2021年04月19日

 天皇と民主主義 その13

 ●河井継之助と小地谷の官軍問答
 ヨーロッパの市民革命は、主役が、市民(ブルジョワ)だった。
 ところが、明治維新は、反乱軍が「官軍」を名乗って、大政奉還したのちに恭順の意をしめした東北(陸奥、出羽、越後)の幕藩側に殲滅戦を仕掛けるという暴挙にでた。
 反乱軍が幕藩側にたいして攻勢にでたのは、アメリカから火器(南北戦争の中古銃=スナイドル銃・ミニエー銃・エンフィールド銃)をたっぷり仕入れていたからで、銃輸入の仲介に立ったのが、明治政府から、勲二等旭日重光章を授与されたトーマス・グラバーだった。
 グラバーは、中国のアヘン戦争を仕掛けたマセソン商会(イギリス)の日本支社(グラバー商会)で、マセソン商会は、世界的な武器商社だった。
 外国から仕入れた武器で、徳川幕藩体制を壊滅させ、孝明天皇に代えて明治天皇を国家元首に立てて、どうしてこれを、市民革命などということができるだろう。
 明治維新が、薩長の討幕派と宮廷の反孝明天皇派が手をむすんだクーデターだったことは明らかだが、歴史家は、だれ一人、この事実を語ろうとしない。
 日本の歴史家の大半が、遠山茂樹を筆頭に、マルクス史観に立っているからで、明治維新を市民革命と位置づけなければ気がすまないのである。
 憲法は「八月革命説」の宮沢俊義、近代史は「明治維新(岩波)」の遠山茂樹という二人の重鎮(東大左翼)に牛耳られていて、日本の法学や史学は、そこから一歩もうごけないのである。

 明治維新のキーワードが官軍≠ナある。
 官軍の征討大将軍には仁和寺宮彰仁、東征大総督には有栖川宮熾仁が任じられたが、任じたのは「討幕の勅書」や錦の御旗(錦旗)を偽造した岩倉具視や三条実美らで、年少だった明治天皇が関与したはずはない。
 官軍という呼称も、岩倉や三条ら反孝明天皇派の公卿の専断である。
 朝廷の軍が官軍だったのなら、孝明天皇の崩御後、一夜にして、孝明天皇がきらっていた長州が官軍になって、一方、孝明天皇の信頼が厚かった会津藩主松平容保が賊軍になるはずはない。
 孝明天皇が、突如、崩御(1866年12月25日)されると、2週間後の1867年1月9日、明治天皇が14歳で即位して、岩倉や中山忠能ら反孝明天皇派の公卿が続々と朝廷に復帰してきた。
 一方、孝明天皇派の側近だった中川宮朝彦親王や二条斉敬らの公卿が朝廷を追われる。
 そして、官軍を名乗る薩長軍が、孝明天皇の信が厚く、尊王思想が高かった陸奥、出羽、越後を賊軍として、討つという。
 長州は、御所に砲撃を浴びせ、孝明天皇の拉致をはかった逆賊である。
 その長州が、孝明天皇の不審死の直後、喪に服することもなく、反孝明天皇派の公卿らとともに官軍を創設して、天皇と将軍が一体化していた「幕藩朝廷体制」の破壊につきすすんでゆく。
 これは、二重の政変で、1つは、幕藩体制の否定である。
 そして、もう一つは、権力構造の変更である
 権力に正統性をあたえていた権威が、権力の座へ横滑りして、権力と権威の二元化という日本の国のかたちを破壊した。
 日本は、国体=天皇と政体=権力の「二元論」から成り立ってきた国である。
 国体と政体の二元論は「聖俗二元論」でもあって、軍事力をもたない天皇と文化的・宗教的価値をもたない幕府が、支え合って、国家をつくりあげてきたのである。
 古代の豪族との連立政権から律令体制、藤原氏の摂関政治、院政をへて武家政治にいたるまで、日本は、権威と権力の二元論をもって、国家を安定させてきた。
 それが、明治維新で壊れて、明治憲法で、天皇元首の一元論的な専制国家になった。そして、そこから、昭和の軍国主義へ、そして、第二次大戦の敗戦につながってゆく。

 孝明天皇から明治天皇へいたる思想的、政治的連続性がすっぱりと断たれている。
 そして、その断裂の前に、薩摩の大久保利通と西郷隆盛、大量の火器で武装して官軍を名乗った長州、岩倉具視や三条実美らの反孝明天皇派の公卿が控えている。
 官軍は、鳥羽・伏見の戦いから上野戦争(彰義隊)、会津戦争へと戊辰戦争を拡大させていった。
 会津戦争は、奥羽と北越でおきた官軍と旧佐幕系諸藩との戦いである。
 鳥羽・伏見の敗戦後、会津藩主松平容保は謹慎して、官軍に帰順の意を示す。
 斡旋に立った仙台藩と米沢藩は、官軍の会津追討の決定を無情として抗戦を決意して、奥羽の旧佐幕系諸藩を説いて、奥羽大同盟がむすばれた。
「奥羽越列藩同盟」は、現在の青森・岩手・宮城・福島(奥州)と秋田・山形(羽州)、新潟(越州)の7県(31藩)で、有力藩が100藩に足りなかった幕末当時、薩長が31藩を敵に回すのは、天下分け目の戦いといってよかった。
 官軍が勝ったのは、圧倒的な火器と「官軍」の威名によるもので、奥羽越列藩は、内部に官軍への恭順(無条件降伏)派をかかえ、最後まで、徹底抗戦の態勢が敷けなかった。
 長岡藩は小藩だったが、家老上席の河井継之助は、藩主牧野忠訓の絶対的な信頼の下で、英米の武器商人からアームストロング砲やエンフィールド銃などの火器を調達して、一朝有事にそなえる。
 長岡藩が、当時、2門所持してガトリング砲は、日本に3門しかなかったというが、戊辰戦争がはじまると、継之助は、江戸の藩邸などをすべて処分して軍備費にあてている。

 政府軍の岩村精一郎と越後の小千谷(慈眼寺)で会談した継之助は、降伏を迫る岩村に反問している。
「会津討伐の理由は何か」「賊軍を討つが官軍ぞ」「会津は賊軍に非ず」「官軍に歯向かうは賊軍ぞ」「天子を戴く官軍が同胞を討つはずがない」「会津は同胞に非ず」「さては貴殿ら官軍ではあらぬな」
 激高した岩村に継之助はこう言い放った。「賊軍を討伐するというのは天子の名を借りた私闘、権力をとるための野望であろう」
 北越戊辰戦争で、河井継之助が率いる長岡藩は、3か月にわたって政府軍を苦しめたが、戦死者が340人におよび、継之助も銃創がもとで死亡した。
 もっとも被害が大きかったのが会津藩で、白虎隊をふくめて戦死者2400人のほか、婦女ら数千人が虐殺されたが、埋葬禁止令によって、数千の死体が白骨化するまで捨て置かれた。
 藩主松平容保は助命されて、会津藩も取り潰しにはならなかったが、容保と生き残った会津藩士は極寒の陸奥斗南(青森県むつ市)移封を命じられた。
 実高40万石の有数の穀倉地帯だった会津若松の地から、火山灰で覆われた3万石の地に追いやられた会津藩士の多くが、病死や餓死に斃れて果てた。
 松平容保は、首から提げた小さな竹筒を、終生、肌身離さなかったという。
 なかに入っていたのは、孝明天皇の宸翰(天皇直筆の書簡)と「禁門の変」の折の容保の忠誠を称揚する御製の和歌であった。
 明治維新が、薩長と、反孝明天皇派の二重のクーデターだったことをいちばんよく知っていたのは、松平容保であったろう。

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2021年04月12日

 天皇と民主主義 その12

 ●朝廷クーデターでもあった明治維新
 明治維新は、天皇を担いだ薩長討幕派によるクーデターだった。
 だが、見方によっては、薩摩の大久保利通と西郷隆盛、長州藩をまきこんだ朝廷クーデターだったともいえよう。
 首謀者は、岩倉具視と三条実美、明治天皇から錦の御旗をさずかった有栖川宮熾仁親王(東征大総督)、戊辰戦争における官軍の大将に任じられた仁和寺宮嘉彰親王らである。
 このなかに、明治天皇の外祖父で、岩倉の協力者だった中山忠能や長州藩とむすんで討幕にうごき、京都を追われて長州に落ち延びた7公卿らもふくまれる。
 クーデターが成功して、岩倉ら親長州派の公家、薩摩の大久保・西郷、長州勢が天下をとったが、このクーデターで、標的になったのが、孝明天皇だったことに、なぜか、歴史家はふれようとしない。
 親徳川・反長州で「公武合体派」だった父・孝明天皇にたいして、15歳で即位した明治天皇は、親長州・反徳川で「尊皇攘夷派」だった。
 朝廷の人脈も、対立関係にあって、父と子でありながら、孝明天皇と明治天皇のあいだに、思想や政策の連続性がみられない。

 孝明天皇につかえたのが、中川宮朝彦親王や関白・二条斉敬ら、幕藩体制をささえた皇族や公卿で、孝明天皇が信頼をよせたのが、徳川慶喜や京都守護職で会津藩主の松平容保、京都所司代で桑名藩主の松平定敬だった。
 この宮廷クーデターで、戦闘部隊だった薩長が、最大の敵としたのが会津と桑名だったのは、両藩が、孝明天皇の京都御所をまもっていたからだった。
 クーデター成功後、徳川慶喜が政治生命を断たれ、朝彦親王や関白二条らが朝廷への出廷を禁じられたが、会津藩と桑名藩にたいしては、そんな手ぬるい処置ではすまなかった。
 天下をとった長州藩が、住民ともども皆殺しという、日本史上、比類のない蛮行にでたのである。
 かつて、会津藩と桑名藩によって、京都を追われたことを根にもってのことだった。

 クーデターの火ぶたが切られたのは「禁門の変」(1864年)だった。
 その前年におきた「八月一八日の政変」で、京都における地位を失った長州藩が兵を率いて上京、会津、薩摩の両藩と、京と御所蛤御門の付近で会戦して敗れている。
「八月一八日の政変」というのは、薩摩の島津久光ら公武合体派が、尊攘派の公卿や志士ら尊攘派を京都から追放した事件である。
 長州を中心とする尊攘派が、大和を行幸中の孝明天皇を拉致して、討幕軍のシンボルにする計画を立て、実行部隊のテロ集団(天誅組)を活動させていることが発覚したからだった。
「禁門の変」で、長州は、御所に発砲して、賊軍となっている。
 尊王の大儀をもちあわせていなかったからで、孝明天皇も、長州をきらっていた。
 長州にとって、天皇は、徳川から権力を奪取するための玉(ギョク)≠ノすぎなかった。
 天皇を政治利用して「天皇君主制」の専制国家をつくろうとしている薩長や長州派の公卿らにとって、公武合体論に立つ孝明天皇、天皇の信頼をえていた徳川慶喜や会津の松平容保、桑名の松平定敬がクーデターの最大の妨害だったのである。
 孝明天皇の崩御(1867年)について、毒殺説がささやかれるのは、病状から毒物中毒が疑われることと、長州征伐や薩長同盟、公議政体論などが交錯するなか、孝明天皇が、討幕派の前にたちはだかっていたからだった。

 事実、孝明天皇の崩御後、岩倉具視ら長州派公卿の赦免、薩長と共謀による討幕の密勅工作、公武合体論の坂本龍馬暗殺、大政奉還、小御所会議(王政復古)、徳川慶喜に辞官納地命令と流れが変わって、公武合体論は、完全に瓦解した。
 そして、翌1868年には、大久保利通と岩倉具視らが錦の御旗(錦旗)を大久保の妾につくらせ、偽造した錦旗を掲げた薩長軍に「官軍」を名乗らせている。
 そして、長州派の仁和寺宮嘉彰親王を「官軍」の大将にすえた。
 これを見て、幕藩勢が、朝敵になるのをおそれて、士気を阻喪したのはいうまでもない。
 すべて、狡猾な岩倉具視、陰険な大久保利通の工作で、これに15歳の明治天皇が関与したはずはない。
 戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)勃発後、西郷隆盛と勝海舟による江戸城開城となるが、これは、巷間つたわる薩長史観の美談ですむはなしではない。
 徳川慶喜の委任をうけた勝は、西郷にたいして、徹底的な恭順の意を示しただけで、事実上、東北地方(陸奥、出羽、越後)への報復的な攻撃を容認したのである。
 上野戦争(彰義隊決起)にも、勝は、官軍への降伏をうったえただけだった。

 かつて、明治天皇の別人説が流布した。孝明天皇の長男(裕宮)は「禁門の変」で、長州の砲撃に気を失った気弱な子だったというが「小御所会議(1868年)」にあらわれた15歳の明治天皇は、大柄で豪胆、しかも、内裏育ちではありえない左利きだった。
 だが、天皇ついて語ることは、タブーで、小御所会議で、岩倉具視は、幼い天皇を担ぐのは謀議ではないかと異議を唱えた山内容堂を逆に詰問して、謝罪させている。
「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の大日本帝国憲法第3条(1890年)の10年前に刑法(1880年)で「不敬罪」が発効している。
 天皇について語ることを畏れ多い≠ニしたのは、天皇を政治利用するための便法だった。
 そして、それが、天皇陛下の名を口にするときは「おそれおおくも」と直立不動の「気をつけ」の姿勢をとらせた昭和の軍国主義につながってゆく。

 明治憲法は立憲君主制で「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」(第55条)とあって、天皇の命令も、国務大臣の署名がなければ発令できなかった。
 その構造は、明治天皇が天地神明に誓約する形式で公卿や諸侯などに示した「五箇条の御誓文」(明治政府基本方針/1868年)でも明らかで「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」と民主主義的で、どこにも、天皇主権が謳われていない。
 それでは、どこから〈現人神信仰〉がでてきたのであろうか。
 天皇軍国主義は、法に拠らない宗教で、源流は廃仏毀釈≠フ狂気をうんだ明治天皇の「大教宣布詔」である。
 この詔にもとづいて「神仏分離令」(1870年)が発布された。
 音頭をとったのが「討幕の密勅」を工作するなど岩倉具視や三条実美に協力してきた中山忠能らで、大教宣布詔では、天皇に神格をあたえ、神道を国教と定めて、大日本帝国を「祭政一致の国家」とする国家方針を示した。
 中山のいう神道は、平田神道のことで、平田篤胤は、加茂真淵や本居宣長ら国学系の古神道とは異質の神秘主義を唱えた。
 宇宙論から法華宗、密教や道教、キリスト教や聖書などをとりいれた一種の新興宗教で、天皇=現人神の観念も、平田神道の産物である。
 薩長の王政復古や廃仏毀釈、欧化主義、現人神信仰は、一元論で、日本文化の根本である二元論・多元論と真っ向から対立する。
 次回は、河井継之助の小地谷会議における「官軍問答」や官軍思想が狂気の昭和軍国主義へ変質していった経過を見ていこう
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2021年04月04日

 天皇と民主主義 その11

 ●国譲りの「シラス」と「ウシハク」
 奥州藤原氏の中尊寺金色堂(平泉)や豊臣秀吉の黄金の茶室、そして、庶民までがもっていた小判を挙げるまでもなく、近世以前、日本は、世界で有数の金の産出国で黄金の国ジパング≠ニ呼ばれた。
「黄金の島ジパング」という記述は、マルコ・ポーロの「東方見聞録」によるものだが、実際に日本へやってきたザビエルやフロイスら宣教師、博物学者で医師のケンペルやシーボルトらも、日本がゆたかな文明国であることを母国に克明につたえている。
 なかでも、日本には聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の二人の支配者がいると紹介したケンペルの「日本誌」は、ゲーテやカント、ヴォルテールやモンテスキューらの関心をひいて、これが、19世紀のジャポニスムにつながってゆく。
 ルソーも「日本誌」を読んでいるはずである。それで「君民共治という理想的な国が地上に存在するはずはないので、わたしは、やむをえず、民主主義をえらぶ(社会契約論)」といったのである。
 ルソーは、ゲーテやカントのように「日本誌」を信用しなかったが、天皇と将軍について、詳細に記述したケンペルの日本論は、最近、完訳がでた(今村英明訳)こともあって、一読する価値がある(毎日新聞)という。
 ケンペルは、明治時代に制定された神武天皇の即位の時代設定を、17世紀において、西暦に計算しなおして、紀元前660年と定めたほか、歴代天皇の「諱(いみな)」も明らかにしている。
 ヨーロッパ人が、天皇をキングと呼ばない理由は、ケンペルの「日本誌」をとおして、日本を理解していたからである。
 当時、ヨーロッパ人は、日本を錦絵や浮世絵、観賞用陶器をもった文化国家とみなしていた。
 ちなみに、ヨーロッパで、美術品が庶民のものになるのは、19世紀の産業革命の後のことである。

 中世から近世にかけて、世界最大の都市は、江戸で、ロンドンの80万人やパリの50万人にたいして100万人の人口を擁していた。
 現代の大学や専門学校にあたる私塾が1500、義務教育にあたる寺子屋に至っては15000もあって、識字率も、ロンドンの10%にたいして日本は70%以上だった。
 宣教師たちを驚かせたのは、下水道処理や流通などのライフラインが整っているばかりか、衣食住の文化が花咲いて、市街が清潔で美しいことだった。
 しかも、ヨーロッパに比べて犯罪が極端に少なく、小伝馬町の牢屋はいつもがらがらだった。
 日本で犯罪が極端に少ない理由について、ケンペルは「日本誌」で、天皇と将軍(幕府)の二元論にふれて、権力一本のヨーロッパと比較している。
 五代将軍徳川綱吉とも謁見しているケンペルは、徳川政権がもっとも栄えた元禄の天和の治≠ェ権力だけでもたらされたものではないことを知っていたはずである。
 日本学者だったケンペルは、日本の建国神話にも詳しかった。
 大国主命の「国譲り」(古事記)に「シラス」と「ウシハク」ということばがでてくる。
 シラスは、国がしぜんに治まってゆくさまで、ウシハクは、支配することである。
 汝之字志波祁流 此葦原中國者 我御子之所知國
「汝のウシハケる この葦原の中つ国は 我が御子のシラス国なるぞ(この国は天照大御神の子である天皇が治めるもので、大国主命が私有するものではないぞ」
 ウシハケルは「ウシ(=主人)ハケる(佩ける=所有する)」で、私物化するという意味の古語である。
 一方、シラスは、知らしむ、知らしめるということばの原形で、つたえるという意味である。
 シラスが「治める」となるのは、つたえるだけで、民がみずから従うからである。
 ウシハケルは「統治する」ことだが、権力の行使なので、ときには、抵抗と弾圧をまねき、凄惨な事件に発展する。
 世界史はウシハク≠フ歴史で、支配者は、権力を使って民を従え、他国を侵略してきた。
日本が、キリシタン禁止と鎖国政策をとったのは、スペインとポルトガルが侵略した国の支配権を分けあう「トルデシャリス条約(1494年)」の存在を知ったからで、侵略の先鞭となったのが、キリスト教の布教活動だった。
 鎖国は、侵略を防衛するためだったが、ケンペルは、日本の外交戦略を高く評価(『鎖国論』)している。

 一方、日本の歴史はシラス≠ナ、民は、権力から強制がなくとも、権威のシラスにたいして、みずからすすんで従うので、混乱がおきない。
 天皇の権威が不在だった戦国時代、加賀や長島などの一向一揆が大勢力となって織田信長を追いつめたとき、信長の意向をうけて、正親町天皇が調停に立つと、一向一揆(浄土真宗本願寺派/蓮如)はおとなくひきさがった。
 権力(ウシハク)には一歩も退かなかった一向一揆も、権威(シラス)には歯向かおうとしなかったのである。
 大日本帝国憲法第1条に「万世一系の天皇これを統治す」とある。
 憲法草案を考えたのは「教育勅語」を書いた井上毅で、原案には「天皇これをしらす」とあった。
 帝国憲法でも、天皇の役目は、統治権の輔弼や総攬にあって、憲法の条規が優先されるのは、立憲君主制として、当然のことであった。
 ところが、井上毅に憲法原案を書かせた伊藤博文、その伊藤をヨーロッパに派遣してビスマルク憲法の研究をさせた岩倉具視が望んだのは、立憲君主制ではなく、天皇を政治利用する絶対君主制だった。
 井上の「しらす」は、伊藤や岩倉らに「統治す」と書き直された。
 そして、統治権が軍令権を兼ねる統帥権にまで拡大されて、昭和の軍国主義がうまれるのである。
 昭和の軍国主義は、天皇の権威を借りた軍閥が民(国民)や臣(政治家)を支配した暗黒政治で、原型をつくったのは、岩倉具視だった。

「小御所会議」(1868年)の出席者は十五歳の明治天皇と皇族・公卿以外の大名の出席者は、元尾張藩主徳川慶勝、前越前福井藩主松平春嶽、前土佐藩主山内容堂、薩摩藩主島津茂久、安芸広島藩主浅野茂勲の五名だった。
 同会議の争点は「討幕派」の岩倉具視(参与)と「尊皇佐幕派」の山内容堂の対決だった。
 大政奉還は、天皇からあずかっていた権力をいったんお返して、もういちど政治体制を考え直すということである。
 したがって、そこに、前任者の徳川慶喜がいなければ、筋がとおらない。
 山内容堂は、徳川慶喜の不在に異議を唱え、さらに、同会議が、幼い天皇を担いだ謀議だと非難した。
 このとき、岩倉具視は「幼沖なる天子とは何事か!」と山内を一喝した。
 だが、核心を衝いた容堂の主張に松平春嶽、浅野茂勲、徳川慶勝が同調したため、却って、岩倉が窮地に陥って、会議は休憩に入った。
 参与の席には、後藤象二郎(土佐藩士)らのほか、西郷隆盛や大久保利通が控えていた。
 このとき、西郷が「短刀一本あれば片づく」と岩倉にシグナルを送った。
 岩倉は、広島藩の浅野茂勲に、西郷の決意をつたえ、これが、後藤象二郎をとおして、山内容堂と松平春嶽の耳にはいった。
 岩倉や西郷、大久保らは、天皇を担いで天下をとった悪党である。
「岩倉具視が孝明天皇を毒殺した」という噂が広がっていた。西郷も、江戸で強盗や殺人、放火をくりひろげた「薩摩御用盗」の首謀者として知られていた。
 自宅に博徒を集めて賭場をひらいていた三流公家の岩倉や犯罪集団の親分である西郷が刃傷沙汰ちらつかせて、大名らが臆さないわけはなかった。
 のちに、天皇の権威を借りた恫喝とテロの連鎖が「昭和軍国主義」をつくりあげてゆくことになる。
 その原型は、小御所会議にあったのである。
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2021年03月29日

 天皇と民主主義 その10

 ●大久保と西郷を心から恨んだ島津藩主
 明治政府は、島津藩主島津久光の処遇に苦慮し、叙位・叙勲や授爵において最高級で遇したが、久光は、断髪廃刀令など明治政府の命令には一切従おうとしなかった。
 そして、大久保(利通)と西郷(隆盛)に騙されたと二人を呪いつづけた。
 それでも、明治政府は、明治20年、久光が亡くなると国葬をもって丁重に弔った。
 もう一人、明治政府が破格の扱いをした人物がいた。死の三年前、外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与された「グラバー商会」のトーマス・グラバーである。
 明治維新というクーデターは、この二人の存在を抜きには考えられない。
 徳川慶喜の大政奉還は、薩土盟約(武力倒幕の回避/1867年)の公武合体論にもとづいたもので、その裏にいたのが、島津斉彬と島津久光だった。
 島津藩と土佐藩は、王政復古後、摂関幕府を廃止したうえで「国家の意思は議事堂で決定されるべし」という国家新体制を提示して、明治維新の方向性を示した。
 この方針に反逆したのが、当初、公武合体論者で、そののち討幕派に転じた岩倉具視だった。
 岩倉は、薩摩藩の大久保と西郷を懐柔して、討幕戦争をけしかける。
 江戸攻撃は、勝海舟による江戸無血開城で、辛くも避けられたが、討幕軍の奥羽越列藩同盟とりわけ会津・庄内藩への攻撃はすさまじく、ジェノサイドの様相をていした。

 ここからが、明治維新の第二段階である。
 新政府の中心となった長州は、なぜ、あれほど戦争をしたがったのか。
 そして、なぜ、幕府軍を圧倒する戦闘能力をもっていたのか。
 長州軍は、薩摩経由で、アメリカ南北戦争の払い下げの新鋭銃(スナイドル銃・ミニエー銃・エンフィールド銃)を入手して、日本一の火器軍団になっていたからだった。
 長州征伐の余波で、長州は、幕府から武器の購入を禁止されていた。
 そこで、イギリスの「マセソン商会(グラバー商会)」は、薩摩の西郷隆盛や大久保利通、長州の高杉晋作、ハリー・パークス(イギリスの駐日公使)らをうごかして、仇敵同士の薩長をむすびつけた(薩長同盟/1866年)。
 長州に薩摩から武器を運びこみ、薩長連合の反政府軍をつくって、大規模な内乱をひきおこさせようというのである。
 それが、ヨーロッパ列強のアジア侵略の常套手段で、インドが好例だった。
 イギリスは、インド内戦の調停を装って、英軍と東インド会社を送りこんでインド全土を植民地化したのだった。
 マセソン商会は、その東インド会社の後継で、清国のアヘン市場を独占したばかりか、清国のアヘン輸出禁止令に対抗して大英帝国艦隊を清に展開させた世界的な悪徳コングロマリットである。
 そのマセソン商会が、長州五傑(井上馨や伊藤博文ら)の欧州派遣や薩摩藩のイギリス密航留学(五代友厚や寺島宗則ら19人)を斡旋している。
 薩長による反政府軍をつくる下心あってのことで、薩長連合は、ロンドンで原案がねられていたのである。
 薩長の密航留学生が学んだ政治手法が、一神教にもとづいた絶対主義国家の建設だった。
 一神教を天皇に置き換えるだけで、日本も、ヨーロッパのような絶対王権の国家がかんたんにできあがる。
 天皇を利用して、絶対王権的な帝国主義国家をつくるのが、薩長討幕派の狙いだった。
 島津久光が大久保と西郷に騙されたと地団駄を踏んだのは、大久保と西郷が藩論である「公武合体論」のためにはたらいていると思っていたからだった。
 ところが、薩長の討幕派は、外国勢力の手を借りて討幕にうごいていた。
 アメリカ南北戦争の払い下げ銃の供給をうけた薩長が、討幕にむかってつきすすんだのは、マセソン商会の思惑どおりで、大政奉還のおこなわれた1867年10月14日、薩長らに討幕の密勅が発せられた。
 岩倉具視の工作で、これに、大久保や西郷、薩長欧州留学組がのった。
 五代は、討幕の欧州留学組の一人である。
 久光は、五代にも騙されていたのである。
 その五代友厚やグラバーに利用されたのが、土佐脱藩組の坂本龍馬だった。
 坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)は、グラバー商会の斡旋で、薩摩藩名義で購入した武器を長州へ転売したほか、貿易や開運、航海術や海戦技術を養成して、長州軍とともに幕府軍ともたたかった。
 亀山社中は、薩長同盟に一役買ったほか、株式会社のモデル(土佐商会)となって、グラバーを顧問として迎えた岩崎弥太郎が、これを土台に、三菱郵便汽船(後の日本郵船)や三菱商事など三菱財閥をつくりあげた。
 ちなみに、竜馬の海援隊は「五代才助上申書(五代友厚)」にのっとったもので、竜馬は、グラバーや五代の隠れ蓑だったのである。
 竜馬の「船中八策」は、明治政府の「新政府綱領八策」「五箇条の御誓文」のほか、自由民権運動や大日本帝国憲法にまで影響をおよぼしたといわれる。
 現物は実在していないが、五代友厚のアイデアだったと思われる。
 八策目に「金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(金銀の交換レート法の改正)とあるが、竜馬に金銀レートにかんする知識はなかった。
 金銀レートの専門家といえば、のちに、金融界に転出して「金銀分析所」や「造幣寮」の設立した五代友厚である。
 孝明天皇の不審死と坂本龍馬の暗殺、そして、五代友厚の実業界への転出が明治維新の第3のターニングポイントである。
 維新後、明治天皇を担いだのが、孝明天皇が心から憎んだ長州だった。
 その長州が、徳川慶喜と京都守護職だった会津藩主・松平容保への敵意をむきだしにするが、孝明天皇がもっとも信頼を寄せていたのは、徳川慶喜と松平容保だった。
 岩倉具視が孝明天皇を毒殺して、公武合体論の竜馬を暗殺したという陰謀論がささやかれるのは、明治維新は、大政奉還後、天皇軍国主義というヨーロッパ型の帝国主義へまっしぐらにつきすすんでいったからだった。
 そのシナリオを書いたのは、維新十傑の大久保でも西郷でも、木戸孝允でも江藤新平でもない。高杉晋作でも坂本龍馬でも、吉田松陰でも佐久間象山でもない。
 天皇元首の大日本帝国憲法制定に執念を燃やし、59歳で死亡した(喉頭がん)岩倉具視だったのである。
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2021年03月22日

 天皇と民主主義 その9

 ●明治維新の立役者は五代友厚とグラバー
 岩倉具視が唱えた大政奉還≠ヘ、天皇大権の名目で国権を牛耳ろうとする謀略で、モデルは、王権神授説にもとづくヨーロッパの絶対王政だった。
 だが、日本には、ヨーロッパのように、天皇が、直接、民を支配した歴史的事実はない。
 大和朝廷は、天皇と豪族の連合政権で、皇親政治の天武天皇も、大宝律令の原形となる浄御原令(きよみはらりょう/681年)編纂を命じるなど、もとめたのは、律令体制だった。天皇政治をめざしたのは、後醍醐天皇の「建武の新政」だけだが、わずか数年で挫折している。
 権力を行使したのは、天皇から政治の実権をあずかった官僚で、聖徳太子の17条憲法は、官僚心得(行政法)だった。
「事を論ずるに……何事か成らざらん(第一条)」や「獨り斷むべからず必ず衆と與に論ふべし……(第十七条)」と、議論の重要性や独断の排除がくり返しのべられているのは、官僚が政治の実権を握っていたからである。
 17条憲法の議論重視の精神が反映されたのが「五箇条の御誓文(第一条/広く会議を興し、万機公論に決すべし)」で、近現代日本の議会制民主政治にもこれが受け継がれている。
 戦後、日本は、アメリカから民主主義を教えてもらって、よい国になったという左翼の言い分は、歴史を知らない者のたわごとで、日本には「事を論じて何事か成らざらん」や「万機公論に決す」という多数決にすぎない民主主義にまさる伝統的な政治形態があったのである。

 この政治理念を破壊したのが、岩倉具視の王政復古で、岩倉は、懐刀だった井上毅に天皇を元首とする明治憲法の基本構想をつくらせ、伊藤博文をドイツに派遣して、明治憲法起草の準備にあたらせた。
 昭和の軍国主義は、天皇を、法的には元首、精神論的には現人神に仕立てた天皇制ファシズム≠ナ、大東亜戦争だけで、300万人の兵士と国民が天皇絶対主義の下で死んでいった。
 日清・日露から大東亜戦争まで、世界戦争が可能だったのは、天皇が主権をもつ明治憲法下では、天皇の名で、好き放題に徴兵できるからだった。
 これに反発したのが、不平士族の乱で、辞官納地や秩禄処分などで収入源を断たれた上、徴兵令で、武士の誇りや特権を奪われて、士族が叛旗を翻さないわけはなかった。
 だが、これも、岩倉や大久保には、計算済みで、反乱鎮圧で、日本から武士がいなくなれば、封建体制が崩れて、ヨーロッパ化が一挙にすすむ。
 ちなみに、徴兵制度を採用して、日本の陸軍をつくった山縣有朋は、剣術を学ぶことをゆるされなかった足軽出身で、元帥になっても、腰からサーベルをぶらさげていた。
 日清・日露戦争に勝てたのは、軍隊の主力が、戦争のプロである武士だったからだが、大東亜戦争では、陸軍士官学校や海軍兵学校らのエリート(恩賜の銀時計や軍刀組)に軍の指揮をとらせた。
 武士がいなかったからで、インパール作戦の牟田口廉也、ノモンハン事件や島嶼作戦の辻政信、南方作戦の海軍左派(米内光政・山本五十六・井上成美)ら戦争のアマチュアは、東郷平八郎の助言を容れずに、本土防衛を疎かにして都市空襲や原爆投下を招き、日本を焼け野原にしてしまった。
 日本がこんな愚かな国になってしまったのは、明治維新が国家改造ではなく薩長のクーデターだったからである。

 このクーデターに深くかかわったのが、アヘン貿易で、大きな利益をあげた香港・上海「マセソン商会」とその日本支社の長崎「グラバー商会」だった。
 ちなみに、晩年、東京で過ごしたトーマス・グラバーは、1908年、外国人としては破格の勲二等旭日重光章を授与されている。
 明治維新における薩長政権樹立の最大の功労者が、このグラバーと薩摩藩の五代友厚だったことはほとんど知られていない。
 グラバー商会が、武器を売りつけた最大の取引相手が薩摩藩だった。
 そして、グラバー商会を相手にした薩摩藩の担当が五代友厚だった。
 五代友厚は、西郷隆盛や大久保利通と並んで「薩摩の三才」と呼ばれた。
 もっとも、下級武士の西郷や大久保よりも身分は上で、島津斉彬と島津久光の二代にわたって信任をえて、若い時代は、長崎に遊学して砲術、測量、数学などを学んだ。
 1862年、幕府が、各藩有志を乗船させ、上海に船を派遣した際、これにくわわって、同乗した長州藩の高杉晋作と意気投合、たちまち、肝胆相照らす仲となった。
 勝海舟は、島津斉彬に命じられて、長崎の幕府海軍伝習所で航海術を学んだ折の恩師で、島津両藩主からグラバー、西郷や大久保、高杉、グラバーをとおして坂本龍馬、そして、勝海舟と維新の雄との人脈がこうしてできていった。
 グラバー商会が、薩摩に売ったのが、アメリカ南北戦争で使われた銃だったことはすでにのべたが、アメリカから銃を大量に買い付けたのが英国の代表的な国際企業マセソン商会だった。
 マセソン商会は、井上聞多、伊藤博文ら長州五傑のロンドン留学を支援しているが、グラバー商会も、薩摩藩が、五代友厚ら3人の外交使節団と森有礼ら15名の留学生(遣英使節団)をイギリスに派遣した際、手引きをしている。
 長州五傑と薩摩藩士が、ロンドンで会合をかさねて、討幕の謀議をかさねていたのはいうまでもないが、これが、マセソン商会とグラバー商会が仕組んだ罠だったことに日本の歴史家はふれない。
 犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩をむすびつけた(薩長同盟)のは坂本龍馬ということになっているが、黒幕はグラバーで、当時、龍馬は、頻繁にグラバー邸を訪れて、資金援助を受けていた。
 龍馬率いる亀山社中(海援隊)が、薩摩藩名義でグラバー商会から購入した武器や軍艦などの兵器を長州へ転売したのも、グラバーの指図だった。
 五代友厚は、1864年、薩摩藩にたいして上申書を提出している。
「五代才助上申書」と呼ばれるもので、才助は友厚の幼名で、賢さに感心した島津斉彬のよる命名である。
 五代才助上申書にこうある。

(1)米・海産物などを上海に輸出し、これによって利益を得よ
(2)その利益で、製糖機械を購入し砂糖を製造、販売して収益を得よ
(3)砂糖輸出で得た収益で留学生を派遣、そして同行する視察員が軍艦、大砲、小銃、紡績機械を買い付けよ
(4)学校や病院、化学、印刷、鉄道、電話設備など産業革命の技術を学べよ

 坂本龍馬が作成したといわれる「船中八策」なる伝説(原本は存在せず)も五代友厚の作ではなかったかと思われる。内容が土佐藩脱藩志士の能力をこえていることにくわえ、そのなかにこんな一文があるからである。
 一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事
 幕末、日本から500万両の金が海外に流れている。
 マセソン商会の日本接近や黒船来航も、金をもとめてのことだった。
 金事情に詳しく、金の流失を悔しがったのが、のちに、金融界に転出して「金銀分析所」や「造幣寮」を設立した五代友厚だった。
 次回は、黄金の国ジパングと明治維新の関係についてのべよう。
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2021年03月15日

 天皇と民主主義 その8

 ●維新の2巨魁、岩倉具視と大久保利通
 明治維新が革命だったか、クーデターだったかという議論に、あまり意味はないだろう。
 明治維新は、政治的謀略だったからで、立案者は、公家の岩倉具視と薩摩の大久保利通だった。
 両名とも、当時から評判がわるく、岩倉には、孝明天皇の暗殺という風評が立ち、大久保は、士族の目から見れば「戊辰戦争」「士族の乱」をひきおこした大悪党だった。
 岩倉具視は、国葬第一号の超大物だが、公的な記録のほかに評伝がほとんどなく、自宅をやくざの賭場にしていたなどの悪評ばかりが残っている。
 大久保利通の暗殺(紀尾井坂の変)には、会津など旧奥羽列藩から実行犯の出身地、石川や島根、大久保の地元である薩摩の士族までがよろこび、薩摩への納骨がついに断念された(青山霊園に埋葬)ほどである。
 大久保は、佐賀の乱で、みずから鎮台兵を率いて鎮圧、首謀者の江藤新平ら13人を裁判抜きで処刑したばかりか、江藤を晒し首にして、その首を写真に撮って全国県庁に貼りだすというふるまいにでた。
 維新十傑の一人、かつての同志をこの扱いでは、西南戦争における西郷隆盛の場合も推して知るべしで、政府軍を指揮して、懸賞付きで西郷の首をもとめた。戦後、西郷の死を知って号泣したなどの話がつたわるが、すべて、のちの作り話である。

 岩倉具視は、国体を破壊して、大久保利通は、国家を毀損した。
 日本は、幕府(政体)と朝廷(国体)にもとづく「権力と権威」の二元論の伝統国家で、それが、当時、世界一の江戸文化を形成した最大の理由だった。
 岩倉と大久保がもとめたのは、天皇主権による絶対主義国家の建設だった。
 といっても、王権神授説にもとづくヨーロッパ的な王権国家をめざしたわけではない。
 天皇を政治利用して、薩長と公家の一部で、王政復古の名目で、専制国家をつくって、その権力をあやつろうという計略を立てたのだった。
 王政復古といっても、かつて、日本に王政などなかった。大和朝廷は天皇と豪族の連合政権で、天武・持統朝の皇親政治にしても、政治形態は、律令制であった。魏醍醐天皇の「建武の新政」に至ってはわずか数年で挫折している。
 国体を破壊したのが岩倉具視なら、政体をつくかえたのが大久保で、岩倉が天皇絶対主義を、そして、大久保は、内務省を設置して官僚機構の基礎をつくりあげた。
 王政復古の後、岩倉と大久保が画策したのが武士階級の廃絶だった。
 公武合体論で騙して、徳川慶喜に大政奉還(1867年)させたのち、版籍奉還(1869年)や廃藩置県(1871年)にもとづく辞官納地や秩禄処分などで武士の生活権を危機にさらして、廃刀令や徴兵令などによって、さらに旧来の特権を奪って、士族を追いつめたのである。
 岩倉と大久保のやり方は狡猾で、王政復古の後、徳川慶喜が出席していない小御所会議で、慶喜の辞官納地を主張した。
 新政府が、徳川慶喜を政権にくわえず、辞官納地を要求したことに、旧幕臣や幕藩士族らが憤激したのはいうまでももない。
 版籍奉還したのは、知藩事として、藩主が藩政を執ることをゆるされたからだった。ところが、その2年後の「廃藩置県」によって、県の政治は中央から送りこまれた役人(県令)にゆだねられることになって、藩主も藩士も権力や役職、収入を失うはめになった。
 徳川慶喜も全国の藩主、藩士も、岩倉具視に一杯食わされたのだった。
 慶喜は、1868年、旧幕兵や会津・桑名の藩兵を率いて、大坂から京都にむかう途上、薩長両藩を中心とする新政府軍と衝突して、ここに、戊辰戦争の火ぶたが切って落とされた。
 鳥羽・伏見の戦いで勝った新政府軍は、江戸へ引きあげた慶喜を朝敵として征討の軍をおこし、各地で旧幕府側の勢力を打ち破って、江戸に迫った。
「官軍」の名乗りと「錦の御旗」の前に戦意を失っていた慶喜は、恭順の意を示したため、新政府軍は戦うことなく江戸城を接収した。江戸城の無血開城の交渉は、1868年、新政府側を代表する西郷隆盛と旧幕府側を代表する勝海舟の間でおこなわれて、これで、政変は収束する方向へむかうはずだった。
 前年、すでに、大政奉還がおこなわれて、争いの種はなくなっている。

 ところが、ここからが岩倉と大久保の悪知恵で、日本は旧体制の破壊≠ニいう新しい局面へはいってゆく。
 岩倉と大久保が、フランス革命のロベスピエール、イギリス革命のクロムウェル、ロシア革命のレーニンとスターリンとなって、天皇軍事国家をつくってゆくのである。
 戊辰戦争をおこして、旧幕臣や奥羽越列藩を壊滅させた新政府軍が、つぎにもちだしたのが「版籍奉還」と「廃藩置県」だった。士族をおいつめて、1874年の佐賀の乱から神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、そして、1877年の西南戦争で、不平士族を一掃すると、徴兵令を敷き、日清・日露戦争の準備をすすめる。
 それにしても、幕府や列藩の軍隊は、なぜ、薩長軍に手も足もでなかったのであろうか。
 火器である。薩長の火器は、アメリカ南北戦争(1862〜1865年)で使用されたスナイドル銃やミニエー銃、エンフィールド銃が主力で、殺傷力がつよく、南北戦争では、約62万人の戦死者をだしている。
 アメリカから中古の銃を大量に輸入して、薩長に売りつけたのが、長崎県のトーマス・グラバー(「グラバー園」)で、その手先となったのが海援隊の坂本龍馬だった。
 長崎グラバー商会は、世界的財閥「ジャーディン・マセソン商会」(上海)の日本支社で、坂本龍馬のほか、五代友厚と岩崎弥之助とも親しく、五代ら十数名をイギリスに留学させている。
 マセソンが日本に目をつけたのは、日本の金で、当時、日本の金の産出量が世界の総産出量の3分の1を占めていたが、わずかの期間で、すべて流出している。
 次回は、明治維新の背後で、金をめぐってくりひろげられた国際陰謀についてのべよう。
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2021年03月08日

 天皇と民主主義 その7

 ●岩倉具視の謀略と公武合体論
 左翼は、明治維新が西洋の市民革命にあたるというが、当のイギリスやフランス、ロシアやアメリカで、はたして、その市民革命がおきたのだろうか?
 イギリス革命は、国王チャールズ1世を処刑した後、クロムウェルの独裁となって、王政復古後、ジェームズ2世を追放して、オランダから王妃と新王を迎えいれた。
 フランス革命は、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネット、その子らを処刑したロベスピエールの恐怖政治をへて、ナポレオンの軍事政権へ移っていった。
 ロシア革命は、ロマノフ王朝一族を処刑したのち、レーニンとスターリンの専制となって、粛清政治がおこなわれた。
 アメリカ革命は、ヨーロッパとりわけフランスの支援をえて、米大陸の13植民地が英国軍を破った事実上の全欧州による反英戦争にすぎなかった。
 これら政変の、どこで、市民が政治権力をにぎったろう?
 あったのは、権力の移動だけで、王権神授説にもとづいた君主権を否定した新しい権力が、人民代表を自称したにすぎない。
 革命政権が名乗ったのが民主主義≠ナ、伝統に代えて、人民の支持を権力の正統性としたのである。
 とりわけ、王政復古や独裁政治がなかったアメリカでは、民主主義を唯一の国家の背骨にすえなければならなかった。
 イギリスは議会、フランスは人権、ロシアはボリシェビキ(多数派)独裁を王権神授説に代わる政治の原理としたように、アメリカは、民主主義を国家の根幹としたのである。
 日本が憲法の国民主権を筆頭に、民主主義一辺倒なのは、戦後、アメリカの被占領国となったからで、右陣営の一部でさえ、憲法や民主主義を、第二の国体と心得ている者もいる。

 明治維新は、市民革命どころが、薩長土肥によるクーデターだった。
 暗躍したのが身分の低い公家ながら、孝明天皇の侍従に出世した岩倉具視と薩摩藩主島津久光の側近で、公武合体策をすすめた大久保利通だった。
 明治維新の核心は、岩倉と大久保がすすめた「大政奉還」と「王政復古」にあったのはいうまでもない。戊辰戦争以下、西南の役に至るまで、薩長の暴走もしくは怨恨で、維新の精神とは無縁の政争でしかなかった。
 明治維新のプランナーは、岩倉具視で、それにのせられたのが大久保や西郷隆盛だった。西郷は、西南の役で自刃する前に、徳川慶喜にすまぬことをしたと呟いたという。
 大久保や西郷が奔走したのは、薩摩藩の藩士として、藩主の島津斉彬の尊王攘夷や島津久光の公武合体論をささえる立場にあったからだった。
 尊王攘夷の尊王は、天皇を敬い、攘夷は、開国をもとめる外国を撃退しようとする思想である。
 ところが、その急先鋒だった薩摩と長州は、薩英戦争や下関戦争で外国船とたたかうものの、大砲の威力にちがいで圧倒される。
 すると、薩長は、あろうことか、尊王攘夷を捨てて、開国・倒幕へと方針を転換させる。
 だが、徳川は、すでに、大政奉還をきめていて、内乱の要素などなかった。
 このとき、岩倉は、徳川慶喜に大政奉還させ、しかるのちに、薩長に官軍を名乗らせて、幕藩体制をつぶそうという悪知恵をはたらかせる。
「公武合体」の立場をとっていた岩倉は、和宮親子内親王(孝明天皇の妹君)の14代将軍徳川家茂への降嫁を取り仕切って、これが、大政奉還の下敷きとなった。

 公武合体論は、欧米議会をモデルに、諸侯や有能な藩士を議員とする議会を中心とする画期的な国家構想で、坂本龍馬の「船中八策」や西周の「議題草案」津田真道の「日本国総制度」などもこれをとりいれ、当時、もっとも具体的な政権構想であった。
 徳川慶喜が大政奉還したのは、この新体制の「大君」の位置につけるという見通しがあったからで、大政奉還したその日に、岩倉具視が、薩長に「倒幕の密勅」を送りつけるとは夢にも思っていなかった。
 ところが、岩倉は、慶喜を騙したあと、公武合体論を返上して、戊辰戦争を工作する。そして、ヨーロッパの王権神授説を借りてきて、現人神による独裁国家を画策する。
 日本は、ゆたかな歴史や文化、伝統をもった武士の国から、国民皆兵の天皇の国となって、第二次大戦が終わるまで、この体制が維持される。
 岩倉具視の罪状を列挙すると以下である。
 
 1、大政奉還の工作と「倒幕の密勅」を偽造
 2、公武合体論の廃棄と討幕謀略
 3、「官軍」と」「錦の御旗」の偽造
 4、江戸城攻撃と戊辰戦争の工作
 5、天皇を国家元首とする国体の破壊
 6、辞官納地や秩禄処分などで不平士族の乱を招いた


 イギリス革命にはクロムウェル、フランス革命にはロベスピエール、ロシア革命にはレーニンやスターリンという悪役が登場したが、明治維新で登場したのは岩倉具視という悪で、岩倉には、孝明天皇や坂本龍馬の暗殺という容疑もかかっている。
 明治維新がブルジョア革命だったという左翼の言い分はとんでもない戯言だったのである。
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2021年03月01日

 天皇と民主主義 その6

 ●明治維新は革命かクーデターか
 明治維新は、革命だったのか、それとも、クーデターだったのか。
 この判定は、敗戦後のGHQ体制や戦後レジームの評価にもかかわってくる重大な問題である。
 左翼が明治維新を革命というのは、第二次世界大戦の敗戦を敗戦革命≠ニみてのことである。
 明治維新と先の敗戦を合わせて、レーニンのいう二段階革命がおきたといいたいのである。
 明治維新で封建体制を打ち破ったのちに、先の大戦に負けて、民主主義革命が実現されたという理屈である。 
 げんに、左翼や護憲派は、憲法学の宮沢俊義が唱えた「八月革命」論をいまなお信奉している。
 護憲派が八月革命論を支持するのは、憲法がそのバイブルになっているからである。
 日本の憲法では、国家主権が、すべて、国民主権にいれかわっている。
 これがフランス革命の「人権宣言」にあたると自画自賛する左翼もいるほどである。
 ちなみに、現行憲法には、国民と主権という文字が合わせて50回でてくるが、国家主権という文字は一度もでてこない。
事実上の国家主権である交戦権も否定されている。これは当然のことで、当時、日本は、被占領国で、武装解除されていた。
 したがって、1951年サンフランシスコ講和条約で日本が独立を回復した段階で、GHQ憲法を廃棄して、新憲法を制定すべきだった。
 ところが、左翼の抵抗と吉田首相が消極的だったこともあって、それができなかった。
 その意味で、現行憲法は、GHQではなく、左翼による押し付け憲法だったのである。

 左翼が、明治維新をブルジョワ革命とみるのは、封建体制が崩壊したとみるからである。
 代表的な論者が、大内兵衛や向坂逸郎ら労農派で、明治維新は不徹底ながらもブルジョア革命で、天皇はブルジョア権力にとりこまれたと論じた。
 これにいして、羽仁五郎ら講座派は、絶対的天皇制と封建性が残っているとして、革命論には立たなかった。
 だが、明治維新が、徳川幕府にたいする、薩長らのクーデターだったという見解をもつにはいたらなかった。
 戦後、羽仁五郎や遠山茂樹らマルキストの『明治維新』(岩波新書・書店)や『坂本龍馬と明治維新(ジャンセン)』、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が国民的ベストセラーになる一方、明治政権下の江戸幕府暗黒論がいきわたって、明治維新が輝かしい歴史的偉業ともてはやされた。
 明治維新は、徳川慶喜の協力で、わずか3年で達成されている。

 1867年 大政奉還 王政復古
 1868年 五箇条の御誓文
 1869年 版籍奉還(江戸城無血開城)


 明治維新は、徳川幕府と江戸300余藩が薩長土肥の下級武士による討幕の動きに応じて、早々に、政権返上を申し出たものである。
 それが、摂政や関白、幕府が権威である朝廷から権力をあずかる日本特有の政治機構で、徳川幕府もその伝統にしたがったのである。

 ところが、ここで、異変がおきる。
「大政奉還」がおこなわれた同年同日(1867年10月14日)、岩倉具視が「討幕の密勅」をデッチあげて、薩長に討幕をけしかけるのである。
 孝明天皇の徳川慶喜ににたいする信頼は厚く、大政奉還も、その信頼関係にもとづいたもので、慶喜にも、新体制の長に任じられるという自信があった。
 孝明天皇がきらっていたのは、むしろ、禁門の変で、京に火を放ち、御所に発砲した長州だった。
 その孝明天皇が、慶喜が大政奉還したその日、薩摩と長州に討幕の密勅≠発するわけがない。
 明治維新を倒幕運動へ変質させたのは、岩倉具視の謀略だが、その総仕上げとなったのが戊辰戦争だった。
 戊辰戦争は、新政府が、徳川慶喜を政権から排除して、辞官納地を要求したことにたいする旧幕臣や会津・桑名両藩士らの憤激を端に発する。
 慶喜は、1868年1月、旧幕兵や会津・桑名の藩兵を率いて京にむかったが、これを迎え撃ったのが、薩長両藩を中心とする新政府軍(官軍)であった。
「鳥羽・伏見の戦い」から戊辰戦争がはじまるが、これらの内乱と明治維新となんのかかわりもない。
 あったのは、薩長とりわけ「長州征伐」や「禁門の変」にたいする長州の遺恨だった。
 会津戦争における長州軍の強姦や強奪、無差別殺人、遺体の埋葬禁止などの残虐非道ぶりは、いまなお語り継がれているが、すべて、禁門の変で、京都守護役の会津藩(松平容保)に鎮圧された恨みである。
 現代でも、明治維新は、徳川を滅ぼして、近代をつくりあげた薩長の偉業ということになっている。
 次回以降、薩長政権の虚構と謀略にふれつつ、天皇を政治利用した明治維新の実体に迫っていこう。
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2021年02月22日

 天皇と民主主義 その5

 ●民主主義と共産主義は双子の兄弟
 戦後、民主主義を最大限に利用したのが、左翼であった。
 大内兵衛と向坂逸郎、羽仁五郎の御三家は、教祖的なマルクス学者で、その下で、おびただしい数のマルクス主義者が教壇や学会、政界や官界、法曹界やマスコミへ送り出された。
 憲法学の重鎮、宮沢俊義もその一人で、ポツダム宣言受諾によって、日本に革命がおきて、主権が天皇から国民に移ったとする「八月革命」を主唱した。
 そのバイブルが日本国憲法で、左翼や護憲派が憲法を革命の聖典≠ニしてあがめるゆえんである。
「日本は戦争に負けて民主主義のよい国になった」という民主主義賛歌≠吹聴したのも、マルクス主義者で、それが、のちの「自虐史観」や反日主義へつながっていった。
 マルクス主義者は、なぜ、かくも、民主主義をもちあげるのか?
 理由は、共産主義と民主主義が「一卵性双生児」だからである。
 生みの親は、ともに、ルソーの一般意志≠ナある。
「個人の主権」を一本にまとめて「国民主権」としたのが一般意志である。

 国民には主権があるとおだてあげる。
 だが、その主権は、一人ひとりにではなく、全体にあたえられるものである。
 国民全体は、議事堂に入りきれないから、という理屈である。
 そして、一般化されたその国民主権≠為政者があずかる。
 いったん、この国民主権をあずかったら、独裁体制にしようと、大統領制にしようと、あるいは、議会主義にしようと、為政者の勝手である。
 これがルソーの詐欺まがいの論法で、この理屈にのって、フランスで革命がおきた。
 国民主権をあずかったとするジャコバン派がルイ16世とマリー・アントワネットの首をギロチンで落としたのである。
 マルクスの共産主義は、ルソー主義にユダヤの経典「タルムード」を足した代物で、ロシア革命のレーニンはこれを掲げて、ボリシェビキ(多数派)独裁を断行した。
 ジャコバン派の暗黒政治も、ボリシェビキの恐怖政治も、多数派による人民独裁で、民主主義を謳っている。

 日本国憲法の国民主権も、ルソー主義で、国民総体あたえられた主権である。
 ところが、日本人の半数以上が、一般化という概念を理解できずに、国民のひとり一人に主権があると思いこんでいる。
 主権は、君主権(ソブリンティ)なので、それでは、国民が、全員、王様になってしまう。
 国民主権を、独裁者があずかるのが人民独裁で、中国も北朝鮮も、人民政府である。中華人民共和国は、憲法と共産党規約で、朝鮮民主主義人民共和国は「党の領導」で、それぞれ独裁≠明記している。
 国民主権を、内閣や議会があずかるのが議会民主主義で、イギリスや日本の立憲君主制がこれにあたる。国民の主権を、大統領があずかるのがアメリカやロシアの大統領民主主義で、フランスやドイツ、イタリアなどは、その中間をとった半大統領制である。
 
 日本の左翼は、日本でも、かつて、市民革命がおきたと主張する。
 明治維新は、不徹底とはいえ、ブルジョア革命で、天皇は、革命勢力(薩長下級武士)に担がれたというのである。
 そして、第二次大戦の敗戦によって、アメリカから民主主義がはいってきて「敗戦革命(レーニン)」が実現した。
 マルクス・レーニン主義における「二段階革命論」である。
 まず、ブルジョア民主主義革命(明治維新)で、封建制度を廃止する。
 そののち、発達した資本主義をひっくり返して共産主義革命(敗戦革命)が実現されるという理屈である。
 戦後、左翼や反日勢力、護憲派らが民主主義をもちあげてきた理由がこれである。
 民主主義という伝家の宝刀を使えば、伝統破壊の市民革命から、体制転覆の共産主義革命まで、思いのままというわけである。
 左翼や反日勢力、GHQの恩恵をうけた敗戦利得者やマスコミが民主主義に入れあげるのは、革命を欲しているからで、一応、うなずける。
 わからないのが、保守政党たる自民党が、民主主義をもちあげる精神構造である。
 戦後、GHQ旋風が吹き荒れるなか、日本の保守政党が自由や民主を謳ったのはやむをえなかったろう。
 だが、多数決の原理と普通選挙法、一般化された国民主権をさすにとどまる民主主義を政治信条とするのはいかがか。
 日本の保守政治家は、保守思想や伝統主義について、無知なのではないかと疑わしい。
 次回以降、保守思想と伝統主義について、思うところをのべよう。
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2021年02月15日

 天皇と民主主義 その4

 ●西洋「500年の抵抗史」と民主主義 
「二重革命」なることばがある。フランス革命とイギリスの産業革命を一連の動きとしてとらえたもので、これにアメリカ革命をくわえて「大西洋革命」という呼び方もある。
 この大西洋革命に連動したのが日本の明治維新である。以下、時系列を示す。

 1775〜1783年/アメリカ革命(アメリカ独立宣言)
 1789〜1794年/フランス革命(フランス人権宣言)
 1807年/フルトン(アメリカ)が蒸気船を発明
 1830年/スティーヴンソン(イギリス)が蒸気機関車を実用化
 1853年/ペリー来航
 1858年/大政奉還・日米修好通商条約の締結
 1867年/パリ万国博覧会に日本が参加(参加国42国)
 1868年/戊辰戦争・五箇条の御誓文
 1872年/日本で鉄道敷設(1890年までに線路の総延長2250km)
 1880年/日本の主要都市で電信連絡網完成
 1889年/大日本帝国憲法公布


 フランス革命から明治維新までちょうど百年で、このかんに市民革命と産業革命、そして、極東日本の明治維新と近代化が同時進行した。
 蒸気船ができて50年もたたないうちに、ペリーが、その蒸気船(黒船)を率いて浦賀に来航。西洋で蒸気機関車が実用化された60年後、日本で鉄道の敷設総距離が2250kmにたっした。 
 日本は、開国後、半世紀おくれて、ヨーロッパの産業革命をとりいれたことになるが、これは、絶好のタイミングだったといえる。
 というのは、産業革命以前のヨーロッパから学ぶべきものはなにもなかったからで、文明や文化、民度のいずれも、日本のほうが上だった。
 一方、産業革命のあとでは、近代化した欧米から武力侵略をうける可能性があった。
 げんに、日英同盟(1902年)の直後、モロッコ事件など、ヨーロッパ列強による市場争奪戦がひきがねになって、第一次世界大戦(1914年)がおきている。

 西洋の近代は、フランス革命から一世紀もさかのぼるイギリスの清教徒革命(1642年)と名誉革命(1688年)にはじまる。
 フランス革命では、ルイ16世が王妃のマリ=アントワネットとともに処刑されたが、イギリスのピューリタン革命でもチャールズ1世が処刑されている。
 英仏とも王政復古して、イギリスは立憲君主制、フランスは共和政へ移ったが、ともに、歴史の連続性を断ち切った革命国家だったことは、否定できない。
 ここで、英仏と日本のさかさまの構図≠ェうきあがってくる。
 英仏が、絶対王政を倒して、民主主義をとったのにたいして、日本は、幕藩体制を捨てて、絶対天皇をとったのである。
 権力の政治利用だったにしろ、権威だった天皇が、突如、統治権を総攬して統帥権をもつ権力者として登場してきた。
 絶対王政やキリスト教会の強権を打破して、個人や自由、平等という価値を手に入れたヨーロッパにたいして、日本は「君民共治」という理想的な政治を捨てて、天皇制ファシズムという全体主義へむかったのである。

 戦後、左翼やリベラルは、民主主義を、人類が最後にたどりついた理想的な政治形態、文化様式であるかのように吹聴してきた。
 そして「日本人は民主主義をわかっていない」とこきおろしてきた。
 だが、西洋人も、民主主義を「ファシズムよりはマシ」(チャーチル)ほどの認識しかもっていない。
 それでは、なぜ、西洋人は、民主主義を必死にまもろうとするのであろうか。
 それには、ルネサンスから宗教改革、啓蒙時代へいたるヨーロッパ500年の歴史に目をむけなければならない。
 絶対王政とローマ教皇庁の強権下にあった「暗黒の中世」において、家畜のようなあつかいをうけていた民衆が、人間としての生き方や自由をもとめたのが、14〜16世紀のルネサンスだった。
 これに宗教改革がからんで、当時、多くの人命が失われた。「30年戦争」の犠牲者は、ドイツだけでも800万人にもおよび、ペストの流行とあいまってヨーロッパの人口は減少へむかったほどだった。
 17〜18世紀の啓蒙時代は、聖書や神学から、ヒューマニズムや理性へとむかう近代の入口であったが、ここでも、宗教の迷妄から逃れようとする多くの先進的な人々が異端裁判によって虐殺された。
 そして、500年にもわたる抵抗の末に、市民革命がおきて、ヨーロッパの人々は、権力の奴隷や神のしもべから、ようやく、人間となった。
 その象徴が、革命のスローガンとなった民主主義だった。

 民主主義は、多数決の原理と「普通選挙法」以外のなにものでもない。
 そう問うと、西洋人は「われわれが500年をかけてもとめてきたのは民衆(デモス)の力(クラトス)だった」と答えるだろう。
 民衆の暴力(デモス クラトス)が民主主義(デモクラシー)の語源である。
 民主主義の思想がすぐれていたのではなく、絶対権力を倒すには民衆の暴力≠ノ頼るほかなかったのである。
 クラトスという暴力が多数決へにおきかえられて、王を処刑するクラトスが実行に移された。
 クラトスは、正義ではなく、強さや力、勝利や暴力をさすことばである。
 日本人は、民主主義が唯一の希望となるような暗黒の歴史をもっていない。
 それでいながら、民主主義をもちあげるのは、公正や正義という意味を嗅ぎとっているのであろう。
 だが、民主主義に、そんな意味合いはまったくない。
 左翼は、日本が戦争に負けて、戦後、アメリカから民主主義がはいってのである。
 次回は、左翼リベラルと民主主義の関係についてさらに考えてみよう。


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