2017年08月09日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」E

 ●宗教的宇宙観が異なる儒教と仏教、神道
 儒教の背後にある観念論を漢意(からごころ)≠ニして徹底的に批判したのが本居宣長である。
「中国には仁や義、礼など立派な教えがあるが、人々は憎みあい、戦争ばかりしているではないか」というのである。
「物の理(ことわり)は、仕舞いにみな不可思議なところに落ちこんでいくもので、陰陽も太極無極も阿字真如も、なんの役にも立たないただのお喋りにすぎない」
 儒教は、壮大なる観念論で、物事の善悪や是非、物の道理(原理・原則)をとうとうとのべ立てるが、現実や身体、日常性からは大きくかけ離れている。
 宣長は、その空理空論を漢意と称して、排除したのである。
 儒教の世界では、中国が父(大中華)で、朝鮮が兄(小中華)、そして日本は中華思想の外にある夷狄で、侮蔑の対象となる。
 韓国が日本に侮蔑と敵愾心をむきだしにするのは儒教国家だからで、日本にたいして、弟分のくせにという小中華の思い上がりが隠れている。
 韓国の未熟さ、後進性は、儒教の自己中心性によってもたらされたといってよい。
 儒教は、道徳と宗教が背中合わせの構造になっている。
 五常(仁・義・礼・智・信)にたいする五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)がそれである。
 儒教の父子関係は、祖先から末代に連続する生命の一つの局面で、一つの生命が親から子、長から幼、君から臣などの関係へひろがって、社会全体が硬直した年功階層におしこめられる。
 それもまた中華思想で、その頂点が入れ替わるのが易姓革命である。
 父子や君臣、長幼の絶対秩序によって争いがなくなるというのは、空想的な観念論で、中国は、孔子がうまれた覇権主義の春秋時代からやがて群雄割拠の戦国時代へと突入してゆく。

 儒教の生命観は魂魄≠ノつきるだろう。
 死は「魂は天へ昇って魄は地へ帰る」現象だが、儒教には、天国や地獄という考え方も輪廻転生という思想もない。
 いったん天に昇った魂は、空に漂ったあと、地にある魄(白骨/墓)へ舞い戻ってくる。
 それが招魂で、墓を参ることによって、先祖と子、孫が再会する。
 生命は先祖から末代まで直線的につながっているので、墓は、生者と死者の面会所なのである。
 仏教は、輪廻転生なので、生命が連続するという思想も、死者の墓をつくる習俗も、むろん、先祖の墓に参るなどの習慣もない。
 日本の入ってきた仏教は、仏儒習合したのちの中国仏教なので、本尊のほかの先祖霊を祀る。
 それが墓や仏壇で、仏壇のなかでは本尊と父母の位牌が並んでいる。

 儒教と仏教、神道では、死生観や宗教的宇宙観がそれぞれ異なる。
 儒教は天上と地上、地下が一体となった一元的世界で、あるのは時間の連続性だけである。
 仏教は輪廻転生がおこる多元的世界で、六道(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)のほか、六道を超越した浄土までが用意されている。
 神道は高天原と葦原中国、黄泉国の三次元、海の向こうの常世国を入れると四次元のように思えるが、実際には、高天原と中つ国(葦原中国)の二次元である。
 中つ国は高天原の反映で、高天原のようにあれかしというのが神道の理想である。
 これは、プラトンのイデア論に似ている。
 この世のことは、すべて、本質にたいする影のようなもので、見えないところに現象(影)をつくりだす大元があるというのがイデア論である。
 高天原のあるのが、実体なのかイメージなのか、それともエネルギーなのかわからないが、高天原の運動によって、中つ国(この世)でさまざまな出来事がおきる。
 天照大御神は、この世を高天原のようなところにしようと思って、ニニギノミコトを天降らせた(天孫降臨)が、実際にはそうならなかった。
 地上には、大国主命らの国つ神や災いをひきおこす荒魂、祟りなどの悪霊が跋扈していたからである。
 神道で、荒魂や悪霊(祟り)を畏れるのは、いかに神さまでも手に負えないからで、それが、神道が仏教を受容した理由の一つである。

 鎮護国家に蕃神(ばんしん/となりのくにのかみ)を借りてきたのである。
 東大寺大仏がその代表だが、8世紀後半には、こんどは、寺院が神を鎮守や守護神にするようになった。
 興福寺における春日大社がそれで、東大寺も宇佐八幡神を勧請して鎮守(手向山八幡宮)とした。
 ちなみに、七福神も蕃神で、最古の仏教説話集『日本霊異記』では、蕃神が「隣国の客神」とされている。
 神が仏(蕃神)の助けを借りたのが神仏習合で、互いにささえあっている。
 神道には絶対神がいない反面、太陽(天照大御神)はすべてを平等に照らし出すので、異神(蕃神)を寛容にうけいれる。
 仏教には荒魂(天災)や悪霊(祟り)という概念がなく、浄土は完成された世界なので、神は仏に、疫病や天災、飢饉などの災いから逃れるための法力をたのんだのである。
 ちなみに、日本では、儒教の宗教性は仏教に吸収されて、鎌倉時代以降、観念だけが支配階級にうけいれられてゆく。
 大義名分論(名称にもとづく秩序)や朱子学(天の思想や理の自己純化)、陽明学(知行合一)などがそれだが、それがやがて、武士道から尊皇攘夷思想へつながってゆく。
 次回以降、神道と仏教、儒教それぞれの発展過程をみていこう。

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2017年08月07日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」D

 ●日本独自の歴史観をつくれない悲劇
 三内丸山遺跡は、縄文都市で、縄文人は太平洋を股にかける海洋国際人でもあった。
 毛皮を身にまとい、森で小動物を追いまわしていたとする縄文人観は一日もはやく払拭したほうがよい。
「縄文時代」以前を「石器時代」、縄文時代以後を「弥生時代」と呼ぶのは旧い常識だが、三内丸山遺跡は、この常識をも覆した。
 縄文時代は、たんなる時代区分ではなく、世界四大文明を凌駕する人類最古の文明だったのである。
 ところが、膨大な予算と組織をもつ文化審議会(文化財分科会)は、縄文文化が世界四大文明に先駆ける古代文明のであることをみとめようとしない。
 世界文化遺産登録をめざす「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、4年連続で国内推薦を見送られたのはそのせいで、縄文人を原始人とみなす文化審議会の石頭が引退しないかぎり、三内丸山遺跡の世界文化遺産登録は、関係者のかなわぬ夢で終わるだろう。
 さて、その縄文人はどこからきたのか。
 歴史教科書は、日本が大陸と陸続きだった時代、大陸からやってきた人々が日本人の祖先になったと説明する。
 そして、中国が父で、朝鮮が兄、日本が末子という固定観念を捨てることができない日本の歴史家は、文明が、中国から朝鮮半島を経て日本へつたわったという自虐史観をふりまわす。
 日本独自の歴史観がうまれてこないのは、韓国や中国の歴史観とすりあわせるのに懸命で、日本の縄文文明の核心を見ようとしないからである。
 それどころか、韓国や中国の歴史ねつ造につきあい、あっちこちで辻褄の合わないことになって、貝のように沈黙するだけである。

 日本の歴史学者は、稲作が、弥生時代、朝鮮半島からつたわったと主張してきたが、実際は、その逆だったことは、本ブログBですでに指摘した。
 そして、こんどは任那の存在について、韓国と日本の歴史家の大嘘がバレた。
 戦前の日本の歴史教科書には、朝鮮半島南部の地域が任那と記され、日本が半島の一部を支配していたという歴史観が明治時代から60年間つづいてきた。
 ところが、この記述は、韓国側からのクレームで見直されて、任那があった伽耶地方は「小さな国に分かれていた」という意味不明な表記に変更された。
 むろん日本の支配下にあったなど一言も触れられていない。
 日本が朝鮮半島を支配した事実を否定する韓国の歴史ねつ造に日本が従ったのである。
 1990年以降、朝鮮半島の南部で13の前方後円墳が発見されている。
 韓国の歴史学会やマスコミは、一時、日本の前方後円墳のオリジナルは朝鮮半島にあったと大騒ぎしたが、これらの古墳が、五世紀末から6世紀につくられたものとわかって、調査を中断、なかには古墳を破壊してしまったケースもあったという。
 日本に4800基ある前方後円墳は、3世紀からはじまって、6世紀末にはつくられていない。
 大和朝廷の全国統一が完了したからである。
 このことから、前方後円墳が、大和朝廷の勢力範囲を示すモニュメント的な建造物だったとわかる。
 大和朝廷に服する意思表示として、あるいは、大和朝廷の一員であることを内外に示す証として、大和朝廷の高官や豪族、支配権を与った首長などが判で押したように前方後円墳をつくったのである。
 韓国南部で前方後円墳がみつかったのは、日本府があった任那で、この地に前方後円墳があったということは、大和朝廷の勢力範囲が半島南部(伽耶)の全域におよんでいた何よりの証拠である。
 日本の歴史学者はこれを何と説明するおつもりか。
 日本が、伽耶地方の任那に日本府をおき、百済と同盟関係をむすんだ理由の一つに中国南朝 (宋・斉・梁・陳)とその後の隋との関係をあげることができる。
 日本と南朝、隋との外交関係に欠かせなかったのが、海洋経路の途中にある伽耶と百済だった。
 当時、南朝や隋、百済は、大国で軍事国家だった高句麗の脅威にさらされており、日本も高句麗と戦火を交えている。

 聖徳太子が隋の煬帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」(607年)という国書を小野妹子にもたせ、怒りを買った(帝覧之不悦)といわれるが、卑屈な憶測にすぎない。
 隋にとって日本は、ともに高句麗を敵とする同盟国であって、そんなことに腹を立てる余裕などなかったはずで、事実、隋は、10年後、唐に滅ぼされて(618年)いる。
 唐・新羅連合軍は白村江の戦いで百済復興を目指す百済遺民と日本の連合軍を破る(663年)と668年には高句麗を滅ぼしている。
 日本が朝鮮半島に領土をもっていなければ、国境を破って、新羅の朝貢国にしたり、高句麗と戦ったりできるはずはないが、日本の歴史家は、伽耶地方の日本統治や任那の日本府をいまなお否定しいる。
 韓国側から「申し入れがあったから」というのだが、そこに、本ブログの第二のテーマである「神道・仏教・儒教」の葛藤がある。
 中国を父、朝鮮を兄としてみる日本の卑屈な態度の根底にあるのが儒教である。
 次回以降、「神道・仏教・儒教」の葛藤へと論旨をふりかえていこう。

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2017年08月02日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」C

 ●日本文明の土台は縄文文化
 縄文文化を代表する遺跡が三内丸山遺跡(青森県青森市)である。
 全国に縄文遺跡は数多くあるが、三内丸山ほど大規模で、人々の生活形態が浮き彫りになっている遺跡は他に例がない(2000年特別史跡に指定)。
 大規模な竪穴住居や掘立柱建物の建設には、労働力や団結力、指導力のほか高い技術力が必要となる。
 縄文人は、ことばのほか、抽象的な観念ももっていたのである。
 縄文時代前期から中期(約5,500年〜4,000年前)にかけて、これほどハイレベルな文明があったことに、縄文人=原始人と思いこんでいた考古学・歴史学会は大きな衝撃をうけたはずである。
 計画的な集落設計、舗装(アスファルト)道路と墓列などの大規模な造成のほか、高床式倉庫跡や貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場などもみつかっていることから、三内丸山遺跡にいまや「縄文都市」という冠辞がつけられている。
 縄文土器(鉢類や皿)、石器(やじり、槍、磨製斧)、木器(掘棒や朱漆)のほか袋状編み物(ポシェット)、編布、土偶、石や木製の装身具、骨角牙貝製器(針、釣り針、刺突具)などが次々に出土して、当時の人々の暮らしが徐々に明らかになりつつあるが、驚くべきは、堅果類(クリ・クルミ・トチなど)のほか、一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメまでを栽培していたことである。
 縄文人は、毛皮を身につけて森で獣を追っていたとする日本の考古学会との乖離は甚だしいものがあるが、文化審議会などの学者グループは、三内円山遺跡の世界遺産への推薦を頑強に拒みつづけている。
 西洋の古代観を裏切る日本の高度な縄文文化を意地でもみとめたくないのである。

 縄文人が方向・計数感覚にすぐれた海洋民族だったこともわかってきた。
 三内丸山遺跡のシンボルである3層の掘立柱建物は、6本の巨大木柱を組み合わせた三階建ての建造物で、柱穴の間隔が4.2mに統一されている。
 4.2mは35p(縄文尺)の12倍で、4.2mを3尺、4尺、5尺で折り返せば直角三角形(ピタゴラス三角形)ができ、直角(90度)がえられる。
 三内丸山遺跡の6本の木柱は正長方形に配置されていることから、かれらがピタゴラス三角形を知っていたと考えるほかない。
 かれらが数学力をもっていたのは、海洋民族だったからで、航海には星座を読む幾何学のほか、方位や暦の知識ももとめられる。
 3層の掘立柱建物の使用目的はわかっていないが、これが灯台か、漁業用の物見やぐらだったことは、立地条件から明らかだろう。
 当時、三内丸山は海岸線に隣接しており、体長1mのマダイやマグロ、ブリなどの骨のほか、釣り針やモリ(骨器)、1mのオールも出土していることから沖合で大型魚を捕獲していたことがうかがわれる。
 船は、丸太の双胴船かアウトリガー(舷外浮材)付きの丸太船で、それなら波の荒い外洋航海に耐えられる。
 太平洋諸島の先住民は、アジア南部からアウトリガー付き丸太船を使って移動してきたと考えられているが、南太平洋では、現在もアウトリガーの付きカヌーを見ることができる。
 縄文人が外洋航海を得意としていたことは、糸魚川でしか産出されない翡翠や産地(長野・静岡・神奈川・伊豆七島)が限定されている黒曜石が出土していることから明らかである。

 縄文人は海洋民族でもあって、文化の伝播も、陸路ではなく、海路だった。
 世界最古の日本の縄文土器は、朝鮮半島をはじめ日本列島から6000Kmも離れた南太平洋のバヌアツ共和国(エファテ島/1996年/太平洋考古学の篠籐喜彦博士)、中米エクアドル(1965年/バルディビア遺跡/クリフォード・エヴァンス、ベティー・メガーズ博士夫妻博士夫妻)にまでひろがっていたという。
 篠籐博士が発見したバヌアツ共和国の縄文土器は、成分分析の結果、5000年前に青森県で焼かれた円筒下層式土器である事が証明された。
 縄文土器はおよそ1万4000年前にうまれ、簡単なものから徐々に複雑な模様に変化していったが、エクアドルで出土した土器は、発展過程がなく、とつぜん複雑な縄文式土器が出現している。
 このことから、エヴァンスとメガーズ博士夫妻は、縄文人が土器文化を携えて太平洋を渡って移住してきた可能性が高いと発表している。
 縄文人の太平洋横断を可能にしたのは海流である。
 日本付近から黒潮にのると約2か月でアメリカ西海岸に到達する。
 サンフランシスコ沖からカリフォルニア海流にのって南下、赤道反流に乗り移ると、次にぶつかるのが、バルディビア土器が発見されたエクアドルあたりである。
 海流速度や風力、手漕ぎのスピードを計算すると、アウトリガー式の丸木舟で、日本からエクアドルまで約6か月で到着できるという。
 食糧は船陰に集まってくる魚で、水は10日に1度の割合で降る雨を貯める土器が役に立ったはずである。
 寒冷化による飢饉、噴火や大地震による縄文人の難民となって、命からがら外洋に出て、その一部が南米や南太平洋へたどりついた可能性を否定することはできない。
 縄文人は、海を生活圏とする海洋民族で、すぐれた航海技術をもち、太平洋を股にかけて海洋交易をおこない、地球の反対側にまで文明をつたえていたのである。
 日本人は、日本文明の土台が縄文文化にあったことに一日も早く気づくべきだろう。

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2017年07月31日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」B

 ●世界四大文明をしのぐ日本の縄文文明
 子ども時代、教科書などで、毛皮を身につけた原始人がマンモスを追い回す絵柄を見たことがあるはずである。
 それが戦後日本人の抱く原始時代のイメージで、紀元前7世紀もその延長線上におかれている。
 戦前の歴史教科書には、金の鵄(とび)を従えた神武天皇の画像(月岡芳年)が載り、そこに「日向高千穂から出立し瀬戸内海を経て大和に入り、橿原宮で即位した初代神武天皇」というキャプションが付いていた。
 画像の神武天皇は、紅白の衣類をまとい、左手に弓、右手に指揮棒を掲げて丘陵の上に立っている。
 7世紀といえば、ギリシャでスパルタが覇権を握ってイスタンブールが建設され、エジプトでも王朝の栄枯盛衰がくりひろげられていた時代である。
 ところが、日本では、当時の様子をうかがえる研究が何一つなされていない。
 縄文人が毛皮を身につけて森で動物を追っていたとするだけである
 縄文末期の衣服にかんしてすぐれた研究(尾関清子)があって、当時、手のこんだ衣服が着用されていたことは、土器の縄文模様や土偶などからわかっているが、歴史学会は「縄文人は毛皮を着用していたことになっている」としてこれを退け、布や衣服の縄文文化を国際学会にも発表できない始末である。
 毛皮を着て、獣を追い回していたのは、肉食で植物が乏しかったヨーロッパの古代観で、アジアとりわけ日本に通用する話ではない。
 ところが、ヨーロッパの歴史(考古学)を学んだ学者たちは、記紀の記述や学会に属さない人々の研究にはまったく目をむけようとしない。
 共同体や生活形態などの社会分野についても同じで、当時の日本人がどんな制度や宗教、習慣をもっていたかなどには無関心で、知ろうともしない。
 日本の古代は、したがって、深い闇につつまれたままなのである。

 日本文明を世界八代文明の一つに数えたハンチントンでさえ、2〜5世紀に中華文明から派生した文明圏とするなど、日本文明を、西洋史観からながめている。
 日本の歴史学会はもっと劣悪で、日本文明を中華文明や半島(朝鮮)文明の亜流とみなし、日本を、父である中華、兄である朝鮮を侵略した粗暴で野蛮な国家ときめつける。
「日本軍が慰安婦の強制連行に深く関与し、実行したことは揺るぎない事実」(2014年)という声明を出した歴史学研究会の綱領に「国家的、民族的な古い偏見をうち破り、民主主義的、世界史的な立場を主張する」とある。
 かれらがマルキスト集団で、反皇国史観の輩であることが明らかだが、新聞論調や歴史教科書などに大きな影響力をもつ歴史の専門家集団が歴史破壊者であることが日本の悲劇でなくてなんだろう。

 日本文明の根幹は縄文文化(紀元前130〜4世紀頃)にある。
 世界的に見ると中〜新石器時代にあたるが、土器のほうは、かつては農業の起源地とされていた中近東や北アフリカをはじめヨーロッパには、一万年前をしめす遺跡が存在しない。
 中国南部(湖南省玉蟾岩遺跡)から世界最古とされる約1万8000年前の土器が発見されたというが、信憑性はともかく、場所が限られている。
 世界最古の土器の一つに青森県大平山元遺跡から出土した1万6500年前のものがあるが、1万4500年前ごろにはほぼ同型の土器が全国に広がっている。
 これが縄文文化圏で、土器は、火と石器とともに、人類の文明化に多大なる恩恵をもたらした。
 土器によって、貯水や煮炊きが可能になって、米食文化がうまれた。
 稲作は、弥生時代に大陸から朝鮮半島を経由して日本にもたらされたとされてきたが、炭素14年代測定法によって、稲作開始が朝鮮半島より日本の方がかなり早かったことが判明している。
 日本の稲作開始は、陸稲栽培で6700年前、水稲栽培で3200年前まで遡ることができるが、朝鮮半島の水稲栽培(無去洞玉?遺跡)はせいぜい2800年程度前までしか遡ることができず、遺伝子学的にも日本の古代米と満州米の交雑種なので、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へつたわったとわかる。

 縄文文明は土器のみならず、稲作や共同体の形成など衣食住≠ノかかわる文化のすべてにおよんでいる。
 縄文文化と世界四大文明を比較するとおもしろいことに気づく。
 メソポタミア文明:紀元前3500年頃〜
 エジプト文明  :紀元前3000年頃〜
 インダス文明  :紀元前7000年頃〜
 黄河文明    :紀元前7000年頃〜5000年頃
 縄文文明    :紀元前14000年頃〜4000年頃
 日本の縄文文化は、四大文明をはるかにしのぐ古さとスケールをもっていたのである。
 中華文明には、黄河文明のほか長江文明がある。
 長江文明    :紀元前14000年〜1000年頃
 日本の縄文文明と長江文明はほぼ同時期に興っており、日本の米種(ジャポニカ)は長江から移入されたこともわかっている。
 長江文明と日本の縄文文化には接点があったのである。
 黄河文明との闘争に敗れて、中国史から抹殺された長江文明は、縄文文化と合流することによって、日本で生きのびたといってよい。
 日本への移入ルートは海路で、動力のない筏でも、長江(揚子江)河口から黒潮(対馬海流)にのれば、3日から10日ほどで九州に至る(840km)。
 長江流域・北部沿岸には、紀元前三世紀以前、筏を改良した沙船という大型の船があったことから、移民目的で、はるか昔から長江の人々が日本に渡って来た可能性はおおいにある。
 縄文文明と長江文明が合流すれば四大文明を超える大文明がうまれてなんの不思議もない。
 縄文人と長江人の共通点に「海洋民族」をあげることができる。
 次回以降、海洋民族だった縄文人が日本人の祖先という検証をすすめていこう。

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2017年07月27日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」A

 ●どこにもなかった邪馬台国
 邪馬台国論争は意外なところからボロをだす。
 宮内庁から、第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の箸墓古墳(大市墓)が卑弥呼の墓である可能性が高まってきたのだ。
 邪馬台国(卑弥呼)と大和朝廷(纒向/大和盆地)が地理的に一致したのである。
 古墳時代にはいって、次々と大きな古墳が築造された三輪山山麓(大和)は初期の大和朝廷が存在した地と考えられている。
 箸墓古墳は、行灯山古墳(第10代崇神天皇)、渋谷向山古墳(第12代景行天皇)と数キロ離れた山麓に並び立っている。
 放射性炭素年代測定法によると、箸墓古墳の築造年代は240〜260年だが、これは「魏志倭人伝」に記載された卑弥呼の死亡年247年頃と一致するばかりか、墓(円墳)と大きさ(径百余歩)も魏志倭人伝の記述と一致する。
 時間的にも形状も、百襲姫命の墓に治定されている箸墓古墳が卑弥呼の墓と断定しうるのである。
 崇神の治世は、中国の文献に記載されている邪馬台国の時代の後半と重なるため、中国の文献にある邪馬台国が大和(倭)国であることは当初から明らかで、「崇神は卑弥呼の男弟」(西川寿勝/大阪教育委員会文化財保護課)「崇神は卑弥呼の後継女王台与の摂政」(水野正好/元・奈良大学学長)など邪馬台国と大和朝廷が同一という前提に立つ考古学者も少なくない。
 ちなみに、纒向遺跡の勝山古墳は卑弥呼の父の墓ではないかという説もあるが、卑弥呼が百襲姫命なら、勝山古墳は孝霊天皇の墓ということになる。
 纒向遺跡からは、同時期の建物としては国内最大級(南北19.2m・東西12.4m、床面積は約238u)の大型建物跡もみつかっている。
 3世紀前半(弥生時代末〜古墳時代初め)は卑弥呼が君臨した時期にあたることから、神殿(祭祀施設)の可能性が高い。

 邪馬台国が大和国であることは、中国の文献(旧唐書)からも明らかだ。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名」
 というのがそれで、「日本国は倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた」と書かれている。
 そして、日本がどういう国かという記述がこのあとにつづく。
「其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國」
 東西南北に各数千里、西と南の外れは大海で、東と北には山脈があり、その山の向こうは、毛人(蝦夷/アイヌ)の国というのである。
 どうみても近畿で、四方を海に囲まれた島国で、四方の海には多数の小島があるとされている九州ではない。
 一方、倭国について「隋書」にこういう記載がある。
「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行?祭」
 倭国には「阿蘇山」があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異として祭祀を執りおこなっているというのである。
 明らかに九州である。
 すると、「倭国」「倭奴国」と表記された九州国とは別に、遥か東方の大和に「日本国」が興ったということになる。
 記紀に描かれた「神武東征」でも、九州に在った神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)が東へと向かい、大和の地を都と定めて、神武天皇を名乗ったとある。
 かといって、邪馬台国が九州にあったことにはならない。
 卑弥呼(百襲姫命)は三輪山麓にあった大和朝廷の巫女で、神武から下って10代目の崇神天皇を援けている。
 西(九州)は倭国、東(三輪山麓)は大和国で、邪馬台国などどこにもでてこない。
 邪馬台国論争は、京都帝国大学の内藤湖南が唱えた畿内説に東京帝国大学の白鳥庫吉が猛反発して「邪馬台国九州説」を主張したのが発端だが、もともとこれは、魏志倭人伝の邪馬台(ヤマト)国をヤマタイコク≠ニ誤読したことからはじまった漫画のような話なのである。

 それでは、なぜ、カムヤマトイワレヒコノミコトは遥か東方を目指したのか。
 中国大陸からの圧力が増大したせいではないか。
 当時、中国は覇者の時代≠ナ、斉や晋、楚らが相次いで覇権を立て、やがて、群雄割拠の戦国時代へ突入してゆく。
 後漢書東夷傳に「建武中元二年(西暦57年) 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」という記述がある。
「倭奴国が貢を奉じて朝賀したので、光武帝が印綬を以て賜う」とあり、このときに下された印鑑が江戸時代天明年間に発見され、昭和6年に国法となった「漢委奴国王印」である。
 このことから、九州にあった倭国は、1世紀には国際交易をおこなうだけの力をもっていたとわかる。
 隋書に「新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來」とある。
 新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来しているというのである。
 通使には朝貢という意味合いもあるので、隋は、倭国が百済や新羅の上位にある国とみとめていたことになる。
 事実、百済も新羅も、後継ぎとなる国王の長男の王子を倭国へ人質に出している。

 ところが、初期(崇神天皇以前)の大和朝廷には中国大陸の影響がほとんど見えない。
『日本書紀』に「任那」の文字があらわれるのは崇神天皇以後で、三韓征伐を指揮した神功皇后は、第14代仲哀天皇の后である。
 百済・日本連合と唐・新羅連合がたたかった白村江の戦いにいたっては38代天智天皇の時代である。
 中国と最初にかかわりをもったのは、第33代推古天皇の摂政で、遣隋使の派遣を開始した聖徳太子である。
 聖徳太子は、隋の皇帝煬帝に「日出処天子至書日没処天子無恙(日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや)」という国書を送っている。
 歴史書には煬帝が激怒したとあるが、小野妹子が、隋からの使者・裴世清をともなって帰国していることから、煬帝激怒云々は自虐史観的な創作で、もともと、日本は隋と対等の関係にあったのである。
 カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)が東を目指したのは、宗教観や文化の相が異なる大陸の影響下にある九州を見限ったからではないか。
 そして、大和(三輪山麓)の地に神道世界を樹ち立て、祭祀国家をつくったのではないか。
 紀元前660年は、歴史学者によると、毛皮をまとって、獣を追っていたとされるが、紀元前30世紀から20世紀にかけて、東北中心に「縄文都市」というべき文明(三内丸山縄文遺跡)が存在していた。
 このことから、紀元前7世紀に遷都の発想があってもなんら不思議はない。
 次回以降、紀元前7世紀がどんな時代だったか検証していこう。
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2017年07月26日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」@

 ●実在した欠史8代の天皇
 皇紀元年は紀元前660年である。
 神武天皇はこの年に橿原宮(かしはらのみや)で即位している。
 ところが、日本の歴史家(学会)は、神武天皇が想像上の人物にすぎないとして、その存在を否定、歴史教科書からも削除してしまった。
 実在を確証できるのが、崇神天皇(10代)以降として、欠史8代の天皇の存在すらもみとめようとしない。
 それなら、崇神天皇以前の日本はだれが治め、どんな政治体制にあったのか。
 日本の歴史家は、その素朴な疑問にいっさい答えようとしない。
 かれらは、皇国史観を否定するために歴史家になった左翼なので、古事記や日本書紀を否定すれば事足りるとして、紀元前660年については、ただ縄文後期と記して平気の平左なのである。
 紀元前が空白なのは、当時、日本は、国家形成などおぼつかない野蛮な原始時代だったというわけで、その一方、中国の春秋時代(紀元前6世紀)や伝説上の国家にすぎない箕子朝鮮(紀元前3世紀)にはそれなりの記述がある。
 中国の書物に日本という国号がでてくるのは『旧唐書』(10世紀)が最初で、そこには「小国だった日本が倭国を併合した」と書かれている。
『旧唐書』のあとに書かれた『新唐書』にこういう記述がある。
「日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居(中略)彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。次曰綏靖、次安寧、次懿コ、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀」
「日本は、いにしえの倭奴国なり。唐の都から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中に在る島である」につづいて「彦瀲(ひこなぎさ)の子の神武が立ち、天皇を号して、大和州に移って統治した。次は綏靖、次は安寧、次は懿コ、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀」と欠史8代をふくめて、13人の天皇の名前が列記されている。
 彦瀲(ひこなぎさ)は、記紀によると、山幸彦(彦火火出見尊)と豊玉姫の子で、神武天皇の父親にあたるミコト(神)である。
 神話と実史が入り混じるのは、どの建国史もそうで、古代ローマ史も、伝説と伝承、実史が渾然一体となっている。

 紀元前7世紀の日本について一言も触れない日本の歴史学会が血道を上げてきたのが「邪馬台国論争」である。
『魏志倭人伝』に記載された邪馬台国がどこにあるかという、愚にもつかない問題を大々的に論じてきたわけだが、邪馬台国も卑弥呼も蔑称で、そんなものが実在するわけはなく、記紀には一言も載っていない。
 邪馬台の台(タイ)≠ヘ日本語読み(訓)で、中国語の音はトである。
『隋書』は「邪靡堆」、『魏志』は「邪馬臺」、『後漢書』は「邪摩堆」で、読み(音)いずれもヤマトである。
 ちなみに卑弥呼の次の女王「台与」の読みも「とよ」である。
 なぜ、魏志倭人伝にかぎって「台」を「タイ」と読むのか。
 卑弥呼も、女王の位にあるものがみずから卑≠ニいう文字を使用するわけはなく、倭国の倭(背の低い・曲がった)≠ニ同様、語呂合わせの蔑称である。
 卑弥呼は日女命(ひめのみこと)のことで、正式には「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)である。
 孝霊天皇の皇女で、大和朝廷の御神体である三輪山の祭神・大物主のお告げをつたえ(鬼道)、崇神天皇をしばしば援けた。
 歴史学会が魏志倭人伝の記述を盲信して、表記どおりだと海上に出てしまう道のりを辿って邪馬台国の場所をもとめたのは、冗談でなければ、大和朝廷の存在を否定するためで、邪馬台国が実際にあったとすれば、紀元前660年の皇紀元年が消えてしまう。
 邪馬台国論争は、大和朝廷(歴史学会はヤマト政権)の存在を打ち消すためのめくらましで、日本の歴史学者は、皇国史観を否定できればなんでもいいのである。
 げんに、歴史研究者は、神武天皇の東征をお伽噺として片付け、史料として一顧だにしない。

 古事記や日本書紀に載っている「東征」は、壮大なる叙事詩で、文芸性のみならず歴史性もきわめて高い。
 しかも、そこには、邪馬台国論争を超える大きな真実が隠されている。
 一つは、出自が南九州の日向国(宮崎県)というところにある。
 フィクションならはじめから大和の地(奈良県)に中央政権があったとしたほうが都合よかったはずである。
 日向を立って、強敵とたたかう苦難の果て、大和の三輪山麓に朝廷を立てたということは、九州やその他の地域に大勢力があって、大和朝廷は、そのなかの一つにすぎなかったとみずから告白しているにひとしい。
 これは史実で、天皇の権威が確立するまで、各地で権力抗争がくり返されていたはずである。
 もう一つは、三輪山麓に拠点を設けた大和朝廷が徐々に力をつけてゆく背景に、神話もしくは宗教的な感情がはたらいていたと思われることである。
 紀元前7世紀末の神武から9代開化天皇、さらに、全国規模の政権になった崇神天皇(10代)までの一〇〇〇年近いあいだ、記紀にはいくさにかんする記述がほとんどない。
 武力衝突なくして、長期の政権を維持できたのは、神話的・宗教的な結束があったからと考えるほかない。
 欠史8代の天皇が異常に長寿なのも、そのことと無縁ではないだろう。
 天皇の崩御を隠蔽して、為政者が、その後も体制を維持したのである。
 天皇が不在でも体制を維持できたのは、天皇が祭祀王だったからで、当時の政治体制は、天皇の宗教的権威の下で、権力者による集団指導がおこなわれていたと考えられる。
 天皇が日本国全体の統治にのりだしたのは、10代崇神天皇以降である。
 崇神朝の四道将軍(北陸・東海・西海・丹波に崇神の4皇子を派遣)や景行天皇(12代)の皇子「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の九州・出雲・東国の平定などがそれで、以後、天皇は、政治の表舞台にでてこない祭祀王から政(マツリゴト)の陣頭指揮をとる覇者へとすがたを変えるのである。


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2017年07月11日

 万世一系と「女系天皇・女性宮家」D

 ●伝統主義と祭祀国家
 女性・女系天皇問題に「男女平等」をもちだすのは憲法違反でもある。
 現憲法では、第2条で、皇位の世襲が謳われているからである。
 そして、皇位の継承については、皇室典範の定めるところによるとしている。
 皇室典範の第1条には、皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承すると明記されている。
 憲法が男女不平等≠宣しているのである。
 憲法14条(法の前の平等)には「国民は、人種、信条、性別、社会的身分または門地によって差別されない」とある。
 すると、2条と14条は矛盾していることになる。
 近代法である現憲法のなかで、天皇条項だけが、伝統という非合理性の上に立っているのである。
 これは、重大なポイントで、わが国では、伝統が、憲法において担保されている。
 民主主義の使徒、マッカーサーですら、天皇という伝統的存在を合理性から切り離さざるをえなかったのである。
 自民党の二階幹事長が「現代は女性尊重の時代で、天皇陛下だけはそうならないというのはおかしい」というのは、憲法に謳われている二重規範をみない浅はかな考えで、アメリカ人のマッカーサーに及ばない短慮である。
 憲法に伝統が謳われていることに大方の日本人は無関心で、皇統の男系相続には「合理的根拠がない」(山尾志桜里議員)などの愚論がまかりとおっている。
 伝統が不合理なのはあたりまえで、その代表が神話や祭祀である。

 沖ノ島の古代祭祀が世界遺産に登録された。
 沖ノ島で国家的な祭祀が始まったのは大和朝廷の初期の4世紀である。
 その古代祭祀が廃れたのは、宮中祭祀が確立され、伊勢神宮、全国の神社が整備されたからであろう。
 古代祭祀は、その一部が宮中祭祀にひきつがれて、現在に残る。
 世界遺産委員会が沖ノ島(沖津宮)のほか、内地の宗像大社中津宮・宗像大社辺津宮、新原・奴山古墳群など八つの構成資産のすべてを世界遺産にみとめたのは、宮中祭祀にひきつがれた古代祭祀の歴史的連続性を評価したからである。
 沖津宮と中津宮、辺津宮の3女神を生んだのが天照大御神で、皇室の始祖であり、日本人の総氏神である。
 天照大御神が女性神だったことから、古代日本に男尊女卑の思想がなかったことがわかる。
 男女を比較するのは、人間という近代的観念が生じたあとのことである。
 日本の神話にも、人間や人間という考え方はでてこない。
 天地開闢には「造化の三神」やニ柱の「別天津神」が登場するが、すがたをみることはできず、むろん、性別もない。
 そのあとうまれるのが国之常立神と豊雲野神、そして五組の男性神と女性神の「神世七代」である。
 神世七代の最後にあらわれるのが伊邪那岐神(イザナギノカミ)と伊邪那美神(イザナミノカミ)である。
 国産み・神産みでは、イザナギとイザナミとの間に日本本土となる大八洲の島々や山・海・川・石・木・海・水・風・火など森羅万象の神々がうまれる。
 このときイザナミとイザナギは「成り成りて成り合はざる処一処在り」「成り成りて成り余れる処一処在り」といい交わしている。
 天照大御神をうみだした(イザナキからの左目から生まれた)日本開闢の始祖であるイザナギとイザナミが男神と女神だったことは象徴的である。
 日本の神代にいたのは、男神と女神で、人間神ではなかったのである。

 男女差別の土台となっているのがヒューマニズム(人間主義)である。
 人間という考え方は、ルネッサンスの啓蒙思想で、神や教会に対抗できるのが、男と女をひっくるめた人間という存在だった。
 だが、人間主義は、宗教的観念にすぎず、生きているのは、あくまで、男と女である。
 女性は母性でもあって、子を産み、育てる母親と、金銭や組織のために外で働く男は別々の存在で、したがって、男と女を比べるという発想もなかった。
 フランス革命の人権宣言でも、男女平等は謳われておらず、これに抗議したのが、フェミニズム運動のはじまりである。
 男女同権という考え方がでてくるのは、第3回国際連合総会(1948年)の世界人権宣言「基本的人権、人間の尊厳および価値並びに男女の同権」(前文)以降のことで、それも、フェミニズム運動の成果としてとりいれられたにすぎない。
 世界経済フォーラムの報告によると『世界男女格差レポート』で日本は世界145カ国中101位という。
 日本に、女性の政治家や官僚、企業の重役、勤労所得や労働参加人口が少ないのは、短期就業のOLや専業主婦が多いからである。
 一方、国連開発計画 (UNDP) の「人間開発報告書」のデータでは、日本の男女間の不平等格差(平均寿命、1人あたりGDP、就学率など)は187カ国中の17位で、非就業の日本女性が、英米仏の女性よりも恵まれた環境ですごしているのである。
 戦後、伝統を旧弊として退ける風潮がはびこってきた。
 そして、近代合理主義や唯物論を善とする改革主義が猛威をふるってきた。
 だが、真に価値あるものは、歴史的連続性の上に立った普遍性こそにある。
 そのことは、伝統国家である日本が、その伝統をまもることによって、世界の大国たりえていることからも明らかなのである。
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2017年07月06日

万世一系と「女系天皇・女性宮家」C

 ●皇統の男系をまもった八人の女性天皇
 天皇政治が確立される6世紀頃まで、蘇我氏や物部氏、中臣氏、大伴氏らの豪族が天皇をしのぐほどの大きな力をもっていた。
 皇統は男系でも、のちに摂政(源平籐橘)へひきつがれる豪族政治は、女系(天皇の外戚)で、初期の大和朝廷は、女系が男系を圧倒していた時代ということができる。
 豪族たちは、競うように子女を天皇に嫁がせ、天皇家と外戚関係(女系)をむすんで勢力を拡大していったのである。
 欽明天皇(29代)の子のうち、天皇になったのは、敏達天皇(30代)と用明天皇(31代)、崇峻天皇(32代)、推古天皇(33代)の四人である。
 そのうち、敏達天皇以外、母親は、蘇我稲目の子女である。
 ちなみに、推古天皇が、敏達天皇の皇后薨去にともなって、後添えとなったのは近親婚(異母兄妹)で、敏達天皇のあいだに竹田皇子をもうけている。
 天皇との外戚関係を固め、政治の実権を握ってのしあがってきたのが、仏教戦争(丁未の乱)で物部氏を討った蘇我氏で、4代(稲目・馬子・蝦夷・入鹿)にわたって、権勢をほしいままにする。
 蘇我氏は天皇にとっても最大の難敵で、穴穂部皇子(欽明天皇の子)の殺害や崇峻天皇の暗殺、山背大兄王(聖徳太子の子)の討滅と、天皇家の生殺与奪の権を握っているかのような勢いだった。

 敏達天皇と用明天皇が相次いで疱瘡で崩御したのち、崇峻天皇が蘇我馬子のさしむけた刺客に暗殺されるという事件がおきて、欽明天皇の第三女、額田部皇女がわが国初めての女帝、推古天皇となる。
 額田部皇女が稲目の孫にあたることから、蘇我氏の後押しもあっただろう。
 だが、推古天皇は、蘇我氏の傀儡になることなく、用明天皇の子、厩戸皇子(聖徳太子)を摂政に立て「冠位十二階」や「憲法十七条」などの律令的な政策を打ち出し、天皇政治の基礎を固める。
 推古天皇は、わが身を矢面に立たせて、聖徳太子に自由に政治をやらせたのである。
 そのせいか、聖徳太子の子、山背大兄王は、蘇我入鹿に攻め滅ぼされて、子孫が絶えている。
 推古天皇を継いだのは、押坂彦人大兄皇子をへて、敏達天皇の直系の男孫にあたる舒明天皇(34代)である。
 皇統は、推古天皇を中継ぎとして、男系のまま継承されたのである。

 聖徳太子がめざした天皇中心の政治の完成には「大化の改新」まで待たねばならない。
 統治、政治の実権を握っていたのは蘇我蝦夷・入鹿親子で、依然として、蘇我氏の天下がつづいている。
 蘇我氏に推挙された舒明天皇が崩御した後、皇后が史上二番目の女帝として皇位につく。
 皇極天皇(35代)である。
 敏達天皇から押坂彦人大兄皇子、茅渟王と下った三代目で、孝徳天皇(36代)は弟にあたる。
 天智天皇(38代)・天武天皇(40代)の母でもあって、中大兄皇子と中臣鎌足らによる蘇我入鹿の暗殺、翌日の蝦夷の自殺(乙巳の変)は、皇極天皇の目の前でおきた事件である。
 蘇我氏4代の繁栄は、乙巳の変によって、一夜にして崩壊する。
 中大兄皇子はのちの天智天皇である。
 乙巳の変の直後、皇極天皇は退位し、弟が孝徳天皇、中大兄皇子が皇太子になる。

 ここで異変がおきる。
 孝徳天皇が、中大兄皇子と不和となって、翌年、憤死するのである。
 皇極天皇が重祚して斉明天皇(37代)となったのは、中大兄皇子が即位に応じなかったからである。
 中大兄皇子が即位するのは、白村江の戦い(日本・百済対唐・新羅)に大敗した後のことで、大宰府(北九州)防衛に奔走した天智天皇は、全精力を使い果たしたかのように没する。
 ここでふたたび紛争(壬申の乱)がもちあがる。
 天智天皇の弟(大海人皇子)が、天智天皇の子(大友皇子)に反旗を翻すである。
 大友皇子が後の弘文天皇(39代)で、大海人皇子が後の天武天皇(40代)である。
 反乱者である大海人皇子が勝利して、天武天皇の時代が到来する。
 ここが古代史のターニングポイントで、天武・持統朝から現在の日本の原型がつくりあげられてゆく。

 天武天皇と持統天皇(41代)、文武天皇(42代)、二人の女帝、元明天皇(43代)元正天皇(44代)の時代は、聖徳太子が掲げた天皇中心の政治を完成させた時代であった。
 持統天皇が皇位を継承した理由は、実子の草壁皇子と異母兄弟の大津皇子の政争を避けるためである。
 ところが、大津皇子に謀反の疑いがかかって、逮捕・処刑されるという事件がおきる。
 そして、大津皇子の処刑後、草壁皇子も病死する。
 持統天皇が退位しなかったのは、草壁皇子の長男が即位できる歳まで待ったのである。
 それが14歳の若さで即位した文武天皇(42代)である
 持統天皇は、天武天皇から草壁皇子、文武天皇へ男系相続を引き継ぐための中継ぎを果たしたのである。
 ところが文武天皇は短命で、長男の首皇子が幼かったため、文武天皇の母である元明天皇(43代)、姉である元正天皇(44代)が相次いで即位する。
 元明・元正の両女帝を経た後、皇統は、文武天皇の直系である首皇子のちの聖武天皇(45代)へと継承される。

 
 聖武天皇の系列が絶えると孝謙天皇(46代)と称徳天皇(48代)という女性天皇を挟み、天武天皇の系列から淳仁天皇(47代)、そして、天智天皇の系列から光仁天皇(49代)が即位して、桓武天皇(50代)にひきつがれる。
 孝謙天皇・称徳天皇は同一人物(重祚)で、天武天皇から舎人皇子、淳仁天皇へ、天智天皇から志貴皇子、光仁天皇へと皇統をうけわたす役割をはたしていたのである。
 徳川幕府の皇室封じ込め政策に反発して退位した後水尾天皇(108代)の後、皇位についたのが後水尾天皇の皇女、明正天皇(109代)で、異母弟の後光明天皇(110代)への中継ぎ役をはたしている。
 後桜町天皇(117代)もまた、桜町天皇(115代)の内親王で、後桃園天皇(118代)への中継ぎだった。
 かつて、日本に存在した女性天皇は、皇統の男系相続をまもるためで、皇統以外の男性遺伝子(Y染色体)をもった子を産み、男女を問わず、その子を天皇にしようという女系天皇とは考え方がまったく逆である。
 女性天皇は、皇統の男系継承の補佐であって、女性天皇から女系天皇という道筋はありえないのである。

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2017年06月29日

 万世一系と「女系天皇・女性宮家」B

●混乱している「皇統」と「家系」
 歴史学者ですら「皇統」と「家系」の区別がつかない者が少なくない。
 嫡子がいなかった武烈天皇(25代)のあとを継いだ継体天皇(26代)が、応神天皇(15代)の5代末裔であることをもって、王朝交替があったなどというのがそれである。
 同一王朝なら、桓武天皇(50代)から5代末裔の平将門が天皇になるようなもので、ありえない話というのである。
「皇統」と「家系」を混同して、代を重ねるごとに血統の純粋性が失われると思っているのであろう。
 便宜上、X染色体とY染色体を例にとって話をすすめよう。
 男性の染色体がYXで、女性がXXである。
 Y染色体を継承するのが皇統で、X染色体をひきつぐのが家系である。
 Y染色体は男性だけに継承されるので、父方をさかのぼっていけば、祖先の男性にゆきつく。
 ところが、X染色体の母方をさかのぼっていっても、無限数の女性の祖先があらわれるだけで、祖を特定することはできない。
 男性も女性もX染色体をもっているからで、代をかさねるごとに男女両方のX染色体が累々と混交して、いわゆる「血が薄くなる」という現象がおきる。
 Y染色体がいくら代をかさねても、他のY染色体と混交しないのは、女性がY染色体をもっていないからである。
 神武天皇のY染色体は、継体天皇にも平将門にも、純粋な形でひきつがれていたのである。

 応神天皇から継体天皇までは、若野毛二派皇子〜意富富等王〜乎非王〜彦主人王とすべて男性だが、桓武天皇と平将門の5代のあいだに女系(入り婿)が混じっていれば、将門には皇位の継承権がなかったことになる。
 神武天皇のY染色体が入り婿のY染色体にすりかわってしまったからである。

 皇統は一本の樹木にたとえることができる。
 傍系が枝で、どの枝(系列)も、神武天皇のY染色体を継承している。
 今上天皇の系列は、光格から仁孝、孝明、明治、大正、昭和の各天皇へつらなる閑院宮家(東山天皇の第六皇子閑院宮直仁親王が創設)という枝である。
 この枝は、後桃園天皇(118代)に直系男子がいなかったため、閑院宮家二代目典仁親王の皇子が光格天皇として即位したのがはじまりである。
 閑院宮家の創設(1710年)にうごいたのが、皇統存続に危機感を抱いた新井白石で、傍系が皇籍離脱(出家)するしきたりを枉げ、皇位継承ができる世襲親王家(伏見宮・桂宮・有栖川宮)に閑院宮をくわえた。
 閑院宮家という枝を折っていたら、皇統が絶えかねなかったところに皇室の危うさがあり、徳川家も、家康直系の尾張と紀州、水戸の御三家があったために、七代将軍家継が8歳で死去して本家が断絶しても、紀州の徳川吉宗が八代将軍に立って、血統がまもられた。
 メディチ家やハプスブルク家など名家・名門から成るヨーロッパの王位継承順位が、他国の王室までまきこんで、驚くほどの数にのぼっているのは、内乱や戦乱が多かった名残で、血統をまもるため幾重にも保険をかけたのである。
 世襲による血統の維持、とりわけ男系相続はきわめて困難で、男子が生まれなければ、日本の皇室の場合、たちまち、皇統断絶の危機にさらされる。

 戦後の日本統治に天皇を利用したGHQが、皇室の将来的な廃絶を意図していたことは、11宮家の臣籍離脱を強要し、皇室の財産を没収したことからも明らかであろう。
 象徴天皇は、天皇を憲法上の存在へ変質させ、皇室典範を憲法に組み込むことだったのである。
 11宮家が廃止となって、51人が皇籍を離脱したのち、皇統維持に必要な皇族は、昭和天皇の直宮3宮家(秩父宮・高松宮・三笠宮)だけとなった。
 重臣会議の席上、鈴木貫太郎首相が「皇統が絶える懸念はないか」たずねると、加藤宮内次官は「国民がみとめるなら、かつての皇族のなかにふさわしいかたがおられる」「(旧皇族には)皇位を継ぐべきときがくるかもしれないとの自覚のもとで身をお慎みになっていただきたい』と返答している。
 また、赤坂離宮でのお別れ晩餐会では、昭和天皇から「身分は変わるようになったけれども、わたしは今までとまったく同じ気持ちをもっている」というおことばがあった。
 皇室と11宮家の交流は、菊栄親睦会をつうじていまもつづき、ェ仁親王は「わたしのなかには皇族と元皇族の垣根はありません」と語ってもおられる。

 皇室典範第二条(「皇位は左の順序により皇族にこれを伝える」)のなかに「前項各号の皇族がないときは、皇位は、最近親の系統の皇族にこれを伝える」とある。
 この文章を「皇族もしくは旧皇族」と書き換えることで、皇統の継嗣問題は一挙に解決する。
 臣籍降下した11宮家を皇統維持の枠から除外している条項はこの一行だけある。
 女性天皇などもちださずとももしくは旧皇族≠フ7文字をくわえるだけで皇統の男系男子はまもられるのである。
 旧皇族の皇籍復帰が望ましいが、それには野党やマスコミ(日本マスコミ文化情報労組会議)が猛烈に反対するであろうし、保守系のなかにも、一般人になったひとが天皇になることには違和感があるという意見が少なくない。
 そこから、天皇の内親王が天皇になる「女性天皇」論が浮上してくる。
 女性天皇から、その皇子が新たな天皇になる女系天皇へは一本道である。
 そのとき、神武天皇の血統が絶え、天皇の祖先が別の樹木に移る易姓革命がおきる。
 神武天皇の男系直系である旧皇族の皇籍復帰には違和感があって、Y染色体をひきつがない女性、女性宮家の入り婿になった一般人男性が天皇になるのに違和感がないというのはとおる話ではない。
 次回は、女性天皇を中継ぎにしながら男系相続がまもられてきた歴史を振り返ってみよう。
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2017年06月26日

 万世一系と「女系天皇・女性宮家」A

 ●易姓革命を防いだ聖俗%元体制
 皇位や皇統は神事で、世俗の政治や制度と同列に語ることができない。
 皇統の男系相続も、神事のしきたりで、俗説をもって、聖域を論じることができないのは、神を合理で語ることができないのと同じ話である。
 東大法卒でハーバード大学留学、検察官だった民進党の山尾志桜里が皇統の男系男子を「合理的な根拠がない」とのべたのは、俗論以下の暴言というしかない。
 秘書に暴言を浴びせかけ、暴力をふるい、自民党を離党した豊田真由子議員も、東大法卒でハーバード大学留学、厚労省高級官僚という同じような経歴をもっている。
 このことから、合理が俗説や暴論の範疇にあることが容易にみてとれる。
 合理の結晶が革命で、共産主義が虐殺と腐敗、圧政などの暗黒性しかもたらさなかったことはだれもが知っている。
 科学も合理だが、現代文明をつくりあげたのは、数学や技術の数千年におよぶ歴史的蓄積で、同じ合理でも、歴史を破壊した上に成り立つ革命とは、むいている方向が逆である。
 合理と伝統は、裏と表の関係で、おおよそ物事は、合理で説明のつくものとつかないものが渾然一体となって成り立っている。
 ところが、東大卒やハーバード留学などのインテリ馬鹿は、すべて、合理で説明がつくと思っている。
 天皇や皇統をめぐる議論は、歴史的価値を尊重する人々と合理しか見えない者たちたちの争いで、世界最古の木造建築である法隆寺を壊して、近代建築に建て替えろという合理主義者にたいして、伝統や歴史の価値を説いたところでラチが明かない。
 男系相続という、合理を超えた伝統的価値を理解することができないからである。

 共同体(国家)も、科学と同様、伝統という合理を超えた土台をもっている。
 それが祭祀で、宗教的結束からできあがった祭祀国家の形態を維持しているのが伝統国家である。
 祭祀を司る天皇の下で、摂政や関白、征夷大将軍、幕府、政府と権力構造が移ろってきたのがわが国の歴史で、日本は、世界最古の宗教国家でもある。
 戦後、キリスト教などの一神教のみを宗教として、日本を無宗教国家、日本人を無神論者ときめつける風潮がはびこったが、とんでもない話である。
 人口にたいする宗教施設(神社や仏閣)は世界一で、初詣や七五三、供養や法事など国民生活に密着する宗教的行事の多さも比類がない。
 キリスト教などの一神教は啓示宗教で、神話やアニミズム、汎神論にもとづく神道は自然宗教(崇拝)である。
 そして、神道と習合した大乗仏教は、集団宗教である神道にたいして、個人宗教で、釈迦の死生観は、西洋哲学に大きな影響をあたえた。
 日本人の素朴な信仰心にもとづく国体の上に、政体という権力構造がのっているのが、伝統国家・日本の国の形である。
 日本を無神論国家という強弁は、祭祀(国体)を無視して、権力構造(政体)だけに目をむけさせようという魂胆で、国体の破壊をもくろむ左翼の論法である。
 政体をひっくり返すのが革命で、中国の易姓革命も西洋の市民革命も、そのたびに、王や皇帝ともども、一族や前政権をささえた人々が皆殺しにされた。
 日本が祭祀国家の形態をとって、国体と政体を切り離したのは、易姓革命を避けるためで、日本で政変がおきても、権力構造が代わるだけで、祭祀国家の頂点にいる天皇になんの動揺もなかった。

 そこに、皇統が男系相続となった最大の理由がある。
 男系相続であれば、父から父へたどる系図が一本道なので、争いがおきない。
 ところが、母から母へたどる系図では、入り婿という形で、権力者が入ってくる可能性がある。
 女系相続では、女帝の孝謙天皇(重祚して称徳天皇)に仕えた道鏡や次男の義嗣を天皇にして治天の君(上皇)になろうとした足利義満のような野心家を、皇統の純血性から排除できないのである。
 古代から皇統の男系相続を貫いてきたのは、天皇の血統に他の男系の血統を入れないためで、その智恵が、結果として、神武天皇のY遺伝子が純粋な形で今上天皇まで引き継がれた。
 女系相続では父親由来のY遺伝子、男系相続では母親由来のミトコンドリアが、それぞれ途切れる。
 ミトコンドリアにそって、女系遺伝をたどっていけば人類の始祖というべき一人の女性(「ミトコンドリア・イブ」)にゆきつくという仮説に科学的根拠があたえられたのが2000年(ネイチャー・ジェネティクス誌)である。
 同じ論理で、Y遺伝子にそって、男系遺伝をたどっていけば、天皇の始祖である神武天皇にゆきつく。
 といっても、二六七七年の伝統国家をささえてきたのは、皇統維持に男系を選択して、その原則をまもりとおしてきた日本人の叡智と宗教的信念で、科学的な根拠は、現代人があとから付けた理屈にすぎない。
「皇位の男系男子継承は女性差別である(小林よしのり)」や「女性尊重の時代に天皇陛下だけ例外というのはおかしい(二階俊博幹事長)」というのは、現在の価値観をもって歴史をながめる態度で、ノーテンキもはなはだしい。
 現在は過去の積み重ねで、過去の出来事や価値観も現在にひきつがれている。
 平安時代に成立した能(能楽)が古いからといって、現代風なジャズをとりいれるのは、改革ではなく、ただの伝統破壊である。
 次回は、皇統や男系の血統に歴史的実証性や科学的根拠がないという愚論を批判しよう。
posted by office YM at 14:45| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする