2022年02月21日

 天皇と日本の民主主義6

 ●民主より自由をとった西洋のデモクラシー
 日本人は、自由(リバティ)が天からでも降ってきたように思っている。
 なにしろ、憲法条文に自由という文字が33回もでてくるのである。
 自由のバーゲンセール≠セが、西洋では、ルネサンスから啓蒙時代、宗教革命、市民革命など千年におよぶ血みどろの歴史をとおしてようやく手に入れた成果なので、そんな大安売りはしない。
 日本人が、自由や平等、権利を、タダで手に入る空気のように思っているのは、日教組のルソー教育のせいで、ルソー主義は「世界人権宣言」の第一条にもとりいれられている。「すべての人間は生れながらにして自由で、尊厳と権利について平等である」
 そして「人間は、理性と良心とを授けられているので、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」と続く。日本国憲法前文とほぼ同じ文章なのは、日本国憲法をつくったのも国際連合憲章をつくったのも、ともに、ニューディーラーというアメリカ左翼のだったからである。
 日本国憲法には、人権という文字が22回でてくるが、ヨーロッパで人権が定着したのは最近のことで、18世紀末のフランス革命「人権宣言」でさえ女性と奴隷が除外されている。
 ヨーロッパは、現在も身分社会で、奴隷制度が禁止されたのは、19世紀の半ばだった。宗教の自由もない。かつて、非キリスト教徒は異端裁判で死刑になったが、現在も、肩身が狭い。女性や低所得者の参政権が確立されたのは近現代になってからで、所有権や経済活動の自由にいたっては、近代民法が定着した20世紀以降である。
 日本人は、民主主義と聞くと血眼になるが、欧米人は、民主のきわめつけが共産主義と知っているので、幻想をもっていない。その逆に、近代まで、手に入らなかった自由にたいしてきわめて敏感である。
 ●自由主義の欧米、民主主義の日本と中国
 したがって、西洋人は、リバティを奪われることに我慢がならない。
 新型コロナウイルスの一日あたりの新規感染者が数十万人をこえたフランスで、2月から、週3日のテレワークの義務ばかりか、マスクの着用義務までが撤廃されて、スペインなどもこれにつづいた。
 欧米人は、コロナ感染より、マスクをしない自由を奪われるほうがイヤなのである。
 コロナ対策で、ロックダウンや封鎖を連発して、国民の人権や自由には目もくれなかった中国とは好対照である。
 米英仏独が、中国政府のウイグル族弾圧に猛烈に反発しているのも、民族の自由を侵害しているからで、欧米人にとって、もっともゆるせないのが自由の侵害なのである。
 民主主義をまもれと叫ぶ日本のマスコミや野党が、ウイグル問題にふれないのは、自由主義に関心がないからで、チベットやウイグル、香港の独立運動も1976年の天安門事件と同様、すべて、民主化運動で片づけられる。
 よほど、民主化ということばがすきなようだが、チベットやウイグル、香港で展開されたのは、自由をもとめる独立運動で、民主化運動ではなかった。
 左翼が民主≠ノ思い入れるのは、個人主義と自由主義、私有財産制を否定するルソーの民主主義が、かぎなく、共産主義に近いからである。
 とりわけ、国民主権は、独裁者への無条件の権力委託で、これを利用したのがレーニンやスターリン、ヒトラーだった。
 国民主権というから、国民に主権があると思いきや、権力者があずかる国民全員の権力のことで、それなら国民から預かった権力の総量≠ニでもいっておくべきだった。
 なにしろ、権力者が国民から権力を預かったその時点で、国民は権力者から一方的に支配されるだけの無力な存在になってしまうのである。
 ●「自由化」を「民主化」と誤訳
 民主政治(デモクラシー)の訳語は、もともと、共和制だった。
 西洋でも、デモクラシーと共和制(リパブリック)はほぼ同義で、19世紀半ば頃まで、デモクラシーに、中国は「民主」、日本は「共和」という異なった漢語訳語を当てていた。
 それが民主主義になったのは、中国から『万国公法』という書物をつうじて民主ということばがはいってきたからで、それに和製漢語の主義という単語をつないで民主主義という四字熟語がうまれた。
 漢字は、もともと、中国のものだが、明治以降、逆に、文化や文明、政治や経済、思想や哲学、宗教や理性など800語以上もの日本の漢字(和製漢語)が中国にでていった。
 多くが西洋の近代概念で、英語でなくても、科学的・抽象的な思考ができるのは、和製漢語のたまものという指摘もある。
 その一方、19世紀以降、中国の西洋化(「西学東漸」)からうまれた主権や特権、民主や野蛮、慣行や例外のような近代的な漢字(華製新漢語)が新たに中国から日本に入ってきた。
 民主主義ということばは、日中漢語圏の交流の産物だったのである。
 民主主義の命名者は、大正デモクラシーに共産主義をもちこんだ東大出身のエリート・マルキスト(麻生久や棚橋小虎)らで、かれらのいう民主が、共和や共産主義にかぎりなく近かったのはいうまでもない。
 民主主義の前身である吉野作造の民本主義は、天皇主権の目的を人民の利福においた一種の君民共治≠ナ、政治上の目的を普通選挙法においたことからも、現在の立憲君主制の土台だったといえよう。
 いうまでもないが、君民共治の民本主義は、共産主義と相容れない。
 欧米の民主主義も、民主(デモクラシー)ではなく、専制政治や独裁からの解放という意味合いの自由(リバティ)だった。
 リバティは、個人主義にして自由主義で、唯心論(ヒト)である。
 一方、デモクラシーは、政治体制なので、唯物論(モノ)である。
 民主化というのは、政治体制の支配者が権力者から民へ移ることをいう。
 だが、この民は、一般意志(=全体)で、特殊意志(=個人)ではない。
 全体は「みんなと一緒」というときの皆のことで、個人が消えている。
 これが『自由論』のバーリンから「人類の思想のなかでもっとも邪悪でおそろしい敵」と非難されたルソーの一般意志である。
「国民主権だからオレにも主権がある」というのは大まちがいで、民主は、個人が抹消されたのちにあらわれるものなのである。
 ●ルソー教に染まった日本の法曹界
 ルソー主義に拠って立っているのが日本の法曹界である。
 国家が一般意志の名目のもとで国民に服従を義務づけたことによって、日本は近代的な「法の支配」にもとづく民主主義的な社会をつくることができたなどと主張する。そして、国民が主権をもち、政府は、国民の一般意志にもとづいて政治をおこなっているので、国民主権の原型をつくったルソー主義は正しいなどという。
 日本人が、個別性や人格、個性をもたない、人権という同一性だけをもった群れ≠ニいうのである。
 日本の法曹界がバカなのは、一般意志や国民主権の国民が、個人か全体かという問題の核心にふれないからである。
 個人のものなら、日本には、主権が一億以上あることになって、収拾がつかなくなるであろうし、全体のものなら、個人の人権は一億分の一ということになるが、それはどんなものなのか。
 日本の法曹界は「八月革命説」の宮沢(宮澤俊義)憲法論という土台に立っている。
 宮沢憲法は、法が個人主義・自由主義ではなく、民主主義の下にあるとするもので、全体主義である。
 天皇は、歴史的・文化的・伝統的存在ではなく、憲法上の存在であるという憲法天皇説も全体(体制)主義派である。
 法は、革命という体制の変更によって変化するというのが、法の根拠を人間におかない、宮沢憲法の骨子である。
 日本の法曹界は、八月革命派の牙城で、左翼の踏み絵といわれる司法試験をパスしてきた検事や弁護士らはこぞって民主派である。弁護士連合会が、いまや、日本共産党に並ぶ左翼集団となったのは、マルキストではなく、フランス革命で恐怖政治を敷いたロベスピエールと同様、熱烈なるルソー主義者だからである。
 次回も、マスコミや法曹界、左翼評論家らの脳ミソを蝕んでいるルソー主義の欠陥についてのべよう。
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2022年02月13日

 天皇と日本の民主主義5

 ●ロシアや中国にないのは自由主義
 昨年、90歳になったゴルバチョフが、書面インタビューにこう応えた。
「ロシアがめざす未来は、ひとつしかない。それが民主主義です」
 民主主義は、中国が自画自賛して、北朝鮮でさえ国名(朝鮮民主主義人民共和国)に謳っている。ソ連解体(1991年)後のロシアも、ペレストロイカ(立て直し)とともに民主主義の看板を大きく掲げた。
 だが、現実は、プーチンが、メドヴェージェフを傀儡にした4年間を挟んで20年以上、大統領に君臨する独裁体制がつづいてきた。
 ロシアでは、過激派と認定されると、指導者や関係者が長期間、被選挙権を失う法案がとおって、選挙の候補者が激減したばかりか、一説によると、選挙権を奪われた国民も数百万人にたっしているという。
 自由陣営で、民主主義といえば、多数決の原理と参政権のことをいう。
 参政権(普通選挙法)には、投票の自由とともに立候補の自由もふくまれる。
 選挙の自由は自由民主主義≠ナあって、ルソーの民主主義ではない。
 ルソーの民主主義は、直接民主主義で、選挙も議会も必要とされない。
 なにしろ、国民すべてを収容できる議事堂がないので、独裁者が国民主権をあずかるというのが、ルソーの民主主義=国民主権の言い分なのである。
 ルソーの民主主義は、ひとり一人の個≠ナはなく、民衆という全体≠主とする思想で、それを為政者があずかって、独裁政治をおこなう。
 ルソーが英国の選挙を「選挙民が自由なのは選挙中だけで、選挙が終わると奴隷になる(『人間不平等起源論/代議士または代表者について』)とけなしているように、ルソーは、普通選挙法や議会制度をみとめていない。
 個人を、一般意志のもとに、国民という分割不可能な一つの共同体に括ってしまうので、選挙も議会もあったものではないのである。
 ちなみに、選挙や議会は、個人を重んじる自由主義の産物で、多数決という民主主義は、ただの方法論にすぎない。
 ●「日本国民の総意」というルソー主義
 日本国憲法(第一条)に「天皇の地位は主権の存する日本国民の総意にある」とある。
 だが、国民は、ひとり一人、異なった人権や人格、自由をもち、その自由のなかには、表現や投票の自由もふくまれる。
 それが、なぜ国民の総意≠ニ一緒くたになるのか。
 ルソーによると、正しいのは、個人(特殊意志)ではなく、公の利益をもとめる全体(一般意志)だけである。特殊意志から個性を殺ぎ落とすと「相違の総和」としての「一般意志」が残る(『社会契約論』/第二篇第三章)というのが一般意志の要諦である。
 空おそろしい思想である。そのルソー主義が、日本国憲法第一条の天皇条項で、ぬけぬけと、のべられている。
 バーリン(『自由論』)によると、投票も議会も、個人の自由に属する。
 その個人の自由が、一般意志という邪悪なもの(バーリン)に侵されて、ロシアや中国という全体主義国家がつくりあげられた。
 ロシアになかったのは、民主主義ではなく、自由主義だったのである。
 ゴルバチョフにして、そのことに気がついていないのである。
 必要なのは、個人を単位とする自由主義であって、個人の自由を奪って国民主権にひっくるめてしまう民主主義ではなかった。
 個人としての民が主(あるじ)になる民主主義など存在しないのである。
 ●国家の上に共産党がある中国の民主主義
 バイデン米大統領が主催した民主主義サミットにぶつけるかたちで公表した中国政府の白書(「中国の民主」)にこうある。「良い民主とは社会の共通規範をまもって、社会の分裂や衝突を避けるものでなくてはならない」
 そして、中国の民主が、西側の民主主義よりすぐれていると自画自賛する。
 共産主義と民主主義は、全体主義と地続きで、ロシアも中国も、民主主義をもっていても、自由主義と個人主義をもっていない。
 中国の民主は、中国共産党の指導下にあって、共産主義のテーゼの下にある人民独裁には、個人の自由どころか、個の存在さえみとめられていない。
 中国では、共産党が立候補者を選別して、共産党や国家に従順な国民でなければ出馬がゆるされない。
 昨年(2021年)の香港立法会選挙では、立候補者は愛国者であるかどうかのチェックをうけて、市民60%が支持をえて、40%の議席をもっていた民主派の候補が資格を失って、民主派の当選者はゼロ、議会は、親中派一色となった。
 20%台という投票率の低さと無効票率の高さは、市民の怒りのあらわれというべきだが、中国当局は、選挙結果に大満足で、民主主義の勝利を高らかに宣言した。
 民の上に国家が、国家の上に共産党がある三段重ねの体制は、個を圧殺した上に成立した権力機構で、計画経済ならぬ計画国家である。
 計画経済が破綻したのは、人間の心は、合理では測れないからだった。
 計画国家も、ほころびが見えるのは、イデオロギーで人間の心を縛ることができないからである。まして、14億の人民をひっくるめて「国家の主人」というのは、唯物論という妄想以外のなにものでもない。
 ●「唯物論」「一般化」という革命思想
 唯物論は、生産や消費、貨幣という物的なものに目をむけることで、これが革命理論になったのは、そこから「階級闘争」がはじまったという唯物史観に立つからである。
 だが、世界をうごかしているのは、物質という唯物論ではなく、文化という唯心論である。
 天皇は、唯心的な文化、幕府(政府)が唯物的な権力である。
 この二元論は、文化としての自由主義と制度としての民主主義におきかえることができるが、そのテーマについては、後述しよう。
 いずれにしても、革命が忌みきらわれるは、自由が抹殺されるからである。
 ルソーの一般化(一般意志)とマルクスの唯物論が二大革命理論≠ニいわれるのは、両者とも、人間をモノ(物質)としか見ないからである。
 個人(特殊意志)は、個性を殺ぎ落とされて国民(一般意志)となる。
 この国民は、一つの総意(憲法第一条)しかもちえないモノとしての国民である。
 異議を唱えると国民ではなくなる。これを真似たのが階級闘争で、すべての労働者は、企業や主人に仕える誠実な勤労者ではなく、団結して資本家に牙をむく労働者である。
 このとき、国民や労働者は、人格をもった自由な個人から、モノにすぎない集団や階級となる。
 一般意志が、歴史上、たびたび、独裁者に利用されてきたのは、国民主権の名目で、魔王的な権力をふるえるからだった。国民から託された、国民のもとめに応じたという口実で、なんでもできてしまう一方、これに抗弁することがゆるされない。
 ルソーの直接民主主義には、選挙も議会もないからである。
 反抗すれば、国民の名の下で、ギロチン台へ送られてしまう。
 フランス革命を指導したジャコバン派の首領、ロベスピエールは「ルソーの血塗られた手」と呼ばれた。ルソーの狂信者だったロベスピエールはみずから「一般意志」の受託者を名乗って独裁体制(恐怖政治)を敷き、わずか数か月で3万人余の反対者をギロチン台に送ったからである。
 スターリン「大粛清」の犠牲者数は、フルシチョフの調査(1962年)もゴルバチョフの再調査(1988年)も200万人前後だが、ソルジェニーツィン(『収容所群島』)は、数千万人が犠牲になったと書き残している。
 国民の命を虫けらのようにあつかうのが唯物論と一般化理論なのである。
 次回は、ルソー主義にのめりこんでいった戦後日本人のすがたに迫ろう。
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2022年02月07日

 天皇と日本の民主主義4

 ●「一般意志」というルソーの悪魔の思想
 マスコミも野党も「民主主義をまもれ」と叫ぶが「自由主義をまもれ」とはいわない。
 理由は、明らかで、マスコミや野党は、欧米の自由主義よりも、中ロの全体主義に親近感をもっているからである。
 中国が、じぶんたちこそ民主主義だというのは、そのとおりで、民主主義は全体主義でもある。
 多数決と多数派独裁がデモクラシーの根幹で、ロシア革命のレーニンが率いた政党の名称も「ボリシェヴィキ(多数派)」だった。
 民主主義は、古代ギリシャの大昔から多数決のことだったが、これを国民主権におきかえたのがルソーだった。
 西洋で、民主主義=国民主権が最大級の評価をうけるのは、中世ヨーロッパの絶対王権を打倒したからで、そこから、民主主義は、革命の輝けるイデオロギーとなった。
 事実、民主主義を標榜する米、中、英、仏、ロシアの五か国(国連常任理事国)は、いずれも、革命国家で、先進国のなかで、純然たる伝統国家といえるのは、日本だけである。
 民主主義と国民主権を融合させたのが「社会契約論」のなかでルソーがしめした「一般意志」である。
 ひとり一人の人間は、個性や人格、個人史が異なっているので、特殊意志である。
 そこで、ルソーは、とんでもない考えをもちだす。
 個人差をすべて削ぎ落してしまえば、人間は、人民という無個性で均一的な一般意志にすぎないものになって、権力で、自由に御すことができるというのである。
 ●「国民主権」というルソーの詐欺的造語
 ここから、ルソーという天才的詐話師の巧妙な屁理屈が展開される。
 国民ひとり一人が、直接、政治を執るべきだが、国民全員を収容できる議事堂は存在しない。
 そこで、一億人の国民を民≠ニひとくくりにして、これに主権をあたえて主≠ニ称する。
 これで、ルソー流の民主主義が完成する。
 これを為政者があずかって、政治をおこなうのが、国民主権である。
 これが「一般化理論」だが、この屁理屈が、マルクス・レーニンや毛沢東の共産主義革命の口実(=人民独裁)にされたのは、保守派陣営のなかでは常識である。
 ルソーの民主主義は「国民主権」というキャッチフレーズになって、フランス革命の精神となった。
 国民主権は、共産主義の文脈からいえば、人民独裁である。
 人民も国民も、個人ではなく、人民や国民全員をさしている。
 これほど嘘っ八のことばもないもので、国民も主権も、実体がどこにもないのである。
 他者と異なる身体と精神、個性や人格、名前や個人史をもつ個人をひっくるめて、国民と呼ぶのは、桜や梅、椿を植物≠ニ総称するようなもので、こんなデタラメなことばづかいはゆるされない。
 もう一つデタラメなのは、主権ということばである。
 主権は、絶対的な権利で、原語は、君主権(ソブリンティ)である。のちに国家に冠せられるようになったが、ソブリンティはなにものも侵されることがない最高権力で、交戦権さえゆるされている。
 国民主権は、国民が、その絶対主権をもっているというデタラメな話で、ルソーという男は、虚言に虚言をかさねる希代のイカサマ師というほかない。
 近代自由主義の旗手たるバーリンがルソーの「一般意志」を「人類の思想のなかでもっとも邪悪でおそろしい敵の一つ」と評したのもむべなるかなである。
 ●「議会主義と現代の大衆民主主義と対立」
 ルソーの国民主権は、直接民主主義のことで、民が、直接、政権を掌握する体制だという。
 直接民主主義が代議員を選出しないのは、投票者=個人が不在だからである。
 個人がいないので、普通選挙法も議会も、成り立たないのである。
 民主主義では、集合名詞の民≠ヘいるが、普通名詞の個人≠ヘいない。
 にもかかわらず、国民主権がうまれるのは、国民意志の一般化という作用がはたらくからで、その主権をあずかって、独裁がうまれる。
 なぜ、ひとり一人、自由に生き、人格や個性が異なる個人が、全体のなかに消えてしまったのか?
 そもそも、人民が一つなら、ひとり一人の人権や人格、自由はどこへいってしまったのか?
 ルソーの『社会契約論』によると「国家には、私有財産をふくめて、人々を分裂させる党派や宗教、思想、個人的な差異まど存在してはならない」(「議会主義と現代の大衆民主主義と対立」/シュミット)という。
 これが自由主義の欠落、全体主義でなくてなんなのかとシュミットは憤る。
 あまりにアホらしいので、ルソー主義は、ルソー主義を下敷きにしたマルクス主義とともに捨て去られた。
 ルソー主義を大事にしているのは、世界広しといえども、中国と日本のマスコミ、法曹界、野党ら左翼だけである。
 ●根本原理が異なる自由主義と民主主義
 欧米がおもんじているのは、民主ではなく自由(リバティ)である。
 リバティとフリーダムでは、同じ自由でも、意味合いが異なる。
 リバティは、たたかいとった自由で、積極的自由と呼ばれる。
 一方、フリーダムは自然発生的な自由で、消極的自由である。
 自由主義は、個人のちがいと個人の自由を原理としている。
 民主主義は、治者と被治者が同一の原理にもとづいている。
 主権をもつとされる国民が、その主権を為政者にあずけるので、治者と被治者が同一となるのである。
 そこからうまれたのがフランス革命のロベスピエールの独裁だった。
 フランス革命で実権を握ったロベスピエールは、俗に「ルソーの血塗られた手」と呼ばれる。国民の「一般意志」をあずかった正統なる権力者を自称したロベスピエールが独裁をおこない、恐怖政治によって反対者を大量に処刑したからである。
 民主主義や国民主権は、かくも、ごまかしと詭弁にみちた危険な代物だったわけだが、マスコミや法曹界ら左翼陣営は、いまなお、民主主義をまもれとこぶしをふりあげている。
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2022年01月30日

 天皇と日本の民主主義3

 ●民主主義は普遍的な価値か?
 読売新聞の社説(ワールドビュー「中国式民主への不信」で吉田健一(中国総局長)という人物がこう語っている。
「日本や米欧に根付いた普遍的価値としての民主主義と中国がいう『民主』があまりにかけ離れている。日本で民主主義といえば<人民が権力を所有し行使するという政治原理。現代では、人間の自由や平等を尊重する立場をもしめす>(大辞林)」
 あまりのでたらめな物言いに苦笑を禁じ得ない。
 1普遍的価値としての民主主義≠ネどいったいどこにあるのか
 2人民が権力を所有し行使する政治原理≠ニは共産主義の人民独裁
 3人間の自由や平等を尊重する立場≠ヘ民主主義ではなくルソー主義
 吉田はこうつづける。
「中国は『民主は多様で、中国には中国式の民主がある』という立場だ。バイデン米大統領が主催した民主主義サミットにぶつける形で公表した中国政府の白書にはこうある」
<中国の民主と専政の有機的統一を堅持する>
<専政は、社会主義制度の破壊などの犯罪行為をくじき、国家と人民利益を守るものだ。民主と専政は矛盾しない>
 そこで吉田はこう断言する。
「中国語の『専政』は日本語で独裁とも訳される。『中国式民主』の根底にあるのは<人間の自由や平等への尊重>ではなく、建国の指導者・毛沢東も語った人びとを「敵」と「味方」に峻別する発想なのだ」
 そこで、吉田は、批判の矛先をとつぜん中国共産党へむける。
「そこから、共産党政権に異議を申し立てる民主活動家や人権派弁護士らへの弾圧を正当化する論理が導かれる。以前、権力の象徴ともいえる検事から人権派弁護士に転じた理由を尋ねた際、その人が悲しげに絞り出したことばを思う。『党の論理を突き詰めれば、人間への不信感に行き着く』」
 論旨がいま一つわからないが、検事から人権派弁護士に転じた女性というのは、皇室典範の男系男子相続を「まったく論理必然ではない」と批判した山尾志桜里のことであろうが、山尾のいう党の論理とは中国共産党のことか、それとも離党した立憲民主党や国民民主党のことか。
 いずれにしても、吉田は、この論文の最後をこう締めくくった。
「中国が『中国式民主』の独自性をどんなに誇ろうとも、民主の名に下に独裁を容認する国を『民主』と呼ぶわけにはいかない」

 ●民主主義ではなく「ルソー主義」
 吉田は、この世に、民主主義というすばらしい思想があると思っているようだが、マルクス青年が、共産主義をユートピアと夢見るようなもので、愚かな幻想というほかない。
 民主主義が誕生したのは、紀元前のギリシャで、これを批判したソクラテスが死罪になったのち弟子のプラトンが衆愚政治≠ニ批判して、民主主義は息が絶えた。
 民主主義を復活させたのが2000年後のルソーで「人間はうまれながらにして自由で平等」「私有財産が人間を不幸にした」「政治は国民が直接おこなうべき」「統治者は国民の一般意志の代表者」などのデマゴギーをふりまいて『自由論』のバーリンから「一般意志にもとづく全体主義を容認した人類の思想のなかでもっとも邪悪でおそろしい敵の一つ」と評された。
 日本人が民主主義と呼んでいるのは、このルソー主義のことである。
 もともと、民主主義(デモクラシー)は、大衆(デーモス)と権力(クラトス)の2つ単語を組み合わせた造語で、意味は、人民による権力である。
 人民は大勢いる。したがって、人民でなにかきめるには、多数決に拠らねばならない。
 多数決による多数派が一般意思である。これを代表者があずかって、政治権力がうまれる。ソクラテスは、これを戒めた。歴史の知恵や習慣、経験や知恵をおもんじるべきで、多数決による政治(デモクラシー)は愚者の政治になると。
 そして、大衆の怒りを買って、自身が戒めた多数決によって死刑になった。
 その愚かな大衆の代弁を、そっくり買って出たのが、ルソーだった。
 ルソー主義というのは、ソクラテスを死に追いやった、愚者の理屈だったのである。
 もっとも、デモクラシーをりっぱな思想のように思っているのは日本だけである。ヨーロッパでおもんじられているのは、制度としての民主主義ではなく思想としての自由主義である。
 バーリンの自由主義には、消極的自由(束縛からの自由)」と積極的自由は「自己実現の自由の二種類があって、欧米人は、2つの自由のはざまで、真の自由人たらんとして努力する。
 左翼陣営が得意になって使っているリベラリズムは「ニューディール・リベラリズム」という経済用語からの流用で、ルーズベルト流のアメリカ社会民主主義やケインズ主義、米民主党のテーゼをさす。むろん、自由主義とは関係がない。
 ちなみに欧米諸国は、自由陣営で、民主陣営とはいわない。

 ●デモクラシーの訳語は民本主義だった
 デモクラシーの訳語である民主主義は、もともと、民本主義だった。
 民主ではなかったのは、日本には主≠ェいなかったからである。
 明治憲法にも「元首ニシテ統治権ヲ総攬」とあるだけで、条文に天皇主権の文字も、天皇主権をさししめす具体的な記述もない。
 美濃部達吉の天皇機関説も、主権は、国家にあって、天皇は、議会の拘束をうける国家の「最高機関」とされている。天皇主権は、軍部がふり回した宣伝文句だったのである。
 天皇ですら議会の拘束をうける機関でしかないのに、民が主≠ノなるわけはなかった。
 そこで、デモクラシーの訳語は、国民本位という意味の民本主義となった。
 民本主義がめざしたのは、普通選挙法と政党政治の2点で、それは、大正デモクラシーで、一応、達成できた。1918年(大正7年)の原敬内閣の成立と1925年の普通選挙法制定である。
 それでは、いつ、民本主義が民主主義になったのか。
 これまで、だれも指摘してこなかったことだが、民主主義の命名者は、大正デモクラシーに共産主義をもちこんだ麻生久や棚橋小虎ら東京帝国大学出身のエリート・マルキストである。
 麻生や棚橋は、日本労働運動の源流である友愛会にもぐりこんで、友愛会を創立した鈴木文治や叩き上げの松岡駒吉や平澤計七(亀戸事件の被害者)らを追放して、大正デモクラシーおよび労働運動を「此の世を労働者階級の支配に帰せしめんとする」と宣して、左翼運動の牙城にしてしまったのである。※亀戸事件/亀戸署内で労働争議関係者10名が官憲に虐殺される
 これに、堺利彦や山川均らの社会主義者もくわわって、民本主義は、かぎりなくマルクス主義に接近して、このとき、呼称が、民本主義から民主主義へとかわった。
 
 ●意味不明な「国民主権=一般意志」
 マルキストが、民主ということばを使ったのは、ルソーが社会契約論のなかで使っている人民主権が、事実上、民主主義と理解されたからだった。
 マルクスの『資本論』は、ルソー主義とタルムード(ユダヤ聖典)の合体である。というのも、国民の一般意志を独裁者に委ねることによって、直接民主主義が完成するというルソー主義が、そっくり、レーニン主義(プロレタリア独裁)やスターリニズムにおきかえられたからである。
 民主主義は、とんでもない代物で、だから、西側諸国は、多数決の原理と普通選挙法だけをとって、民主主義から距離を保っているのである。
 バイデン大統領がいう民主主義は、国民が中心の政治という意味で、事実上の自由主義である。
 民主主義は、思想ではなく、制度なので、中国もロシアも、北朝鮮も平気で、民主主義を謳う。
 民主主義が、手がつけられないほど厄介なものなったのは、ルソーの「国民主権=一般意志」が意味不明だからである。
 国民主権は、ひとり一人のものなのか、それとも国民全体のものなのか。
 国民全体のものなら、日本人の国民主権は、一億分の一でしかないのか。
 国民は、ひとり一人が別々で、多数派と少数派にも分けられる。
 それを「国民の総意に基づく(憲法/天皇の地位)」と一括りにできるのか。
 ここにも個と全体≠フ矛盾律があらわれて、解決がつかない。
 そもそも、民主主義は、革命の用語なので、自由陣営や日本のような伝統国家には適応しないのである。
 読売新聞の吉田は、民主の名に下に独裁を容認する中国を民主と呼ぶわけにはいかないというが、ルソー主義を忠実に実現しているのは、むしろ、中国である。
 民主主義=ルソー主義は、独裁と全体主義を肯定する論理だからである。
 そんなことは、民主主義的なワイマール憲法からヒトラーがうまれたことを思えばすぐにわかるはずである。
 中国は、民の上に国家が、国家の上に党があって、党と民は断絶している。
 中国には、ルソー主義だけがあって、民主主義も自由主義もないのである。
 そこを衝かなければ「中国式民主」への不信などといってもなんの説得力もない。
 次回も、ルソー主義と民主主義の迷妄についてのべよう。
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2022年01月24日

 天皇と日本の民主主義2

 ●天皇政治と「君臣一体」
 古墳時代に、全国の豪族が、大きな乱をおこすことなく、前方後円墳という天皇と同じ墳墓を残したのは、ミコトの末裔だったからだった。
 天照大神の勅命をうけて、ニニギノミコトが高天原から日向国の高千穂峰へ天降った天孫降臨では、多くのミコトが随伴して、地上に降り立った。
 ミコトの末裔だった豪族らは、ニニギノミコトの子孫=天皇の臣下たるべきことを、神話によって、運命づけられていたのである。
 それが「君臣一体」の要諦で『日本書紀』に記されている孝徳天皇の「改新の詔(大化の改新)」にも「独り制むべからず」「臣の翼(たすけ)を得て倶に治めて神(天照大神ら皇祖神)の護(まもり)を得られるべし」とある。
 大和朝廷は、豪族らの連合政権だが、その成立原理が「君臣一体」にあったことはほとんど知られていない。
 当時、大和(奈良)から出雲、九州にかけて、有力豪族が跋扈していた。
 それらの諸国諸侯が争って、最後の覇者が帝王となるのが、世界史の常識である。
 ところが、古代日本では「大化の改新」以降、天智天皇の子(大友皇子)と弟(大海人皇子/後の天武天皇)が争った「壬申の乱」以外、大きないくさはおきていない。
 そして、壬申の乱以後、日本は、ふたたび、天皇中心の政治(律令体制)をめざすのである。
 ●大和朝廷と前方後円墳
 大和朝廷は、東は群馬の毛野氏から、西は九州の安曇氏にいたるまで広大な範囲にわたるが、中心は、伊勢から出雲にむかう畿内と山陽、山陰で、黄道ににそって、巨大な前方後円墳が数多く残されている。
 黄道というのは、春分の日と秋分の日、伊勢神宮の真東からのぼった太陽が出雲大社のある真西に没する「太陽の道」のことで、この日、皇居皇霊殿では皇霊祭、伊勢神宮では遙拝式がおこなわれる。
 五畿(山城・大和・河内・和泉・摂津)には中臣や物部、蘇我や大伴、葛城や巨勢、平郡氏らが勢力をもっていたが、山陽の播磨や美作、備前、備中、備後、山陰の丹波や丹後、但馬、因幡、伯耆にも、吉備氏や筑紫氏、出雲氏らのような有力豪族が一門を構え、大和連合国家の一員をなしていた。
 畿内から山陽、山陰の黄道沿いに大型の前方後円墳が多いのは、高天原から降りてきて伊勢神宮に祀られている天つ神、天神と、天孫降臨以前、葦原中つ国を治めていた国つ神、地神や地祇、産土を祀った出雲大社がむすばれたからである。この地の豪族や有力者は、高天原と葦原中つ国をつなぐ国譲り神話のモニュメントとして、前方後円墳を建造したのである。
 三世紀におよぶ古墳時代に5000基以上の前方後円墳の造営、神話にもとづく国家建設が、祭祀国家のあかしでなくてなんだろう。
 ●神社と鎮守の思想
 前方後円墳は、前の方形(四角形)が葦原中つ国で、後方の円形が高天原である。葦原中つ国と高天原の一体化は、祭祀の根本原理で、それが民のあいだに広がったのが神社である。
 神社(かむやしろ)は、神道にもとづく祭祀施設で、産土神や天神地祇から皇室や氏族の祖神までを祀る。
 文科省の資料では、全国に約8万5千、登録されていない小神社をふくめると日本には10万社をこえる神社があるという。
 神社の起源は、神々が宿る磐座(いわくら/岩石や古木)や祭事をおこなう神籬(ひもろぎ)などの祭壇で、本殿を構えるようになったのは、仏教の伝来以後で、社殿は、伽藍をマネたのである。
 神社は、地霊をしず(鎮)めて、氏神を(守)らんとする鎮守の杜である。
 それが、前方後円墳につながる鎮守の思想で、高天原と黄泉の国のあいだにある葦原中つ国においては、高天原につうじる祖神(ミコト)を祀って地神や地祇、産土を鎮めようとする。
 前方後円墳が高天原と葦原中つ国をむすぶモニュメントなら、神社は、神代と人代の境界線で、注連縄のむこうが神代、こちらが人代である。
「君臣一体」も祭祀国家も、権力ではなく権威、唯物論でなく、唯心論だったのはいうまでもない。
 ●ケンペル『日本誌』にヨーロッパが驚嘆
 天皇政治で「君臣一体」と並ぶのが「君民共治」である。
 ルソーは『社会契約論』のなかで、随意に祖国をえらべというなら、君主と人民のあいだに対立のない「君民共治」の国をえらぶ。だが、そのような国が地上に存在するはずもないので、民主主義の国をえらぶといっている。
 現代日本で、金科玉条のように語られる「民主主義」だが、18世紀の絶対主義体制を生きていたルソーにとって「君臣一体」「君民共治」は、夢のような理想で、現実的には、望むべくもなかった。
 ルソーは、日本の「君臣一体」「君民共治」をどこで知ったのであろうか。
 ドイツ人医師ケンペルが著した『日本誌』である。
 ケンペルは、江戸時代にオランダ商館付の医師として、約2年間出島に滞在して、資料を収集、帰国後に「日本誌」を執筆した。ロンドンで「日本誌」が出版されたのは、死後だったが、大評判となって、フランス語、オランダ語にも訳されて、ディドロの『百科全書』に転載された。
 ゲーテやカント、ヴォルテール、モンテスキューら、ヨーロッパの一流人に愛読されたので、当然、ルソーも読んでいるはずである。
『日本誌』のなかで、ケンペルは、日本の国体政体の二元論を称賛している。「日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の二人の支配者がいる」
 そして、対外政策(鎖国)や徳川綱吉の善政(天和の治)を称えてこう書いている。争いや犯罪がほとんどなく、小伝馬の牢屋はつねに無人だった、と。
 神武天皇即位の時期を紀元前660年と確定したのも、西洋歴をもちこんだケンペルの業績で、前大戦時、日本人が暗記させられた歴代天皇の名前や略伝を解明したのもケンペルだった。
 ●否定された天皇政治の歴史
 ケンペルの『日本誌』を紹介したディドロの後、啓蒙時代とフランス革命の幕が切って落とされる。そして、その約100年後、ヨーロッパでジャポニスム(日本ブーム)がひろがって、知識階級のなかで、天皇の歴史、キングとのちがいも理解された。
 だが、江戸時代の文化や日本文明、日本のよいところは、すべて、明治政府によって否定されて、日本は、西洋化という文化革命の嵐に呑まれてゆく。
 明治政府に招聘された明治天皇の主治医で、岩倉具視の臨終を看取ったドイツ人医師のベルツは、政府の若い役人が「われわれに歴史はありません。われわれの歴史はこれからはじまるのです」と口を揃えたことに深く失望した(『ベルツの日記』)という。
 薩長の明治政府は、一神教的な神権国家や帝国主義に走った末に、鹿鳴館や貴族制度など西洋の物マネにうつつを抜かす。そして、岩倉具視・伊藤博文は王権力がつよいプロイセン王国憲法をモデルに、天皇を元首に戴く大日本帝国憲法を制定して、日本の西洋化に拍車をかける。
 次回以降、西洋化された日本と世界中でゆれうごいている民主主義についてのべよう。
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2022年01月17日

 天皇と日本の民主主義1

 ●絶対主義≠フ西洋と相対主義≠フ日本
 西洋では、何事も「YES」と「NO」の一元論で割り切ろうとする。
 それが民主主義の原型で、戦場の剣に代わりに、議会による多数決で決着をつけようというのである。
 一方、日本では、衝突を避けて、話し合いによって、折り合いをもとめる。
 話し合いというのは、文化で、そこには、祭祀やしきたり、習慣などの伝統的方法のほかに、委任や受託などの政治的な手法もふくまれる。
 西洋の黒白を争う一元論的な「闘争の論理」にたいして、日本は、多元論的にしてあいまいな「談合の精神」なのである。
 これは、文明や文化以前に、宗教のちがいでもある。西洋の思想は、原点にキリスト教やユダヤ教、イスラム教などの一神教があって、一神教においては正しいものが、一つしかない。
 そこからうまれたのが絶対主義だった。絶対主義には、絶対君主制のほかにローマ教皇庁による宗教支配もあって、七度にわたった十字軍の遠征から宗教戦争、異端審問や酸鼻をきわめる魔女狩りまでがふくまれる。
 絶対王政とキリスト教の宗教支配を倒したのが、啓蒙思想と市民革命、唯物論の共産主義革命だったが、これも、前体制の全否定、ギロチンと粛清という絶対主義で、結局、同じ穴のムジナだった。
 反革命のファシズムや独裁にいたっては、絶対主義の暗黒政治で、とりわけヒトラーのユダヤ人ジェノサイト(アウシュビッツ)やトルーマンの原爆投下は、敵を悪魔とみなす一神教の狂信性以外のないものでもなかった。
 敵は悪魔なので、いくら殺しても悪ではないどころか、神から祝福されるというのがキリスト教の狂信性で、自然や生きものも、人間の糧として神が与えたものなので、生殺与奪が思いのままという理屈である。
 自然そのものが神である日本と、自然が、神からあたえられた糧とする西洋では、自然観や宗教観、価値観に天と地のちがいがある。ユーラシア大陸では近代までに森林の大半が消えたが、日本の森林率が70%で、フィンランドに次いで世界第2位である。日本では、森は、糧ではなく、神々が宿る杜(鎮守のやしろ)だったからである。
 ちなみに、日本では、幕末まで、焼き畑農業と屠殺が禁止されていた。
 ●「君臣一体」と「君民共治」
 日本に絶対主義が存在しなかったことは、天皇が「君臣一体」「君民共治」の中心であって、絶対権力者ではなかったことからも明らかである。
 践祚に際して天皇は先帝から三種の神器(八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉)をうけつぐ。
 これが「君臣一体」のあかしだったことを多くの日本人は知らない。
 君臣というのは、天孫降臨の際、ニニギノミコトに随従した五人の臣(五部神)とその一族である。これら五人の神は、天岩戸神話に揃って登場するほか「三種の神器」の制作者にして守護神としても知られる。
「五部神」とは、中臣(藤原)氏の祖神である天児屋命、忌部氏の祖神である神天太玉命のほか、天照大神が天の岩屋戸に隠れたとき踊りを披露した天鈿女命や八咫鏡をつくった石凝姥命、八尺瓊勾玉をつくった玉祖命ら五人の神々である。
 そのほかに、天の岩屋戸に隠れた天照大神を誘い出す知恵をだした思兼神やアマテラスを岩戸からひきだした天手力男神らがいて、これらの神話のスターたちの末裔がニニギノミコトの4代末裔である神武天皇のとりまきとなって「君臣一体」という日本固有の支配体制ができあがった。
 三種の神器は、天孫降臨以来、天皇をまもってきた随従者の象徴で、践祚に際して、天皇が三種の神器を必要とするのは、天皇は、臣(おみ)らとともに天皇という地位に就いたという表明なのである。
 現在の歴史家は「三種の神器」について、おまじないかなにかのようにいうが、江戸時代まで「君臣一体」の象徴とだれもが知っていた。天皇は神輿であって、祭祀の道具である神輿を担ぐのが臣や連、あるいは武家で、それが政(まつりごと/祭り事・祀り事)だったのである。
 ところが、明治維新と昭和軍国主義において、天皇=現人神神話を捏造するために「君臣一体」を形骸化して、天皇が大昔から国家の権力者だったように教えこみ、国民に、歴代天皇の名を暗記させるなどした。
 だが、祭祀王で、軍隊をもたない天皇が独裁者であるわけはなかった。
 権力をもっていたのは、臣(おみ)や連(むらじ)、地方豪族ら兵をもつ有力者だった。
 有力な臣には、天児屋命を祖神とする中臣氏のほか、饒速日命を祖神とする物部氏、天忍日命(道臣命)を祖神とする大伴氏らがいるが、ほかに、五人の天皇(景行・成務・仲哀・応神・仁徳)に仕えた武内宿禰を祖とする蘇我氏や葛城氏、紀氏や巨勢氏、平群氏のほか春日氏など多くの臣や連が中央で勢力をもった。
 地方豪族には、近江の息長氏(継体天皇の家系)、岡山の吉備氏(ヤマトタケルの母系)、摂津国の安倍氏、群馬の上毛野氏、名古屋の尾張氏、河内の多治比氏、島根の出雲氏、九州の安曇氏らがいて、これらの臣や連、豪族らによって、自然発生的に、大和連合国が形成されていった。
 日本には、もともと、神話にもとづく神的な秩序が存在していたからだった。
 ●前方後円墳と大和朝廷
 前方後円墳に、争わずにして、大和朝廷ができあがった根本原理がある。
 日本の歴史は、初代天皇の神武(紀元前660)から15代応神天皇(西暦270年)までを神話時代、16代仁徳天皇(313年)から32代崇峻天皇(582年)までを古墳時代として、33代推古天皇と聖徳太子の飛鳥時代から切り離される。
 神話と実史が渾然としていた古墳時代は前方後円墳体制≠ニも呼ばれる。
 争わずに、大和朝廷が統一されていった理由は、その前方後円墳にあった。
 前方後円墳は、前が方形(四角形)で、後ろが円形の連結構造になっている。
 前方の方形が、この世の中つ国で、後方の円形が、天空にある高天原である。
 死者が葬られているのは、円形の場所で、高天原を意味する天である。
 祭壇を築くのは、方形の場所で、人々が生を営む葦原の中つ国である。
 前方後円墳は、ミコトが中つ国から高天原に帰ってゆく、天孫降臨の神話を再現したモニュメントだったのである。
 有力者が、高天原と中つ国を組み合わせた前方後円墳を共通の墳墓としたのは、かれらが、始祖の代から、ニニギノミコトの子孫である神武天皇の臣下であることを運命づけられていたミコトの末裔だったからである。
 前方後円墳が、全国で5000基以上にのぼるのは、日本が祭祀国家だったことのあかしで、大和朝廷のモニュメントである前方後円墳は「君臣一体」のシンボルだったのである。
 大きないくさがないまま大和朝廷が統一されてゆく原理を、日本の歴史学会が解明できなかったのは、日本の歴史に、西洋史の絶対主義や唯物史観をあてはめたからである。
 絶対主義に立った西洋の価値観や史観で「君臣一体」という日本固有の文化構造を理解できるわけはない。
 古墳時代は、祭祀国家の形成期であったが、日本の歴史学者は、皇国史観としてこれを排除した。くわえて、中国(晋)の歴史書に倭国の記述がなかった(266〜413年)ことから、古墳という遺跡があるにもかかわらず「空白の4世紀」として、古墳時代の歴史解明に幕を引いてしまった。
 次回以降は「君臣一体」から「君民共治」へ筆をすすめて、世界が騙されているルソーの国民主権や民主主義についてものべよう。
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2022年01月04日

 なぜ日本は中道政治≠実現できないのか10

 ●ようやく「防衛後進国」から脱却した日本
 岸田文雄首相は、所信表明演説で、2022年末までに「国家安全保障戦略」「防衛大綱」「中期防衛力整備計画」の改定を実現させるとのべたが、このとき「敵基地攻撃能力をふくめたあらゆる選択肢を排除せず現実的に検討する」と明言した。
 2015年の「日米防衛協力ガイドライン」の改定および安全保障関連法の改定後、日本の防衛体制は、各方面で、着々と成果をあげている。
 海自空母4隻体制の構築と潜水艦に国産長距離巡航ミサイル(1000キロ射程)の搭載決定、南西諸島(奄美大島/沖縄本島/宮古島/石垣島)へ陸自ミサイル配備そして岸田首相による「敵基地攻撃能力」の保有宣言と、第二次安倍政権発足以降、日本は、憲法9条に縛られた防衛後進国からようやく普通の国に立ち返りつつある。
 背景にあるのが、アジア・太平洋における日米共同防衛構想である。
 アメリカ第七艦隊が南シナ海を、ひゅうがといせ、いずもとかがの4隻体制となった海自空母打撃群が東シナ海をまもって、アジア・太平洋防衛には日米印豪にくわえて、英仏独蘭加の海軍がくわわる。
 中国海軍が遼寧と山東のほか三隻目の空母をもったところで、米中を中心とする自由主義陣営が結束すれば、海軍力の軍事バランスは、そうかんたんには崩れない。
 海軍戦力では、航空戦力を擁する空母艦隊と並び立つのが、海中から魚雷やミサイルを発射できる潜水艦隊である。
 現在、海上自衛隊は、潜水艦22隻体制(そうりゅう型12隻/おやしお型9隻/たいげい型1隻)で日本近海をまもっている。
 日本の潜水艦が世界一といわれるのは「非大気依存推進(AIP)機関」に高性能のリチウムイオン畜電池(GSユアサ製)を使用しているからである。
 AIPシステムは、エンジン駆動で蓄えた電気で航行できるため、ほとんど音を発しない。戦闘時には、気づかれずに対象へ接近して、監視や偵察、情報収集をおこなう。隠密行動を主任務とする潜水艦にAIPシステムと高性能の電動力は欠かせない機能なのである。
 通常航行する場合は、ディーゼル機関を用いるが、警戒態勢にはいるとエンジンが切られて、AIPシステムがはたらきだす。ところが、原子力潜水艦はエンジンを切ることができないので、敵のソナーにキャッチされる。
 尖閣諸島沖の海域に進入した中国の原子力潜水艦が、海上自衛隊の潜水艦に探知されて、2日間にわたって追跡されたあげく、公海上で、中国国旗の五星紅旗を帆柱に立てて浮上するという事件がおきている(2018年)。
 日本潜水艦の探知能力は、酸素ボンベを使った潜水者の呼吸音まで認識する能力をもち、レーダーは潜水艦配備と衛星・対潜哨戒機の双方の監視をコンピューターで統合運用する。
 日本潜水艦のソナー能力は、エンジン音から潜水艦の艦名までが識別できるといわれるほどで、日本の周囲をうごきまわっている外国籍の潜水艦はすべて日本の潜水艦隊に把握されているといってよい。
 潜水艦の航行深度は500メートルが限界とされる。米原潜を除けば世界のほとんどの潜水艦が水深400メートルを航行下限とするが、日本の潜水艦はその数百メートル下を航行する。
 船体に「NS110鋼材」という水深1000mに耐えられる特殊な素材を使用しているからで、海上自衛隊の潜水艦が搭載する深海救難艇は、深度1000メートルの救助活動も可能だという。
 世界最強といわれる日本の潜水艦だが、さらに政府は、海自潜水艦に国産の長射程巡航ミサイルを搭載するという。射程は1000キロで、地上の目標を正確に攻撃できる。
 2022年以内に装備するというが、実現すれば、最強の敵基地攻撃能力である。発見されにくい潜水艦からの反撃能力を備えることによって、日本本土への攻撃を思いとどまらせる抑止力が、飛躍的に強化されることになる。

 日本は、2026年までに「極超音速ミサイル」を開発して沖縄に配備するという。日本が実戦配備すれば、アメリカ、ロシア、中国に次ぐ4番目の極超音速ミサイル保有国になる。専守防衛の縛りから、目下、射程を500キロにおさえているが、沖縄から尖閣諸島まで(420キロ)なら十分である。
 現在、マッハ5超の極超音速飛行体≠フ開発研究が急ピッチですすめられている。2017年度に採択された「極超音速飛行に向けた流体・燃焼の基盤的研究」は、小惑星探査機はやぶさを打ち上げた「JAXA」が担当しているが、岡山大学や東海大学などの研究機関も分担している。
 極超音速飛行体というのは、ロケットや高性能ミサイルのことである。
 日本は、現在、マッハ2〜3で射程距離が100〜200km程度の「迎撃ミサイル」を保有しているが、飛来してきたミサイルをたんに迎撃するだけの機能で、この射程距離では北朝鮮にも届かない。
 ロシアや中国は、すでにマッハ6以上の極超音速ミサイルを保有・配備しており、北朝鮮も極超音速ミサイルの試射に成功している。極超音速ミサイルの迎撃は、現在の技術では困難で、日米が、宇宙工学とロケット技術の粋を結集して、新たなミサイル防衛網を構築するほかない。

 政府が研究開発をすすめている新型の対艦誘導弾の射程が2000キロにもおよぶという。同誘導弾の配備が実現すれば、自衛隊が保有するミサイルでは最長の射程となる。
 これとは別に、陸上自衛隊が運用する12式地対艦誘導弾の射程も将来的に1500キロにたっする。「国産トマホーク」ともいえる長射程ミサイルの射程が1500から2000キロにまでのびると、日本からの地上発射でも中国や北朝鮮が射程に入る。
 レーダーからの被探知性を低減させるステルス能力や、複雑な動きで迎撃を防ぐAI機能を高めるほか、地上以外、艦船や航空機からも発射も可能になれば、12式地対艦誘導弾の戦争抑止力は数段と向上するはずである。

 日本は、現在、4種類(F4、F2、F15、F35)の戦闘機を運用している。このうち、F4(26機)は2020年度中に退役を迎え、F2(91機)は2035年をメドに退役する。
 F15(201機)と、F35(17機)については、F15の能力向上とF35の新規調達(147機)を軸に精鋭化を図る。
 そのなかに空母いずもに艦載される短距離離陸・垂直着陸能力をもつF35B型がふくまれるが、いずれにしろ、147機の合計で、6兆6000億円という目の玉がとびでる買い物である。
 整理される戦闘機のランナップのなかで、空位となるのが、エンジン1基のF2である。ここに、代替えに国産のステルス戦闘機があてられる。
「心神」の呼称で呼ばれた先進技術実証用の実験用航空機「X‐2」である。
 三菱重工が設計を担当、IHIがエンジン、主翼と尾翼は富士重工業、SUBARUが機体、制御機器はナブテスコ、東芝と富士通がレーダーを製造する純国産で、ステルスの心臓部、電波吸収剤は宇部興産が担当する。
 複雑に屈曲させたエンジンの吸気ダクトなどもあいまってステルス性は数十キロ先のカブトムシ程度とされる。
 搭載エンジンは実証エンジンXF5‐1である。特長は、噴射口にとりつけられた3枚の推力偏向パドルで、通常の戦闘機では制御不可能となる失速領域においても機動制御を維持し、かつ高運動性を確保することができる。
 他機と同様以上のジェット推力(10t)をもちながらやや小型で、尾翼が大きく、3枚の推力偏向パドルをそなえているので、かつてのゼロ戦のように抜群の運動性をもっている。
空の支配者≠ニいう異名をもつアメリカの第5世代機のF‐22のアクロバット飛行は有名だが、日本の「X‐2」の運動性はそれ以上である。
 日本は、開発費や生産費をふくめて、約5兆円を投じて、現在のF‐2に代えて、日本の「X‐2」を実戦配備(90機)するという。
 陸海空の万全のまもりにくわえて、ミサイルの極超音速化と敵基地攻撃能力の保有によって、日本は、ようやく、先進国と肩を並べる普通の国になれるのである。

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2021年12月27日

 なぜ日本は中道政治≠実現できないのか9

 ●戦争シミュレーション≠ニ軍拡競争
 核は、防衛には最強だが、使えない武器で、使えば、世界の破滅である。
 戦争がおきるとしたら、通常兵器による局地戦だが、それも、実際におきる可能性はきわめて小さい。
 それでは、なぜ、世界の国々が軍拡競争に血眼になるのか。
 軍事力をベースにした戦争シミュレーションによって、たたかう前に勝敗が決するからである。といっても、ただのゲームではない。シミュレーションによる軍拡競争に負けると、実戦で負けたと同じような結末がもたらされる。
 インド太平洋軍のデービッドソン司令官が上院軍事委員会の公聴会で「通常戦力による米国の抑止力が崩壊しつつある」と警告して注目を浴びた。現在のペースでは、中国が6年後に台湾を解放して、20年後にはアメリカから世界覇権を奪うというのである。
 これも、戦争シミュレーションの結果で、アメリカが、将来、中国に負ける可能性があることを正式にみとめたのである。
 尖閣列島も、戦争シミュレーションで日米が中国に負ければ奪われることになる。その場合も、実戦なしで、コンピューターにデータをインプットすれば99・9%の確率で勝敗が判明する。
 増強される中国軍に対抗して、アメリカがシミュレーション戦争に勝利するべく、着々と手を打っているのは、いうまでもない。
 局地戦の主戦場になると思われる海洋では、アメリカ軍は、地上から中国の艦艇を攻撃する「地対艦」攻撃部隊を創設して、南西諸島やフィリピンなどに配備する。
 地対艦ミサイル攻撃には、海軍海兵隊だけではなく、陸軍もくわわる。海と陸の両方で、東シナ海と南シナ海に展開する中国海軍を無力化しようというのである。米空軍も、規模を縮小したグアム島の空軍基地にBー52H爆撃機の爆撃機部隊を復帰させて、中国ににらみをきかせる。
 さらに、日米豪印(クアッド)が結束する太平洋・インド洋では、イギリス(空母クイーン・エリザベス)をはじめオランダ(艦艇)、フランス(強襲揚陸艦)やドイツ(フリゲート艦)が日米海軍と共同訓練をおこなっている。
 日米豪印に英仏独蘭加をくわえた海洋国家群で、中国とロシアなどの内陸型国家連合を封じこめようというのである。

 中国海軍は、旧ソ連製の船体を改修した「遼寧」と国産初の「山東」の二隻の空母をもち、アメリカは、保有する空母11隻のうち、最強のロナルド・レーガンを第七艦隊(横須賀基地)に配備している。
 空母打撃群は、航空母艦を中心にミサイル巡洋艦やミサイル駆逐艦、攻撃型潜水艦、補給艦などによって構成されるので、一つの空母打撃群が一国の海軍力に相当するといわれる。
 アメリカ最強の第七艦隊のロナルド・レーガンが、南シナ海で、中国海軍の遼寧や山東に対抗しているが、中国海軍が三隻目の空母をもつと、米中の軍事バランスが崩れかねない。
 総合力はアメリカが上でも、局地戦では、投入できる戦力に限界がある。
 しかも、地の利もはたらくので、極東の米中軍事バランスが逆転する可能性はおおいにあるのである。
 そのとき、大きな役割をはたすのが、日本の空母打撃群である。
 日本の空母艦隊は「ひゅうが」「いせ」「いずも」「かが」の4隻体制である。
「ひゅうが」と「いせ」は対潜水艦用の航空母艦として、世界の最新鋭である。
 一方、ステルス戦闘機を艦載する「いずも」と「かが」は、航空母艦として本格的な機能をそなえている。艦載するFー35Bステルス戦闘機は、短距離離陸・垂直着陸できる世界の最新鋭機で、英国の空母クイーン・エリザベスも採用している。
 日本の空母打撃群は、空母の前後左右に、迎撃ミサイルを備えたイージス艦や駆逐艦、ミサイル巡洋艦、上陸用舟艇や補給艦を配置して、攻撃型潜水艦や対潜哨戒機が海と空から目を光らせる。
 日本の空母艦隊は、対潜水艦用のタイプとステルス戦闘機を艦載したタイプの組み合わせがベストで、このダブルの航空母艦が日本海や東シナ海の制海権を握れば、竹島を不法占拠する韓国や尖閣諸島に干渉してくる中国を牽制することができる。

 戦争シミュレーションのなかで大きな要素となるのが「敵基地攻撃能力」の保有である。ミサイル戦になる現代の戦争において、専守防衛(攻撃をうけたら報復する)という論理は通用しない。 被弾すれば、その時点で勝負がついてしまうからである。
 したがって、敵ミサイルが発射される前に先制攻撃≠ナきる体制ができていなければ、戦争シミュレーションの上で、互角の戦力をもっていることにならない。
 日本政府が、これまで、敵から攻撃を受けるまで武力の行使をおこなわないとしてきたのは、国家の自衛権や自然権、習慣法や国際法(国連憲章51条)を放棄したからでも、憲法九条に縛られているからでもない。
 国家防衛を核の傘≠ニいう名目のもとで、国家防衛をアメリカにゆだねる悪弊をひきずってきたからで、このなれあいを断ち切ったのが安倍晋三元首相だった。
 核の傘も自衛権の委託も、前時代的な迷妄で、そんなものは存在しない。
 安倍政権は14年、憲法解釈の変更を閣議決定して、集団的自衛権の行使を容認すると、翌15年、日米防衛協力ガイドラインの改正と安全保障関連法を成立させた。
 菅義偉前首相が安倍の安全保障路線を踏襲すると、岸田文雄首相が所信表明演説で「防衛には、敵基地攻撃能力もふくめてあらゆる選択肢を排除しない」と表明して、戦後レジームからの脱却がいよいよ明確になった。
 ちなみに、安倍路線を目の敵にするのが法曹界と左翼である。
 法律家と左翼は、ともに、教条主義者である。前者が条文主義者なら後者がマルクス主義者で、かれらにとって、法律の文章やマルクスのことばが唯一の真実である。
 法が「刑罰に裏付けられた主権者による命令(ジョン・オースティン)」ならマルクス主義は「暴力に裏付けられた主権者による政治」である。そのいずれも、人間の頭がひねりだした浅知恵で、国体や国家、文化や習俗という歴史がつちかってきた叡智とは比べるべくもない。
 しかも、ここでいう主権者は、国家ではなく、人民の権利(=国民主権)をあずかって、国家を倒そうとする、啓蒙思想という怪物である。
 啓蒙思想というのは、個人の自由や平等、権利を、天からさずかったものとして、それらをまもっている国家を、逆に、奪うものとして逆恨みする錯綜でルソー主義≠フことである。
 ルソー主義を信奉するのが、労組やマスコミ、日本弁護士会や検察庁である。
 外交や国家防衛で大きな成果をあげた安倍首相を「戦争が大好きな右翼」と罵倒しつづけ、検察庁にいたっては「桜を見る会」で秘書が小銭をごまかしたとして、いまだに、安倍逮捕に執念を燃やしている。
 法律家が、反日・反国家に走るのは、東大法学部の三巨頭、丸山眞男、大塚久雄、川島武宜が、ともに、啓蒙主義を代表する論者で、戦後民主主義のオピニオンリーダーだったことを思えばうなずけよう。
 閑話休題で、次回は、日本防衛の要となる極超音速ミサイルと世界一の潜水艦、現代のゼロ戦となる可能性をひめた国産ステルス戦闘機について語ることにしよう。
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2021年12月20日

 なぜ日本は中道政治≠実現できないのか8

 ●無防備ほど平和にとって有害なものはない
 日本学術会議の任命を拒否された6人の学者は「秘密保護法」や「安全保障関連法」、「共謀罪法」に反対してきたいわゆる平和勢力≠ナ、反日や反国家なのはともかく、これまで、日本の軍事研究や兵器開発、軍需産業にたいして、一貫して、非協力の姿勢をつらぬいてきた。
 第二次安倍政権(2012年)以前、自民党政府は、大手マスコミから護憲派、日本弁護士会や日本学術会議などの平和勢力の前で小さくなって、ろくに防衛論議もできないありさまだった。
 軍備や交戦権、軍事力(自衛隊)どころか、国防意識そのものを憲法違反とする日本平和教≠ェ、国家防衛の前に立ちはだかって、世界の軍事的均衡の一翼を担っている日本の足をひっぱってきたのである。
 ソ連崩壊やアラブの春、イギリスのEU離脱などを予測した世界的に高名なフランスの歴史学者エマニュエル・トッドはこういう。「戦争になるのは軍事的均衡が破綻したときです。無防備ほど平和にとって有害なものはない」
 こうともいう。「核は自国のためだけに使うものです。ドイツをまもるためにフランスが核を使うことがないように、アメリカも、日本をまもるために核を使うことはない。アメリカの核の傘≠ニいうのはジョークでしかない」
 日本は自前の核をもつべきという論拠は「核の傘無効論」だったのである。
 日本が核をもつなら、インドやパキスタン、北朝鮮のように、核拡散防止条約(NPT)を破棄しなければならない。
 アメリカの反対や国際社会からの反発が予想されるが、その場合、NATO(北大西洋条約機構)のニュークリア・シェアリング(核兵器共有)方式という選択肢が浮上してくる。
 ドイツ・イタリア・ベルギー・オランダなどの参加国は、アメリカから核の貸与をうける一方、核兵器を搭載できる軍用機やミサイルなどの技術・装備をもち、自国領土内で核を管理するほか、使用権限も握る。
 といっても、核兵器の暗号コードは、アメリカがもち、それが参加国の手に移るのは、核攻撃をうけて、報復する場合に限られる。核戦争はおこらないという前提に立っているので、核の貸与は、核を誇示する敵のブラフ(脅し)に対抗する形式的なもので、実際に、核兵器の暗号コードが参加国に移るかどうか、細部にわたるとりきめはない。

 核は、使用できない武器である。万が一、インドとパキスタンが互いに核を撃ち合ったら数億人の犠牲者が出るばかりか、世界の経済や流通、システムが崩壊して、食糧危機がおき、被爆死に倍する死者(餓死者など)がでることになる。
 まして、核保有国(米・中・ロ・英・仏・イスラエル)が核を使えば世界は破滅へむかい、5000年前の四大文明や日本の縄文文化からはじまった人類の歴史に終止符が打たれることになる。
 二国間の「相互確証破壊(=共倒れ)」の論理で、終局的には、地球の破滅へつながる核と、世界各国の自制とルール、安全を担保する軍事バランスは切り離されていなければならない。
 バランスオブパワーをつくりあげているのは、通常兵器による陸・海・空の軍拡競争である。米中摩擦や台湾問題、尖閣列島が大きな紛争へ発展しないのは、米・中・ロ・日・韓およびアセアン・印・豪のあいだで軍事的な均衡がたもたれているからである。

 このバランスオブパワーを政治的眼目においたのが、安倍政権で、それまでの日本政治のパラダイムをがらりと変えた。とりわけ第二次安倍政権と菅義偉政権では、外交・防衛上に大きな前進がみられた。
 羅列してみよう。
 第一次安倍政権以後のうごき
 2006年 
 第一次安倍政権発足
 安倍内閣の基本的な外交方針として「価値観外交―自由と繁栄の弧」がうちだされた。
 第二次安倍政権以後のうごき
 2012年 
 第二次安倍政権発足
 2013年 
 日英防衛装備品・技術転移協定署名。米国以外との国との初の武器共同開発協力
 特定秘密保護法成立
 2014年 
 武器輸出三原則を撤廃。新たに防衛装備移転三原則を閣議決定
 憲法解釈を変更して、集団的自衛権の行使容認の閣議決定
 英国とミサイル共同開発を決定。自衛隊にミサイルを納入する三菱電機の参画を認可
 2015年 
 日米防衛協力ガイドラインを改定
 安全保障関連法(いわゆる戦争法)成立
 防衛装備庁が発足。安全保障技術研究推進制度の発足
 2016年 
 安倍首相が「自由で開かれたインド太平洋戦略」(アフリカ開発会議)をうちだす
 2017年 
 自衛隊の中古装備品を他国に無償あるいは低価格で譲渡できる改定自衛隊法が成立
 共謀罪成立
 2018年 
 フィリピンに海上自衛隊の練習機TC90を無償譲渡
 日英の武器共同開発が本格化。英国の軍需企業が開発した空対空ミサイルに三菱電機の高性能レーダーを組み込む
 安倍晋三元首相が「いずも」と「かが」の空母への改造を閣議決定
 2019年 
 ノルウェーの軍需企業と巡航ミサイル買い付けの契約締結
 ノルウェーの軍需企業がF35戦闘機に搭載可能な巡航ミサイルの後続契約を日本政府と締結。53億円
 2020年 
 防衛省が「三菱電機製のレーダーをフィリピンに輸出する契約が成立」と発表。日本製の完成品の輸出は初めて。
 安倍首相が「ミサイル阻止(=敵基地攻撃能力の保有)年内に方針と」と談話
 防衛庁が5兆4898億円(2021年度)の概算要求
 防衛装備庁が国内軍需商社(丸紅エアロスペース、伊藤忠アビエーション)とアジア4か国へ武器輸出を本格化させる契約
 2020年 
 菅政権発足 日本学術会議の任命から6人の学者を拒否
 イージス艦2隻新造と敵の射程圏外から攻撃できるスタンドオフ・ミサイル(長距離巡航ミサイル)の国産開発の方針を閣議決定。

 日本防衛戦略の基本が「航空母艦」「戦闘機」「ミサイル」「潜水艦」の四つの戦力の能力と装備、配置にあるのはいうまでもない。
 この4分野の戦力を世界レベルから検証してみよう。
 日本の空母艦隊が「ひゅうが」「いせ」「いずも」「かが」の4隻体制をとったのは、ひゅうが(「いせ」をふくむ)といずも(「かが」をふくむ)の戦闘任務と守備範囲が異なるからである。
「ひゅうが」型は、接近してくる敵潜水艦にたいする攻撃で、短魚雷発射管やアスロック対潜ミサイルなどを格納する16セルの垂直発射装置(VLS)を装備する。重兵装だが、対潜水艦用の航空母艦として、世界の最新鋭である。
 一方、潜水艦を攻撃する装備をもたない「いずも」型は、本格的な航空母艦としての機能をそなえ、短距離離陸・垂直着陸できるF−35Bステルス戦闘機を艦載する。米海兵隊F35Bが「いずも」からの短距離離陸・垂直着陸をおこなった(ネットで映像公開)のち、海上自衛隊も、日夜、訓練を重ねている。
 潜水艦と駆逐艦、空中戦力にまもられる空母船団のなかで、ひときわ威力を発揮するのが空中戦力である、垂直離着陸ステルス戦闘機F35は、F22に次ぐ世界第2位の能力をもつ戦闘機とあって、日本の空母が、東シナ海で中国海軍の空母とにらみ合っても一歩もひけをとらない。
 ちなみに、F22はアメリカ空軍のエースで、門外不出にしたため、日本は同等以上の性能をもつ戦闘機(心神)を開発したが、それは後述しよう。
 日本の空母打撃群には、航空母艦を中心に、駆逐艦やミサイル巡洋艦、攻撃型潜水艦や対潜哨戒機、上陸用舟艇や補給艦、これに、軍事衛星とむすばれたレーダー網とアメリカと共有する情報ネットワークがくわわる。
 実戦では、空母の前後左右に、空対艦ミサイルに備えた迎撃ミサイル体制を整えたイージス艦を配置してさらに万全を期す。
 現在、海軍力が世界1位の米、2位の日、3位の英に、仏・蘭・豪・加らをくわえた自由諸国海軍連合の軍事訓練が、太平洋インド海域中心に、精力的におこなわれている。
 この軍事的均衡のなかで、中国海軍が尖閣列島を奪える情勢はでてこない。
 次回は、日本の「戦闘機」「ミサイル」「潜水艦」が世界と比較してどのレベルにあるかを検証してみよう。
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2021年12月12日

 なぜ日本は中道政治≠実現できないのか7

 ●高まるアジアの軍事的緊張と「憲法九条」の不均衡
 韓国の国防費が、いまのペースでは、6年後には、日本の現在の防衛予算を上回る。
 文在寅政権が、GDPの2・2%だった国防予算を2・5%へと上昇させたからで、このままでは、2020年の段階で50兆1527億ウォン(約4兆7000億円)だった国防費が、6年後には5兆4000億円を超える計算になる。
 ちなみに、2020年の日本の防衛予算は5兆3222億円だった。
 韓国が、国防費の増強にやっきになっているのは、北朝鮮との戦争に備えてのことではない。韓国は、現在、空母の建造を計画しているが、陸上戦となる北朝鮮との戦争に空母など必要ない。
 近い将来、韓国が空母を保有するであろう理由は、竹島(韓国名・独島)の占有を恒久化させるためである。韓国の有力紙・中央日報はこう報じる。
「日本は、韓国の領土である独島を自国の土地だと執拗に主張している。そんな日本が空母戦団を独島沖に布陣させ、武力示威をおこなえば、韓国も、空母戦団で対処しなければならない。空母戦団がなければ無防備状態で日本の武力示威を許してしまうことになる」
 韓国が危機感を強めたのは、2018年、安倍晋三元首相が「いずも」と「かが」を空母に改造することを閣議決定したからである。
 現在、日本は、1万9000トン級のヘリコプター母艦「ひゅうが」と「いせ」を運用している。これにくわえて、2023年までに、2万7000トン級多目的駆逐艦「いずも」と「かが」の2隻を、F35Bを艦載機とする空母に改造しようというのである。さらに、将来的には5万トン級空母(仮称「ほうしょう」)も建造するという。
 指揮塔が船の右舷中央にあって、滑走路用の甲板を大きくとってある日本のヘリコプター搭載艦や多目的駆逐艦は、設計時点から垂直離着陸ステルス戦闘機F35Bを搭載する航空母艦に改造することを念頭に建造されている。

 日本の空母を警戒しているのは、韓国だけではない。南シナ海でアメリカとしのぎを削っている中国にとって、日本の空母は、大きな脅威になる。
 2020年、中国は、渤海で2日間にわたって、空母「山東」の実戦配備となる訓練を実施したが、これは、日米の「インド太平洋戦略」への牽制だったのはいうまでもない。
 日本の空母打撃群には、航空母艦を中心に、駆逐艦やミサイル巡洋艦、攻撃型潜水艦や対潜哨戒機、上陸用舟艇や補給艦、さらに、軍事衛星とむすばれたレーダー網とアメリカと共有する情報ネットワークがくわわる。
 南シナ海で、アメリカの空母打撃群(空母「ロナルド・レーガン」)とにらみあった中国海軍が、こんどは、東シナ海で日本の空母艦隊と張りあわなければならなくなる。
 中国が今回の訓練に動員した山東は、ウクライナから買った未完成の船体を完成させた「遼寧」につづく2隻目の空母だが、3隻目となる国産空母の完成も間近という。
 韓国が空母の建設を急ぐのは、独島防衛のためだが、一方、中国は、尖閣諸島の領有と同海域の制海権確保が目的である。
 竹島は、日本と朝鮮半島のほぼ中間にあって、対馬海峡から日本海へいたる入口である。竹島から朝鮮半島までは200キロ強で、ここに、日本が強力なレーダーを建てたら、日本海と朝鮮半島を一部が日本の監視下におかれる。
 尖閣列島は、中国本土と台湾、沖縄本島のほぼ中央にあって、中国大陸から太平洋にでる上海ルート(東シナ海)の最大の妨害になる。北京から太平洋にでるもう一つが香港ルート(南シナ海)だが、北京から2000キロも離れているばかりか、その場合、艦船は、台湾近海を南下しなければならない。
 日本人は、竹島や尖閣列島について、ちっぽけな島と思っているが、両方ともきわめて重大な軍事的要衝である。そのテーマに、マスコミや評論家がふれないのは、憲法九条ばかりに気をとられて、世界の防衛感覚に疎くなっているからであろう。
 自衛隊ができる2年前、韓国は、島根県の一部だった竹島を李承晩ラインの内側にとりこんで略奪し、このとき、韓国は、竹島周辺で漁をしていた日本の漁船328隻を拿捕、漁師3929人を拘束して、44人死傷(抑留死亡8人)させている。
 軍事力がなければ、当時、北朝鮮よりも国力が低かった韓国からさえこんな酷い扱いをうける。それが国家防衛をめぐる世界の現実で、国民は、軍事力によってまもられるのである。

 日本の軍事力は、アメリカ、ロシア、中国、インドに次ぐ世界5位(アメリカの軍事情報サイト/グローバル・ファイヤーパワー2021年版)である。
 以下韓国、フランス、イギリスとつづくが、インドは、自前で兵器をつくることができないので、日本が、事実上、第4位ということになる。
 中国と比較して、人口で9%、国土で5%以下の日本が軍事力でその中国に次いで4位になっているのは、アメリカがアジア防衛の義務を日本に負わせているからで、日米安保条約とNATO(北大西洋条約機構)が自由世界の安全と安定をまもっている。
 ちなみに、軍事力1位のアメリカの軍事費は、2〜10位の軍事費の合計をこえる。NATOや日米安保条約、クアッド(日米豪印戦略対話)およびファイブ・アイズ協定(米英加豪ニュージーランド)は、アメリカの軍事的優位を基礎としたもので、世界最強の安全保障である。
 新型兵器開発も、アメリカがリードして、ロシアや中国が後を追う。
 現在、この米・ロ・中が熾烈に開発競争をすすめているのが次世代の兵器のエースといわれる「極超音速ミサイル」である。発射後、高高度で分離されたのちマッハ10〜20の速度で飛行して目標を攻撃する。飛行経路も変えられるため、THAADなど既存のミサイル防衛システムでは迎撃できない。
「極超音速ミサイル」の登場によって、旧来のミサイル防衛システムが役立たずになってしまったのである。
 日本は、2026年までに「極超音速ミサイル」を開発して沖縄に配備する計画である。専守防衛の縛りから射程500キロにおさえているが、沖縄から尖閣諸島まで(420キロ)なら十分である。日本が実戦配備すれば、世界で4番目の極超音速ミサイル保有国になる。
 日本が導入を検討したJASSM(ロッキード社)は戦闘機から発射される空対地ミサイルで、位置情報を入力すれば低空飛行で900キロメートル先の目標物を精密打撃することができる。
 だが、費用をめぐって日米間協議が難航するなどして、岸信夫防衛相が打ち切りをきめた。
 JASSMは幻となったが、実情は、日本が独自の技術で空対地「極超音速ミサイル」を開発できる見通しが立ったからであろう。
 日本は、直系1000メートルに満たない小惑星から岩石をもちかえる宇宙工学(小惑星探査機はやぶさ)と高度なロケット技術をもち、これまで7基の軍事偵察衛星を打ち上げてきた。
 この国産ロケット(イプシロン)は大陸間弾道ミサイル(ICBM)に転用できる。
 中国が実力で尖閣列島を奪えないのも、軍事費をいくら増やしても、韓国が日本を圧迫できないのも、日本の軍事テクノロジーが、世界最高の水準にあるからである。
 次回は、核保有をふくめた日本の安全保障の今後を展望してみよう。
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