2017年07月31日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」B

 ●世界四大文明をしのぐ日本の縄文文明
 子ども時代、教科書などで、毛皮を身につけた原始人がマンモスを追い回す絵柄を見たことがあるはずである。
 それが戦後日本人の抱く原始時代のイメージで、紀元前7世紀もその延長線上におかれている。
 戦前の歴史教科書には、金の鵄(とび)を従えた神武天皇の画像(月岡芳年)が載り、そこに「日向高千穂から出立し瀬戸内海を経て大和に入り、橿原宮で即位した初代神武天皇」というキャプションが付いていた。
 画像の神武天皇は、紅白の衣類をまとい、左手に弓、右手に指揮棒を掲げて丘陵の上に立っている。
 7世紀といえば、ギリシャでスパルタが覇権を握ってイスタンブールが建設され、エジプトでも王朝の栄枯盛衰がくりひろげられていた時代である。
 ところが、日本では、当時の様子をうかがえる研究が何一つなされていない。
 縄文人が毛皮を身につけて森で動物を追っていたとするだけである
 縄文末期の衣服にかんしてすぐれた研究(尾関清子)があって、当時、手のこんだ衣服が着用されていたことは、土器の縄文模様や土偶などからわかっているが、歴史学会は「縄文人は毛皮を着用していたことになっている」としてこれを退け、布や衣服の縄文文化を国際学会にも発表できない始末である。
 毛皮を着て、獣を追い回していたのは、肉食で植物が乏しかったヨーロッパの古代観で、アジアとりわけ日本に通用する話ではない。
 ところが、ヨーロッパの歴史(考古学)を学んだ学者たちは、記紀の記述や学会に属さない人々の研究にはまったく目をむけようとしない。
 共同体や生活形態などの社会分野についても同じで、当時の日本人がどんな制度や宗教、習慣をもっていたかなどには無関心で、知ろうともしない。
 日本の古代は、したがって、深い闇につつまれたままなのである。

 日本文明を世界八代文明の一つに数えたハンチントンでさえ、2〜5世紀に中華文明から派生した文明圏とするなど、日本文明を、西洋史観からながめている。
 日本の歴史学会はもっと劣悪で、日本文明を中華文明や半島(朝鮮)文明の亜流とみなし、日本を、父である中華、兄である朝鮮を侵略した粗暴で野蛮な国家ときめつける。
「日本軍が慰安婦の強制連行に深く関与し、実行したことは揺るぎない事実」(2014年)という声明を出した歴史学研究会の綱領に「国家的、民族的な古い偏見をうち破り、民主主義的、世界史的な立場を主張する」とある。
 かれらがマルキスト集団で、反皇国史観の輩であることが明らかだが、新聞論調や歴史教科書などに大きな影響力をもつ歴史の専門家集団が歴史破壊者であることが日本の悲劇でなくてなんだろう。

 日本文明の根幹は縄文文化(紀元前130〜4世紀頃)にある。
 世界的に見ると中〜新石器時代にあたるが、土器のほうは、かつては農業の起源地とされていた中近東や北アフリカをはじめヨーロッパには、一万年前をしめす遺跡が存在しない。
 中国南部(湖南省玉蟾岩遺跡)から世界最古とされる約1万8000年前の土器が発見されたというが、信憑性はともかく、場所が限られている。
 世界最古の土器の一つに青森県大平山元遺跡から出土した1万6500年前のものがあるが、1万4500年前ごろにはほぼ同型の土器が全国に広がっている。
 これが縄文文化圏で、土器は、火と石器とともに、人類の文明化に多大なる恩恵をもたらした。
 土器によって、貯水や煮炊きが可能になって、米食文化がうまれた。
 稲作は、弥生時代に大陸から朝鮮半島を経由して日本にもたらされたとされてきたが、炭素14年代測定法によって、稲作開始が朝鮮半島より日本の方がかなり早かったことが判明している。
 日本の稲作開始は、陸稲栽培で6700年前、水稲栽培で3200年前まで遡ることができるが、朝鮮半島の水稲栽培(無去洞玉?遺跡)はせいぜい2800年程度前までしか遡ることができず、遺伝子学的にも日本の古代米と満州米の交雑種なので、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へつたわったとわかる。

 縄文文明は土器のみならず、稲作や共同体の形成など衣食住≠ノかかわる文化のすべてにおよんでいる。
 縄文文化と世界四大文明を比較するとおもしろいことに気づく。
 メソポタミア文明:紀元前3500年頃〜
 エジプト文明  :紀元前3000年頃〜
 インダス文明  :紀元前7000年頃〜
 黄河文明    :紀元前7000年頃〜5000年頃
 縄文文明    :紀元前14000年頃〜4000年頃
 日本の縄文文化は、四大文明をはるかにしのぐ古さとスケールをもっていたのである。
 中華文明には、黄河文明のほか長江文明がある。
 長江文明    :紀元前14000年〜1000年頃
 日本の縄文文明と長江文明はほぼ同時期に興っており、日本の米種(ジャポニカ)は長江から移入されたこともわかっている。
 長江文明と日本の縄文文化には接点があったのである。
 黄河文明との闘争に敗れて、中国史から抹殺された長江文明は、縄文文化と合流することによって、日本で生きのびたといってよい。
 日本への移入ルートは海路で、動力のない筏でも、長江(揚子江)河口から黒潮(対馬海流)にのれば、3日から10日ほどで九州に至る(840km)。
 長江流域・北部沿岸には、紀元前三世紀以前、筏を改良した沙船という大型の船があったことから、移民目的で、はるか昔から長江の人々が日本に渡って来た可能性はおおいにある。
 縄文文明と長江文明が合流すれば四大文明を超える大文明がうまれてなんの不思議もない。
 縄文人と長江人の共通点に「海洋民族」をあげることができる。
 次回以降、海洋民族だった縄文人が日本人の祖先という検証をすすめていこう。

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2017年07月27日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」A

 ●どこにもなかった邪馬台国
 邪馬台国論争は意外なところからボロをだす。
 宮内庁から、第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の箸墓古墳(大市墓)が卑弥呼の墓である可能性が高まってきたのだ。
 邪馬台国(卑弥呼)と大和朝廷(纒向/大和盆地)が地理的に一致したのである。
 古墳時代にはいって、次々と大きな古墳が築造された三輪山山麓(大和)は初期の大和朝廷が存在した地と考えられている。
 箸墓古墳は、行灯山古墳(第10代崇神天皇)、渋谷向山古墳(第12代景行天皇)と数キロ離れた山麓に並び立っている。
 放射性炭素年代測定法によると、箸墓古墳の築造年代は240〜260年だが、これは「魏志倭人伝」に記載された卑弥呼の死亡年247年頃と一致するばかりか、墓(円墳)と大きさ(径百余歩)も魏志倭人伝の記述と一致する。
 時間的にも形状も、百襲姫命の墓に治定されている箸墓古墳が卑弥呼の墓と断定しうるのである。
 崇神の治世は、中国の文献に記載されている邪馬台国の時代の後半と重なるため、中国の文献にある邪馬台国が大和(倭)国であることは当初から明らかで、「崇神は卑弥呼の男弟」(西川寿勝/大阪教育委員会文化財保護課)「崇神は卑弥呼の後継女王台与の摂政」(水野正好/元・奈良大学学長)など邪馬台国と大和朝廷が同一という前提に立つ考古学者も少なくない。
 ちなみに、纒向遺跡の勝山古墳は卑弥呼の父の墓ではないかという説もあるが、卑弥呼が百襲姫命なら、勝山古墳は孝霊天皇の墓ということになる。
 纒向遺跡からは、同時期の建物としては国内最大級(南北19.2m・東西12.4m、床面積は約238u)の大型建物跡もみつかっている。
 3世紀前半(弥生時代末〜古墳時代初め)は卑弥呼が君臨した時期にあたることから、神殿(祭祀施設)の可能性が高い。

 邪馬台国が大和国であることは、中国の文献(旧唐書)からも明らかだ。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名」
 というのがそれで、「日本国は倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた」と書かれている。
 そして、日本がどういう国かという記述がこのあとにつづく。
「其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國」
 東西南北に各数千里、西と南の外れは大海で、東と北には山脈があり、その山の向こうは、毛人(蝦夷/アイヌ)の国というのである。
 どうみても近畿で、四方を海に囲まれた島国で、四方の海には多数の小島があるとされている九州ではない。
 一方、倭国について「隋書」にこういう記載がある。
「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行?祭」
 倭国には「阿蘇山」があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異として祭祀を執りおこなっているというのである。
 明らかに九州である。
 すると、「倭国」「倭奴国」と表記された九州国とは別に、遥か東方の大和に「日本国」が興ったということになる。
 記紀に描かれた「神武東征」でも、九州に在った神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)が東へと向かい、大和の地を都と定めて、神武天皇を名乗ったとある。
 かといって、邪馬台国が九州にあったことにはならない。
 卑弥呼(百襲姫命)は三輪山麓にあった大和朝廷の巫女で、神武から下って10代目の崇神天皇を援けている。
 西(九州)は倭国、東(三輪山麓)は大和国で、邪馬台国などどこにもでてこない。
 邪馬台国論争は、京都帝国大学の内藤湖南が唱えた畿内説に東京帝国大学の白鳥庫吉が猛反発して「邪馬台国九州説」を主張したのが発端だが、もともとこれは、魏志倭人伝の邪馬台(ヤマト)国をヤマタイコク≠ニ誤読したことからはじまった漫画のような話なのである。

 それでは、なぜ、カムヤマトイワレヒコノミコトは遥か東方を目指したのか。
 中国大陸からの圧力が増大したせいではないか。
 当時、中国は覇者の時代≠ナ、斉や晋、楚らが相次いで覇権を立て、やがて、群雄割拠の戦国時代へ突入してゆく。
 後漢書東夷傳に「建武中元二年(西暦57年) 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」という記述がある。
「倭奴国が貢を奉じて朝賀したので、光武帝が印綬を以て賜う」とあり、このときに下された印鑑が江戸時代天明年間に発見され、昭和6年に国法となった「漢委奴国王印」である。
 このことから、九州にあった倭国は、1世紀には国際交易をおこなうだけの力をもっていたとわかる。
 隋書に「新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來」とある。
 新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来しているというのである。
 通使には朝貢という意味合いもあるので、隋は、倭国が百済や新羅の上位にある国とみとめていたことになる。
 事実、百済も新羅も、後継ぎとなる国王の長男の王子を倭国へ人質に出している。

 ところが、初期(崇神天皇以前)の大和朝廷には中国大陸の影響がほとんど見えない。
『日本書紀』に「任那」の文字があらわれるのは崇神天皇以後で、三韓征伐を指揮した神功皇后は、第14代仲哀天皇の后である。
 百済・日本連合と唐・新羅連合がたたかった白村江の戦いにいたっては38代天智天皇の時代である。
 中国と最初にかかわりをもったのは、第33代推古天皇の摂政で、遣隋使の派遣を開始した聖徳太子である。
 聖徳太子は、隋の皇帝煬帝に「日出処天子至書日没処天子無恙(日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや)」という国書を送っている。
 歴史書には煬帝が激怒したとあるが、小野妹子が、隋からの使者・裴世清をともなって帰国していることから、煬帝激怒云々は自虐史観的な創作で、もともと、日本は隋と対等の関係にあったのである。
 カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)が東を目指したのは、宗教観や文化の相が異なる大陸の影響下にある九州を見限ったからではないか。
 そして、大和(三輪山麓)の地に神道世界を樹ち立て、祭祀国家をつくったのではないか。
 紀元前660年は、歴史学者によると、毛皮をまとって、獣を追っていたとされるが、紀元前30世紀から20世紀にかけて、東北中心に「縄文都市」というべき文明(三内丸山縄文遺跡)が存在していた。
 このことから、紀元前7世紀に遷都の発想があってもなんら不思議はない。
 次回以降、紀元前7世紀がどんな時代だったか検証していこう。
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2017年07月26日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」@

 ●実在した欠史8代の天皇
 皇紀元年は紀元前660年である。
 神武天皇はこの年に橿原宮(かしはらのみや)で即位している。
 ところが、日本の歴史家(学会)は、神武天皇が想像上の人物にすぎないとして、その存在を否定、歴史教科書からも削除してしまった。
 実在を確証できるのが、崇神天皇(10代)以降として、欠史8代の天皇の存在すらもみとめようとしない。
 それなら、崇神天皇以前の日本はだれが治め、どんな政治体制にあったのか。
 日本の歴史家は、その素朴な疑問にいっさい答えようとしない。
 かれらは、皇国史観を否定するために歴史家になった左翼なので、古事記や日本書紀を否定すれば事足りるとして、紀元前660年については、ただ縄文後期と記して平気の平左なのである。
 紀元前が空白なのは、当時、日本は、国家形成などおぼつかない野蛮な原始時代だったというわけで、その一方、中国の春秋時代(紀元前6世紀)や伝説上の国家にすぎない箕子朝鮮(紀元前3世紀)にはそれなりの記述がある。
 中国の書物に日本という国号がでてくるのは『旧唐書』(10世紀)が最初で、そこには「小国だった日本が倭国を併合した」と書かれている。
『旧唐書』のあとに書かれた『新唐書』にこういう記述がある。
「日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居(中略)彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。次曰綏靖、次安寧、次懿コ、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀」
「日本は、いにしえの倭奴国なり。唐の都から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中に在る島である」につづいて「彦瀲(ひこなぎさ)の子の神武が立ち、天皇を号して、大和州に移って統治した。次は綏靖、次は安寧、次は懿コ、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀」と欠史8代をふくめて、13人の天皇の名前が列記されている。
 彦瀲(ひこなぎさ)は、記紀によると、山幸彦(彦火火出見尊)と豊玉姫の子で、神武天皇の父親にあたるミコト(神)である。
 神話と実史が入り混じるのは、どの建国史もそうで、古代ローマ史も、伝説と伝承、実史が渾然一体となっている。

 紀元前7世紀の日本について一言も触れない日本の歴史学会が血道を上げてきたのが「邪馬台国論争」である。
『魏志倭人伝』に記載された邪馬台国がどこにあるかという、愚にもつかない問題を大々的に論じてきたわけだが、邪馬台国も卑弥呼も蔑称で、そんなものが実在するわけはなく、記紀には一言も載っていない。
 邪馬台の台(タイ)≠ヘ日本語読み(訓)で、中国語の音はトである。
『隋書』は「邪靡堆」、『魏志』は「邪馬臺」、『後漢書』は「邪摩堆」で、読み(音)いずれもヤマトである。
 ちなみに卑弥呼の次の女王「台与」の読みも「とよ」である。
 なぜ、魏志倭人伝にかぎって「台」を「タイ」と読むのか。
 卑弥呼も、女王の位にあるものがみずから卑≠ニいう文字を使用するわけはなく、倭国の倭(背の低い・曲がった)≠ニ同様、語呂合わせの蔑称である。
 卑弥呼は日女命(ひめのみこと)のことで、正式には「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)である。
 孝霊天皇の皇女で、大和朝廷の御神体である三輪山の祭神・大物主のお告げをつたえ(鬼道)、崇神天皇をしばしば援けた。
 歴史学会が魏志倭人伝の記述を盲信して、表記どおりだと海上に出てしまう道のりを辿って邪馬台国の場所をもとめたのは、冗談でなければ、大和朝廷の存在を否定するためで、邪馬台国が実際にあったとすれば、紀元前660年の皇紀元年が消えてしまう。
 邪馬台国論争は、大和朝廷(歴史学会はヤマト政権)の存在を打ち消すためのめくらましで、日本の歴史学者は、皇国史観を否定できればなんでもいいのである。
 げんに、歴史研究者は、神武天皇の東征をお伽噺として片付け、史料として一顧だにしない。

 古事記や日本書紀に載っている「東征」は、壮大なる叙事詩で、文芸性のみならず歴史性もきわめて高い。
 しかも、そこには、邪馬台国論争を超える大きな真実が隠されている。
 一つは、出自が南九州の日向国(宮崎県)というところにある。
 フィクションならはじめから大和の地(奈良県)に中央政権があったとしたほうが都合よかったはずである。
 日向を立って、強敵とたたかう苦難の果て、大和の三輪山麓に朝廷を立てたということは、九州やその他の地域に大勢力があって、大和朝廷は、そのなかの一つにすぎなかったとみずから告白しているにひとしい。
 これは史実で、天皇の権威が確立するまで、各地で権力抗争がくり返されていたはずである。
 もう一つは、三輪山麓に拠点を設けた大和朝廷が徐々に力をつけてゆく背景に、神話もしくは宗教的な感情がはたらいていたと思われることである。
 紀元前7世紀末の神武から9代開化天皇、さらに、全国規模の政権になった崇神天皇(10代)までの一〇〇〇年近いあいだ、記紀にはいくさにかんする記述がほとんどない。
 武力衝突なくして、長期の政権を維持できたのは、神話的・宗教的な結束があったからと考えるほかない。
 欠史8代の天皇が異常に長寿なのも、そのことと無縁ではないだろう。
 天皇の崩御を隠蔽して、為政者が、その後も体制を維持したのである。
 天皇が不在でも体制を維持できたのは、天皇が祭祀王だったからで、当時の政治体制は、天皇の宗教的権威の下で、権力者による集団指導がおこなわれていたと考えられる。
 天皇が日本国全体の統治にのりだしたのは、10代崇神天皇以降である。
 崇神朝の四道将軍(北陸・東海・西海・丹波に崇神の4皇子を派遣)や景行天皇(12代)の皇子「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の九州・出雲・東国の平定などがそれで、以後、天皇は、政治の表舞台にでてこない祭祀王から政(マツリゴト)の陣頭指揮をとる覇者へとすがたを変えるのである。


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2017年07月11日

 万世一系と「女系天皇・女性宮家」D

 ●伝統主義と祭祀国家
 女性・女系天皇問題に「男女平等」をもちだすのは憲法違反でもある。
 現憲法では、第2条で、皇位の世襲が謳われているからである。
 そして、皇位の継承については、皇室典範の定めるところによるとしている。
 皇室典範の第1条には、皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承すると明記されている。
 憲法が男女不平等≠宣しているのである。
 憲法14条(法の前の平等)には「国民は、人種、信条、性別、社会的身分または門地によって差別されない」とある。
 すると、2条と14条は矛盾していることになる。
 近代法である現憲法のなかで、天皇条項だけが、伝統という非合理性の上に立っているのである。
 これは、重大なポイントで、わが国では、伝統が、憲法において担保されている。
 民主主義の使徒、マッカーサーですら、天皇という伝統的存在を合理性から切り離さざるをえなかったのである。
 自民党の二階幹事長が「現代は女性尊重の時代で、天皇陛下だけはそうならないというのはおかしい」というのは、憲法に謳われている二重規範をみない浅はかな考えで、アメリカ人のマッカーサーに及ばない短慮である。
 憲法に伝統が謳われていることに大方の日本人は無関心で、皇統の男系相続には「合理的根拠がない」(山尾志桜里議員)などの愚論がまかりとおっている。
 伝統が不合理なのはあたりまえで、その代表が神話や祭祀である。

 沖ノ島の古代祭祀が世界遺産に登録された。
 沖ノ島で国家的な祭祀が始まったのは大和朝廷の初期の4世紀である。
 その古代祭祀が廃れたのは、宮中祭祀が確立され、伊勢神宮、全国の神社が整備されたからであろう。
 古代祭祀は、その一部が宮中祭祀にひきつがれて、現在に残る。
 世界遺産委員会が沖ノ島(沖津宮)のほか、内地の宗像大社中津宮・宗像大社辺津宮、新原・奴山古墳群など八つの構成資産のすべてを世界遺産にみとめたのは、宮中祭祀にひきつがれた古代祭祀の歴史的連続性を評価したからである。
 沖津宮と中津宮、辺津宮の3女神を生んだのが天照大御神で、皇室の始祖であり、日本人の総氏神である。
 天照大御神が女性神だったことから、古代日本に男尊女卑の思想がなかったことがわかる。
 男女を比較するのは、人間という近代的観念が生じたあとのことである。
 日本の神話にも、人間や人間という考え方はでてこない。
 天地開闢には「造化の三神」やニ柱の「別天津神」が登場するが、すがたをみることはできず、むろん、性別もない。
 そのあとうまれるのが国之常立神と豊雲野神、そして五組の男性神と女性神の「神世七代」である。
 神世七代の最後にあらわれるのが伊邪那岐神(イザナギノカミ)と伊邪那美神(イザナミノカミ)である。
 国産み・神産みでは、イザナギとイザナミとの間に日本本土となる大八洲の島々や山・海・川・石・木・海・水・風・火など森羅万象の神々がうまれる。
 このときイザナミとイザナギは「成り成りて成り合はざる処一処在り」「成り成りて成り余れる処一処在り」といい交わしている。
 天照大御神をうみだした(イザナキからの左目から生まれた)日本開闢の始祖であるイザナギとイザナミが男神と女神だったことは象徴的である。
 日本の神代にいたのは、男神と女神で、人間神ではなかったのである。

 男女差別の土台となっているのがヒューマニズム(人間主義)である。
 人間という考え方は、ルネッサンスの啓蒙思想で、神や教会に対抗できるのが、男と女をひっくるめた人間という存在だった。
 だが、人間主義は、宗教的観念にすぎず、生きているのは、あくまで、男と女である。
 女性は母性でもあって、子を産み、育てる母親と、金銭や組織のために外で働く男は別々の存在で、したがって、男と女を比べるという発想もなかった。
 フランス革命の人権宣言でも、男女平等は謳われておらず、これに抗議したのが、フェミニズム運動のはじまりである。
 男女同権という考え方がでてくるのは、第3回国際連合総会(1948年)の世界人権宣言「基本的人権、人間の尊厳および価値並びに男女の同権」(前文)以降のことで、それも、フェミニズム運動の成果としてとりいれられたにすぎない。
 世界経済フォーラムの報告によると『世界男女格差レポート』で日本は世界145カ国中101位という。
 日本に、女性の政治家や官僚、企業の重役、勤労所得や労働参加人口が少ないのは、短期就業のOLや専業主婦が多いからである。
 一方、国連開発計画 (UNDP) の「人間開発報告書」のデータでは、日本の男女間の不平等格差(平均寿命、1人あたりGDP、就学率など)は187カ国中の17位で、非就業の日本女性が、英米仏の女性よりも恵まれた環境ですごしているのである。
 戦後、伝統を旧弊として退ける風潮がはびこってきた。
 そして、近代合理主義や唯物論を善とする改革主義が猛威をふるってきた。
 だが、真に価値あるものは、歴史的連続性の上に立った普遍性こそにある。
 そのことは、伝統国家である日本が、その伝統をまもることによって、世界の大国たりえていることからも明らかなのである。
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2017年07月06日

万世一系と「女系天皇・女性宮家」C

 ●皇統の男系をまもった八人の女性天皇
 天皇政治が確立される6世紀頃まで、蘇我氏や物部氏、中臣氏、大伴氏らの豪族が天皇をしのぐほどの大きな力をもっていた。
 皇統は男系でも、のちに摂政(源平籐橘)へひきつがれる豪族政治は、女系(天皇の外戚)で、初期の大和朝廷は、女系が男系を圧倒していた時代ということができる。
 豪族たちは、競うように子女を天皇に嫁がせ、天皇家と外戚関係(女系)をむすんで勢力を拡大していったのである。
 欽明天皇(29代)の子のうち、天皇になったのは、敏達天皇(30代)と用明天皇(31代)、崇峻天皇(32代)、推古天皇(33代)の四人である。
 そのうち、敏達天皇以外、母親は、蘇我稲目の子女である。
 ちなみに、推古天皇が、敏達天皇の皇后薨去にともなって、後添えとなったのは近親婚(異母兄妹)で、敏達天皇のあいだに竹田皇子をもうけている。
 天皇との外戚関係を固め、政治の実権を握ってのしあがってきたのが、仏教戦争(丁未の乱)で物部氏を討った蘇我氏で、4代(稲目・馬子・蝦夷・入鹿)にわたって、権勢をほしいままにする。
 蘇我氏は天皇にとっても最大の難敵で、穴穂部皇子(欽明天皇の子)の殺害や崇峻天皇の暗殺、山背大兄王(聖徳太子の子)の討滅と、天皇家の生殺与奪の権を握っているかのような勢いだった。

 敏達天皇と用明天皇が相次いで疱瘡で崩御したのち、崇峻天皇が蘇我馬子のさしむけた刺客に暗殺されるという事件がおきて、欽明天皇の第三女、額田部皇女がわが国初めての女帝、推古天皇となる。
 額田部皇女が稲目の孫にあたることから、蘇我氏の後押しもあっただろう。
 だが、推古天皇は、蘇我氏の傀儡になることなく、用明天皇の子、厩戸皇子(聖徳太子)を摂政に立て「冠位十二階」や「憲法十七条」などの律令的な政策を打ち出し、天皇政治の基礎を固める。
 推古天皇は、わが身を矢面に立たせて、聖徳太子に自由に政治をやらせたのである。
 そのせいか、聖徳太子の子、山背大兄王は、蘇我入鹿に攻め滅ぼされて、子孫が絶えている。
 推古天皇を継いだのは、押坂彦人大兄皇子をへて、敏達天皇の直系の男孫にあたる舒明天皇(34代)である。
 皇統は、推古天皇を中継ぎとして、男系のまま継承されたのである。

 聖徳太子がめざした天皇中心の政治の完成には「大化の改新」まで待たねばならない。
 統治、政治の実権を握っていたのは蘇我蝦夷・入鹿親子で、依然として、蘇我氏の天下がつづいている。
 蘇我氏に推挙された舒明天皇が崩御した後、皇后が史上二番目の女帝として皇位につく。
 皇極天皇(35代)である。
 敏達天皇から押坂彦人大兄皇子、茅渟王と下った三代目で、孝徳天皇(36代)は弟にあたる。
 天智天皇(38代)・天武天皇(40代)の母でもあって、中大兄皇子と中臣鎌足らによる蘇我入鹿の暗殺、翌日の蝦夷の自殺(乙巳の変)は、皇極天皇の目の前でおきた事件である。
 蘇我氏4代の繁栄は、乙巳の変によって、一夜にして崩壊する。
 中大兄皇子はのちの天智天皇である。
 乙巳の変の直後、皇極天皇は退位し、弟が孝徳天皇、中大兄皇子が皇太子になる。

 ここで異変がおきる。
 孝徳天皇が、中大兄皇子と不和となって、翌年、憤死するのである。
 皇極天皇が重祚して斉明天皇(37代)となったのは、中大兄皇子が即位に応じなかったからである。
 中大兄皇子が即位するのは、白村江の戦い(日本・百済対唐・新羅)に大敗した後のことで、大宰府(北九州)防衛に奔走した天智天皇は、全精力を使い果たしたかのように没する。
 ここでふたたび紛争(壬申の乱)がもちあがる。
 天智天皇の弟(大海人皇子)が、天智天皇の子(大友皇子)に反旗を翻すである。
 大友皇子が後の弘文天皇(39代)で、大海人皇子が後の天武天皇(40代)である。
 反乱者である大海人皇子が勝利して、天武天皇の時代が到来する。
 ここが古代史のターニングポイントで、天武・持統朝から現在の日本の原型がつくりあげられてゆく。

 天武天皇と持統天皇(41代)、文武天皇(42代)、二人の女帝、元明天皇(43代)元正天皇(44代)の時代は、聖徳太子が掲げた天皇中心の政治を完成させた時代であった。
 持統天皇が皇位を継承した理由は、実子の草壁皇子と異母兄弟の大津皇子の政争を避けるためである。
 ところが、大津皇子に謀反の疑いがかかって、逮捕・処刑されるという事件がおきる。
 そして、大津皇子の処刑後、草壁皇子も病死する。
 持統天皇が退位しなかったのは、草壁皇子の長男が即位できる歳まで待ったのである。
 それが14歳の若さで即位した文武天皇(42代)である
 持統天皇は、天武天皇から草壁皇子、文武天皇へ男系相続を引き継ぐための中継ぎを果たしたのである。
 ところが文武天皇は短命で、長男の首皇子が幼かったため、文武天皇の母である元明天皇(43代)、姉である元正天皇(44代)が相次いで即位する。
 元明・元正の両女帝を経た後、皇統は、文武天皇の直系である首皇子のちの聖武天皇(45代)へと継承される。

 
 聖武天皇の系列が絶えると孝謙天皇(46代)と称徳天皇(48代)という女性天皇を挟み、天武天皇の系列から淳仁天皇(47代)、そして、天智天皇の系列から光仁天皇(49代)が即位して、桓武天皇(50代)にひきつがれる。
 孝謙天皇・称徳天皇は同一人物(重祚)で、天武天皇から舎人皇子、淳仁天皇へ、天智天皇から志貴皇子、光仁天皇へと皇統をうけわたす役割をはたしていたのである。
 徳川幕府の皇室封じ込め政策に反発して退位した後水尾天皇(108代)の後、皇位についたのが後水尾天皇の皇女、明正天皇(109代)で、異母弟の後光明天皇(110代)への中継ぎ役をはたしている。
 後桜町天皇(117代)もまた、桜町天皇(115代)の内親王で、後桃園天皇(118代)への中継ぎだった。
 かつて、日本に存在した女性天皇は、皇統の男系相続をまもるためで、皇統以外の男性遺伝子(Y染色体)をもった子を産み、男女を問わず、その子を天皇にしようという女系天皇とは考え方がまったく逆である。
 女性天皇は、皇統の男系継承の補佐であって、女性天皇から女系天皇という道筋はありえないのである。

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2017年06月29日

 万世一系と「女系天皇・女性宮家」B

●混乱している「皇統」と「家系」
 歴史学者ですら「皇統」と「家系」の区別がつかない者が少なくない。
 嫡子がいなかった武烈天皇(25代)のあとを継いだ継体天皇(26代)が、応神天皇(15代)の5代末裔であることをもって、王朝交替があったなどというのがそれである。
 同一王朝なら、桓武天皇(50代)から5代末裔の平将門が天皇になるようなもので、ありえない話というのである。
「皇統」と「家系」を混同して、代を重ねるごとに血統の純粋性が失われると思っているのであろう。
 便宜上、X染色体とY染色体を例にとって話をすすめよう。
 男性の染色体がYXで、女性がXXである。
 Y染色体を継承するのが皇統で、X染色体をひきつぐのが家系である。
 Y染色体は男性だけに継承されるので、父方をさかのぼっていけば、祖先の男性にゆきつく。
 ところが、X染色体の母方をさかのぼっていっても、無限数の女性の祖先があらわれるだけで、祖を特定することはできない。
 男性も女性もX染色体をもっているからで、代をかさねるごとに男女両方のX染色体が累々と混交して、いわゆる「血が薄くなる」という現象がおきる。
 Y染色体がいくら代をかさねても、他のY染色体と混交しないのは、女性がY染色体をもっていないからである。
 神武天皇のY染色体は、継体天皇にも平将門にも、純粋な形でひきつがれていたのである。

 応神天皇から継体天皇までは、若野毛二派皇子〜意富富等王〜乎非王〜彦主人王とすべて男性だが、桓武天皇と平将門の5代のあいだに女系(入り婿)が混じっていれば、将門には皇位の継承権がなかったことになる。
 神武天皇のY染色体が入り婿のY染色体にすりかわってしまったからである。

 皇統は一本の樹木にたとえることができる。
 傍系が枝で、どの枝(系列)も、神武天皇のY染色体を継承している。
 今上天皇の系列は、光格から仁孝、孝明、明治、大正、昭和の各天皇へつらなる閑院宮家(東山天皇の第六皇子閑院宮直仁親王が創設)という枝である。
 この枝は、後桃園天皇(118代)に直系男子がいなかったため、閑院宮家二代目典仁親王の皇子が光格天皇として即位したのがはじまりである。
 閑院宮家の創設(1710年)にうごいたのが、皇統存続に危機感を抱いた新井白石で、傍系が皇籍離脱(出家)するしきたりを枉げ、皇位継承ができる世襲親王家(伏見宮・桂宮・有栖川宮)に閑院宮をくわえた。
 閑院宮家という枝を折っていたら、皇統が絶えかねなかったところに皇室の危うさがあり、徳川家も、家康直系の尾張と紀州、水戸の御三家があったために、七代将軍家継が8歳で死去して本家が断絶しても、紀州の徳川吉宗が八代将軍に立って、血統がまもられた。
 メディチ家やハプスブルク家など名家・名門から成るヨーロッパの王位継承順位が、他国の王室までまきこんで、驚くほどの数にのぼっているのは、内乱や戦乱が多かった名残で、血統をまもるため幾重にも保険をかけたのである。
 世襲による血統の維持、とりわけ男系相続はきわめて困難で、男子が生まれなければ、日本の皇室の場合、たちまち、皇統断絶の危機にさらされる。

 戦後の日本統治に天皇を利用したGHQが、皇室の将来的な廃絶を意図していたことは、11宮家の臣籍離脱を強要し、皇室の財産を没収したことからも明らかであろう。
 象徴天皇は、天皇を憲法上の存在へ変質させ、皇室典範を憲法に組み込むことだったのである。
 11宮家が廃止となって、51人が皇籍を離脱したのち、皇統維持に必要な皇族は、昭和天皇の直宮3宮家(秩父宮・高松宮・三笠宮)だけとなった。
 重臣会議の席上、鈴木貫太郎首相が「皇統が絶える懸念はないか」たずねると、加藤宮内次官は「国民がみとめるなら、かつての皇族のなかにふさわしいかたがおられる」「(旧皇族には)皇位を継ぐべきときがくるかもしれないとの自覚のもとで身をお慎みになっていただきたい』と返答している。
 また、赤坂離宮でのお別れ晩餐会では、昭和天皇から「身分は変わるようになったけれども、わたしは今までとまったく同じ気持ちをもっている」というおことばがあった。
 皇室と11宮家の交流は、菊栄親睦会をつうじていまもつづき、ェ仁親王は「わたしのなかには皇族と元皇族の垣根はありません」と語ってもおられる。

 皇室典範第二条(「皇位は左の順序により皇族にこれを伝える」)のなかに「前項各号の皇族がないときは、皇位は、最近親の系統の皇族にこれを伝える」とある。
 この文章を「皇族もしくは旧皇族」と書き換えることで、皇統の継嗣問題は一挙に解決する。
 臣籍降下した11宮家を皇統維持の枠から除外している条項はこの一行だけある。
 女性天皇などもちださずとももしくは旧皇族≠フ7文字をくわえるだけで皇統の男系男子はまもられるのである。
 旧皇族の皇籍復帰が望ましいが、それには野党やマスコミ(日本マスコミ文化情報労組会議)が猛烈に反対するであろうし、保守系のなかにも、一般人になったひとが天皇になることには違和感があるという意見が少なくない。
 そこから、天皇の内親王が天皇になる「女性天皇」論が浮上してくる。
 女性天皇から、その皇子が新たな天皇になる女系天皇へは一本道である。
 そのとき、神武天皇の血統が絶え、天皇の祖先が別の樹木に移る易姓革命がおきる。
 神武天皇の男系直系である旧皇族の皇籍復帰には違和感があって、Y染色体をひきつがない女性、女性宮家の入り婿になった一般人男性が天皇になるのに違和感がないというのはとおる話ではない。
 次回は、女性天皇を中継ぎにしながら男系相続がまもられてきた歴史を振り返ってみよう。
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2017年06月26日

 万世一系と「女系天皇・女性宮家」A

 ●易姓革命を防いだ聖俗%元体制
 皇位や皇統は神事で、世俗の政治や制度と同列に語ることができない。
 皇統の男系相続も、神事のしきたりで、俗説をもって、聖域を論じることができないのは、神を合理で語ることができないのと同じ話である。
 東大法卒でハーバード大学留学、検察官だった民進党の山尾志桜里が皇統の男系男子を「合理的な根拠がない」とのべたのは、俗論以下の暴言というしかない。
 秘書に暴言を浴びせかけ、暴力をふるい、自民党を離党した豊田真由子議員も、東大法卒でハーバード大学留学、厚労省高級官僚という同じような経歴をもっている。
 このことから、合理が俗説や暴論の範疇にあることが容易にみてとれる。
 合理の結晶が革命で、共産主義が虐殺と腐敗、圧政などの暗黒性しかもたらさなかったことはだれもが知っている。
 科学も合理だが、現代文明をつくりあげたのは、数学や技術の数千年におよぶ歴史的蓄積で、同じ合理でも、歴史を破壊した上に成り立つ革命とは、むいている方向が逆である。
 合理と伝統は、裏と表の関係で、おおよそ物事は、合理で説明のつくものとつかないものが渾然一体となって成り立っている。
 ところが、東大卒やハーバード留学などのインテリ馬鹿は、すべて、合理で説明がつくと思っている。
 天皇や皇統をめぐる議論は、歴史的価値を尊重する人々と合理しか見えない者たちたちの争いで、世界最古の木造建築である法隆寺を壊して、近代建築に建て替えろという合理主義者にたいして、伝統や歴史の価値を説いたところでラチが明かない。
 男系相続という、合理を超えた伝統的価値を理解することができないからである。

 共同体(国家)も、科学と同様、伝統という合理を超えた土台をもっている。
 それが祭祀で、宗教的結束からできあがった祭祀国家の形態を維持しているのが伝統国家である。
 祭祀を司る天皇の下で、摂政や関白、征夷大将軍、幕府、政府と権力構造が移ろってきたのがわが国の歴史で、日本は、世界最古の宗教国家でもある。
 戦後、キリスト教などの一神教のみを宗教として、日本を無宗教国家、日本人を無神論者ときめつける風潮がはびこったが、とんでもない話である。
 人口にたいする宗教施設(神社や仏閣)は世界一で、初詣や七五三、供養や法事など国民生活に密着する宗教的行事の多さも比類がない。
 キリスト教などの一神教は啓示宗教で、神話やアニミズム、汎神論にもとづく神道は自然宗教(崇拝)である。
 そして、神道と習合した大乗仏教は、集団宗教である神道にたいして、個人宗教で、釈迦の死生観は、西洋哲学に大きな影響をあたえた。
 日本人の素朴な信仰心にもとづく国体の上に、政体という権力構造がのっているのが、伝統国家・日本の国の形である。
 日本を無神論国家という強弁は、祭祀(国体)を無視して、権力構造(政体)だけに目をむけさせようという魂胆で、国体の破壊をもくろむ左翼の論法である。
 政体をひっくり返すのが革命で、中国の易姓革命も西洋の市民革命も、そのたびに、王や皇帝ともども、一族や前政権をささえた人々が皆殺しにされた。
 日本が祭祀国家の形態をとって、国体と政体を切り離したのは、易姓革命を避けるためで、日本で政変がおきても、権力構造が代わるだけで、祭祀国家の頂点にいる天皇になんの動揺もなかった。

 そこに、皇統が男系相続となった最大の理由がある。
 男系相続であれば、父から父へたどる系図が一本道なので、争いがおきない。
 ところが、母から母へたどる系図では、入り婿という形で、権力者が入ってくる可能性がある。
 女系相続では、女帝の孝謙天皇(重祚して称徳天皇)に仕えた道鏡や次男の義嗣を天皇にして治天の君(上皇)になろうとした足利義満のような野心家を、皇統の純血性から排除できないのである。
 古代から皇統の男系相続を貫いてきたのは、天皇の血統に他の男系の血統を入れないためで、その智恵が、結果として、神武天皇のY遺伝子が純粋な形で今上天皇まで引き継がれた。
 女系相続では父親由来のY遺伝子、男系相続では母親由来のミトコンドリアが、それぞれ途切れる。
 ミトコンドリアにそって、女系遺伝をたどっていけば人類の始祖というべき一人の女性(「ミトコンドリア・イブ」)にゆきつくという仮説に科学的根拠があたえられたのが2000年(ネイチャー・ジェネティクス誌)である。
 同じ論理で、Y遺伝子にそって、男系遺伝をたどっていけば、天皇の始祖である神武天皇にゆきつく。
 といっても、二六七七年の伝統国家をささえてきたのは、皇統維持に男系を選択して、その原則をまもりとおしてきた日本人の叡智と宗教的信念で、科学的な根拠は、現代人があとから付けた理屈にすぎない。
「皇位の男系男子継承は女性差別である(小林よしのり)」や「女性尊重の時代に天皇陛下だけ例外というのはおかしい(二階俊博幹事長)」というのは、現在の価値観をもって歴史をながめる態度で、ノーテンキもはなはだしい。
 現在は過去の積み重ねで、過去の出来事や価値観も現在にひきつがれている。
 平安時代に成立した能(能楽)が古いからといって、現代風なジャズをとりいれるのは、改革ではなく、ただの伝統破壊である。
 次回は、皇統や男系の血統に歴史的実証性や科学的根拠がないという愚論を批判しよう。
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2017年06月20日

 万世一系と「女系天皇・女性宮家」@

 ●「左翼・反日」「新自由主義」「フェミニズム」の三大害悪
 自民党の船田元は衆院憲法審査会で「天皇の職務の助けになる」「女性天皇の道を開く」の二点を挙げて女性宮家の創設に賛意を示し、女系天皇についても肯定的な意見をのべた。
 自民党幹部は、議事録の残る審査会の場で皇室の伝統に否定的な意見をのべた船田に衝撃をうけたというが、今回の発言に伏線がなかったわけではない。
 船田は、2015年6月の衆院憲法審査会(安全保障関連法)の参考人質疑で、内定していた保守系の憲法学者・百地章を「色が付きすぎている」という理由で退け、集団的自衛権の行使に批判的な「国民安保法制懇」の長谷部恭男早稲田大教授を推薦するチョンボを犯して、憲法改正推進本部長をクビになっている。
 自民党側の参考人が安倍政権のすすめる安保法制に反対意見をのべる「オウンゴール」となったからだった。
 学校教材に「教育勅語」の使用を認めた政府答弁にも批判的で、憲法改正にいたっては、野党の意見を尊重すべしと公言して、自民党の改憲案を否定する始末である。

 船田は、かつて、閣僚をつとめる宮澤内閣に不信任決議案をつきつけて自民党をとびだし、新生党や新進党などで小沢一郎の側近をつとめたあと自民党に復党した男だが、言動が注目されてきたわりには政治家としての信条が見えてこない。
 一点だけはっきりしているのは、不倫関係から再婚した畑恵(元参院議員)と同様、フェミニズムの推進者ということで、夫婦別姓にも賛成している。
 このことから「女系天皇・女性宮家」ついての発言が男女同権(無差別)にもとづいているとかんたんに底が割れる。
 同審査会では、自民党の鬼木誠が「女系で継承すればちがう王朝になる」と反論し、旧宮家の皇籍復帰を主張したが、船田は意に介するふうもなかった。
 フェミニズムは、社会的・文化的性差(男性原理・女性原理)までも否定するからで、船田の頭のなかには女系も男系もないのである。

 国家防衛や国体護持、伝統や誇りなどが男性原理で、経済原理や原発などの国家的インフラ、愛国心などが女性原理である。
 国家は問答無用≠フこの二つの原理から成り立っている。
 その両方を否定するのがフェミニズム(ジェンダーフリー)で、その根拠となるのが合理主義(唯物論)≠ナある。
 合理主義とは、ことばで説明をつけることだが、世界をつくりあげているのは、ことばで説明がつかない不思議や奇異であって、ことばで説明がつくものは、共産主義と同様、インチキと相場がきまっている。
 民進党の北神圭朗は「世の中には合理性だけで割り切れないものがある。女系になれば皇統が歪められる。旧宮家復活などの可能性を探るべき」と正論を吐き、この日の衆院憲法審査会は、船田と北神のどちらが保守なのかわからない展開となった。
 同審査会では、民進党の山尾志桜里(しおり)が皇統の男系男子相続について「歴史的経緯のほかに合理的な根拠は聞こえてこない」とクレームをつけている。
 山尾は、待機児童問題で「保育園落ちた日本死ね」というブログのタイトルを国会で取り上げて「流行語大賞」の年間大賞(トップ10)を受賞した反日政治家で、千葉景子や岡崎トミ子、福島みずほ、辻元清美らと肩を並べるフェミニストである。
 フェミニズムが、護憲や原発反対に走るのは、国を護る男性原理と女性原理の両方に反対だからである。

 男でも女でもないものは化け物であろう。
 それが反伝統・反自然のフェミニズムの正体で、拠って立つところが合理主義(唯物論)である。
 フェミニズムも二項対立を煽って体制転覆をはかる革命思想だからで、マルクスが考案した資本家と労働者の階級闘争理論を、男と女の性差闘争におきかえたのがフェミニズムである。
 福島みずほらの女性マルキストが夫婦同姓を「家父長制度の名残」「妻は夫に搾取される家事奴隷」と主張する根拠もそこにある。
 フェミニズムが「シングル・マザー」を女性の理想のように称え、男女共同参画社会を支持するのは、マルクス主義が「家族解体」と「働かざる者食うべからず(「スターリン憲法第12条」)の原理に立つからである。
 国民が国家の家畜となる共産主義にあるのは合理主義だけで、宗教や伝統という唯心論的価値は抹殺される。
 その唯物論から「歴史的経緯のほかに合理的な根拠がない」として、男系男子を否定する山尾(東大法卒・元検事)のような主張がでてくる。

 ルーツはジェンダーフリー(雌雄同体)という悪魔の思想で、そこからでてきたのが男女共同参画社会や「皇統の男系相続は女性差別(国連女子差別撤廃委員会)」という俗論である。
「男女共同参画社会基本法(1999年)」などの悪質な法をつくったのは権力内に巣食っている東大左翼で、男女共同参画会議(議長)の大沢真理東大教授はホモやレズを賛美する性差否定者(性錯覚者)である。
 男女共同参画局(内閣府)の主婦にたいする啓発活動(再チャレンジ)では賃金労働への復帰が謳われているが、これは、育児や家事、夫にたいする妻の役割放棄を謳ったスターリン憲法のコピーである。
 これに社民党や共産党、民進党、公明党、自民党左派、マスコミや左翼学会がのって、深くしずかに体制破壊の策謀がすすめられている。
 
 フェミニズムが厄介なのは、左翼・反日、アメリカ主義(民主主義・新自由主義)と手をむすんで、伝統破壊にむかうところにある。
 三者の共通の標的が伝統で、それが、皇統の男系相続(万世一系)である。
 アメリカも伝統をもたない革命国家で、共産主義の代わりに民主主義をとっただけである。
 ちなみに船田元は、左翼ではなく、新自由主義者で、新進党時代、YKKと「首相公選制と首相の資質を考える会」)を結成している。
 かれらの戦略は三つあるだろう。
 @国体(権威・歴史・文化・習俗)の破壊
 A価値観の転換(唯心論から唯物論、「和の心」から民主主義・共産主義へ)
 B権威に代わるカリスマの構築(大統領や国家主席など個人崇拝の対象新設)
 これを受けて立つのは、政体(国家や政治機構)ではなく、国民である。
 次回から「女系天皇・女性宮家」をとおして国体や皇室、権威の破壊しようとする勢力に国民はどう立ち向かってゆくべきかについて議論をすすめたい。

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2017年06月16日

 中国・北朝鮮発「アジア・中東危機」B

 ●世界を戦場化≠ウせる北朝鮮のミサイルと核
 前世紀まで、米大陸を射程に入れた北朝鮮の核ミサイルが世界を震撼させるなどとだれが想像できたろうか。
 北朝鮮のような小国がアメリカと渡りあえるのは、核やミサイルが空間的に移動が可能な唯物論的文明だからで、近い将来、アルカイダやイスラム国が核ミサイルを保有する可能性も否定できない。
 一方、歴史や習俗、宗教などの唯心論的文化は、移動することも他国と共有することもできない。
 そこに現在の「危機の構造」がある。
 民族や国家、価値観や宗教の対立をひきずったまま、北朝鮮のような小さな独裁国家までが核やミサイルをもつことができ、しかも、米ソ冷戦構造崩壊や米一極支配の終焉にともなって、文化や宗教、利害が異なる国や地域、集団の対立が先鋭化しているのである。
 ハンティントンのいう文明圏(西欧文明/中華文明/インド文明/ユダヤ文明/イスラム文明/日本文明/ロシア文明/ラテンアメリカ文明/アフリカ文明)は、衝突の可能性をひめた文化の壁≠ナ、しかも、同じ文明圏であっても、イスラムのシーア派とスンニ派、北朝鮮と韓国のように一触即発の危機をはらんでいる。
 文化・宗教的に対立する多くの国や民族、集団がいっせいに文明の象徴たるミサイルや核兵器をもてば、核戦争の危機が一挙に拡大される。

「危機の構造」を招いた二つ目の原因に大国の凋落があげられる。
 米ソ冷戦構造の時代、国や地域、集団の紛争は、米ソの代理戦争におきかえられて多くが泥沼化したものの相互確証破壊≠フ論理がはたらき、核戦争にブレーキがかかった。
 この構造があやしくなったのは、アフガニスタン紛争以降である。
 1979年、旧ソ連がアフガニスタン人民民主党政権の安定をはかって軍事介入すると、アフガニスタンの共産化を阻止したいアメリカが、のちに最大の敵となるイスラム原理主義の「アルカイダ(オサマ・ビン・ラディン)」や「ムジャーヒディーン(イスラム戦士・民兵組織)」に武器や資金を援助してソ連に対抗した。
 アフガニスタン紛争への介入がソ連邦崩壊を招き、9・11同時多発テロの原因となったが、それ以上に大きな失点は、アフガン紛争に勝利できなかったことで、以後、米ソ(ロ)は、大国としての指導力を失い、イスラム過激派は武闘(テロ)路線を突っ走ることになる。
 アフガン介入から湾岸戦争(1991年)からアフガン空爆(2001年)イラク戦争(2003年)へ突進したアメリカにあったのは、軍事国家の驕りと国家エゴだけで、世界和平への努力はないにひとしかった。

 ソ連崩壊後、アメリカの一極支配が約20年間つづくが、「9・11同時多発テロ」以降、アメリカのプレゼンスに翳りがでてくると、復活の兆しがみえてきたロシアと台頭が著しい中国がくわわって、パックス・アメリカーナ(一極支配)から米・ロ・中の三極支配へとパラダイムが変わっていった。
 一極支配も多極支配も、結局、大国主義で、核を保有する国連常任理事国5か国(米・英・仏・ロ・中)による世界支配の構造である。
 五大強国のうち、米・中の二国が覇権国家である。
 そのなかで、覇権主義をひときわ露骨にしているのが中国である。
 経済力と軍事力で周囲の弱小国をねじふせる中国の覇権主義は、チベットやウイグル、南シナ海などで成功をおさめ真珠の首飾り≠竍一帯一路$略でも一応の成果をあげたが、ここにきて、足元がぐらつきはじめた。
 北朝鮮の離反と覇権主義にたいする南アジア諸国の抵抗である。
 覇権主義の失敗は、アフガニスタンで、米ロが経験済みである。
 力の論理は、真の勝利や和平をえられないばかりか、軍事主義の分散を招いて、周辺や状況を戦場化≠オてしまうのである。
 アメリカのアフガン攻撃は、タリバンの勢力圏を拡大したにすぎず、イラク戦争はIS(イスラム国)というテロ国家をつくりだしただけだった。
 北朝鮮もテロ国家で、アメリカを敵視するのは、南朝鮮(北は韓国を国家とみとめていない)の宗主国だからである。
 北朝鮮にとって、米軍は、アフガン紛争へ二度介入した異教徒の軍隊だったのである。
 金正恩は、国内に従軍慰安婦像を建てることを禁止し、戦争記念館(中央階級教養館)に予定されていた反日的な宣伝物の展示を不許可とした。
 韓国が「独立記念館」に反日的な展示物を並べているのとは対照的である。
 北朝鮮にとって、朝鮮戦争に関与していない日本は敵ではないので、韓国の反日教育と日本の嫌韓感情はむしろ望ましい。
 中国や韓国が対日敵対政策をつよめると「敵の敵は味方」「味方の敵は敵」という論理がはたらくのである。

 北朝鮮が中国から距離をおいているのは、中国の覇権主義と韓国への接近を警戒してのことで、北にとって敵と味方のボーダーラインは、覇権的か否かと親韓的か嫌韓的かの二点である。
 中国がアメリカや韓国に接近して北朝鮮をしめつけると、ますますロシアへ傾斜してゆく。
 トランプから要請されても、中国が北朝鮮に強硬な措置をとれないのはそのせいで、一方、アメリカは、中国からOKがでなければ、西太平洋に展開中の三隻の空母「カール・ビンソン」「ロナルド・レーガン」「ニミッツ」から一機の攻撃機も出撃させることができない。
 プーチンとの電話会談後、トランプが腰砕けになった理由もそこにある。

 北朝鮮がミサイル発射実験をくり返している理由は二つあるだろう。
 一つは、アメリカと韓国、日本、中国にたいする警告で、ロシアは対象外である。
 事実、ロシア(国防省)はミサイルが領海近くに落ちても「危険はない」と平然としたものである。
 もう一つの理由は、商売のためである。
 北朝鮮が高度2千キロ(ロフテッド軌道)を超える高性能ミサイルの発射を成功(2017年5月)させたが、これは、北朝鮮の軍事的脅威という問題にとどまらない。
 商談がまとまれば、イスラム圏や第三世界が、迎撃不能な高性能ミサイルを北朝鮮から入手できることになって、先進国の都市圏は一挙に危機にさらされる。
 秘密裏におこなわれるミサイルの国際取引は、無原則で、中国製(東風21)がサウジアラビアへ、北朝鮮製がイラン、パキスタン、エジプト、リビア、シリア、イエメンからミャンマーにまで渡っている。
 北朝鮮のミサイルの輸出額は、わかっているだけで、年15億ドル(約1440億円/2009年/ロイター通信)にたっするが、国連制裁がなかったら、取引の総額は、この数倍以上になるだろう。
 インドの核保有に対抗するパキスタンの核が、中国から供給されたのは疑えないが、北朝鮮も、イランやミャンマー(軍事政権)の核開発に関与してきた形跡がある。
 オーストラリア紙(シドニー・モーニング・ヘラルド)によると、ミャンマー軍事政権が北朝鮮の協力の下で北部山岳地帯の地下に原子炉とプルトニウム抽出施設を建設、5年以内の核爆弾開発を目指していた(亡命者2人の証言)という。
 韓国誌の週刊誌(「週刊朝鮮」)も、亡命ミャンマー人の証言として、北朝鮮が2003年から技術者を派遣して、巨大な地下施設(700前後)の建設を支援してきたと報じている。
 イランが核協議の「最終合意(イランと米欧6か国/2016年)」をむすんでも、核弾頭やミサイルの輸入をとめることはできない。
 ということは、核開発をおこなわなくても、北朝鮮から輸入すれば、いつでも核装備をもてるわけで、その結果、イスラエルの核が無力化され、サウジアラビアの核装備が正当化される。
 スンニ派の盟主サウジアラビアは、シーア派の大国イランが核をもてば核装備をおこなうと明言しており、そうなれば、中東情勢が一挙に緊迫化する。
 米・中・ロなどの大国が「世界の安定」という選択肢を捨て、力による支配と覇権主義に走った結果、世界の戦場化≠ニいう最悪のシナリオが書かれてしまったのである。
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2017年06月06日

 中国・北朝鮮発「アジア・中東危機」A

 ●世界経済を破壊する中国の一帯一路$略
 中国の真珠の首飾り≠ェ「マラッカ・ジレンマ」から脱却するための海洋戦略なら、陸上戦略が一帯一路≠ニ呼ばれる経済・外交圏構想である。
 マラッカ・ジレンマというのは、中東からの原油が通過するマラッカ海峡の安全保障を米軍に依存している弱点のことで、有事の際、米軍によって海峡を封鎖されると中国は海外からの補給ルートの80%が断たれることになる。
 マラッカ海峡を封鎖されても、原油を中国に運ぶ拠点港を確保しようというのが真珠の首飾り$略で、その4大拠点が、前項でのべたとおり、インド洋に面したパキスタン、スリランカ、バングラデシュ、ミャンマーである。
 とりわけ重要なのはパキスタンで、現在、同国のグワダル港から新疆ウイグル自治区(カシュガル)まで横断する鉄道や高速道路、石油・天然ガスパイプラインなどが建設中で、習近平とシャリフ首相とのあいだでは、輸送インフラのほか発電所建設、港湾開発などに450億ドル(約5兆4千億円)の投融資が合意されている。
 グワダル港が起点となる「中パ経済回廊」の構築もその一環で、イランへの経済制裁が解除されるとグワダル港に隣接するイランからの原油陸送が可能になる。
一帯一路≠ヘ、中国の経済・外交政策構想のことで、2013年に習近平が提唱して以来、中国の基本的な国家戦略になっている。
 目的は三つある。
 @国内の過剰生産能力を解消して内需不足を補う
 Aインフラ投資や経済援助をとおして中国経済圏を確立する
 B関連諸国との連携をとおして、安全保障と安定的な資源輸入をはかる
 中国からアジア、中東、アフリカなどをとおって欧州まで陸と海のルートでつなぐ現代版シルクロード≠フ影響をうける国はおよそ65カ国、世界人口の6割にもおよぶが、大半が発展途上国なので、中国は高い戦略的経済効果を上げることができる。
 インフラ投資で釣って、過剰生産で国内に余った資材を売りつけ、見返りにから資源を吸い上げるという植民地政策が、発展途上国相手では、中国の思惑どおりにうまく運ぶのである。
 懸念されるのが関係国の経済破壊で、中国から身の丈に合わないスケールの資金や物資がもちこまれることによって、伝統的な経済・産業構造がダメージをうけるばかりか、巨額の債務と金利で、財政が破綻してしまうことになる。

 一見、順風満帆とみえた中国の現代版シルクロード≠セが、目下、三つの難問に直面している。
 一つは、経済侵略にたいする発展途上国の抵抗で、二つ目が中国の仮想敵国とするインドの巻き返し、そして三つ目が日本の世界戦略(「自由と繁栄の弧」)である。
 中国マネーが猛威をふるう南太平洋のトンガ王国では、住宅・商業ビルから総理官邸、航空機にいたるまで、中国が建造したものばかりで、移住してくる中国人が急増していることからも、国が丸ごと中国に乗っ取られた観がある。
 ミャンマーやラオスなどアジアの発展途上国も同様で、中国マネーと中国の物資、中国人が土地や資源、富を収奪する中国化′サ象がすすんでいる。
 スリランカでは、親中派ラジャパクサ前政権が中国から高金利の巨額融資をうけて債務漬けになる始末で、結局、港の株式の80%を中国に譲渡、99年間の長期貸与を余儀なくされた。
 これに現地人が反発して、ミャンマー(合弁銅鉱山)やスリランカ(ハンバントタ港)では、抗議デモが警察と衝突、多数の負傷者や逮捕者が出る事態となった。
 中国の帝国主義的なやり方に関係国の首脳も危機感をかんじはじめている。
 英紙が「ミャンマーを失った傲慢な中国」と報じたように、中国の従属していたミャンマーは、2015年に民政(アウンサンスーチー政権)が誕生して以降、脱中国の方向へうごきだした。
 スリランカでも、大統領がシリセナに代わって、風向きが変わってきた。
 前政権の港湾プロジェクトは継続されるものの、中国べったりの外交姿勢が転換されて、現在、インドとの関係が修復されつつある。
 これまで中国に依存してきたバングラディッシュも、中国が開発を支援する予定だった深海港建設プロジェクト(ソナディア)を中止して、日本の支援でマタバリ港の開発にあたるほか、6000億円にのぼる日本の経済援助などをうけいれて、ベンガル湾産業地帯構想をすすめる。
 インドも、バングラデシュが提案した鉄道、道路建設、発電所など9部門のプロジェクト(20億ドル/2238億円)をうけいれると発表した。

 中国の植民地政策(真珠の首飾り/一帯一路)にたいするインドや日米欧の巻き返しの背後にあるのが、安倍内閣の「自由と繁栄の弧」戦略である。
「価値観外交」と呼ばれる世界戦略の対象は、東南アジアからインド、中東、コーカサス、中央アジア、バルト諸国から北欧へ至る広大な地域で、大東亜共栄圏の拡大版といってよい。
 共栄圏思想は、植民地政策にたいするアンチテーゼで、強国による支配構造を破って、発展途上国の独立自営を援助する。
 収奪を目的とする中国の一帯一路≠ノたいして、日本は、ODAを中心とした経済支援である。
 中国は、アジアインフラ投資銀行(AIIB)をとおしてバングラデシュに発電所建設など20項目以上、約240億ドル(約2兆5000億円)の経済協力を申し入れたが、バングラデシュは日本のODAをえらび、インドとの共同プロジェクトにものりだした。
 価値観外交の特質は「モラル」と「共栄思想」である。
 中国が北朝鮮を暴走させ、韓国の不安定を招いているのも、覇権主義の中国には、この二つの要因が欠落しているからである。
 中国のエゴイズムと反モラルが東南アジアや中東に飛び火すれば、新たな「危機の構造」をつくりだされる。
 予断をゆるさないのが半島情勢で、北朝鮮の核・ミサイルが世界的な脅威になっているにもかかわらず、韓国は反日の度合いをつよめ、一方、反米の北朝鮮は、中国の手に負えない存在となりつつある。
 特ア(中国・韓国・北朝鮮)の反モラルとウソが底なしの混迷を招いているのである。
 次回以降、日本の世界戦略(「自由と繁栄の弧」)の安全保障面に目をむけてみよう。
posted by office YM at 09:27| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする