2019年02月18日

「天皇の地位」G


 国体・神道・祭祀
「天皇の地位」G
 天皇は、なぜ、数千年にもわたって、続いてきたのであろうか。
 権威だったからである。
 権力だったら、かならず、政敵があらわれて、そのたび、政変の危機にさらされていたはずである。
 権威と権力のちがいに、政敵の有無を挙げることができる。
 闘争の原理にもとづく権力には、当然、政敵がついてまわる。
 ところが、権威には、政敵がいない。
 勝者と敗者、敵と味方、多数派と少数派の両方を呑みこむからである。
 そこに、自然崇拝=神道という日本固有の精神文化がはたらいている。
 生きとし生けるものが、大自然という同一地平上で、争うことなく共存しているのである。
 ここでいう神道は、儒教や仏教などの宗教が入ってくるはるか以前の古道のことで、惟神道(かんながらのみち)である。
 神話や八百万の神々、祖霊や自然現象などにもとづく多神教で、縄文の遺伝子というべきアニミズムやシャーマニズムの影響もうけている。
 宗教というより、日本人の古来の自然観や世界観、モノの考え方、価値観を反映した精神性で、これが国体である。
 歴史や伝統、文化を国体の身体とするなら、神道は、国体の心で、古事記や日本書紀の神話から、万世一系、皇祖皇宗の大御心にまでつうじる。

 敵と味方の論理が権力なら、権威は、万物が混交する神道的な世界観の上に成立している。
 全体をつつみとるという意味で、権威は、象徴でもある。
 国民統合の象徴というとき、民主主義において、本来、統合できない国民を丸ごと呑みこんでしまう。
 民主主義や個人主義では、個の差異や利害得失、各々の立場によって、対立関係が生じる。
 そんな場面で、重んじられるのは、多数決である。
 かつて、安倍首相が、みずからを立法府の長と呼称したが、内閣総理大臣は行政府の長で、立法府の長は、議長である。
 議長は、議会の多数決をうけて、これを議決する。
 このとき、多数意見が採られて、少数意見が捨てられる。
 二つに分裂している意見を、議長の裁量で、一つとするのである。
 それが可能なのは、議長の椅子に権威がそなわっているからである。
 議長が権力の側にあれば、議場が紛糾して、収拾がつかなくなる。
 権威は、もともと、政治力や権力の乏しいところに宿るのである。
 議長の権威には、年功や経験、人徳とさまざまあるが、議決が政治的決定であるかぎりにおいて、その権威には、おのずと、限界がある。
 政治的決定には、かならず、反対派という政敵があらわれるからである。
 反対派や政敵があらわれると、権威は、もはや、権威たりえない。
 権威は、敵や反対者、対立者を超越して、はじめて、権威なのである。
 権威が非政治的であらねばならない理由がそこにある。
 政治は「敵と味方の峻別」といわれるように、政治的にふるまえば、かならず、敵や対立者、反対意見があらわれる。
 承久の乱の後鳥羽上皇も、建武の新政の後醍醐天皇も、権威を捨てて権力をとって、武士の反撃を招き、墓穴を掘った。
 権威をもって武を制することはできず、武をもって権威をえることはかなわない。
 だからこそ、権威(国体)と権力(政体)の二元論が成立する。
 権威をえるには、政治や権力に近づかないことで、それが、帝王学の基本である。
 秋篠宮殿下の大嘗祭「異例発言」が問題だったのは、発言内容ではない。
 政治的な発言をおこなって、異論や反対意見を呼び起こしたことである。
 この発言によって、秋篠宮殿下の権威は失墜した。
 私見をのべたことによって、権威という超越的な場から政治という世俗的な場へ滑落したからである。
 国家は、国体という文化構造の外側に、政体という殻をつけた構造になっている。
 国体が、歴史や伝統、文化なら、政体は、法や権力、政治である。
 政体は、一過性で移ろいやすく、わが国は、古来、政体の変遷をくり返して今日に至っている。
 だが、核となる国体は、非政治の精神文化で、永遠に変わることがない。
 天皇の地位が、数千年にわたって、安泰だったのは、それが、国体のなかに用意された玉座だったからである。
 万世一系の血を継がれた皇胤がその玉座に就かれて、天皇とおなりになる。
 天皇の権威と永遠性は、国体のなかに根を下ろしていたのである。
 次回も、天の地位と国体についてのべよう。
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2019年01月31日

「天皇の地位」F

 国体・神道・祭祀
「天皇の地位」F
 天皇の地位あるいは象徴天皇が、憲法上の存在であるかのような言説がまかりとおっている。
 憲法が担保しているのは、政治(=政体)上の立場であって、天皇の地位をささえているのは、法や政治をこえた文化概念(=国体)である。
 国体について、見解が、幾筋にも分かれている。
 一つは、天皇主権で、源流が大日本帝国憲法だったのはいうまでもない。
 明治憲法がドイツ(プロイセン)憲法を手本にしたのは、君主権が強かったからで、伊藤博文は、ヨーロッパの絶対王政を導入して、天皇中心の中央集権国家をつくろうとした。
 明治維新は、文明開化や帝国主義というヨーロッパ化と、天皇を中心とする皇国・神国思想という相反する両面をもち、現人神という日本特有の国体観をつくりだした。
 現人神は、ヨーロッパの王政と神格化された祭祀王の合体とみることができる。
 天皇を神と崇めて、畏れ多くも天皇陛下のお言葉なら、必ず謹んで聴かねばならないとする承詔必謹(「17条憲法」)の精神は、日本古来の伝統的なものではなく、明治憲法の産物だったのである。
 もう一つは、万世一系の天皇によって統治された君主政体は、大東亜戦争の敗北によって、崩壊したとする国体喪失論である。
 1945年8月のポツダム宣言の受諾によって、大日本帝国憲法から日本国憲法へ、天皇主権から国民主権へ移行したとする宮沢俊義の『八月革命説』がその代表である。
 そこに、天皇なきナショナリズムや憲法を新しい国体とする戦後思潮がくわわって、アメリカ製憲法が、紀元前からの国体にとって代わった。

 国体の土台が神道なのはいうまでもない。
 皇室は万世一系の天照大神の子孫で、神勅によって、永遠の統治権が与えられている。
 神勅というのは、天孫降臨において、天照大神が与えたことばである。
 国体は、日本を神々の国とする神国思想と皇位の血統性を記した皇国思想の合体で、神話と万世一系が語られた『古事記』や『日本書紀』が日本の正史とされる所以である。
 国体には、君主が主権をもつ「君主国体説(穂積八束・上杉慎吉)」と天皇による統治は国民のためにおこなわれるべきとする「民主国体説(美濃部達吉・吉野作造)」があって、これがのち(昭和10年)に大きな問題をひきおこす。
 国会議員や軍部・右翼らが国体に反するとして、美濃部達吉の天皇機関説を攻撃、テロ事件までひきおこして、政府は、2度にわたって、国体明徴声明を発せざるをえなかった。
 この事件を契機に日本は一挙に軍国主義へつきすすむ。
 かつて、国体は、国家の上位にあった。
 歴史や伝統、文化に根ざす国体の下で、政治権力、法という機能を行使するのが政体で、その二つを合わせたものが国家である。
 国体と政体は、二元論をなすが、これは、日本だけの国家形態である。
 諸外国の国家は、政体という機能だけがあって、国体という精神性を欠く。
 英語に該当することばがないので、コクタイとローマ字で記される。
 明治憲法下、日本は、国体を有する大家族国家で、そこから、忠孝を至高の徳目とする道徳観念が生じた。
 天皇の善性や国民の正直も、神道にもとづいた大家族国家の恩恵で、国体という文化的・精神的な基盤からうまれたものである。
 政治の様式からみたクニが国家で、精神的観念からみたクニが国体である。
 憲法学の大御所、佐々木惣一は、太平洋戦争の敗北によって、国体も運命をともにしたと考えた。
 君主政体が民主政体へ変わって、国体も、君主国体とともに消滅したとしたのである。
 ところが、哲学者の和辻哲郎は、そうは考えなかった。
 明治以前において、天皇は、統治権の総攬者ではなかった。
 戦後、政治的権力を返上して、天皇は、かつての天皇にもどった。
 したがって、君主国体になんら変更はなかった、としたのである。
 和辻哲郎や美濃部達吉のほか皇国史観や『古事記』『日本書紀』の文献批判で知られる津田左右吉らまでが、戦後、天皇擁護に走ったのは、天皇が、国体の柱だったからだった。
 津田はこういっている。
 国民的統合の中心であり、国民精神の生きた象徴であられるところに皇室の存在の意義がある。
 津田のこの表現は、憲法第一条の天皇条項とほぼ同じで、国民主権についても津田は、国民みずから国家のすべてを主宰するとのべている。
 戦後、憲法の枠内で、象徴天皇が語られるようになった。
 天皇が、国体という文化ではなく、法や制度などの構造に拠って立っているかのように思っているのである。
 そこから、国体が、憲法やアメリカにのっとられたという論法がでてくる。
 次回は、これら言説を批判的にのべよう。
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2019年01月25日

「天皇の地位」E

 国体・神道・祭祀
「天皇の地位」E
 神道には、死にたいする深い思索がない。
 というより、死という概念が存在しない。
 ギリシャ神話も、日本の神話と同様、死は脇役で、そこでくりひろげられるのは、神々の愛憎のドラマである。
 古代ギリシャの哲学者エピクロスは「生あるうちに死はやってこず、やってきたときには気がつかない」といったものだが、それが、多神教世界における死生観だった。
 人々は、生きることだけに精一杯で、死について考えなかった。
 この世は、生きとし生けるものだけのもので、死は、除外されている。
 神道やギリシャ神話に死がないのは、死は、生の舞台に必要がなかったからで、かつて、人々は、死という観念が存在しない天地をおおらかに生きていたのである。
 人々が、死について考えるのは、宗教がうまれたのちのことである。
 それまでは、死という事実はあっても、死が意識化されることはなかった。
 死や死の観念、死の恐怖、死後の世界、死からの救済という考え方をつくりだしたのは、ユダヤ教やキリスト教、仏教や儒教などの一神教だった。
 一神教は、天国や疑獄、輪廻を発明して、世界の絶対的な支配者になった。
 死に気づいたからには、だれも、死の恐怖から逃れられない。
 人々は、神への信仰をとおして、死のとりことなった。
 神は、信仰と死の恐怖を取り引きして、牧歌的だった多神教の世界を暗黒の一神教世界へぬりかえてしまったのである。
 人々は宗教の奴隷となって、一方、教会や教団は、強大な権力と大きな富をえた。
 ヨーロッパでは、教会が、死と神を商売の道具にして、大衆から権力までをとりこんでしまったのである。
 
 一神教は一元論である。
 それが、キリスト教以後のヨーロッパ的な世界像で、西洋合理主義も、元をただせば、絶対専制や科学主義、ロゴス主義の一元論へゆきつく。
 近代ヨーロッパをつくったのはキリスト教=一元論だったのである。
 一方、多神教は、多元論で、ヨーロッパ的な一元論的世界とは、まったくの別世界である。
 それが神道の万葉世界で、多元的で多様性にとみ、変化や奥行き、柔軟性をもっている。
 ギリシャの神々は、一神教に滅ぼされて、ヨーロッパは、絶対的な一元論に塗りつぶされたが、日本では、神道が、仏教や儒教をのみこんで、数千年にもわたって、独自の宗教観や世界観、価値観をまもってきた。
 ヨーロッパと日本のもっとも大きなちがいが、王政と天皇であろう。
 ヨーロッパの王政は、権力で、世俗にある。
 日本の天皇は、権威で、神域にある。
 日本は、神域と世俗の二元論だが、ヨーロッパの絶対主義は一元論だった。
 一元論の世界は、王や絶対神への服従、圧制と弾圧、搾取という救いのない暗黒世界である。
 一元論は、同じ価値観をもちあうことで、他のあり方をみとめない。
 正義や正当、聖なるものが一つしかないため、永遠に内ゲバがつづく。
 一神教では、カトリックとプロテスタント、唯一神ヤハウェをめぐるキリスト教とイスラム教のようにいがみあって、宗教戦争は凄惨なものだった。
 仏教や儒教も、人格神による創唱宗教で、人間の頭で考えたことである。
 頭で考えたことが一元論になるのは、人間は、一つのことしか考えられないからである。
 儒教の「天の思想」も仏教の涅槃も、観念論で、一元的な教条主義である。
 ところが、八百万の神々とともにある自然も現実も、多元的にできている。
 多元論は、自然が考えだした現象や法則で、人間の頭では追いつかない。
 神道は、森羅万象、八百万の神々への崇拝で、きわめつけの現実主義である。
 現実主義というのは、生活や身体、日々の糧、現在性などのことで、観念や空想から切り離されている。
 一神教が観念の宗教なら、神道は、現実主義の宗教で、神道に経典や教義がないのは、観念が不在だからである。
 そこに、神道における祭祀の位置づけがある。
 祭祀は、聖と俗、現世と常世、人と神、日常と非日常を分かち、融合させる儀式で、それが、神道の本質である。
 神道は、神に祈るのではなく、祈りを祈ることで、祈ることによって、現世や人、俗や日常をこえた地平がひらける。
 神道における祭祀は、一神教における祈りとは異なる。
 一神教の場合、祈る対象が神で、キリスト教において、祈りが神との契約といわれる所以である。
 神道の祭祀は、自然との合一で、その場が神籬(ひもろぎ)である。
 自然との合一は、神霊とともにあるということである。
 神道で、清浄をなにより大事にするのは、そのためである。
 次回も、天皇の地位をめぐって、多元論と祭祀の議論をすすめていこう。

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2019年01月18日

「天皇の地位」D

 国体・神道・祭祀
「天皇の地位」D
 古来、天皇の地位は、神域にあった。
 神域は、世俗をこえた領域にあるもので、神道の中心的な概念である。
 注連縄や拍手、紙垂や榊は、俗世と神域を隔てる象徴で、この象徴の向こう側が神域で、こちら側が俗世である。
 神道の用語では、現世(うつしよ)と常世(とこよ)である。
 現世と常世の二元論が日本神話や神道の世界観で、この世は、生活の場面である現世と現実や日常、現在性をこえた常世からできている。
 常世は、隠世・幽世(かくりよ)ともいって、神性をおびた無意識の領域である。
 一方、現世は意識界で、祭祀をとおして、現世をとびこえ、常世へ接近する。
 大嘗祭では、新天皇が天神地祇に新穀を供え、常世の皇祖皇宗と一体化して歴史上の存在となられる。
 御身は現世にあっても、皇統は常世のもので、万世一系のご身分が、歴史のなかに用意された玉座にお座りになって、神格をそなえた存在となられるのである。
 現世の事々は、祭祀をとおして、常世=永遠のものとなる。
 日本人が、天皇を「神のようなひと」と見るのは、元々、現世と常世という二つの視点をもっているからで、それが、日本の伝統宗教である神道の本質といえよう。
 祭ることによって、物事が神性をおびるのは、物事は、元々、聖俗二面性をもっているからで、そのきりかえが、神道の祈り=浄めである。
 神道では、常世と現世は、隣り合っているが、かんたんにのりこえることはできない。
 現世と常世は、表裏の関係にあるからで、のりこえるには、じぶんを常世になげだして、いわば、無の存在にならなければならない。
 それが神道の祈り=祭祀で、祭祀では、なにかを願ってはならない。
 神道では、すでに、願いが発せられているからである。
 それが、高天原信仰であり、天照大神と豊受大神がこの世の繁栄を約束した「幽契(かくれたるちぎり)」である。
 高天原も神域で、この世は、その高天原と「不老不死」や「神仙境」「穀霊」から「黄泉国」までをふくむ常世に重層的にささえられているのである。

 神道には、教義や経典、戒律もない。
 神道は、生活そのもので、存在するのは、生命や身体、日々の糧などの物質的にして即物的なものだけである。
 生きているのは、神とともにあるということで、それが神道の宗教観である。
 カミという絶対的な存在にたいしてできるのは、浄めと自然崇拝だけである。
 その浄めの頂点にあるのが祭祀で、人格神の下にある創唱宗教ではない神道には、神のことばを借りて、ひとを惑わす言挙げなどしない。
 神道は、多神教で、アニミズム(万物霊)やシャーマニズム(神霊交流)という縄文の遺伝子をひきついでいる。
 したがって、言語や論理、価値基準などから切り離されている。
 日本に善悪や正邪の基準や仁義礼智の教えがないのは、人格神がいなかったからである。
 いたら、理屈やこじつけ、ウソがまかりとおって、日本神話にみえる正直さはなかったろう。
 日本の神話には、神さまらしくない神さまが大勢登場してくる。
 性的にも奔放で「汝が身の成り合はざる処に刺し塞ぎて国土を生み成さむ」というイザナギ、イザナミの国づくり神話のほか、古事記には、性的な表現がすくなくない。
 現実は、身体や生命が活動する「生活の場」であって、観念や精神をとおしてあらわれる空想ではない。
 神道には、精神がなく、あるのは生活だけである。
 その生活が、裏と表のように、常世や現世に分かれている。
 神道以外の他の宗教には、常世や現世という考え方はない。
 あるのは、天国や涅槃、死後という観念の世界だけである。
 一神教の人々は、精神界を生きるので、現実も、観念的なものになる。
 そこに苦悩の源泉があるのだが、一神教は、だからこそ、神の救済が必要という。
 精神や観念は、ことばや意味、論理の世界で、一元論である。
 一方、日本は、多元論の国で、中江兆民が、詩歌や文学にはすぐれたものがあるのに、哲学や論理にみるべきものがないと嘆いたものである。
 神道に観念論がないのは、元々、自然崇拝だったからで、自然界に精神などというものは存在しない。
 存在するのは、八百万の神々だけで、唯一神も存在しない。
 唯一神は一元論で、ことばも、神のたまわりものなので、一元論である。
 言挙げしない神道は、多元論で、一元的な価値や意味、法則をもたない。
 われわれは、一元論に狎れているので、観念をとおして、世界をながめがちである。
 その世界も、先入観を捨てて、無心で見直すと、ちがった風景へ反転する。
 それが常世で、なにかを無心で見直すことが、祈り=祭祀である。
 挨拶からことば遣い、習慣や習俗、考え方にいたるまで、これらを祖先からうけついできた日本人は、だれもが神道的な心根をもっている。
 聖徳太子の「和の心」も神道的多元論で、聖徳太子は、同時に10人の話を聞いたという。
 多元論は、なにか一つをつきつめて考える一元論からみると、無や空という別天地につうじる。
 神道に死や苦悩、悲嘆がないのは、多元論だからで、悪しきことは、すべて考えという一元論から生じる。
 日本人は、太古の昔から、祈りをとおして、一元論の現世から多元論の常世へ移って、心を浄めてきたのである。
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2019年01月11日

「天皇の地位」C

 国体・神道・祭祀
「天皇の地位」C
 われわれは、唯心論と唯物論の二つの世界を生きている。
 唯物論は目に映る物質の世界で、唯心論は、目に見えない心の世界である。
 物心二元論といってもよいが、この両眼性が、日本人の国家観といえる。
 国家を、実体としての政体、属性としての国体に分けて、両眼でながめるのである。
 といっても、属性としての国体が、モノとして、どこかに存在するわけではない。
 国家が物的な存在なら、国体は心的な存在で、日本人は、歴史や伝統、文化や習俗などの文化概念をもって、これを国体とする。
 それが伝統国家の国民性で、日本人は、天皇を神として敬う唯心論と天皇を一人の人間としてみる唯物論の両方の視点を併せもっているのである。
 政体と国体と同様、権威と権力も二元論で、二元論に立たなければ、国家や権力構造の本当のすがたをとらえることはできない。
 二元論において、世界は、物中心の唯物論と心中心の唯心論から成り立っている。
 したがって、二元論をわきまえなければ、物事の表層しか見えない。
 われわれが、国家や権力の本質を見失うのは、一元論的にみるからである。
 戦前の国体は敗戦で消え、戦後、天皇に代わって、アメリカが新しい国体になったという論説や、古くは、天皇なきナショナリズムや憲法を新しい国体とする新保守主義がもちあげられた。
 これらの言説が的外れなのは、一元論に立っているからである。
 一元論は唯物論で、マルクス主義を挙げるまでもない
 唯物論に立つと、物質や現象、利害以外のものが見えなくなる。
 天皇や国体は、唯物論的なモノやかたちではなく、かたちのない唯心論である。
 したがって、目で見ることはできない。
 唯物論では、天皇や国体の本質は、見えてこないのである。
 天皇は唯心論の存在で、日本人の神道的世界観は、唯心論に拠って立つ。
 多神教や自然崇拝が唯心論で、心にもっとも深く根を下ろしている日本人の宗教心は、高天原信仰=神道といえるだろう。
 天皇主権が、戦後、アメリカ主権におきかえられたように見えるのは、一元論=唯物論に立つからである。
 しかし、天皇をささえてきたのは、神話や歴史、民族性にもとづく唯心論であって、制度や仕組み、機関のような一元論的な唯物論ではなかった。

 キリスト教やイスラム教などの一神教も唯物論である。
 かつて、ヨーロッパも多神教で、ギリシャ神話と日本の神話には、類似性が少なくない。
 ところが、一神教=キリスト教によって、唯心論がヨーロッパから一掃された。
 宗教だから唯心論と思うのは錯覚で、一元論である一神教は唯物論の原型となった。
 神の代わりに合理主義や科学、ことばがおかれて、それらが絶対化されたのである。
 それがロゴス主義で、世界の神的な秩序には、合理主義や科学からことばや理性、真理や論理、王権までがふくまれる。
 王権神授説も、キリスト教的な一元論で、キリスト教によって、唯心論的な宗教が失われて、神までが唯物的になった。
 神が科学や合理主義に入れ替わって、ロゴス主義から、ついに、革命国家がうまれて、西洋は、丸ごと、唯物論となった。
 西洋をとおして日本をみても、わからないのは、西洋の革命国家が唯物論に立っているからである。
 歴史や伝統、文化などの唯心論を断ち切ったからで、革命国家が信奉するのは、合理主義と科学、論理(イデオロギー)だけである。
 アメリカやロシア、中国は、革命国家で、そこで、資本主義がさかえているのは、資本主義もまた革命をうみだした唯物論だったからである。
 一神教が唯物論となるのは、キリスト教は、神との契約だからである。
 祈るのも、神との契約を確認することで、モーゼの十戒も、1から4までは神との契約である。
 一神教の西洋の祈りが契約となるのは、祈る対象が人格神だからである。
 これは、日本人の宗教観にはないもので、日本人の拝む対象は、人格をもたない自然神である。
 しかも、多神教で、アニミズム(万物霊)やシャーマニズム(神霊交流)という縄文の遺伝子をひきついでいる。
 宗教といっても、西洋と日本では、性格が百八十度ちがうのである。
 西洋の神は唯物論的なフィクションだが、日本の神は、唯心論的に実在する。
 神話や至高の理想としての高天原は、日本人にとって、心のなかに実在するもので、そこに、天皇の地位の問題がかかわっている。
 次回は、天皇の地位が、いかに、日本人の宗教観や歴史観、国体観に深く根ざしているかをみていこう。
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2019年01月04日

「天皇の地位」B

 国体・神道・祭祀
「天皇の地位」B
 秋篠宮殿下のご発言が、3つの意味合いで、大きな波紋を呼んだ。
 1つは、皇位継承にともなう大嘗祭の公費支出について疑問を示されたことである。
「宗教色のつよいもので、国費で賄うことが適当かどうか」「わたしはやはり内廷会計でおこなうべきだと思っています」「身の丈にあった儀式にすれば」などの一連のご発言がそれである。
 秋篠宮殿下のご発言が皇室を敬愛する多くの日本人とりわけ保守系の心胆を寒からしめたのは、大嘗祭などの宮中祭祀を矮小化して、天皇家の私事としたからである。
 宮中祭祀は、天皇家の私事ではなく、国民国家とりわけ国体に付属するもので、平成の大嘗祭にも、公費(宮廷費)が充てられて、憲法上の疑義を生じることはなかった。
 新天皇が五穀豊穣を祈る大嘗祭は、農耕民族である日本人にとって、重大な儀式で、伝統国家の国家的祭祀として、すでに、国民的合意をえている。
 宮中祭祀を皇室の私事とするのは、独善で、杓子定規な憲法解釈にもとづくものだろう。
 昭和22年、GHQの神道指令によって、皇室祭祀令が廃止された。
 神道指令は、52年講和条約発効とともに失効したが、これが日本国憲法にひきつがれて、現在に残っている。
 左翼や憲法学者が宮中祭祀を「天皇の私的儀式」と解釈するようになったのは、GHQが日本に滞在した7年間のあいだにおきた出来事で、これを数千年の神道祭祀の伝統に比することはできない。
 もともと、大嘗祭は、古来、皇位継承に伴う大切な伝統的儀式であり続けてきたという揺るぎない事実がある。
 戦後、新憲法下のもとで、宮中祭祀が天皇家の私事としておこなわれるようになったが、宮中祭祀は、かつての皇室祭祀令にもとづいておこなわれ、予算も皇室の内廷費によって処理されている。
 数千年の歴史は継承されているのである。
 政府は、憲法それ自体が皇位の世襲継承を要請しているかぎり、その継承にともなう伝統儀式の執行には公的責任を負うという判断に立つ。
 その立場から前回も公費を支出し、今回もそれを踏襲しようというのである。
 秋篠宮殿下の公費支出にかかるご異議には疑問が残るのである。

 もう一つの問題発言は、「身の丈にあった儀式」という表現である。
 宮中祭祀を憲法に規定された天皇家の私的な行事としたのが、身の丈という表現で、宮中祭祀が、日本古来の伝統ではなく、憲法に規定された法的行為になっているのである。
「身の丈にあった」という表現では、今上天皇の大嘗祭が「身の丈を越えた」ものであったかのような印象をあたえかねず、不穏当に響く。
 秋篠宮が、大嘗祭の費用は、国家ではなく、皇室が負担すべきものだと主張するのは、憲法原理主義に立っているからと思われる。
 そもそも、憲法が規定する戦後の民主化改革(神道指令)は、天皇や皇族を神道の神官とする国家神道の解体で、国家祭祀を天皇家の私的行事にすることにあった。
 しかし、これまで、この憲法の規定は、歴史的解釈によって、曖昧にされたまま、宗教性が明らかな大嘗祭でさえ、公的性格をもつとして、国費によって賄われてきた。
 秋篠宮殿下が指摘したのは、この矛盾で、殿下は、伝統よりも、戦後憲法を重んじられたのである。

 3つ目は、公人と私人の区別で、秋篠宮殿下は、今回、私人としての人格をあらわにされた。
 大嘗祭の在り方について、「宮内庁長官などにはかなり私も言っているんですね。ただ、聞く耳を持たなかった」などの発言をくり返された。
 宮内庁の山本信一郎長官にたいして「聞く耳を持たなかった」と非難されたのは、公人の品位を捨てた個人もしくは私人のもので、殿下の品位のためには望ましいことではなかった。
 宮内庁長官は大嘗祭費用の出どころを決定するような国政事項に関与すべき立場にはなく、政府の一員として、その方針に従っているに過ぎない。
 秋篠宮殿下は、大嘗祭を「内廷会計(内廷費)」で賄うべきだともおっしゃられた。
 だが、内廷費は、皇室経済法施行法で規定された定額が毎年、国庫から支出されており、その額はわずか3億2400万円に過ぎない。 
 この金額のどこから大嘗祭の費用を工面できるとお考えなのであろうか。
 秋篠宮殿下のご発言には乱脈がみられる。
 帝王学においては、私心をおさえることを第一義とする。
 私心をだすと敵をつくるからで、権威は、敵をつくらないことからうまれる。
 皇室には、今上天皇の皇太子(明仁親王)時代、帝王学を説いた小泉信三のような教育者が不在で、皇族をとりまいているのは、天下り官僚ばかりである。
 皇室は宮内庁の人材払底という内なる危機にもさらされているのである。

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2018年12月27日

「天皇の地位」A

 国体・神道・祭祀
「天皇の地位」A
 前大戦で、日本は、連合国に降伏して、敗戦国になった。
 たちまち、国体が危機に瀕した。
 国体は、国家を建造物とするなら、設計図のようなものである。
 歴史や伝統、文化などが国体で、国家は、国体の上に成り立っている。
 したがって、国体という設計図が失われると国家という建造物が瓦解する。
 葦津珍彦は、国体を体質といった。
 国家が実体のある身体なら、国体は、目に見えない体質というのである。
 国体も体質も、目に見えなくても、根底で、国家や身体性をささえている。
 国体の危機というのは、国家という実体ではなく、設計図がおびやかされることで、戦後、伝統的な価値観や国民的信条、歴史観が、GHQの思想改造にさらされた。
 なかでも、衝撃的だったのが、天皇の人間宣言であった。
 1946年1月1日の詔勅のなかで、天皇は、みずからの神格を否定された。
 この詔書は、国家神道を廃止した神道指令につづいて、天皇にたいする思想改革をはかったもので、GHQの民間情報教育局が中心となって、宮内省関係者や幣原首相らが関与、天皇の発意で、五箇条の誓文がくわえられた。
 天皇の人間宣言によって、日本人は、大きなショックをうけたであろうか。
 否で、日本人は、天皇が人間宣言されても、動揺することがなかった。
 国民は、明治維新が捏造した現人神など信じていなかったのである。
 それでは、日本人は、なにをもって、天皇への敬意と敬愛の根拠としたのであろうか。
 私心を有さない天皇の公的な存在にたいしてである。
 日本では、私心をもたないことが、尊敬の対象で、権威となる。
 GHQ民間情報教育局は、天皇が現人神ではないことを日本人に教えるために、ダーウインの進化論をテキストにしようとしたという。
 だが、日本人は、天皇が神であるなどと思っていなかった。
 人間であると知っていて、それでもなお、天皇の神性を信じた。
 天皇は、無私の存在で、天皇の宗教である神道も、天皇の祈りである祭祀も無私という神聖なる地平にある。
 日本の精神風土において、無私は、神域にあって、たとえば、偉人は死して祀られて神になる。
 死ぬことによって、私心が消滅して、神的な存在となるという神道的な哲学なのである。

 無私ということは、公ということで、日本では、私的なものと公的なものがはっきりと区別される。
 区別されるのは、公と私だけではない。
 国体と国家、設計図と建造物、抽象と具体も表裏の関係で、二元論である。
 天皇の神性はこの二元論からでてくる。
 かつて昭和天皇は、大元帥として、軍服を召されて、軍馬に跨れた。
 だが、それは、世俗的権力を有する天皇陛下であって、歴史上の存在である天皇ではなかった。
 天皇陛下は個人でもあって、2・26事件では「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当たらん」(本庄繁侍従武官長日記)とのべられた。
 考えや感情をもち、いわゆる御聖断も、天皇陛下のお考えにもとづくものであった。
 国民は、天皇陛下のお考えやふるまい、お人柄などに畏敬の念を抱いているのではない。
 国民が畏敬しているのは、御心をおもちの天皇陛下ではなく、私心をおもちにならない天皇のほうで、天皇の神性はそこにある。
 天皇は、基本的人権や選挙権、憲法が保障する国民的諸権利や自由をもっておられない。
 天皇が世俗におられないからで、天皇がおられるのは、国家という世俗ではなく、国体という聖域である。
 そこは、歴史や文化、国体という抽象の世界で、目に見える具体的世界ではない。
 憲法第1条に「天皇は、日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意にもとづく」とある。
 憲法前文および1条では国民主権が謳われている。
 国民統合や国民主権は、抽象観念で、しかも、矛盾にみちている。
 民主主義において、国民統合は不可能で、国民主権は、実体を有さない。
 ところが、天皇が、国民統合や国民主権という目に見えないものをみずから象徴することによって、国民統合や国民主権が正統性をおびる。
 目に見えない抽象的な観念が、天皇という目に見えるおすがたに象徴される。
 それが、世俗や私、個からの超越している天皇の神性なのである。
 次回は、秋篠宮さまの 大嘗祭「異例発言」についてのべよう。

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2018年12月20日

「天皇の地位」@

 国体・神道・祭祀
「天皇の地位」@
 歴史上、天皇が神だったことはなかった。
 天武・持統朝から奈良前期の皇親政治において天皇は絶大な権力を誇った。
 天皇が神格化されもした。
 だが、神ではなかった。
 神格化と神であることは分けて考えておかなくてはならない。
 神のような存在と神とは別物なのである。
 現人神思想は、古代や中世にはなかった。
 天皇が神そのものになったのは、近世の明治維新においてで、歴史の例外といってよい。
 それまで、天皇は、祭祀王で、政治権力をもっていなかった。
 それどころか、江戸時代は、公家諸法度にがんじがらめに縛られていた。
 ところが、維新後、近代天皇制のもとで、政治大権、軍事大権、祭祀大権を一手に掌握する現人神となった。
 この天皇大権は、大日本帝国憲法下において、国務大臣らが輔弼責任をもつので、天皇の絶対権力が、権力者によって、恒常的に、政治利用されることになった。
 現人神が天皇大権をもつことによって、明治維新という怪物的な時代背景ができあがったのである。
 現人神という観念は、記紀や万葉集などの現神や現御神(あきつかみ)とは異なるもので、祭祀王という古代、縄文時代からの宗教観や伝統的な価値観をひきついだものではない。
 そもそも、日本には、シャーマンとしての巫女や宗教儀礼を主催する祭祀王はいても、宗教的な絶対者はいなかった。
 ヨーロッパの王のような政治的絶対者もいなかった。
 王政復古というが、日本には、本格的な王政の時代があったわけではない。
 天皇の絶対権力には、歴史的な必然性がなかったのである。

 それでは、この天皇大権は、どこからきたものであろうか。
 大日本帝国憲法が、ドイツ(プロイセン)憲法を手本にしたことはよく知られている。
 フリードリヒ大王以来、君主権がつよかったプロイセン憲法はヨーロッパの絶対王政をひきついでいる。
 帝国憲法は、第1条で天皇主権を定めたほか、統帥大権や外交大権、非常大権などの広範な天皇の大権を謳っている。
 プロイセン憲法と帝国憲法は双生児なのである。
 ヨーロッパの絶対王政は、王権神授説で、一神教である。
 一神教では、一元論の原理がはたらくので、かならず、闘争になる。
 イギリス革命(ピューリタン革命・名誉革命)では、プロテスタントとカトリックなどが衝突して、国王チャールズ1世が処刑された。
 イギリス革命は、王政復古したものの、市民革命で、いちど歴史が断絶しているのである。
 明治維新もまた、西洋化という革命で、このとき、日本の歴史が断ち切られた。
 西郷隆盛が西南戦争で叛旗を翻したのは、日本の伝統をまもろうとしたのである。
 旧武士階級が明治政府にたいしておこした「士族の反乱」も、国体をまもる戦いだった。
 われわれは、明治維新が近代化を実現した歴史の扉のように思っている。
 だが、それは誤解で、開国や近代化は、徳川幕府のもとでおこなわれるべきだったかもしれない。
 それが、日本の国体に合ったすがたで、倒幕から大政奉還、王政復古そして戊辰戦争、鹿鳴館へとつづくみちは、西洋の革命の道筋であった。
 幕末の騒乱から開国、維新まで、日本は、ヒステリー状態にあった。
 尊皇攘夷が西洋化へ180度転換したのもそのためで、日本は、国体という国家の土台を見失っていた。
 江戸城桜田門外の変で、大老井伊直弼が暗殺された。
 井伊が勅許をえずに日米修好通商条約に調印したことにたいして、尊王攘夷派の水戸・薩摩の脱藩浪士らが反発したものだが、条約交渉は万全で、井伊の判断が正しかった可能性が高い。
 だが、勢いにのる討幕派の前に、幕臣側に勝ち目はなかった。
 会津戦争に際して、会津藩が組織した白虎隊の悲劇も、幕府軍の残虐非道な行状も、和を重んじる日本民族の本来のものではなかった。
 当時、吹き荒れていたのは、革命思想で、国体は、忘れられていた。
 西洋化と帝国主義が明治維新の成果で、日清・日露戦争と大陸進攻が国是となって、日本は、世界の強国へのしあがった。
 その帰結が、前大戦の敗戦と国体の危機だった。
 次回以降も、国体と神道、祭祀をめぐる議論を展開していこう。
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2018年12月16日

 なぜ日本は2島返還≠ノ呪縛されてきたのかC

 【緊急問題提起/北方領土】
 ●旧ソ連の不法占領から河野密約説まで(4)
 1956年7月。重光葵外相を主席全権、松本を全権として、日ソ平和条約交渉がモスクワで開始された。
 重光は、四島返還を主張したが、ソ連の態度が硬いと見て、歯舞・色丹二島返還へと方針を変更するべく、このとき、本国へ請訓電を発している。
 しかし、保守合同によって発足した自由民主党が、四島返還を党議決定したこともあって、重光の提案は拒否された。
 秘書官・吉岡羽一によると、松葉杖で身体を支えてクレムリンの長い廊下を歩いてきた重光は、このとき、腹の底から絞り出すような声でこういったという。
「畜生め、やはりそうだったか」
 重光の呪詛はだれにむかって吐かれたのか。
「日ソ共同宣言」に5か月先立つ1956年5月9日。
 クレムリンでおこなわれた日ソ漁業交渉で、河野一郎農相は、随行していた外務省の新関欽哉参事官を部屋から閉め出し、ソ連側通訳をとおして、ブルガーニン首相にこうもちかけた。
「北洋水域のサケ・マス漁業を認めてくれれば、北方領土の国後・択捉の返還要求は取り下げてもいい」
 サケ・マスなどの漁獲量・操業水域・漁期などをとりきめる漁業協定がまとまらなければ出漁できない。
 水産業界からは「北方領土は国交回復の後に交渉しろ」という声が高まっていた。
 日ソ漁業交渉をまとめた河野一郎農相は、1956年5月26日、羽田空港で、日の丸の旗をかざし、のぼりを立てた漁業関係者の大歓迎団に迎えられている。
 日ソ共同宣言の重光全権団のモスクワ入りが1956年7月だった。
 2か月先行した河野一郎は、重光の知らぬまま、ソ連側と密約をむすんでいたのである。

 1956年10月、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相は、モスクワで「日ソ共同宣言」に署名した。
 日ソ共同宣言には、平和条約締結後、歯舞と色丹が日本に引き渡されることが明記されている。
 しかし、国後・択捉の文字はなかった。
 河野一郎が漁業交渉とひきかえに、国後・択捉の放棄をブルガーニン首相と約束したからだった。
 河野・ブルガーニンの密約によって、ソ連は、領土問題で強硬姿勢に転じる。
 国後、択捉の返還を拒否しても日本側は譲歩すると判断したのである。
 歯舞・色丹の二島返還による平和条約の締結という共同宣言の原則は、このときできたといってよい。
 鳩山は、平和条約締結をあきらめ、領土問題を継続協議にして、共同宣言で国交回復をめざす。
 訪ソ直前になって、政権与党の自由民主党は、国交回復の条件として「歯舞と色丹の返還、国後・択捉の継続協議」を党議決定していた。
 鳩山らは、歯舞・色丹の「譲渡」と国後・択捉の「継続協議」を共同宣言に盛り込むよう主張した。
 だが、フルシチョフは、歯舞・色丹2島返還だけで、領土問題の打ち切りをはかった。
 そして、河野に、国後・択捉の継続協議を意味する「領土問題をふくむ」の字句の削除をもとめた。
 河野は、いったんもちかえり、結局、これもうけいれる。
 日ソ漁業交渉はうまくいったが、領土交渉は、日本側の敗北だった。

 重光葵や吉田茂の秘書官を務めたことがある自民党の北沢直吉は、日ソ共同宣言調印後の批准国会(外務委員会)で、河野農相と激しくやりあっている。
「河野・ブルガーニン会談で、クナシリ、エトロフはあきらめるから漁業権のほうはヨロシクたのむ、といったのではないか」
 河野はシラを切った。
「天地神明に誓ってそのようなことはない」。
 重光は秘書官の吉岡羽一秘書にこういっている。
「河野にしてやられた。シェピーロフ(外相)からすべて聞いた」
 重光はシェピーロフにこうたずねたという。
「貴下は、モスクワ会談の際、領土問題について、一貫して、解決済みであるとのべられたが、いかにして解決済みと考えるのか、その内容について説明がなされなかった。この機会に率直に真意を聞きたい」
 シェピーロフはこう答えた。
「モスクワで漁業交渉中の河野大臣は、交渉打開のため、ブルガーニン首相とクレムリンで会談した。その席で、河野大臣は、ソ連がエトロフ、クナシリを返還しない場合でも、日本は、平和条約を締結すると約束した」
 河野はこうともいったという。
「私は日本政界の実力者の一人で、将来、さらに高い地位につくであろう」
 そのとき、ブルガーニンは得たりとばかりにたたみかけた。
「帰国後、ただちに、全権団をモスクワに送ることができるか」
 河野はできると答えている。
 それが、1956年7月の重光全権団、9月の松本全権団、そして10月に訪ソした鳩山首相を団長とする全権団だった。
 日ソ共同宣言における2島返還は、ソ連共産党の既成路線ではなかった。
 河野・ブルガーニン密約で、急きょ、きまったのである。
 安倍首相は、歯舞・色丹の引き渡しを明記した日ソ共同宣言を基礎にプーチン大統領と平和条約の交渉をすすめるという。
 4島返還という本筋が忘れられているなか、2島返還論の旗を振っているのが鈴木宗男と佐藤優である。
 安倍首相の意向をうけて、国民を洗脳しているとしか思えない。
 鈴木は、サンフランシスコ条約で、日本が国後・択捉を放棄したという。
 だが、実際は、日ソ間の政治取引だった。
 4島返還という従来の基本方針を下ろすのも、二島返還で決着をつけたのちに国後・択捉の経済協力という方法をとるのも一つの政治選択であろう。
 だが、北方4島が日本固有の領土で、ロシアがこの4島を不法占拠したという歴史的事実を忘れてはならない。
 領土問題における安易な妥協は、かならず将来、大きな禍根を残すことになるのである。
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2018年12月09日

 なぜ日本は2島返還≠ノ呪縛されてきたのかB

 【緊急問題提起/北方領土】
 ●旧ソ連の不法占領から河野密約説まで(3)
 サンフランシスコ平和条約で、日本は、千島列島を放棄した。
 この千島列島のなかに北方4島はふくまれない。
 ロシア(旧ソ連)は、終戦直後、千島列島に北方4島がふくまれないことを知りながらこれを不法占領した。
 外務省発行の『われらの北方領土』には「択捉島以南の四島の占領は、計画のみで中止された北海道北部と同様、日本固有の領土であることを承知の上でおこなわれた」とある。
 そして、その不法占拠が、今日にいたるまでつづいている。
 そもそも、ロシアは、北方4島どころか、戦後、日本が放棄した千島列島を占有する法的な根拠をもっていない。
 サンフランシスコ条約に署名していないからで、あるのは、実効支配という戦争状態の継続だけである。
 北方領土を画定するには、二国間の平和条約締結が必要となる。
 日本は、1954年以降、ソ連との国交回復をめざした鳩山一郎内閣のもとで、平和条約を結ぶべく、ソ連との折衝がはじまったを開始した。
 日本の国連加盟の支持や抑留日本人の送還、戦時賠償の相互放棄、漁業条約の締結など日ソ間の懸案事項がすくなくなかった。
 1956年10月、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相は、モスクワで「日ソ共同宣言」に署名した。
 戦争状態の終結と国交回復が宣言された瞬間だった。
 当初は「平和宣言」の締結を目指していた。
 だが、交渉が折り合わず、結局は「共同宣言」という形をとった。
 交渉が折り合わなかった理由は北方領土だった。
 日本側は「4島返還」をもとめたが、ソ連は、歯舞・色丹の「2島返還」をゆずらなかった。
「共同宣言」には、ソ連が歯舞・色丹の2島の日本への引き渡しに同意すると書かれている。
 ただし、2島返還は、平和条約が締結されたのちと明記された。
 同宣言は両国で批准された。
 だが、歯舞・色丹の日本への引き渡しは実現しなかった。
 平和条約締結にいたらなかったからである。

 以後、長らく、日ソ交渉が停滞する。
 1960年、日米安保条約が改定延長されると、ソ連が、歯舞・色丹の引き渡し条件に「外国軍隊の日本からの撤退)をもちだしてきた。
 1961年、フルシチョフは、一方的に「領土問題は解決済み」との声明を出して、日ソ共同宣言の内容を後退させる。
 米ソ冷戦構造が北方領土に影をおとしていたのである。
 日ロ間で、領土問題がうごきだすのは、30年後のソ連崩壊(1991年)以後である。
 それまでは、田中角栄とブレジネフのあいだで北方4島返還をめぐる応酬があっただけである。
 1973年、田中首相は、モスクワで、ブレジネフ書記長との会談に臨んだ。
 折しも、検討されている日ソ共同声明のなかに「第二次世界大戦時から未解決の諸問題」という文言があった。
 外務省東欧第一課長として会談に同席していた新井弘一によれば、このとき角栄は、4本の指を突き立てて、「未解決の諸問題に北方四島の返還問題はふくまれるのか?」とブレジネフに迫ったという。
 ブレジネフは、「ヤー、ズナーユ(私は知っている)」と曖昧な答えで逃げを打った。
 角栄は「イエスかノーか?」と机を叩いて迫った。
 ブレジネフはついに「ダー(イエス)」と応じた。
 ブレジネフが、第二次世界大戦時からの未解決な諸問題の一つに北方四島の返還問題があるとみとめたのである。
 1991年、ゴルバチョフ書記長が来日して、海部俊樹首相と6回にわたる首脳会談をおこない、北方四島が平和条約において解決されるべき領土問題の対象であることが初めて文書の形で確認された。
 ゴルバチョフは「解決済み」としていたソ連側の見解を転換したのである。
 以後、日ロの首脳会議では、歯舞・色丹・国後・択捉の帰属問題と平和条約がワンセットとして考えられてきた。
 ■1993年/東京宣言(細川護熙首相とエリツィン大統領)
 ■1997年/クラスノヤルスク合意(橋本龍太郎首相とエリツィン大統領)○1998年/川奈提案(橋本龍太郎首相とエリツィン大統領)
 ■1998年/モスクワ宣言(小渕恵三首相とエリツィン大統領)
 ■2000年/日ロ共同声明(森喜朗首相とプーチン大統領)
 ■2001年/イルクーツク声明(森喜朗首相とプーチン大統領)とロシアの〇2003年/日ロ共同声明(小泉純一郎首相、プーチン大統領)
 橋本、小渕、森までは、2島(歯舞・色丹)先行で、国後・択捉については段階的に考えるというものだった。
 いずれも、基本ラインは4島返還で、方法論がちがうだけだった。
 ところが、今回の安倍・プーチン会談では、国後・択捉が捨てられた。
 歯舞・色丹のみを引渡すとした1956年の日ソ共同宣言へ逆戻りである。
 どうして、そんなことになってしまったのか。
 かつて、日本は、漁業交渉とのかけひきで、国後・択捉を放棄した。
 そのつけがまわってきたのである。
 次回はその経緯にふれよう。
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