●左翼とマスコミ、法曹界はLGBTの大応援団
ロシアで「性別変更」を禁止する法案が成立して、今後、性別を変えた人の婚姻が禁止される。主に性別適合手術を受けた人や性別変更の医薬品を使っている人が対象だが、LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)らの婚姻申請もはねつけられる。
ロシアメディアによると、アメリカで性別適合手術が10年間で50倍にもふえていることにたいして同法案を提出した下院議会のボロジン議長は「同性結婚が国家の退化とモラルの崩壊を招く」ときびしい警告を発している。
同法律によると、今後、ロシアでは、パスポートの性別欄の変更が不可能になるほか、性別を変えた場合、婚姻が取り消されて、養親、後見人、親権者になることもできなくなる。
一方、日本のマスコミは、同性愛者の告白を「勇気ある発言」とほめちぎる一方、日本は、同性結婚の法制化に消極的とけなしまくる。
そんな日本のマスコミ論調に慣れてしまうと、ロシアの法律が世界の趨勢に逆行しているように思えるが、一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)の世界において、同性愛はタブーで、アフリカでは、最悪の場合、死刑になる。
世界がLGBTに寛容で、理解があるように思えるのは、個人の性の問題は一般論で処理できないからで、性癖には、LGBTの他に、マゾヒズムやサディズムなどの刑事罰に抵触しかねないものまである。
個人の性癖にはつきあっておられないというのが先進国の態度だが、例外がアメリカである。伝統という文化のないアメリカには、うまれついた性までをじぶんできめられるという人工国家の特有の特殊なメンタリティをもっている。
終戦後、日本を占領したGHQが、日本人がダーウインの進化論を知らないのは、文盲だからと思いこんだようなもので、危ういところで、日本は、漢字廃止とローマ字導入というとんでもない国語変更をさせられるところだった。
当時、日本には、GHQの追従者が多く、国語変更に賛成した学者や識者がすくなくなかったからである。
国語変更が中止になったのは、アメリカの学者が日本人の識字率が世界一であることをつたえて、GHQの過ちを正したからだった。
●日本文化を知らないエマニュエル大使の妄想
アメリカのエマニュエル駐日大使が、日本は、先進7か国で唯一、LGBT差別禁止を定めた法律がなく、同性婚をみとめていないことに注文をつけたのは内政干渉だが、それ以前に、この男の日本文化にたいする無知さかげんにはあきれるほかない。
日本は、伝統芸能の歌舞伎の女形や男衆をあげるまでもなく、LGBT大国で、これがこれまでなんら問題にならなかったのは、陰陽における陰の文化として、まもられてきたからである。
レズビアンやゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーなどの少数派が日本で差別されることはなかったのは、性の問題には立ち入らないのが日本流だからである。
織田信長の愛人、森蘭丸は、本能寺の変で、信長をまもろうとして槍を握ったまま討たれたが、その凛々しい美少年のすがたは、戦前、小学校の教科書にまでのった。
エマニュエルは、森蘭丸の変態者としての人権をまもれと言っているようなものだが、これこそ、アメリカ人の無知のきわみで、エマニュエルは「政界のランボー」の異名をもつ無教養な人物である。
ところが、現在、日本の文化人や左翼、マスコミは、一斉にエマニュエルの尻にくっついて、日本がLGBT後進国で、世界に恥ずべき国家であることをふれまわっている。
「LGBT理解増進法」は、超党派議連が提案した内容に、自民党内の保守派や日本維新の会、国民民主党との修正協議を経て、成立したが、この折、超党派議連でおこなわれた自民党・岩屋毅会長のスピーチはまったく意味不明だった。
「大事なことは、この多様性を包摂しうるダイバーシファイドされた、インクルーシブな、そういう社会を日本につくっていくということです」
「LGBT理解増進法」の正式な法律名が「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律(令和5年法律第68号)とあるが、日本の法律に横文字をつかうべきではない。
ジェンダーアイデンティティには、性自認や性差自覚という日本語がある。
超党派議連には、自民・公明・日本維新の会・国民民主の議員がつめていたはずだが、ダイバーシファイド(多様化)やインクルーシブ(包摂的)などという英語が理解できた政治家が何人いたろう。
エマニュエルに煽られて、日本がLGBTの人々を虐待しているかのような錯覚に陥っているので、ダイバーシファイド、インクルーシブなどという英語を使えば、世界からみとめられるだろうという愚かな鹿鳴館的な錯覚に陥ってしまったのであろう。
●LGBTを好機到来と狂喜する法曹界
LGBT問題は、元首相秘書官の荒井勝喜が、同性愛者を「見るのもイヤ」と発言して、これをマスコミが猛批判して、議論が社会的にひろがった。
そして、一般人と同じように税金を払って社会生活を営んでいる同性カップルが、犯罪者でもないのに結婚という法的保護を得られない現状は、法の下の平等に反し、個人の尊厳を毀損しているという議論になって、5地裁の判決においてこれがすべて「違憲」「違憲状態」となった。
日本弁護士連合会にとって、LGBTは、離婚や浮気、相続問題に次ぐドル箱で、これほど稼ぎになるフィールドはない。
日本弁護士連合会は、2019年7月18日「同性婚姻に関する意見書」を取りまとめて、内閣総理大臣や法務大臣らに提出している。
同性婚をみとめないのは、婚姻の自由を侵害するもので、法の下の平等にも反するという理屈で、憲法13条(個人の尊重)と14条(法の前の平等)に照らして、国は、すみやかな同性婚の法制化をおこなうべきというのである。
だが、憲法24条1項に「婚姻は両性の合意のみにもとづいて成立し夫婦が同等の権利を有する」とあるように、両性は男女(夫婦)であって、同性のペアではない。
2項に家族とあるのは夫婦にさずかった子どものことで、同性婚に子どもはさずからない。
日本弁護士連合会は、両性の合意とは、婚姻が当事者の自由かつ平等な意思決定に委ねられているという意味で、同性婚法制化を禁止するものではないと強弁するが、詭弁というよりウソである。
婚姻は、子をさずかることが前提で、出生した子には新たな戸籍があたえられる。子ができる可能性がないのであれば、婚姻は成立せず、同棲というほかないものになる。
外国では「シビルオニオン」や「ドメスティック・パートナー」、「PACS(連帯市民契約/フランス)」などの呼び名があるが、婚姻とはなく、同棲という意味である。
弁護士連合会(小林元治会長)が、国にたいして強腰なのは、弁護士稼業にとって、LGBT差別撤廃と同性婚法制化が、離婚や相続、殺人や強盗、詐欺罪と同様、たいせつなメシのタネになるからである。
次回は、なぜ、左翼がLGBTにとびついたかについてふれる。
2023年07月30日
2023年07月18日
「自由主義」と「民主主義」の相克と調和13
●フランクフルト学派に汚染された戦後の思想
フランクフルト学派は、個の欲望を最大限に拡大して、それがうけいれられない場合、社会がわるいからだとして、これを革命のエネルギーに転化させるマルクス主義の戦略的思考である。
原点にあるのは自然に帰れ≠フルソーで、国家を必要悪とするホッブズにたいして、ルソーは、国家を悪とした。
ルソーやマルクス、フランクフルト学派が個の利益のみを見て全体の利益を見ないのは、個の利益が社会にうけいれられない場合、暴力でその社会を変えてしまおうという立場に立つからで、全体の利益をみとめると、革命のエネルギーそのものがしぼんでしまう。
左翼が個人の自由や権利、個人の民主主義ばかりをもとめ、全体的な秩序や多様性、差異などの文化に目をむけないのは、全体性の価値をみとめるところに革命のエネルギーはないからである。
個の領域を狭めて、全体の利益を重んじるのが保守主義だが、左翼はこれに反対する。個の領域を拡大させて、不満をつのらせなければ、革命のエネルギーはわいてこないからである。
そこで、大衆の不満をかきたてて、社会不安を煽るのが左翼の仕事になって、福島瑞穂や辻元清美、蓮舫らが、連日、保守党攻撃をして、マスコミがこれを追うというパターンが定着している。
テレ朝・玉川徹が「羽鳥慎一モーニングショー」で「将来に希望がもたない絶望感がテロにむかうのは仕方がない」とテロを擁護すれば、高千穂大学教授の五野井郁夫も「テロは絶望の果ての犯行で、政治への怨嗟を放置しておけばテロがくり返される。テロをおこした責任は権力の側にある」といってテロリストの片をもった。
これがマルクス・レーニン主義における「二段階革命(永続革命)」の要諦である。
個(個人)をもちあげて、全体(体制)を否定したのち、個人を国民主権におきかえて、人民政府(一党独裁)をつくろうという理論である。
ところが、その個人は、革命が成立すると、一顧だにされない。
国民主権は、国民全体が一つの単位で、個人は、計算外だからである。
革命をおこす前まで革命の道具だった個人の意志(特殊意志)も人民革命が成立した後では全体意志(一般意志)となって、個人は虫けら同然となる。
価値があるのは全体だけで、共産主義は、個には目もくれないのである。
●GHQ民政局を仕切っていたフランクフルト学派
マッカーシーの赤狩り≠ノよって、アメリカ政府の深くもぐりこんでいたフランクフルト学派の実態が暴かれた。
それと同時にSS戦略情報局(CIA)の指令を受けていたGHQ民政局もフランクフルト学派に汚染されていたことが露見した。
事実、GHQにもぐりこんだ隠れ共産主義者=ニューディーラーは、多くがフランクフルト学派の影響をうけたマルクス主義者だった。
GHQ民政局がつくったのが日本国憲法で、権利という文字が条文に28回もでてくるが、義務は3つ(教育・勤労・納税)しかない。
このことからも、GHQニューディーラーが、フランクフルト学派の影響をうけていたことは明らかで、OSS戦略情報局(CIA)でマルクーゼ、ホルクハイマー、E・フロムというフランクフルト学派が幅をきかせていた。
元来、憲法は、習慣法で十分なのだが、それを契約法にして、国家と歴史を切断しようとしたのは、社会主義革命のための布石で、フランクフルト学派はやり方が周到なのである。
フランクフルト学派が、戦後、日本中に蔓延したのは、日本の民主化をすすめたGHQ民政局がフランクフルト学派の巣窟だったOSSの支配下にあったからで、GHQ民政局の公職追放によって、日本の教育界や学会、マスコミ界は、そっくりマルキストにいれかわった。
日本人的な教師12万人が教壇を追われて、それまで、刑務所いるか地下にもぐっていたマルキストが小中高の教師なって、大学や学会、マスコミもマルキスト一色となった。
日本は、大戦で、すでに、230万人の甲種合格の日本人を失っている。
そして、公職追放で20数万の要人が職場や地位を追われて、日本人の魂をもった教員約12万人が公立学校から追放された。
戦後の教育界やマスコミはもはや日本ではなかったのである。
戦後、日本の主人となったマルキストは旧体制の指導者にこう言い放った。
「革命がおきたらおまえらはみなギロチンだ」
朝日新聞は、東条英機ら日本の戦争指導者7人に死刑が執行された日、紙面にこう書いてGHQをねぎらった。
「お役目ご苦労さまでした」
共産主義者から教育関係、官僚や法曹、学術、マスコミは、すべてGHQに媚びて延命をはかった前歴があって、渡部昇一は、かれらを「敗戦利得者」と呼んだ。
●文化革命の紅衛兵≠ニなった日本のインテリ階級
GHQ民政局次長ケーディスの右腕として活動、戦後、スパイ容疑をかけられて自殺したハーバート・ノーマンの周りには一ツ橋大学名誉教授だった都留重人ら日本人のマルキスト学者が群れていた。
憲法の権威、東大法学部憲法学者の宮沢俊義もフランクフルト学派に一人で宮沢の「八月革命説」は、フランクフルト学派がいう「二段階革命説」の前期革命(ブルジョワ革命)にあたる。
ちなみに後期革命は共産主義革命である。
フランクフルト学派のハーバーマスのことばに「憲法愛国主義」がある。
「民主主義国家において、国民は、祖国愛や愛国心ではなく、憲法の規範価値のもとに統合されるべき」という考え方で、これが、日本弁護士連合会のスローガンになった。
ドイツ統一の際、ドイツ民族が前面に出てきたが、これを完全否定したのが「憲法愛国主義」で、そのため、統一ドイツからドイツ色が一掃されることになった。
改憲論議でも、自民一部や公明党は「日本人(民族)にふさわしい憲法」という観点を欠いた法治主義に陥っているが、聖徳太子の「十七条憲法」をみてわかるように、憲法は文化で、条約や法律、命令や処分は、ただの法文である。
GHQのニューディーラーは、日本の国家体制を、西洋諸国が400年前に捨てた封建社会にあると思いこんでいた。
フランクフルト学派からの入れ知恵で、GHQは、日本を、ブルジョワ社会にたっしていない中世的社会と認識していた。
そして、天皇を、未開社会の酋長のような存在とうけとめていた。
フランクフルト学派は、二段階革命論にもとづいて、封建体制の文化構造を破壊して、日本を共産主義へ導くために、神道から神社、家族制度、権威、性的節度、伝統、愛国心、国家、民族、尊敬心などの徳や価値を封建体制の悪弊として否定してかかった。
このとき、フランクフルト学派が標的にしたのは、インテリ層で、とりわけ、教育界やメディア関係がターゲットになった。
フランクフルト学派がもとめたのは文化革命だったからで、文化を担うのはインテリと若者である。文化革命→政体革命が二段階革命の要諦で、それには精神を破壊して、人間をぶっ壊す文化大革命が先行されなくてはならなかった。
日本に共産主義革命をおこそうとしたのは、OSS戦略情報局(CIA)にもぐりこんだフランクフルト学派で、日本共産党以下、日本のマルクス主義者や反体制派は、外国勢力に追従して、革命を実現させようとする敗戦革命主義者でしかなかった。
だが、GHQが逆コース≠とったため、日本の左翼は、梯子を外された形になった。
ところが、日本の原型は、GHQが破壊してくれていたので、日本は、すでに左翼の国になっていた。
次回以降、日本が、いかにして、フランクフルト学派型の左翼国家になっていったかふり返ってみよう。
フランクフルト学派は、個の欲望を最大限に拡大して、それがうけいれられない場合、社会がわるいからだとして、これを革命のエネルギーに転化させるマルクス主義の戦略的思考である。
原点にあるのは自然に帰れ≠フルソーで、国家を必要悪とするホッブズにたいして、ルソーは、国家を悪とした。
ルソーやマルクス、フランクフルト学派が個の利益のみを見て全体の利益を見ないのは、個の利益が社会にうけいれられない場合、暴力でその社会を変えてしまおうという立場に立つからで、全体の利益をみとめると、革命のエネルギーそのものがしぼんでしまう。
左翼が個人の自由や権利、個人の民主主義ばかりをもとめ、全体的な秩序や多様性、差異などの文化に目をむけないのは、全体性の価値をみとめるところに革命のエネルギーはないからである。
個の領域を狭めて、全体の利益を重んじるのが保守主義だが、左翼はこれに反対する。個の領域を拡大させて、不満をつのらせなければ、革命のエネルギーはわいてこないからである。
そこで、大衆の不満をかきたてて、社会不安を煽るのが左翼の仕事になって、福島瑞穂や辻元清美、蓮舫らが、連日、保守党攻撃をして、マスコミがこれを追うというパターンが定着している。
テレ朝・玉川徹が「羽鳥慎一モーニングショー」で「将来に希望がもたない絶望感がテロにむかうのは仕方がない」とテロを擁護すれば、高千穂大学教授の五野井郁夫も「テロは絶望の果ての犯行で、政治への怨嗟を放置しておけばテロがくり返される。テロをおこした責任は権力の側にある」といってテロリストの片をもった。
これがマルクス・レーニン主義における「二段階革命(永続革命)」の要諦である。
個(個人)をもちあげて、全体(体制)を否定したのち、個人を国民主権におきかえて、人民政府(一党独裁)をつくろうという理論である。
ところが、その個人は、革命が成立すると、一顧だにされない。
国民主権は、国民全体が一つの単位で、個人は、計算外だからである。
革命をおこす前まで革命の道具だった個人の意志(特殊意志)も人民革命が成立した後では全体意志(一般意志)となって、個人は虫けら同然となる。
価値があるのは全体だけで、共産主義は、個には目もくれないのである。
●GHQ民政局を仕切っていたフランクフルト学派
マッカーシーの赤狩り≠ノよって、アメリカ政府の深くもぐりこんでいたフランクフルト学派の実態が暴かれた。
それと同時にSS戦略情報局(CIA)の指令を受けていたGHQ民政局もフランクフルト学派に汚染されていたことが露見した。
事実、GHQにもぐりこんだ隠れ共産主義者=ニューディーラーは、多くがフランクフルト学派の影響をうけたマルクス主義者だった。
GHQ民政局がつくったのが日本国憲法で、権利という文字が条文に28回もでてくるが、義務は3つ(教育・勤労・納税)しかない。
このことからも、GHQニューディーラーが、フランクフルト学派の影響をうけていたことは明らかで、OSS戦略情報局(CIA)でマルクーゼ、ホルクハイマー、E・フロムというフランクフルト学派が幅をきかせていた。
元来、憲法は、習慣法で十分なのだが、それを契約法にして、国家と歴史を切断しようとしたのは、社会主義革命のための布石で、フランクフルト学派はやり方が周到なのである。
フランクフルト学派が、戦後、日本中に蔓延したのは、日本の民主化をすすめたGHQ民政局がフランクフルト学派の巣窟だったOSSの支配下にあったからで、GHQ民政局の公職追放によって、日本の教育界や学会、マスコミ界は、そっくりマルキストにいれかわった。
日本人的な教師12万人が教壇を追われて、それまで、刑務所いるか地下にもぐっていたマルキストが小中高の教師なって、大学や学会、マスコミもマルキスト一色となった。
日本は、大戦で、すでに、230万人の甲種合格の日本人を失っている。
そして、公職追放で20数万の要人が職場や地位を追われて、日本人の魂をもった教員約12万人が公立学校から追放された。
戦後の教育界やマスコミはもはや日本ではなかったのである。
戦後、日本の主人となったマルキストは旧体制の指導者にこう言い放った。
「革命がおきたらおまえらはみなギロチンだ」
朝日新聞は、東条英機ら日本の戦争指導者7人に死刑が執行された日、紙面にこう書いてGHQをねぎらった。
「お役目ご苦労さまでした」
共産主義者から教育関係、官僚や法曹、学術、マスコミは、すべてGHQに媚びて延命をはかった前歴があって、渡部昇一は、かれらを「敗戦利得者」と呼んだ。
●文化革命の紅衛兵≠ニなった日本のインテリ階級
GHQ民政局次長ケーディスの右腕として活動、戦後、スパイ容疑をかけられて自殺したハーバート・ノーマンの周りには一ツ橋大学名誉教授だった都留重人ら日本人のマルキスト学者が群れていた。
憲法の権威、東大法学部憲法学者の宮沢俊義もフランクフルト学派に一人で宮沢の「八月革命説」は、フランクフルト学派がいう「二段階革命説」の前期革命(ブルジョワ革命)にあたる。
ちなみに後期革命は共産主義革命である。
フランクフルト学派のハーバーマスのことばに「憲法愛国主義」がある。
「民主主義国家において、国民は、祖国愛や愛国心ではなく、憲法の規範価値のもとに統合されるべき」という考え方で、これが、日本弁護士連合会のスローガンになった。
ドイツ統一の際、ドイツ民族が前面に出てきたが、これを完全否定したのが「憲法愛国主義」で、そのため、統一ドイツからドイツ色が一掃されることになった。
改憲論議でも、自民一部や公明党は「日本人(民族)にふさわしい憲法」という観点を欠いた法治主義に陥っているが、聖徳太子の「十七条憲法」をみてわかるように、憲法は文化で、条約や法律、命令や処分は、ただの法文である。
GHQのニューディーラーは、日本の国家体制を、西洋諸国が400年前に捨てた封建社会にあると思いこんでいた。
フランクフルト学派からの入れ知恵で、GHQは、日本を、ブルジョワ社会にたっしていない中世的社会と認識していた。
そして、天皇を、未開社会の酋長のような存在とうけとめていた。
フランクフルト学派は、二段階革命論にもとづいて、封建体制の文化構造を破壊して、日本を共産主義へ導くために、神道から神社、家族制度、権威、性的節度、伝統、愛国心、国家、民族、尊敬心などの徳や価値を封建体制の悪弊として否定してかかった。
このとき、フランクフルト学派が標的にしたのは、インテリ層で、とりわけ、教育界やメディア関係がターゲットになった。
フランクフルト学派がもとめたのは文化革命だったからで、文化を担うのはインテリと若者である。文化革命→政体革命が二段階革命の要諦で、それには精神を破壊して、人間をぶっ壊す文化大革命が先行されなくてはならなかった。
日本に共産主義革命をおこそうとしたのは、OSS戦略情報局(CIA)にもぐりこんだフランクフルト学派で、日本共産党以下、日本のマルクス主義者や反体制派は、外国勢力に追従して、革命を実現させようとする敗戦革命主義者でしかなかった。
だが、GHQが逆コース≠とったため、日本の左翼は、梯子を外された形になった。
ところが、日本の原型は、GHQが破壊してくれていたので、日本は、すでに左翼の国になっていた。
次回以降、日本が、いかにして、フランクフルト学派型の左翼国家になっていったかふり返ってみよう。
2023年07月03日
「自由主義」と「民主主義」の相克と調和12
●フランクフルト学派に呪われた戦後の日本
全学連や全共闘、赤軍派が荒れ狂った1960〜70年代にかけて、フランクフルト学派という過激な思想が日本ばかりか世界中を暴れ回った。
フランクフルト学派は、1923年、ドイツでうまれたマルクス主義の亜流で、階級闘争=暴力革命が実現しないのは、人間の精神が資本主義に毒されているからというのが主たる主張だった。
フランクフルト学派の第一世代に属するルカーチは、こう宣言した。
「資本主義下でつくられた精神を破壊しなければ革命は実現できない。人間を破壊せよ。文明や文化を破壊せよ。体制の破壊者であるならどんな犯罪者でもあってもりっぱな革命の兵士である」
この思想の核心は、人間を、資本主義に毒された、あるいは、資本主義から疎外された被害者ととらえるところにある。
したがって、革命をおこすには、その毒された精神を破壊しなければならない。
人間の精神をつくりあげてきたのは歴史である。
革命をおこすには、最初に歴史を破壊しなければならないというのがフランクフルト学派の理屈である。
造反有理というのは、謀反や反乱に正義があるという原理で、謀反や反乱は資本主義から疎外された犠牲者、あるいは、体制から虐げられた被害者意識のあらわれである。
毛沢東の文化大革命からポルポトのカンボジア大虐殺、アメリカの9・11同時多発テロもこの悪魔の思想の影響をうけているが、テロリズムを容認する造反有理の根本にあるのが、ロックの革命権やルソーの国民主権である。
神があたえた自由や平等、天賦の権利および生命の安全や幸福追求の欲望を実現するための政府がその目的を達成できない場合、旧体制を倒して、新たな政府を設立できるというのがロックの革命権である。
一方、国家の主権を、国民がもつという迷妄がルソー主義で、ルソー主義がフランス革命にスローガンになったように、ロック主義がアメリカ革命(独立戦争)のイデオロギーになった。
●平和な家庭や正常な男女関係は革命の大敵
ナチに追われてアメリカに移ったルカーチの共産主義運動が、戦後、世界に爆発的に広がっていったのは、権力に虐げられた弱者=人民の抵抗というマルクス主義の戦略が広くうけいれられたからだった。
このときもちいられたのが疎外≠ニいう概念だった。
人間が不幸なのは、文化や文明、家庭や社会、共同体や国家から疎外されているからだとする論理で、これが『批判理論』として、ホルクハイマー、アドルノ、ハーバーマスらによって、左翼理論の中軸にすえられてきた。
権威や家族、道徳や伝統、性的節度、忠誠心、愛国心、国家主義、民族中心主義、習慣など人間社会を形成している徳目をすべて批判して、改革をすすめようとするのが批判理論である。一方、野蛮からの解放だったはずの啓蒙の理念が次第に道具化して人間を疎外してゆくとしたのが『啓蒙の弁証法』で、この書は、日本のインテリ左翼から熱烈に歓迎された。
この論理にアクセルをかけたのが反ナチス運動と反戦平和思想で、フランクフルト学派は、ナチスや軍国主義、侵略戦争をゆるしたのは、近代人の最大の欠陥だったとして、反ナチス運動をまきこんで、歴史や体制、文化を否定する論理をくりだして、体制の内部崩壊をひきだそうとする。
有名なことばがアドルノの《アウシュビィッツのあとで詩を書くのは野蛮である》で、このことばによって、ナチやファシズムを生んだ中産階級はみな悪に仕立てあげられた。
エンゲルスは『家族、私有財産及び国家の起源』で、女性差別の根源は家父長制にあると論じたが、フランクフルト学派も、性差(ジェンダー)やフェミニズムは西洋文化からうまれたとして、アドルノは、家父長制はファシズムのゆりかごであるとのべた。
共産主義=暴力革命にとって、平和な家庭や男女の円満な関係は大敵だったのである。
●女性解放を謳うマルクス主義フェミニズムの魔性
アドルノは、母親と父親の役割を交換することを提唱して女性の社会進出と父親の権威否定に実行に移したが、その結果、ソ連では、人口の停滞や家庭の崩壊という現象を招いた。
フランクフルト学派が人口の大半を占める中産階級をターゲットにするのは革命の担い手が労働者からプチ・ブルに移ったからで、かれらを革命の戦士に仕立てるには、マスコミなどで、不満を煽りに煽って、不満分子にしなくてはならない。
このとき、もちだされるのがテロリズムの思想である。
他人の自由を侵害する自由や規制のない民主主義、個人化された主権などが横行すれば、社会は崩壊するが、その崩壊を見越して、それでも自由や民主を叫ぶのはテロリズムで、破壊衝動である。
アメリカ9・11テロにひそかに喝采を送って、各地で頻繁におこるテロに共感するインテリ左翼の思想をささえているのがこの破壊衝動で、反戦運動やフェミニズム、ジェンダーなどの反差別も、すべて、この学派からうまれた破壊衝動である。
フランクフルト学派の中心的存在だったルカーチは、ハンガリー革命を指導して、失敗してソ連に亡命した。
なぜ革命に失敗したのかとルカーチは考え、一つの結論をえた。
革命の妨害になっていたのは、父権や母権の社会的分担や役割、家族という価値観、男女の性のモラルで、人間社会の保守性をささえていたのは、ジェンダー(性差)だった。このジェンダーの垣根さえとりはらってしまえば、革命は、はるかに、実現しやすくなる。
マルクス主義フェミニズムは、性差を社会的役割や人間の根源的なありようとはみとめない。女性は、家事や育児に縛られた抑圧された労働者で、母親や男性の恋人、夫に尽くす妻という女性の社会的役割は、封建体制や資本主義の悪しき因習というのである。
●1%のジェンダー障害者を黙認してきた日本
「LGBT理解増進」が自民・公明両党と日本維新の会、国民民主党の4党による与党案の修正案が成立した。
LGBTは、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーの頭文字からとったことばである。レズビアンが女性の同性愛で、ゲイが男性の同性愛、バイセクシュアルは両刀使い、トランスジェンダーは性の同一性障害だが、いずれにしても、一種の性癖である。
統合失調症も100人に1人の割合で発症する(厚生労働省)が、すべてのひとが治療をうけているわけではない。
LGBTも、100人に1人の割合ででてくるが、日本では、これを法的に取り締まったり、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教などのように宗教的異端としてみたりすることはない。
アフリカでは大半の国(38か国)が同性愛は違法で、モーリタニア、ナイジェリアでは死刑、ウガンダ、スーダン、タンザニアでは終身刑が課せられる。
日本は、個人の性癖にはじつにおおらかなのだが、それでも、ジェンダーに不寛容だとマスコミが煽る。
その好例が「ジェンダーギャップ報告書」で、日本は男女平等の達成度合いが146か国のうち125位で、マスコミは、世界にたいして恥ずかしいという。
内訳は、政治と経済、教育と健康の4部門で、日本は、教育と健康については世界のトップだが、政治と経済はふるわない。
日本の女性は、家庭や家族を大事にするからで、政治や経済などは男にやらせておけばよいと考えるのはきわめてまっとうな態度でいえよう。
フランクフルト学派の革命戦術に被害者意識を煽るという方法がある。
LGBTの法制化をもとめるヒトがテレビカメラにむかってこういった。
「わたしたちをどこまで追い詰めると気がすむのですか!」
だれも追い詰めてなどいない。ただ、日陰に存在するものを、表にひっぱりだして騒ぐのはよくないといっているだけである。
100万人の統合失調症の人々を、法律をつくってまもるより、陰において適切な治療をおこなうほうがよほど賢明なのである。
全学連や全共闘、赤軍派が荒れ狂った1960〜70年代にかけて、フランクフルト学派という過激な思想が日本ばかりか世界中を暴れ回った。
フランクフルト学派は、1923年、ドイツでうまれたマルクス主義の亜流で、階級闘争=暴力革命が実現しないのは、人間の精神が資本主義に毒されているからというのが主たる主張だった。
フランクフルト学派の第一世代に属するルカーチは、こう宣言した。
「資本主義下でつくられた精神を破壊しなければ革命は実現できない。人間を破壊せよ。文明や文化を破壊せよ。体制の破壊者であるならどんな犯罪者でもあってもりっぱな革命の兵士である」
この思想の核心は、人間を、資本主義に毒された、あるいは、資本主義から疎外された被害者ととらえるところにある。
したがって、革命をおこすには、その毒された精神を破壊しなければならない。
人間の精神をつくりあげてきたのは歴史である。
革命をおこすには、最初に歴史を破壊しなければならないというのがフランクフルト学派の理屈である。
造反有理というのは、謀反や反乱に正義があるという原理で、謀反や反乱は資本主義から疎外された犠牲者、あるいは、体制から虐げられた被害者意識のあらわれである。
毛沢東の文化大革命からポルポトのカンボジア大虐殺、アメリカの9・11同時多発テロもこの悪魔の思想の影響をうけているが、テロリズムを容認する造反有理の根本にあるのが、ロックの革命権やルソーの国民主権である。
神があたえた自由や平等、天賦の権利および生命の安全や幸福追求の欲望を実現するための政府がその目的を達成できない場合、旧体制を倒して、新たな政府を設立できるというのがロックの革命権である。
一方、国家の主権を、国民がもつという迷妄がルソー主義で、ルソー主義がフランス革命にスローガンになったように、ロック主義がアメリカ革命(独立戦争)のイデオロギーになった。
●平和な家庭や正常な男女関係は革命の大敵
ナチに追われてアメリカに移ったルカーチの共産主義運動が、戦後、世界に爆発的に広がっていったのは、権力に虐げられた弱者=人民の抵抗というマルクス主義の戦略が広くうけいれられたからだった。
このときもちいられたのが疎外≠ニいう概念だった。
人間が不幸なのは、文化や文明、家庭や社会、共同体や国家から疎外されているからだとする論理で、これが『批判理論』として、ホルクハイマー、アドルノ、ハーバーマスらによって、左翼理論の中軸にすえられてきた。
権威や家族、道徳や伝統、性的節度、忠誠心、愛国心、国家主義、民族中心主義、習慣など人間社会を形成している徳目をすべて批判して、改革をすすめようとするのが批判理論である。一方、野蛮からの解放だったはずの啓蒙の理念が次第に道具化して人間を疎外してゆくとしたのが『啓蒙の弁証法』で、この書は、日本のインテリ左翼から熱烈に歓迎された。
この論理にアクセルをかけたのが反ナチス運動と反戦平和思想で、フランクフルト学派は、ナチスや軍国主義、侵略戦争をゆるしたのは、近代人の最大の欠陥だったとして、反ナチス運動をまきこんで、歴史や体制、文化を否定する論理をくりだして、体制の内部崩壊をひきだそうとする。
有名なことばがアドルノの《アウシュビィッツのあとで詩を書くのは野蛮である》で、このことばによって、ナチやファシズムを生んだ中産階級はみな悪に仕立てあげられた。
エンゲルスは『家族、私有財産及び国家の起源』で、女性差別の根源は家父長制にあると論じたが、フランクフルト学派も、性差(ジェンダー)やフェミニズムは西洋文化からうまれたとして、アドルノは、家父長制はファシズムのゆりかごであるとのべた。
共産主義=暴力革命にとって、平和な家庭や男女の円満な関係は大敵だったのである。
●女性解放を謳うマルクス主義フェミニズムの魔性
アドルノは、母親と父親の役割を交換することを提唱して女性の社会進出と父親の権威否定に実行に移したが、その結果、ソ連では、人口の停滞や家庭の崩壊という現象を招いた。
フランクフルト学派が人口の大半を占める中産階級をターゲットにするのは革命の担い手が労働者からプチ・ブルに移ったからで、かれらを革命の戦士に仕立てるには、マスコミなどで、不満を煽りに煽って、不満分子にしなくてはならない。
このとき、もちだされるのがテロリズムの思想である。
他人の自由を侵害する自由や規制のない民主主義、個人化された主権などが横行すれば、社会は崩壊するが、その崩壊を見越して、それでも自由や民主を叫ぶのはテロリズムで、破壊衝動である。
アメリカ9・11テロにひそかに喝采を送って、各地で頻繁におこるテロに共感するインテリ左翼の思想をささえているのがこの破壊衝動で、反戦運動やフェミニズム、ジェンダーなどの反差別も、すべて、この学派からうまれた破壊衝動である。
フランクフルト学派の中心的存在だったルカーチは、ハンガリー革命を指導して、失敗してソ連に亡命した。
なぜ革命に失敗したのかとルカーチは考え、一つの結論をえた。
革命の妨害になっていたのは、父権や母権の社会的分担や役割、家族という価値観、男女の性のモラルで、人間社会の保守性をささえていたのは、ジェンダー(性差)だった。このジェンダーの垣根さえとりはらってしまえば、革命は、はるかに、実現しやすくなる。
マルクス主義フェミニズムは、性差を社会的役割や人間の根源的なありようとはみとめない。女性は、家事や育児に縛られた抑圧された労働者で、母親や男性の恋人、夫に尽くす妻という女性の社会的役割は、封建体制や資本主義の悪しき因習というのである。
●1%のジェンダー障害者を黙認してきた日本
「LGBT理解増進」が自民・公明両党と日本維新の会、国民民主党の4党による与党案の修正案が成立した。
LGBTは、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーの頭文字からとったことばである。レズビアンが女性の同性愛で、ゲイが男性の同性愛、バイセクシュアルは両刀使い、トランスジェンダーは性の同一性障害だが、いずれにしても、一種の性癖である。
統合失調症も100人に1人の割合で発症する(厚生労働省)が、すべてのひとが治療をうけているわけではない。
LGBTも、100人に1人の割合ででてくるが、日本では、これを法的に取り締まったり、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教などのように宗教的異端としてみたりすることはない。
アフリカでは大半の国(38か国)が同性愛は違法で、モーリタニア、ナイジェリアでは死刑、ウガンダ、スーダン、タンザニアでは終身刑が課せられる。
日本は、個人の性癖にはじつにおおらかなのだが、それでも、ジェンダーに不寛容だとマスコミが煽る。
その好例が「ジェンダーギャップ報告書」で、日本は男女平等の達成度合いが146か国のうち125位で、マスコミは、世界にたいして恥ずかしいという。
内訳は、政治と経済、教育と健康の4部門で、日本は、教育と健康については世界のトップだが、政治と経済はふるわない。
日本の女性は、家庭や家族を大事にするからで、政治や経済などは男にやらせておけばよいと考えるのはきわめてまっとうな態度でいえよう。
フランクフルト学派の革命戦術に被害者意識を煽るという方法がある。
LGBTの法制化をもとめるヒトがテレビカメラにむかってこういった。
「わたしたちをどこまで追い詰めると気がすむのですか!」
だれも追い詰めてなどいない。ただ、日陰に存在するものを、表にひっぱりだして騒ぐのはよくないといっているだけである。
100万人の統合失調症の人々を、法律をつくってまもるより、陰において適切な治療をおこなうほうがよほど賢明なのである。
2023年06月26日
グローバルサウスと大東亜共栄思想5
●個と全体の利害を調整するのが政治
有史以来、人類を悩ませてきて、いまだに解決されない難問に個と全体の矛盾≠ェある。
個の利益だけをもとめると、全体の利益が害われる。
全体の利益をもとめると、個人の利益が侵害される。
この二律背反を人類はどうしてものりこえることができなかった。
個と全体の両方の利益をもとめるのが政治だが、その政治の原理はいまだに確立されていない。
政治は、集団や共同体、国家の安全や繁栄もとめる全体の論理である。
一方、心の安らぎや魂の救済をもとめる宗教や人生観や価値観にもとづいた道徳、タブーの体系である法律は、個の論理あるいは私的な感情である。
政治という全体を重んじると個が軽視され、宗教や道徳、法という個を重んじると全体がないがしろにされる。
政治という全体の論理と、宗教や道徳、法という個の論理が両立しないのは構造矛盾(「個と全体の利害は対立する」)にとりこまれているからである。
西洋では、紀元前のギリシア哲学以来、個と全体のこの矛盾を解消しようと賢人たちが知恵を絞ってきたが、ついに妙案はでてこなかった。
もっとも、西洋の一神教や一元論から個と全体の矛盾≠解消する知恵が出てくるはずはなかった。
なぜなら、個と全体の矛盾は、一神教や一元論からでてきたものだったからで、キリスト以前、神話と多神教だった古代のギリシァやローマに個と全体の矛盾などなかった。
●西洋の一元論の欠陥を克服した天皇の二元論
個と全体の矛盾という大問題を解消したのは、西洋ではなく、その西洋から遠く隔たったアジアの島国日本で、日本が、個と全体の矛盾という一元論的な迷妄から自由だったのは、天皇の国だったからである。
古代縄文文化の国、日本は、アニミズムの自然崇拝と多神教の国である。
神話と天皇の国日本は、二元論の国でもあって、権威と権力、国体と政体の二元論の下で「君民共治」「君臣一体」という一神教、一元論の西洋では考えられもしない柔軟な政治体制がとられてきた。
西洋で絶対矛盾がでてきたのは、一神教や一元論が、正しいものや絶対的な価値は一つしかないとしたからだった。
ところが、日本に根づいたのは、硬直した一神教や一元論ではなく、柔軟な多神教や二元論だった。そこから、多様性や奥行き、変化にとんだ両面価値(アンビバレンス)やあいまいさ、中庸の徳といった中間色の文化が生まれた。
個と全体の矛盾を克服できていない西洋の文化は、極彩色の一元論である。
自由や平等、権利や民主主義は、革命をとおして民衆が権力から奪ったもので、あとに残ったのは、永遠の「闘争の論理」で、左翼は、いまなお、自由や平等、権利や民主主義を権力から奪えとこぶしをふりあげる。
国家や歴史、文化に拠って立つ政治と、宗教や道徳、法に拠って立つ個人が引き裂かれた結果、民と国家が融合することなく、険しく対立する革命史観がうまれた。
そのケースの一つにあげられるのがオウム真理教事件で、法悦やカルト(宗教的狂気)という個人の宗教を絶対視して、社会や国家、公共性が否定された結果、サリン事件のような凶悪犯罪がおきた。
神の恩恵や法悦、救済という個人の自己満足のためなら社会や国家は否定されてもよいというのが宗教の独善で、その独善によって、西洋では、宗教戦争や異端審判、魔女狩りのような惨劇がひきおこされた。
●自由や平等、権利や民主主義は信仰ではなく社会制度
自由や平等、権利や民主主義を奉って他人や国家も眼中にないという日本の風潮も、ほとんど、宗教の感覚で、自由や平等、権利や民主主義が、モーゼの十戒のような有り難い預言になっている。
犯罪者にも人権があるといって騒ぐヒトがいるが、人権も民主主義も、自由も平等もすべてフィクションで、うまれながらにして個人にそなわっているものなど、なに一つない。
自由や平等、権利や民主主義は、国家が保証してくれる社会制度で、それらの制度が国民に分有されて、はじめて、個人のものになる。
交通安全は、交通法規があるからではなく、交通インフラが整備されているから実現されるのである。
日本の安全がまもられているのも、憲法九条があるからではない。
日本が世界7位の防衛力をもち、一方、日米安保という軍事同盟があるからで、憲法九条があるから日本は平和なのだというのは、宗教というより、カルト思想である。
日本の自由や平等、権利や民主主義は、宗教のカテゴリーに入っている。
したがって、いかに運用すべきかではなく、どれほど深く信仰しているかが問われる。
だが、自由や平等、権利や民主主義は、個人の信仰対象ではなく、社会の制度である。
したがって、個人の特権ではなく、社会的な制限や規制としてはたらく。
分有される自由や平等、権利や民主主義は、じぶんだけのものではないからで、他人や社会に無益にして有害な自由や平等、権利や民主主義は、悪の思想なのである。
個人の宗教的な価値観と、全体の社会制度を二元論でつないだ日本の文化や思想が、もういちど見直されてよいだろう。
有史以来、人類を悩ませてきて、いまだに解決されない難問に個と全体の矛盾≠ェある。
個の利益だけをもとめると、全体の利益が害われる。
全体の利益をもとめると、個人の利益が侵害される。
この二律背反を人類はどうしてものりこえることができなかった。
個と全体の両方の利益をもとめるのが政治だが、その政治の原理はいまだに確立されていない。
政治は、集団や共同体、国家の安全や繁栄もとめる全体の論理である。
一方、心の安らぎや魂の救済をもとめる宗教や人生観や価値観にもとづいた道徳、タブーの体系である法律は、個の論理あるいは私的な感情である。
政治という全体を重んじると個が軽視され、宗教や道徳、法という個を重んじると全体がないがしろにされる。
政治という全体の論理と、宗教や道徳、法という個の論理が両立しないのは構造矛盾(「個と全体の利害は対立する」)にとりこまれているからである。
西洋では、紀元前のギリシア哲学以来、個と全体のこの矛盾を解消しようと賢人たちが知恵を絞ってきたが、ついに妙案はでてこなかった。
もっとも、西洋の一神教や一元論から個と全体の矛盾≠解消する知恵が出てくるはずはなかった。
なぜなら、個と全体の矛盾は、一神教や一元論からでてきたものだったからで、キリスト以前、神話と多神教だった古代のギリシァやローマに個と全体の矛盾などなかった。
●西洋の一元論の欠陥を克服した天皇の二元論
個と全体の矛盾という大問題を解消したのは、西洋ではなく、その西洋から遠く隔たったアジアの島国日本で、日本が、個と全体の矛盾という一元論的な迷妄から自由だったのは、天皇の国だったからである。
古代縄文文化の国、日本は、アニミズムの自然崇拝と多神教の国である。
神話と天皇の国日本は、二元論の国でもあって、権威と権力、国体と政体の二元論の下で「君民共治」「君臣一体」という一神教、一元論の西洋では考えられもしない柔軟な政治体制がとられてきた。
西洋で絶対矛盾がでてきたのは、一神教や一元論が、正しいものや絶対的な価値は一つしかないとしたからだった。
ところが、日本に根づいたのは、硬直した一神教や一元論ではなく、柔軟な多神教や二元論だった。そこから、多様性や奥行き、変化にとんだ両面価値(アンビバレンス)やあいまいさ、中庸の徳といった中間色の文化が生まれた。
個と全体の矛盾を克服できていない西洋の文化は、極彩色の一元論である。
自由や平等、権利や民主主義は、革命をとおして民衆が権力から奪ったもので、あとに残ったのは、永遠の「闘争の論理」で、左翼は、いまなお、自由や平等、権利や民主主義を権力から奪えとこぶしをふりあげる。
国家や歴史、文化に拠って立つ政治と、宗教や道徳、法に拠って立つ個人が引き裂かれた結果、民と国家が融合することなく、険しく対立する革命史観がうまれた。
そのケースの一つにあげられるのがオウム真理教事件で、法悦やカルト(宗教的狂気)という個人の宗教を絶対視して、社会や国家、公共性が否定された結果、サリン事件のような凶悪犯罪がおきた。
神の恩恵や法悦、救済という個人の自己満足のためなら社会や国家は否定されてもよいというのが宗教の独善で、その独善によって、西洋では、宗教戦争や異端審判、魔女狩りのような惨劇がひきおこされた。
●自由や平等、権利や民主主義は信仰ではなく社会制度
自由や平等、権利や民主主義を奉って他人や国家も眼中にないという日本の風潮も、ほとんど、宗教の感覚で、自由や平等、権利や民主主義が、モーゼの十戒のような有り難い預言になっている。
犯罪者にも人権があるといって騒ぐヒトがいるが、人権も民主主義も、自由も平等もすべてフィクションで、うまれながらにして個人にそなわっているものなど、なに一つない。
自由や平等、権利や民主主義は、国家が保証してくれる社会制度で、それらの制度が国民に分有されて、はじめて、個人のものになる。
交通安全は、交通法規があるからではなく、交通インフラが整備されているから実現されるのである。
日本の安全がまもられているのも、憲法九条があるからではない。
日本が世界7位の防衛力をもち、一方、日米安保という軍事同盟があるからで、憲法九条があるから日本は平和なのだというのは、宗教というより、カルト思想である。
日本の自由や平等、権利や民主主義は、宗教のカテゴリーに入っている。
したがって、いかに運用すべきかではなく、どれほど深く信仰しているかが問われる。
だが、自由や平等、権利や民主主義は、個人の信仰対象ではなく、社会の制度である。
したがって、個人の特権ではなく、社会的な制限や規制としてはたらく。
分有される自由や平等、権利や民主主義は、じぶんだけのものではないからで、他人や社会に無益にして有害な自由や平等、権利や民主主義は、悪の思想なのである。
個人の宗教的な価値観と、全体の社会制度を二元論でつないだ日本の文化や思想が、もういちど見直されてよいだろう。
2023年06月12日
グローバルサウスと大東亜共栄思想4
●自由や民主が個人の特権となっている日本
明治新以降、日本は、西洋の思想を有難がって、無条件にとりいれてきた。
だが、ほとんどが、誤解や曲解、歪曲で、真の意味をとりちがえている。
その傾向は、明治時代よりも、むしろ、大正や昭和になって高まった。
1917年のロシア革命後、吉野作造の「民本主義(君民共治)」が大正デモクラシーのもとでルソー的な「民主主義(国民主権)」になると、自由や平等にたいする考え方もルソー的、マルクス主義的なものへと変質してゆく。
西尾幹二はこういう。「自由はそれだけではおよそ何ものでもない。その自由が奪われたとき強烈な自由への欲求がわきだす」
自由や平等、人権などは、奪われたとき、ヒトは、これを渇望するのであって、奪われてもいない自由や平等、人権をもとめるのは、革命主義で、文句をつけて体制をひっくり返そうという魂胆があるからである。
西尾はこうともいう。「ヨーロッパ人の自他の厳格な区別立ては、そのなかに、熱病じみたアナーキーという闇を秘めている。一方、日本人の自他意識は不明確(あいまい)で、ヨーロッパ人とは一味も二味もちがったデリケートな性格をそなえている。原理や原則にとらわれることなく、変化に対応する柔軟さをもち、実際的である」(『自由の悲劇』)
西洋の自由や平等、民主や人権は、奪われることにたいする抵抗である。
したがって、他人の自由や平等、民主や人権を奪うことも、罪悪になる。
ところが、日本では、じぶんの自由や平等、民主や人権をまもるには他人のそれは意に介さないという風潮で、言論被害をかえりみない言論の自由、被害者の人権を無視する加害者の人権擁護がまかりとおっている。
●歴史や伝統、文化を否定する左翼と法匪
自由主義だからなにやってよいというのがリバタリアン(完全自由主義者)である。テレビの人気番組『ホンマでっかTV』のコメンテーター早稲田大学名誉教授の池田清彦は「他人に迷惑をかけないかぎりなにをやってもよい」と説くが、この男は、日本共産党の熱烈な支持者で同党の宣伝塔でもある。
リバタリアンが自由をみとめない共産主義を支持するという理屈は解せないが、完全自由主義者を公言する池田が共産主義者で、自由の真の意味を理解していなかったとすればうなずける。
池田は、絶対自由というイデオロギーに縛られて、自由を見失っているのである。
昭和天皇の肖像をガスバーナーで燃やしてふみつける映像などを展示した「表現の不自由(国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」)へ公的負担金(約1億3700万円)の残金(約3380万円)一部の支払いを拒否した名古屋市にたいして、名古屋高等裁判所は、残金の支払いを命じた。
「昭和天皇の肖像に火をつけてふみつける映像も表現の自由にふくまれる」という判断で、違約行為はなかったというのである。そして、高須クリニックの高須克弥院長や大阪府内在住の主婦3人らが「表現の不自由展」から精神的な苦痛をうけたとする訴えはあっさりと退けて、主催者の愛知県大村秀章知事や芸術監督の津田大介らにはいっさいおトガめなしだった。
政治は、国家や文化など歴史の知恵にもとづくが、法治は、人間が決めた法律のみを根拠にする。
法文のみを奉じて、善悪や社会通念、価値観ぬきで判断を下す裁判官が法匪といわれるゆえんで、法匪の匪は盗賊の賊と同じ意味である。
司法や検察、弁護士会が反国家的なのは、国家や歴史、文化ではなく法律や観念、イデオロギーに拠って立つからだが、これは、左翼が国体や歴史よりも西洋の思想家(マルクスやルソー)を重く見るのと同じ構造である。
●共同体が個≠竍私≠ヨ分解してゆく危うさ
自由主義は、自由の有り難さを万人で共有しようというもので、個人の特権ではない。
これを、個人的自由と分けて、あえて、社会的自由と呼ばれる。
ヨーロッパでうまれた自由の概念は、社会的自由で、そのテキストとなっているのがホブハウスの『自由主義―福祉国家への思想的転換』である。
そこにこうある。「いかなる時代でも、禁止なくして、社会的自由はありえない」
自由は、規制を必要として、その規制が社会の自由を約束するといっているのである。
福祉国家というのは「君民共治」のことで、万民の幸を公平に考える天皇の大御心(藤田東湖『弘道館記述義』)が、近代ヨーロッパの進歩的自由主義にきわめて近かったのである。
他人に迷惑かけないかぎりなにをやっても自由(リバタリアニズム)という思想やアナキズム(無政府主義)は、戦後日本の特異な思想で、こんなばかな考えが世界で通用するわけはない。
日本で、社会的自由と対立する個人的自由は、基本的人権と呼ばれる。
日本国憲法では、この基本的人権と、国民主権が二本柱になっている。
だが、日本以外の国では、自由も人権も、平等も民主主義も、個人にあたえられたものではなく、社会的な価値である。
そんなことは、ホッブズが17世紀に「万人による万人の戦争」という比喩をもちいて指摘して以来、常識になっていたはずである。
民主主義を個人的信条やイデオロギーとしてとらえると、個人だけに都合のよい身勝手な思想になる。
だが、国家や社会など全体のものとしてみると、民主主義は君民共治≠フ民本主義となって、望ましい体制となる。
民主主義や国民主権、自由や平等を個人のものとするから混乱がおきるのである。
そこに、保守主義や伝統的な精神、思想がもとめられる理由がある。
現在、日本では、個人が最大の特権をもって、他者や国家、歴史や伝統的な価値を否定する風潮がはびこって、社会摩擦をひきおこしている。
次回以降、同性結婚法制化などのような、国家や共同体が個≠竍私≠ヨ分解してゆく危険性についてのべよう。
明治新以降、日本は、西洋の思想を有難がって、無条件にとりいれてきた。
だが、ほとんどが、誤解や曲解、歪曲で、真の意味をとりちがえている。
その傾向は、明治時代よりも、むしろ、大正や昭和になって高まった。
1917年のロシア革命後、吉野作造の「民本主義(君民共治)」が大正デモクラシーのもとでルソー的な「民主主義(国民主権)」になると、自由や平等にたいする考え方もルソー的、マルクス主義的なものへと変質してゆく。
西尾幹二はこういう。「自由はそれだけではおよそ何ものでもない。その自由が奪われたとき強烈な自由への欲求がわきだす」
自由や平等、人権などは、奪われたとき、ヒトは、これを渇望するのであって、奪われてもいない自由や平等、人権をもとめるのは、革命主義で、文句をつけて体制をひっくり返そうという魂胆があるからである。
西尾はこうともいう。「ヨーロッパ人の自他の厳格な区別立ては、そのなかに、熱病じみたアナーキーという闇を秘めている。一方、日本人の自他意識は不明確(あいまい)で、ヨーロッパ人とは一味も二味もちがったデリケートな性格をそなえている。原理や原則にとらわれることなく、変化に対応する柔軟さをもち、実際的である」(『自由の悲劇』)
西洋の自由や平等、民主や人権は、奪われることにたいする抵抗である。
したがって、他人の自由や平等、民主や人権を奪うことも、罪悪になる。
ところが、日本では、じぶんの自由や平等、民主や人権をまもるには他人のそれは意に介さないという風潮で、言論被害をかえりみない言論の自由、被害者の人権を無視する加害者の人権擁護がまかりとおっている。
●歴史や伝統、文化を否定する左翼と法匪
自由主義だからなにやってよいというのがリバタリアン(完全自由主義者)である。テレビの人気番組『ホンマでっかTV』のコメンテーター早稲田大学名誉教授の池田清彦は「他人に迷惑をかけないかぎりなにをやってもよい」と説くが、この男は、日本共産党の熱烈な支持者で同党の宣伝塔でもある。
リバタリアンが自由をみとめない共産主義を支持するという理屈は解せないが、完全自由主義者を公言する池田が共産主義者で、自由の真の意味を理解していなかったとすればうなずける。
池田は、絶対自由というイデオロギーに縛られて、自由を見失っているのである。
昭和天皇の肖像をガスバーナーで燃やしてふみつける映像などを展示した「表現の不自由(国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」)へ公的負担金(約1億3700万円)の残金(約3380万円)一部の支払いを拒否した名古屋市にたいして、名古屋高等裁判所は、残金の支払いを命じた。
「昭和天皇の肖像に火をつけてふみつける映像も表現の自由にふくまれる」という判断で、違約行為はなかったというのである。そして、高須クリニックの高須克弥院長や大阪府内在住の主婦3人らが「表現の不自由展」から精神的な苦痛をうけたとする訴えはあっさりと退けて、主催者の愛知県大村秀章知事や芸術監督の津田大介らにはいっさいおトガめなしだった。
政治は、国家や文化など歴史の知恵にもとづくが、法治は、人間が決めた法律のみを根拠にする。
法文のみを奉じて、善悪や社会通念、価値観ぬきで判断を下す裁判官が法匪といわれるゆえんで、法匪の匪は盗賊の賊と同じ意味である。
司法や検察、弁護士会が反国家的なのは、国家や歴史、文化ではなく法律や観念、イデオロギーに拠って立つからだが、これは、左翼が国体や歴史よりも西洋の思想家(マルクスやルソー)を重く見るのと同じ構造である。
●共同体が個≠竍私≠ヨ分解してゆく危うさ
自由主義は、自由の有り難さを万人で共有しようというもので、個人の特権ではない。
これを、個人的自由と分けて、あえて、社会的自由と呼ばれる。
ヨーロッパでうまれた自由の概念は、社会的自由で、そのテキストとなっているのがホブハウスの『自由主義―福祉国家への思想的転換』である。
そこにこうある。「いかなる時代でも、禁止なくして、社会的自由はありえない」
自由は、規制を必要として、その規制が社会の自由を約束するといっているのである。
福祉国家というのは「君民共治」のことで、万民の幸を公平に考える天皇の大御心(藤田東湖『弘道館記述義』)が、近代ヨーロッパの進歩的自由主義にきわめて近かったのである。
他人に迷惑かけないかぎりなにをやっても自由(リバタリアニズム)という思想やアナキズム(無政府主義)は、戦後日本の特異な思想で、こんなばかな考えが世界で通用するわけはない。
日本で、社会的自由と対立する個人的自由は、基本的人権と呼ばれる。
日本国憲法では、この基本的人権と、国民主権が二本柱になっている。
だが、日本以外の国では、自由も人権も、平等も民主主義も、個人にあたえられたものではなく、社会的な価値である。
そんなことは、ホッブズが17世紀に「万人による万人の戦争」という比喩をもちいて指摘して以来、常識になっていたはずである。
民主主義を個人的信条やイデオロギーとしてとらえると、個人だけに都合のよい身勝手な思想になる。
だが、国家や社会など全体のものとしてみると、民主主義は君民共治≠フ民本主義となって、望ましい体制となる。
民主主義や国民主権、自由や平等を個人のものとするから混乱がおきるのである。
そこに、保守主義や伝統的な精神、思想がもとめられる理由がある。
現在、日本では、個人が最大の特権をもって、他者や国家、歴史や伝統的な価値を否定する風潮がはびこって、社会摩擦をひきおこしている。
次回以降、同性結婚法制化などのような、国家や共同体が個≠竍私≠ヨ分解してゆく危険性についてのべよう。
2023年06月04日
グローバルサウスと大東亜共栄思想3
●私的感情だけで殺人に走る恐怖のじぶん主義
私的な財産問題で逆恨みして安倍晋三元首相を射殺した山上徹也、じぶんが選挙に出られないのは選挙制度が悪いからという私的憤懣から岸田文雄首相を爆弾で殺そうとした木村隆二、悪口をいわれたという思いこみから4人を銃殺した青木政憲ら、一昔前まで、考えられもしなかった幼稚で自己中心的な殺人者や凶悪犯が続々とでてきた。
これらの事件に共通しているのが、じぶんのことしか考えることができない幼児性と極端な自己中心的な精神で、心理学で、自我肥大と呼ばれる。
人間は、成熟すると、他者や社会、国家など個や私をこえた存在に気づいて謙虚になる。尊敬心や名誉心、愛国心や公徳心など全体性の価値観に目覚めるのである。そうなると、おのずと自我が小さくなって、その一方、他者への愛や礼節、義理や道徳などの社会性がそなわってくる。
ところが、現在、世の中は、他者や社会、国家など、個や私をこえた価値や基準を否定する方向にうごいている。
同性婚が好例で、マスコミや左翼、法曹界は、同性婚の法制化に不熱心な与党を非難して、世界に遅れているという。世界に遅れているという論法がなりたつのなら、日本が、1919年、パリ講和会議で、世界に先駆けて人種差別撤廃を提案して、英米から拒絶されたことも、日本が世界に遅れていたことになってしまう。
西洋が性的マイノリティーや同性婚に寛容なのは、国家は個人の領域へ立ち入らないという不文律があるからで、どうぞお勝手にという意味である。
ところが、日本では、偏見をもつか差別反対と騒ぐかどちらかである。
常識や習慣、良識にしたがうのではなく、個や私をもちだして、じぶんの気持ちを最優先させるのが現代の風潮で、わたしはこれを自由主義や個人主義、民主主義と区別してじぶん主義≠ニ呼ぶことにしている。
背景にあるのが、消費者や有権者、主権者たる国民を神様とするマスコミのコマーシャリズムや国政選挙、世論における民主主義への盲信で、現在、日本では、社会通念や歴史の知恵よりも、あなたのマネー、あなたの一票、あなたの意見、あなたの主権、あなたの気持ちが大事にされる。
そこからかもしだされるのが、じぶんの気持ちや考えを絶対とする幼児的なじぶん中心主義で、他者や社会、全体へ目がむかない反面、過剰に自我が表にでてくる。
●発狂しつつある日本と橋下徹イズムや瀬戸内寂聴ブーム
本屋には橋下徹の本ばかり並んでいるが、橋下人気やかつての瀬戸内寂聴ブームと狂いつつある現在の日本を切り離して考えることができない。
橋下徹は、ウクライナ4000万国民は、ロシアに歯向かわず、国家を捨てて難民となって、十年後、帰ってきて、国家を再建すればいいと堂々といってのけた。
じぶんの気持ちやじぶんの都合、じぶん(個人)のイノチがいちばん大事で、国家や他人、モラルや常識、伝統的な価値観は二の次というのが橋下イズムで、それが現代の日本の風潮である。
同じ潮流にあったのが瀬戸内寂聴のイノチ主義で、寂聴が最大の敵としたのが国家だった。したがって、国家の繁栄と防衛に一身を捧げた安倍晋三元首相が寂聴の憎むべき天敵となった。
その寂聴をもちあげる一方、安倍元首相を国民の敵として叩きまくったのがマスコミ左翼で、当時、悪いことはすべて安倍が原因という風潮で、野党からマスコミ、検察にいたるまで、桜を見る会問題と森友学園問題、加計学園問題(「モリカケサクラ」)に狂奔して、新聞テレビで、安倍元首相の政治的、外交的功績が報道されることはついぞなかった。
瀬戸内晴美(寂聴)は、夫と3歳の子を捨てて新しい男の元へ走ったふしだらな女で、そんなじぶんを正当化するために迎合的な小説を書いて人気作家になった。さらに、法悦という快をもとめて仏道に入ったという身勝手な女だが、現在、寂聴は、日本でもっとも尊敬される偉人で、文化勲章というおまけまでついている。
なぜか。寂聴の私小説的な自己中心的な身勝手や法匪橋下のエゴイズムが、現代の日本で、自由の象徴となっているからである。
ウクライナ4000万もの国民が難民になる苦しみや3歳のわが子の悲しみよりも、じぶんの気持ちや快楽のほうが大事だったのが橋下イズムや瀬戸内ブームで、日本人は、そっくりこの自己中心主義にはまりこみ、これを個人主義や自由主義、民主主義と思いこんでいる。
●ガキの精神≠ェ犯罪にまで転落した反日左翼
岸田首相が襲撃された前日、作家で法政大学の島田雅彦教授が『安倍三代』(朝日文庫)の著者でジャーナリストの青木理やマルキストで京都精華大准教授の白井聡らと共演するインターネット番組で「(安倍元首相)の暗殺が成功してよかった」などと発言して物議をかもしたが、メディアの取材に応じた島田は、抗弁するどころか、よいチャンスとばかりに自著『パンとサーカス』の宣伝につとめる狡猾漢ぶりだった。
ちなみに、同席していた白井聡は著書(『主権者のいない国』)で「憲法で国民主権が明確に謳われているのにその効力は生かされているのだろうか」とのべている。ばかも休み休みいうもので、国民主権は、個人にあたえられたものではない。辞典に「主権者=統治権をもっている人」とあることから生じた誤解だろうが、主権者(ソブリンティ)は、王権あるいは統治権をのことであって、個人や私人をさしているわけではない。
人気評論家で東京都立大学教授の宮台真司がキャンパス内で、刃物をもった暴漢に襲われて重傷を負い、容疑者が自殺する事件があったが、宮台は、犯人の動機が分からないとコメントした。これは、トボケで、宮台が襲われた原因は、安倍元首相を撃った山上徹也をモデルとした映画(「REVOLUTION+1」)の旗振り役を演じたからである。メガホンを執った足立正生監督が「事件と映画に関係があるかないかいえばあるでしょう。それは本人(宮台)も知っている」とのべている。
足立正生は、レバノンで服役(3年間)したこともある日本赤軍の元メンバーだが、宮台や島田、青木や白井、そして、橋下や寂聴らのあいだに大きな共通点がある。
それは、一人よがりのわたしの気持ち≠オかもっていないガキの精神で、成熟したおとなの知恵がそなわっていない点である。
安倍元首相の国葬に、マスコミがネガティブキャンペーンを張って、全国で国葬反対のデモが吹き荒れた。大きな問題点は、主催側が参加者に鉦や太鼓、タンバリンの持参をもとめたことである。黙祷に騒音を立てて、妨害しようという魂胆だが、これは犯罪(不敬と礼拝妨害/刑法188条2項)で、懲役刑が科せられる。
日本では、反日左翼のガキの精神が犯罪のレベルにまで転落しているのである。
私的な財産問題で逆恨みして安倍晋三元首相を射殺した山上徹也、じぶんが選挙に出られないのは選挙制度が悪いからという私的憤懣から岸田文雄首相を爆弾で殺そうとした木村隆二、悪口をいわれたという思いこみから4人を銃殺した青木政憲ら、一昔前まで、考えられもしなかった幼稚で自己中心的な殺人者や凶悪犯が続々とでてきた。
これらの事件に共通しているのが、じぶんのことしか考えることができない幼児性と極端な自己中心的な精神で、心理学で、自我肥大と呼ばれる。
人間は、成熟すると、他者や社会、国家など個や私をこえた存在に気づいて謙虚になる。尊敬心や名誉心、愛国心や公徳心など全体性の価値観に目覚めるのである。そうなると、おのずと自我が小さくなって、その一方、他者への愛や礼節、義理や道徳などの社会性がそなわってくる。
ところが、現在、世の中は、他者や社会、国家など、個や私をこえた価値や基準を否定する方向にうごいている。
同性婚が好例で、マスコミや左翼、法曹界は、同性婚の法制化に不熱心な与党を非難して、世界に遅れているという。世界に遅れているという論法がなりたつのなら、日本が、1919年、パリ講和会議で、世界に先駆けて人種差別撤廃を提案して、英米から拒絶されたことも、日本が世界に遅れていたことになってしまう。
西洋が性的マイノリティーや同性婚に寛容なのは、国家は個人の領域へ立ち入らないという不文律があるからで、どうぞお勝手にという意味である。
ところが、日本では、偏見をもつか差別反対と騒ぐかどちらかである。
常識や習慣、良識にしたがうのではなく、個や私をもちだして、じぶんの気持ちを最優先させるのが現代の風潮で、わたしはこれを自由主義や個人主義、民主主義と区別してじぶん主義≠ニ呼ぶことにしている。
背景にあるのが、消費者や有権者、主権者たる国民を神様とするマスコミのコマーシャリズムや国政選挙、世論における民主主義への盲信で、現在、日本では、社会通念や歴史の知恵よりも、あなたのマネー、あなたの一票、あなたの意見、あなたの主権、あなたの気持ちが大事にされる。
そこからかもしだされるのが、じぶんの気持ちや考えを絶対とする幼児的なじぶん中心主義で、他者や社会、全体へ目がむかない反面、過剰に自我が表にでてくる。
●発狂しつつある日本と橋下徹イズムや瀬戸内寂聴ブーム
本屋には橋下徹の本ばかり並んでいるが、橋下人気やかつての瀬戸内寂聴ブームと狂いつつある現在の日本を切り離して考えることができない。
橋下徹は、ウクライナ4000万国民は、ロシアに歯向かわず、国家を捨てて難民となって、十年後、帰ってきて、国家を再建すればいいと堂々といってのけた。
じぶんの気持ちやじぶんの都合、じぶん(個人)のイノチがいちばん大事で、国家や他人、モラルや常識、伝統的な価値観は二の次というのが橋下イズムで、それが現代の日本の風潮である。
同じ潮流にあったのが瀬戸内寂聴のイノチ主義で、寂聴が最大の敵としたのが国家だった。したがって、国家の繁栄と防衛に一身を捧げた安倍晋三元首相が寂聴の憎むべき天敵となった。
その寂聴をもちあげる一方、安倍元首相を国民の敵として叩きまくったのがマスコミ左翼で、当時、悪いことはすべて安倍が原因という風潮で、野党からマスコミ、検察にいたるまで、桜を見る会問題と森友学園問題、加計学園問題(「モリカケサクラ」)に狂奔して、新聞テレビで、安倍元首相の政治的、外交的功績が報道されることはついぞなかった。
瀬戸内晴美(寂聴)は、夫と3歳の子を捨てて新しい男の元へ走ったふしだらな女で、そんなじぶんを正当化するために迎合的な小説を書いて人気作家になった。さらに、法悦という快をもとめて仏道に入ったという身勝手な女だが、現在、寂聴は、日本でもっとも尊敬される偉人で、文化勲章というおまけまでついている。
なぜか。寂聴の私小説的な自己中心的な身勝手や法匪橋下のエゴイズムが、現代の日本で、自由の象徴となっているからである。
ウクライナ4000万もの国民が難民になる苦しみや3歳のわが子の悲しみよりも、じぶんの気持ちや快楽のほうが大事だったのが橋下イズムや瀬戸内ブームで、日本人は、そっくりこの自己中心主義にはまりこみ、これを個人主義や自由主義、民主主義と思いこんでいる。
●ガキの精神≠ェ犯罪にまで転落した反日左翼
岸田首相が襲撃された前日、作家で法政大学の島田雅彦教授が『安倍三代』(朝日文庫)の著者でジャーナリストの青木理やマルキストで京都精華大准教授の白井聡らと共演するインターネット番組で「(安倍元首相)の暗殺が成功してよかった」などと発言して物議をかもしたが、メディアの取材に応じた島田は、抗弁するどころか、よいチャンスとばかりに自著『パンとサーカス』の宣伝につとめる狡猾漢ぶりだった。
ちなみに、同席していた白井聡は著書(『主権者のいない国』)で「憲法で国民主権が明確に謳われているのにその効力は生かされているのだろうか」とのべている。ばかも休み休みいうもので、国民主権は、個人にあたえられたものではない。辞典に「主権者=統治権をもっている人」とあることから生じた誤解だろうが、主権者(ソブリンティ)は、王権あるいは統治権をのことであって、個人や私人をさしているわけではない。
人気評論家で東京都立大学教授の宮台真司がキャンパス内で、刃物をもった暴漢に襲われて重傷を負い、容疑者が自殺する事件があったが、宮台は、犯人の動機が分からないとコメントした。これは、トボケで、宮台が襲われた原因は、安倍元首相を撃った山上徹也をモデルとした映画(「REVOLUTION+1」)の旗振り役を演じたからである。メガホンを執った足立正生監督が「事件と映画に関係があるかないかいえばあるでしょう。それは本人(宮台)も知っている」とのべている。
足立正生は、レバノンで服役(3年間)したこともある日本赤軍の元メンバーだが、宮台や島田、青木や白井、そして、橋下や寂聴らのあいだに大きな共通点がある。
それは、一人よがりのわたしの気持ち≠オかもっていないガキの精神で、成熟したおとなの知恵がそなわっていない点である。
安倍元首相の国葬に、マスコミがネガティブキャンペーンを張って、全国で国葬反対のデモが吹き荒れた。大きな問題点は、主催側が参加者に鉦や太鼓、タンバリンの持参をもとめたことである。黙祷に騒音を立てて、妨害しようという魂胆だが、これは犯罪(不敬と礼拝妨害/刑法188条2項)で、懲役刑が科せられる。
日本では、反日左翼のガキの精神が犯罪のレベルにまで転落しているのである。
2023年05月14日
グローバルサウスと大東亜共栄思想2
●家族国家の日本と敵・味方″痩ニ群の西洋
日本人はヨーロッパの「ジェノサイド(民族集団殺戮)」の歴史を知らない。
自民党副総裁の麻生太郎は「日本は、一つの国、一つの民族、一つの王朝が2000年にわたってつづいてきた国」(2005年)とのべたが、天皇を中心とする家族国家で、民族の集団殺戮などおきるはずもなく、そんな観念すらもなかった。
麻生発言に猛然に嚙みついたのが朝日新聞とその周辺の左翼学者で「日本は単一民族の国家ではない」というのである。
アイヌも在日も、帰化人も外国人もいるというのだが、厳密な意味での単一民族国家は世界のどこにも存在しない。同一民族の割合が人口の85%以上を占めていれば単一民族国家で、日本のほか、中国や韓国、北朝鮮、台湾、アルバニア、ポーランド、チェコ、ポルトガルなども単一民族国家である。
反日左翼は、日本という国の独自性までも否定しようとする。
「かつて日本は、中国の属国で、明治維新で西洋化に走ったが、戦後、憲法を新たな国体とするアメリカの属国になった。将来は、天皇を廃して、共産主義国家になる」というのである。
国際政治学者のハンチントン教授が「日本は、世界7大文明の一つで、中華文明の亜流ではない」(『文明の衝突』1996年)としたが、これにも、反日左翼学者が猛反発して「ハンチントンは二流学者」「中韓日は中華文明圏にふくまれる」と主張した。
ハンチントンの日本文明論は、日本の歴史が一万5千年前の縄文時代(世界4大文明は5000年前)からつづいてきたこと、独自の文化や文明をもっていること、中国大陸の2倍の海岸線をもつ海洋国家で、国土を他国に侵されたことがないこと、統一された単一の中央政府によって統治されてきた主権国家だったことなどをあげたが、これらの主張にたいして、他国から異議が唱えられたことはない。
●敵の殲滅≠最大の教義とする一神教の恐怖
日本にジェノサイトがなかった理由に、宗教観と歴史的習俗、自然環境など西洋との3つのちがいを挙げることができる。
筆頭が宗教観のちがいで、ヨーロッパで芽生えた一神教(ユダヤ教やキリスト教、イスラム教)は、神と悪魔がたたかう宗教で、教義の基本に悪魔退治がおかれる。
悪魔を倒すのが、一神教の神髄で、イスラム教のマホメット(ムハンマド)は、偶像(悪魔)征伐の戦争神だった。
ユダヤ教やキリスト教もその精神を引きついでいるので、宗教戦争は、凄惨きわまりないものになった。7回にわたった十字軍の遠征(1096〜1270年)では、略奪や破壊、皆殺しが横行、コルテスの「アステカ王国」征服やピサロの「インカ帝国」制圧でも、古代遺跡の破壊や略奪、民族の集団殺戮がくりひろげられた。
ジェノサイドの根拠は「キリスト教の恩恵に浴さない者は動物以下」という宗教的迷妄で、大航海時代のポルトガル人やスペイン人は、動物を殺すように見開国の罪なき老若男女を殺しまくった。
宗教戦争も激烈で、カトリックとプロテスタントが対立したドイツの「30年戦争では、ヨーロッパ20か国が参戦して、市街地や農村が主戦場となったドイツの人口は、戦前の3分の2にまで激減した(死者400万人)。
魔女狩り(異端審問)による女性の犠牲者は、ヨーロッパ全体で100万人以上になったが、見物者らは、火刑の犠牲者の泣き声や悲鳴を悪魔の断末魔の叫びとして聞いたという。
それがジェノサイドの原型で、敵対者や異教徒、放浪者、無国籍人の皆殺しは、ヨーロッパ一神教における神の行為だったのである。
「鉄砲と十字架」を手にした白人は、アフリカの奴隷狩りで数千万人の黒人を拉致して、アメリカ新大陸で1000万人のインディアンを殺戮した。そして、南アジアを侵略して200年間掠奪をつづけ、抵抗した日本に2発の原爆を投下した。
記者団から原爆投下を決断した経緯を聞かれたトルーマンは、指をパチンと鳴らしただけだったが、食糧を強奪して1000万人のウクライナ人を餓死させた(「モロドモール」)の命令書にサインしたスターリンは顔色一つかえなかったという。
ウクライナが、ロシア侵略に死の者狂いで抵抗するのは、90年前に人口の4分の1を餓死させられた仕打ちを忘れていないからである。
●スメルナ港のアルメニア人虐殺を救った日本の東慶丸
民族虐殺で忘れてならないのは、オスマン帝国の少数民族だったアルメニア人が、強制移住、虐殺などによって死亡した「アルメニア人虐殺(アルメニア人ジェノサイド)」で、犠牲者は100万から150万人にのぼる。
アルメニア人虐殺事件で引き合いにだされるのが、日本の商船がトルコ軍に追われたアルメニア難民800人を救出した「東慶丸事件」である。
第1次大戦後の1922年9月。ギリシャと交戦中のトルコ軍が港町スミルナ(現イズミル)に迫ると戦火に追われたアルメニア人が岸壁に殺到した。
このとき、アルメニア人らを保護したのが、スミルナに寄港していた日本の商船東慶丸だった。日本人船長は、追ってきたトルコ兵にたいして、難民に手を出せば日本への侮辱とみなすと告げ、積み荷を捨て、難民全員を上船させたという。
このとき、スミルナ港には、イギリスやフランス、イタリアなどヨーロッパ列強の船舶も多く停船していたが、難民を救出した船舶は、東慶丸以外、一隻もなかった。
東慶丸がアルメニア人を救ったのは、日本では、戦争に民をまきこむことが悪だったからで、戦火に追われた民を救うのは、日本人にとってあたりまえのことだった。
日本のいくさは、古来、農閑期におこなわれた。農作業のジャマにならないようにするためで、権力闘争である戦争と民の生命をささえる農業とのあいだには、一線が画されていて、戦争によって、作物や民の生命が犠牲になることは、道義上、あってはならないことだった。
●奴隷制度や人身売買、動物の屠殺を禁じた天皇令
日本の城下町には、敵の侵入を防ぐ城砦がない。いくさに民をまきこむ発想がなかったからで、たとえいくさでも、武士が無抵抗の民を殺せば末代の恥になった。
一方、西洋の城下は、市街地を城砦でとりかこみ、敵が侵入しにくい構造になっている。西洋の戦争は皆殺しなので、戦争になると兵士とともに民も犠牲になった。したがって、城下を丸ごと城砦で囲って、敵の侵入を防がなければならなかったのである。
奴隷の原型は、敗戦国の国の民を売買した奴隷市場で、これが15世紀からのアフリカ人を対象にした大西洋奴隷貿易へと発展した。
日本に奴隷制度がなかったのは、戦争で負けた側の民を殺害あるいは奴隷として売るという制度がなかったからで、徳川家康は、三河の一向一揆で、敵将だった本多正信を殺すどころか、戦後、重臣にとりたてて、終身、側近として仕えさせた。
反日左翼には、日本にも奴隷制度があったと主張する者がいるが、飢饉などによる人身売買はあったものの、制度としての奴隷制度はなかった。
ポルトガル人による日本人の人身売買が豊臣秀吉の怒りを買って、バテレン追放令につながった話はよく知られるが、わが国では、古来、奴隷制度や人身売買は、肉食と屠殺と同様、天皇(天武や聖武など)令として、国禁だった。
●職業区分だった「士農工商(穢多非人)」
身分制度とされる「士農工商(穢多非人)」は、実際は、中世以前からの職業区分で、当時の法規(『公事方御定書(町奉行所)』をみても、身分上の差別は存在しなかった。
穢多は、死んだ牛馬を解体して武具などに使う皮革類を生産する「斃牛馬取得権(旦那株)」のことで、この特権をめぐる訴状も残っていていることからも穢多が職業区別だったとわかる。
非人も前科者のことで、墓掘り(隠亡)や死体処理など常人がやらない仕事が前科者が生きてゆける唯一の職業だった。
奴隷という意味の「生口」や「奴婢」も中国側の呼び方(『後漢書』や『魏志倭人伝』)で、中国人が日本からの技能者や留学生を格下にみて「生口」や「奴婢」と呼んだのは「大和国の日巫女」を「邪馬台(ヤマト)国の卑弥呼」と侮蔑語で呼んだのと同様の発想である。
日本の史書に、当然、卑弥呼の蔑称はないが、日本の反日歴史学者は、卑弥呼の邪馬台国が正しく、大和朝廷は、後世のでっち上げだとして、中国の蔑称である倭(チビ)をとって、大和朝廷をヤマト(倭)国にしてしまった。
漁師や狩猟業、皮革業や食肉業が士農工商から外れたのは、日本は、屠殺や肉食が禁令の国だったからだが、穢多や非人は、ながいあいだ差別というイジメの対象にされてきた。
他人を差別するのは、東大神話と同様、昔も今もかわらぬ人間の性癖で、国家に差別的な身分制度が存在していたからではない。
次回以降、日本が人種差別撤廃から大東亜共栄思想に接近していった経緯についてのべていこう。
日本人はヨーロッパの「ジェノサイド(民族集団殺戮)」の歴史を知らない。
自民党副総裁の麻生太郎は「日本は、一つの国、一つの民族、一つの王朝が2000年にわたってつづいてきた国」(2005年)とのべたが、天皇を中心とする家族国家で、民族の集団殺戮などおきるはずもなく、そんな観念すらもなかった。
麻生発言に猛然に嚙みついたのが朝日新聞とその周辺の左翼学者で「日本は単一民族の国家ではない」というのである。
アイヌも在日も、帰化人も外国人もいるというのだが、厳密な意味での単一民族国家は世界のどこにも存在しない。同一民族の割合が人口の85%以上を占めていれば単一民族国家で、日本のほか、中国や韓国、北朝鮮、台湾、アルバニア、ポーランド、チェコ、ポルトガルなども単一民族国家である。
反日左翼は、日本という国の独自性までも否定しようとする。
「かつて日本は、中国の属国で、明治維新で西洋化に走ったが、戦後、憲法を新たな国体とするアメリカの属国になった。将来は、天皇を廃して、共産主義国家になる」というのである。
国際政治学者のハンチントン教授が「日本は、世界7大文明の一つで、中華文明の亜流ではない」(『文明の衝突』1996年)としたが、これにも、反日左翼学者が猛反発して「ハンチントンは二流学者」「中韓日は中華文明圏にふくまれる」と主張した。
ハンチントンの日本文明論は、日本の歴史が一万5千年前の縄文時代(世界4大文明は5000年前)からつづいてきたこと、独自の文化や文明をもっていること、中国大陸の2倍の海岸線をもつ海洋国家で、国土を他国に侵されたことがないこと、統一された単一の中央政府によって統治されてきた主権国家だったことなどをあげたが、これらの主張にたいして、他国から異議が唱えられたことはない。
●敵の殲滅≠最大の教義とする一神教の恐怖
日本にジェノサイトがなかった理由に、宗教観と歴史的習俗、自然環境など西洋との3つのちがいを挙げることができる。
筆頭が宗教観のちがいで、ヨーロッパで芽生えた一神教(ユダヤ教やキリスト教、イスラム教)は、神と悪魔がたたかう宗教で、教義の基本に悪魔退治がおかれる。
悪魔を倒すのが、一神教の神髄で、イスラム教のマホメット(ムハンマド)は、偶像(悪魔)征伐の戦争神だった。
ユダヤ教やキリスト教もその精神を引きついでいるので、宗教戦争は、凄惨きわまりないものになった。7回にわたった十字軍の遠征(1096〜1270年)では、略奪や破壊、皆殺しが横行、コルテスの「アステカ王国」征服やピサロの「インカ帝国」制圧でも、古代遺跡の破壊や略奪、民族の集団殺戮がくりひろげられた。
ジェノサイドの根拠は「キリスト教の恩恵に浴さない者は動物以下」という宗教的迷妄で、大航海時代のポルトガル人やスペイン人は、動物を殺すように見開国の罪なき老若男女を殺しまくった。
宗教戦争も激烈で、カトリックとプロテスタントが対立したドイツの「30年戦争では、ヨーロッパ20か国が参戦して、市街地や農村が主戦場となったドイツの人口は、戦前の3分の2にまで激減した(死者400万人)。
魔女狩り(異端審問)による女性の犠牲者は、ヨーロッパ全体で100万人以上になったが、見物者らは、火刑の犠牲者の泣き声や悲鳴を悪魔の断末魔の叫びとして聞いたという。
それがジェノサイドの原型で、敵対者や異教徒、放浪者、無国籍人の皆殺しは、ヨーロッパ一神教における神の行為だったのである。
「鉄砲と十字架」を手にした白人は、アフリカの奴隷狩りで数千万人の黒人を拉致して、アメリカ新大陸で1000万人のインディアンを殺戮した。そして、南アジアを侵略して200年間掠奪をつづけ、抵抗した日本に2発の原爆を投下した。
記者団から原爆投下を決断した経緯を聞かれたトルーマンは、指をパチンと鳴らしただけだったが、食糧を強奪して1000万人のウクライナ人を餓死させた(「モロドモール」)の命令書にサインしたスターリンは顔色一つかえなかったという。
ウクライナが、ロシア侵略に死の者狂いで抵抗するのは、90年前に人口の4分の1を餓死させられた仕打ちを忘れていないからである。
●スメルナ港のアルメニア人虐殺を救った日本の東慶丸
民族虐殺で忘れてならないのは、オスマン帝国の少数民族だったアルメニア人が、強制移住、虐殺などによって死亡した「アルメニア人虐殺(アルメニア人ジェノサイド)」で、犠牲者は100万から150万人にのぼる。
アルメニア人虐殺事件で引き合いにだされるのが、日本の商船がトルコ軍に追われたアルメニア難民800人を救出した「東慶丸事件」である。
第1次大戦後の1922年9月。ギリシャと交戦中のトルコ軍が港町スミルナ(現イズミル)に迫ると戦火に追われたアルメニア人が岸壁に殺到した。
このとき、アルメニア人らを保護したのが、スミルナに寄港していた日本の商船東慶丸だった。日本人船長は、追ってきたトルコ兵にたいして、難民に手を出せば日本への侮辱とみなすと告げ、積み荷を捨て、難民全員を上船させたという。
このとき、スミルナ港には、イギリスやフランス、イタリアなどヨーロッパ列強の船舶も多く停船していたが、難民を救出した船舶は、東慶丸以外、一隻もなかった。
東慶丸がアルメニア人を救ったのは、日本では、戦争に民をまきこむことが悪だったからで、戦火に追われた民を救うのは、日本人にとってあたりまえのことだった。
日本のいくさは、古来、農閑期におこなわれた。農作業のジャマにならないようにするためで、権力闘争である戦争と民の生命をささえる農業とのあいだには、一線が画されていて、戦争によって、作物や民の生命が犠牲になることは、道義上、あってはならないことだった。
●奴隷制度や人身売買、動物の屠殺を禁じた天皇令
日本の城下町には、敵の侵入を防ぐ城砦がない。いくさに民をまきこむ発想がなかったからで、たとえいくさでも、武士が無抵抗の民を殺せば末代の恥になった。
一方、西洋の城下は、市街地を城砦でとりかこみ、敵が侵入しにくい構造になっている。西洋の戦争は皆殺しなので、戦争になると兵士とともに民も犠牲になった。したがって、城下を丸ごと城砦で囲って、敵の侵入を防がなければならなかったのである。
奴隷の原型は、敗戦国の国の民を売買した奴隷市場で、これが15世紀からのアフリカ人を対象にした大西洋奴隷貿易へと発展した。
日本に奴隷制度がなかったのは、戦争で負けた側の民を殺害あるいは奴隷として売るという制度がなかったからで、徳川家康は、三河の一向一揆で、敵将だった本多正信を殺すどころか、戦後、重臣にとりたてて、終身、側近として仕えさせた。
反日左翼には、日本にも奴隷制度があったと主張する者がいるが、飢饉などによる人身売買はあったものの、制度としての奴隷制度はなかった。
ポルトガル人による日本人の人身売買が豊臣秀吉の怒りを買って、バテレン追放令につながった話はよく知られるが、わが国では、古来、奴隷制度や人身売買は、肉食と屠殺と同様、天皇(天武や聖武など)令として、国禁だった。
●職業区分だった「士農工商(穢多非人)」
身分制度とされる「士農工商(穢多非人)」は、実際は、中世以前からの職業区分で、当時の法規(『公事方御定書(町奉行所)』をみても、身分上の差別は存在しなかった。
穢多は、死んだ牛馬を解体して武具などに使う皮革類を生産する「斃牛馬取得権(旦那株)」のことで、この特権をめぐる訴状も残っていていることからも穢多が職業区別だったとわかる。
非人も前科者のことで、墓掘り(隠亡)や死体処理など常人がやらない仕事が前科者が生きてゆける唯一の職業だった。
奴隷という意味の「生口」や「奴婢」も中国側の呼び方(『後漢書』や『魏志倭人伝』)で、中国人が日本からの技能者や留学生を格下にみて「生口」や「奴婢」と呼んだのは「大和国の日巫女」を「邪馬台(ヤマト)国の卑弥呼」と侮蔑語で呼んだのと同様の発想である。
日本の史書に、当然、卑弥呼の蔑称はないが、日本の反日歴史学者は、卑弥呼の邪馬台国が正しく、大和朝廷は、後世のでっち上げだとして、中国の蔑称である倭(チビ)をとって、大和朝廷をヤマト(倭)国にしてしまった。
漁師や狩猟業、皮革業や食肉業が士農工商から外れたのは、日本は、屠殺や肉食が禁令の国だったからだが、穢多や非人は、ながいあいだ差別というイジメの対象にされてきた。
他人を差別するのは、東大神話と同様、昔も今もかわらぬ人間の性癖で、国家に差別的な身分制度が存在していたからではない。
次回以降、日本が人種差別撤廃から大東亜共栄思想に接近していった経緯についてのべていこう。
2023年05月01日
グローバルサウスと大東亜共栄思想1
●日本右翼の原点は大アジア主義
日本の右翼の原点が「アジア主義」にあったことに政治学者ですら気づいていないようだ。
右翼の語義についても錯誤がある。フランス革命期の国民公会で、議長席の左側を急進派(ジャコバン派)が占めたのにたいして右側を穏健派(ジロンド派)が占めたところに由来があるなどというのだが、日本やアジアの黎明期の政治とフランス革命とはなんのかかわりもない。
右翼は「右にでるものがいない」という謂いにあるとおり上位や正当という意味で、左翼(革命急進派)に対立する右翼(反動的守旧派)と理解するのは語義上の誤りである。
右翼は反共の砦という者もいる。だが、反共の呼称は、戦後の革命の危機に任侠までも動員した防共体制の名残で、1919年のコミンテルン(国際共産主義運動)の誕生や1922年の日本共産党(コミンテルン日本支部)の結党まで、日本には、反共という概念は存在しなかった。
右翼の根幹精神に西郷隆盛をおく右翼人が多い。葦津珍彦はこうのべた。
「岩倉(具視)や大久保(利通)、伊藤(博文)ら政府実権者は、日本の富強をはかるには、欧米列強への抵抗(攘夷)の精神を捨て、欧米の支援の下で国の発展を期さねばならぬと信ずるに至った。これにたいして、日本精神の権威を確保して、欧米の圧力に抵抗しつつ、日本国の強化をはからねばならぬとする西郷以下の勢力が対決した」
1877年の「西南の役」など士族の乱は、徹底的に鎮圧されて、明治日本は、西洋的な帝国主義に変容して、それが、1945年の大戦終戦まで68年間のながきにわたって継続される。
その象徴が天皇主権を謳った明治憲法と徴兵令で、明治維新によって武士と天皇の国(権威と権力の二元論)としての日本の国体は、完全に瓦解したといえる。
●アジア主義という理念に立った日本の右翼
武士の精神が消えた近代日本で、日本の右翼がもとめたのは、修好と開国をすすめる遣韓使節としてみずから朝鮮におもむこうという西郷隆盛の征韓論であった。
これがアジア主義の原点となったが、アジア主義へ最初の一歩をふみだしたのは、皮肉にも、征韓論で西郷と敵対した大久保利通だった。清国の李鴻章から「東洋の団結」をもちかけられた大久保は、米沢藩士の曽根俊虎に命じて「振亜会」を発足させ、みずから会則を起草する。
振亜会(1878年)は興亜会(1880年)へ、さらに亜細亜協会や東亜同文会(1900年)と名称を変えるが、日本と支那、朝鮮の親和性を深めていこうとする李鴻章の精神は、日清戦争(1894年)まで維持された。
これがアジア主義に立った日本の右翼の萌芽で、運動の主導権をにぎったのは、国家という枠組みをこえた振亜会の流れをくむ有志団体であった。
国家は、国益のためのみにうごくので、民間の活動はふりかえられない。
ヨーロッパの25か国が参戦した第一次世界大戦で、戦闘員および民間人の犠牲者約3700万人にもたっしたのは、国家は、敵対国の殲滅という一元論的な行動原理しかもちえないからである。
李鴻章は、日清講和条約をむすんだ清国全権で、日清講和条約では、清国が朝鮮の独立を承認したほか、日本に遼東半島と台湾・澎湖列島の割譲を約している。
開戦に反対だった李鴻章が日清開戦に踏み切らざるをえなかったのは、西太后周辺の積極派に押し切られたからで、個人の意志が国家理性に敗北するのが歴史のつねなのである。
日本で、アジア主義という政治観を打ち立てることができたのは、主導権をにぎったのが、国家ではなく、右翼という個人の思想や価値観か反映された有志団体だったからだった。
有志団体なら、国家の利害関係をこえた人類の理想にたちむかってゆける。
右翼が、国家や民族の独立やアジア同胞の連帯という大運動に挺身できたのは、国家という枠組みに縛られない自由人だったからで、頭山満や内田良平は民族独立や国家防衛には身をたぎらせたが帝国主義戦争には大反対だった。
●アジア独立の工作機関だった黒龍会
日本の右翼の先陣を切ったのが頭山満や平岡浩太郎らの玄洋社で、興亜会が発足した翌1881年、アジア主義の政治団体として、黒田藩内に設立された。
西南の役などの士族の反乱で死にそびれた武士たちが大挙して玄洋社にくわわったのは、秋月の乱をおこした秋月藩が黒田藩の支藩だったからで、黒田藩出身の頭山満にも尊敬する西郷隆盛とともに戦えなかった無念があった。
西南の役で、西郷とともに最後までたたかった平岡浩太郎は、黒龍会の内田良平の叔父で、良平の父、内田良五郎は玄洋社の幹部だった。
ちなみに、日露戦争中、レーニン工作などロシア国内の政情不安を工作して日本の勝利に貢献した明石元二郎も玄洋社の社員だった。明石の功績について陸軍参謀本部の長岡外史は「陸軍10個師団に相当する」と評したが、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も「明石元二郎一人で満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げた」と称えた。
明石の偉業の背景にあったのが、黒龍会の内田良平が決行したロシア偵察のシベリア横断(1897年)だった。
南洋植民や中国貿易からアジア主義へと発展した東邦協会(1891年)や犬養毅や平岡浩太郎、三宅雪嶺らが発起した東亜会(1897年)の後をうけて、4年後、玄洋社の海外工作を担当する内田良平の黒龍会(1901年)が設立されている。
玄洋社のスローガンに「大アジア主義」があるが、アジア全土で独立と解放の運動をおこなうには、国外で工作を担う専門部隊が必要だった。
それが内田良平の黒龍会で、良平は、フィリピン独立の指導者アギナルドや中国革命の孫文、インドの独立のラス・ビハリ・ボース、朝鮮開明派の金玉均や朴泳孝を援助したほか、日韓問題については、一進会の領袖李容九とともに日韓の対等合邦をめざして、日本政府にはたらきかけた。
●西郷隆盛の大東亜論と勝海舟の東亜同盟論
孫文の辛亥革命は、1911年に成立するが、中華民国の実権を奪ったのは孫文ではなく、袁世凱だった。袁が死ぬと分裂をくり返す北洋軍閥と毛沢東の革命派、蒋介石の国民軍による内戦がはじまって中国全土は群雄割拠の戦乱の時代に突入する。
日本が孫文の後継者とした汪兆銘の南京政府も全土掌握にはいたらず日本の敗戦後、解体されて、南京政府関係者の多くが反逆罪で処刑されている。
当時の右翼は、国政や軍事、官僚から一線を画した有志の団体で、頭山満の玄洋社は、満州義軍(馬賊)を編成、ロシア軍の後方をかく乱するゲリラ戦を展開、天佑侠を編成して、東学党を援けた黒龍会の内田良平も朝鮮やインド、フィリピンの独立運動に尽力したが、日本政府の手先になることはなかった。
盟友の犬養毅から大臣の椅子を約束されても政界入りを断った頭山満は、関東軍のよる満州建国や日韓併合とりわけ日華事変に大反対だった。大アジア主義に立っていたからで、当時、右翼人の思想や行動力をささえていたのは、西郷隆盛や叛乱士族らからうけつだ武士の精神であった。
玄洋社の三憲則に、皇室を敬戴すべし(第一条)、本国を愛重すべし(第二条)、人民の権利を固守すべし(第三条)とあるが、国政に尽くせとはない。
西郷や叛乱氏族の精神うけつぐ右翼にとって、ヨーロッパの模倣に走る明治政府は、理想からほど遠いもので、右翼が維新の根幹とみなしたのは、西郷隆盛の大東亜論であった。
西郷の大東亜論は、日本と中国、朝鮮が同盟を結んで西洋列強の東洋進出に対抗すべきとした勝海舟の東亜同盟論と同根で、江戸無血開城をもちだすまでもなく、西郷と勝は肝胆相照らす仲だった。
●右翼の公的使命感と大東亜共栄思想
大東亜共栄思想は、西郷の大東亜論や勝海舟の東亜同盟論の上に成り立ったもので、東条内閣の大東亜会議(1943年)は、日本の国策や軍略というより、アジア全土にみなぎっていた植民地解放と独立への地響きのような渇望の声であった。
戦後、左翼は、大東亜会議は、後づけで、日本の目的は帝国主義的な侵略にあったと主張するが、あたりまえである。日本が他国を独立させるために戦争するわけはなく、目的は、地下資源の入手と欧米列強の駆逐であったのはいうまでもない。
にもかかわらず、歴史学者のアーノルド・トインビーは英紙『オブザーバー(1956年)』にこう書いた。
「日本は、第二次世界大戦において、大東亜共栄圏の他の国々に思いがけない恵みをもたらした。それまでアジア・アフリカを200年のながきにわたって支配してきた西洋人は、無敵で、あたかも神のような存在だと信じられてきたが、日本人は、実際にはそうではなかったことを、アジア人の面前で証明してみせた。これは、歴史的な偉業であった。日本は白人のアジア侵略を止めるどころか、帝国主義、植民地主義、人類差別に終止符を打つ偉業をなしとげたのである」
日清と日露戦争、太平洋戦争における日本兵の勇猛果敢さ、とりわけ玉砕や特攻など死を覚悟した闘争精神は世界を驚愕させた。
その思想的深淵はなんであったあろうか。
国家や国体、国民やアジア同胞をまもろうとする公的な使命感てあった。
私を捨て、公に一身を捧げるますらお(益荒男)の防人精神で、日本男子は、私情を捨て去ったもののふ(武士)だったのである。
やさしさや親切、おもてなしなどの日本人の社会的善が世界から賞賛をうけているが、これも、私をおさえた公(おおやけ)の心である。
次回以降、日本人の公の心と西洋の私の精神を比較しながら、世界の歴史をみていこう。
日本の右翼の原点が「アジア主義」にあったことに政治学者ですら気づいていないようだ。
右翼の語義についても錯誤がある。フランス革命期の国民公会で、議長席の左側を急進派(ジャコバン派)が占めたのにたいして右側を穏健派(ジロンド派)が占めたところに由来があるなどというのだが、日本やアジアの黎明期の政治とフランス革命とはなんのかかわりもない。
右翼は「右にでるものがいない」という謂いにあるとおり上位や正当という意味で、左翼(革命急進派)に対立する右翼(反動的守旧派)と理解するのは語義上の誤りである。
右翼は反共の砦という者もいる。だが、反共の呼称は、戦後の革命の危機に任侠までも動員した防共体制の名残で、1919年のコミンテルン(国際共産主義運動)の誕生や1922年の日本共産党(コミンテルン日本支部)の結党まで、日本には、反共という概念は存在しなかった。
右翼の根幹精神に西郷隆盛をおく右翼人が多い。葦津珍彦はこうのべた。
「岩倉(具視)や大久保(利通)、伊藤(博文)ら政府実権者は、日本の富強をはかるには、欧米列強への抵抗(攘夷)の精神を捨て、欧米の支援の下で国の発展を期さねばならぬと信ずるに至った。これにたいして、日本精神の権威を確保して、欧米の圧力に抵抗しつつ、日本国の強化をはからねばならぬとする西郷以下の勢力が対決した」
1877年の「西南の役」など士族の乱は、徹底的に鎮圧されて、明治日本は、西洋的な帝国主義に変容して、それが、1945年の大戦終戦まで68年間のながきにわたって継続される。
その象徴が天皇主権を謳った明治憲法と徴兵令で、明治維新によって武士と天皇の国(権威と権力の二元論)としての日本の国体は、完全に瓦解したといえる。
●アジア主義という理念に立った日本の右翼
武士の精神が消えた近代日本で、日本の右翼がもとめたのは、修好と開国をすすめる遣韓使節としてみずから朝鮮におもむこうという西郷隆盛の征韓論であった。
これがアジア主義の原点となったが、アジア主義へ最初の一歩をふみだしたのは、皮肉にも、征韓論で西郷と敵対した大久保利通だった。清国の李鴻章から「東洋の団結」をもちかけられた大久保は、米沢藩士の曽根俊虎に命じて「振亜会」を発足させ、みずから会則を起草する。
振亜会(1878年)は興亜会(1880年)へ、さらに亜細亜協会や東亜同文会(1900年)と名称を変えるが、日本と支那、朝鮮の親和性を深めていこうとする李鴻章の精神は、日清戦争(1894年)まで維持された。
これがアジア主義に立った日本の右翼の萌芽で、運動の主導権をにぎったのは、国家という枠組みをこえた振亜会の流れをくむ有志団体であった。
国家は、国益のためのみにうごくので、民間の活動はふりかえられない。
ヨーロッパの25か国が参戦した第一次世界大戦で、戦闘員および民間人の犠牲者約3700万人にもたっしたのは、国家は、敵対国の殲滅という一元論的な行動原理しかもちえないからである。
李鴻章は、日清講和条約をむすんだ清国全権で、日清講和条約では、清国が朝鮮の独立を承認したほか、日本に遼東半島と台湾・澎湖列島の割譲を約している。
開戦に反対だった李鴻章が日清開戦に踏み切らざるをえなかったのは、西太后周辺の積極派に押し切られたからで、個人の意志が国家理性に敗北するのが歴史のつねなのである。
日本で、アジア主義という政治観を打ち立てることができたのは、主導権をにぎったのが、国家ではなく、右翼という個人の思想や価値観か反映された有志団体だったからだった。
有志団体なら、国家の利害関係をこえた人類の理想にたちむかってゆける。
右翼が、国家や民族の独立やアジア同胞の連帯という大運動に挺身できたのは、国家という枠組みに縛られない自由人だったからで、頭山満や内田良平は民族独立や国家防衛には身をたぎらせたが帝国主義戦争には大反対だった。
●アジア独立の工作機関だった黒龍会
日本の右翼の先陣を切ったのが頭山満や平岡浩太郎らの玄洋社で、興亜会が発足した翌1881年、アジア主義の政治団体として、黒田藩内に設立された。
西南の役などの士族の反乱で死にそびれた武士たちが大挙して玄洋社にくわわったのは、秋月の乱をおこした秋月藩が黒田藩の支藩だったからで、黒田藩出身の頭山満にも尊敬する西郷隆盛とともに戦えなかった無念があった。
西南の役で、西郷とともに最後までたたかった平岡浩太郎は、黒龍会の内田良平の叔父で、良平の父、内田良五郎は玄洋社の幹部だった。
ちなみに、日露戦争中、レーニン工作などロシア国内の政情不安を工作して日本の勝利に貢献した明石元二郎も玄洋社の社員だった。明石の功績について陸軍参謀本部の長岡外史は「陸軍10個師団に相当する」と評したが、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も「明石元二郎一人で満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げた」と称えた。
明石の偉業の背景にあったのが、黒龍会の内田良平が決行したロシア偵察のシベリア横断(1897年)だった。
南洋植民や中国貿易からアジア主義へと発展した東邦協会(1891年)や犬養毅や平岡浩太郎、三宅雪嶺らが発起した東亜会(1897年)の後をうけて、4年後、玄洋社の海外工作を担当する内田良平の黒龍会(1901年)が設立されている。
玄洋社のスローガンに「大アジア主義」があるが、アジア全土で独立と解放の運動をおこなうには、国外で工作を担う専門部隊が必要だった。
それが内田良平の黒龍会で、良平は、フィリピン独立の指導者アギナルドや中国革命の孫文、インドの独立のラス・ビハリ・ボース、朝鮮開明派の金玉均や朴泳孝を援助したほか、日韓問題については、一進会の領袖李容九とともに日韓の対等合邦をめざして、日本政府にはたらきかけた。
●西郷隆盛の大東亜論と勝海舟の東亜同盟論
孫文の辛亥革命は、1911年に成立するが、中華民国の実権を奪ったのは孫文ではなく、袁世凱だった。袁が死ぬと分裂をくり返す北洋軍閥と毛沢東の革命派、蒋介石の国民軍による内戦がはじまって中国全土は群雄割拠の戦乱の時代に突入する。
日本が孫文の後継者とした汪兆銘の南京政府も全土掌握にはいたらず日本の敗戦後、解体されて、南京政府関係者の多くが反逆罪で処刑されている。
当時の右翼は、国政や軍事、官僚から一線を画した有志の団体で、頭山満の玄洋社は、満州義軍(馬賊)を編成、ロシア軍の後方をかく乱するゲリラ戦を展開、天佑侠を編成して、東学党を援けた黒龍会の内田良平も朝鮮やインド、フィリピンの独立運動に尽力したが、日本政府の手先になることはなかった。
盟友の犬養毅から大臣の椅子を約束されても政界入りを断った頭山満は、関東軍のよる満州建国や日韓併合とりわけ日華事変に大反対だった。大アジア主義に立っていたからで、当時、右翼人の思想や行動力をささえていたのは、西郷隆盛や叛乱士族らからうけつだ武士の精神であった。
玄洋社の三憲則に、皇室を敬戴すべし(第一条)、本国を愛重すべし(第二条)、人民の権利を固守すべし(第三条)とあるが、国政に尽くせとはない。
西郷や叛乱氏族の精神うけつぐ右翼にとって、ヨーロッパの模倣に走る明治政府は、理想からほど遠いもので、右翼が維新の根幹とみなしたのは、西郷隆盛の大東亜論であった。
西郷の大東亜論は、日本と中国、朝鮮が同盟を結んで西洋列強の東洋進出に対抗すべきとした勝海舟の東亜同盟論と同根で、江戸無血開城をもちだすまでもなく、西郷と勝は肝胆相照らす仲だった。
●右翼の公的使命感と大東亜共栄思想
大東亜共栄思想は、西郷の大東亜論や勝海舟の東亜同盟論の上に成り立ったもので、東条内閣の大東亜会議(1943年)は、日本の国策や軍略というより、アジア全土にみなぎっていた植民地解放と独立への地響きのような渇望の声であった。
戦後、左翼は、大東亜会議は、後づけで、日本の目的は帝国主義的な侵略にあったと主張するが、あたりまえである。日本が他国を独立させるために戦争するわけはなく、目的は、地下資源の入手と欧米列強の駆逐であったのはいうまでもない。
にもかかわらず、歴史学者のアーノルド・トインビーは英紙『オブザーバー(1956年)』にこう書いた。
「日本は、第二次世界大戦において、大東亜共栄圏の他の国々に思いがけない恵みをもたらした。それまでアジア・アフリカを200年のながきにわたって支配してきた西洋人は、無敵で、あたかも神のような存在だと信じられてきたが、日本人は、実際にはそうではなかったことを、アジア人の面前で証明してみせた。これは、歴史的な偉業であった。日本は白人のアジア侵略を止めるどころか、帝国主義、植民地主義、人類差別に終止符を打つ偉業をなしとげたのである」
日清と日露戦争、太平洋戦争における日本兵の勇猛果敢さ、とりわけ玉砕や特攻など死を覚悟した闘争精神は世界を驚愕させた。
その思想的深淵はなんであったあろうか。
国家や国体、国民やアジア同胞をまもろうとする公的な使命感てあった。
私を捨て、公に一身を捧げるますらお(益荒男)の防人精神で、日本男子は、私情を捨て去ったもののふ(武士)だったのである。
やさしさや親切、おもてなしなどの日本人の社会的善が世界から賞賛をうけているが、これも、私をおさえた公(おおやけ)の心である。
次回以降、日本人の公の心と西洋の私の精神を比較しながら、世界の歴史をみていこう。
2023年04月17日
「自由主義」と「民主主義」の相克と調和11
●結果論でうごく政治のリアリズム
政治の世界が、なまぬるい動機論ではなく、血も涙もない結果論なのはいうまでもない。
「戦争は政治と異なる手段をもってする政治の継続」と喝破したのはドイツのクラウゼウィッツだったが、現在も、この大原則は生きている。
アメリカのイラク戦争や中国の一帯一路、ロシアのウクライナ侵略が問われたのは、結果がすべての結果論で、動機論をいくら語ったところで、すべて後の祭りである。
結果だけが問われる政治の現実にたいして、甘ったるい動機論をくり広げているのが日本の左翼で、こうあるべき、かくあるべき、と空理空論にうつつをぬかしている。
現実から離れて、空想の世界にあそぶのが日本の平和主義で、東大を頂点とするインテリ左翼は、戦後、日本で平和がまもられたのは憲法九条のおかげという寝ぼけたことをいって恥じる様子もない。
橋下徹は、ウクライナ国民4000万人は、生命をまもるため祖国を捨てて難民になり、十年後に帰国して国土を再建すべきと小学生のようなことをいったが、マスコミはこれを批判するどころか、個人を国家の上位におく橋下イズムをもちあげた。橋下から日本弁護士連合会まで、法律家が左翼的なのは、国家の根源を、国体や歴史ではなく、法におくからで、法治主義は、伝統や文化、習俗を人工の法に切り替えようとする革命運動でもあったのである。
戦争がおきた場合、国家のためにたたかうかという国際機関のアンケートにイエスとこたえた日本は13%で、世界79か国中、最下位だった。参加国の平均値が約70%、78位のリトアニアのイエスが33%だったことを思えば日本の13%がいかに異常な数字だったかがわかるだろう。
戦争がおきても、9割に近い国民がたたかわない異様な国、日本にあるのは、個人や私性だけで、国家や国体、歴史や文化にたいする尊敬心や帰属意識、全体に目を配る哲学や公的な精神が完全に脱落している。
●個人的感情の延長線上にある日本の民主主義
日本人は、民主主義や基本的人権、自由や平等は、個人にあたえられたものと思っている。
したがって、人類的な課題や国家的な使命、普遍的な目的が目に入らない。
個人的な損得や私的な感情、都合がすべてだからで、国家や歴史、共同体や全体性とは無関係に単独で生を営んでいる日本人は、孤独な個人つまり私人でしかない。
日本人は、生命が大事と口を揃えるが、国家や歴史、文化から断ち切られた生命になんの意味があるだろう。
安倍元首相を殺害した狙撃犯は、宗教問題にかかる個人的な恨みから犯行におよび、獄中から弁護団や全国の支援者らに感謝のメッセージを送っているという。
現在の日本人は、この行動の異様さに気がつかない。
個人や私人を生きているので、国連総会演説で世界の首脳を感動させた安倍晋三首相(一般討論演説)の精神と、家庭の財産トラブルから殺意をもった狙撃犯の狂気の区別がつかないのである。
否、個人や私人のレベルでは、人類の理想と狂人の妄念が同一のものとして並列される。
日本の自由主義は、なにをするのも個人の勝手だが、ヨーロッパの自由主義は、自由の制限である。個人主義も、個人が侵してはならないタブーの設定である。そこからヨーロッパ保守主義からモラルの思想がうまれて、自由や平等、権利が他者や社会をまもる、秩序の体系となった。
安倍晋三元首相を殺害したのは、元海上自衛隊員だったが、坂本雄一陸将ら幹部8人が同乗していた陸上自衛隊のヘリコプターが宮古島海域で墜落した事件では、内部犯行説がささやかれている。背景に自衛隊幹部の三菱電機への大量の天下り構造があるというというのだが、そういう噂が流れることじたいすでに重大な不祥事なのである。
日本では、皇族をまもるべき皇宮警察が、愛子さまを「クソガキ」と呼んでも問題にならず、自衛隊のなかで処遇などについて不穏な空気が渦巻いていようと、橋下徹がウクライナ4000万国民に命をまもるために国を捨てるようにうったえようと、異様とはうけとめられない。
日本という国家、日本人という人間の在り方に狂いが生じていると考えざるをえない。
●国家観や公的精神を失って個人や私人に転落した日本人
変調の元凶は、公的精神の欠如にあるのはいうまでもない。国家や社会、共同体への尊敬心や帰属心が、全体の一員たる日本人にそなわっていなければ、国家も国民もともに成り立たないのである。
人間や共同体は、それ自体、単独で存在しているわけではない。個と全体が二元論的にささえあって、国家と国民が成立している。これは、結果論でもあって、たとえ、動機論的には個人や集団でも、そこに政治イデオロギーがはたらけば、結果的に、国民と国家という政治的な存在になるのである。
左翼陣営から、かつての大東亜共栄思想は、侵略戦争の合理化という批判がなされる。
日本のアジア侵攻は、帝国主義政策で、むろん、アジア解放をめざしたものではなかった。
だが、第二次世界大戦後、イギリスやフランス、アメリカやオランダなどの植民地支配から独立したアジアとアフリカ、中東諸国が結集したバンドン会議(第1回アジア・アフリカ会議/1955年)で、日本は、招待されて大歓迎をうけた。
迎えたのは、戦後に独立したインドのネルー首相、インドネシアのスカルノ大統領、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領らだが、同会議の参加国は29か国で当時の世界人口の54%を占めていた。
会議には、高碕達之助や加瀬俊一(のちに国連大使)ら外務省関係者十数名が参加したが、加瀬は当時の熱狂的な歓迎ぶりをこう書き記している。
「各国代表から握手をもとめられた。かれらは、日本が、大東亜会議で宣言をだしてくれていなかったら、われわれは、列強の植民地のままであったろうと口をそろえた」
大東亜会議の参加者は、東條英機のほか中国南京政府の汪兆銘、満州の張景恵国務総理、インド国民軍のチャンドラ・ボース、ビルマのバー・モウ行政府長官、タイのワンワイタヤーコーン親王、フィリピンのラウレル大統領の7人で、終戦2年前の昭和18年の段階で、米英支配の打破が明確に打ち出された。
政治は、結果論なので、大東亜共栄思想は、第三世界の独立に大いなる貢献をおこなったといいうるのである。
●グローバルサウスにひきつがれた大東亜宣言とバンドン会議の精神
1964年に予定されていた「第2回会議バンドン会議」は中印国境紛争やナセルのアラブ連合形成の失敗、スカルノの失脚などによって開催が不可能となったが、50年後の2005年、インドネシアで「バンドン会議50周年を記念する首脳会議」がひらかれた。
このとき、AAおよび中南米から106カ国が参加して、欧米の帝国主義的なグローバリゼーションに対抗できるアジア・アフリカによる戦略的な連帯を宣言した。
2015年、ジャカルタで「バンドン会議60周年を記念する首脳会議」がおこなわれて、109か国の首脳・閣僚が参加したが、安倍晋三首相と中国の習近平主席がこのとき首脳会談をおこない、悪化していた関係改善の合意をむすんでいる。
バンドン会議の延長がグローバルサウスで、さらに原形をもとめると大東亜会議にゆきつく。大東亜会議にビルマの国家元首として出席したバー・モウは戦後の回想録のなかでこう指摘している。
「日本の大東亜会議は、十二年後、バンドン会議で結実した。バンドン会議の精神がアジア・アフリカの旧植民地勢力の躍進を約束してくれている」
バンドン会議六十周年の開会式の直後、安倍首相は元日本兵墓地(カリバタ英雄墓地)を訪れて献花をおこなった。首相は、演説で、バンドン会議と大東亜会議の関係にふれなかったが、関係諸国は、安倍首相の真意と歴史をわかっていた。
日本のメディアは「桜を見る会」の追及に忙しくてこれら一連の事実関係を報道しなかったが、同会議における安倍首相のスピーチは、未来志向に立った名演説として、いまなお、関係者の心に印象深く刻まれている。
次回以降、安倍元首相がふり返った大東亜共栄思想、バンドン会議、グローバルサウスの今後の可能性を展望していこう。
政治の世界が、なまぬるい動機論ではなく、血も涙もない結果論なのはいうまでもない。
「戦争は政治と異なる手段をもってする政治の継続」と喝破したのはドイツのクラウゼウィッツだったが、現在も、この大原則は生きている。
アメリカのイラク戦争や中国の一帯一路、ロシアのウクライナ侵略が問われたのは、結果がすべての結果論で、動機論をいくら語ったところで、すべて後の祭りである。
結果だけが問われる政治の現実にたいして、甘ったるい動機論をくり広げているのが日本の左翼で、こうあるべき、かくあるべき、と空理空論にうつつをぬかしている。
現実から離れて、空想の世界にあそぶのが日本の平和主義で、東大を頂点とするインテリ左翼は、戦後、日本で平和がまもられたのは憲法九条のおかげという寝ぼけたことをいって恥じる様子もない。
橋下徹は、ウクライナ国民4000万人は、生命をまもるため祖国を捨てて難民になり、十年後に帰国して国土を再建すべきと小学生のようなことをいったが、マスコミはこれを批判するどころか、個人を国家の上位におく橋下イズムをもちあげた。橋下から日本弁護士連合会まで、法律家が左翼的なのは、国家の根源を、国体や歴史ではなく、法におくからで、法治主義は、伝統や文化、習俗を人工の法に切り替えようとする革命運動でもあったのである。
戦争がおきた場合、国家のためにたたかうかという国際機関のアンケートにイエスとこたえた日本は13%で、世界79か国中、最下位だった。参加国の平均値が約70%、78位のリトアニアのイエスが33%だったことを思えば日本の13%がいかに異常な数字だったかがわかるだろう。
戦争がおきても、9割に近い国民がたたかわない異様な国、日本にあるのは、個人や私性だけで、国家や国体、歴史や文化にたいする尊敬心や帰属意識、全体に目を配る哲学や公的な精神が完全に脱落している。
●個人的感情の延長線上にある日本の民主主義
日本人は、民主主義や基本的人権、自由や平等は、個人にあたえられたものと思っている。
したがって、人類的な課題や国家的な使命、普遍的な目的が目に入らない。
個人的な損得や私的な感情、都合がすべてだからで、国家や歴史、共同体や全体性とは無関係に単独で生を営んでいる日本人は、孤独な個人つまり私人でしかない。
日本人は、生命が大事と口を揃えるが、国家や歴史、文化から断ち切られた生命になんの意味があるだろう。
安倍元首相を殺害した狙撃犯は、宗教問題にかかる個人的な恨みから犯行におよび、獄中から弁護団や全国の支援者らに感謝のメッセージを送っているという。
現在の日本人は、この行動の異様さに気がつかない。
個人や私人を生きているので、国連総会演説で世界の首脳を感動させた安倍晋三首相(一般討論演説)の精神と、家庭の財産トラブルから殺意をもった狙撃犯の狂気の区別がつかないのである。
否、個人や私人のレベルでは、人類の理想と狂人の妄念が同一のものとして並列される。
日本の自由主義は、なにをするのも個人の勝手だが、ヨーロッパの自由主義は、自由の制限である。個人主義も、個人が侵してはならないタブーの設定である。そこからヨーロッパ保守主義からモラルの思想がうまれて、自由や平等、権利が他者や社会をまもる、秩序の体系となった。
安倍晋三元首相を殺害したのは、元海上自衛隊員だったが、坂本雄一陸将ら幹部8人が同乗していた陸上自衛隊のヘリコプターが宮古島海域で墜落した事件では、内部犯行説がささやかれている。背景に自衛隊幹部の三菱電機への大量の天下り構造があるというというのだが、そういう噂が流れることじたいすでに重大な不祥事なのである。
日本では、皇族をまもるべき皇宮警察が、愛子さまを「クソガキ」と呼んでも問題にならず、自衛隊のなかで処遇などについて不穏な空気が渦巻いていようと、橋下徹がウクライナ4000万国民に命をまもるために国を捨てるようにうったえようと、異様とはうけとめられない。
日本という国家、日本人という人間の在り方に狂いが生じていると考えざるをえない。
●国家観や公的精神を失って個人や私人に転落した日本人
変調の元凶は、公的精神の欠如にあるのはいうまでもない。国家や社会、共同体への尊敬心や帰属心が、全体の一員たる日本人にそなわっていなければ、国家も国民もともに成り立たないのである。
人間や共同体は、それ自体、単独で存在しているわけではない。個と全体が二元論的にささえあって、国家と国民が成立している。これは、結果論でもあって、たとえ、動機論的には個人や集団でも、そこに政治イデオロギーがはたらけば、結果的に、国民と国家という政治的な存在になるのである。
左翼陣営から、かつての大東亜共栄思想は、侵略戦争の合理化という批判がなされる。
日本のアジア侵攻は、帝国主義政策で、むろん、アジア解放をめざしたものではなかった。
だが、第二次世界大戦後、イギリスやフランス、アメリカやオランダなどの植民地支配から独立したアジアとアフリカ、中東諸国が結集したバンドン会議(第1回アジア・アフリカ会議/1955年)で、日本は、招待されて大歓迎をうけた。
迎えたのは、戦後に独立したインドのネルー首相、インドネシアのスカルノ大統領、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領らだが、同会議の参加国は29か国で当時の世界人口の54%を占めていた。
会議には、高碕達之助や加瀬俊一(のちに国連大使)ら外務省関係者十数名が参加したが、加瀬は当時の熱狂的な歓迎ぶりをこう書き記している。
「各国代表から握手をもとめられた。かれらは、日本が、大東亜会議で宣言をだしてくれていなかったら、われわれは、列強の植民地のままであったろうと口をそろえた」
大東亜会議の参加者は、東條英機のほか中国南京政府の汪兆銘、満州の張景恵国務総理、インド国民軍のチャンドラ・ボース、ビルマのバー・モウ行政府長官、タイのワンワイタヤーコーン親王、フィリピンのラウレル大統領の7人で、終戦2年前の昭和18年の段階で、米英支配の打破が明確に打ち出された。
政治は、結果論なので、大東亜共栄思想は、第三世界の独立に大いなる貢献をおこなったといいうるのである。
●グローバルサウスにひきつがれた大東亜宣言とバンドン会議の精神
1964年に予定されていた「第2回会議バンドン会議」は中印国境紛争やナセルのアラブ連合形成の失敗、スカルノの失脚などによって開催が不可能となったが、50年後の2005年、インドネシアで「バンドン会議50周年を記念する首脳会議」がひらかれた。
このとき、AAおよび中南米から106カ国が参加して、欧米の帝国主義的なグローバリゼーションに対抗できるアジア・アフリカによる戦略的な連帯を宣言した。
2015年、ジャカルタで「バンドン会議60周年を記念する首脳会議」がおこなわれて、109か国の首脳・閣僚が参加したが、安倍晋三首相と中国の習近平主席がこのとき首脳会談をおこない、悪化していた関係改善の合意をむすんでいる。
バンドン会議の延長がグローバルサウスで、さらに原形をもとめると大東亜会議にゆきつく。大東亜会議にビルマの国家元首として出席したバー・モウは戦後の回想録のなかでこう指摘している。
「日本の大東亜会議は、十二年後、バンドン会議で結実した。バンドン会議の精神がアジア・アフリカの旧植民地勢力の躍進を約束してくれている」
バンドン会議六十周年の開会式の直後、安倍首相は元日本兵墓地(カリバタ英雄墓地)を訪れて献花をおこなった。首相は、演説で、バンドン会議と大東亜会議の関係にふれなかったが、関係諸国は、安倍首相の真意と歴史をわかっていた。
日本のメディアは「桜を見る会」の追及に忙しくてこれら一連の事実関係を報道しなかったが、同会議における安倍首相のスピーチは、未来志向に立った名演説として、いまなお、関係者の心に印象深く刻まれている。
次回以降、安倍元首相がふり返った大東亜共栄思想、バンドン会議、グローバルサウスの今後の可能性を展望していこう。
2023年04月02日
「自由主義」と「民主主義」の相克と調和10
●国家なくして国民がありうるか
過日、馬毛島問題(米軍機の訓練移転と自衛隊基地整備)の取材に来られた朝日新聞のF記者が「国家主義」ということばをもちいたので、多少、違和感をおぼえた。
10年ほど前、わたしは、馬毛島へ基地整備をすすめる政府・防衛省側と土地所有者の接触に多少かかわりをもったことがあった。
F記者の目的は、その取材だったのだが、馬毛島の整備に積極的な姿勢が国家主義、その文脈で、反対運動をくりひろげる一部住民の姿勢が国民主義的というニュアンスであった。
そうなら、あまりに戯画的な図式で、短絡的にすぎる。
戦後、日本は「天皇主権と国民主権」「国家主義と国民主義」「民主主義と自由主義」「個人主義と全体主義」「平等主義と封建主義」などの二項対立を一元論的、対立的にとらえてきた。
左翼は、戦前の日本は、天皇主権で、天皇制ファシズムの時代だったという。
当時の日本は、軍国主義で、軍部が天皇を利用したのは事実である。
しかし、天皇が主権を行使したことも、帝国憲法に天皇独裁を謳った文言もなく、政体は、立憲君主制であった。
日本の軍国主義は、天皇の権威を政治利用した軍部独裁であった。
その巧妙な仕組みは、学問的にも研究の余地が十分にあるように思える。
だが、日本の学者は、天皇主権としかいわない。そして、戦後、国民主権になって、日本はよい国になったとくり返すだけだった。
国民主権の国民も、個人をさすのか日本人全体なのかについても、口を濁してはっきりいったことがない。
●戦後日本は、民主主義とマルクス主義の混血児
国民主権も、コケおどしの論理で、東大を中心とする日本の学者は、日本共産党綱領(ドグマ)にそって、イデオロギーの宣伝をやってきただけだった。
その代表が憲法学の最高権威、東大の宮澤俊義で、宮沢の「八月革命説」によって、戦後、日本も革命国家の仲間入りをはたしたとした。
戦後日本の学界は、マルクス学者一色で、大内兵衛や向坂逸郎、羽仁五郎、都留重人、鶴見俊輔、丸山真男らが席巻して、竹山道雄や田中美知太郎、猪木正道、福田恆存、会田雄次ら日本主義者の影は薄かった。
朝日や毎日、岩波ら新聞・出版ジャーナリズムや大学、教育界、日教組らがマルクス主義なので、日本主義=保守主義の思想が大衆へなかなか届かないのである。
戦後日本を席巻したのはマルクス主義だけではなかった。
アメリカ民主主義というマルクス主義の兄弟分のような思想がアメリカから入ってきて、日本の思想界は、マルクス主義とアメリカ民主主義に分断されてしまうのである。
マルクス主義は、革命を実現させた独裁者が国民主権をあずかる一党独裁である。
そして、アメリカ民主主義は、民主選挙で選出された大統領が多数派国民の支持の下で強権を行使する多数派独裁である。
第二次大戦で、日本は、民主主義にアメリカとマルクス主義の旧ソ連の両国とたたかった。旧ソ連もアメリカも、伝統国家日本が敵とする革命国家だったからだった。
そして、終戦後、敗戦国の日本へ、戦勝国の米・ソのイデオロギーが怒濤のように流れこんできた。
その結晶が日本国憲法である。起草にあたったGHQ民政局のホイットニー局長以下25人は、ニューディーラと呼ばれる共産主義のシンパだったからである。
●一元論の「革命国家」と二元論の「伝統国家」
マルクス主義もアメリカ民主主義も、根本にあるのはルソー主義である。
ルソー主義の中心概念は、国家主権の国家を国民へとスゲかえた国民主権で、ルソーの造語である。
アメリカの民主主義も旧ソ連のマルクス主義も、一元論である。一つの価値しかみとめないのが一元論で、アメリカは民主主義を、旧ソ連は人民(一党)独裁以外の政体をみとめない。
戦後、日本では、天皇主権や国家主義、全体主義や封建主義などが徹底的に批判される一方で、国民主権や国民主義、民主主義や個人主義、自由や平等が絶対善としてもちあげられた。
それも一元論で、宮沢の「八月革命説」によると、敗戦革命がおきて、日本の二元論や多元論が、西洋の一元論へ転換された。
国民主権や民主主義、個人主義や人権思想、自由や平等からはずれた保守的な言動がマスコミ世論から袋叩きにされるのは、日本は、西洋的な一元論の国になったからだったのである。
日本の伝統的な価値観や日本主義、およびイギリスの保守主義は、二元論である。
事物を成り立たせているのは、唯一の真実ではなく、表と裏、陰と陽、受動と能動などの二元性であって、異質な二者が組み合わさって、二者を足したもの以上のものができあがる。
「君民共治」や「君臣一体」は、天皇という権威、幕府という権力、民という実体の三位一体のことで、それが国体、伝統国家日本の背骨である。
チャーチルが「民主主義は独裁よりマシなだけ」といったのも、保守主義の父といわれるバークが「制限のない自由は最悪」といったのも、王政復古したイギリスが、王権と議会の二元論へ立ち返ったからで、国王が議会へ出席する際、議会の重鎮を人質にさしだす習慣はいまも残っている。
●ルソーの狂気をいまにひきずる日本の左翼
日本人が西洋から輸入した崇高で有り難い思想と思いこんでいる民主主義や個人主義、自由主義は、世界のどこにもない珍奇な思想で、戦後、左翼がつくりだしたものである。
国民主権は、国家主権からのパクリだった。ルソーの民主主義は、その国民主権のことで、紀元前に捨てられた民主主義が18世紀になってよみがえったのは、主権を国家から国民≠ノスゲかえたルソーの悪知恵にあった。
自由主義は、バークがいったように、自由にたいする制限のことにほかならないが、ルソーは、人間はうまれながらにして自由で平等だと叫んだ。
ルソーは個人もみとめなかった。人間は、すべて一般化された抽象的な存在というのだが、だからこそ、国民は、国家と対等にわたりあえたともいえるだろう。
放浪と放蕩、虚言と裏切りのルソーの人生の末路は哀れなもので、精神異常と被害妄想の狂気の果て、他人の援助でほそぼそと余命をたもったが、尿毒症で死去する。スランス革命後、栄誉の殿堂パンテオンに合祀されたのがせめてもの救いだった。
フランス革命の「人権宣言(自由・平等・博愛)」の原形はルソーの「人間は生まれながらにして自由かつ平等である」だが、この人間は、むろん、個人ではなく、人間一般である。
ところが日本の左翼は、これを個人だとする。
わたし個人が国家権力にひとしい主権をもち、なにするのも勝手な万能的な自由権をもち、神的なパワーによって、基本的人権がまもられていると考えるのである。
クレージーというほかないが、左翼は本気で、日本人は、主権を行使せよと主張する。
次回以降も、日本人を愚かにしてきた左翼の罪を暴いていこう。
過日、馬毛島問題(米軍機の訓練移転と自衛隊基地整備)の取材に来られた朝日新聞のF記者が「国家主義」ということばをもちいたので、多少、違和感をおぼえた。
10年ほど前、わたしは、馬毛島へ基地整備をすすめる政府・防衛省側と土地所有者の接触に多少かかわりをもったことがあった。
F記者の目的は、その取材だったのだが、馬毛島の整備に積極的な姿勢が国家主義、その文脈で、反対運動をくりひろげる一部住民の姿勢が国民主義的というニュアンスであった。
そうなら、あまりに戯画的な図式で、短絡的にすぎる。
戦後、日本は「天皇主権と国民主権」「国家主義と国民主義」「民主主義と自由主義」「個人主義と全体主義」「平等主義と封建主義」などの二項対立を一元論的、対立的にとらえてきた。
左翼は、戦前の日本は、天皇主権で、天皇制ファシズムの時代だったという。
当時の日本は、軍国主義で、軍部が天皇を利用したのは事実である。
しかし、天皇が主権を行使したことも、帝国憲法に天皇独裁を謳った文言もなく、政体は、立憲君主制であった。
日本の軍国主義は、天皇の権威を政治利用した軍部独裁であった。
その巧妙な仕組みは、学問的にも研究の余地が十分にあるように思える。
だが、日本の学者は、天皇主権としかいわない。そして、戦後、国民主権になって、日本はよい国になったとくり返すだけだった。
国民主権の国民も、個人をさすのか日本人全体なのかについても、口を濁してはっきりいったことがない。
●戦後日本は、民主主義とマルクス主義の混血児
国民主権も、コケおどしの論理で、東大を中心とする日本の学者は、日本共産党綱領(ドグマ)にそって、イデオロギーの宣伝をやってきただけだった。
その代表が憲法学の最高権威、東大の宮澤俊義で、宮沢の「八月革命説」によって、戦後、日本も革命国家の仲間入りをはたしたとした。
戦後日本の学界は、マルクス学者一色で、大内兵衛や向坂逸郎、羽仁五郎、都留重人、鶴見俊輔、丸山真男らが席巻して、竹山道雄や田中美知太郎、猪木正道、福田恆存、会田雄次ら日本主義者の影は薄かった。
朝日や毎日、岩波ら新聞・出版ジャーナリズムや大学、教育界、日教組らがマルクス主義なので、日本主義=保守主義の思想が大衆へなかなか届かないのである。
戦後日本を席巻したのはマルクス主義だけではなかった。
アメリカ民主主義というマルクス主義の兄弟分のような思想がアメリカから入ってきて、日本の思想界は、マルクス主義とアメリカ民主主義に分断されてしまうのである。
マルクス主義は、革命を実現させた独裁者が国民主権をあずかる一党独裁である。
そして、アメリカ民主主義は、民主選挙で選出された大統領が多数派国民の支持の下で強権を行使する多数派独裁である。
第二次大戦で、日本は、民主主義にアメリカとマルクス主義の旧ソ連の両国とたたかった。旧ソ連もアメリカも、伝統国家日本が敵とする革命国家だったからだった。
そして、終戦後、敗戦国の日本へ、戦勝国の米・ソのイデオロギーが怒濤のように流れこんできた。
その結晶が日本国憲法である。起草にあたったGHQ民政局のホイットニー局長以下25人は、ニューディーラと呼ばれる共産主義のシンパだったからである。
●一元論の「革命国家」と二元論の「伝統国家」
マルクス主義もアメリカ民主主義も、根本にあるのはルソー主義である。
ルソー主義の中心概念は、国家主権の国家を国民へとスゲかえた国民主権で、ルソーの造語である。
アメリカの民主主義も旧ソ連のマルクス主義も、一元論である。一つの価値しかみとめないのが一元論で、アメリカは民主主義を、旧ソ連は人民(一党)独裁以外の政体をみとめない。
戦後、日本では、天皇主権や国家主義、全体主義や封建主義などが徹底的に批判される一方で、国民主権や国民主義、民主主義や個人主義、自由や平等が絶対善としてもちあげられた。
それも一元論で、宮沢の「八月革命説」によると、敗戦革命がおきて、日本の二元論や多元論が、西洋の一元論へ転換された。
国民主権や民主主義、個人主義や人権思想、自由や平等からはずれた保守的な言動がマスコミ世論から袋叩きにされるのは、日本は、西洋的な一元論の国になったからだったのである。
日本の伝統的な価値観や日本主義、およびイギリスの保守主義は、二元論である。
事物を成り立たせているのは、唯一の真実ではなく、表と裏、陰と陽、受動と能動などの二元性であって、異質な二者が組み合わさって、二者を足したもの以上のものができあがる。
「君民共治」や「君臣一体」は、天皇という権威、幕府という権力、民という実体の三位一体のことで、それが国体、伝統国家日本の背骨である。
チャーチルが「民主主義は独裁よりマシなだけ」といったのも、保守主義の父といわれるバークが「制限のない自由は最悪」といったのも、王政復古したイギリスが、王権と議会の二元論へ立ち返ったからで、国王が議会へ出席する際、議会の重鎮を人質にさしだす習慣はいまも残っている。
●ルソーの狂気をいまにひきずる日本の左翼
日本人が西洋から輸入した崇高で有り難い思想と思いこんでいる民主主義や個人主義、自由主義は、世界のどこにもない珍奇な思想で、戦後、左翼がつくりだしたものである。
国民主権は、国家主権からのパクリだった。ルソーの民主主義は、その国民主権のことで、紀元前に捨てられた民主主義が18世紀になってよみがえったのは、主権を国家から国民≠ノスゲかえたルソーの悪知恵にあった。
自由主義は、バークがいったように、自由にたいする制限のことにほかならないが、ルソーは、人間はうまれながらにして自由で平等だと叫んだ。
ルソーは個人もみとめなかった。人間は、すべて一般化された抽象的な存在というのだが、だからこそ、国民は、国家と対等にわたりあえたともいえるだろう。
放浪と放蕩、虚言と裏切りのルソーの人生の末路は哀れなもので、精神異常と被害妄想の狂気の果て、他人の援助でほそぼそと余命をたもったが、尿毒症で死去する。スランス革命後、栄誉の殿堂パンテオンに合祀されたのがせめてもの救いだった。
フランス革命の「人権宣言(自由・平等・博愛)」の原形はルソーの「人間は生まれながらにして自由かつ平等である」だが、この人間は、むろん、個人ではなく、人間一般である。
ところが日本の左翼は、これを個人だとする。
わたし個人が国家権力にひとしい主権をもち、なにするのも勝手な万能的な自由権をもち、神的なパワーによって、基本的人権がまもられていると考えるのである。
クレージーというほかないが、左翼は本気で、日本人は、主権を行使せよと主張する。
次回以降も、日本人を愚かにしてきた左翼の罪を暴いていこう。