●日本の数十倍の核処理水を放流している中国と韓国
福島第一原発処理水の海洋放出にたいして、中国政府と韓国の野党が激しく反発している。
中国も韓国も、一応、近代科学力を有する文明国家なので、福島第一原発の処理水が放射性物質の国際基準値を大きく下回っているという事実を認識できないはずはない。
福島第一原発の場合、事故後、放射性物質の基準値が10倍にはねあがって約22兆ベクレルになったが、それでも、中国の五分の一、韓国の半分以下でしかない。中国や韓国が日本の数字に騒ぎまわっては、かえって、じぶんたちの墓穴をほることにならないか。
中韓は、日本が、ALPUSで処理する以前の汚染水をいっしょに流しているという非難をくり返すが、かれらは、どうやら、ALPUSを機械や設備などと思っているようだ。ALPUSは、放射性物質を除去するシステムのことで、ALPUS(アドバンスド リクイド プロセッシング システム)は、そのシステムの名称の頭文字である。
ALPUS処理水は、放射性物質がふくまれる汚染水を薬液による沈殿処理や吸着材による吸着など化学的・物理的性質を利用した処理方法で、トリチウムを除く62種類の放射性物質を規制基準以下まで浄化処理した水のことである。
トリチウム(三重水素)が除去できないのは、無害な自然物質に還元されてしまうからで、自然界で、三重水素は一般的な物質である。日本で除去技術がほぼ完成しているが、国が補助金をださなかったのは、除去の必要がないからだった。
それでも日本は、トリチウムの安全基準の40分の1(WHO飲料水基準の約7分の1)まで海水で薄めて放出している。
日本の福島第一原発で検出された数値は約22兆ベクレルだが、各国の原発関連施設から排出される処理水のベクレルは以下のとおりである。
英国・セラフィールド原発 約1624兆ベクレル
カナダ・ブルース原発 約756兆ベクレル
カナダ・ダーリントン原発 495兆ベクレル
英国・ヘイシャム原発 約396兆ベクレル
中国・泰山第三原発 約143兆ベクレル
中国・陽江原発 約112兆ベクレル
中国・寧徳原発 約102兆ベクレル
中国・紅沿河原発 約90兆ベクレル
米国・ディアプロ原発 約82兆ベクレル
韓国・ウォルソン原発 約71兆ベクレル
中国・福清原発 約52兆ベクレル
韓国・古里原発 約50兆ベクトル
仏国・トリカスタン原発 約42兆ベクレル
原発のトリチウム排出量は大きくないが、再処理施設ではケタ違いで、フランスのラ・アーグ再処理施設では、1京1624兆ベクレルものトリチウムが空中放出あるいは海洋放流されている。
これまで、トリチウム排出が大きな問題になってこなかったのは、人体への影響が確認されなかったからで、原子力施設から排出されるトリチウムと自然界に存在する放射性物質とのあいだに構造的なちがいはない。
したがって、中国や韓国も、これまで、トリチウムの有害性を語ったことはいちどもなかった。
●中・韓の論理破綻と妄想、狂気の沙汰
中国や韓国が福島第一原発の処理水を非難するのは、日本政府が国際原子力機関(IAEA)をダマして、高濃度の放射能汚染水を海に流しているというデマを信じているからで、日本でも、共産党の小池晃書記局長や山本太郎のほか立憲民主党の一部がこのデマの発信元になっている。
中国は、日本海産物の全面禁輸をきめたが、たちまち、塩の買い占め騒動がおきたほか、中国の水産業も壊滅状態に陥った。
塩を買い占めしたのは、猛毒の日本の原発処理水が海流に乗って中国近海へ侵入してくると中国の塩まで汚染されると信じこんでいるからで、この論理に従えば、中国沿岸・近海での漁業は不可能になる。
中国政府は、中国人は韓国人とちがって理性的なので、こんなばかな話は信じてはならないとアナウンスしているが、日本海産物の全面禁輸をしておいてそれはないだろう。
一方、韓国では、野党やマスコミ、学会こぞってこのばかばかしい話を、連日、吹聴してまわっている。
韓国与党「国民の力」は「日本の処理水を飲むよりうんちを食べたほうがマシ」などと発言した「共に民主党」の3人の国会議員を品位維持義務に違反したとして、国会倫理特別委員会に提訴した。
「共に民主党」の支持率が急落したのは当然だが、一方、日本の処理水放流に理解をしめした尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領(「国民の力」)の支持率に変化はなかった。
韓国の最大野党「共に民主党」や労組、新聞マスコミは、親北朝鮮で、与党「国民の力」の打倒に血眼だが、韓国地検は「共に民主党」の李在明代表が北朝鮮への不正送金にかかわっていたとして出頭命令をだしている。北朝鮮とツーカーの仲で、ほとんど一心同体の韓国左派が、検察に叩かれて、衰退すれば、韓国も付き合いやすくなるのである。
韓国もようやく国家理性にめざめて、反日感情と現実政治の仕分けができるようになりかけているが、日本政府は、この流れをささえてゆくべきだろう。
●中国共産党幹部1200兆円の不正蓄積問題と日本の処理水の関連
中国の処理水放流への反発は、韓国とはちがって、政治目的がはっきりしている。
国内に50基以上あって、現在、30基近く建造中の原発は、いずれも100兆ベクレル以上のトリチウム垂れ流し構造である。
いったいどんな神経で22兆ベクレルの日本の処理水放流を非難するのか。
しかも、福島沖の太平洋に海流が日本海や南シナ海、東シナ海の合流するのは3〜10年後で、そのとき、日本の処理水の濃度は、ゼロに下がっている。
中国政府(中国共産党)がそんなことを知らないはずはないが、中国共産党にとって、じつは、日本の処理水放流は、国民の目を内政から逸らさせるネタでしかなかった。
というのも、中国経済は、現在、建国以来の国家的危機に瀕しているからである。
中国不動産大手の恒大集団や碧桂園のデフォルトが象徴する不動産バブルの崩壊は、日本でいう総量規制である「三条紅線」が原因といわれる。
だが、その根本原因は、そんななまやさしいものではない。
もっと根が深く、中国のバブル崩壊の原因となったのは、いままで隠されてきた浮財(中国共産党幹部の蓄積資産)*竭閧ノある。
中国は、革命をおこして、土地をすべて中国共産党が地主からとりあげた。
それが1200兆円あって、すべて、共産党幹部(100人)に着服されてスイス銀行に預けられている。
永世中立国のスイスがこの情報をアメリカに流したのは、反中国という旗幟を鮮明にしたからで、共産党員の氏名が公表されると、中国政府の実体である中国共産党は大パニックに陥る。
日本のバブル崩壊は100兆円レベルだったが、中国のバブル崩壊は日本の十倍以上で、これは、中国共産党幹部が盗んだ1200兆円にほぼ匹敵する。
この事実が中国国内で公になれば、共産党批判がおきるのはまちがいないので、中国共産党は、その火消しのために、日本の処理水放流への反発を国民に煽っているのである。
中国経済がバブル崩壊しなかったのは、事実上、MMT(現代貨幣理論)にのってきたからで、ロシアが経済破綻もせずにウクライナ戦争を続けられるのも同じ原理である。
MMT理論は、国家が存続するかぎり無限に自国通貨を発行でき、インフレ率を見て自由に支出をおこなえるというもので、税は、財源ではなく、通貨を流通させる仕組みにすぎない。
中国の一帯一路は、MMT理論そのもので、無尽蔵に元紙幣を刷りまくっても、経済成長すれば、マネーサプライと経済力、購買力がささえあって経済は永続的に発展する。
その中国経済がつまずいたのが、資金枯渇と実体経済(雇用)の衰弱だった。
中国のバブル崩壊は、日本のバブル崩壊の比ではなく、この危機をのりこえるために中国共産党は、台湾侵攻という劇薬に手をのばすだろう。
次回は、この問題をさらに煮詰めて、台湾危機や、中国と韓国野党の対日謀略の実態を暴いていこう。
2023年09月03日
2023年08月27日
「自由主義」と「民主主義」の相克と調和17
●LGBTブームに冷や水を浴びせた猟奇殺人事件
札幌・すすきのホテルで首なしの死体がみつかった事件は、近年まれにみる猟奇殺人事件としてテレビで大騒ぎになったが、被害者が女装趣味のLGBTの男性と分かって、以後、テレビはピタリと報道をやめてしまった。
これまでテレビは、LGBTに同情的、共感的だったが、LGBTがらみの殺人事件となれば、そうともいかなくなる。LGBTの醜い部分や反社会的な要素にもふれなければならなくなるが、マスコミにそんな覚悟はなかったのである。
もう一つ不都合なことは、一部識者が危惧して、マスコミがデマとしてきた女性トイレのLGBTへの解放が、事件に小さからぬ影響をもっていたことがわかったからで、これも、マスコミが事件の黙殺する理由の一つとなっているだろう。
会員制バーなどの常連だった被害者が、女子トイレへ居座ったのは、悪酔いした女性を介抱して、そのままラブホテルつつれこむためだった。女子トイレでの居座りを従業員から注意されると『ここはジェンダーを差別する店なのか!』と食ってかかる始末で、従業員は、女装して来店するジェンダー客への配慮もあって、対応に苦慮したという。
マスコミは右翼や保守論客が「トイレで女性が襲われる」などの差別デマを吹聴しているとして批判してきたが、今回の事件によって、その保守論客が心配していたとおりのことがおきていたことがわかったわけで、マスコミはぐうの音もでない。
トランスジェンダーの経産省職員が、女性用トイレの使用を制限されていた件で、最高裁が「トイレの使用制限をみとめた国の対応は違法」という判決を下して、これを、八木秀次や百田尚樹、門田隆将らが批判したのは、日本人の常識をふまえれば当然のことである。
これにくってかかったのが元SM嬢にして作家の泉美木蘭で、小林よしのりライジングというメルマガで、八木秀次や百田尚樹、門田隆将らに罵声を浴びせかけて、多くのメディアやSNSがこれにやんやの喝采を送った。
現在の風潮は、差別される被害者のLGBTに同情的、共感的であることが善で、毛嫌いする者は、時代遅れの悪となっている。したがって、多くの日本人は先を争うようにLGBTびいきになって、百田尚樹にような古いタイプの日本人を化石扱いにして得意になっている。
●アメリカ民主党の気候危機説とLGBT革命
世界的なLGBTブームをひきおこしたのは、地球温暖化対策や脱炭素をうったえてきたアメリカ民主党で、一方、共和党はLGBTなどにはまったく関心がない。
アメリカは、共和党と民主党で、国論が真っ二つに割れていて、とても一つの国など思えない。バイデン率いる民主党は「気候危機説」を唱え、脱炭素に熱心だが、共和党は「人類が絶滅する」という調子の民主党の気候危機説などぜんぜん信じていない。
経済や安全保障を犠牲にする極端な脱炭素政策にも反対している。
「気候危機説」は、北極・南極の氷河の半分が解けて海面が上昇、多くの国や地域が水没するとうったえるが、淡水は、地球上の水の3%で、半分が氷河である。1・5%の氷河が半分解けてもわずか0・7%増で、海面にほとんど変化があらわれない。
気候危機説をめぐって、欧米で過激な自然保護団体がテロ活動をおこなっているが、かれらの主張は、大半が極端な誇張で、虚偽や誤認も少なくない。
典型がゴア元副大統領の「地球温暖化問題(ノーベル平和賞)」だが、トランプは「地球温暖化は嘘っぱち」と叫んで、大統領に当選した。
ところで、なぜ、民主党は、共和党が同調できない争点を次々ともちだしてくるのであろうか。
民主党が共和党に比べて、立脚基盤がぜい弱なのにくわえ、支持者が革命的でセンセーショナルな訴求に敏感なリベラル派だからで、今回のLGBTでも騒いでいるのは一部の民主党支持者だけである。
一方、共和党を支持しているのは「保守派」と呼ばれる人たちで、アメリカ西部の農業地帯や南部の州に支持者が多く、奴隷解放の初代大統領リンカーンがシンボル的な存在である。
共和党の支持者は、白人や敬虔なキリスト教徒をはじめ、石油産業、自動車産業、軍事産業などの軍産複合体や大企業、全米ライフル協会、ウォール街の金融業などに多く、いわば、アメリカ魂につらぬかれた政党といえる。
決定的な支持基盤をもたない民主党は、共和党の失政に乗じて政権をとってきた経緯があって、その代表が、1929年の大恐慌のあとに登場したルーズベルトだった。
民主党を支持しているのは、ニューヨークやロサンゼルス、サンフランシスコなど海岸部や都市部在住の「リベラル派」と呼ばれる人々で、IT企業従事者やインテリ層、女性などのほか、性的マイノリティや労働者階級、環境保護団体、公民権運動団体、有色人種などが多い。
民主党支持者に「リベラルな風潮を好む」「多様性を尊重する」などの共通点があって、これが限りなく社会主義に接近して、保守主義との溝を深めているのは、ルーズベルト以来の伝統である。
●日本を敵対視してきたアメリカ民主党
アメリカ民主党が日本を敵視あるいは蔑視してきたことを日本人は知らない。
議会をとおさない対日最後通牒(「ハルノート」)をつきつけ、12万人もの日系人を強制収容所に拘束したルーズベルトは「ポツダム宣言」を日本につきつける前にすでに原爆投下の書類にサインしていた。
そして、後任のトルーマンは原爆投下を命じるのにまったく躊躇がなかったという。
2人とも中国びいきのばりばりの民主党員で、朝鮮戦争の折、原爆の使用を提案したGHQ(連合国軍総司令部)最高司令官マッカーサーを解任している。
日本人の大量虐殺はよいが、中国人の大量虐殺はノーという論理である。
パリ講和会議(1919年)で、日本は「国際連盟規約」に人種差別撤廃を明記するべきと発議して、多数決で日本案がとおったが、議長をつとめていたアメリカ大統領のウィルソンは「全員一致が条件」と難癖をつけて、日本案を否決した。
ウィルソンも民主党で、国際連盟の創設に尽力してノーベル平和賞をうけた国際派とあって、日本には冷淡そのものだった。
民主党のクリントンも「日米包括経済協議」「ジャパン・パッシング」(日本無視政策)で知られる反日的な政治家で、2016年のアメリカ大統領選挙で夫人のヒラリー・クリントンがトランプに勝っていたら、日本は、窮地に追いこまれていたはずである。
大統領就任後の初のアジア訪問は、中国と韓国で、日本は入っていなかったからで、両クリントンにとって、日本は、中韓に次ぐ第三の国で「東アジアの緊張を高める存在であってはならない」くらいの認識しかもっていなかった。
民主党が反日的なのは、革命政党にとって、伝統国家は嫌悪と侮蔑の対象でしかなかったからだった。
●民主党のリベラル・デモクラシーとLGBT革命
反日的な民主党にたいして、共和党は、ペリー提督を日本に派遣したフィルモア大統領から、日露戦争の講和を日本に有利に斡旋して、ノーベル平和賞をもらったセオドア・ルーズベルトまで親日的で、マッカーサーも共和党寄りでなかったら占領政策はもっと過酷なものになっていたはずである。
日本のメディアが、ニューヨークタイムズと提携関係にある朝日新聞を筆頭にして、こぞって民主党寄りなのは、日本に冷淡で批判的だからで、じぶんの国をわるく書くことが身上の大新聞にとって、引用しやすい情報源なのである。
日本のメディアがCNNやニューヨークタイムズばかりとりあげるのは左翼的だからで、大方の日本人は、フォックスニュース、ブライトバートなど共和党寄りのメディアの名前すら知らない。
日本の大手メディアは、民主党寄りのメディアの情報を垂れ流しているだけなので、日本人が知ることができるのは、つねに、アメリカという国の半分に限られる。
アメリカ民主党が「現在のままでは人類が絶滅する」として、気候危機説を唱え、脱炭素に熱心なのは、民主党の考え方に現状を変える≠ニいう過激な革命思想があるからで、これに、LGBTがくっついて、LGBT革命というべき風潮がつくりだされた。
性の自己同一性を、じぶんの意志で変更することは、生物にとって、究極の革命で、出産や育児、教育が放棄された世界は、希望なき暗黒社会というほかない。
だが、性差や性役割をうけいれらない人々にとって、天国である。
民主党は、性の自己決定ができない社会は、革命をおこして、変えるべきだというが、アメリカ民主党の目的は、性の解放ではなく、あくまで革命にある。
革命政党である民主党は、伝統的な価値観をみとめることができないばかりか、これを悪として断罪しようとする。
日本のLGBT騒ぎを煽ったエマニュエル駐日大使もシカゴ市長からオバマ大統領の首席補佐官などを歴任した民主党員で、バイデン大統領の肝いりで駐日アメリカ大使に就任した。
そして、リベラル・デモクラシーやLGBT革命を叫ぶが、アメリカよりも文化的な日本で、アメリカ民主党の言辞にダマされるのは、アメリカに洗脳されているおばかさんたちだけである。
札幌・すすきのホテルで首なしの死体がみつかった事件は、近年まれにみる猟奇殺人事件としてテレビで大騒ぎになったが、被害者が女装趣味のLGBTの男性と分かって、以後、テレビはピタリと報道をやめてしまった。
これまでテレビは、LGBTに同情的、共感的だったが、LGBTがらみの殺人事件となれば、そうともいかなくなる。LGBTの醜い部分や反社会的な要素にもふれなければならなくなるが、マスコミにそんな覚悟はなかったのである。
もう一つ不都合なことは、一部識者が危惧して、マスコミがデマとしてきた女性トイレのLGBTへの解放が、事件に小さからぬ影響をもっていたことがわかったからで、これも、マスコミが事件の黙殺する理由の一つとなっているだろう。
会員制バーなどの常連だった被害者が、女子トイレへ居座ったのは、悪酔いした女性を介抱して、そのままラブホテルつつれこむためだった。女子トイレでの居座りを従業員から注意されると『ここはジェンダーを差別する店なのか!』と食ってかかる始末で、従業員は、女装して来店するジェンダー客への配慮もあって、対応に苦慮したという。
マスコミは右翼や保守論客が「トイレで女性が襲われる」などの差別デマを吹聴しているとして批判してきたが、今回の事件によって、その保守論客が心配していたとおりのことがおきていたことがわかったわけで、マスコミはぐうの音もでない。
トランスジェンダーの経産省職員が、女性用トイレの使用を制限されていた件で、最高裁が「トイレの使用制限をみとめた国の対応は違法」という判決を下して、これを、八木秀次や百田尚樹、門田隆将らが批判したのは、日本人の常識をふまえれば当然のことである。
これにくってかかったのが元SM嬢にして作家の泉美木蘭で、小林よしのりライジングというメルマガで、八木秀次や百田尚樹、門田隆将らに罵声を浴びせかけて、多くのメディアやSNSがこれにやんやの喝采を送った。
現在の風潮は、差別される被害者のLGBTに同情的、共感的であることが善で、毛嫌いする者は、時代遅れの悪となっている。したがって、多くの日本人は先を争うようにLGBTびいきになって、百田尚樹にような古いタイプの日本人を化石扱いにして得意になっている。
●アメリカ民主党の気候危機説とLGBT革命
世界的なLGBTブームをひきおこしたのは、地球温暖化対策や脱炭素をうったえてきたアメリカ民主党で、一方、共和党はLGBTなどにはまったく関心がない。
アメリカは、共和党と民主党で、国論が真っ二つに割れていて、とても一つの国など思えない。バイデン率いる民主党は「気候危機説」を唱え、脱炭素に熱心だが、共和党は「人類が絶滅する」という調子の民主党の気候危機説などぜんぜん信じていない。
経済や安全保障を犠牲にする極端な脱炭素政策にも反対している。
「気候危機説」は、北極・南極の氷河の半分が解けて海面が上昇、多くの国や地域が水没するとうったえるが、淡水は、地球上の水の3%で、半分が氷河である。1・5%の氷河が半分解けてもわずか0・7%増で、海面にほとんど変化があらわれない。
気候危機説をめぐって、欧米で過激な自然保護団体がテロ活動をおこなっているが、かれらの主張は、大半が極端な誇張で、虚偽や誤認も少なくない。
典型がゴア元副大統領の「地球温暖化問題(ノーベル平和賞)」だが、トランプは「地球温暖化は嘘っぱち」と叫んで、大統領に当選した。
ところで、なぜ、民主党は、共和党が同調できない争点を次々ともちだしてくるのであろうか。
民主党が共和党に比べて、立脚基盤がぜい弱なのにくわえ、支持者が革命的でセンセーショナルな訴求に敏感なリベラル派だからで、今回のLGBTでも騒いでいるのは一部の民主党支持者だけである。
一方、共和党を支持しているのは「保守派」と呼ばれる人たちで、アメリカ西部の農業地帯や南部の州に支持者が多く、奴隷解放の初代大統領リンカーンがシンボル的な存在である。
共和党の支持者は、白人や敬虔なキリスト教徒をはじめ、石油産業、自動車産業、軍事産業などの軍産複合体や大企業、全米ライフル協会、ウォール街の金融業などに多く、いわば、アメリカ魂につらぬかれた政党といえる。
決定的な支持基盤をもたない民主党は、共和党の失政に乗じて政権をとってきた経緯があって、その代表が、1929年の大恐慌のあとに登場したルーズベルトだった。
民主党を支持しているのは、ニューヨークやロサンゼルス、サンフランシスコなど海岸部や都市部在住の「リベラル派」と呼ばれる人々で、IT企業従事者やインテリ層、女性などのほか、性的マイノリティや労働者階級、環境保護団体、公民権運動団体、有色人種などが多い。
民主党支持者に「リベラルな風潮を好む」「多様性を尊重する」などの共通点があって、これが限りなく社会主義に接近して、保守主義との溝を深めているのは、ルーズベルト以来の伝統である。
●日本を敵対視してきたアメリカ民主党
アメリカ民主党が日本を敵視あるいは蔑視してきたことを日本人は知らない。
議会をとおさない対日最後通牒(「ハルノート」)をつきつけ、12万人もの日系人を強制収容所に拘束したルーズベルトは「ポツダム宣言」を日本につきつける前にすでに原爆投下の書類にサインしていた。
そして、後任のトルーマンは原爆投下を命じるのにまったく躊躇がなかったという。
2人とも中国びいきのばりばりの民主党員で、朝鮮戦争の折、原爆の使用を提案したGHQ(連合国軍総司令部)最高司令官マッカーサーを解任している。
日本人の大量虐殺はよいが、中国人の大量虐殺はノーという論理である。
パリ講和会議(1919年)で、日本は「国際連盟規約」に人種差別撤廃を明記するべきと発議して、多数決で日本案がとおったが、議長をつとめていたアメリカ大統領のウィルソンは「全員一致が条件」と難癖をつけて、日本案を否決した。
ウィルソンも民主党で、国際連盟の創設に尽力してノーベル平和賞をうけた国際派とあって、日本には冷淡そのものだった。
民主党のクリントンも「日米包括経済協議」「ジャパン・パッシング」(日本無視政策)で知られる反日的な政治家で、2016年のアメリカ大統領選挙で夫人のヒラリー・クリントンがトランプに勝っていたら、日本は、窮地に追いこまれていたはずである。
大統領就任後の初のアジア訪問は、中国と韓国で、日本は入っていなかったからで、両クリントンにとって、日本は、中韓に次ぐ第三の国で「東アジアの緊張を高める存在であってはならない」くらいの認識しかもっていなかった。
民主党が反日的なのは、革命政党にとって、伝統国家は嫌悪と侮蔑の対象でしかなかったからだった。
●民主党のリベラル・デモクラシーとLGBT革命
反日的な民主党にたいして、共和党は、ペリー提督を日本に派遣したフィルモア大統領から、日露戦争の講和を日本に有利に斡旋して、ノーベル平和賞をもらったセオドア・ルーズベルトまで親日的で、マッカーサーも共和党寄りでなかったら占領政策はもっと過酷なものになっていたはずである。
日本のメディアが、ニューヨークタイムズと提携関係にある朝日新聞を筆頭にして、こぞって民主党寄りなのは、日本に冷淡で批判的だからで、じぶんの国をわるく書くことが身上の大新聞にとって、引用しやすい情報源なのである。
日本のメディアがCNNやニューヨークタイムズばかりとりあげるのは左翼的だからで、大方の日本人は、フォックスニュース、ブライトバートなど共和党寄りのメディアの名前すら知らない。
日本の大手メディアは、民主党寄りのメディアの情報を垂れ流しているだけなので、日本人が知ることができるのは、つねに、アメリカという国の半分に限られる。
アメリカ民主党が「現在のままでは人類が絶滅する」として、気候危機説を唱え、脱炭素に熱心なのは、民主党の考え方に現状を変える≠ニいう過激な革命思想があるからで、これに、LGBTがくっついて、LGBT革命というべき風潮がつくりだされた。
性の自己同一性を、じぶんの意志で変更することは、生物にとって、究極の革命で、出産や育児、教育が放棄された世界は、希望なき暗黒社会というほかない。
だが、性差や性役割をうけいれらない人々にとって、天国である。
民主党は、性の自己決定ができない社会は、革命をおこして、変えるべきだというが、アメリカ民主党の目的は、性の解放ではなく、あくまで革命にある。
革命政党である民主党は、伝統的な価値観をみとめることができないばかりか、これを悪として断罪しようとする。
日本のLGBT騒ぎを煽ったエマニュエル駐日大使もシカゴ市長からオバマ大統領の首席補佐官などを歴任した民主党員で、バイデン大統領の肝いりで駐日アメリカ大使に就任した。
そして、リベラル・デモクラシーやLGBT革命を叫ぶが、アメリカよりも文化的な日本で、アメリカ民主党の言辞にダマされるのは、アメリカに洗脳されているおばかさんたちだけである。
2023年08月20日
「自由主義」と「民主主義」の相克と調和16
●シルクロード文明の終着駅だった日本
日本が、伝統や習俗、習慣や常識をかなぐり捨てて、海のむこうから入ってくる新奇なものにとびつく習性は、昨日や今日、はじまったことではない。
日本人の多くは、明治維新の廃藩置県や秩禄処分(武士階級の廃止)あるいは鹿鳴館文明(西洋かぶれ)を、案外、平気でうけいれて散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする≠ネどとのんきに都々逸をうなっていたのである。
日本人が海のむこうのものをやたらに有難がるのは、日本がシルクロードの終着点だったからで、アジア東端の島国だった日本にとって、海のむこうのものはすべてが物珍しく、有益なものだった。
日本は、ユーラシア文明を移入、あるいはこれを国風文化に変えて、独自の文化をつくりだしてきた(ハンチントン『文明の衝突』)が、その一方で、しばしば、鹿鳴館文明のようなかぶれ現象≠ひきおこしてきた。
近代になってそれがおきたのが、明治維新の文明開化や大正デモクラシーのリベラル・デモクラシー、敗戦後のコミュニズム・デモクラシーで、かぶれるのは、もともと、土着にはなかった異文明が移入される際に生じる過反応である。
明治維新以降、日本は、わずか20数年で、鉄道や電話、郵便などのインフラを整備して、綿糸や生糸の大量生産・大量輸出を開始している。
日本が短期間で産業革命を実現できたのは、江戸時代に高度な技術力を培っていたからだった。
アメリカのペリー提督は、日米和親条約を結んだ際、日本にアメリカの武器や電信機、蒸気機関車の模型を贈ったが、その数年後、佐賀藩や伊予宇和島藩は、独力で蒸気機関車を建造している。
そのうえ、佐賀藩は、イギリスが試作に成功したものの実戦化にてまどっていたアームストロング砲をさっさと建造してイギリスの度肝を抜いたが、これはさして驚くほどのことではなかった。
●戦国末期、日本は、世界一の火器保有国だった
日本に鉄砲が伝来したのは、1543年だが、関が原の戦い(1600年)で使用された鉄砲は、約二万五千丁で、当時、日本には、五、六万丁の鉄砲があったといわれる。
ちなみに、当時、全ヨーロッパにあった鉄砲は、約三万丁で、火砲が中心となる西洋との戦争で、日本は、襲ってくる敵を集中砲火でつぶす火力をもっていたのである。
これがハンチントンのいう日本文明のユニークさで、アヘン戦争では中国が英海軍の火砲に歯が立たなかったが、日本では、薩英戦争で、イギリス艦隊を徹底的にやっつけている。
イギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦の艦長と副長を含む死者20人)におよんだが、日本の被害は流れ弾に当たった戦死一人のほか艦砲射撃で市街地の一部失っただけだった。
日本は、シルクロード文明を吸収して、国風文化を磨き、世界大国になっていったが、一方、日本には、西洋コンプレックスがつよい連中が権力をにぎる傾向があって、明治維新以降、日本を西洋の下位に置いて、西洋崇拝者であるじぶんを売り出すやからが幅をきかせてきた。
卑屈に西洋にはいつくばって、その西洋と気脈がつうじていることを武器にじぶんを売りだそうというわけだが、そういう連中がもちいるのが反日侮日と西洋崇拝の宣伝(プロパガンダ)だった。
日本には、数万の格言やことわざがあって、そのどれも、自由や平等、権利などの啓蒙思想と人間社会のルール、生活感情をあわせた生きた人生教訓で、これにくらべると、杓子定規な西洋の思想など幼稚すぎて、お話にならない。
ことわざには「情けは人の為ならず」や「武士は相身互い」など民主主義の本質をつくものが数限りなくあるが、西洋にあるのは、デモクラシーとリベラル、コミュニズムだけで、その土台に自由と平等、権利などの啓蒙主義があるだけである。
せいぜい10個ほどの観念をふりまわしているのが西洋だが、日本の学者連中はこれを延々とこねくりまわして、西洋通の知識人としてふんぞり返っている。
●「日本弁護士連合会」は日本で最悪の反日集団
インテリバカがふんぞり返っているなかでとりわけ悪質な害毒を垂れ流しているのが日本弁護士連合会で、犯罪者の片棒を担ぐのが身上の弁護士が、反国家の先兵となって、言論テロをくりひろげている。
その代表が小林節という狂信的なアジテーターで、弁護士というより特殊なイデオロギーをもった極左扇動家である。
左翼はマルクス主義者だが、法律家は法理主義者で、マルクス主義者は革命をとおして、一方、法理主義者はその法理をとおして、国家を倒そうとする。
国家は、歴史や習俗、文化や権力などの多様性からできている複合的にして壮大な生きものということができるが、法律屋は、国家を法理という一局面からしかみることができない。
弁護士で、大阪府知事、大阪市長をつとめた橋本徹は『実行力』『交渉力』『決断力』などのベストセラーを連発しているが、そのどれも、法理を土台にした机上論で、人間の心が宿っていない。
橋本は、ロシアのウクライナ侵攻にかんして、4000万のウクライナ人は、生命をまもるために祖国を捨てて難民になるべきとのべて、世界から呆れられたが、それでも、日本では、橋下イズムが圧倒的な支持をえている。
そこで、気がつくのが、日本では、すでに、人間の心や正気が失われているという事実である。
西洋バカに学者バカ、偏差値バカ、法律バカ、さらにここにLGBTバカがくわわって、日本では、一般的な社会通念や常識、人情などの歴史的価値観が崩壊した知的ゾンビの国になっている。
●じぶんの頭でモノを考えられない現代の日本人
それが文化革命の恐怖で、昨日まで善だったものを一夜で悪にかえて、その価値の逆転をもって、大勢の罪なき無垢の人々をみな殺しにする。
貴族4万人の首をハネたフランス革命、ロマノフ王朝の残党125万を酷寒のバイカル湖に沈めたロシア革命、犠牲者数が6500万人にものぼる毛沢東の文化大革命(ステファン・クルトワ『共産主義黒書』)、200万人の父母を殺したポルポトのカンボジア革命と、革命は血も凍るふるまいだが、日本でも、12人の仲間をリンチ殺人した連合赤軍や死者が100人をこえる中核・核マルの内ゲバ事件などがある。
テロ事件では、オウム真理教がサリンをつかって14人を殺害(負傷者6300人)したが、日本では「民主主義と国民の人権を侵害する(「日本弁護士連合会」)という理由からオウム真理教への破防法適用が見送られて、オウム真理教の後継3団体(アフレなど)の約2000人の信者が息をひそめて次のテロ機会をうかがっている。
このことからも、弁護士会は国民の敵≠ニわかるはずだが、高学歴者が社会の中枢を握っている日本では、医者や弁護士、高級官僚、大学教授らが上級国民のセンセー様で、テレビでも、視聴者である一般国民がかれらの高説をうかがうという構成になっている。
デヴィ夫人は、昨今のジャニー喜多川£@きに辟易して「ジャニーズ系のタレントが恩人であるジャニー喜多川を批判することはジャニー氏の慰霊への冒瀆」「ジャン・コクトーがジャン・マレーを愛したような特別な世界、関係性というものはある」とツイッターに投稿したところLGBT賛歌でわき返っているネット・マスコミからすさまじい反発があった。
「権力者男性に媚び売る恥知らず」といったものが大半だが、なかでも、英国BBCや国連、アメリカ大使が問題にしていることをとりあげて、世界に恥ずかしいとおそれいる声も多かったという。
魔女裁判で200万人の無垢な女性を火刑にした悪魔のような国に、生類憐みの令の情け深い国がなぜ恥じなければならないのか。
西洋や西洋人に媚びるのもいい加減にすべきである。
長寿番組『新婚さんいらっしゃい!』(ABCテレビ)に男性カップル(フランス人と日本人)が登場して、視聴者から「おめでとう」の声が殺到して、ひげ面同士の抱擁に眉をひそめるふつうの日本人が時代遅れと罵倒された。
その一方、レバノンやウエートなど中東では、世界的に大ヒットしている映画「バービー」が「同性愛を助長する内容がふくまれている」として上映禁止になった。
ジェンダーフリーとはなんだったのか、日本人は、じぶんの頭でもういちど考えてみるべきだろう。
じぶんの頭でモノを考えることができるようになったとき、日本人は、ようやく、正気をとりもどすことができるのである。
日本が、伝統や習俗、習慣や常識をかなぐり捨てて、海のむこうから入ってくる新奇なものにとびつく習性は、昨日や今日、はじまったことではない。
日本人の多くは、明治維新の廃藩置県や秩禄処分(武士階級の廃止)あるいは鹿鳴館文明(西洋かぶれ)を、案外、平気でうけいれて散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする≠ネどとのんきに都々逸をうなっていたのである。
日本人が海のむこうのものをやたらに有難がるのは、日本がシルクロードの終着点だったからで、アジア東端の島国だった日本にとって、海のむこうのものはすべてが物珍しく、有益なものだった。
日本は、ユーラシア文明を移入、あるいはこれを国風文化に変えて、独自の文化をつくりだしてきた(ハンチントン『文明の衝突』)が、その一方で、しばしば、鹿鳴館文明のようなかぶれ現象≠ひきおこしてきた。
近代になってそれがおきたのが、明治維新の文明開化や大正デモクラシーのリベラル・デモクラシー、敗戦後のコミュニズム・デモクラシーで、かぶれるのは、もともと、土着にはなかった異文明が移入される際に生じる過反応である。
明治維新以降、日本は、わずか20数年で、鉄道や電話、郵便などのインフラを整備して、綿糸や生糸の大量生産・大量輸出を開始している。
日本が短期間で産業革命を実現できたのは、江戸時代に高度な技術力を培っていたからだった。
アメリカのペリー提督は、日米和親条約を結んだ際、日本にアメリカの武器や電信機、蒸気機関車の模型を贈ったが、その数年後、佐賀藩や伊予宇和島藩は、独力で蒸気機関車を建造している。
そのうえ、佐賀藩は、イギリスが試作に成功したものの実戦化にてまどっていたアームストロング砲をさっさと建造してイギリスの度肝を抜いたが、これはさして驚くほどのことではなかった。
●戦国末期、日本は、世界一の火器保有国だった
日本に鉄砲が伝来したのは、1543年だが、関が原の戦い(1600年)で使用された鉄砲は、約二万五千丁で、当時、日本には、五、六万丁の鉄砲があったといわれる。
ちなみに、当時、全ヨーロッパにあった鉄砲は、約三万丁で、火砲が中心となる西洋との戦争で、日本は、襲ってくる敵を集中砲火でつぶす火力をもっていたのである。
これがハンチントンのいう日本文明のユニークさで、アヘン戦争では中国が英海軍の火砲に歯が立たなかったが、日本では、薩英戦争で、イギリス艦隊を徹底的にやっつけている。
イギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦の艦長と副長を含む死者20人)におよんだが、日本の被害は流れ弾に当たった戦死一人のほか艦砲射撃で市街地の一部失っただけだった。
日本は、シルクロード文明を吸収して、国風文化を磨き、世界大国になっていったが、一方、日本には、西洋コンプレックスがつよい連中が権力をにぎる傾向があって、明治維新以降、日本を西洋の下位に置いて、西洋崇拝者であるじぶんを売り出すやからが幅をきかせてきた。
卑屈に西洋にはいつくばって、その西洋と気脈がつうじていることを武器にじぶんを売りだそうというわけだが、そういう連中がもちいるのが反日侮日と西洋崇拝の宣伝(プロパガンダ)だった。
日本には、数万の格言やことわざがあって、そのどれも、自由や平等、権利などの啓蒙思想と人間社会のルール、生活感情をあわせた生きた人生教訓で、これにくらべると、杓子定規な西洋の思想など幼稚すぎて、お話にならない。
ことわざには「情けは人の為ならず」や「武士は相身互い」など民主主義の本質をつくものが数限りなくあるが、西洋にあるのは、デモクラシーとリベラル、コミュニズムだけで、その土台に自由と平等、権利などの啓蒙主義があるだけである。
せいぜい10個ほどの観念をふりまわしているのが西洋だが、日本の学者連中はこれを延々とこねくりまわして、西洋通の知識人としてふんぞり返っている。
●「日本弁護士連合会」は日本で最悪の反日集団
インテリバカがふんぞり返っているなかでとりわけ悪質な害毒を垂れ流しているのが日本弁護士連合会で、犯罪者の片棒を担ぐのが身上の弁護士が、反国家の先兵となって、言論テロをくりひろげている。
その代表が小林節という狂信的なアジテーターで、弁護士というより特殊なイデオロギーをもった極左扇動家である。
左翼はマルクス主義者だが、法律家は法理主義者で、マルクス主義者は革命をとおして、一方、法理主義者はその法理をとおして、国家を倒そうとする。
国家は、歴史や習俗、文化や権力などの多様性からできている複合的にして壮大な生きものということができるが、法律屋は、国家を法理という一局面からしかみることができない。
弁護士で、大阪府知事、大阪市長をつとめた橋本徹は『実行力』『交渉力』『決断力』などのベストセラーを連発しているが、そのどれも、法理を土台にした机上論で、人間の心が宿っていない。
橋本は、ロシアのウクライナ侵攻にかんして、4000万のウクライナ人は、生命をまもるために祖国を捨てて難民になるべきとのべて、世界から呆れられたが、それでも、日本では、橋下イズムが圧倒的な支持をえている。
そこで、気がつくのが、日本では、すでに、人間の心や正気が失われているという事実である。
西洋バカに学者バカ、偏差値バカ、法律バカ、さらにここにLGBTバカがくわわって、日本では、一般的な社会通念や常識、人情などの歴史的価値観が崩壊した知的ゾンビの国になっている。
●じぶんの頭でモノを考えられない現代の日本人
それが文化革命の恐怖で、昨日まで善だったものを一夜で悪にかえて、その価値の逆転をもって、大勢の罪なき無垢の人々をみな殺しにする。
貴族4万人の首をハネたフランス革命、ロマノフ王朝の残党125万を酷寒のバイカル湖に沈めたロシア革命、犠牲者数が6500万人にものぼる毛沢東の文化大革命(ステファン・クルトワ『共産主義黒書』)、200万人の父母を殺したポルポトのカンボジア革命と、革命は血も凍るふるまいだが、日本でも、12人の仲間をリンチ殺人した連合赤軍や死者が100人をこえる中核・核マルの内ゲバ事件などがある。
テロ事件では、オウム真理教がサリンをつかって14人を殺害(負傷者6300人)したが、日本では「民主主義と国民の人権を侵害する(「日本弁護士連合会」)という理由からオウム真理教への破防法適用が見送られて、オウム真理教の後継3団体(アフレなど)の約2000人の信者が息をひそめて次のテロ機会をうかがっている。
このことからも、弁護士会は国民の敵≠ニわかるはずだが、高学歴者が社会の中枢を握っている日本では、医者や弁護士、高級官僚、大学教授らが上級国民のセンセー様で、テレビでも、視聴者である一般国民がかれらの高説をうかがうという構成になっている。
デヴィ夫人は、昨今のジャニー喜多川£@きに辟易して「ジャニーズ系のタレントが恩人であるジャニー喜多川を批判することはジャニー氏の慰霊への冒瀆」「ジャン・コクトーがジャン・マレーを愛したような特別な世界、関係性というものはある」とツイッターに投稿したところLGBT賛歌でわき返っているネット・マスコミからすさまじい反発があった。
「権力者男性に媚び売る恥知らず」といったものが大半だが、なかでも、英国BBCや国連、アメリカ大使が問題にしていることをとりあげて、世界に恥ずかしいとおそれいる声も多かったという。
魔女裁判で200万人の無垢な女性を火刑にした悪魔のような国に、生類憐みの令の情け深い国がなぜ恥じなければならないのか。
西洋や西洋人に媚びるのもいい加減にすべきである。
長寿番組『新婚さんいらっしゃい!』(ABCテレビ)に男性カップル(フランス人と日本人)が登場して、視聴者から「おめでとう」の声が殺到して、ひげ面同士の抱擁に眉をひそめるふつうの日本人が時代遅れと罵倒された。
その一方、レバノンやウエートなど中東では、世界的に大ヒットしている映画「バービー」が「同性愛を助長する内容がふくまれている」として上映禁止になった。
ジェンダーフリーとはなんだったのか、日本人は、じぶんの頭でもういちど考えてみるべきだろう。
じぶんの頭でモノを考えることができるようになったとき、日本人は、ようやく、正気をとりもどすことができるのである。
2023年08月06日
「自由主義」と「民主主義」の相克と調和15
●毛沢東とフランクフルト学派に染まった日本の左翼
1958年からはじまった中国の大躍進政策の一つにスズメ撲滅運動≠ニいうのがあって、このとき、一億羽以上のスズメが駆除されて、中国全土からスズメが姿を消した。
その結果、バッタが大繁殖して、農村の穀物を食い尽したのは自然の摂理というべきで、頭で考えた小知恵で大躍進ができると思ったほうが愚かだったのである。
そのバッタ飢饉によって、数千万人が餓死して、毛沢東は失脚した。
文化大革命は失脚した毛沢東の巻き返しで、このとき紅衛兵が手にしていた毛沢東語録≠ヘ30カ国で10億冊も印刷された聖書並みのベストセラーとなって、いまなお、共産主義思想の原典とされている。
毛沢東語録の根幹は清朝儒教の「実事求是」ということばにあって、これは「真実は事実のなかにある」という観念論である。
毛沢東語録は、その実事求是のオンパレードで、スズメを撲滅すれば農業が大躍進するといった妄想的にして短絡的な因果論が並べられている。
これと似ているのが、1923年、ドイツでうまれたフランクフルト学派という戦闘的なマルクス主義で、階級闘争=暴力革命が実現しないのは、人間の精神が資本主義に毒されているからという。
フランクフルト学派の第一世代に属するルカーチは、こう宣言した。
「資本主義下でつくられた精神を破壊しなければ革命は実現できない。人間を破壊せよ。文明や文化を破壊せよ」
全学連や全共闘、赤軍派が荒れ狂った1960〜70年代にかけて、世界を席巻したのがフランクフルト学派と毛沢東語録で、当時、東大の立て看板には毛沢東の肖像が掲げられて「造反有理」の文字がおどった。
●啓蒙主義のデタラメな論理にシビレタ日本人
フランクフルト学派は、個人の欲望を最大限に拡大して、それがうけいれられない場合、その責任を負うべきは社会だとして、これを革命のエネルギーに転化させようという戦略的マルクス主義で、原点にあるのは自然に帰れ≠フルソーである。
国家を必要悪とするホッブズにたいして、ルソーは、国家を悪とした。
ルソーは、人間は生まれながらに自由だが、いたるところで鉄鎖に繋がれているといったが、ジョン・ロックも、すべての人間は平等で、独立していると主張した。
だが、人間は、うまれながらにして自由かつ平等、諸権利がそなわっているとする啓蒙主義は、真っ赤なウソで、裸でうまれてくる人間は、不平等にして不自由な存在で、なんの権利ももたず、なんの恩恵もあたえられていない。
それでも、人間として生きてゆけるのは、ホッブズがいうように、国家から庇護されているからで、ルソーのいうように自然に還れば、人間は、3日たりとも生きてゆけない。
人間はうまれながらにして、基本的人権や生命の尊厳、自由や平等、権利をあたえられていると日本人が思いこむのは、戦後の憲法教育の大弊害で、天は人間に特権などなに一つあたえてはいない。
国民の義務と権利は、国家と交わした約束事で、国民は、国家と関係がなくしては存在できない。
だが、戦後、日本では、憲法をとおして、個人が国家を監視するというリベラルでアナーキーな政治風土が広がって、国体や歴史、民族や文化の一体感が失われた。
そのあらわれがLGBT法や選択的夫婦別姓案で、家族から個人、個人から同性愛や同性婚という究極の個人に絞りこまれて、国体や国家観という集団の哲学が消失した。
●文化防衛に敗退を重ねて特殊な国なった
現在、日本は、文化防衛の思想戦において、反日左翼や法曹界、マスコミなどからの攻勢にされされて、敗退を余儀なくされている。
標的になっているのが日本人の一般常識や歴史の叡智、習慣や良識である。
社会に不満や摩擦、矛盾をみつけて、それを造反有理≠フネタに仕立てて社会変革をもとめるのが啓蒙主義や毛沢東主義あるいはフランクフルト学派のやり方で、これは、マスコミ主導型の文化革命である。
階級闘争も暴力革命も、ゼネストもテロリズムも社会変革の原動力にはならない。
社会を変革できるのは、文化革命だけで、性差や家族、集団のモラルなどの歴史的価値観を破壊してしまえば、国家は内部から崩れ落ちる。
日本で常識破壊がおきているのは、それが革命の近道だからで、その契機となったのが男女共同参画社会や選択的夫婦別姓案などで、これにLGBT法がくわわって、国家をささえる骨格がさらにぜい弱になった。
事実やことばのなかに真実がある(「実事求是」)のではない。
一般常識や歴史の叡智、習慣や良識のなかに真実がある。
それが保守主義で、日本では、スズメ撲滅ではなく、案山子を立てて、秋の豊作をまつ。
これがズタズタになったのは、文化防衛に敗れたからで、その負けっぷりがハッキリしたのが憲法だった。
憲法9条によって、国家をまもる意識が消えて「戦争がおきたら国のために戦うか」というアンケートで、日本は世界79カ国中、ダントツ最下位(79位/13%/「世界価値観調査(2021年)」となって、日本はいまや、国家国民の定義から外れた世界に例がない特殊な国になった。
●最終局面にさしかかっている思想戦
毛沢東思想が、マルクス・レーニンをこえて、日本の左翼につよい影響力をもったのは、実事求是が象徴する言語中心主義が歓迎されたからだった。
それがことばのなかに真実がある「実事求是」ということの意味で、天皇の肖像を燃やして足で踏みつけることが表現の自由だというあいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展」の妄想と通底する。
それがことばのゆきつくところで、名古屋高裁(松村徹裁判長)が「表現の不自由展」に未払いの補助金を命じたのも、ことばをあつかう司法が、常識の彼方の存在だったからである。
人間の心を忘れてことばにしがみつくのは、毛沢東のスズメ撲滅運動のようなもので、ことばは、一元論なので、かならず、滅びの論理となる。オウム真理教の殺人者たちも、人間の心を捨てて、麻原教祖を信じた以上、悪魔になるほかなかった。
ポルポトが200万人の虐殺(親殺し)を指導したのも、古い伝統や因習にとらわれているオトナをすべて殺さなければ新しい時代はやってこないという妄想にとらわれてのことだが、この思考は、人間の心を失っているという意味において、名古屋高裁の判断となんらかわるところがない。
連合赤軍のリンチ殺人や中核・核マルの内ゲバも、テロや衝動殺人も同じ構造で、ことばというものをつきつめてゆけば、結局、相手を殺すしかない狂気へゆきつく。
日本は、今後、常識や良識、一般通念を捨てて、集団を忘れた個人という、異常と狂気、破滅へのみちつきすすんでゆくことになるであろうが、これを糾すには、敵にたちむかい、敵をたたかいの場にひきだす勇気や覚悟が必要となるだろう。
日本の文化防衛は、心ある日本人、国民が立ち上がらなければならないほどの事態にまで切迫しているのである。
1958年からはじまった中国の大躍進政策の一つにスズメ撲滅運動≠ニいうのがあって、このとき、一億羽以上のスズメが駆除されて、中国全土からスズメが姿を消した。
その結果、バッタが大繁殖して、農村の穀物を食い尽したのは自然の摂理というべきで、頭で考えた小知恵で大躍進ができると思ったほうが愚かだったのである。
そのバッタ飢饉によって、数千万人が餓死して、毛沢東は失脚した。
文化大革命は失脚した毛沢東の巻き返しで、このとき紅衛兵が手にしていた毛沢東語録≠ヘ30カ国で10億冊も印刷された聖書並みのベストセラーとなって、いまなお、共産主義思想の原典とされている。
毛沢東語録の根幹は清朝儒教の「実事求是」ということばにあって、これは「真実は事実のなかにある」という観念論である。
毛沢東語録は、その実事求是のオンパレードで、スズメを撲滅すれば農業が大躍進するといった妄想的にして短絡的な因果論が並べられている。
これと似ているのが、1923年、ドイツでうまれたフランクフルト学派という戦闘的なマルクス主義で、階級闘争=暴力革命が実現しないのは、人間の精神が資本主義に毒されているからという。
フランクフルト学派の第一世代に属するルカーチは、こう宣言した。
「資本主義下でつくられた精神を破壊しなければ革命は実現できない。人間を破壊せよ。文明や文化を破壊せよ」
全学連や全共闘、赤軍派が荒れ狂った1960〜70年代にかけて、世界を席巻したのがフランクフルト学派と毛沢東語録で、当時、東大の立て看板には毛沢東の肖像が掲げられて「造反有理」の文字がおどった。
●啓蒙主義のデタラメな論理にシビレタ日本人
フランクフルト学派は、個人の欲望を最大限に拡大して、それがうけいれられない場合、その責任を負うべきは社会だとして、これを革命のエネルギーに転化させようという戦略的マルクス主義で、原点にあるのは自然に帰れ≠フルソーである。
国家を必要悪とするホッブズにたいして、ルソーは、国家を悪とした。
ルソーは、人間は生まれながらに自由だが、いたるところで鉄鎖に繋がれているといったが、ジョン・ロックも、すべての人間は平等で、独立していると主張した。
だが、人間は、うまれながらにして自由かつ平等、諸権利がそなわっているとする啓蒙主義は、真っ赤なウソで、裸でうまれてくる人間は、不平等にして不自由な存在で、なんの権利ももたず、なんの恩恵もあたえられていない。
それでも、人間として生きてゆけるのは、ホッブズがいうように、国家から庇護されているからで、ルソーのいうように自然に還れば、人間は、3日たりとも生きてゆけない。
人間はうまれながらにして、基本的人権や生命の尊厳、自由や平等、権利をあたえられていると日本人が思いこむのは、戦後の憲法教育の大弊害で、天は人間に特権などなに一つあたえてはいない。
国民の義務と権利は、国家と交わした約束事で、国民は、国家と関係がなくしては存在できない。
だが、戦後、日本では、憲法をとおして、個人が国家を監視するというリベラルでアナーキーな政治風土が広がって、国体や歴史、民族や文化の一体感が失われた。
そのあらわれがLGBT法や選択的夫婦別姓案で、家族から個人、個人から同性愛や同性婚という究極の個人に絞りこまれて、国体や国家観という集団の哲学が消失した。
●文化防衛に敗退を重ねて特殊な国なった
現在、日本は、文化防衛の思想戦において、反日左翼や法曹界、マスコミなどからの攻勢にされされて、敗退を余儀なくされている。
標的になっているのが日本人の一般常識や歴史の叡智、習慣や良識である。
社会に不満や摩擦、矛盾をみつけて、それを造反有理≠フネタに仕立てて社会変革をもとめるのが啓蒙主義や毛沢東主義あるいはフランクフルト学派のやり方で、これは、マスコミ主導型の文化革命である。
階級闘争も暴力革命も、ゼネストもテロリズムも社会変革の原動力にはならない。
社会を変革できるのは、文化革命だけで、性差や家族、集団のモラルなどの歴史的価値観を破壊してしまえば、国家は内部から崩れ落ちる。
日本で常識破壊がおきているのは、それが革命の近道だからで、その契機となったのが男女共同参画社会や選択的夫婦別姓案などで、これにLGBT法がくわわって、国家をささえる骨格がさらにぜい弱になった。
事実やことばのなかに真実がある(「実事求是」)のではない。
一般常識や歴史の叡智、習慣や良識のなかに真実がある。
それが保守主義で、日本では、スズメ撲滅ではなく、案山子を立てて、秋の豊作をまつ。
これがズタズタになったのは、文化防衛に敗れたからで、その負けっぷりがハッキリしたのが憲法だった。
憲法9条によって、国家をまもる意識が消えて「戦争がおきたら国のために戦うか」というアンケートで、日本は世界79カ国中、ダントツ最下位(79位/13%/「世界価値観調査(2021年)」となって、日本はいまや、国家国民の定義から外れた世界に例がない特殊な国になった。
●最終局面にさしかかっている思想戦
毛沢東思想が、マルクス・レーニンをこえて、日本の左翼につよい影響力をもったのは、実事求是が象徴する言語中心主義が歓迎されたからだった。
それがことばのなかに真実がある「実事求是」ということの意味で、天皇の肖像を燃やして足で踏みつけることが表現の自由だというあいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展」の妄想と通底する。
それがことばのゆきつくところで、名古屋高裁(松村徹裁判長)が「表現の不自由展」に未払いの補助金を命じたのも、ことばをあつかう司法が、常識の彼方の存在だったからである。
人間の心を忘れてことばにしがみつくのは、毛沢東のスズメ撲滅運動のようなもので、ことばは、一元論なので、かならず、滅びの論理となる。オウム真理教の殺人者たちも、人間の心を捨てて、麻原教祖を信じた以上、悪魔になるほかなかった。
ポルポトが200万人の虐殺(親殺し)を指導したのも、古い伝統や因習にとらわれているオトナをすべて殺さなければ新しい時代はやってこないという妄想にとらわれてのことだが、この思考は、人間の心を失っているという意味において、名古屋高裁の判断となんらかわるところがない。
連合赤軍のリンチ殺人や中核・核マルの内ゲバも、テロや衝動殺人も同じ構造で、ことばというものをつきつめてゆけば、結局、相手を殺すしかない狂気へゆきつく。
日本は、今後、常識や良識、一般通念を捨てて、集団を忘れた個人という、異常と狂気、破滅へのみちつきすすんでゆくことになるであろうが、これを糾すには、敵にたちむかい、敵をたたかいの場にひきだす勇気や覚悟が必要となるだろう。
日本の文化防衛は、心ある日本人、国民が立ち上がらなければならないほどの事態にまで切迫しているのである。
2023年07月30日
「自由主義」と「民主主義」の相克と調和14
●左翼とマスコミ、法曹界はLGBTの大応援団
ロシアで「性別変更」を禁止する法案が成立して、今後、性別を変えた人の婚姻が禁止される。主に性別適合手術を受けた人や性別変更の医薬品を使っている人が対象だが、LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)らの婚姻申請もはねつけられる。
ロシアメディアによると、アメリカで性別適合手術が10年間で50倍にもふえていることにたいして同法案を提出した下院議会のボロジン議長は「同性結婚が国家の退化とモラルの崩壊を招く」ときびしい警告を発している。
同法律によると、今後、ロシアでは、パスポートの性別欄の変更が不可能になるほか、性別を変えた場合、婚姻が取り消されて、養親、後見人、親権者になることもできなくなる。
一方、日本のマスコミは、同性愛者の告白を「勇気ある発言」とほめちぎる一方、日本は、同性結婚の法制化に消極的とけなしまくる。
そんな日本のマスコミ論調に慣れてしまうと、ロシアの法律が世界の趨勢に逆行しているように思えるが、一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)の世界において、同性愛はタブーで、アフリカでは、最悪の場合、死刑になる。
世界がLGBTに寛容で、理解があるように思えるのは、個人の性の問題は一般論で処理できないからで、性癖には、LGBTの他に、マゾヒズムやサディズムなどの刑事罰に抵触しかねないものまである。
個人の性癖にはつきあっておられないというのが先進国の態度だが、例外がアメリカである。伝統という文化のないアメリカには、うまれついた性までをじぶんできめられるという人工国家の特有の特殊なメンタリティをもっている。
終戦後、日本を占領したGHQが、日本人がダーウインの進化論を知らないのは、文盲だからと思いこんだようなもので、危ういところで、日本は、漢字廃止とローマ字導入というとんでもない国語変更をさせられるところだった。
当時、日本には、GHQの追従者が多く、国語変更に賛成した学者や識者がすくなくなかったからである。
国語変更が中止になったのは、アメリカの学者が日本人の識字率が世界一であることをつたえて、GHQの過ちを正したからだった。
●日本文化を知らないエマニュエル大使の妄想
アメリカのエマニュエル駐日大使が、日本は、先進7か国で唯一、LGBT差別禁止を定めた法律がなく、同性婚をみとめていないことに注文をつけたのは内政干渉だが、それ以前に、この男の日本文化にたいする無知さかげんにはあきれるほかない。
日本は、伝統芸能の歌舞伎の女形や男衆をあげるまでもなく、LGBT大国で、これがこれまでなんら問題にならなかったのは、陰陽における陰の文化として、まもられてきたからである。
レズビアンやゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーなどの少数派が日本で差別されることはなかったのは、性の問題には立ち入らないのが日本流だからである。
織田信長の愛人、森蘭丸は、本能寺の変で、信長をまもろうとして槍を握ったまま討たれたが、その凛々しい美少年のすがたは、戦前、小学校の教科書にまでのった。
エマニュエルは、森蘭丸の変態者としての人権をまもれと言っているようなものだが、これこそ、アメリカ人の無知のきわみで、エマニュエルは「政界のランボー」の異名をもつ無教養な人物である。
ところが、現在、日本の文化人や左翼、マスコミは、一斉にエマニュエルの尻にくっついて、日本がLGBT後進国で、世界に恥ずべき国家であることをふれまわっている。
「LGBT理解増進法」は、超党派議連が提案した内容に、自民党内の保守派や日本維新の会、国民民主党との修正協議を経て、成立したが、この折、超党派議連でおこなわれた自民党・岩屋毅会長のスピーチはまったく意味不明だった。
「大事なことは、この多様性を包摂しうるダイバーシファイドされた、インクルーシブな、そういう社会を日本につくっていくということです」
「LGBT理解増進法」の正式な法律名が「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律(令和5年法律第68号)とあるが、日本の法律に横文字をつかうべきではない。
ジェンダーアイデンティティには、性自認や性差自覚という日本語がある。
超党派議連には、自民・公明・日本維新の会・国民民主の議員がつめていたはずだが、ダイバーシファイド(多様化)やインクルーシブ(包摂的)などという英語が理解できた政治家が何人いたろう。
エマニュエルに煽られて、日本がLGBTの人々を虐待しているかのような錯覚に陥っているので、ダイバーシファイド、インクルーシブなどという英語を使えば、世界からみとめられるだろうという愚かな鹿鳴館的な錯覚に陥ってしまったのであろう。
●LGBTを好機到来と狂喜する法曹界
LGBT問題は、元首相秘書官の荒井勝喜が、同性愛者を「見るのもイヤ」と発言して、これをマスコミが猛批判して、議論が社会的にひろがった。
そして、一般人と同じように税金を払って社会生活を営んでいる同性カップルが、犯罪者でもないのに結婚という法的保護を得られない現状は、法の下の平等に反し、個人の尊厳を毀損しているという議論になって、5地裁の判決においてこれがすべて「違憲」「違憲状態」となった。
日本弁護士連合会にとって、LGBTは、離婚や浮気、相続問題に次ぐドル箱で、これほど稼ぎになるフィールドはない。
日本弁護士連合会は、2019年7月18日「同性婚姻に関する意見書」を取りまとめて、内閣総理大臣や法務大臣らに提出している。
同性婚をみとめないのは、婚姻の自由を侵害するもので、法の下の平等にも反するという理屈で、憲法13条(個人の尊重)と14条(法の前の平等)に照らして、国は、すみやかな同性婚の法制化をおこなうべきというのである。
だが、憲法24条1項に「婚姻は両性の合意のみにもとづいて成立し夫婦が同等の権利を有する」とあるように、両性は男女(夫婦)であって、同性のペアではない。
2項に家族とあるのは夫婦にさずかった子どものことで、同性婚に子どもはさずからない。
日本弁護士連合会は、両性の合意とは、婚姻が当事者の自由かつ平等な意思決定に委ねられているという意味で、同性婚法制化を禁止するものではないと強弁するが、詭弁というよりウソである。
婚姻は、子をさずかることが前提で、出生した子には新たな戸籍があたえられる。子ができる可能性がないのであれば、婚姻は成立せず、同棲というほかないものになる。
外国では「シビルオニオン」や「ドメスティック・パートナー」、「PACS(連帯市民契約/フランス)」などの呼び名があるが、婚姻とはなく、同棲という意味である。
弁護士連合会(小林元治会長)が、国にたいして強腰なのは、弁護士稼業にとって、LGBT差別撤廃と同性婚法制化が、離婚や相続、殺人や強盗、詐欺罪と同様、たいせつなメシのタネになるからである。
次回は、なぜ、左翼がLGBTにとびついたかについてふれる。
ロシアで「性別変更」を禁止する法案が成立して、今後、性別を変えた人の婚姻が禁止される。主に性別適合手術を受けた人や性別変更の医薬品を使っている人が対象だが、LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)らの婚姻申請もはねつけられる。
ロシアメディアによると、アメリカで性別適合手術が10年間で50倍にもふえていることにたいして同法案を提出した下院議会のボロジン議長は「同性結婚が国家の退化とモラルの崩壊を招く」ときびしい警告を発している。
同法律によると、今後、ロシアでは、パスポートの性別欄の変更が不可能になるほか、性別を変えた場合、婚姻が取り消されて、養親、後見人、親権者になることもできなくなる。
一方、日本のマスコミは、同性愛者の告白を「勇気ある発言」とほめちぎる一方、日本は、同性結婚の法制化に消極的とけなしまくる。
そんな日本のマスコミ論調に慣れてしまうと、ロシアの法律が世界の趨勢に逆行しているように思えるが、一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)の世界において、同性愛はタブーで、アフリカでは、最悪の場合、死刑になる。
世界がLGBTに寛容で、理解があるように思えるのは、個人の性の問題は一般論で処理できないからで、性癖には、LGBTの他に、マゾヒズムやサディズムなどの刑事罰に抵触しかねないものまである。
個人の性癖にはつきあっておられないというのが先進国の態度だが、例外がアメリカである。伝統という文化のないアメリカには、うまれついた性までをじぶんできめられるという人工国家の特有の特殊なメンタリティをもっている。
終戦後、日本を占領したGHQが、日本人がダーウインの進化論を知らないのは、文盲だからと思いこんだようなもので、危ういところで、日本は、漢字廃止とローマ字導入というとんでもない国語変更をさせられるところだった。
当時、日本には、GHQの追従者が多く、国語変更に賛成した学者や識者がすくなくなかったからである。
国語変更が中止になったのは、アメリカの学者が日本人の識字率が世界一であることをつたえて、GHQの過ちを正したからだった。
●日本文化を知らないエマニュエル大使の妄想
アメリカのエマニュエル駐日大使が、日本は、先進7か国で唯一、LGBT差別禁止を定めた法律がなく、同性婚をみとめていないことに注文をつけたのは内政干渉だが、それ以前に、この男の日本文化にたいする無知さかげんにはあきれるほかない。
日本は、伝統芸能の歌舞伎の女形や男衆をあげるまでもなく、LGBT大国で、これがこれまでなんら問題にならなかったのは、陰陽における陰の文化として、まもられてきたからである。
レズビアンやゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーなどの少数派が日本で差別されることはなかったのは、性の問題には立ち入らないのが日本流だからである。
織田信長の愛人、森蘭丸は、本能寺の変で、信長をまもろうとして槍を握ったまま討たれたが、その凛々しい美少年のすがたは、戦前、小学校の教科書にまでのった。
エマニュエルは、森蘭丸の変態者としての人権をまもれと言っているようなものだが、これこそ、アメリカ人の無知のきわみで、エマニュエルは「政界のランボー」の異名をもつ無教養な人物である。
ところが、現在、日本の文化人や左翼、マスコミは、一斉にエマニュエルの尻にくっついて、日本がLGBT後進国で、世界に恥ずべき国家であることをふれまわっている。
「LGBT理解増進法」は、超党派議連が提案した内容に、自民党内の保守派や日本維新の会、国民民主党との修正協議を経て、成立したが、この折、超党派議連でおこなわれた自民党・岩屋毅会長のスピーチはまったく意味不明だった。
「大事なことは、この多様性を包摂しうるダイバーシファイドされた、インクルーシブな、そういう社会を日本につくっていくということです」
「LGBT理解増進法」の正式な法律名が「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律(令和5年法律第68号)とあるが、日本の法律に横文字をつかうべきではない。
ジェンダーアイデンティティには、性自認や性差自覚という日本語がある。
超党派議連には、自民・公明・日本維新の会・国民民主の議員がつめていたはずだが、ダイバーシファイド(多様化)やインクルーシブ(包摂的)などという英語が理解できた政治家が何人いたろう。
エマニュエルに煽られて、日本がLGBTの人々を虐待しているかのような錯覚に陥っているので、ダイバーシファイド、インクルーシブなどという英語を使えば、世界からみとめられるだろうという愚かな鹿鳴館的な錯覚に陥ってしまったのであろう。
●LGBTを好機到来と狂喜する法曹界
LGBT問題は、元首相秘書官の荒井勝喜が、同性愛者を「見るのもイヤ」と発言して、これをマスコミが猛批判して、議論が社会的にひろがった。
そして、一般人と同じように税金を払って社会生活を営んでいる同性カップルが、犯罪者でもないのに結婚という法的保護を得られない現状は、法の下の平等に反し、個人の尊厳を毀損しているという議論になって、5地裁の判決においてこれがすべて「違憲」「違憲状態」となった。
日本弁護士連合会にとって、LGBTは、離婚や浮気、相続問題に次ぐドル箱で、これほど稼ぎになるフィールドはない。
日本弁護士連合会は、2019年7月18日「同性婚姻に関する意見書」を取りまとめて、内閣総理大臣や法務大臣らに提出している。
同性婚をみとめないのは、婚姻の自由を侵害するもので、法の下の平等にも反するという理屈で、憲法13条(個人の尊重)と14条(法の前の平等)に照らして、国は、すみやかな同性婚の法制化をおこなうべきというのである。
だが、憲法24条1項に「婚姻は両性の合意のみにもとづいて成立し夫婦が同等の権利を有する」とあるように、両性は男女(夫婦)であって、同性のペアではない。
2項に家族とあるのは夫婦にさずかった子どものことで、同性婚に子どもはさずからない。
日本弁護士連合会は、両性の合意とは、婚姻が当事者の自由かつ平等な意思決定に委ねられているという意味で、同性婚法制化を禁止するものではないと強弁するが、詭弁というよりウソである。
婚姻は、子をさずかることが前提で、出生した子には新たな戸籍があたえられる。子ができる可能性がないのであれば、婚姻は成立せず、同棲というほかないものになる。
外国では「シビルオニオン」や「ドメスティック・パートナー」、「PACS(連帯市民契約/フランス)」などの呼び名があるが、婚姻とはなく、同棲という意味である。
弁護士連合会(小林元治会長)が、国にたいして強腰なのは、弁護士稼業にとって、LGBT差別撤廃と同性婚法制化が、離婚や相続、殺人や強盗、詐欺罪と同様、たいせつなメシのタネになるからである。
次回は、なぜ、左翼がLGBTにとびついたかについてふれる。
2023年07月18日
「自由主義」と「民主主義」の相克と調和13
●フランクフルト学派に汚染された戦後の思想
フランクフルト学派は、個の欲望を最大限に拡大して、それがうけいれられない場合、社会がわるいからだとして、これを革命のエネルギーに転化させるマルクス主義の戦略的思考である。
原点にあるのは自然に帰れ≠フルソーで、国家を必要悪とするホッブズにたいして、ルソーは、国家を悪とした。
ルソーやマルクス、フランクフルト学派が個の利益のみを見て全体の利益を見ないのは、個の利益が社会にうけいれられない場合、暴力でその社会を変えてしまおうという立場に立つからで、全体の利益をみとめると、革命のエネルギーそのものがしぼんでしまう。
左翼が個人の自由や権利、個人の民主主義ばかりをもとめ、全体的な秩序や多様性、差異などの文化に目をむけないのは、全体性の価値をみとめるところに革命のエネルギーはないからである。
個の領域を狭めて、全体の利益を重んじるのが保守主義だが、左翼はこれに反対する。個の領域を拡大させて、不満をつのらせなければ、革命のエネルギーはわいてこないからである。
そこで、大衆の不満をかきたてて、社会不安を煽るのが左翼の仕事になって、福島瑞穂や辻元清美、蓮舫らが、連日、保守党攻撃をして、マスコミがこれを追うというパターンが定着している。
テレ朝・玉川徹が「羽鳥慎一モーニングショー」で「将来に希望がもたない絶望感がテロにむかうのは仕方がない」とテロを擁護すれば、高千穂大学教授の五野井郁夫も「テロは絶望の果ての犯行で、政治への怨嗟を放置しておけばテロがくり返される。テロをおこした責任は権力の側にある」といってテロリストの片をもった。
これがマルクス・レーニン主義における「二段階革命(永続革命)」の要諦である。
個(個人)をもちあげて、全体(体制)を否定したのち、個人を国民主権におきかえて、人民政府(一党独裁)をつくろうという理論である。
ところが、その個人は、革命が成立すると、一顧だにされない。
国民主権は、国民全体が一つの単位で、個人は、計算外だからである。
革命をおこす前まで革命の道具だった個人の意志(特殊意志)も人民革命が成立した後では全体意志(一般意志)となって、個人は虫けら同然となる。
価値があるのは全体だけで、共産主義は、個には目もくれないのである。
●GHQ民政局を仕切っていたフランクフルト学派
マッカーシーの赤狩り≠ノよって、アメリカ政府の深くもぐりこんでいたフランクフルト学派の実態が暴かれた。
それと同時にSS戦略情報局(CIA)の指令を受けていたGHQ民政局もフランクフルト学派に汚染されていたことが露見した。
事実、GHQにもぐりこんだ隠れ共産主義者=ニューディーラーは、多くがフランクフルト学派の影響をうけたマルクス主義者だった。
GHQ民政局がつくったのが日本国憲法で、権利という文字が条文に28回もでてくるが、義務は3つ(教育・勤労・納税)しかない。
このことからも、GHQニューディーラーが、フランクフルト学派の影響をうけていたことは明らかで、OSS戦略情報局(CIA)でマルクーゼ、ホルクハイマー、E・フロムというフランクフルト学派が幅をきかせていた。
元来、憲法は、習慣法で十分なのだが、それを契約法にして、国家と歴史を切断しようとしたのは、社会主義革命のための布石で、フランクフルト学派はやり方が周到なのである。
フランクフルト学派が、戦後、日本中に蔓延したのは、日本の民主化をすすめたGHQ民政局がフランクフルト学派の巣窟だったOSSの支配下にあったからで、GHQ民政局の公職追放によって、日本の教育界や学会、マスコミ界は、そっくりマルキストにいれかわった。
日本人的な教師12万人が教壇を追われて、それまで、刑務所いるか地下にもぐっていたマルキストが小中高の教師なって、大学や学会、マスコミもマルキスト一色となった。
日本は、大戦で、すでに、230万人の甲種合格の日本人を失っている。
そして、公職追放で20数万の要人が職場や地位を追われて、日本人の魂をもった教員約12万人が公立学校から追放された。
戦後の教育界やマスコミはもはや日本ではなかったのである。
戦後、日本の主人となったマルキストは旧体制の指導者にこう言い放った。
「革命がおきたらおまえらはみなギロチンだ」
朝日新聞は、東条英機ら日本の戦争指導者7人に死刑が執行された日、紙面にこう書いてGHQをねぎらった。
「お役目ご苦労さまでした」
共産主義者から教育関係、官僚や法曹、学術、マスコミは、すべてGHQに媚びて延命をはかった前歴があって、渡部昇一は、かれらを「敗戦利得者」と呼んだ。
●文化革命の紅衛兵≠ニなった日本のインテリ階級
GHQ民政局次長ケーディスの右腕として活動、戦後、スパイ容疑をかけられて自殺したハーバート・ノーマンの周りには一ツ橋大学名誉教授だった都留重人ら日本人のマルキスト学者が群れていた。
憲法の権威、東大法学部憲法学者の宮沢俊義もフランクフルト学派に一人で宮沢の「八月革命説」は、フランクフルト学派がいう「二段階革命説」の前期革命(ブルジョワ革命)にあたる。
ちなみに後期革命は共産主義革命である。
フランクフルト学派のハーバーマスのことばに「憲法愛国主義」がある。
「民主主義国家において、国民は、祖国愛や愛国心ではなく、憲法の規範価値のもとに統合されるべき」という考え方で、これが、日本弁護士連合会のスローガンになった。
ドイツ統一の際、ドイツ民族が前面に出てきたが、これを完全否定したのが「憲法愛国主義」で、そのため、統一ドイツからドイツ色が一掃されることになった。
改憲論議でも、自民一部や公明党は「日本人(民族)にふさわしい憲法」という観点を欠いた法治主義に陥っているが、聖徳太子の「十七条憲法」をみてわかるように、憲法は文化で、条約や法律、命令や処分は、ただの法文である。
GHQのニューディーラーは、日本の国家体制を、西洋諸国が400年前に捨てた封建社会にあると思いこんでいた。
フランクフルト学派からの入れ知恵で、GHQは、日本を、ブルジョワ社会にたっしていない中世的社会と認識していた。
そして、天皇を、未開社会の酋長のような存在とうけとめていた。
フランクフルト学派は、二段階革命論にもとづいて、封建体制の文化構造を破壊して、日本を共産主義へ導くために、神道から神社、家族制度、権威、性的節度、伝統、愛国心、国家、民族、尊敬心などの徳や価値を封建体制の悪弊として否定してかかった。
このとき、フランクフルト学派が標的にしたのは、インテリ層で、とりわけ、教育界やメディア関係がターゲットになった。
フランクフルト学派がもとめたのは文化革命だったからで、文化を担うのはインテリと若者である。文化革命→政体革命が二段階革命の要諦で、それには精神を破壊して、人間をぶっ壊す文化大革命が先行されなくてはならなかった。
日本に共産主義革命をおこそうとしたのは、OSS戦略情報局(CIA)にもぐりこんだフランクフルト学派で、日本共産党以下、日本のマルクス主義者や反体制派は、外国勢力に追従して、革命を実現させようとする敗戦革命主義者でしかなかった。
だが、GHQが逆コース≠とったため、日本の左翼は、梯子を外された形になった。
ところが、日本の原型は、GHQが破壊してくれていたので、日本は、すでに左翼の国になっていた。
次回以降、日本が、いかにして、フランクフルト学派型の左翼国家になっていったかふり返ってみよう。
フランクフルト学派は、個の欲望を最大限に拡大して、それがうけいれられない場合、社会がわるいからだとして、これを革命のエネルギーに転化させるマルクス主義の戦略的思考である。
原点にあるのは自然に帰れ≠フルソーで、国家を必要悪とするホッブズにたいして、ルソーは、国家を悪とした。
ルソーやマルクス、フランクフルト学派が個の利益のみを見て全体の利益を見ないのは、個の利益が社会にうけいれられない場合、暴力でその社会を変えてしまおうという立場に立つからで、全体の利益をみとめると、革命のエネルギーそのものがしぼんでしまう。
左翼が個人の自由や権利、個人の民主主義ばかりをもとめ、全体的な秩序や多様性、差異などの文化に目をむけないのは、全体性の価値をみとめるところに革命のエネルギーはないからである。
個の領域を狭めて、全体の利益を重んじるのが保守主義だが、左翼はこれに反対する。個の領域を拡大させて、不満をつのらせなければ、革命のエネルギーはわいてこないからである。
そこで、大衆の不満をかきたてて、社会不安を煽るのが左翼の仕事になって、福島瑞穂や辻元清美、蓮舫らが、連日、保守党攻撃をして、マスコミがこれを追うというパターンが定着している。
テレ朝・玉川徹が「羽鳥慎一モーニングショー」で「将来に希望がもたない絶望感がテロにむかうのは仕方がない」とテロを擁護すれば、高千穂大学教授の五野井郁夫も「テロは絶望の果ての犯行で、政治への怨嗟を放置しておけばテロがくり返される。テロをおこした責任は権力の側にある」といってテロリストの片をもった。
これがマルクス・レーニン主義における「二段階革命(永続革命)」の要諦である。
個(個人)をもちあげて、全体(体制)を否定したのち、個人を国民主権におきかえて、人民政府(一党独裁)をつくろうという理論である。
ところが、その個人は、革命が成立すると、一顧だにされない。
国民主権は、国民全体が一つの単位で、個人は、計算外だからである。
革命をおこす前まで革命の道具だった個人の意志(特殊意志)も人民革命が成立した後では全体意志(一般意志)となって、個人は虫けら同然となる。
価値があるのは全体だけで、共産主義は、個には目もくれないのである。
●GHQ民政局を仕切っていたフランクフルト学派
マッカーシーの赤狩り≠ノよって、アメリカ政府の深くもぐりこんでいたフランクフルト学派の実態が暴かれた。
それと同時にSS戦略情報局(CIA)の指令を受けていたGHQ民政局もフランクフルト学派に汚染されていたことが露見した。
事実、GHQにもぐりこんだ隠れ共産主義者=ニューディーラーは、多くがフランクフルト学派の影響をうけたマルクス主義者だった。
GHQ民政局がつくったのが日本国憲法で、権利という文字が条文に28回もでてくるが、義務は3つ(教育・勤労・納税)しかない。
このことからも、GHQニューディーラーが、フランクフルト学派の影響をうけていたことは明らかで、OSS戦略情報局(CIA)でマルクーゼ、ホルクハイマー、E・フロムというフランクフルト学派が幅をきかせていた。
元来、憲法は、習慣法で十分なのだが、それを契約法にして、国家と歴史を切断しようとしたのは、社会主義革命のための布石で、フランクフルト学派はやり方が周到なのである。
フランクフルト学派が、戦後、日本中に蔓延したのは、日本の民主化をすすめたGHQ民政局がフランクフルト学派の巣窟だったOSSの支配下にあったからで、GHQ民政局の公職追放によって、日本の教育界や学会、マスコミ界は、そっくりマルキストにいれかわった。
日本人的な教師12万人が教壇を追われて、それまで、刑務所いるか地下にもぐっていたマルキストが小中高の教師なって、大学や学会、マスコミもマルキスト一色となった。
日本は、大戦で、すでに、230万人の甲種合格の日本人を失っている。
そして、公職追放で20数万の要人が職場や地位を追われて、日本人の魂をもった教員約12万人が公立学校から追放された。
戦後の教育界やマスコミはもはや日本ではなかったのである。
戦後、日本の主人となったマルキストは旧体制の指導者にこう言い放った。
「革命がおきたらおまえらはみなギロチンだ」
朝日新聞は、東条英機ら日本の戦争指導者7人に死刑が執行された日、紙面にこう書いてGHQをねぎらった。
「お役目ご苦労さまでした」
共産主義者から教育関係、官僚や法曹、学術、マスコミは、すべてGHQに媚びて延命をはかった前歴があって、渡部昇一は、かれらを「敗戦利得者」と呼んだ。
●文化革命の紅衛兵≠ニなった日本のインテリ階級
GHQ民政局次長ケーディスの右腕として活動、戦後、スパイ容疑をかけられて自殺したハーバート・ノーマンの周りには一ツ橋大学名誉教授だった都留重人ら日本人のマルキスト学者が群れていた。
憲法の権威、東大法学部憲法学者の宮沢俊義もフランクフルト学派に一人で宮沢の「八月革命説」は、フランクフルト学派がいう「二段階革命説」の前期革命(ブルジョワ革命)にあたる。
ちなみに後期革命は共産主義革命である。
フランクフルト学派のハーバーマスのことばに「憲法愛国主義」がある。
「民主主義国家において、国民は、祖国愛や愛国心ではなく、憲法の規範価値のもとに統合されるべき」という考え方で、これが、日本弁護士連合会のスローガンになった。
ドイツ統一の際、ドイツ民族が前面に出てきたが、これを完全否定したのが「憲法愛国主義」で、そのため、統一ドイツからドイツ色が一掃されることになった。
改憲論議でも、自民一部や公明党は「日本人(民族)にふさわしい憲法」という観点を欠いた法治主義に陥っているが、聖徳太子の「十七条憲法」をみてわかるように、憲法は文化で、条約や法律、命令や処分は、ただの法文である。
GHQのニューディーラーは、日本の国家体制を、西洋諸国が400年前に捨てた封建社会にあると思いこんでいた。
フランクフルト学派からの入れ知恵で、GHQは、日本を、ブルジョワ社会にたっしていない中世的社会と認識していた。
そして、天皇を、未開社会の酋長のような存在とうけとめていた。
フランクフルト学派は、二段階革命論にもとづいて、封建体制の文化構造を破壊して、日本を共産主義へ導くために、神道から神社、家族制度、権威、性的節度、伝統、愛国心、国家、民族、尊敬心などの徳や価値を封建体制の悪弊として否定してかかった。
このとき、フランクフルト学派が標的にしたのは、インテリ層で、とりわけ、教育界やメディア関係がターゲットになった。
フランクフルト学派がもとめたのは文化革命だったからで、文化を担うのはインテリと若者である。文化革命→政体革命が二段階革命の要諦で、それには精神を破壊して、人間をぶっ壊す文化大革命が先行されなくてはならなかった。
日本に共産主義革命をおこそうとしたのは、OSS戦略情報局(CIA)にもぐりこんだフランクフルト学派で、日本共産党以下、日本のマルクス主義者や反体制派は、外国勢力に追従して、革命を実現させようとする敗戦革命主義者でしかなかった。
だが、GHQが逆コース≠とったため、日本の左翼は、梯子を外された形になった。
ところが、日本の原型は、GHQが破壊してくれていたので、日本は、すでに左翼の国になっていた。
次回以降、日本が、いかにして、フランクフルト学派型の左翼国家になっていったかふり返ってみよう。
2023年07月03日
「自由主義」と「民主主義」の相克と調和12
●フランクフルト学派に呪われた戦後の日本
全学連や全共闘、赤軍派が荒れ狂った1960〜70年代にかけて、フランクフルト学派という過激な思想が日本ばかりか世界中を暴れ回った。
フランクフルト学派は、1923年、ドイツでうまれたマルクス主義の亜流で、階級闘争=暴力革命が実現しないのは、人間の精神が資本主義に毒されているからというのが主たる主張だった。
フランクフルト学派の第一世代に属するルカーチは、こう宣言した。
「資本主義下でつくられた精神を破壊しなければ革命は実現できない。人間を破壊せよ。文明や文化を破壊せよ。体制の破壊者であるならどんな犯罪者でもあってもりっぱな革命の兵士である」
この思想の核心は、人間を、資本主義に毒された、あるいは、資本主義から疎外された被害者ととらえるところにある。
したがって、革命をおこすには、その毒された精神を破壊しなければならない。
人間の精神をつくりあげてきたのは歴史である。
革命をおこすには、最初に歴史を破壊しなければならないというのがフランクフルト学派の理屈である。
造反有理というのは、謀反や反乱に正義があるという原理で、謀反や反乱は資本主義から疎外された犠牲者、あるいは、体制から虐げられた被害者意識のあらわれである。
毛沢東の文化大革命からポルポトのカンボジア大虐殺、アメリカの9・11同時多発テロもこの悪魔の思想の影響をうけているが、テロリズムを容認する造反有理の根本にあるのが、ロックの革命権やルソーの国民主権である。
神があたえた自由や平等、天賦の権利および生命の安全や幸福追求の欲望を実現するための政府がその目的を達成できない場合、旧体制を倒して、新たな政府を設立できるというのがロックの革命権である。
一方、国家の主権を、国民がもつという迷妄がルソー主義で、ルソー主義がフランス革命にスローガンになったように、ロック主義がアメリカ革命(独立戦争)のイデオロギーになった。
●平和な家庭や正常な男女関係は革命の大敵
ナチに追われてアメリカに移ったルカーチの共産主義運動が、戦後、世界に爆発的に広がっていったのは、権力に虐げられた弱者=人民の抵抗というマルクス主義の戦略が広くうけいれられたからだった。
このときもちいられたのが疎外≠ニいう概念だった。
人間が不幸なのは、文化や文明、家庭や社会、共同体や国家から疎外されているからだとする論理で、これが『批判理論』として、ホルクハイマー、アドルノ、ハーバーマスらによって、左翼理論の中軸にすえられてきた。
権威や家族、道徳や伝統、性的節度、忠誠心、愛国心、国家主義、民族中心主義、習慣など人間社会を形成している徳目をすべて批判して、改革をすすめようとするのが批判理論である。一方、野蛮からの解放だったはずの啓蒙の理念が次第に道具化して人間を疎外してゆくとしたのが『啓蒙の弁証法』で、この書は、日本のインテリ左翼から熱烈に歓迎された。
この論理にアクセルをかけたのが反ナチス運動と反戦平和思想で、フランクフルト学派は、ナチスや軍国主義、侵略戦争をゆるしたのは、近代人の最大の欠陥だったとして、反ナチス運動をまきこんで、歴史や体制、文化を否定する論理をくりだして、体制の内部崩壊をひきだそうとする。
有名なことばがアドルノの《アウシュビィッツのあとで詩を書くのは野蛮である》で、このことばによって、ナチやファシズムを生んだ中産階級はみな悪に仕立てあげられた。
エンゲルスは『家族、私有財産及び国家の起源』で、女性差別の根源は家父長制にあると論じたが、フランクフルト学派も、性差(ジェンダー)やフェミニズムは西洋文化からうまれたとして、アドルノは、家父長制はファシズムのゆりかごであるとのべた。
共産主義=暴力革命にとって、平和な家庭や男女の円満な関係は大敵だったのである。
●女性解放を謳うマルクス主義フェミニズムの魔性
アドルノは、母親と父親の役割を交換することを提唱して女性の社会進出と父親の権威否定に実行に移したが、その結果、ソ連では、人口の停滞や家庭の崩壊という現象を招いた。
フランクフルト学派が人口の大半を占める中産階級をターゲットにするのは革命の担い手が労働者からプチ・ブルに移ったからで、かれらを革命の戦士に仕立てるには、マスコミなどで、不満を煽りに煽って、不満分子にしなくてはならない。
このとき、もちだされるのがテロリズムの思想である。
他人の自由を侵害する自由や規制のない民主主義、個人化された主権などが横行すれば、社会は崩壊するが、その崩壊を見越して、それでも自由や民主を叫ぶのはテロリズムで、破壊衝動である。
アメリカ9・11テロにひそかに喝采を送って、各地で頻繁におこるテロに共感するインテリ左翼の思想をささえているのがこの破壊衝動で、反戦運動やフェミニズム、ジェンダーなどの反差別も、すべて、この学派からうまれた破壊衝動である。
フランクフルト学派の中心的存在だったルカーチは、ハンガリー革命を指導して、失敗してソ連に亡命した。
なぜ革命に失敗したのかとルカーチは考え、一つの結論をえた。
革命の妨害になっていたのは、父権や母権の社会的分担や役割、家族という価値観、男女の性のモラルで、人間社会の保守性をささえていたのは、ジェンダー(性差)だった。このジェンダーの垣根さえとりはらってしまえば、革命は、はるかに、実現しやすくなる。
マルクス主義フェミニズムは、性差を社会的役割や人間の根源的なありようとはみとめない。女性は、家事や育児に縛られた抑圧された労働者で、母親や男性の恋人、夫に尽くす妻という女性の社会的役割は、封建体制や資本主義の悪しき因習というのである。
●1%のジェンダー障害者を黙認してきた日本
「LGBT理解増進」が自民・公明両党と日本維新の会、国民民主党の4党による与党案の修正案が成立した。
LGBTは、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーの頭文字からとったことばである。レズビアンが女性の同性愛で、ゲイが男性の同性愛、バイセクシュアルは両刀使い、トランスジェンダーは性の同一性障害だが、いずれにしても、一種の性癖である。
統合失調症も100人に1人の割合で発症する(厚生労働省)が、すべてのひとが治療をうけているわけではない。
LGBTも、100人に1人の割合ででてくるが、日本では、これを法的に取り締まったり、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教などのように宗教的異端としてみたりすることはない。
アフリカでは大半の国(38か国)が同性愛は違法で、モーリタニア、ナイジェリアでは死刑、ウガンダ、スーダン、タンザニアでは終身刑が課せられる。
日本は、個人の性癖にはじつにおおらかなのだが、それでも、ジェンダーに不寛容だとマスコミが煽る。
その好例が「ジェンダーギャップ報告書」で、日本は男女平等の達成度合いが146か国のうち125位で、マスコミは、世界にたいして恥ずかしいという。
内訳は、政治と経済、教育と健康の4部門で、日本は、教育と健康については世界のトップだが、政治と経済はふるわない。
日本の女性は、家庭や家族を大事にするからで、政治や経済などは男にやらせておけばよいと考えるのはきわめてまっとうな態度でいえよう。
フランクフルト学派の革命戦術に被害者意識を煽るという方法がある。
LGBTの法制化をもとめるヒトがテレビカメラにむかってこういった。
「わたしたちをどこまで追い詰めると気がすむのですか!」
だれも追い詰めてなどいない。ただ、日陰に存在するものを、表にひっぱりだして騒ぐのはよくないといっているだけである。
100万人の統合失調症の人々を、法律をつくってまもるより、陰において適切な治療をおこなうほうがよほど賢明なのである。
全学連や全共闘、赤軍派が荒れ狂った1960〜70年代にかけて、フランクフルト学派という過激な思想が日本ばかりか世界中を暴れ回った。
フランクフルト学派は、1923年、ドイツでうまれたマルクス主義の亜流で、階級闘争=暴力革命が実現しないのは、人間の精神が資本主義に毒されているからというのが主たる主張だった。
フランクフルト学派の第一世代に属するルカーチは、こう宣言した。
「資本主義下でつくられた精神を破壊しなければ革命は実現できない。人間を破壊せよ。文明や文化を破壊せよ。体制の破壊者であるならどんな犯罪者でもあってもりっぱな革命の兵士である」
この思想の核心は、人間を、資本主義に毒された、あるいは、資本主義から疎外された被害者ととらえるところにある。
したがって、革命をおこすには、その毒された精神を破壊しなければならない。
人間の精神をつくりあげてきたのは歴史である。
革命をおこすには、最初に歴史を破壊しなければならないというのがフランクフルト学派の理屈である。
造反有理というのは、謀反や反乱に正義があるという原理で、謀反や反乱は資本主義から疎外された犠牲者、あるいは、体制から虐げられた被害者意識のあらわれである。
毛沢東の文化大革命からポルポトのカンボジア大虐殺、アメリカの9・11同時多発テロもこの悪魔の思想の影響をうけているが、テロリズムを容認する造反有理の根本にあるのが、ロックの革命権やルソーの国民主権である。
神があたえた自由や平等、天賦の権利および生命の安全や幸福追求の欲望を実現するための政府がその目的を達成できない場合、旧体制を倒して、新たな政府を設立できるというのがロックの革命権である。
一方、国家の主権を、国民がもつという迷妄がルソー主義で、ルソー主義がフランス革命にスローガンになったように、ロック主義がアメリカ革命(独立戦争)のイデオロギーになった。
●平和な家庭や正常な男女関係は革命の大敵
ナチに追われてアメリカに移ったルカーチの共産主義運動が、戦後、世界に爆発的に広がっていったのは、権力に虐げられた弱者=人民の抵抗というマルクス主義の戦略が広くうけいれられたからだった。
このときもちいられたのが疎外≠ニいう概念だった。
人間が不幸なのは、文化や文明、家庭や社会、共同体や国家から疎外されているからだとする論理で、これが『批判理論』として、ホルクハイマー、アドルノ、ハーバーマスらによって、左翼理論の中軸にすえられてきた。
権威や家族、道徳や伝統、性的節度、忠誠心、愛国心、国家主義、民族中心主義、習慣など人間社会を形成している徳目をすべて批判して、改革をすすめようとするのが批判理論である。一方、野蛮からの解放だったはずの啓蒙の理念が次第に道具化して人間を疎外してゆくとしたのが『啓蒙の弁証法』で、この書は、日本のインテリ左翼から熱烈に歓迎された。
この論理にアクセルをかけたのが反ナチス運動と反戦平和思想で、フランクフルト学派は、ナチスや軍国主義、侵略戦争をゆるしたのは、近代人の最大の欠陥だったとして、反ナチス運動をまきこんで、歴史や体制、文化を否定する論理をくりだして、体制の内部崩壊をひきだそうとする。
有名なことばがアドルノの《アウシュビィッツのあとで詩を書くのは野蛮である》で、このことばによって、ナチやファシズムを生んだ中産階級はみな悪に仕立てあげられた。
エンゲルスは『家族、私有財産及び国家の起源』で、女性差別の根源は家父長制にあると論じたが、フランクフルト学派も、性差(ジェンダー)やフェミニズムは西洋文化からうまれたとして、アドルノは、家父長制はファシズムのゆりかごであるとのべた。
共産主義=暴力革命にとって、平和な家庭や男女の円満な関係は大敵だったのである。
●女性解放を謳うマルクス主義フェミニズムの魔性
アドルノは、母親と父親の役割を交換することを提唱して女性の社会進出と父親の権威否定に実行に移したが、その結果、ソ連では、人口の停滞や家庭の崩壊という現象を招いた。
フランクフルト学派が人口の大半を占める中産階級をターゲットにするのは革命の担い手が労働者からプチ・ブルに移ったからで、かれらを革命の戦士に仕立てるには、マスコミなどで、不満を煽りに煽って、不満分子にしなくてはならない。
このとき、もちだされるのがテロリズムの思想である。
他人の自由を侵害する自由や規制のない民主主義、個人化された主権などが横行すれば、社会は崩壊するが、その崩壊を見越して、それでも自由や民主を叫ぶのはテロリズムで、破壊衝動である。
アメリカ9・11テロにひそかに喝采を送って、各地で頻繁におこるテロに共感するインテリ左翼の思想をささえているのがこの破壊衝動で、反戦運動やフェミニズム、ジェンダーなどの反差別も、すべて、この学派からうまれた破壊衝動である。
フランクフルト学派の中心的存在だったルカーチは、ハンガリー革命を指導して、失敗してソ連に亡命した。
なぜ革命に失敗したのかとルカーチは考え、一つの結論をえた。
革命の妨害になっていたのは、父権や母権の社会的分担や役割、家族という価値観、男女の性のモラルで、人間社会の保守性をささえていたのは、ジェンダー(性差)だった。このジェンダーの垣根さえとりはらってしまえば、革命は、はるかに、実現しやすくなる。
マルクス主義フェミニズムは、性差を社会的役割や人間の根源的なありようとはみとめない。女性は、家事や育児に縛られた抑圧された労働者で、母親や男性の恋人、夫に尽くす妻という女性の社会的役割は、封建体制や資本主義の悪しき因習というのである。
●1%のジェンダー障害者を黙認してきた日本
「LGBT理解増進」が自民・公明両党と日本維新の会、国民民主党の4党による与党案の修正案が成立した。
LGBTは、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーの頭文字からとったことばである。レズビアンが女性の同性愛で、ゲイが男性の同性愛、バイセクシュアルは両刀使い、トランスジェンダーは性の同一性障害だが、いずれにしても、一種の性癖である。
統合失調症も100人に1人の割合で発症する(厚生労働省)が、すべてのひとが治療をうけているわけではない。
LGBTも、100人に1人の割合ででてくるが、日本では、これを法的に取り締まったり、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教などのように宗教的異端としてみたりすることはない。
アフリカでは大半の国(38か国)が同性愛は違法で、モーリタニア、ナイジェリアでは死刑、ウガンダ、スーダン、タンザニアでは終身刑が課せられる。
日本は、個人の性癖にはじつにおおらかなのだが、それでも、ジェンダーに不寛容だとマスコミが煽る。
その好例が「ジェンダーギャップ報告書」で、日本は男女平等の達成度合いが146か国のうち125位で、マスコミは、世界にたいして恥ずかしいという。
内訳は、政治と経済、教育と健康の4部門で、日本は、教育と健康については世界のトップだが、政治と経済はふるわない。
日本の女性は、家庭や家族を大事にするからで、政治や経済などは男にやらせておけばよいと考えるのはきわめてまっとうな態度でいえよう。
フランクフルト学派の革命戦術に被害者意識を煽るという方法がある。
LGBTの法制化をもとめるヒトがテレビカメラにむかってこういった。
「わたしたちをどこまで追い詰めると気がすむのですか!」
だれも追い詰めてなどいない。ただ、日陰に存在するものを、表にひっぱりだして騒ぐのはよくないといっているだけである。
100万人の統合失調症の人々を、法律をつくってまもるより、陰において適切な治療をおこなうほうがよほど賢明なのである。
2023年06月26日
グローバルサウスと大東亜共栄思想5
●個と全体の利害を調整するのが政治
有史以来、人類を悩ませてきて、いまだに解決されない難問に個と全体の矛盾≠ェある。
個の利益だけをもとめると、全体の利益が害われる。
全体の利益をもとめると、個人の利益が侵害される。
この二律背反を人類はどうしてものりこえることができなかった。
個と全体の両方の利益をもとめるのが政治だが、その政治の原理はいまだに確立されていない。
政治は、集団や共同体、国家の安全や繁栄もとめる全体の論理である。
一方、心の安らぎや魂の救済をもとめる宗教や人生観や価値観にもとづいた道徳、タブーの体系である法律は、個の論理あるいは私的な感情である。
政治という全体を重んじると個が軽視され、宗教や道徳、法という個を重んじると全体がないがしろにされる。
政治という全体の論理と、宗教や道徳、法という個の論理が両立しないのは構造矛盾(「個と全体の利害は対立する」)にとりこまれているからである。
西洋では、紀元前のギリシア哲学以来、個と全体のこの矛盾を解消しようと賢人たちが知恵を絞ってきたが、ついに妙案はでてこなかった。
もっとも、西洋の一神教や一元論から個と全体の矛盾≠解消する知恵が出てくるはずはなかった。
なぜなら、個と全体の矛盾は、一神教や一元論からでてきたものだったからで、キリスト以前、神話と多神教だった古代のギリシァやローマに個と全体の矛盾などなかった。
●西洋の一元論の欠陥を克服した天皇の二元論
個と全体の矛盾という大問題を解消したのは、西洋ではなく、その西洋から遠く隔たったアジアの島国日本で、日本が、個と全体の矛盾という一元論的な迷妄から自由だったのは、天皇の国だったからである。
古代縄文文化の国、日本は、アニミズムの自然崇拝と多神教の国である。
神話と天皇の国日本は、二元論の国でもあって、権威と権力、国体と政体の二元論の下で「君民共治」「君臣一体」という一神教、一元論の西洋では考えられもしない柔軟な政治体制がとられてきた。
西洋で絶対矛盾がでてきたのは、一神教や一元論が、正しいものや絶対的な価値は一つしかないとしたからだった。
ところが、日本に根づいたのは、硬直した一神教や一元論ではなく、柔軟な多神教や二元論だった。そこから、多様性や奥行き、変化にとんだ両面価値(アンビバレンス)やあいまいさ、中庸の徳といった中間色の文化が生まれた。
個と全体の矛盾を克服できていない西洋の文化は、極彩色の一元論である。
自由や平等、権利や民主主義は、革命をとおして民衆が権力から奪ったもので、あとに残ったのは、永遠の「闘争の論理」で、左翼は、いまなお、自由や平等、権利や民主主義を権力から奪えとこぶしをふりあげる。
国家や歴史、文化に拠って立つ政治と、宗教や道徳、法に拠って立つ個人が引き裂かれた結果、民と国家が融合することなく、険しく対立する革命史観がうまれた。
そのケースの一つにあげられるのがオウム真理教事件で、法悦やカルト(宗教的狂気)という個人の宗教を絶対視して、社会や国家、公共性が否定された結果、サリン事件のような凶悪犯罪がおきた。
神の恩恵や法悦、救済という個人の自己満足のためなら社会や国家は否定されてもよいというのが宗教の独善で、その独善によって、西洋では、宗教戦争や異端審判、魔女狩りのような惨劇がひきおこされた。
●自由や平等、権利や民主主義は信仰ではなく社会制度
自由や平等、権利や民主主義を奉って他人や国家も眼中にないという日本の風潮も、ほとんど、宗教の感覚で、自由や平等、権利や民主主義が、モーゼの十戒のような有り難い預言になっている。
犯罪者にも人権があるといって騒ぐヒトがいるが、人権も民主主義も、自由も平等もすべてフィクションで、うまれながらにして個人にそなわっているものなど、なに一つない。
自由や平等、権利や民主主義は、国家が保証してくれる社会制度で、それらの制度が国民に分有されて、はじめて、個人のものになる。
交通安全は、交通法規があるからではなく、交通インフラが整備されているから実現されるのである。
日本の安全がまもられているのも、憲法九条があるからではない。
日本が世界7位の防衛力をもち、一方、日米安保という軍事同盟があるからで、憲法九条があるから日本は平和なのだというのは、宗教というより、カルト思想である。
日本の自由や平等、権利や民主主義は、宗教のカテゴリーに入っている。
したがって、いかに運用すべきかではなく、どれほど深く信仰しているかが問われる。
だが、自由や平等、権利や民主主義は、個人の信仰対象ではなく、社会の制度である。
したがって、個人の特権ではなく、社会的な制限や規制としてはたらく。
分有される自由や平等、権利や民主主義は、じぶんだけのものではないからで、他人や社会に無益にして有害な自由や平等、権利や民主主義は、悪の思想なのである。
個人の宗教的な価値観と、全体の社会制度を二元論でつないだ日本の文化や思想が、もういちど見直されてよいだろう。
有史以来、人類を悩ませてきて、いまだに解決されない難問に個と全体の矛盾≠ェある。
個の利益だけをもとめると、全体の利益が害われる。
全体の利益をもとめると、個人の利益が侵害される。
この二律背反を人類はどうしてものりこえることができなかった。
個と全体の両方の利益をもとめるのが政治だが、その政治の原理はいまだに確立されていない。
政治は、集団や共同体、国家の安全や繁栄もとめる全体の論理である。
一方、心の安らぎや魂の救済をもとめる宗教や人生観や価値観にもとづいた道徳、タブーの体系である法律は、個の論理あるいは私的な感情である。
政治という全体を重んじると個が軽視され、宗教や道徳、法という個を重んじると全体がないがしろにされる。
政治という全体の論理と、宗教や道徳、法という個の論理が両立しないのは構造矛盾(「個と全体の利害は対立する」)にとりこまれているからである。
西洋では、紀元前のギリシア哲学以来、個と全体のこの矛盾を解消しようと賢人たちが知恵を絞ってきたが、ついに妙案はでてこなかった。
もっとも、西洋の一神教や一元論から個と全体の矛盾≠解消する知恵が出てくるはずはなかった。
なぜなら、個と全体の矛盾は、一神教や一元論からでてきたものだったからで、キリスト以前、神話と多神教だった古代のギリシァやローマに個と全体の矛盾などなかった。
●西洋の一元論の欠陥を克服した天皇の二元論
個と全体の矛盾という大問題を解消したのは、西洋ではなく、その西洋から遠く隔たったアジアの島国日本で、日本が、個と全体の矛盾という一元論的な迷妄から自由だったのは、天皇の国だったからである。
古代縄文文化の国、日本は、アニミズムの自然崇拝と多神教の国である。
神話と天皇の国日本は、二元論の国でもあって、権威と権力、国体と政体の二元論の下で「君民共治」「君臣一体」という一神教、一元論の西洋では考えられもしない柔軟な政治体制がとられてきた。
西洋で絶対矛盾がでてきたのは、一神教や一元論が、正しいものや絶対的な価値は一つしかないとしたからだった。
ところが、日本に根づいたのは、硬直した一神教や一元論ではなく、柔軟な多神教や二元論だった。そこから、多様性や奥行き、変化にとんだ両面価値(アンビバレンス)やあいまいさ、中庸の徳といった中間色の文化が生まれた。
個と全体の矛盾を克服できていない西洋の文化は、極彩色の一元論である。
自由や平等、権利や民主主義は、革命をとおして民衆が権力から奪ったもので、あとに残ったのは、永遠の「闘争の論理」で、左翼は、いまなお、自由や平等、権利や民主主義を権力から奪えとこぶしをふりあげる。
国家や歴史、文化に拠って立つ政治と、宗教や道徳、法に拠って立つ個人が引き裂かれた結果、民と国家が融合することなく、険しく対立する革命史観がうまれた。
そのケースの一つにあげられるのがオウム真理教事件で、法悦やカルト(宗教的狂気)という個人の宗教を絶対視して、社会や国家、公共性が否定された結果、サリン事件のような凶悪犯罪がおきた。
神の恩恵や法悦、救済という個人の自己満足のためなら社会や国家は否定されてもよいというのが宗教の独善で、その独善によって、西洋では、宗教戦争や異端審判、魔女狩りのような惨劇がひきおこされた。
●自由や平等、権利や民主主義は信仰ではなく社会制度
自由や平等、権利や民主主義を奉って他人や国家も眼中にないという日本の風潮も、ほとんど、宗教の感覚で、自由や平等、権利や民主主義が、モーゼの十戒のような有り難い預言になっている。
犯罪者にも人権があるといって騒ぐヒトがいるが、人権も民主主義も、自由も平等もすべてフィクションで、うまれながらにして個人にそなわっているものなど、なに一つない。
自由や平等、権利や民主主義は、国家が保証してくれる社会制度で、それらの制度が国民に分有されて、はじめて、個人のものになる。
交通安全は、交通法規があるからではなく、交通インフラが整備されているから実現されるのである。
日本の安全がまもられているのも、憲法九条があるからではない。
日本が世界7位の防衛力をもち、一方、日米安保という軍事同盟があるからで、憲法九条があるから日本は平和なのだというのは、宗教というより、カルト思想である。
日本の自由や平等、権利や民主主義は、宗教のカテゴリーに入っている。
したがって、いかに運用すべきかではなく、どれほど深く信仰しているかが問われる。
だが、自由や平等、権利や民主主義は、個人の信仰対象ではなく、社会の制度である。
したがって、個人の特権ではなく、社会的な制限や規制としてはたらく。
分有される自由や平等、権利や民主主義は、じぶんだけのものではないからで、他人や社会に無益にして有害な自由や平等、権利や民主主義は、悪の思想なのである。
個人の宗教的な価値観と、全体の社会制度を二元論でつないだ日本の文化や思想が、もういちど見直されてよいだろう。
2023年06月12日
グローバルサウスと大東亜共栄思想4
●自由や民主が個人の特権となっている日本
明治新以降、日本は、西洋の思想を有難がって、無条件にとりいれてきた。
だが、ほとんどが、誤解や曲解、歪曲で、真の意味をとりちがえている。
その傾向は、明治時代よりも、むしろ、大正や昭和になって高まった。
1917年のロシア革命後、吉野作造の「民本主義(君民共治)」が大正デモクラシーのもとでルソー的な「民主主義(国民主権)」になると、自由や平等にたいする考え方もルソー的、マルクス主義的なものへと変質してゆく。
西尾幹二はこういう。「自由はそれだけではおよそ何ものでもない。その自由が奪われたとき強烈な自由への欲求がわきだす」
自由や平等、人権などは、奪われたとき、ヒトは、これを渇望するのであって、奪われてもいない自由や平等、人権をもとめるのは、革命主義で、文句をつけて体制をひっくり返そうという魂胆があるからである。
西尾はこうともいう。「ヨーロッパ人の自他の厳格な区別立ては、そのなかに、熱病じみたアナーキーという闇を秘めている。一方、日本人の自他意識は不明確(あいまい)で、ヨーロッパ人とは一味も二味もちがったデリケートな性格をそなえている。原理や原則にとらわれることなく、変化に対応する柔軟さをもち、実際的である」(『自由の悲劇』)
西洋の自由や平等、民主や人権は、奪われることにたいする抵抗である。
したがって、他人の自由や平等、民主や人権を奪うことも、罪悪になる。
ところが、日本では、じぶんの自由や平等、民主や人権をまもるには他人のそれは意に介さないという風潮で、言論被害をかえりみない言論の自由、被害者の人権を無視する加害者の人権擁護がまかりとおっている。
●歴史や伝統、文化を否定する左翼と法匪
自由主義だからなにやってよいというのがリバタリアン(完全自由主義者)である。テレビの人気番組『ホンマでっかTV』のコメンテーター早稲田大学名誉教授の池田清彦は「他人に迷惑をかけないかぎりなにをやってもよい」と説くが、この男は、日本共産党の熱烈な支持者で同党の宣伝塔でもある。
リバタリアンが自由をみとめない共産主義を支持するという理屈は解せないが、完全自由主義者を公言する池田が共産主義者で、自由の真の意味を理解していなかったとすればうなずける。
池田は、絶対自由というイデオロギーに縛られて、自由を見失っているのである。
昭和天皇の肖像をガスバーナーで燃やしてふみつける映像などを展示した「表現の不自由(国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」)へ公的負担金(約1億3700万円)の残金(約3380万円)一部の支払いを拒否した名古屋市にたいして、名古屋高等裁判所は、残金の支払いを命じた。
「昭和天皇の肖像に火をつけてふみつける映像も表現の自由にふくまれる」という判断で、違約行為はなかったというのである。そして、高須クリニックの高須克弥院長や大阪府内在住の主婦3人らが「表現の不自由展」から精神的な苦痛をうけたとする訴えはあっさりと退けて、主催者の愛知県大村秀章知事や芸術監督の津田大介らにはいっさいおトガめなしだった。
政治は、国家や文化など歴史の知恵にもとづくが、法治は、人間が決めた法律のみを根拠にする。
法文のみを奉じて、善悪や社会通念、価値観ぬきで判断を下す裁判官が法匪といわれるゆえんで、法匪の匪は盗賊の賊と同じ意味である。
司法や検察、弁護士会が反国家的なのは、国家や歴史、文化ではなく法律や観念、イデオロギーに拠って立つからだが、これは、左翼が国体や歴史よりも西洋の思想家(マルクスやルソー)を重く見るのと同じ構造である。
●共同体が個≠竍私≠ヨ分解してゆく危うさ
自由主義は、自由の有り難さを万人で共有しようというもので、個人の特権ではない。
これを、個人的自由と分けて、あえて、社会的自由と呼ばれる。
ヨーロッパでうまれた自由の概念は、社会的自由で、そのテキストとなっているのがホブハウスの『自由主義―福祉国家への思想的転換』である。
そこにこうある。「いかなる時代でも、禁止なくして、社会的自由はありえない」
自由は、規制を必要として、その規制が社会の自由を約束するといっているのである。
福祉国家というのは「君民共治」のことで、万民の幸を公平に考える天皇の大御心(藤田東湖『弘道館記述義』)が、近代ヨーロッパの進歩的自由主義にきわめて近かったのである。
他人に迷惑かけないかぎりなにをやっても自由(リバタリアニズム)という思想やアナキズム(無政府主義)は、戦後日本の特異な思想で、こんなばかな考えが世界で通用するわけはない。
日本で、社会的自由と対立する個人的自由は、基本的人権と呼ばれる。
日本国憲法では、この基本的人権と、国民主権が二本柱になっている。
だが、日本以外の国では、自由も人権も、平等も民主主義も、個人にあたえられたものではなく、社会的な価値である。
そんなことは、ホッブズが17世紀に「万人による万人の戦争」という比喩をもちいて指摘して以来、常識になっていたはずである。
民主主義を個人的信条やイデオロギーとしてとらえると、個人だけに都合のよい身勝手な思想になる。
だが、国家や社会など全体のものとしてみると、民主主義は君民共治≠フ民本主義となって、望ましい体制となる。
民主主義や国民主権、自由や平等を個人のものとするから混乱がおきるのである。
そこに、保守主義や伝統的な精神、思想がもとめられる理由がある。
現在、日本では、個人が最大の特権をもって、他者や国家、歴史や伝統的な価値を否定する風潮がはびこって、社会摩擦をひきおこしている。
次回以降、同性結婚法制化などのような、国家や共同体が個≠竍私≠ヨ分解してゆく危険性についてのべよう。
明治新以降、日本は、西洋の思想を有難がって、無条件にとりいれてきた。
だが、ほとんどが、誤解や曲解、歪曲で、真の意味をとりちがえている。
その傾向は、明治時代よりも、むしろ、大正や昭和になって高まった。
1917年のロシア革命後、吉野作造の「民本主義(君民共治)」が大正デモクラシーのもとでルソー的な「民主主義(国民主権)」になると、自由や平等にたいする考え方もルソー的、マルクス主義的なものへと変質してゆく。
西尾幹二はこういう。「自由はそれだけではおよそ何ものでもない。その自由が奪われたとき強烈な自由への欲求がわきだす」
自由や平等、人権などは、奪われたとき、ヒトは、これを渇望するのであって、奪われてもいない自由や平等、人権をもとめるのは、革命主義で、文句をつけて体制をひっくり返そうという魂胆があるからである。
西尾はこうともいう。「ヨーロッパ人の自他の厳格な区別立ては、そのなかに、熱病じみたアナーキーという闇を秘めている。一方、日本人の自他意識は不明確(あいまい)で、ヨーロッパ人とは一味も二味もちがったデリケートな性格をそなえている。原理や原則にとらわれることなく、変化に対応する柔軟さをもち、実際的である」(『自由の悲劇』)
西洋の自由や平等、民主や人権は、奪われることにたいする抵抗である。
したがって、他人の自由や平等、民主や人権を奪うことも、罪悪になる。
ところが、日本では、じぶんの自由や平等、民主や人権をまもるには他人のそれは意に介さないという風潮で、言論被害をかえりみない言論の自由、被害者の人権を無視する加害者の人権擁護がまかりとおっている。
●歴史や伝統、文化を否定する左翼と法匪
自由主義だからなにやってよいというのがリバタリアン(完全自由主義者)である。テレビの人気番組『ホンマでっかTV』のコメンテーター早稲田大学名誉教授の池田清彦は「他人に迷惑をかけないかぎりなにをやってもよい」と説くが、この男は、日本共産党の熱烈な支持者で同党の宣伝塔でもある。
リバタリアンが自由をみとめない共産主義を支持するという理屈は解せないが、完全自由主義者を公言する池田が共産主義者で、自由の真の意味を理解していなかったとすればうなずける。
池田は、絶対自由というイデオロギーに縛られて、自由を見失っているのである。
昭和天皇の肖像をガスバーナーで燃やしてふみつける映像などを展示した「表現の不自由(国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」)へ公的負担金(約1億3700万円)の残金(約3380万円)一部の支払いを拒否した名古屋市にたいして、名古屋高等裁判所は、残金の支払いを命じた。
「昭和天皇の肖像に火をつけてふみつける映像も表現の自由にふくまれる」という判断で、違約行為はなかったというのである。そして、高須クリニックの高須克弥院長や大阪府内在住の主婦3人らが「表現の不自由展」から精神的な苦痛をうけたとする訴えはあっさりと退けて、主催者の愛知県大村秀章知事や芸術監督の津田大介らにはいっさいおトガめなしだった。
政治は、国家や文化など歴史の知恵にもとづくが、法治は、人間が決めた法律のみを根拠にする。
法文のみを奉じて、善悪や社会通念、価値観ぬきで判断を下す裁判官が法匪といわれるゆえんで、法匪の匪は盗賊の賊と同じ意味である。
司法や検察、弁護士会が反国家的なのは、国家や歴史、文化ではなく法律や観念、イデオロギーに拠って立つからだが、これは、左翼が国体や歴史よりも西洋の思想家(マルクスやルソー)を重く見るのと同じ構造である。
●共同体が個≠竍私≠ヨ分解してゆく危うさ
自由主義は、自由の有り難さを万人で共有しようというもので、個人の特権ではない。
これを、個人的自由と分けて、あえて、社会的自由と呼ばれる。
ヨーロッパでうまれた自由の概念は、社会的自由で、そのテキストとなっているのがホブハウスの『自由主義―福祉国家への思想的転換』である。
そこにこうある。「いかなる時代でも、禁止なくして、社会的自由はありえない」
自由は、規制を必要として、その規制が社会の自由を約束するといっているのである。
福祉国家というのは「君民共治」のことで、万民の幸を公平に考える天皇の大御心(藤田東湖『弘道館記述義』)が、近代ヨーロッパの進歩的自由主義にきわめて近かったのである。
他人に迷惑かけないかぎりなにをやっても自由(リバタリアニズム)という思想やアナキズム(無政府主義)は、戦後日本の特異な思想で、こんなばかな考えが世界で通用するわけはない。
日本で、社会的自由と対立する個人的自由は、基本的人権と呼ばれる。
日本国憲法では、この基本的人権と、国民主権が二本柱になっている。
だが、日本以外の国では、自由も人権も、平等も民主主義も、個人にあたえられたものではなく、社会的な価値である。
そんなことは、ホッブズが17世紀に「万人による万人の戦争」という比喩をもちいて指摘して以来、常識になっていたはずである。
民主主義を個人的信条やイデオロギーとしてとらえると、個人だけに都合のよい身勝手な思想になる。
だが、国家や社会など全体のものとしてみると、民主主義は君民共治≠フ民本主義となって、望ましい体制となる。
民主主義や国民主権、自由や平等を個人のものとするから混乱がおきるのである。
そこに、保守主義や伝統的な精神、思想がもとめられる理由がある。
現在、日本では、個人が最大の特権をもって、他者や国家、歴史や伝統的な価値を否定する風潮がはびこって、社会摩擦をひきおこしている。
次回以降、同性結婚法制化などのような、国家や共同体が個≠竍私≠ヨ分解してゆく危険性についてのべよう。
2023年06月04日
グローバルサウスと大東亜共栄思想3
●私的感情だけで殺人に走る恐怖のじぶん主義
私的な財産問題で逆恨みして安倍晋三元首相を射殺した山上徹也、じぶんが選挙に出られないのは選挙制度が悪いからという私的憤懣から岸田文雄首相を爆弾で殺そうとした木村隆二、悪口をいわれたという思いこみから4人を銃殺した青木政憲ら、一昔前まで、考えられもしなかった幼稚で自己中心的な殺人者や凶悪犯が続々とでてきた。
これらの事件に共通しているのが、じぶんのことしか考えることができない幼児性と極端な自己中心的な精神で、心理学で、自我肥大と呼ばれる。
人間は、成熟すると、他者や社会、国家など個や私をこえた存在に気づいて謙虚になる。尊敬心や名誉心、愛国心や公徳心など全体性の価値観に目覚めるのである。そうなると、おのずと自我が小さくなって、その一方、他者への愛や礼節、義理や道徳などの社会性がそなわってくる。
ところが、現在、世の中は、他者や社会、国家など、個や私をこえた価値や基準を否定する方向にうごいている。
同性婚が好例で、マスコミや左翼、法曹界は、同性婚の法制化に不熱心な与党を非難して、世界に遅れているという。世界に遅れているという論法がなりたつのなら、日本が、1919年、パリ講和会議で、世界に先駆けて人種差別撤廃を提案して、英米から拒絶されたことも、日本が世界に遅れていたことになってしまう。
西洋が性的マイノリティーや同性婚に寛容なのは、国家は個人の領域へ立ち入らないという不文律があるからで、どうぞお勝手にという意味である。
ところが、日本では、偏見をもつか差別反対と騒ぐかどちらかである。
常識や習慣、良識にしたがうのではなく、個や私をもちだして、じぶんの気持ちを最優先させるのが現代の風潮で、わたしはこれを自由主義や個人主義、民主主義と区別してじぶん主義≠ニ呼ぶことにしている。
背景にあるのが、消費者や有権者、主権者たる国民を神様とするマスコミのコマーシャリズムや国政選挙、世論における民主主義への盲信で、現在、日本では、社会通念や歴史の知恵よりも、あなたのマネー、あなたの一票、あなたの意見、あなたの主権、あなたの気持ちが大事にされる。
そこからかもしだされるのが、じぶんの気持ちや考えを絶対とする幼児的なじぶん中心主義で、他者や社会、全体へ目がむかない反面、過剰に自我が表にでてくる。
●発狂しつつある日本と橋下徹イズムや瀬戸内寂聴ブーム
本屋には橋下徹の本ばかり並んでいるが、橋下人気やかつての瀬戸内寂聴ブームと狂いつつある現在の日本を切り離して考えることができない。
橋下徹は、ウクライナ4000万国民は、ロシアに歯向かわず、国家を捨てて難民となって、十年後、帰ってきて、国家を再建すればいいと堂々といってのけた。
じぶんの気持ちやじぶんの都合、じぶん(個人)のイノチがいちばん大事で、国家や他人、モラルや常識、伝統的な価値観は二の次というのが橋下イズムで、それが現代の日本の風潮である。
同じ潮流にあったのが瀬戸内寂聴のイノチ主義で、寂聴が最大の敵としたのが国家だった。したがって、国家の繁栄と防衛に一身を捧げた安倍晋三元首相が寂聴の憎むべき天敵となった。
その寂聴をもちあげる一方、安倍元首相を国民の敵として叩きまくったのがマスコミ左翼で、当時、悪いことはすべて安倍が原因という風潮で、野党からマスコミ、検察にいたるまで、桜を見る会問題と森友学園問題、加計学園問題(「モリカケサクラ」)に狂奔して、新聞テレビで、安倍元首相の政治的、外交的功績が報道されることはついぞなかった。
瀬戸内晴美(寂聴)は、夫と3歳の子を捨てて新しい男の元へ走ったふしだらな女で、そんなじぶんを正当化するために迎合的な小説を書いて人気作家になった。さらに、法悦という快をもとめて仏道に入ったという身勝手な女だが、現在、寂聴は、日本でもっとも尊敬される偉人で、文化勲章というおまけまでついている。
なぜか。寂聴の私小説的な自己中心的な身勝手や法匪橋下のエゴイズムが、現代の日本で、自由の象徴となっているからである。
ウクライナ4000万もの国民が難民になる苦しみや3歳のわが子の悲しみよりも、じぶんの気持ちや快楽のほうが大事だったのが橋下イズムや瀬戸内ブームで、日本人は、そっくりこの自己中心主義にはまりこみ、これを個人主義や自由主義、民主主義と思いこんでいる。
●ガキの精神≠ェ犯罪にまで転落した反日左翼
岸田首相が襲撃された前日、作家で法政大学の島田雅彦教授が『安倍三代』(朝日文庫)の著者でジャーナリストの青木理やマルキストで京都精華大准教授の白井聡らと共演するインターネット番組で「(安倍元首相)の暗殺が成功してよかった」などと発言して物議をかもしたが、メディアの取材に応じた島田は、抗弁するどころか、よいチャンスとばかりに自著『パンとサーカス』の宣伝につとめる狡猾漢ぶりだった。
ちなみに、同席していた白井聡は著書(『主権者のいない国』)で「憲法で国民主権が明確に謳われているのにその効力は生かされているのだろうか」とのべている。ばかも休み休みいうもので、国民主権は、個人にあたえられたものではない。辞典に「主権者=統治権をもっている人」とあることから生じた誤解だろうが、主権者(ソブリンティ)は、王権あるいは統治権をのことであって、個人や私人をさしているわけではない。
人気評論家で東京都立大学教授の宮台真司がキャンパス内で、刃物をもった暴漢に襲われて重傷を負い、容疑者が自殺する事件があったが、宮台は、犯人の動機が分からないとコメントした。これは、トボケで、宮台が襲われた原因は、安倍元首相を撃った山上徹也をモデルとした映画(「REVOLUTION+1」)の旗振り役を演じたからである。メガホンを執った足立正生監督が「事件と映画に関係があるかないかいえばあるでしょう。それは本人(宮台)も知っている」とのべている。
足立正生は、レバノンで服役(3年間)したこともある日本赤軍の元メンバーだが、宮台や島田、青木や白井、そして、橋下や寂聴らのあいだに大きな共通点がある。
それは、一人よがりのわたしの気持ち≠オかもっていないガキの精神で、成熟したおとなの知恵がそなわっていない点である。
安倍元首相の国葬に、マスコミがネガティブキャンペーンを張って、全国で国葬反対のデモが吹き荒れた。大きな問題点は、主催側が参加者に鉦や太鼓、タンバリンの持参をもとめたことである。黙祷に騒音を立てて、妨害しようという魂胆だが、これは犯罪(不敬と礼拝妨害/刑法188条2項)で、懲役刑が科せられる。
日本では、反日左翼のガキの精神が犯罪のレベルにまで転落しているのである。
私的な財産問題で逆恨みして安倍晋三元首相を射殺した山上徹也、じぶんが選挙に出られないのは選挙制度が悪いからという私的憤懣から岸田文雄首相を爆弾で殺そうとした木村隆二、悪口をいわれたという思いこみから4人を銃殺した青木政憲ら、一昔前まで、考えられもしなかった幼稚で自己中心的な殺人者や凶悪犯が続々とでてきた。
これらの事件に共通しているのが、じぶんのことしか考えることができない幼児性と極端な自己中心的な精神で、心理学で、自我肥大と呼ばれる。
人間は、成熟すると、他者や社会、国家など個や私をこえた存在に気づいて謙虚になる。尊敬心や名誉心、愛国心や公徳心など全体性の価値観に目覚めるのである。そうなると、おのずと自我が小さくなって、その一方、他者への愛や礼節、義理や道徳などの社会性がそなわってくる。
ところが、現在、世の中は、他者や社会、国家など、個や私をこえた価値や基準を否定する方向にうごいている。
同性婚が好例で、マスコミや左翼、法曹界は、同性婚の法制化に不熱心な与党を非難して、世界に遅れているという。世界に遅れているという論法がなりたつのなら、日本が、1919年、パリ講和会議で、世界に先駆けて人種差別撤廃を提案して、英米から拒絶されたことも、日本が世界に遅れていたことになってしまう。
西洋が性的マイノリティーや同性婚に寛容なのは、国家は個人の領域へ立ち入らないという不文律があるからで、どうぞお勝手にという意味である。
ところが、日本では、偏見をもつか差別反対と騒ぐかどちらかである。
常識や習慣、良識にしたがうのではなく、個や私をもちだして、じぶんの気持ちを最優先させるのが現代の風潮で、わたしはこれを自由主義や個人主義、民主主義と区別してじぶん主義≠ニ呼ぶことにしている。
背景にあるのが、消費者や有権者、主権者たる国民を神様とするマスコミのコマーシャリズムや国政選挙、世論における民主主義への盲信で、現在、日本では、社会通念や歴史の知恵よりも、あなたのマネー、あなたの一票、あなたの意見、あなたの主権、あなたの気持ちが大事にされる。
そこからかもしだされるのが、じぶんの気持ちや考えを絶対とする幼児的なじぶん中心主義で、他者や社会、全体へ目がむかない反面、過剰に自我が表にでてくる。
●発狂しつつある日本と橋下徹イズムや瀬戸内寂聴ブーム
本屋には橋下徹の本ばかり並んでいるが、橋下人気やかつての瀬戸内寂聴ブームと狂いつつある現在の日本を切り離して考えることができない。
橋下徹は、ウクライナ4000万国民は、ロシアに歯向かわず、国家を捨てて難民となって、十年後、帰ってきて、国家を再建すればいいと堂々といってのけた。
じぶんの気持ちやじぶんの都合、じぶん(個人)のイノチがいちばん大事で、国家や他人、モラルや常識、伝統的な価値観は二の次というのが橋下イズムで、それが現代の日本の風潮である。
同じ潮流にあったのが瀬戸内寂聴のイノチ主義で、寂聴が最大の敵としたのが国家だった。したがって、国家の繁栄と防衛に一身を捧げた安倍晋三元首相が寂聴の憎むべき天敵となった。
その寂聴をもちあげる一方、安倍元首相を国民の敵として叩きまくったのがマスコミ左翼で、当時、悪いことはすべて安倍が原因という風潮で、野党からマスコミ、検察にいたるまで、桜を見る会問題と森友学園問題、加計学園問題(「モリカケサクラ」)に狂奔して、新聞テレビで、安倍元首相の政治的、外交的功績が報道されることはついぞなかった。
瀬戸内晴美(寂聴)は、夫と3歳の子を捨てて新しい男の元へ走ったふしだらな女で、そんなじぶんを正当化するために迎合的な小説を書いて人気作家になった。さらに、法悦という快をもとめて仏道に入ったという身勝手な女だが、現在、寂聴は、日本でもっとも尊敬される偉人で、文化勲章というおまけまでついている。
なぜか。寂聴の私小説的な自己中心的な身勝手や法匪橋下のエゴイズムが、現代の日本で、自由の象徴となっているからである。
ウクライナ4000万もの国民が難民になる苦しみや3歳のわが子の悲しみよりも、じぶんの気持ちや快楽のほうが大事だったのが橋下イズムや瀬戸内ブームで、日本人は、そっくりこの自己中心主義にはまりこみ、これを個人主義や自由主義、民主主義と思いこんでいる。
●ガキの精神≠ェ犯罪にまで転落した反日左翼
岸田首相が襲撃された前日、作家で法政大学の島田雅彦教授が『安倍三代』(朝日文庫)の著者でジャーナリストの青木理やマルキストで京都精華大准教授の白井聡らと共演するインターネット番組で「(安倍元首相)の暗殺が成功してよかった」などと発言して物議をかもしたが、メディアの取材に応じた島田は、抗弁するどころか、よいチャンスとばかりに自著『パンとサーカス』の宣伝につとめる狡猾漢ぶりだった。
ちなみに、同席していた白井聡は著書(『主権者のいない国』)で「憲法で国民主権が明確に謳われているのにその効力は生かされているのだろうか」とのべている。ばかも休み休みいうもので、国民主権は、個人にあたえられたものではない。辞典に「主権者=統治権をもっている人」とあることから生じた誤解だろうが、主権者(ソブリンティ)は、王権あるいは統治権をのことであって、個人や私人をさしているわけではない。
人気評論家で東京都立大学教授の宮台真司がキャンパス内で、刃物をもった暴漢に襲われて重傷を負い、容疑者が自殺する事件があったが、宮台は、犯人の動機が分からないとコメントした。これは、トボケで、宮台が襲われた原因は、安倍元首相を撃った山上徹也をモデルとした映画(「REVOLUTION+1」)の旗振り役を演じたからである。メガホンを執った足立正生監督が「事件と映画に関係があるかないかいえばあるでしょう。それは本人(宮台)も知っている」とのべている。
足立正生は、レバノンで服役(3年間)したこともある日本赤軍の元メンバーだが、宮台や島田、青木や白井、そして、橋下や寂聴らのあいだに大きな共通点がある。
それは、一人よがりのわたしの気持ち≠オかもっていないガキの精神で、成熟したおとなの知恵がそなわっていない点である。
安倍元首相の国葬に、マスコミがネガティブキャンペーンを張って、全国で国葬反対のデモが吹き荒れた。大きな問題点は、主催側が参加者に鉦や太鼓、タンバリンの持参をもとめたことである。黙祷に騒音を立てて、妨害しようという魂胆だが、これは犯罪(不敬と礼拝妨害/刑法188条2項)で、懲役刑が科せられる。
日本では、反日左翼のガキの精神が犯罪のレベルにまで転落しているのである。