2021年05月17日

 天皇と民主主義 その17

 ●明治憲法と戦後憲法〜2度の国体喪失
 ルソーは『社会契約論』のなかで「君臣一体」「君民共治」の政治が理想的であるが、現実的には、望むべくもないので、やむなく、民主主義を選択するといっている。
 その根拠になったのが、ケンペルの『日本誌』だった。
 ディドロの『百科全書』に転載された『日本誌』が、ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューら、ヨーロッパの一流人に愛読されて、19世紀のジャポニスムにつながっていった。
 当然、ルソーも読んでいるはずで、とりわけ、犯罪がほとんどなかった徳川綱吉の時代の善政(天和の治)と対外政策(鎖国)を記したくだりはルソーに大きな感銘をあたえたはずである。
 ジャポニスムは、19世紀後半にヨーロッパで流行した日本ブームのことである。
 浮世絵や錦絵、屏風や陶器などの美術・工芸品が賞賛されたが、極東の文化国家、伝統国家ジャポンにたいする畏怖や尊敬心もおおいにあがった。
 ケンペルは『日本誌』のなかで、日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると紹介している。
 ルソーの君臣≠烽アの記述を根拠にしているはずで、ヨーロッパで天皇とキングの区別がついているのは、ケンペルの『日本誌』のおかげといえる。

 明治政府の若い役人らが「われわれに歴史はありません。われわれの歴史はこれからはじまるのです」とのべて、ドイツ人医師ベルツを嘆かせた(ベルツの日記)のは、かれらが江戸や日本の歴史を否定した薩長の出身者だったからである。
 日本の伝統や江戸の文化をひきついでいない革命分子が、帝国主義や鹿鳴館文明など西洋の物マネに走ったのは、むしろ、当然であった。
 無知で身分の低い薩長の足軽以下、下級公家らが天下をとれたのは、天皇を政治利用したからで、悪知恵をはたらかせたのが岩倉具視だったことは、これまでのべてきたとおりである。
 明治維新が完了した段階で、天皇を元の地位へもどして、日本の国体と政体をもとの二元構造へ復元させておくべきだった。
 ところが、岩倉は、伊藤博文と井上毅に命じて、天皇を国家元首に仕立てた明治憲法を制定する。
 天皇をヨーロッパ型の専制元首に仕立てることによって、ファシスト国家をつくろうとしたのである。

 明治憲法下において、天皇主権は、国務大臣らの輔弼を必要としていたことから絶対権力者ではなかったという意見が多いが、問題は、そこにあるのではない。
 問題の核心は、権力側の天皇利用の悪質さにあって、天皇の名をもちいればどんな事案もとおった。
 それが、天皇軍国主義の要諦で、そこから、統帥権干犯問題(ロンドン海軍軍縮条約)や天皇陛下万歳≠フ昭和軍国主義、そして「宣戦布告」なき対米開戦(ワシントン日本大使館の怠慢説もある)へとつながった。
 日清・日露戦争に勝てたのは、軍隊の主力が、戦争のプロである武士だったからだが、負けていれば、亡国に危機に瀕していたはずである。
 げんに、大東亜戦争では、陸軍士官学校や海軍兵学校らのエリート(恩賜の銀時計や軍刀組)が軍の指揮をとって、ボロ負けして、原爆まで落とされた。
 明治憲法のツケが回ってきたのである。
 明治憲法の瑕疵は、分離されていた《権威=天皇》と《権力=政権》を一体化させて、国体を毀損したところにある。
 その責任は、憲法制定にあたって、ビスマルク憲法(ドイツ)を移入した岩倉具視と伊藤博文にあるのはいうまでもない。

 ●イデオロギー憲法で国家や国民をまもれるか
 戦後、国体観念が否定されて、マッカーサー憲法が、第二の国体といわれるようになった。
 そして、忘れ去られたのが、国体とイデオロギー、法と規制の区別だった。
 現在、日本は、すべて、憲法に下にあるという「憲法原理主義」を奉っている。
 MIC(新聞労連や民放労連、出版労連など)が、コロナ特措法に反対する根拠も「憲法で保障された基本的人権の侵害につながりかねない」というもので、憲法至上主義においては、人命も秩序も、防衛も安全も二の次なのである。
 坂本弁護士一家殺害事件から松本サリン事件、地下鉄サリン事件など未曾有の凶悪事件をおこしたオウム真理教に破防法をかけられなかったのは、法務省の外局である公安審査委員会やマスコミ、日本弁護士連合会が反対したからだった。
 破防法適用棄却決定にたいして、日本弁護士会は、これを歓迎して声明を発表している。「オウム真理教を対象とする破壊活動防止法は、憲法の保障する基本的人権を侵害するものであることは明白である。破防法にもとづく解散指定処分請求を棄却する公安審査委員の決定は、憲法の下で人権保障と民主主義を護りぬいたものとして、これを心から歓迎する。かかる決定をなすに至った公安審査委員各位の高い見識とご努力にたいして、深く敬意を表する」
 あきれてモノがいえないが、これが、日本の弁護士の知的レベルなのである。

「国土・国民・主権」が国家の三要素といわれる。
 いうまでもないが、国家の三要素には、法が通用しない。
 法は、国体や政体、あるいは、法的な秩序が施行されうる体制が整ってのちに効力をもつものだからである。
 法が通用しない国土や国民のなかに、歴史や文化、伝統や習慣など、唯心論的な価値もふくまれる。
 それが国体で、国体が法の支配をうけないのは、法以前の存在だからである。
 一方、主権には、国家の不可侵性や自衛権のほかに戦争をする権利(交戦権)までがみとめられる。
 国家間における武力行使が、結果として、法以上の公的秩序をもたらすからである。
 世界秩序が、法ではなく、軍事力という超法規的な手段によってまもられているのは厳然たる事実である。
 丸山穂高衆議院議員が「戦争で奪われた領土は戦争でとり返すほかない」と発言して、マスコミから袋叩きにあった。このとき、マスコミが根拠にしたのは、日本は、憲法九条にもとづいて戦争を放棄した平和国家というものだった。
 であれば、自衛隊と在日米軍の軍事力が尖閣諸島を中国軍からまもっているのも、憲法違反ということになってしまう。
 明治憲法も戦後憲法も、法概念ではなく、空疎なイデオロギーだったのである。
 次回は、国家の安全や国民の自由をまもっているのが、憲法ではなく、一般法と規制であることについて、のべよう。
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2021年05月10日

 天皇と民主主義 その16

 ●一神教の「権力」と多神教の「権威」
 日本は、神話が、そのまま、国家に移り変わったきわめて特異な国である。
 といっても、古代国家は、多くが、神話をいしづえとして国家をつくりあげてきた。
 古代ギリシャやローマ(王政)、その他、各地の神話も、日本の神話と大差がない多神教、自然神的な物語で、つくられた国も、いわゆる、王国であった。
 5世紀のイギリスの七王国も、古代ゲルマンの多神教の国で、ヨーロッパがキリスト教の影響をうけるのは、キリストの死後、400年以上もたってからである。
 キリスト教が国教に定められて、ローマ帝国の永遠と多神教の象徴であったウェスタ神殿の聖なる炎が消されたのが394年だった。
 初代ローマ教皇のレオ1世の在位が440〜461年で、これは、第16代仁徳天皇の時代と重なる。
 西ローマ帝国滅亡後、権力を握ったのが、そのローマ教皇庁だった。
 十字軍遠征や海外侵略を鼓舞したほか、魔女狩りや異端侵犯で、数百万人を火刑に処して、宗教戦争では、数千万人が犠牲になった。
 ローマ教皇庁のやり方は巧妙で、原罪や地獄などの宗教プロパガンダをもちいて、民を信仰の奴隷にして、王とは、叙任権をとおしてむすびついた。
 王に叙任権を与えて、世俗の富や地位をえたのだが、キリスト教の力は強大で、臣や民が屈したのは、皇帝権(政治)ではなく、教皇権(宗教)だった。
 中世ヨーロッパの国々は、すべて、ローマ教皇庁の支配下にあったのである。
 ヨーロッパの王国も、中世(5〜15世紀)以降、ローマ教皇庁とむすびついた名家名門の系列となった。
 神聖ローマ帝国(ドイツ)はハプスブルク家、フランク王国(フランス)はブルボン家で、エリザベス女王も、英国の君主である一方、ゴータ家=ランカスター家(ウィンザー家に改称)の相続者である。
 ヨーロッパの王室が、いずれも、大地主で大金持ちなのは、王国を継承する世俗的権力だったからである。

 日本の天皇とヨーロッパの王室を同一視するムキもあるが、キリスト教世界において、唯一神(ヤハウェ)以外に、権威など存在しない。
 教皇庁も皇帝も、騎士団(教皇庁系・国王系)や軍団をもつ権力で、これをひきついだのが、16世紀以降の絶対王政をささえた王権神授説である。
 王権神授説は、王権が神から直接さずかるとしたもので『国家論』のボダンや『家父長論』のフィルマーらが唱えた。
 といっても、王権が神から与えられたという説は、王を「神の代理人」としたメソポタミア文明や帝政ローマの神権政治にも例がある。
 王権神授説の特徴は、王権にたいするローマ教皇の干渉を排除したところにある。
 このとき、国家が、キリスト教という宗派から切り離された。
 国家主権、がソブリンティ(君主権)と呼ばれるのは、ローマ教皇庁こえて絶対化された王権が、そのまま、国家主権となった名残である。
 ヨーロッパの国家は、王国だった時代の王家名門から王権神授説、社会契約説にいたるまで、一元論で、ヤハウェという一神教の論理にのっている。
 一方、絶対神をもたない日本は、文化の体系である権威と施政権を行使する権力の二元論である。
 天皇と幕府、国体と政体が分離されて、権威が権力に正統性をあたえる。
 現在でも、内閣総理大臣や最高裁判所長官の任命、法律や政令、条約の公布や国会の召集は、天皇の国事行為になっている。

 日本が「君臣一体」「君民共治」なのは、多神教の神話をひきついでいるからである。
「君臣一体」は、天孫の邇邇藝命(ニニギノミコト)が、天照大御神の神勅をうけて高天原から高千穂峰へ天降ったとき、天皇を補佐する臣や連の大伴氏や物部氏、中臣氏らの祖先が先導、あるいは、一緒に降臨したという故事にもとづく。
 大伴氏が天忍日命(アメノオシノミコト)、物部氏が饒速日命(ニギハヤヒノミコト)、中臣氏が天児屋命(アメノコヤメニミコト)を、それぞれ祖先としている。
 物部氏は軍事を担い、中臣氏は神祇をうけもち、物部氏が蘇我氏に討たれたのちは、本来、排仏派だった中臣氏(中臣鎌足)が中大兄皇子を助けて蘇我氏を倒し、のちに、蘇我氏に代わって、仏教の保護者になった。
「君民共治」は、民のための政治という意味で、近代にいたるまで、西洋には民のための政治という概念が存在しなかった。
 日本では、仁徳天皇の時代から、天皇が国民を「大御宝(おおみたから)」とする一方、権力も、民を天皇の「赤子(せきし)」としてきた。
 将軍を任命して民の幸を祈る日本の天皇は、権力を超越した権威で、世俗の権力や富はもたなかった。
 富や権力どころか、戦国時代の後土御門天皇や後柏原天皇は、葬儀や即位の費用に事欠くありさまで、京都御所も、荒れ放題だった。
 天皇が権力者として祭り上げられたのは、政治利用された明治憲法下だけであったことは、これをいくら強調しても、強調しすぎることはない。
 国をまもる武士を廃して、天皇の赤子たる国民を赤紙∴齧で戦場へ送り出す制度に憤慨したのが、佐賀の乱から秋月の乱、萩の乱、西南戦争にいたる24件にものぼった「士族の反乱」だった。
 専制独裁が一神教文化なら、君臣一体や君民共治は、多神教文化である。
 権力は、民を従わせ、従わない者は罰せられ、場合によっては殺される。
 一方、権威にたいしては、民も臣も、みずから、従おうとする。
 権力は、法と刑罰の体系で、権威は、常識と規律の体系である。
「君臣一体」「君民共治」は両者のバランスをとった政治体制だったのである。

 憲法で謳われている自由や平等、権利は、一方で、他人の自由や平等、権利を侵害しかねない危険性をおびる。
 そこで、規制が必要となる。真の自由や平等、権利は、規制されて、万人のものとなるのである。
 オウム真理教にさえ適用されなかった破防法やMIC(マスコミ労連)が反対しているコロナ特措法は、自由にたいする制限(規制)である。
 国家や国民の安全をまもるには、野放図な自由や平等、権利ではなく、常識と規律にもとづく規制が必要になるのである。
 次回は、すこし脇道へそれて「法と規制」について一言を発したい。
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2021年05月04日

 天皇と民主主義 その15

 ●ヨーロッパ絶対王政と天皇・幕府二元論
 中世のヨーロッパでは、2世紀以来、ゲルマン人の侵入などによってローマ帝国が衰え、代わって、ローマ帝国の国教となったキリスト教(ローマ教皇庁)が支配力をつよめた。
 国家権力の前に宗教権力が成立していた中世ヨーロッパにおいては、のちに国家となる王家名門が、すべて、ローマ教皇庁の教徒であった。
 王族間では、武力で覇を競い合ったが、国を治め、民を支配したのは、武力ではなく、キリスト教という宗教で、民は、異端裁判をおこなう教会の奴隷にひとしかった。
 ローマ皇帝ハインリヒ4世が、雪が降るなか裸足のまま断食と祈りを捧げて教皇グレゴリウス7世に赦しを乞うたのは、教皇庁から破門されると、臣下や民の信任を失ってしまうからだった(カノッサの屈辱/1077年)。
 たとえ、皇帝でも、ローマ教皇に歯向かえば、権力を失ってしまいかねないところに、日本人の理解がおよばない一神教の魔力性がある。
 ヨーロッパの国々が、キリスト教を土台にして国家をつくりあげていったのは歴史のしめすとおりである。
 ヨーロッパで、国家がうまれるのは、5世紀以後で、西ゴート王国(スペイン・ポルトガル)、七王国(イギリス)、西フランク王国(フランス)、東フランク王国のちの神聖ローマ帝国(ドイツ)、東ゴート王国(イタリア)などがそうである。

 むろん、これらの王国が、一足飛びに近代的国家になったわけではない。
 かつて、王国は、王家名門が所有する私有地で、王族の権力をささえていたのがローマ教皇庁だった。
 イスラム教徒とキリスト教徒がたたかった8世紀〜15世紀のレコンキスタ(イベリア半島の国土回復運動)や7回におよんだ十字軍の遠征(11〜13世紀)で陣頭指揮をとったのは、ローマ教皇庁で、教皇の影響下にあった諸侯や騎士団(テンプルや聖ヨハネなど)などが、国王にまさる権勢をふるった。

 日本の歴史家のなかにも、ローマ教皇と国王の関係を、日本の天皇と幕府の関係と同一視するケースがみうけられるが、一神教と多神教の宗教観のちがいをわきまえない誤りである。
 ローマ教皇や諸侯、騎士団や国王は、権力の体系で、同一線上におかれる。
 したがって、十字軍の失敗のあと、諸侯や騎士団の地位が低下して、教皇と国王(皇帝)の地位と接近することになった。
 中世の封建社会が崩壊して、絶対王政への時代へ移ってゆくのである。
 皇帝と教皇による叙任権闘争というものもあったが、これは、司教や修道院長の任命権の問題で、天皇が施政権を将軍(幕府)にゆだねる「権威と権力の二元論」とは構造的に異なる。
 ヨーロッパは、王権と教皇が権力というタテの一元論でつながっている。
 ところが、日本は、天皇と幕府が、権力と権威が横に並ぶ二元論である。
 あらゆる価値観の根底に、宗教観念があるのはいうまでもない。
 善悪や良否、正邪を区別する一元論が一神教のものなら、多元論的で多様性とあいまいさをもっているのが多神教の特徴である。
 ヨーロッパの国家が一元論的なのは、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教が一神教だからで、かつての、ギリシャ・ローマの多神教は、現在、遺跡として残っているだけである。
 一神教や唯物論、科学や合理主義という文明≠ヘ、多神教や唯心論、経験則や歴史という文化≠破壊した上に成立する。
 それが国家で、多元性や多様性を否定しなければ、中央集権という一元的な構造ができないのである。

 例外が日本で、多神教的な価値観の上に国家という一神教的な構造がのっている。
 日本の国家は、古代から、権威と権力、国体と政体、文化と制度などの二元論的構造の上になりたってきた。
 天皇の権威にたいする権力は、豪族から官吏、貴族や上皇、武士へ変わってきたが、国家の二元的な仕組みは、いまも、かわっていない。
 貴族や武士に代わって、現在、選良(代議士)が政治権力を、官僚群が行政権力を握っている。
 戦後、最大の価値とされてきた民主主義だが、議会の多数決と普通選挙法という政治の局面において有効なだけである。
 民主主義は、政治手法の一つにすぎないので、戦後、民主主義が導入されて日本はよい国になったという左翼の言い分はとおらない。
 日本には、君民共治から聖徳太子の17条の憲法、五か条の御誓文に至るまで、民主主義的な価値観が根づいていて、アメリカから民主主義がやってきたといって、国民が腰を抜かすほど驚いたわけではない。
 象徴天皇も、マッカーサーの発明ではなく、歴史的事実で、権威は、霊的な象徴として、世俗にある国土・国民・国家の安定や統一をみまもってきた。
 宗教は、あらゆる価値の根源で、一神教が文明を、そして、多神教が文化をつくってきた。
 天皇が、日本の文化なら、民主主義は、西洋の文明である。
 日本が、先進国で唯一、伝統国家たりえているのは《君臣共治》というかたちで、日本の文化をまもりながら、民主主義の原理をはたらかせてきたからである。
 天皇と行政官、民は「君・臣・民」の三位一体で、互いに支えあっている。
 天皇が権力に正統性をあたえ、権力に支配される民は、天皇の権威の源泉となっている。
 天皇の権威は、民の幸を祈って、権力を監視するところにある。
 民をまもってきたその天皇を、国家元首の現人神に仕立てて、国民を戦争に駆り出したのが天皇制ファシズムで、その根幹が明治憲法である。
 現人神神話と昭和軍国主義については、項を改めてのべることとする。
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2021年04月26日

 天皇と民主主義 その14

 ●廃仏毀釈と近代化という一神教♀v命
 明治天皇と大正天皇の主治医で、岩倉具視の臨終を看取ったドイツ人医師のベルツは、日本人は、自国の歴史に誇りをもっていないどころか、恥じてさえいるといって、嘆いた。
「なにもかもすべて野蛮でした」「われわれに歴史はありません。われわれの歴史はこれからはじまるのです」
 ベルツが「大変不快なこと(ベルツの日記)」と書き残した日本人のこの自虐史観は、いまも残っていて、日本共産党や日教組、朝日・毎日ら左翼マスコミのオハコである。
 自国の歴史を否定する自虐史観は、家の土台を壊すようなもので、マルクス主義者や西洋かぶれなどの国際派が、この愚行に走るのは、革命志向をもっているからである。
 ベルツは、日本に29年間滞在して、日本人妻とのあいだに4人の子をもうけたドイツ人医師で、日本人の自己否定や西洋コンプレックスを、終生、批判しつづけたのは、日本を愛するがゆえであった。

 自己否定の極みが廃仏毀釈≠ニいう明治維新の狂気だった。
 奈良興福寺では、二千体以上の仏像が焼かれて、経典が包み紙にされたほか多数の宝物が散逸して行方不明になっている。五重塔も、解体されて薪となる寸前で、二束三文の値までついた。
 興福寺があった場所は、現在、奈良ホテルや奈良公園になっているが、興福寺に並ぶ日本四大寺の一つで、広壮な伽藍を誇った内山永久寺は、文化遺産をふくめて徹底的に破壊されて、いまや、その痕跡さえ見ることができない。
 ベルツに「われわれに歴史はありません」といってのけた明治政府の若者の多くが薩長出身者だったが、廃仏毀釈がはげしかったのも薩長だった。
 薩摩藩では、藩内にあった1616寺院のすべてが失われ、現存する新興の481の寺に、国宝や重要文化財の仏像は1点もない。
 廃仏毀釈がはげしかったのは、薩長のほか、梵鐘・仏具から大砲をつくった水戸藩、土佐藩、伊勢神宮のお膝元、伊勢国、美濃国などだが、美濃の苗木藩では寺院すべてが廃寺となって、現在でも、葬式は神葬祭(土葬)である。

 神道は、神話で、宗教ではないことは、ギリシャ神話が、宗教ではないのと同様である。
 賀茂真淵や本居宣長の国学でも、神道は、古事記や万葉集に象徴される文化の体系で、それが、国体に反映されて、国のかたちができあがった。
 仏教も、元来、国家鎮護を目的としたもので、それが、東大寺の「大仏思想」である。
 国を鎮護するから大仏で、人間の悟りを導く広隆寺の弥勒菩薩は、人体よりも小さい。
 東大寺の大仏は、毘盧舎那仏(大日如来)で、神仏習合において天照大神と同一視された。
 神仏習合は、縄文アニミズムや神話が土台になっている神道の一部に仏教という外来宗教がとりこまれただけで、崇仏派の蘇我と排仏派の物部が、神道か仏教かの二者択一的な戦争をおこなった結果ではない。
 渡部昇一は、聖徳太子が「十七条憲法」の二で「篤敬三寶(仏・法・僧)』といいながら神道にふれていない点について「日本の神を崇めるのはあたりまえのことで、日本料理の本に、箸を片手に二本もって食べるべしと書いていないのと同じことである」と喝破している。

 古事記には、八百万の神々をつくった伊邪那岐尊(イザナギ)と伊邪那美尊(イザナミ)の直系、天照大神と瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の子孫にあたる神武天皇が日本を治めたと記されている。
 ギリシャ神話にも、夫のイザナギが妻のイザナミに会いに黄泉の国へむかう同じ話がある。
 オルフェウスが毒蛇に噛まれて死だ妻エウリディケーを生き返らせてもらうために冥府にむかうという箇所で、両者に共通するのは、地上に出るまで妻を見てはならないという設定である。
 イザナギの場合は、イザナミが黄泉の亡者とともに追ってくるが、オルフェウスの場合は、姿を見られたエウリディケーがその場で石になってしまう。
 ヨーロッパで、キリスト教がギリシャ神話やローマ神話にとってかわったのは、国家を統一して、敵と戦うには、一元論の絶対神が必要だったからだった。
 価値観が多元的で多様な多神教は、おおらかで、敵を攻めることも、攻めてくる敵と武器をもってたたかうこともできない。
 アステカ・マヤ・インカ文明は、無抵抗に滅ぼされたが、抵抗したアメリカインディアンも、オーストラリアアボリジニもほぼ全滅させられた。
 ヨーロッパでは、多神教文明を滅ぼしたそのキリスト教文明が、権力版図を広げて国家をつくった。

 5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、ゲルマン人の大移動がはじまる。
 そして、7世紀になると、、現在のドイツ、フランス、イタリアの基礎となるフランク王国がヨーロッパの中心となる。
 ローマ帝国は滅びたが、4世紀末にローマ帝国の国教となったキリスト教は衰えることなく、ローマ教皇は、8世紀後半、フランク王のカールと連携して強大な王国を築きあげた。
 教皇の呼びかけによって、十字軍の遠征がおこなわれた11世紀、フランク王国の王とローマ教皇とのあいだで権力闘争がおこる。
 ローマ教皇グレゴリウス7世が、フランク王国を継承する神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世を破門すると、ハインリヒは、雪のなか3日間、グレゴリウスがいた北イタリアのカノッサ城門前で、裸足のまま断食と祈りを続け、教皇に赦しを乞うのである(カノッサの屈辱)。
「教皇は太陽、皇帝は月」と呼ばれた時代で、教皇が圧倒的に優勢だった理由は、国家の支配原理が信仰だったからである。
 日本の歴史家は、ローマ教皇と国王との関係を、天皇と将軍の関係になぞらえて語るが、それはまちがいで、天皇は、権威であって、ローマ教皇のような権力者ではなかった。
 ところが、14世紀にはこれが逆転する。破門されたフランス王が、教皇を幽閉して、教皇が憤死するという事件がおきるのである。
 そして、16世紀になって『国家論』の、ボーダンらによって王権神授説が唱えられ、神以外、ローマ教皇ですら王権に干渉できないことになって、絶対王政が確立された。
 次回以降、日本の天皇とヨーロッパの王政のちがいをみてゆこう。
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2021年04月19日

 天皇と民主主義 その13

 ●河井継之助と小地谷の官軍問答
 ヨーロッパの市民革命は、主役が、市民(ブルジョワ)だった。
 ところが、明治維新は、反乱軍が「官軍」を名乗って、大政奉還したのちに恭順の意をしめした東北(陸奥、出羽、越後)の幕藩側に殲滅戦を仕掛けるという暴挙にでた。
 反乱軍が幕藩側にたいして攻勢にでたのは、アメリカから火器(南北戦争の中古銃=スナイドル銃・ミニエー銃・エンフィールド銃)をたっぷり仕入れていたからで、銃輸入の仲介に立ったのが、明治政府から、勲二等旭日重光章を授与されたトーマス・グラバーだった。
 グラバーは、中国のアヘン戦争を仕掛けたマセソン商会(イギリス)の日本支社(グラバー商会)で、マセソン商会は、世界的な武器商社だった。
 外国から仕入れた武器で、徳川幕藩体制を壊滅させ、孝明天皇に代えて明治天皇を国家元首に立てて、どうしてこれを、市民革命などということができるだろう。
 明治維新が、薩長の討幕派と宮廷の反孝明天皇派が手をむすんだクーデターだったことは明らかだが、歴史家は、だれ一人、この事実を語ろうとしない。
 日本の歴史家の大半が、遠山茂樹を筆頭に、マルクス史観に立っているからで、明治維新を市民革命と位置づけなければ気がすまないのである。
 憲法は「八月革命説」の宮沢俊義、近代史は「明治維新(岩波)」の遠山茂樹という二人の重鎮(東大左翼)に牛耳られていて、日本の法学や史学は、そこから一歩もうごけないのである。

 明治維新のキーワードが官軍≠ナある。
 官軍の征討大将軍には仁和寺宮彰仁、東征大総督には有栖川宮熾仁が任じられたが、任じたのは「討幕の勅書」や錦の御旗(錦旗)を偽造した岩倉具視や三条実美らで、年少だった明治天皇が関与したはずはない。
 官軍という呼称も、岩倉や三条ら反孝明天皇派の公卿の専断である。
 朝廷の軍が官軍だったのなら、孝明天皇の崩御後、一夜にして、孝明天皇がきらっていた長州が官軍になって、一方、孝明天皇の信頼が厚かった会津藩主松平容保が賊軍になるはずはない。
 孝明天皇が、突如、崩御(1866年12月25日)されると、2週間後の1867年1月9日、明治天皇が14歳で即位して、岩倉や中山忠能ら反孝明天皇派の公卿が続々と朝廷に復帰してきた。
 一方、孝明天皇派の側近だった中川宮朝彦親王や二条斉敬らの公卿が朝廷を追われる。
 そして、官軍を名乗る薩長軍が、孝明天皇の信が厚く、尊王思想が高かった陸奥、出羽、越後を賊軍として、討つという。
 長州は、御所に砲撃を浴びせ、孝明天皇の拉致をはかった逆賊である。
 その長州が、孝明天皇の不審死の直後、喪に服することもなく、反孝明天皇派の公卿らとともに官軍を創設して、天皇と将軍が一体化していた「幕藩朝廷体制」の破壊につきすすんでゆく。
 これは、二重の政変で、1つは、幕藩体制の否定である。
 そして、もう一つは、権力構造の変更である
 権力に正統性をあたえていた権威が、権力の座へ横滑りして、権力と権威の二元化という日本の国のかたちを破壊した。
 日本は、国体=天皇と政体=権力の「二元論」から成り立ってきた国である。
 国体と政体の二元論は「聖俗二元論」でもあって、軍事力をもたない天皇と文化的・宗教的価値をもたない幕府が、支え合って、国家をつくりあげてきたのである。
 古代の豪族との連立政権から律令体制、藤原氏の摂関政治、院政をへて武家政治にいたるまで、日本は、権威と権力の二元論をもって、国家を安定させてきた。
 それが、明治維新で壊れて、明治憲法で、天皇元首の一元論的な専制国家になった。そして、そこから、昭和の軍国主義へ、そして、第二次大戦の敗戦につながってゆく。

 孝明天皇から明治天皇へいたる思想的、政治的連続性がすっぱりと断たれている。
 そして、その断裂の前に、薩摩の大久保利通と西郷隆盛、大量の火器で武装して官軍を名乗った長州、岩倉具視や三条実美らの反孝明天皇派の公卿が控えている。
 官軍は、鳥羽・伏見の戦いから上野戦争(彰義隊)、会津戦争へと戊辰戦争を拡大させていった。
 会津戦争は、奥羽と北越でおきた官軍と旧佐幕系諸藩との戦いである。
 鳥羽・伏見の敗戦後、会津藩主松平容保は謹慎して、官軍に帰順の意を示す。
 斡旋に立った仙台藩と米沢藩は、官軍の会津追討の決定を無情として抗戦を決意して、奥羽の旧佐幕系諸藩を説いて、奥羽大同盟がむすばれた。
「奥羽越列藩同盟」は、現在の青森・岩手・宮城・福島(奥州)と秋田・山形(羽州)、新潟(越州)の7県(31藩)で、有力藩が100藩に足りなかった幕末当時、薩長が31藩を敵に回すのは、天下分け目の戦いといってよかった。
 官軍が勝ったのは、圧倒的な火器と「官軍」の威名によるもので、奥羽越列藩は、内部に官軍への恭順(無条件降伏)派をかかえ、最後まで、徹底抗戦の態勢が敷けなかった。
 長岡藩は小藩だったが、家老上席の河井継之助は、藩主牧野忠訓の絶対的な信頼の下で、英米の武器商人からアームストロング砲やエンフィールド銃などの火器を調達して、一朝有事にそなえる。
 長岡藩が、当時、2門所持してガトリング砲は、日本に3門しかなかったというが、戊辰戦争がはじまると、継之助は、江戸の藩邸などをすべて処分して軍備費にあてている。

 政府軍の岩村精一郎と越後の小千谷(慈眼寺)で会談した継之助は、降伏を迫る岩村に反問している。
「会津討伐の理由は何か」「賊軍を討つが官軍ぞ」「会津は賊軍に非ず」「官軍に歯向かうは賊軍ぞ」「天子を戴く官軍が同胞を討つはずがない」「会津は同胞に非ず」「さては貴殿ら官軍ではあらぬな」
 激高した岩村に継之助はこう言い放った。「賊軍を討伐するというのは天子の名を借りた私闘、権力をとるための野望であろう」
 北越戊辰戦争で、河井継之助が率いる長岡藩は、3か月にわたって政府軍を苦しめたが、戦死者が340人におよび、継之助も銃創がもとで死亡した。
 もっとも被害が大きかったのが会津藩で、白虎隊をふくめて戦死者2400人のほか、婦女ら数千人が虐殺されたが、埋葬禁止令によって、数千の死体が白骨化するまで捨て置かれた。
 藩主松平容保は助命されて、会津藩も取り潰しにはならなかったが、容保と生き残った会津藩士は極寒の陸奥斗南(青森県むつ市)移封を命じられた。
 実高40万石の有数の穀倉地帯だった会津若松の地から、火山灰で覆われた3万石の地に追いやられた会津藩士の多くが、病死や餓死に斃れて果てた。
 松平容保は、首から提げた小さな竹筒を、終生、肌身離さなかったという。
 なかに入っていたのは、孝明天皇の宸翰(天皇直筆の書簡)と「禁門の変」の折の容保の忠誠を称揚する御製の和歌であった。
 明治維新が、薩長と、反孝明天皇派の二重のクーデターだったことをいちばんよく知っていたのは、松平容保であったろう。

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2021年04月12日

 天皇と民主主義 その12

 ●朝廷クーデターでもあった明治維新
 明治維新は、天皇を担いだ薩長討幕派によるクーデターだった。
 だが、見方によっては、薩摩の大久保利通と西郷隆盛、長州藩をまきこんだ朝廷クーデターだったともいえよう。
 首謀者は、岩倉具視と三条実美、明治天皇から錦の御旗をさずかった有栖川宮熾仁親王(東征大総督)、戊辰戦争における官軍の大将に任じられた仁和寺宮嘉彰親王らである。
 このなかに、明治天皇の外祖父で、岩倉の協力者だった中山忠能や長州藩とむすんで討幕にうごき、京都を追われて長州に落ち延びた7公卿らもふくまれる。
 クーデターが成功して、岩倉ら親長州派の公家、薩摩の大久保・西郷、長州勢が天下をとったが、このクーデターで、標的になったのが、孝明天皇だったことに、なぜか、歴史家はふれようとしない。
 親徳川・反長州で「公武合体派」だった父・孝明天皇にたいして、15歳で即位した明治天皇は、親長州・反徳川で「尊皇攘夷派」だった。
 朝廷の人脈も、対立関係にあって、父と子でありながら、孝明天皇と明治天皇のあいだに、思想や政策の連続性がみられない。

 孝明天皇につかえたのが、中川宮朝彦親王や関白・二条斉敬ら、幕藩体制をささえた皇族や公卿で、孝明天皇が信頼をよせたのが、徳川慶喜や京都守護職で会津藩主の松平容保、京都所司代で桑名藩主の松平定敬だった。
 この宮廷クーデターで、戦闘部隊だった薩長が、最大の敵としたのが会津と桑名だったのは、両藩が、孝明天皇の京都御所をまもっていたからだった。
 クーデター成功後、徳川慶喜が政治生命を断たれ、朝彦親王や関白二条らが朝廷への出廷を禁じられたが、会津藩と桑名藩にたいしては、そんな手ぬるい処置ではすまなかった。
 天下をとった長州藩が、住民ともども皆殺しという、日本史上、比類のない蛮行にでたのである。
 かつて、会津藩と桑名藩によって、京都を追われたことを根にもってのことだった。

 クーデターの火ぶたが切られたのは「禁門の変」(1864年)だった。
 その前年におきた「八月一八日の政変」で、京都における地位を失った長州藩が兵を率いて上京、会津、薩摩の両藩と、京と御所蛤御門の付近で会戦して敗れている。
「八月一八日の政変」というのは、薩摩の島津久光ら公武合体派が、尊攘派の公卿や志士ら尊攘派を京都から追放した事件である。
 長州を中心とする尊攘派が、大和を行幸中の孝明天皇を拉致して、討幕軍のシンボルにする計画を立て、実行部隊のテロ集団(天誅組)を活動させていることが発覚したからだった。
「禁門の変」で、長州は、御所に発砲して、賊軍となっている。
 尊王の大儀をもちあわせていなかったからで、孝明天皇も、長州をきらっていた。
 長州にとって、天皇は、徳川から権力を奪取するための玉(ギョク)≠ノすぎなかった。
 天皇を政治利用して「天皇君主制」の専制国家をつくろうとしている薩長や長州派の公卿らにとって、公武合体論に立つ孝明天皇、天皇の信頼をえていた徳川慶喜や会津の松平容保、桑名の松平定敬がクーデターの最大の妨害だったのである。
 孝明天皇の崩御(1867年)について、毒殺説がささやかれるのは、病状から毒物中毒が疑われることと、長州征伐や薩長同盟、公議政体論などが交錯するなか、孝明天皇が、討幕派の前にたちはだかっていたからだった。

 事実、孝明天皇の崩御後、岩倉具視ら長州派公卿の赦免、薩長と共謀による討幕の密勅工作、公武合体論の坂本龍馬暗殺、大政奉還、小御所会議(王政復古)、徳川慶喜に辞官納地命令と流れが変わって、公武合体論は、完全に瓦解した。
 そして、翌1868年には、大久保利通と岩倉具視らが錦の御旗(錦旗)を大久保の妾につくらせ、偽造した錦旗を掲げた薩長軍に「官軍」を名乗らせている。
 そして、長州派の仁和寺宮嘉彰親王を「官軍」の大将にすえた。
 これを見て、幕藩勢が、朝敵になるのをおそれて、士気を阻喪したのはいうまでもない。
 すべて、狡猾な岩倉具視、陰険な大久保利通の工作で、これに15歳の明治天皇が関与したはずはない。
 戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)勃発後、西郷隆盛と勝海舟による江戸城開城となるが、これは、巷間つたわる薩長史観の美談ですむはなしではない。
 徳川慶喜の委任をうけた勝は、西郷にたいして、徹底的な恭順の意を示しただけで、事実上、東北地方(陸奥、出羽、越後)への報復的な攻撃を容認したのである。
 上野戦争(彰義隊決起)にも、勝は、官軍への降伏をうったえただけだった。

 かつて、明治天皇の別人説が流布した。孝明天皇の長男(裕宮)は「禁門の変」で、長州の砲撃に気を失った気弱な子だったというが「小御所会議(1868年)」にあらわれた15歳の明治天皇は、大柄で豪胆、しかも、内裏育ちではありえない左利きだった。
 だが、天皇ついて語ることは、タブーで、小御所会議で、岩倉具視は、幼い天皇を担ぐのは謀議ではないかと異議を唱えた山内容堂を逆に詰問して、謝罪させている。
「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の大日本帝国憲法第3条(1890年)の10年前に刑法(1880年)で「不敬罪」が発効している。
 天皇について語ることを畏れ多い≠ニしたのは、天皇を政治利用するための便法だった。
 そして、それが、天皇陛下の名を口にするときは「おそれおおくも」と直立不動の「気をつけ」の姿勢をとらせた昭和の軍国主義につながってゆく。

 明治憲法は立憲君主制で「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」(第55条)とあって、天皇の命令も、国務大臣の署名がなければ発令できなかった。
 その構造は、明治天皇が天地神明に誓約する形式で公卿や諸侯などに示した「五箇条の御誓文」(明治政府基本方針/1868年)でも明らかで「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」と民主主義的で、どこにも、天皇主権が謳われていない。
 それでは、どこから〈現人神信仰〉がでてきたのであろうか。
 天皇軍国主義は、法に拠らない宗教で、源流は廃仏毀釈≠フ狂気をうんだ明治天皇の「大教宣布詔」である。
 この詔にもとづいて「神仏分離令」(1870年)が発布された。
 音頭をとったのが「討幕の密勅」を工作するなど岩倉具視や三条実美に協力してきた中山忠能らで、大教宣布詔では、天皇に神格をあたえ、神道を国教と定めて、大日本帝国を「祭政一致の国家」とする国家方針を示した。
 中山のいう神道は、平田神道のことで、平田篤胤は、加茂真淵や本居宣長ら国学系の古神道とは異質の神秘主義を唱えた。
 宇宙論から法華宗、密教や道教、キリスト教や聖書などをとりいれた一種の新興宗教で、天皇=現人神の観念も、平田神道の産物である。
 薩長の王政復古や廃仏毀釈、欧化主義、現人神信仰は、一元論で、日本文化の根本である二元論・多元論と真っ向から対立する。
 次回は、河井継之助の小地谷会議における「官軍問答」や官軍思想が狂気の昭和軍国主義へ変質していった経過を見ていこう
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2021年04月04日

 天皇と民主主義 その11

 ●国譲りの「シラス」と「ウシハク」
 奥州藤原氏の中尊寺金色堂(平泉)や豊臣秀吉の黄金の茶室、そして、庶民までがもっていた小判を挙げるまでもなく、近世以前、日本は、世界で有数の金の産出国で黄金の国ジパング≠ニ呼ばれた。
「黄金の島ジパング」という記述は、マルコ・ポーロの「東方見聞録」によるものだが、実際に日本へやってきたザビエルやフロイスら宣教師、博物学者で医師のケンペルやシーボルトらも、日本がゆたかな文明国であることを母国に克明につたえている。
 なかでも、日本には聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の二人の支配者がいると紹介したケンペルの「日本誌」は、ゲーテやカント、ヴォルテールやモンテスキューらの関心をひいて、これが、19世紀のジャポニスムにつながってゆく。
 ルソーも「日本誌」を読んでいるはずである。それで「君民共治という理想的な国が地上に存在するはずはないので、わたしは、やむをえず、民主主義をえらぶ(社会契約論)」といったのである。
 ルソーは、ゲーテやカントのように「日本誌」を信用しなかったが、天皇と将軍について、詳細に記述したケンペルの日本論は、最近、完訳がでた(今村英明訳)こともあって、一読する価値がある(毎日新聞)という。
 ケンペルは、明治時代に制定された神武天皇の即位の時代設定を、17世紀において、西暦に計算しなおして、紀元前660年と定めたほか、歴代天皇の「諱(いみな)」も明らかにしている。
 ヨーロッパ人が、天皇をキングと呼ばない理由は、ケンペルの「日本誌」をとおして、日本を理解していたからである。
 当時、ヨーロッパ人は、日本を錦絵や浮世絵、観賞用陶器をもった文化国家とみなしていた。
 ちなみに、ヨーロッパで、美術品が庶民のものになるのは、19世紀の産業革命の後のことである。

 中世から近世にかけて、世界最大の都市は、江戸で、ロンドンの80万人やパリの50万人にたいして100万人の人口を擁していた。
 現代の大学や専門学校にあたる私塾が1500、義務教育にあたる寺子屋に至っては15000もあって、識字率も、ロンドンの10%にたいして日本は70%以上だった。
 宣教師たちを驚かせたのは、下水道処理や流通などのライフラインが整っているばかりか、衣食住の文化が花咲いて、市街が清潔で美しいことだった。
 しかも、ヨーロッパに比べて犯罪が極端に少なく、小伝馬町の牢屋はいつもがらがらだった。
 日本で犯罪が極端に少ない理由について、ケンペルは「日本誌」で、天皇と将軍(幕府)の二元論にふれて、権力一本のヨーロッパと比較している。
 五代将軍徳川綱吉とも謁見しているケンペルは、徳川政権がもっとも栄えた元禄の天和の治≠ェ権力だけでもたらされたものではないことを知っていたはずである。
 日本学者だったケンペルは、日本の建国神話にも詳しかった。
 大国主命の「国譲り」(古事記)に「シラス」と「ウシハク」ということばがでてくる。
 シラスは、国がしぜんに治まってゆくさまで、ウシハクは、支配することである。
 汝之字志波祁流 此葦原中國者 我御子之所知國
「汝のウシハケる この葦原の中つ国は 我が御子のシラス国なるぞ(この国は天照大御神の子である天皇が治めるもので、大国主命が私有するものではないぞ」
 ウシハケルは「ウシ(=主人)ハケる(佩ける=所有する)」で、私物化するという意味の古語である。
 一方、シラスは、知らしむ、知らしめるということばの原形で、つたえるという意味である。
 シラスが「治める」となるのは、つたえるだけで、民がみずから従うからである。
 ウシハケルは「統治する」ことだが、権力の行使なので、ときには、抵抗と弾圧をまねき、凄惨な事件に発展する。
 世界史はウシハク≠フ歴史で、支配者は、権力を使って民を従え、他国を侵略してきた。
日本が、キリシタン禁止と鎖国政策をとったのは、スペインとポルトガルが侵略した国の支配権を分けあう「トルデシャリス条約(1494年)」の存在を知ったからで、侵略の先鞭となったのが、キリスト教の布教活動だった。
 鎖国は、侵略を防衛するためだったが、ケンペルは、日本の外交戦略を高く評価(『鎖国論』)している。

 一方、日本の歴史はシラス≠ナ、民は、権力から強制がなくとも、権威のシラスにたいして、みずからすすんで従うので、混乱がおきない。
 天皇の権威が不在だった戦国時代、加賀や長島などの一向一揆が大勢力となって織田信長を追いつめたとき、信長の意向をうけて、正親町天皇が調停に立つと、一向一揆(浄土真宗本願寺派/蓮如)はおとなくひきさがった。
 権力(ウシハク)には一歩も退かなかった一向一揆も、権威(シラス)には歯向かおうとしなかったのである。
 大日本帝国憲法第1条に「万世一系の天皇これを統治す」とある。
 憲法草案を考えたのは「教育勅語」を書いた井上毅で、原案には「天皇これをしらす」とあった。
 帝国憲法でも、天皇の役目は、統治権の輔弼や総攬にあって、憲法の条規が優先されるのは、立憲君主制として、当然のことであった。
 ところが、井上毅に憲法原案を書かせた伊藤博文、その伊藤をヨーロッパに派遣してビスマルク憲法の研究をさせた岩倉具視が望んだのは、立憲君主制ではなく、天皇を政治利用する絶対君主制だった。
 井上の「しらす」は、伊藤や岩倉らに「統治す」と書き直された。
 そして、統治権が軍令権を兼ねる統帥権にまで拡大されて、昭和の軍国主義がうまれるのである。
 昭和の軍国主義は、天皇の権威を借りた軍閥が民(国民)や臣(政治家)を支配した暗黒政治で、原型をつくったのは、岩倉具視だった。

「小御所会議」(1868年)の出席者は十五歳の明治天皇と皇族・公卿以外の大名の出席者は、元尾張藩主徳川慶勝、前越前福井藩主松平春嶽、前土佐藩主山内容堂、薩摩藩主島津茂久、安芸広島藩主浅野茂勲の五名だった。
 同会議の争点は「討幕派」の岩倉具視(参与)と「尊皇佐幕派」の山内容堂の対決だった。
 大政奉還は、天皇からあずかっていた権力をいったんお返して、もういちど政治体制を考え直すということである。
 したがって、そこに、前任者の徳川慶喜がいなければ、筋がとおらない。
 山内容堂は、徳川慶喜の不在に異議を唱え、さらに、同会議が、幼い天皇を担いだ謀議だと非難した。
 このとき、岩倉具視は「幼沖なる天子とは何事か!」と山内を一喝した。
 だが、核心を衝いた容堂の主張に松平春嶽、浅野茂勲、徳川慶勝が同調したため、却って、岩倉が窮地に陥って、会議は休憩に入った。
 参与の席には、後藤象二郎(土佐藩士)らのほか、西郷隆盛や大久保利通が控えていた。
 このとき、西郷が「短刀一本あれば片づく」と岩倉にシグナルを送った。
 岩倉は、広島藩の浅野茂勲に、西郷の決意をつたえ、これが、後藤象二郎をとおして、山内容堂と松平春嶽の耳にはいった。
 岩倉や西郷、大久保らは、天皇を担いで天下をとった悪党である。
「岩倉具視が孝明天皇を毒殺した」という噂が広がっていた。西郷も、江戸で強盗や殺人、放火をくりひろげた「薩摩御用盗」の首謀者として知られていた。
 自宅に博徒を集めて賭場をひらいていた三流公家の岩倉や犯罪集団の親分である西郷が刃傷沙汰ちらつかせて、大名らが臆さないわけはなかった。
 のちに、天皇の権威を借りた恫喝とテロの連鎖が「昭和軍国主義」をつくりあげてゆくことになる。
 その原型は、小御所会議にあったのである。
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2021年03月29日

 天皇と民主主義 その10

 ●大久保と西郷を心から恨んだ島津藩主
 明治政府は、島津藩主島津久光の処遇に苦慮し、叙位・叙勲や授爵において最高級で遇したが、久光は、断髪廃刀令など明治政府の命令には一切従おうとしなかった。
 そして、大久保(利通)と西郷(隆盛)に騙されたと二人を呪いつづけた。
 それでも、明治政府は、明治20年、久光が亡くなると国葬をもって丁重に弔った。
 もう一人、明治政府が破格の扱いをした人物がいた。死の三年前、外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与された「グラバー商会」のトーマス・グラバーである。
 明治維新というクーデターは、この二人の存在を抜きには考えられない。
 徳川慶喜の大政奉還は、薩土盟約(武力倒幕の回避/1867年)の公武合体論にもとづいたもので、その裏にいたのが、島津斉彬と島津久光だった。
 島津藩と土佐藩は、王政復古後、摂関幕府を廃止したうえで「国家の意思は議事堂で決定されるべし」という国家新体制を提示して、明治維新の方向性を示した。
 この方針に反逆したのが、当初、公武合体論者で、そののち討幕派に転じた岩倉具視だった。
 岩倉は、薩摩藩の大久保と西郷を懐柔して、討幕戦争をけしかける。
 江戸攻撃は、勝海舟による江戸無血開城で、辛くも避けられたが、討幕軍の奥羽越列藩同盟とりわけ会津・庄内藩への攻撃はすさまじく、ジェノサイドの様相をていした。

 ここからが、明治維新の第二段階である。
 新政府の中心となった長州は、なぜ、あれほど戦争をしたがったのか。
 そして、なぜ、幕府軍を圧倒する戦闘能力をもっていたのか。
 長州軍は、薩摩経由で、アメリカ南北戦争の払い下げの新鋭銃(スナイドル銃・ミニエー銃・エンフィールド銃)を入手して、日本一の火器軍団になっていたからだった。
 長州征伐の余波で、長州は、幕府から武器の購入を禁止されていた。
 そこで、イギリスの「マセソン商会(グラバー商会)」は、薩摩の西郷隆盛や大久保利通、長州の高杉晋作、ハリー・パークス(イギリスの駐日公使)らをうごかして、仇敵同士の薩長をむすびつけた(薩長同盟/1866年)。
 長州に薩摩から武器を運びこみ、薩長連合の反政府軍をつくって、大規模な内乱をひきおこさせようというのである。
 それが、ヨーロッパ列強のアジア侵略の常套手段で、インドが好例だった。
 イギリスは、インド内戦の調停を装って、英軍と東インド会社を送りこんでインド全土を植民地化したのだった。
 マセソン商会は、その東インド会社の後継で、清国のアヘン市場を独占したばかりか、清国のアヘン輸出禁止令に対抗して大英帝国艦隊を清に展開させた世界的な悪徳コングロマリットである。
 そのマセソン商会が、長州五傑(井上馨や伊藤博文ら)の欧州派遣や薩摩藩のイギリス密航留学(五代友厚や寺島宗則ら19人)を斡旋している。
 薩長による反政府軍をつくる下心あってのことで、薩長連合は、ロンドンで原案がねられていたのである。
 薩長の密航留学生が学んだ政治手法が、一神教にもとづいた絶対主義国家の建設だった。
 一神教を天皇に置き換えるだけで、日本も、ヨーロッパのような絶対王権の国家がかんたんにできあがる。
 天皇を利用して、絶対王権的な帝国主義国家をつくるのが、薩長討幕派の狙いだった。
 島津久光が大久保と西郷に騙されたと地団駄を踏んだのは、大久保と西郷が藩論である「公武合体論」のためにはたらいていると思っていたからだった。
 ところが、薩長の討幕派は、外国勢力の手を借りて討幕にうごいていた。
 アメリカ南北戦争の払い下げ銃の供給をうけた薩長が、討幕にむかってつきすすんだのは、マセソン商会の思惑どおりで、大政奉還のおこなわれた1867年10月14日、薩長らに討幕の密勅が発せられた。
 岩倉具視の工作で、これに、大久保や西郷、薩長欧州留学組がのった。
 五代は、討幕の欧州留学組の一人である。
 久光は、五代にも騙されていたのである。
 その五代友厚やグラバーに利用されたのが、土佐脱藩組の坂本龍馬だった。
 坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)は、グラバー商会の斡旋で、薩摩藩名義で購入した武器を長州へ転売したほか、貿易や開運、航海術や海戦技術を養成して、長州軍とともに幕府軍ともたたかった。
 亀山社中は、薩長同盟に一役買ったほか、株式会社のモデル(土佐商会)となって、グラバーを顧問として迎えた岩崎弥太郎が、これを土台に、三菱郵便汽船(後の日本郵船)や三菱商事など三菱財閥をつくりあげた。
 ちなみに、竜馬の海援隊は「五代才助上申書(五代友厚)」にのっとったもので、竜馬は、グラバーや五代の隠れ蓑だったのである。
 竜馬の「船中八策」は、明治政府の「新政府綱領八策」「五箇条の御誓文」のほか、自由民権運動や大日本帝国憲法にまで影響をおよぼしたといわれる。
 現物は実在していないが、五代友厚のアイデアだったと思われる。
 八策目に「金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(金銀の交換レート法の改正)とあるが、竜馬に金銀レートにかんする知識はなかった。
 金銀レートの専門家といえば、のちに、金融界に転出して「金銀分析所」や「造幣寮」の設立した五代友厚である。
 孝明天皇の不審死と坂本龍馬の暗殺、そして、五代友厚の実業界への転出が明治維新の第3のターニングポイントである。
 維新後、明治天皇を担いだのが、孝明天皇が心から憎んだ長州だった。
 その長州が、徳川慶喜と京都守護職だった会津藩主・松平容保への敵意をむきだしにするが、孝明天皇がもっとも信頼を寄せていたのは、徳川慶喜と松平容保だった。
 岩倉具視が孝明天皇を毒殺して、公武合体論の竜馬を暗殺したという陰謀論がささやかれるのは、明治維新は、大政奉還後、天皇軍国主義というヨーロッパ型の帝国主義へまっしぐらにつきすすんでいったからだった。
 そのシナリオを書いたのは、維新十傑の大久保でも西郷でも、木戸孝允でも江藤新平でもない。高杉晋作でも坂本龍馬でも、吉田松陰でも佐久間象山でもない。
 天皇元首の大日本帝国憲法制定に執念を燃やし、59歳で死亡した(喉頭がん)岩倉具視だったのである。
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2021年03月22日

 天皇と民主主義 その9

 ●明治維新の立役者は五代友厚とグラバー
 岩倉具視が唱えた大政奉還≠ヘ、天皇大権の名目で国権を牛耳ろうとする謀略で、モデルは、王権神授説にもとづくヨーロッパの絶対王政だった。
 だが、日本には、ヨーロッパのように、天皇が、直接、民を支配した歴史的事実はない。
 大和朝廷は、天皇と豪族の連合政権で、皇親政治の天武天皇も、大宝律令の原形となる浄御原令(きよみはらりょう/681年)編纂を命じるなど、もとめたのは、律令体制だった。天皇政治をめざしたのは、後醍醐天皇の「建武の新政」だけだが、わずか数年で挫折している。
 権力を行使したのは、天皇から政治の実権をあずかった官僚で、聖徳太子の17条憲法は、官僚心得(行政法)だった。
「事を論ずるに……何事か成らざらん(第一条)」や「獨り斷むべからず必ず衆と與に論ふべし……(第十七条)」と、議論の重要性や独断の排除がくり返しのべられているのは、官僚が政治の実権を握っていたからである。
 17条憲法の議論重視の精神が反映されたのが「五箇条の御誓文(第一条/広く会議を興し、万機公論に決すべし)」で、近現代日本の議会制民主政治にもこれが受け継がれている。
 戦後、日本は、アメリカから民主主義を教えてもらって、よい国になったという左翼の言い分は、歴史を知らない者のたわごとで、日本には「事を論じて何事か成らざらん」や「万機公論に決す」という多数決にすぎない民主主義にまさる伝統的な政治形態があったのである。

 この政治理念を破壊したのが、岩倉具視の王政復古で、岩倉は、懐刀だった井上毅に天皇を元首とする明治憲法の基本構想をつくらせ、伊藤博文をドイツに派遣して、明治憲法起草の準備にあたらせた。
 昭和の軍国主義は、天皇を、法的には元首、精神論的には現人神に仕立てた天皇制ファシズム≠ナ、大東亜戦争だけで、300万人の兵士と国民が天皇絶対主義の下で死んでいった。
 日清・日露から大東亜戦争まで、世界戦争が可能だったのは、天皇が主権をもつ明治憲法下では、天皇の名で、好き放題に徴兵できるからだった。
 これに反発したのが、不平士族の乱で、辞官納地や秩禄処分などで収入源を断たれた上、徴兵令で、武士の誇りや特権を奪われて、士族が叛旗を翻さないわけはなかった。
 だが、これも、岩倉や大久保には、計算済みで、反乱鎮圧で、日本から武士がいなくなれば、封建体制が崩れて、ヨーロッパ化が一挙にすすむ。
 ちなみに、徴兵制度を採用して、日本の陸軍をつくった山縣有朋は、剣術を学ぶことをゆるされなかった足軽出身で、元帥になっても、腰からサーベルをぶらさげていた。
 日清・日露戦争に勝てたのは、軍隊の主力が、戦争のプロである武士だったからだが、大東亜戦争では、陸軍士官学校や海軍兵学校らのエリート(恩賜の銀時計や軍刀組)に軍の指揮をとらせた。
 武士がいなかったからで、インパール作戦の牟田口廉也、ノモンハン事件や島嶼作戦の辻政信、南方作戦の海軍左派(米内光政・山本五十六・井上成美)ら戦争のアマチュアは、東郷平八郎の助言を容れずに、本土防衛を疎かにして都市空襲や原爆投下を招き、日本を焼け野原にしてしまった。
 日本がこんな愚かな国になってしまったのは、明治維新が国家改造ではなく薩長のクーデターだったからである。

 このクーデターに深くかかわったのが、アヘン貿易で、大きな利益をあげた香港・上海「マセソン商会」とその日本支社の長崎「グラバー商会」だった。
 ちなみに、晩年、東京で過ごしたトーマス・グラバーは、1908年、外国人としては破格の勲二等旭日重光章を授与されている。
 明治維新における薩長政権樹立の最大の功労者が、このグラバーと薩摩藩の五代友厚だったことはほとんど知られていない。
 グラバー商会が、武器を売りつけた最大の取引相手が薩摩藩だった。
 そして、グラバー商会を相手にした薩摩藩の担当が五代友厚だった。
 五代友厚は、西郷隆盛や大久保利通と並んで「薩摩の三才」と呼ばれた。
 もっとも、下級武士の西郷や大久保よりも身分は上で、島津斉彬と島津久光の二代にわたって信任をえて、若い時代は、長崎に遊学して砲術、測量、数学などを学んだ。
 1862年、幕府が、各藩有志を乗船させ、上海に船を派遣した際、これにくわわって、同乗した長州藩の高杉晋作と意気投合、たちまち、肝胆相照らす仲となった。
 勝海舟は、島津斉彬に命じられて、長崎の幕府海軍伝習所で航海術を学んだ折の恩師で、島津両藩主からグラバー、西郷や大久保、高杉、グラバーをとおして坂本龍馬、そして、勝海舟と維新の雄との人脈がこうしてできていった。
 グラバー商会が、薩摩に売ったのが、アメリカ南北戦争で使われた銃だったことはすでにのべたが、アメリカから銃を大量に買い付けたのが英国の代表的な国際企業マセソン商会だった。
 マセソン商会は、井上聞多、伊藤博文ら長州五傑のロンドン留学を支援しているが、グラバー商会も、薩摩藩が、五代友厚ら3人の外交使節団と森有礼ら15名の留学生(遣英使節団)をイギリスに派遣した際、手引きをしている。
 長州五傑と薩摩藩士が、ロンドンで会合をかさねて、討幕の謀議をかさねていたのはいうまでもないが、これが、マセソン商会とグラバー商会が仕組んだ罠だったことに日本の歴史家はふれない。
 犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩をむすびつけた(薩長同盟)のは坂本龍馬ということになっているが、黒幕はグラバーで、当時、龍馬は、頻繁にグラバー邸を訪れて、資金援助を受けていた。
 龍馬率いる亀山社中(海援隊)が、薩摩藩名義でグラバー商会から購入した武器や軍艦などの兵器を長州へ転売したのも、グラバーの指図だった。
 五代友厚は、1864年、薩摩藩にたいして上申書を提出している。
「五代才助上申書」と呼ばれるもので、才助は友厚の幼名で、賢さに感心した島津斉彬のよる命名である。
 五代才助上申書にこうある。

(1)米・海産物などを上海に輸出し、これによって利益を得よ
(2)その利益で、製糖機械を購入し砂糖を製造、販売して収益を得よ
(3)砂糖輸出で得た収益で留学生を派遣、そして同行する視察員が軍艦、大砲、小銃、紡績機械を買い付けよ
(4)学校や病院、化学、印刷、鉄道、電話設備など産業革命の技術を学べよ

 坂本龍馬が作成したといわれる「船中八策」なる伝説(原本は存在せず)も五代友厚の作ではなかったかと思われる。内容が土佐藩脱藩志士の能力をこえていることにくわえ、そのなかにこんな一文があるからである。
 一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事
 幕末、日本から500万両の金が海外に流れている。
 マセソン商会の日本接近や黒船来航も、金をもとめてのことだった。
 金事情に詳しく、金の流失を悔しがったのが、のちに、金融界に転出して「金銀分析所」や「造幣寮」を設立した五代友厚だった。
 次回は、黄金の国ジパングと明治維新の関係についてのべよう。
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2021年03月15日

 天皇と民主主義 その8

 ●維新の2巨魁、岩倉具視と大久保利通
 明治維新が革命だったか、クーデターだったかという議論に、あまり意味はないだろう。
 明治維新は、政治的謀略だったからで、立案者は、公家の岩倉具視と薩摩の大久保利通だった。
 両名とも、当時から評判がわるく、岩倉には、孝明天皇の暗殺という風評が立ち、大久保は、士族の目から見れば「戊辰戦争」「士族の乱」をひきおこした大悪党だった。
 岩倉具視は、国葬第一号の超大物だが、公的な記録のほかに評伝がほとんどなく、自宅をやくざの賭場にしていたなどの悪評ばかりが残っている。
 大久保利通の暗殺(紀尾井坂の変)には、会津など旧奥羽列藩から実行犯の出身地、石川や島根、大久保の地元である薩摩の士族までがよろこび、薩摩への納骨がついに断念された(青山霊園に埋葬)ほどである。
 大久保は、佐賀の乱で、みずから鎮台兵を率いて鎮圧、首謀者の江藤新平ら13人を裁判抜きで処刑したばかりか、江藤を晒し首にして、その首を写真に撮って全国県庁に貼りだすというふるまいにでた。
 維新十傑の一人、かつての同志をこの扱いでは、西南戦争における西郷隆盛の場合も推して知るべしで、政府軍を指揮して、懸賞付きで西郷の首をもとめた。戦後、西郷の死を知って号泣したなどの話がつたわるが、すべて、のちの作り話である。

 岩倉具視は、国体を破壊して、大久保利通は、国家を毀損した。
 日本は、幕府(政体)と朝廷(国体)にもとづく「権力と権威」の二元論の伝統国家で、それが、当時、世界一の江戸文化を形成した最大の理由だった。
 岩倉と大久保がもとめたのは、天皇主権による絶対主義国家の建設だった。
 といっても、王権神授説にもとづくヨーロッパ的な王権国家をめざしたわけではない。
 天皇を政治利用して、薩長と公家の一部で、王政復古の名目で、専制国家をつくって、その権力をあやつろうという計略を立てたのだった。
 王政復古といっても、かつて、日本に王政などなかった。大和朝廷は天皇と豪族の連合政権で、天武・持統朝の皇親政治にしても、政治形態は、律令制であった。魏醍醐天皇の「建武の新政」に至ってはわずか数年で挫折している。
 国体を破壊したのが岩倉具視なら、政体をつくかえたのが大久保で、岩倉が天皇絶対主義を、そして、大久保は、内務省を設置して官僚機構の基礎をつくりあげた。
 王政復古の後、岩倉と大久保が画策したのが武士階級の廃絶だった。
 公武合体論で騙して、徳川慶喜に大政奉還(1867年)させたのち、版籍奉還(1869年)や廃藩置県(1871年)にもとづく辞官納地や秩禄処分などで武士の生活権を危機にさらして、廃刀令や徴兵令などによって、さらに旧来の特権を奪って、士族を追いつめたのである。
 岩倉と大久保のやり方は狡猾で、王政復古の後、徳川慶喜が出席していない小御所会議で、慶喜の辞官納地を主張した。
 新政府が、徳川慶喜を政権にくわえず、辞官納地を要求したことに、旧幕臣や幕藩士族らが憤激したのはいうまでももない。
 版籍奉還したのは、知藩事として、藩主が藩政を執ることをゆるされたからだった。ところが、その2年後の「廃藩置県」によって、県の政治は中央から送りこまれた役人(県令)にゆだねられることになって、藩主も藩士も権力や役職、収入を失うはめになった。
 徳川慶喜も全国の藩主、藩士も、岩倉具視に一杯食わされたのだった。
 慶喜は、1868年、旧幕兵や会津・桑名の藩兵を率いて、大坂から京都にむかう途上、薩長両藩を中心とする新政府軍と衝突して、ここに、戊辰戦争の火ぶたが切って落とされた。
 鳥羽・伏見の戦いで勝った新政府軍は、江戸へ引きあげた慶喜を朝敵として征討の軍をおこし、各地で旧幕府側の勢力を打ち破って、江戸に迫った。
「官軍」の名乗りと「錦の御旗」の前に戦意を失っていた慶喜は、恭順の意を示したため、新政府軍は戦うことなく江戸城を接収した。江戸城の無血開城の交渉は、1868年、新政府側を代表する西郷隆盛と旧幕府側を代表する勝海舟の間でおこなわれて、これで、政変は収束する方向へむかうはずだった。
 前年、すでに、大政奉還がおこなわれて、争いの種はなくなっている。

 ところが、ここからが岩倉と大久保の悪知恵で、日本は旧体制の破壊≠ニいう新しい局面へはいってゆく。
 岩倉と大久保が、フランス革命のロベスピエール、イギリス革命のクロムウェル、ロシア革命のレーニンとスターリンとなって、天皇軍事国家をつくってゆくのである。
 戊辰戦争をおこして、旧幕臣や奥羽越列藩を壊滅させた新政府軍が、つぎにもちだしたのが「版籍奉還」と「廃藩置県」だった。士族をおいつめて、1874年の佐賀の乱から神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、そして、1877年の西南戦争で、不平士族を一掃すると、徴兵令を敷き、日清・日露戦争の準備をすすめる。
 それにしても、幕府や列藩の軍隊は、なぜ、薩長軍に手も足もでなかったのであろうか。
 火器である。薩長の火器は、アメリカ南北戦争(1862〜1865年)で使用されたスナイドル銃やミニエー銃、エンフィールド銃が主力で、殺傷力がつよく、南北戦争では、約62万人の戦死者をだしている。
 アメリカから中古の銃を大量に輸入して、薩長に売りつけたのが、長崎県のトーマス・グラバー(「グラバー園」)で、その手先となったのが海援隊の坂本龍馬だった。
 長崎グラバー商会は、世界的財閥「ジャーディン・マセソン商会」(上海)の日本支社で、坂本龍馬のほか、五代友厚と岩崎弥之助とも親しく、五代ら十数名をイギリスに留学させている。
 マセソンが日本に目をつけたのは、日本の金で、当時、日本の金の産出量が世界の総産出量の3分の1を占めていたが、わずかの期間で、すべて流出している。
 次回は、明治維新の背後で、金をめぐってくりひろげられた国際陰謀についてのべよう。
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