2018年04月12日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」40

 ●天皇と国家「勅と法」(11)
 明治維新は、複雑な経緯をたどった政変で、いまなお歴史的評価が定まっていない。
 江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が明治天皇に政権を返上して大政奉還(1867年)が成ったところで維新の目的は達成されたはずで、鳥羽・伏見の戦い(1868年)の引き金になった旧幕府勢力への強権圧迫は、まったく必要がなかった。
 まして、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟への常軌を逸した弾圧は、維新の本筋から逸脱しており、戊辰戦争にいたっては長州征伐の事実上の復讐でしかなかった。
 維新運動は、朝廷(公)の伝統的権威と幕府および諸藩(武)の世俗的権力をむすびつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとする公武合体論が主流だった。
 それで明治維新が決着していれば、日本の近代化はまったくちがった道筋をたどっていたろう。
 1、武家政治がひきつがれた
 2、ヨーロッパ化(鹿鳴館・身分制度・帝国主義)のみちをたどらなかった
 3、天皇の政治利用(元首・明治憲法)はありえなかった
 ところが、歴史の歯車は、公武合体論に与しなかった。
 幕府信任の信念を変えなかった孝明天皇の崩御にともなって、薩長や公家の倒幕派が台頭、徳川慶喜の新政権参加が葬られると、公武合体論は政治生命を失い、以後、明治維新は、薩長土肥による討幕運動へつきすすんでゆく。
 主役は、孝明天皇暗殺の下手人とささやかれた岩倉具視で、薩摩・長州への「討幕の密勅」を工作するにいたって、明治維新は、政変から謀略へとすがたをかえてゆく。

 明治維新が政変から革命へと変容したのは、薩長らの下級武士が天下取りに走ったからで、その口実になったのが、尊皇攘夷だった。
 天皇を尊び、外敵を斥けようという尊皇攘夷は、水戸学や国学に影響を受けた維新期の政治スローガンで、公武合体と対立する。
 公武合体で、幕府と朝廷がむすべば、京都や江戸から遠く離れた薩長土肥の出番がなくなる。
 まして、同藩下級武士ともなれば、天下とりなど思いもおよばない。
 薩長の下級武士が尊皇攘夷を叫んだのは、公武合体をつぶす方便で、かれらの目的は倒幕だった。
 薩長土肥の下級武士が尊皇攘夷という政治スローガンを背負って台頭、これが明治維新のエネルギーとなったのは、天皇を立て、みずからを天皇の軍隊(官軍)と名乗る以外、江戸三百藩の大名とその家臣団を統率する方法がなかったからだった。
 この階級闘争が成功して、藩を廃止して廃藩置県(1871年)まで改革が一気にすすんだのは、薩長の下級武士が天皇をとったからで、幕府との抗争では「タマ(天皇)をとれ」が薩長の合言葉だった。
 下級武士といっても足軽以下で、西郷や大久保はかろうじて武士(御小姓与)だったものの、伊藤博文と山県有朋は武士にあらざる小物(中間)で、維新の志士のなかで上級武士は一人もいなかった。
 その意味で、明治維新は、非士族(足軽以下)が士族(藩士・幕臣)を排除して権力をにぎった階級闘争(=革命)といってよいだろう。

 明治維新の要諦は、尊皇攘夷から一転して、ヨーロッパ化で、筆頭に挙げられるのがヨーロッパ王政を真似た王政復古だった。
 日本には、皇親政治の第40代天武天皇(673〜686年)と建武の新政の第96後醍醐天皇(1318〜1339年)以外、王政の伝統はない。
 日本の皇室は、明治維新期につくりかえられたものだったのである。
 明治政府がとった文明開化路線、殖産興業政策による西洋技術・文化の輸入は、西洋の産業革命の移入でもあって、日本は、1893年(明治26年)に国産の国産機関車(860形)を完成させる。
 日本が産業革命の成果をうけいれることができたのは、江戸時代の文明度がそれだけ高かったからで、世界史をながめても、異文化をこれほどスムースに受容したケースはまれである。
 明治政府は、廃藩置県につづいて、矢継ぎ早に革命的な政策をうちだす。
 大名・武士階級の廃止から四民(士農工商)平等や華族(公卿や大名)士族(旧幕臣・旧藩士)の身分制度などだが、いずれもヨーロッパの真似で、これが鹿鳴館文化や皇室の西洋化などの西洋コンプレックスへつながってゆく。
 制度改革のきわめつけは、江戸時代まで武士がもらっていた家禄(秩禄)を廃止した秩禄処分で、一時金(金禄公債)はえたものの、以後、武士の大半が経済的に没落してゆく。
 秩禄処分は、支配層が無抵抗のまま既得権を失ったという点で、世界史的に稀有な例で、天皇を政権にとりこんだ明治政府がいかに強力な権力構造だったかわかる。
 そのゆがみが一気に噴出したのが不平士族の反乱だった。
 次回は、士族の反乱から鹿鳴館文化、そして帝国主義へむかった天皇軍国主義への道筋をみていこう。
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2018年04月04日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」39

●天皇と国家「勅と法」(10)
 天皇は、戦後、憲法上の存在となった。
 そこに、三島由紀夫の憤怒と絶望があった。
「自衛隊は憲法をまもる存在になったのか」
 自衛隊市ヶ谷駐屯地の三島の雄叫びは、新憲法で育った戦後生まれの日本人にはピンとこないかもしれない。
 げんに、市ヶ谷の三島の演説は、自衛隊員の野次と怒号で掻き消された。
 戦後、左翼が中心になってすすめ、保守が迎合した「憲法は新しい国体」という思潮のなかで、大方の日本人、自衛隊員さえ、戦勝国から投げ与えられた属国憲法を金科玉条としてきた。
 三島は、自衛隊にこう檄をとばした。
「オレは自衛隊が怒るのを待っていた。だが、もはや、憲法改正のチャンスはない! 自衛隊が国軍になる日はない! 建軍の本義はない! それをオレは嘆いている。自衛隊にとって建軍の本義とはなんだ。日本を守ることだ。日本を守るとはなんだ。日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることだ。(略)自衛隊がたちあがらなければ、憲法改正ってものはないのだ。諸君は永久にアメリカの軍隊になってしまうのだぞ」
 現在、天皇も自衛隊も、憲法に規定される法的存在でしかない。
 憲法をもって国家を規制するのが共和主義である。
 革命をとおして伝統国家から共和(共産)制国家へと移行する。
 共和主義は、民主主義にもとづいて、君主制を廃止することである。
 このとき、歴史や伝統、習俗など、民族の文化が破棄される。
 三島にとって、憲法は、属国憲法である以上に、革命綱領であって、国体の破壊者でもあった。

 自衛隊が憲法違反というなら憲法を破棄すればよい。
 憲法は、もともと、共和制国家のもので、伝統国家には必要がない。
 共和制国家の支配構造は、憲法と大統領、議会の三つで、この三者が、民主主義(普通選挙法/議会の多数決)の原則にのっとって、国家を運営する。
 共和制国家における憲法の役割は、大統領の権限を制限することで、国家のありようを定めているわけではない。
 憲法は、いわばガードレールで、大きすぎる権力をもった大統領という車が道路からはみださないように見張っている。
 日教組教育をうけた者のなかには、憲法が、国家の監視役であるかのようにいう者がいるが、おおまちがいである。
 そんな理屈が通用するのは、憲法が、戦勝国が敗戦国を永続的に隷属させる占領法であるかぎりにおいてで、日本は、占領基本法を憲法として奉っている世界に稀有な国家なのである。
 伝統国家には、大統領は不要で、憲法も必要がない。
 歴史の英知や民族の知恵、伝統や習慣、独自の価値観、経験則など憲法とは比べようもないほどの文化をもっているからで、この歴史的規範が憲法をこえるのはいうまでもない。
 日本が憲法をもったのは、明治政府が樹立されてから22年後の1889年のことで、国内政治が一段落して、目を海外へむけた時期にあたる。
 日英通商航海条約と日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)、朝鮮併合(1910年)と、日本は西洋型の帝国主義をのみちをすすみはじめる。
 日本の憲法(大日本帝国憲法)は、ヨーロッパ化政策と天皇の政治的利用を目的にしたもので、モデルになったのが、主権者たる国王が国政に裁可権限を有するドイツのプロイセン憲法だった。
 プロイセン憲法において、国王は、権力者だった。
 プロイセン憲法の導入によって、文化概念としての天皇が政治概念としての天皇にきりかえられて、日本は、事実上、国体を失った。
 日本は、独自の文明をもった誇り高き伝統国家であって、列強を真似た帝国主義国家ではなかったからである。
 プロイセン王国は、第1次世界大戦の敗北によって滅びた。
 日本も、敗戦によって、第二のプロイセン王国になるところだったが、これを救ったのが、皮肉にも、日本国憲法の提唱者だったマッカーサーだった。

 日本国憲法が占領基本法だった以上、国家主権の否定や武装解除(憲法9条)、「天皇・摂政・公務員の憲法尊重擁護義務(憲法99条)」は当然だったろう。
 問題は、講和成立後、GHQが日本から撤退したあと、占領基本法の性格をもつ憲法を廃棄しなかったことである。
 戦後、勢力をもった社会主義・革命勢力(社会党・共産党・労組)が、日本の弱体化を企図したGHQ憲法を逆手にとって、憲法擁護を革命の戦略とした。
 共和主義を謳う現憲法下においては、議会内闘争をとおして、革命の実現が可能となるからである。
 革命は、憲法を停止させて、人民政府をつくることだが、現在の日本の状況では、憲法をまもることによって、左翼革命もしくは中国への属国化が容易に実現する。
 日本防衛の法的根拠は、日米安保条約と国連憲章、国際法や自然法であって、憲法には依拠していない。
 憲法には「敵が攻めてきたら白旗を掲げろ」としか書かれていないからである。
 革命の道具=民主主義だけが正義の現在の日本では、国体・国家の屋台骨はきわめてもろい。
 だから三島は自衛隊に憲法停止≠フ武装蜂起をうったえたのだった。
 日本には、国家反逆罪もスパイ防止法も、不敬罪もない。
 日本人の脳みそには「民主主義=正義」という方程式がインプリントされており、それは、皇室も例外ではない。
 今上天皇につづいて次期天皇(徳仁親王)も憲法擁護を口にされる可能性が高い。
 安倍首相は、憲法九条の維持をうったえている。
 そうなると、国体および国家がじりじりと共和制へ接近してゆきかねない。
 憲法をまもることが国体・国家の否定につながるジレンマに気づいていないのである。
 憲法や民主主義、近代主義や西洋合理主義などの相対的な価値観で、文化や歴史、伝統という絶対的な価値をまもることはできない。
 アメリカ民主主義は世界一の軍事力に支えられ、中・ロ・英・仏はむろんのこと北朝鮮も、軍事力が体制維持の主柱になっている。
 文化(菊)をまもるのは力(刀)で、それが、歴史の鉄則である。
 次回は、危機状態にある国体・国家防衛について、思うところをのべよう。

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2018年03月28日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」38

 ●天皇と国家「勅と法」(9)
 天皇が文化で、ヨーロッパの王が権力なのは、いうまでもない。
 ヨーロッパで王政が文化になりえなかったのは、そもそも、ヨーロッパには文化の土壌がなかったからだった。
 中世ヨーロッパでは、ペスト(黒死病)やコレラ、天然痘などの疫病が猛威をふるい、人々は、生きのびることだけに必死で、文化へ目をむける余裕などなかった。
 疫病が流行したのは、不潔で、貧しく、公共心がなかったからだった。
 上水道・下水道がなく、市街地は、人々が投げ捨てる糞尿まみれで、ペスト菌の媒介者であるネズミが、人間の数よりはるかに多かった。
 やせた土地から採れるのは小麦やブドウだけとあって、勢い、肉食に頼ったが、家畜との共存は、かれらの生活をますます不衛生にした。
 当時、死因の上位にあったのが、産褥熱などの感染症で、衛生観念はないにひとしかった。
 ヨーロッパの宣教師が、日本で、庶民が絵画や花を飾った清潔な家に住んでいるのを見て、度肝をぬかれたという。
 家畜とともに不潔な家屋に住み、生きてゆくのに精一杯だったヨーロッパでは、部屋に絵画や花を飾るなどの文化的な行為は、思いもおよばなかったのである。
 くわえて、宗教的迷信が根深く、魔女狩りで、百万人近い女性が処刑されたばかりか、その数倍、数十倍にのぼる人々が、異端裁判や宗教戦争などで命を奪われた。
 産業革命(18〜19世紀)前のヨーロッパは、文化面や衛生面で日本よりもはるかに後進的だったのである。

 ところが、産業革命以後、ヨーロッパは文明のみちを切り拓き、日欧の関係が逆転する。
 日本は、開国後(19世紀後半)、ヨーロッパから文物を輸入して、近代化へ走る。
 江戸時代まで、独創的だった日本文明が、近代化以後、鹿鳴館文化や帝国主義など西洋のコピーへ傾いていったのは、薩長の田舎侍が西洋を真似たからだが、ヨーロッパの近代は、革命の時代でもあって、日本が建国のモデルにしてよい国はどこにもなかった。
 先進国はむろんのこと、世界でも、伝統国家としての歴史と形態を維持しているのは、日本だけである。
 理由は、文化・経済の両面でゆたかだっただけではなかった。
 君民一体の下で、当時、世界に類がなかった平等という観念がゆきわたっていたからだった。
 宗教も、個人救済ではなく、国家護持で、ヨーロッパの世界観・宗教観とは大きくかけはなれていた。
 そこに、日本で、革命や宗教戦争がおきなかった理由がある。
 ヨーロッパでは、戦争に負けると、民が奴隷として売買され、教会の教えにそむくと死刑に処される。
 ペストやコレラ、食糧難をのりこえたところで、民に救いはなかった。
 権力者ににらみをきかせる民の味方、天皇という文化的存在がなかったからである。
 革命のエネルギーは、怨念や復讐心といってよい。
 フランス革命やロシア革命では、王族や貴族の皆殺しが何年にもわたって延々とつづき、中国の文化大革命やカンボジアのポルポト革命では、知識人や教養人というだけで、何百万、何千万の善良な人々が虐殺された。
 すべて、文化と権威が不毛だったことが原因で、文化と権威をもたない種族は、非戦闘員に原爆を投下したアメリカ人のように、どこまでも残酷になれるのである。

 三島由紀夫の『文化防衛論』がまもろうとしているのは、文化概念としての天皇である。
 国家をつくりあげているのは、文化と歴史、権威で、その象徴が天皇である。
 日本という国家の本質は文化にあって、その文化(菊)は、刀によってまもられなければならない。
 三島由紀夫は、日本の独自の文化をまもってきたものを、『菊と刀』になぞらえて、刀という。
 国家をまもることは、文化をまもることだが、文化をまもることは難しい。
 文化は、大砲や文化侵略、伝統破壊にたいして無力で、革命にはひとたまりもないからである。
 日本が他国侵略(元寇など)や宗教侵略(天草四郎の乱など)を防ぐことができたのは、文化の力ではなく、刀という、ときには、みずからの命さえ絶つ「力の論理」であった。
 外国人が、なによりも恐れたのは、武士の刀だった。
 刀は武士の誇りでもあって、武士の誇りを傷つけるとその場で斬殺されかねなかった。
 まして、軍靴で帝(みかど)の地を侵略すれば、武士がいっせいに抜刀して襲いかかってくる。
 日本侵略など、とうてい、思いおよばなかったのである。
 天皇をまもるのは、法でも弁論でも、正義でも真実でもない。
 ただ一つ、刀であって、それが文化防衛論の要諦だった。
 次回以降、タブーを破って、「刀と文化防衛」へと議論をふかめていこう。
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2018年03月20日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」37

 ●天皇と国家「勅と法」(8)
 天皇の本質は、権威と権力、政体と国体、政治と文化などの二元論にあるといってよいだろう。
 天皇は権力をもたず、権力(政府)は、権威(天皇)を敬うという二元性がはたらくのが国家本来のすがたで、それが伝統国家である。
 国家は、現在という空間軸と、歴史という時間軸からできている。
 権力やカネ、法などのヨコ軸と、歴史や伝統、文化などのタテ軸が交差するところに用意されているのが天皇の地位で、天皇は中今(現在)の存在であると同時に、歴史的存在(皇祖皇宗)でもある。
 聖俗も二元論である。
 国家も人間も、理屈でわりきれる俗なる合理性と、理屈が通用しない聖なる非合理性をあわせもつことによって、はじめて、奥行きのある国家観や人格ができあがる。
 イエス・ノーを保留するあいまいさ、どちらでもよいという両立性も二元論といえるだろう。
 答えが一つしかない一元論では、イエスかノーしかないので、永遠に争いがつづく。
 棲み分けや共存、共栄の論理がなりたっている二元論・多元論の世界では、国家を転覆させるような内乱や革命がおきない。
 革命や民主主義は、一元論の世界のものだったのである。
 一元論が破綻するのは、世界や自然、歴史が多元的にできているからで、人間が頭のなかでひねくりまわす一元論は、じつは、どこにも存在しない妄想でしかない。
 西洋の宗教戦争や領土戦争、市民革命、海外侵略、帝国主義が凄惨だったのは、一元論に立っていたからで、一元論の世界観では、従わないものはすべて敵で、殲滅しなければならない。

 それが西洋の近代合理主義というもので、歴史というタテ軸が断たれている。
 戦後、アメリカから、近代合理主義が怒涛のようにおしよせてきて、日本的価値観が隅におしやられた。
 日本的価値観というのは、伝統のことで、戦後日本は、アメリカ民主主義一辺倒の国となった。
 民主主義は、一元論で、多数決にしろ力の論理にしろ、数に帰される。
 一方、伝統は、多元論で、文化にしろ芸術にしろ、質に帰される。
 いうまでもないが、政治は合理主義で、文化は反合理である。
 社会から政治、文化から皇室にまでおよんだ日本の西洋化は、結局、合理化ということであって、合理化して、残るのは、数の論理だけである。
 数は合理化できるが、文化や思想という質は、合理化できない。
 かつて、日本人は、合理化できるものと合理化できないものの両方をもっていた。
 合理主義をうけいれながら神にも祈ったわけで、その伝統が、新鋭ビルの竣工に際しておこなわれる地鎮祭である。
 敗戦後のアメリカ化・民主化によって、合理主義と伝統を同時にうけいれる高次な精神が失われて、日本人は、朝から晩まで民主主義を叫ぶ愚かな民族となった。
 賢明だった日本人が、49%の少数派を切り捨てる数の論理を万歳を叫んで迎えたのである。
 革命の方便にすぎない民主主義が至高の価値となった戦後、ついに、天皇にまで合理の定規があてられ、皇室までが民主化されるはめになった。
 権力と権威を隔てる二元論がゆるんで、天皇とヨーロッパの王政との区別がつかなくなってしまったのである。
 
 これが天皇の危機である。
 世界の王政がすべて滅び、滅亡を免れたとしても、英国のように形式を残すだけになったのは、民主主義という毒牙に伝統や文化を食いちぎられたからである。
 民主主義が猛威をふるっているかぎり、反共・伝統防衛の旗を降ろすことはできない。
 日本の民主主義は君民一体≠ナ、西洋の民主主義は君主打倒≠ナある。
 日本人が、人類最高法規と信じている西洋の民主主義は、現在進行形の革命用語で、ゆきつくところは、スターリンやヒトラーがめざした民主主義にもとづく独裁である。
 独裁者が民主主義(多数派)を権力のレジテマシーとするのである。
 かつて、右翼は共産主義を敵としたが、共産主義が滅びると、慢心と油断にひたって、右翼陣営はもぬけの殻同然となった。
 恐るべきは、正体がバレている共産主義ではなく、共産主義の隠れ蓑である民主主義のほうで、民主主義という一元論をたどってゆくと、人民政府という独裁体制があらわれる。
 軍部・軍属が天皇を利用して軍国主義をつくったように、左翼・反日勢力が民主のスローガンを利用して民主ファシズムをつくる。
 むかう先は、共産化と中国への属国化である。
 民主が唯一の正義となる国家は、天皇が唯一の正義だった国家と同様、危険きわまりないのである。
 天皇をまもることは、歴史をまもることで、右陣営がたたかうべきは、共産主義ではなく、民主ファシズムである。
 次回以降、天皇・国体防衛について、さらに論をすすめよう。

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2018年03月12日

神道と世界最古の文明「縄文文化」36

 ●天皇と国家「勅と法」(7)
 国家が、本来、歴史(国体)と権力(政体)の二重構造と知っているひとは多くない。
 理由は、国連安保理常任理事国(米・英・仏・ロ・中)をはじめ、200をこえる世界の国々の多くが、国体をもたない革命国家だからである。
 革命国家や共和制国家が、権力(政体)だけの一元構造になったのは、歴史(国体)が否定されて、伝統的秩序が民主主義へきりかえられたからで、近代以降、80か国以上が、革命や政変、独立などをとおして、君主制などの伝統国家から民主主義にもとづく共和制国家に移行した。
 民主主義は、現在における政治決定で、対象になるのは、現在、生きている人々だけである。
 民主主義が、歴史を否定した上になりたっているのからで、かつて生存した歴史的国民や歴史の英知、伝統文化も、現在、生きている人々の利害や都合の前ではひとたまりもない。
 それが革命国家の正体で、民主主義以外のものがなに一つ通用しない。
 民主主義は多数決にすぎないが、国民全体の多数決を採ることは不可能なので、革命軍のリーダーがこれをあずかる。
 その口実が国民主権で、国民の主権をあずかったということにすれば、国民の名の下で、独裁や弾圧、逮捕や強制収容所送り、死刑などのテロルがまかりとおって、暗黒国家ができあがる。
 民主主義と国民主権は、革命派による支配イデオロギーだったのである。
 それをそっくり真似たのが日本国憲法=占領基本法である。
 国体を否定するGHQという革命軍が、民主主義と国民主権もちいて、日本国民を支配したのである。
 日本国憲法の主宰者は、日本国家でも日本国民でもなく、GHQなのである。
 民主主義を立て、国家主権を破壊したのち、国民主権をあずかったGHQが敗戦国日本の絶対支配者になったわけで、その裏付けとなったのが日本国憲法だった。
 日本国憲法が担保しているのは、日本や日本国民の利益ではなく、GHQの権力だったのである。
 憲法99条にこうある。
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法(GHQ命令書)を尊重し擁護する義務を負ふ」

 国家主権から防衛権、統治権や国民の安全をまもる権利は、国家におのずとそなわっている自然権で、当然のことながら、この国家自然法は、人為法たる憲法をこえる。
 それが伝統国家のありようで、革命国家でありながら、伝統国家の体裁を保とうというイギリスは、国家を規制する憲法をもっていない。
 憲法は、伝統的価値や歴史的規範を捨てた革命国家が、その代わりに採ったイデオロギー法で、どの国の憲法も、タテマエとして、民主主義と国民主権を国家の最高法としている。
 近代主義の産物にして、歴史を捨てた革命国家は、民主主義や国民主権以外の規範をもちえないのである。
 戦後、日本では、民主主義が、人類の最高法としてさかんにもちあげられてきた。
 だが、民主主義は、多数決と普通選挙法のことにほかならず、そんなものを国家規範にして、政治が混乱しないわけはない。
 民主主義国家は、自然法にもとづいた国家よりはるかに後進的で、不完全な国家だからで、しょせん、人間が頭のなかで考えた人為法や人口国家が歴史の産物である自然法や伝統国家をこえるわけはないのだ。
 民主主義は歴史を拒絶する。
 それだけで、伝統国家の象徴である天皇と革命国家の象徴である民主主義が相容れないとわかる。
 日本に民主主義や国民主権の精神がなかったわけではない。
 その逆で、日本には「君民一体」という思想があって、天皇は国民とともにあった。
 天皇と国家国民が一体であれば、天皇陛下万歳が、国民や国土の弥栄(いやさか)をねがう心とわかるだろう。

 何事にも、矛盾や不条理、不思議や非合理がついてまわって、人間の知識がとうていおよぶところではない。
 国家もそうで、多数決にすぎない民主主義や実体のない国民主権をふり回したところで、なんの解決にならないばかりか、混乱がうまれるばかりである。
 イエスかノーか一元論では、片一方が否定されてしまうので、解決どころか、かえって、対立が深まる。
 51%を肯定して49%を否定する民主主義のどこに政治哲学があるのか。
 権力者にゆだねられて独裁を生じる国民主権のどこが国民中心主義なのか。
 革命国家が一元論なら、伝統国家が二元論で、グレーゾーンやあいまいさが矛盾や不条理、不思議や非合理をのみこんで、体制を安定させる。
 それが多様性と奥行きをもつ日本主義で、文明と価値観の衝突となる今後の世界情勢のなかで、対立をうむ民主主義に代わって、中心的思想になってゆくだろう。
 日本が提唱している異文化共栄圏思想(日・米・オセアニア・アセアン・インド)がそれだが、このテーマについては、後日、改めてのべよう。
 さて、二元論だが、伝統国家である日本が二元論の国家なのは、いうまでもない。
 権威と権力、国体と政体、天皇と政府、文化と政治が、互いに干渉することなく両立している。
 二元化されている価値と価値の中間にグレーゾーンが広がって、それがあいまいの文化である。
 ところが、価値が一元化されている革命国家には、グレーゾーンがない。
 戦後、民主主義絶対主義のアメリカによる日本改造が、いかに日本の文化や価値、伝統をゆるがしたか、いまさら、指摘するまでもない。
 戦後日本の迷走は、革命国家のルールを伝統国家にもちこんだ構造矛盾から生じたのである。
 次回以降、伝統国家のあるべきすがたと天皇問題をさらに検討していこう。
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2018年03月06日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」35

 ●天皇と民主主義「勅と法」(6)
 歴史と現在性の関係は、わかっているようで、案外、理解されていない。
 歴史はタテに連続する時間軸で、一方、現在は横に広がる空間軸である。
 われわれが生きているのは、現在という空間軸だが、現在は、過去や歴史という時間軸の上に成り立っている。
 ひとは、現在を生きる空間的な存在でありながら、一方では、歴史を生きる文化的な存在で、言語から習俗、文化、文明に至るまで、現在あるものは、すべて過去からひきつがれた歴史の恩恵である。
 人類は、歴史という時間軸と現在という空間軸の両方を生きることによって人類たりえている。
 したがって、だれもが、生来的な保守主義者といえる。
 何人といえども、過去を否定することはできない。
 過去は、過去の人々によって築かれたからで、これを否定するなら、過去の人々にも投票権があたえられるべきである。
 死者が投票場へ足を運べないなら、現在を生きる者たちは、ひたすら、過去を受け継がなければならない。
 現在が、過去の集積であるとするならば、現在を生きる人々も過去に生きた人々も、ともに歴史的国民だからである。
 現在を生きている人々の身勝手な都合によって、歴史や伝統を否定するのは歴史や先人らへの冒瀆であって、死者と生者が共にある歴史的国民の原則に反する。
 保守主義は、歴史を継承することにあって、これは、歴史を破壊するよりもはるかに価値があり、はるかに困難な仕事なのである。

 万世一系を否定した「皇室典範に関する有識者会議」(2005年)の吉川弘之座長(元東京大学総長)は「伝統は無視した」と堂々と言い放ったものである。
 昨今の女系天皇論も、歴史の不可逆性を無視した暴論で、現在を生きているにすぎない者たちが歴史を変更できるとするのは、無知でなければ傲岸不遜なる思い上がりというしかない。
 人々は、過去の事跡や伝統、文化的価値などの歴史の遺産に目もくれない。
 そして、歴史的存在であることを忘れて、目先の利害に右往左往している。
 生きているのは、現在という瞬間ではなく、過去から現在、現在から未来へつながっていく歴史の連続性という自覚がないのである。
 そこに、保守主義者と左翼・革新・反日を隔てるボーダーラインがある。
 国民と人民・市民のちがいもそこからでてくる。
 国民は、歴史や文化、民族性などの同一性を共有する歴史的国民で、人民や市民は、歴史や国家から切り離された孤独な人々の群れである。
 歴史が失われるのは、革命によって、時間軸が断ち切られたからで、残るのは、現在という過去を失った空間だけである。
 民主主義が革命イデオロギーになったのは、民主の民≠ェ歴史や文化から断絶した民≠セったからである。
 左翼が民主主義をもてはやすのは、革命の武器だからで、民主主義を立てて歴史から国体までをかえてしまおうというのは悪魔の思想というしかない。
 民主主義こそが過去殺しで、革命で歴史を断ち切った英・仏・米・ロが民主主義を標榜したのは、歴史の叡智を捨てると、チャーチルが「独裁よりマシなだけ」といった民主主義しか残らないからである。
 民主主義は、多数決のことで、国民主権の国民と同様、多数派の正義ということである。
 すべて多数決できめる民主主義は究極の衆愚政治で、戦後、この民主主義が大手をふってきたのは、戦争に負けたからである。
 それでも、日本が三流国家へ転落しなかったのは、君民一体の天皇がおられたからで、したがって、民主主義が暴走することなく、伝統国家としての品格や叡智、誇りもまもられたのである。

 歴史と現在の落差は、宗教や政治、思想などの分野で、さまざまな二元論をつくりだしてきた。
 保守と革命、伝統と革新、唯心論と唯物論、生と死などである。
 歴史は過去で、死でもあるが、その過去に根源的価値をみるのが保守主義である。
 現在を生きる人々が、エゴをむきだしにして生きれば「万人の戦争がおこる」(ホッブス)ので、国家や法、常識などのかつてつくられた制度やシステムの網をかけようというのが保守主義なら、過去ではなく、人間の頭の中で考えたイデオロギーで人民を支配しようというのが革命主義である。
 革命や改革主義は、美辞麗句や美しい観念論を並べるが、所詮、歴史や伝統を断ち切った過去殺しで、過去を失った世界には、一滴の血も流れていない。
 歴史のタテ軸と現在の横軸を、聖俗二元論に置き換えることもできる。
 ひとはパンのみに生きずに非ずで、俗にどっぷり漬かりながら、聖をもとめるのが人間なのである。
 伝統は、天皇中心の平和な国民国家を形成するが、天皇が政治利用されると、この構図が逆転する。
 次回以降、天皇と国家の関係について、近代以降をふり返ってみよう。
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2018年02月26日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」34

 ●天皇と国家「勅と法」(5)
 天皇陛下の退位の儀式(退位礼正殿の儀)は2019年4月30日に皇居で国事行為としておこなわれる。
 国民主権と象徴天皇制を定める憲法との整合性に配慮して、天皇がご自身の意思で皇位を譲ることを宣する「宣命」はおこなわれず、国民の代表たる首相が、国会が定めた特例法にもとづいて、陛下が退位される旨を表明する。
 陛下がおことばを述べられるのは、首相が天皇退位を宣言した後で、それも政治的な内容をふくまぬよう宮内庁や政府が慎重に調整するという。
 天皇がご自身の意思で皇位を譲る形になれば、天皇の国政関与を禁じた憲法4条にふれるからである。
 といっても一昨年7月、NHKが「天皇陛下が生前退位のご意向」と報じた翌月の8月8日、天皇陛下が譲位をにじませるビデオメッセージを公表された段階で、この原則は破られている。
 摂政を置くことを定めた憲法第5条があるにもかかわらず、天皇のご発言によって、皇位継承について定めてある皇室典範を改正せざるをえなかったからで、これが、今上天皇の一代に限って「生前退位」を認める特措法にかわったところで、天皇のご発言が政治をうごかした事実にかわりはない。
 そして一方、退位が、国民主権と象徴天皇制を定める憲法や国会が議決した特措法に縛られることによって、天皇が政治にコントロールされるという逆の事態も生じた。
 天皇の政治への関与が、政治の天皇への干渉を招いたわけで、国体と政体のもたれあいが、権威(天皇)と権力(政府)の二元論を危うくするのは、天皇を国家元首に据えた明治憲法から天皇に軍服を着せた昭和軍国主義まで、同じ構造である。
 国体と政体の二元論は、天皇と政府、権威と権力の癒着を避ける役割をはたしてきたのだが、これが一元論的になると、天皇の政治利用、天皇の権力化に歯止めがきかなくなる。

 もともと、超越的・超法規的存在である天皇を憲法のなかに封じ込めようというGHQの対日戦略が無謀で、そのGHQ憲法を70年間もひきずってきた怠惰のツケが、天皇退位に臨んで回ってきたといってよい。
 2013年、80歳を迎えた誕生日の記者会見で陛下は「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法をつくり、さまざまな改革をおこなって、今日の日本を築きました」と護憲の意思を明らかにされた。
 陛下が皇太子時代、家庭教師だったヴァイニング夫人は、リベラルな傾向をもつクェーカー教徒で、1969年、ベトナム反戦デモに参加して、ワシントンの国会議事堂前で逮捕されている。
 ヴァイニング夫人の影響をおうけになった陛下がいかにリベラルなお考えをもたれようと、国体と政体の二元論が成立しているかぎり、政治は影響をうけない。
 ちなみに天皇のお考えを御心というなら、歴史をつらぬく皇祖皇宗の真実が大御心で、葦津珍彦は「陛下がまちがったことを仰せになったら大御心だけに耳を傾けて、御心には耳をふさぐこと」とのべている。
 しかし、国体と政体の二元論が崩れると「天皇の御心」と「権力の意思」が政治の場と国体の場の二箇所でぶつかりあうことになる。
 一元論においては、真実は一つしかないので、一方が一方をつぶしにかかる。
 明治以降、とりわけ、昭和の軍国主義時代は、権力が肥大して、権威の影が薄くなった。
 権威たる天皇が権力の象徴たる軍服を召されたからである。
 天皇を現人神として神格化する必要が生じたのは、そのためで、権力とバランスをとろうとしたのである。
 それが天皇ファシズムで、天皇の政治利用のきわめつけであった。

 二元論では、真実が二つあるので、権威と権力は両立しつつ、ささえあう。
 国家を木にたとえるなら、権威は根で、権力は幹や枝、葉である。
 権威と権力が二元論的にはたらいて、国体も政体も安定する。
 ところが、今回の天皇陛下の退位は、その原則がはたらかなかった。
 天皇のおことばが政治をうごかし、結果として、退位の儀式が政治化されるという経緯において、権威と権力の分離という歴史の英知は、どこにもはたらかなかった。
 理由は、憲法が一元論のきわめつけだったからである。
 憲法99条にこうある。
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」
 天皇以下、すべての日本人に土下座をもとめる憲法という紙切れには、共産主義革命のスローガンとなった国民主権やアメリカ民主主義、敗戦国の罰則としての武装解除、国家主権の自己否定がつらつらと書き並べられている。
 ほとんどマンガだが、現在、日本では、憲法が「神聖ニシテ侵スヘカラス」ものになっている。
 大日本帝国憲法第3条(「天皇の神聖不可侵」)が天皇から憲法へそっくり入れ替えられているのである。
 次回以降、憲法と天皇の関係をもう一歩つきつめて考えてみよう。
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2018年02月21日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」33

 ●天皇と国家「勅と法」(4)
 権力は、正統性(レジテマシー)をえて、はじめて、権力たりうる。
 レジテマシーをもたない権力は、暴力装置で、盗賊とかわらない。
 民主党政権時代、自衛隊を暴力装置と発言した官房長官(仙石由人)がいたが、防衛大臣を何度も経験している自民党の石破茂も、自衛隊を軍隊と位置づけた上で、暴力装置と表現したことがある。
 レジテマシーのなんたるかをわかっていないのである。
 戦国時代、武田信玄や織田信長ら戦国武将が、上洛して、天皇謁見を望んだのは、権力のレジテマシーをもとめてのことで、天皇から征夷大将軍などの官位を戴かなければ、他の武将を従える天下人になることも、幕府をひらくこともできなかった。
 中国がいまなお毛沢東を称えるのは、権力は、カリスマというレジテマシーを必要とするからである。
 中国共産党人民解放軍といえども、中国共産党主席と中央軍事委員会主席を務めた毛沢東のカリスマ性なくしては、権力を維持できないのである。
 戦争や死刑執行が殺人罪にあたらないのも、国家には主権というレジテマシーがそなわっているからで、この超越性の上に成立しているのが国家である。

 主権は、なにものからも干渉をうけない絶対的な権利である。
 この主権は、歴史上、戦前まで、天皇=国体に属するものだった。
 主権が、政体たる幕府・政府ではなく、歴史や文化たる国体におかれていたのである。
 権力に権威というレジテマシーがそなわって、政体と国体が合一した国家という共同体ができあがる。
 ところが、戦後、歴史的存在であった天皇の地位と権威が憲法という文字を綴ったにすぎないものへ移しかえられた。
 その結果、権威が空洞化した。
 一方、憲法から、国家主権が抜け落ちている。
 日本では、現憲法の下、国家主権も、国家主権のレジテマシーたる権威も宙に浮いたままなのである。
 それが、天皇を無力化して、形だけを残したGHQ憲法のからくりである。
 日本国憲法は、日本をアメリカの都合のよい国につくりかえるための占領基本法である。
 憲法から日本の国家主権が抜け落ちているのは、占領中、日本の国家主権をもっていたのがアメリカだったからである。
 占領基本法である憲法には、歴史や権威にかんする記述が一つもない。
 交戦権を放棄した9条にいたっては、自然権や習慣法である国家防衛までを否定している。
 したがって、サンフランシスコ講和条約が締結されて、主権者だったGHQが去ったあと、日本は主権なき国家になった。
 国家主権のない憲法などさっさと捨ててしまうべきだが、日本は、いまから70年前、アメリカが日本を庇護下においた占領基本法を、いまもなお国家の基本法=憲法として重んじている。

 保守論陣のなかにも、憲法が権威だという論調がなきにしもあらずである。
 それが、憲法は第二の国体という主張で、その根拠が国民主権である。
 戦後、国家主権にとって代って、国民主権となったが、国民主権などというものは、そもそも、存在しない。
 国民には、なにものからも干渉をうけない絶対的な権利がそなわっていないからである。
 国民主権は、革命の産物で、旧体制を否定する口実にほかならなかった。
 共産主義や共和制における国民主権はタテマエで、国民の名を借りて奪った権力を為政者が横取りする。
 それが独裁で、民主主義は、衆愚による独裁ということである。
 米ロ英仏中ら国連常任理事国は、革命国家で、中国以外は、かつて、列強と呼ばれた。
 その列強が、散々、食い散らかしたのがアジアである。
 インドや東南アジアが列強の餌食になったのは、国家としての体裁が整っていなかったからだった。
 あったのは、国土ではなく領土で、国家としての統一性も同一性もなかった。
 そもそも、国家という概念が未熟だったので、国家意識が完成していた列強に歯が立つはずがなかった。
 どんな国も、神話や信仰、言語や習俗、民族の自立や誇りなどの共同体意識をもっている。
 それが国家のレジテマシーで、国家独立の条件である。
 インドや東南アジアが英仏蘭の餌食になったのは、領主が乱立して、争っていたからである。
 あったのは、広大な領地だけで、国家も国家主権も、国権をささえるレジテマシーもなかった。
 タイが唯一アジアで独立を保つことができたのは、英仏を相手の外交手腕もさることながら、王国だったからで、国家は、王という超越的な存在があってはじめて、国家という観念をもつことができる。
 領主が支配するところは領土にすぎないが、国権が支配するところは国土となる。
 国権をささえるレジテマシーの下で、権威と権力の二元論を形成するのが伝統国家で、そのレジテマシーにイデオロギーや法をもちこむのが革命国家である。
 日本が、薩長には動揺があったものの、列強の侵略をうけることがなかったのは、天皇がおられたからで、幕府や藩にとって、外国の侵略から天皇をまもることが最大の使命だった。
 次回は、今上天皇の譲位における「勅と法」について考えてみよう。
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2018年02月13日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」32

 ●天皇政治における「勅と法」(3)
 大川周明が古代史のヒーローとして、聖徳太子と中大兄皇子(天智天皇)をあげたのは、国家や法(律令)、天皇の概念を確立させたからで、天皇を中心とした日本という国の原型をつくったのはこの二人といってよい。
 33代推古天皇の摂政として、冠位十二階や十七条憲法を定めた聖徳太子がもとめたのは、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立であった。
 遣隋使を派遣して、国書に中国皇帝にしか使用されていなかった天子ということば(日出処の天子)を使って、日本が、隋と対等な関係にあるとしたのも聖徳太子で、日本は、七世紀初頭、国家や法、天皇の概念を立て、大国の隋を向こうにまわして、堂々と独立国家の道を歩みはじめたのである。
 聖徳太子と協力関係にあったかにみえた蘇我馬子だが、内実は異なる。
 蘇我氏には、国家も法も天皇もなく、あるのは、権力欲だけであった。
 聖徳太子没後、蘇我入鹿が聖徳太子の子山背大兄王を攻めて、一族を自殺に追いこんだのは、天皇を意のままにするためで、蘇我に服従的だった田村皇子(舒明天皇/敏達天皇系)を推す蘇我入鹿にとって、山背大兄王(用明天皇系)は邪魔者だったのである。
 蘇我馬子は東漢直駒という刺客を放って、32代崇峻天皇を弑逆している。
 稲目、馬子、蝦夷、入鹿の蘇我四代にとって、天皇は、権力を維持するための道具にすぎず、一族は、天皇の任命権どころか、生殺与奪の権利まで握っているかのようであった。
 蘇我氏が推した舒明天皇の崩御後、皇后の皇極天皇が即位したのは、継嗣となる皇子が定まらなかったからだが、皇極天皇の在位中は、蘇我蝦夷が大臣の地位につき、入鹿が国政を執った。

 その入鹿が、宮中で、中大兄皇子と藤原鎌足に襲われて、斬殺されるという事件(乙巳の変)がおき、入鹿の父である蘇我蝦夷も自宅に追手をかけられて自刃した。
 中大兄皇子は、舒明天皇と皇極天皇の子で、次の天皇候補だった。
 だが、山背大兄皇子と同様、蘇我一族の血を引いていないので、後継どころか、入鹿に襲われた山背大兄王の二の舞になる可能性すらあった。
 蘇我が推すのは、舒明天皇の第一皇子、古人大兄皇子で、母親が蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女であった。
 蘇我がめざしたのは、朝廷を外戚で固めた独裁体制で、蘇我は、天皇を政治利用してのしあがってきたのだった。
 天皇の政治利用は、近世になって、明治維新と昭和軍国主義と二度体験しているが、古代においては、物部氏や葛城氏、大伴氏、蘇我氏、藤原氏らによる外戚政治がまかりとおっていたのである。
 蘇我という絶大な権力が一瞬に崩壊したことによって、日本は、豪族支配の国から一挙に律令的な天皇の国へと変容する。
 大化の改新といわれるこの大改革は、豪族らの私有地を廃止する公地公民制や律令制にもとづく班田収授や租庸調などの土地制度や税法など法の導入が中心で、日本は、七世紀半ばにして、法治国家へ歩みだしたのである。

 だが、天皇の地位が磐石となるまで、まだ時間がかかる。
 乙巳の変から18年後、百済を救うため唐・新羅の連合軍と争った白村江の戦い(663年)で日本は大敗する。
 日本は唐からの攻撃を警戒して、対馬、壱岐、筑紫などに防人を置き、大宰府の防衛のため水城を築いて、唐からの侵攻に備えた。
 中大兄皇子が天智天皇として即位した(668年)のは、大和の地から都を移した近江の大津宮で、この年に完成した「近江令」は、後の「大宝律令」の基礎となる法典である。
 671年、天智天皇は46歳で没して、その後、日本中をゆるがす権力闘争が勃発する。
 聖徳太子が基礎をつくり、大化の改新後、確立された天皇政治が、皇位継承をめぐって、大乱(壬申の乱)をひきおこすのである。
 大化改新を指導した天智天皇が近江大津宮で崩御して、第一皇子、大友皇子 (弘文天皇) が近江朝の主となると、妻(後の持統天皇)らと吉野宮に引退した天智天皇の実弟大海人が挙兵する。
 草壁皇子や高市皇子、大津皇子、地方豪族らを味方につけた大海人皇子がいくさに勝ち、大友皇子は自害する。
 大海人皇子が天武天皇で、即位後、天皇や皇族を中心とした「皇親政治」を敷いて、律令制による中央集権国家の建設に力を注ぐ。
 ここで、法(律令支配)と勅(天皇の権力)が重なり合って、天皇官僚制というべき体制ができあがる。
 それがのちの摂関政治や朝廷・幕府の二元論へひきつがれてゆくが、天皇の勅と官僚・摂関・幕府などによる法の支配は、微妙なバランスの上に成立してきた。
 それが、権威と権力の二元論で、その要諦は、権威と権力の分離にある。
 勅を権威のなかに封じ、権力を法で制御することによって、権力構造を安定させてきたわけだが、それが江戸300年の安泰につながった。
 次回以降、勅と法の関係が混乱してきた明治以降、天皇の御心、皇祖皇宗の大御心が問われる憲法や皇室のあり方について、考えてみたい
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2018年02月07日

 神道と世界最古の文明「縄文文化」31

 ●天皇政治における「勅と法」(2)
 日本という国家の基本原理として二元論をあげることができる。
「権威(天皇)と権力(摂関・幕府)」「国体と政体」の二元論である。
 二元論という国家原理が、なぜ安定的で、数千年の歴史をもつ日本のような伝統国家をつくりうるのか、これまで、そのテーマが本格的に議論されてきたことはない。
 権力だけに依存する一元論の国家は、暗黒化して、やがて衰弱してゆく。
 他国に攻められて滅びるか、革命で倒される。
 権力と民の心が離れているので、国家を長きにわたって維持する国力がそなわらないのである。
 権威だけに依存する国家も、易姓革命によって、滅びへとむかう。
 易姓革命がおきるのは、儒教国家で、儒教において重要なのは、徳治主義である。
 徳治主義では、失敗や損失などの不利益の原因が、すべて、前王の徳が足りなさに帰されるので、徳のあるとされる新王があらわれて、前王の悪と不徳を徹底的に糾弾すれば、易姓革命が成立して、歴史の連続性が断たれる。
 天命によって、王朝が交替する易姓革命では、前王を否定することが新しい王になる絶対条件となるのである。
 徳治主義が後進的なのは、原因の究明をおこなわず、すべて、善悪や徳・不徳で片付けてしまうからで、当然、嘘や策略、陰謀がまかりとおる。
 天命という儒教的価値が革命の道具になっているのである。
 中国や朝鮮が、徳治主義の一元論だったのは、儒教の国だったからで、そこから合理的精神にもとづいた法治主義はでてこない。

 古代日本において、天皇の権威があったにもかかわらず、律令制などの法治主義がとられたのは、天皇の権威が権力の正統性を担保していたからである。
 権威と権力が二元化されていたので、権威の下で、権力による法治主義が可能だったのである。
 両者が一体化されると、権威は「勅」となって、権力の一部となる。
 権威が権力にとりこまれると、権威が空位となって、権力が暴走する。
 徳川幕府が、公家諸法度をおき、朝廷の権威を敬う一方、権力から遠ざけたのは、南北朝の動乱から応仁の乱をへて戦国時代にいたる暗黒の中世の悲劇をくり返さないためで、天皇が権力をもとめた「建武の新政」以来、権威が空位になって、日本は、250年以上にわたって、ユーラシア大陸的な権力闘争に明け暮れたのである。
 天皇の地位が定まるのは、大化の改新から壬申の乱をへて、天武・持統朝になってからで、藤原氏を中心とした摂関政治がはじまるのは、そののちのことである。

 大王(天皇)は、もともと、豪族の長(族長)で、紀元前において、祭祀王だったところ、大和朝廷の成立と発展にともなって、豪族間の勢力争いにまきこまれてゆく。
 最初の大豪族は、5世紀前半、子(磐之媛)が仁徳天皇(16代)の皇后となって履中(17代)・反正(18代)・允恭(19代)の三天皇を産んだ葛城氏で、のちに平群氏がこれに変わる。
 六世紀になって、後嗣を定めずに崩御した武烈天皇(25代)の後継に越前にいた応神天皇の5世の孫を26代天皇(継体)に迎えた功績で、大伴金村が台頭する。
 ところが、512年、百済に任那の4県をあたえた金村に反発した物部氏が大伴氏を追放、代わって勢いをえる。
 この物部に対抗したのが、帰化人を率いて朝廷の財政を握った蘇我氏だった。
 物部氏と蘇我氏は、朝廷を二つにわけるほどの力をもってにらみ合う。
 そしてのちに、天皇の継嗣問題や仏教の導入をめぐって、決定的に対立する。
 仏教の礼拝をめぐって物部守屋と蘇我馬子がたたかって物部氏が滅ぼされた争い(丁未の乱)にくわわった聖徳太子は、日本を天皇中心の国へむかわせるが、志半ばで死去して、蘇我氏の独裁体制ができあがってゆく。
 蘇我馬子は物部守屋が天皇に推した穴穂部皇子を殺し、みずからが推挙した崇峻天皇を弑虐し、聖徳太子の子、山背大兄王まで殺してしまう。
 大和朝廷は、豪族の連合国家で、大王(天皇)は、みこしののせられた族長にすぎず、蘇我氏のような大豪族におびやかされる存在だったのである。
 次回以降、天皇が権力者として、あるいは権威として地歩を固めていく歴史をみていこう。
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