムによって、中和されるというのである。
 このことからも、民主主義が政治の論理で、自由主義が個人の信条とわかる。

 だが、旧ソ連崩壊後、自由主義は、左翼の隠れ蓑になった観がある。
 歴史の叡智や寛容の精神どころか、日本の左翼は、リベラル(自由主義)をカサに着た反国家と反伝統のリバタリアン(暴走する自由主義者)となった。
 アメリカが、大恐慌(1930年)から立ち直ったのは、第二次世界大戦とルーズベルトの社会主義的なニューディール政策のおかげだった。
 共和党マッカーシーの赤(共産党)狩り≠ニ冷戦がなかったら、アメリカは、旧ソ連の陰気な共産主義にたいして、陽気な共産主義国家になっていた可能性もあった。
 民主党ルーズベルトが、スターリンの盟友で容共主義者(ほぼ共産主義者)だったことは広く知られている。それだけではない。民主党には、産業別労組(CIO)や「反戦・反ファシズム連盟」の影響下にある人々や1950年に非合法化されたアメリカ共産党の元党員らも大挙してくわわっている。
 アメリカには、戦争を好む保守的な共和党は悪≠ナ、反戦平和のリベラルな民主党は善≠ニいう国民的な思いこみが根強い。若者を戦場に送らないと公約したウソつきルーズベルトの人気は上々で、四選(1933〜45年)をはたしたほどである。

 日本の左翼が、リベラルを名乗るのは、左翼色の濃い「アメリカ民主党」を真似てのことである。
 だが、欧米のリベラルと、日本のリベラルは、まったくの別物である。
 欧米のリベラリズムは、考える自由で、なにをやってもよいという自由ではない。個人の心は、国家から自由というほどの意味合いで、この個人の自由は「万人の戦争(ホッブズ)」をひきおこさずにいない。他者もまた自由をもっているからである。
 このとき、要請されるのが、万人の利害を調整する国家で、国家を運営するのが政治である。現在、民主主義に代わる有効な政治手法はない。民主主義は多数決である。政治の世界を生きるヒトは、したがって、民主主義の枠組みを生きるほかない。
 民主主義では、多数派が少数派が切り捨てる数の暴力が横行する。
 だが、実際は、議論の段階で、双方が歩み寄って、利害を調整しあう。
 オルテガが、寛容の精神といったのは、多数派が少数派を許容するリベラリズムをさしてのことだったのである。
 欧米では、個人のリベラル(自由主義)と国家のデモクラシー(民主主義)が明確に区別されている。
 自由主義は、個人のもので、投票するのは、個人の自由である。
 だが、民主主義は、国家のもので、選挙の多数派から国家理性がうまれる。
 鈴木宗男が北方領土問題にからめて「ロシアも民主主義国家」とのべたものだが、ロシアや香港に、民主主義の前提となる自由主義があるだろうか。

 一方、日本には、リベラルだけがあって、民主主義がない。
 二言目には「民主主義は人類の最高英知」といいながら、日本人には、民主主義をまもる気がさらさらない。民主主義は多数決のことである。民主主義をまもるというなら、議会の評決を重んじなければならない。1952年、戦犯という用語は、戦勝国の呼び方だとして、国会決議で正式に撤回された。だが、マスコミは、いまも戦犯ということばを連発している。
 新コロナウイルス対策で、世界各国がきびしい規制を敷いたのは、政治的な判断で、国会決議にもとづいている。
 一方、反対デモは、自由主義で、それを許容するのがリベラルの寛容の精神である。
 欧米では、このように、国家の民主主義と個人の自由主義が、二元論的に、別々にうごく。
 ところが、日本では、マスコミ労連(MIC)や弁護士連合会がコロナ特措法を憲法違反と騒ぐ。国会決議にもとづくコロナ特措法が、憲法の保障する「集会の自由」「報道の自由」「表現の自由」「国民・市民の知る権利」を侵害するというのである。
 そして、憲法上、政府に、ロックダウンをおこなう権能がゆるされていないと主張する。
 憲法上の自由概念をもって、国家運営の基本概念である民主主義を縛ろうというのは、赤ん坊が親を養育しようというようなものである。この錯綜の根本にあるのがルソー主義で、人間は、うまれながらにして自由で平等などというウソをばらまいてきた。
 日本は、民主主義の国ではなく、左翼によって、民主主義が殺された国だったのである。

 日本のリベラルが、国体や国家、歴史に否定的なのは、保守すべき絶対的な価値をみとめないからである。
 それどころか、伝統的な価値を、個人の自由を奪う、支配的な権威主義(パターナリズム)とみる。
 明治以来、日本人は「個人の自由」という概念をとりちがえてきた。
 本来の自由は、身体や行為にかかる自由で、拘束や捕縛、禁止や制限がないかぎり自由で、リバティの語源も解放である。
 ところが、福沢諭吉がリバティを自由と訳して「自らをもって由となす」としたため、自由が「自らの意思にもとづいてふるまう」と曲解されて、身体と行為に限定されていた自由が、心の自由にまで拡張された。
 心の自由をまもろうとするのは、身体的・物理的自由のリバティではなく、精神的・制度的自由のリベラリズムだが、意味があまりにも多岐にわたって、いまや、だれも、リベラルの意味を定義できないほどになった。
 リベラリズムのなかで、怪物化したのが、リバタリアニズムである。
 明石家さんまの『ホンマでっかTV』で人気の池田清彦(早稲田大学名誉教授)は、過激なリバタリアン(完全自由主義者)として知られる。自民党には罵詈雑言を浴びせかけて、勝手きままな自由をもちあげ、選挙では、共産党以外、投票の選択肢はないと言い切る。
 それが、日本の思想を混乱させている元凶で、リバティにもとづく個人とデモクラシーにもとづく国家の区別を、大学教授たるものがつけられないのである。
 ちなみに、リバタリアンは、子どもとの性行為や児童買春、児童ポルノ禁止までを自由の侵害とみる。マスコミ労連や弁護士連合会が、国民の健康と生命をまもるコロナ特措法を自由の侵害(憲法違反)とみるのも、同じ図式で、日本のリベラルは、じつは、リバタリアンだったのである。
 次回も、総裁選にからめて保守と革新≠ィよび自由主義と民主主義≠ノついて、議論を深めていこう。
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2021年09月10日

 天皇と保守主義4

 ●儒教は革命思想、日本精神はうたごころ
 日本の思想には、二つの流れがあって、一つは外来文明、もう一つは、土着文化と国風文化である。
 たとえていえば、漢字とひらかなである。この二つの流れが二元論を形成して、多様性と奥行きをもった日本という国のかたちがうまれた。
 国体と政体、権威と権力、文化と文明も二元論である。
 それだけではない。多神教と一神教が共存してきた日本では、宗教も、二元論、多元論的な構造になっている。
 なにしろ、縄文以来のアニミズム(自然崇拝)や神道と、外来の儒教や仏教が、聖徳太子の時代から現在に到るまで、明治の廃仏棄釈を例外として、争うことなく、棲み分けてきたのである。
 ここでいう多神教は、八百万の神々の神道で、一神教というのは、創始者が存在する創唱宗教のことである。
 釈迦による仏教、孔子による儒教、キリストによるキリスト教、マホメットによるイスラム教が創唱宗教で、このなかに、理神論もくわえられる。
 理神論というのは、啓蒙主義や合理主義のもとづく信仰で、奇跡や啓示、預言などは信じないが、絶対神の存在は信じる。
 神が、科学や合理主義にとって代わっただけで、結局、これも、一神教の一元論である。
 自由や平等、民主主義も理神論という宗教で、教祖様は、ルソーである。

 日本のアニミズムと自然崇拝、神話や神道は、一神教の一元論とは、根本的に異なる。
 経典、偶像や戒律がないというのは、枝葉末節のちがいで、決定的にちがうのは、一神教は観念で、一方、多神教はうたごころという点である。
 日本のうたは、最古の万葉集(20巻4500首)から勅撰の古今和歌集や新古今和歌集(二十一代集)まで多くにわたるが、すべて、自然崇拝と人間のまごころ(あはれやをかし)をうたっている。
 それが、自然崇拝や神道の神髄で、心という価値は、うたでしかいいあらわすことができない。
 それが和歌だが、季語をもつ俳句も、自然が主語となっている、世界に類がない自然崇拝の詩歌である。
 中江兆民は、日本に哲学者はいないといったが、西洋に、柿本人麻呂や山部赤人、山上憶良、大伴家持、在原業平、紀貫之に匹敵する歌人はいない。
 しかも、日本には、天皇から遊女、読み人しらずまで、おびただしい歌人がすぐれたうた(小倉百人一首など)をのこしている。
 日本に、自然崇拝という、大宗教があったからなのである。

 だが、中世以降、日本で有力になったのは、うたではなく、儒教の一学派である朱子学だった。
 俸禄や所領でうごく武士を、神道的な秩序や天皇の権威だけでおさえつけることができなくなったからだった。
 朱子学は、中国が異民族に支配された征服王朝(遼・金/10〜13世紀)の産物で、絶対的な主従関係や君臣の堅固なむすびつきを理屈だけでつくりあげたイデオロギーだった。
 他民族に支配されていた当時、中国では、強烈な観念論をとおして、忠孝の精神や身分秩序、礼節などを叩きこまなければならなかったのである。
 藤原惺窩や林羅山、新井白石らによって体系化された朱子学が、徳川幕府によって官学化(寛政異学の禁)されたのは、体制の維持にこれほど都合のよい思想はなかったからである。
 ちなみに、明治天皇や水戸光圀の崇敬が篤く、吉田松陰や坂本龍馬、高杉晋作、西郷隆盛らの精神的拠り所となった楠木正成も、朱子学の信奉者だった。
 河内の一豪族ながら、観心寺で仏典や朱子学を学び、主君に弓を引く下剋上を否定して、のちの江戸時代に花ひらく「義」という考え方を立てた。
 楠木の菩提寺である観心寺の金堂の外陣造営を命じたのが「建武の新政」の後醍醐天皇で、正成が「七度生まれ変わって朝敵を倒す(「七生報国」)」と誓った主君であった。

 だが、江戸の儒学は、朱子学一辺倒ではなく、荻生徂徠が朱子学を虚妄の説としたのをはじめとして、山崎闇斎は垂加神道を、貝原益軒は人間学(養生訓)を立てた。
 朱子学批判は、さらに、山鹿素行の「聖学」、伊藤仁斎の「性即理」とつづき、中江藤樹にいたっては、知行合一の「陽明学」に転じて朱子学をひっくり返した。
 幕末、陽明学者の大塩平八郎は、乱をおこして、幕府に反逆した。陽明学に理解が深かった吉田松陰や渡辺崋山、佐久間象山、横井小楠らも、体制改革にのりだして、獄死や自殺、暗殺という悲劇に遭っている。
 儒教を中心に国学や史学、神道などを動員して独自の国家観をつくりあげたのが水戸学だった。原点は『大日本史』編纂の水戸藩徳川光圀で、水戸学から藤田東湖や会沢正志斎ら多くの尊皇思想家がでている。正志斎に心酔したのが吉田松陰で、松下村塾の長州から高杉晋作ら多くの尊王攘夷の志士が巣立っていった。
 だが、水戸学は一種の狂信であった。「薩摩藩邸焼討」のきっかけとなった薩摩藩による江戸市中の火つけ強盗殺人、長州藩が天皇拉致をはかった「禁門の変」、百人余が斬首刑となった水戸藩の天狗党事件など、薩摩や長州、水戸がテロリスト集団と化したのは、儒教=水戸学が革命思想だったからである。
 楠木正成が、テロリズムの偶像になったのは「七生報国」の天皇崇拝主義者だったからで、正成が、戦前まで、天皇崇拝のヒーローだった一方、足利尊氏は悪役の逆賊とされてきた。

 徳川光圀が大きな影響をうけたのが北畠親房の『神皇正統記』だった。
 親房は、南北朝時代の南朝公卿で、天地開闢から神武天皇即位までの神話と神武天皇から当代の後村上天皇に至る各天皇の事績を綴って、南朝の正統性を説いた。
 特徴的なのは、南朝の正統性を説く一方で「徳がない君主の皇統は断絶して皇統の正統性が別の系統に移る」という易姓革命説をとっていることである。
『神皇正統記』に並ぶ日本の二大歴史書に慈円の『愚管抄』がある。
 愚管抄においても、神武天皇から順徳天皇にいたる歴史をのべながら儒教の「五常」の一つ、智にもとづく道理論や世直し論、易姓革命的な終末論「百王説」にふれている。「神武天皇の御後、百王ときこゆる、すでにのこりすくなく八十四代にも成りにける」
 百王説は、中国の六朝時代、梁の宝誌和尚の「野馬台詩」にもとづいている。
 当時「百王説」や易姓革命説が流行したのは、天皇の権威によって正統性をあたえられる権力という、鎌倉幕府以来の「権力構造」が崩壊しはじめたからである。
 それが、後醍醐天皇の「建武の新政」から南北朝時代、尊氏や義満らの足利時代、そして、応仁の乱と戦国時代へとつづく暗黒の中世である。
 加茂真淵がうた(万葉集)のなかに日本人の心があるとして、本居宣長が外来思想たる漢意(からごころ)をとりのぞいたところに大和心があるとしたのが、江戸の中後期だった。
 理屈で白黒をつけるのではなく、わからないものは、わからないままにしておくと、やがて、わかるようになる。賢(さかし)ら決着を急ぐからまちがうのだと宣長はいう。
 うたは、絶対的にして、永遠である。
 だが、理屈は、ああいえばこういう相対論で、一過性のものでしかない。
 儒教や一神教的な価値観がまちがえをくり返してきたのは、なんでも理屈で片をつけようという理神論に立ってきたからである。
 人々がうたで心をかよわせ、祈りで国を治めてきた祭祀国家の日本は、縄文の自然崇拝や多神論を現在に継承する、世界で唯一の伝統国家といえる。
 民主主義がすべてという日本人は、じぶんの国の成り立ちをもっとよく知るべきなのである。
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2021年09月05日

 天皇と保守主義3

 ●儒教は革命思想、日本精神は保守思想
 日本的精神というと、多くの人が「武士道」や忠孝の精神、義理人情などを思いうかべるはずである。
 だが、日本精神の原点は、古事記や万葉集、源氏物語にあって、儒教という外来思想、異文化にもとづいた忠孝の精神や「武士道」にあるのではない。
 武士道は「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」の七つといわれる。
 すべて儒教の価値観で、神話(古事記)や詩歌(万葉集)など、古代日本の文化に、そんな観念は見当たらない。
 日本にあるのは、こころであって、観念ではないのである。
 日本のこころを掘りおこしたのが江戸時代に興った国学である。賀茂真淵と本居宣長の名が知られる。賀茂真淵は、万葉集の研究家で、万葉集の男性的でおおらかな歌風「ますらおぶり」をたたえた。
 ちなみに「たおやめぶり」は、古今集以後の女性的な歌風をさす。
 本居宣長は、真淵の弟子で、師のすすめで「古事記伝」44巻を完成させたほか源氏物語を研究して「もののあはれ」という日本人の感性を明らかにした。
 日本人の精神は「ますらおぶり」や「たおやめぶり」など人間の心が素直にあらわれた詩歌や文学にあって、そこに、ものふれてこころがうごく「もののあはれ」や「大和魂」があるという。
 ちなみに宣長の弟子を自称する「平田神道」の平田篤胤は、宣長とは面識がなく、宗教観もかけ離れている。宣長が多神教的なのにたいして、平田は一神教とりわけプロテスタント的で、平田神道は、狂気の廃仏毀釈の理論的根拠となった。

 宣長は、天命論や善悪論をふり回す漢意(からごころ)≠きらった。
 漢意というのは、儒教のことで、儒教は、理屈や観念、形式ばかりで、人間らしい真心(まごころ)≠ニいう正直さに欠けるという。
 ところが、日本精神を担ったのは、賀茂や宣長のまごころではなかった。
 大陸からつたわったからごころのほうで、日本は、中世から、まごころの感性よりも、からごころの観念論が大手をふる国になって、それが、現在もつづいている。
 昔は、忠義忠君や滅私奉公、現在は、民主主義や平和憲法と、相変わらず、観念論のトリコになっているのである。
 国学(まごころ)よりも、儒教(からごころ)が幅をきかせたのは、政治に利用しやすかったからである。
 忠孝の精神や身分秩序、礼節を重んじた朱子学(大義名分論)は江戸時代の封建体制をささえ、幕末には、尊王論になった。そして、昭和の軍国主義では現人神信仰≠ヨ転じて、第二次大戦の敗戦と国体の危機をまねいた。

 宣長の「敷島の大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」は、政治ではなく、文化である。
 日本人は、うたをうたう民族で、日本ほど、古典の歌集が残っている国はない。
 かつて日本が、うたや文化、神話的秩序で国家を治めることができたのは、祭祀国家だったからである。
 祭祀国家においては、豪族が握っていた権力が、祭祀王である天皇の権威の下におかれる。
 その象徴が古墳文化である。自虐史観の日本の歴史家は、無視するが、世界の歴史家は、世界史に例のない数千の古墳群(前方後円墳)を、日本が祭祀国家であったことのシンボルと見る。
 それが、弥生末期から古墳時代、飛鳥時代、710年の平城京遷都の長きにわたる大和時代だが、日本の歴史家は、大和朝廷や大和時代という名称を教科書から削ってしまった。
 儒教が日本に入ってきたのは5世紀頃(古事記)で、仏教よりも古い。
 聖徳太子は、仏教を宗教、神道を政治、儒教を道徳の規範と定めて、国家の安定をもとめた。それが「和の精神」で、その精神が十七条の憲法にみごとにあらわされている。
 天皇中心の政治は、大和朝廷の豪族政治から律令体制、摂関政治、院政(上皇政治)をへて平清盛(太政大臣)までつづき、政治体制は、神道・神話的な秩序の下におかれてきた。
 驚くべきは、国内においては、磐井の乱やこの乱を治めた物部氏が蘇我氏に討たれた丁未の乱のほか、大きな権力闘争がなかったことである。
 ところが、保元の乱・平治の乱以後、武士が権力を握ると、神話的な秩序に代わる強烈な支配イデオロギーがもとめられるようになってきた。
 天皇という歴史的、宗教的権威だけでは、武士による権力構造が維持できなくなってきたのである。

 このとき、もちだされたのが、儒教とりわけ後世に興った朱子学だった。
 ヨーロッパが、王権神授説を立てて、国家を樹立したようなもので、朱子学を立てて、武家中心の国家体制をつくろうとしたのである。
 だが、儒教は、天命(理と気)に適わない王なら別の王を立てるという革命思想(易姓革命)で、神話的秩序と歴史の連続性に拠って立つ天皇とは、原理も思想も異なる。
 しかも、朱子学は、中国が異民族に支配された征服王朝(遼・金時代/10〜13世紀)の産物で、侵略者であろうと、強者にはへりくだらなければならないという自虐的なものだった。
 朱子学は、他民族による支配下では、君臣の堅固なむすびつきや主従関係がうまれないので、理屈をとおして、忠孝の精神や身分秩序、礼節などをおしつけようというイデオロギーである。
 そうでもしなければ、異民族による権力構造を維持できなかったのである。
 ちなみに、忠孝のうち、日本が忠を、朝鮮が孝を重視するのは、朝鮮が母系社会で、日本が父系社会だったからである。
 事大主義も、朱子学で「事大は君臣の分、時勢にかかわらず誠をつくすのみ(春秋)」とあるように、強国によりかかることで、それが、儒教朝鮮の民族性となった。
 儒教は政治哲学とあって、革命の論理にも体制維持のイデオロギーにもなる。
 易姓革命を唱えるのが理と気の儒教で、体制を維持しようとするのが「理気二元論」の朱子学、そして、体制に反逆するのが「理気同一」の陽明学である。
 日本で、儒教的価値が、過去、政治的混乱をひきおこしてきたのは、儒教が革命思想だったからである。
 したがって、神話的世界観と歴史の連続性の上に立っている日本精神=天皇と摩擦をひきおこさないわけはなかった。
 日本で、二大史書といわれる『愚管抄』と『神皇正統記』の儒教的な価値観が、中世から近世、近代にいたるまで、日本の政治に多大な影響をおよぼしてきた。
 次回は、そこに焦点を絞って、日本の政治史をふりかえってみよう。

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2021年08月29日

 天皇と保守主義2

 ●保守は歴史主義、革新は理性主義
 保守と革新、右翼と左翼は、相対論である。
 保守や右翼は、革新や左翼のあとからうまれたからである。
 近代になってからのことで、日本に左翼が登場したのは、ロシア革命5年後の大正11年で、コミンテルンの日本支部として、日本共産党が設立されたのが最初だった。
 コミンテルンは、レーニンがつくった共産党の国際組織で、大正デモクラシーは、国家主義にたいする反発と、共産主義へのあこがれがないまぜになった大衆運動だった。
 国家主義との対比でいうなら、保守は歴史主義で、革新は、理性主義ということができる。
 保守といえば、林房雄や福田恒存、林健太郎、会田雄二ら諸先達の名が思いうかぶ。
 いずれも、歴史主義者で、理性主義にたいするきびしい批判者であった。
 西洋で保守主義者といえば、だれもが、エドマンド・バークの名を挙げる。
 革命批判の書(『フランス革命の省察』)が保守主義の聖典とされているので保守主義者とされている。
 ところが、政治家としては、イギリス下院で、長年、保守党と対立する自由党(ホイッグ党)の幹部をつとめた自由主義者だった。
 バークの主張は、文化や習俗、制度の基礎は、歴史にあって、時間の試練に耐えてきた伝統的な精神や慣習だけが普遍性をもつという歴史主義である。
 歴史は、絶対的で、相対化されない。バークの考えが保守主義と呼ばれるのは、歴史=絶対主義に立っているからである。

 歴史や国家、国体や天皇は、絶対的な存在で、相対化できない。
 ちなみに、右翼の草分けといわれる頭山満(玄洋社)とその弟子の内田良平(黒龍会)が立っていたところも、大アジア主義に立つ国家主義者で、欧米の植民地主義からアジアの人民をまもるには国家が盤石でならなければならないとする絶対主義である。
 絶対というのは、比較するものがないことである。そして、相対は、比較の上に成り立つ価値で、都合や条件によって、変動する。
 犬養毅や広田弘毅らの政治家から中江兆民や吉野作造、大杉栄らの思想家と親交があった頭山は、朝鮮の金玉均や中国の孫文、インドのビハリ・ボースやベトナムのファン・チャウらアジアの独立運動家を支援した。
 犬養から、しばしば、入閣をもとめられたが、応じなかっただけではなく、大アジア主義の立場から、満州事変に反対を唱えた。
 頭山にとって、政治は、相対的な価値でしかなく、一方、運動は、絶対的な価値だったのである。
 黒龍会の内田良平は、朝鮮独立運動やフィリピン独立軍の支援、中国革命の孫文への援助、ロシア偵察の「シベリア横断」などの行動力が内外に聞こえていた。
 頭山や内田を、保守や革新、左翼や右翼のカテゴリーで括ることはできないのは、条件によって立場を変える相対論者ではなく、つよい信念をもった絶対主義者だったからである。
 天皇も、歴史に根をもった絶対で、神武天皇が即位された紀元前660年を紀元節(日本書紀)としたのも、イギリスがイギリス革命(ピューリタン革命や名誉革命)をふくめて、自国の歴史や伝統を完全肯定するのも、絶対主義である。
 中国が、天安門広場に毛沢東の肖像が掲げるのも、絶対主義に立ってのことで、中華人民共和国を建国(1949年)した毛沢東は、中国の歴史において絶対的な存在なのである。
 
 一方、理性主義は、知識や学習、頭のなかでこねくり回した想念だけが真実とする思いこみで、自由や平等が比較論で、民主主義にいたっては、多数決という究極の相対論にすぎないことに気がついていない。
 啓蒙主義や進歩主義、近代主義や人間中心主義は、理性にたいする根拠なき信頼で、歴史による試練および全体性にたいする謙虚さを欠いている。
 理性は、矮小で、多くの欠陥を抱えている。そして、理性の動物である人間は、エゴをふり回して、際限なくまちがいをくり返す。理性や進歩、自由や平等にたいする懐疑という赤信号、交通ルールという規制、自重というガードレールがなければ、民主主義は、暴走して、愚民化と野蛮化へむかうのである。
 伝統国家では、社会の矛盾や不条理、対立は、歴史の知恵や経験則、徳性によって調和され、克服される。
 保守主義は、理性や原理、イデオロギーではなく、習慣や習俗、日常性などの時間的な積み重ねであって、文化は、歴史の内部に蓄積される。
 日本は、伝統国家で、自由や平等、人権、民主主義などの啓蒙主義の洗礼をうけていない。
 にもかかわらず、欧米と肩を並べることができたのは、民主主義という共通項があったからである。じじつ、欧米の立憲君主制や議会民主主義と天皇の君民共治は、明治維新(1853年)から日英同盟(1902〜1922年)にいたるまで破綻なく共存していた。
 
 日本人は、民主主義が西洋人の最高英知で、日本には、民主主義に匹敵する文化や政治哲学がなかったと思いこんでいる。
 おおまちがいで、個人の自由や権利、民主主義は、暗黒の中世ヨーロッパにおいて、人類の理想をもとめたものなどではなく、権力と宗教の二重支配から抜け出すための唯一の手段だった。
 そのために、おびただしい血が流されてきたのは、世界史にしるされたとおりである。キリスト教と絶対王政のもとで、虫けらのようにあつかわれていた人民が、人間として復活するには、ルネサンスから宗教戦争、啓蒙主義、市民革命にいたる千年の歴史が必要だったのである。
 一方、日本で、民が虐げられなかったのは、民の代表たる天皇が、権力者に権力の正統性を授ける「君民共治」の国だったからである。
 ヨーロッパでは、民が、ローマ教皇庁と王権の二重支配に苦しんだ。
 ところが日本では、権力が天皇の権威の下にあったため、民の活動が権力によって、妨げられることはなかった。
 ヨーロッパでは、文化は、王族や貴族のためのもので、民や奴隷は奉仕する一方だったが、日本では、衣食住の文化は、すべて、民からうまれた。富んでいたのも商人や豪農で、支配階級の武士の多くは平民から借金を負っていた。
 日本は、啓蒙主義を体験しなくても、しつけや伝習、修身や徳などの教養によって、自由や平等、人権、民主主義以上の知恵をえることができた。
 ヨーロッパの政治が、旧体制(アンシャン・レジーム)の破壊と革命をめざしたのにたいして、日本の政治がまもることだったのは、日本は、国家の前に国体という文化的な器をもっていたからだったのである。
 この国体を、民主主義や憲法におきかえようとするのが左翼で、政治手法にすぎない民主主義、法にすぎない憲法を、文化であるようなデマゴギーをふりまわしている。
 次回は、日本史をふり返って、天皇と保守思想のかかわりをもっと深くみてゆこう。
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2021年08月23日

 天皇と保守主義1

 ●国防意識と危機管理
 日本には、もともと、保守主義という思想も、右翼という政治勢力も、存在しなかった。
 クニをまもることが政治だったからで、日本では、クニの象徴である天皇の権威が2000年の長きにわたってまもられてきた。
 その意味で、日本の政治は、保守思想そのもので、とりたてて、保守主義とあげつらうまでもないのである。
 日本に、古くから、国をまもるという概念があったのは、建国神話(大国主神の国譲りや天孫降臨)によって、国体観念ができていたからである。
 インドなど列強の侵略をうけたアジアは、王族や領主らが領有する地域でしかなく、国家の体裁をととのえていなかったばかりか、国家という概念すらできていなかった。
 白村江の戦い(663年)で、日本・百済軍は、唐・新羅に敗れた。
 唐・新羅軍による日本侵攻の危機感を深めた天智天皇は、対馬や九州北部の大宰府、瀬戸内海沿いの西日本の各地に防衛網を構築して、防人(防衛軍)を配備した。さらに、四年後、天智天皇は、都を難波から内陸の近江京へ移して防衛体制を完成させた。
 二度におよんだ蒙古襲来では、鎌倉幕府の執権、北条時宗が武士団を率いて蒙古軍と激戦をくりひろげ、内陸への侵攻をくいとめた(文永の役1274年/弘安の役1281年)。
 二度の蒙古襲来を撃退した時宗は、心労が重なって32歳の若さで死亡するが、博多湾岸にいまに残る石塁を構築するなど、国防を強化して、鎌倉幕府の支配権を拡大、挙国体制をつくりあげる大きな功績を残した。
 国家防衛は、最大級の危機管理で、日本の危機管理能力の高さは、天智天皇や北条時宗の歴史上の事跡からも十分うかがえるのである。

 ところが、現在、日本は、国家防衛が悪となるような平和主義の下で、危機管理能力をはなはだしく劣化させている。
 世界が、民主主義と国家主義を両立させているのにたいして、日本は、国家を、民主主義と敵対するものととらえているのである。
 新型コロナウイルスの世界的大流行によって、その民主主義神話≠ェゆらぎはじめている。
 民主主義の国、アメリカや欧州各国で、パンディミックがおきる一方、欧米型の民主主義がとりいれられていない中国が、唯一、新型コロナの封じ込めに成功したからである。
 だからといって、民主主義にたいして、悲観的になる必要はすこしもない。近代において、民主主義は、絶対的だからで、欧米でも、マスク着用やロックダウンに反対するデモはあっても、政府の対応が手ぬるいという批判はほとんど聞かれない。イギリスでは、サッカー欧州選手権の応援で、6000人以上の観客が感染したが、イギリス政府には打つ手がなかった。
 民主主義や「個人の自由」は、近代の前提条件で、他のものと代替えがきかないのである。
 世界の国々は、個人の自由を侵害することなく、国民を、新型コロナウイルスから防衛するという困難な戦略を迫られている。
 それには、通常の医療体制を、危機管理型にきりかえなければならない。
 危機管理型というのは、戦時態勢のことで、コロナ防衛は戦争なのである。
 中国が、新型コロナウイルスの制圧に成功したのは、コロナウイルスを目に見えない敵と見立てて、臨戦体制を敷いたからで、中国の武漢で、わずか数週間で、続々と巨大な入院治療施設を完成させたことはよく知られている。
 日本と比較して、感染者数が30倍も多いアメリカで、医療崩壊がおきていないのも、軍事態勢を敷いているからである。
 野戦病院をふくめて、新しい病棟が続々と建設されて、軍医のほか、医療の免許や資格がなくとも医療行為ができる衛生兵らも動員されている。指揮をとっているのも軍人で、感染症の危機管理を担う「疾病対策予防センター(CDC)」でも、軍人が中心的な役割をはたしている。
 アメリカ統合参謀本部(JCS)は、国益を確保する要因として4つの柱を掲げている。外交と情報、軍事、経済の四分野だが、新型コロナウイルス対策は、そのなかの軍事にふくまれる。

 感染症危機管理は、未知なる敵(病原体)との遭遇で、戦争なのである。
 政治学者のクラウセヴィッツは、戦争の本質は、不確実性にあるとした。
 不測の事態をかかえる不確実性を克服するには、戦場に身をおいて、的確な情報のもとで、変動する事態に臨機応変に対応しなければならない。
 厚労省が国民や自治体にお願いをして回るのは、感染症「対策」というただの行政手続きであって、軍事オペレーションの「危機管理」とは程遠い。
 新型コロナウイルス対策には、戦時体制の統合本部が必要で、指揮をとるのは、役人や政治家ではなく、危機管理の専門家でなければならない。
 ところが、日本は、危機管理にともなう国権の行使を民権の侵害とうけとめる傾きがつよく、臨戦体制を敷くことができず、政府主導の事態対処行動すらつくることができない。
 マスコミ労組(日本マスコミ文化情報労組会議)や日本弁護士連合会は、コロナ特措法が憲法違反だと声明をだした。「集会の自由や報道の自由、国民の知る権利を脅かし、基本的人権の侵害につながりかねない」というのである。
 国家あげての新型コロナウイルス対策が、民主主義や人権の侵害にあたるとするマスコミが、自民党政権を叩きに叩いて菅政権の支持率が低下、五大都市の一つである横浜市長の椅子がとうとう共産党に奪われた。
 日本共産党は、五輪反対以外、新型コロナウイルスにたいする対策をなに一つもっていない。
 マスコミや日本医師会らは、医療崩壊の危機を煽るが、政府は、新たな病院をつくろうとも、人的な医療体制を増強しようともしない。
 医療体制は、厚労省の許認可の範囲にあるので、手が出せないのである。
 臨戦態勢を敷けない日本は、国家理性も危機管理能力も失って、コロナ禍の国際社会を漂流するばかりなのである。

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2021年08月08日

 天皇と民主主義 その28

 ●世界戦略が不在だった昭和軍国主義
 明治時代の初期、日本にまだ正気がたもたれていたのは、江戸時代の人材や文化が残っていたからで、名誉と清廉で自己を律する武士、経済と倫理を兼ね備えた商人や豪農・自作農、あらゆる職種で腕をみがきあげた職人など江戸の遺産の上に明治という時代がのっていた。
 例外が政治で、明治政府は、文明開化という名目の下で、伝統文化から西洋文明への乗り換えをはかった。日本の道義や礼節、伝統を捨て、西洋の合理や物質主義、功利へ走ったのである。
 その結果、日本は、国家的なプランを失ったガリガリ亡者の国となった。
 天皇が国の弥栄を祈る祭祀国家ではなく、天皇が軍服を着て軍馬にまたがる帝国主義国家に変貌したのである。
 明治維新が、帝国主義へ変質していった最大の要因は、天皇に統治権と統帥権を付与した大日本帝国憲法にあった。
 第一条(「大日本帝国ハ天皇之ヲ統治ス」)および第四条(「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」)で統治権をゆだね、そして第一一条(「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」)で、陸海軍の統帥権をあずけた。
 日清・日露戦争には、列強による帝国主義や植民地主義という時代背景があって、戊辰戦争が長期的な内乱へ拡大していたら、英仏や米ロの軍事介入をまねいて、日本は、インドや南アジア、清国の二の舞を踏む可能性もあった。
 だが、それも、日本が西洋の帝国主義を真似たからで、みずから招いた災いだった。
 といっても、日本が帝国主義化・軍国主義化していったのは、天皇が、統治権や統帥権をふりまわしたからではない。
 天皇大権を借りた軍部が、天皇を政治利用して、国家に君臨したのである。
 薩長が天皇を利用して、明治維新を実現させたのは、是非を別にして、1つの政治手法であった。
 したがって、維新がなったのち、天皇を本来の地位へおもどしておくべきであった。
 そして「五か条の御誓文」にそった政治をおこなっていれば、江戸の文化と西洋の文明、君民共治と民主主義が溶け合った世界一の開明的な国家になっていたと思われる。
 五か条の御誓文には「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」から「盛ニ経綸ヲ行フヘシ」「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ」「旧来ノ陋習ヲ破リ」「智識ヲ世界ニ求メ」まであって、日本が近代化を完了させた欧米と足並みを揃えてやってゆける条件や素地は十分にあった。

 1931年(昭和6年)満州事変がおきた。日露戦争に勝って、南満州鉄道の沿線に進出した日本軍(関東軍)が、突如、中国東北部に進出して、すでに滅亡していた清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を元首に立てて、1932年にあらたに満州国を建設したのである。
 これにたいして、調査団を派遣した国際連盟が日本側に不利な報告書(リットン)を採決(42対2)すると、日本は、一か月後、国際連盟から脱退する(1933年)。
 翌年の1934年、ワシントン軍縮条約を破棄した日本は、ロンドン軍縮会議からも脱退(1936年)して、国際的孤児への道をつきすすむ。
 英米が、日本の海軍力を世界第3位に釘付しようとしたのに反発してのことで、主力艦(戦艦)を対象にしたワシントン条約では、英米が5、仏伊が1・67なのにたいして、日本が3の割り当てだった。
 明治維新で、西洋化と文明開化をめざした日本が、半世紀後、世界第3位の格付けに不満を鳴らして、英米の二大強国に喧嘩を売るほど傲慢な国になったのはなぜであろうか。
 日清・日露戦争と第一次世界大戦(対独戦)の勝利によってのぼせあがったという見方もできるが、実際は、天皇を大元帥に戴いた日本軍が勝手放題にふるまった結果である。
 陸軍省や参謀本部命令、大元帥の許可がなくおこなわれた満州事変は、死刑に処される軍規違反だったが、首謀者達は処罰されるどころかみな出世した。
 満州事変をおこした関東軍は、大日本帝国陸軍の一部だが、陸軍省や参謀本部の命令系統から外れた「総軍」で、独自の判断で、軍事行動をおこすことができた。
 総軍は、関東軍のほかに支那派遣軍や南方軍、方面軍など六つあって、それぞれが独自の軍事行動をおこして、第二次世界大戦を泥沼化させていった。

 日本軍が国家戦略から離れて、勝手に行動したのは、統帥権をもった天皇に直結して、天皇の軍隊を名乗ったからで、日本軍には、陸軍と海軍、六総軍を統合する作戦本部が存在しなかった。
 天皇の統治権の下に、内閣総理大臣、閣僚、陸軍大臣・海軍大臣がおかれる一方、天皇の統帥権の下に大本営が設けられて、トップに参謀総長(陸軍)と軍令部総長(海軍)が就いた。
 天皇陛下は、大元帥でもあって、陸・海軍の最高位にまつりあげられた天皇は、軍部による政治利用の標的となった。
天皇のお気持ちを推察する≠ニいう論法によって、あるいは、統帥権の尊重という論理によって、軍人による天皇の政治利用が堂々とまかりとおったのである。
 天皇が臨席する大本営会議には、参謀総長や軍令部総長以下、軍人が参加したが、統帥権の独立によって、総理大臣以下、政府側の文官が参加できなかったばかりか、閣僚でもあった陸軍・海軍大臣は、会議に出席できても、発言権がなかった。
 大本営会議は、御前会議でもあって、陸・海軍や六総軍は、共同作戦を練るどころか、自軍の秘密がもれるのをおそれて、タテマエ論や虚言をもてあそんで、互いに騙しあった。そればかりか、ウソの発表(大本営発表)で、国民を騙しつづけた。
 統帥権という天皇大権の下で、旧日本軍は、無人の野をゆくように、自在にふるまってきたのである。

 陸・海軍や六総軍が、そっぽをむきあって、いがみ合ったのは、予算を奪い合ったからである。
 日本の国家予算に占める軍事費の割合は、1880年代から太平洋戦争終結まで、平均で5割を超え、最高時には8割にまでたっした。大蔵省が編纂した『昭和財政史臨時軍事費(1955年)』によると、国家予算に占める戦時期の軍事費の割合は、日清戦争(1894年)時に70%。日露戦争(1905年)時に82%。太平洋戦争末期(1944年)には85%にハネ上がった。
 軍部は、中国戦線の拡大(支那派遣軍)から南洋作戦(南方軍)、ノモンハン事件(関東軍)など無意味な消耗戦を展開したが、すべて、予算を分捕るための演出で、当時、戦線が縮小すると予算を削られたのである。
 海軍の真珠湾攻撃も、中国戦線拡大によって、陸軍に傾いた予算をとり返すためのもので、長野修身軍令部総長も山本五十六連合艦隊司令官も、長期的には、アメリカに勝てないと知っていた。
 だが、アメリカに一泡吹かせることはできると天皇を説得して、南太平洋に出撃していった。
 そして、原爆を落とされ、日本中の都市を焼け野原されて、300万人もの同胞を犠牲にしたのである。
 自民党憲法改正草案では、天皇が、元首に据えられている。
 日本において、天皇は、古来、象徴であって、元首にまつりあげられたのは明治憲法においてのみである。
 昭和軍国主義の悲劇が、天皇元首にあったことへの反省がない自民党の憲法改正推進本部は、あまりにも、不勉強なのである。
posted by office YM at 16:06| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする